鳥羽竜と星屑の箱 1
その日のネアがいつもと違う森の様子に気付いたのは、朝食の後に散歩に出た時の事だった。
ばさばさと鳥達が暴れるように飛び立ち、ぶーんと飛び立つムグリスの姿が見える。
それなりに階位のあるムグリスが逃げ出すともなると、なかなか厄介な生き物が現れた可能性が高い。
「ディノ、………森の様子がおかしくありませんか?」
「…………いつもと違うようだね。見回りの騎士が出ているのなら、呼び戻した方がいいかもしれない」
「は、はい!エーダリア様に連絡します!」
ネアは慌ててエーダリアに連絡を取ろうとしたが、この時間は王都との打ち合わせをしている事を思い出してしまい、中庭からリーエンベルクの中に戻ると、廊下に設置されている魔術連絡板から騎士棟に連絡を入れる。
すぐに応じてくれたのはアメリアで、この時間に森に出ているのはロジとエトだと教えてくれた。
すぐさま二人を呼び戻す為の連絡をしてくれるそうだが、ネアはそれを聞くなりディノの手をむんずと掴んで、もう一度庭に出る扉をばぁんと開けてしまう。
「ネア?!」
「言い方は悪いですが、そのお二人ですともしもの時に手立てが足りないかもしれません。そして、アメリアさんは、なぜか今日はロジさんが見回りの時間を早めたと言っていました!」
「ああ、………彼だったね」
ネアの言葉に得心がいったのか、ディノはすぐに頷いてくれた。
さっとネアを持ち上げると、すぐさま森に転移をしてくれたのは、見回りの時間を早めたロジが、災いの天秤という呪いを持って生まれた騎士だからだ。
「……………ふぁ、」
森に入った瞬間、ネアは目を瞠った。
ざあっと風が揺らぎ、ちびりとした毛玉妖精や栗鼠妖精、小鳥達や小さな竜達までが、雪片を散らして次々と飛び立ってゆく。
それはまるで、落葉の季節の強い風が、落ち葉を巻き上げてゆくような光景だ。
それどころではないのに、これだけの生き物達が森にいるのかと呆然としてしまう。
飛び立つものたちの巻き起こす風にネアの着ているコートの裾もばさりと広がり、ウールのドレスの下に着ているスカラップレースがやけに白く見えた。
「こ、これは………」
「………困った事になったかな。アルテアは不在にしていたね。………グレアム」
その名前をディノが呼んだ途端、ふわりと白灰色のコートが揺れ、耳下までの髪を揺らした犠牲の魔物の姿が禁足地の森にあった。
胸に手を当てて深々とお辞儀をしたグレアムは、すぐさま、はっとしたように夢見るような灰色の瞳を細めて周囲を見回す。
その眼差しに浮かんだ警戒の表情の冷たさに、ネアは、ここでどのような困った事が起こっているのだろうと背筋がひやりとする。
(だって、ディノがいて、………グレアムさんまでもがこんな顔をしてしまうなんて………)
「…………これは、鳥羽ですね」
「うん。森に入ってすぐ、閉鎖領域になってしまった事に気付いたんだ。火山の火を食べる悪食の竜がどうしてこの森に来たのかは分からないけれど、どうにかしなければ、リーエンベルクの排他結界を壊されかねない」
「…………厄介なものが現れたのですね?」
へにゃりと眉を下げたネアに、ディノがゆっくりと頷く。
その間にも、禁足地の森の生き物達が、聞いたこともないようなざわざわという音を立てていたが、それがゆっくりと鎮まってゆき、やがて静まり返った。
(私達が森に入ってすぐにここが閉ざされたのなら、先程飛んでいった生き物達は、森から出られたのだろう)
打って変わって不穏な静謐さに包まれた森が揺れる音は、禁足地の森の中で囁き声のように響いてゆく。
残されたもの達はもう、この森から出られないのだ。
敢えてここに留まった者達もいるのだろうが、今は息を潜め、森に現れたものの動向を窺っているに違いない。
「君が、ロジの事を思い出してくれて良かった。私達が森に入ってすぐに、鳥羽竜が狩りの為に閉鎖領域を展開したんだ。騎士達だけが森に取り残されていれば、取り返しのつかないことになったかもしれない」
「………ふぁ、………よ、良かったです」
「シルハーン、あれはかなり動きが早かった筈です。この森にまだリーエンベルクの騎士達もいるのであれば、俺以外にも誰かいた方がいいでしょう」
「そうか。………君と私とでは、竜を抑えるのとネアを守るので手が塞がれてしまうね。騎士達の側に付ける者がいた方がいいようだ」
「閉ざされてしまっているのに、呼び寄せる事は出来るのですか?」
「ああ。シルハーンの召喚ならな」
微笑んでそう教えてくれたグレアムに、ほっとしたネアはゆるゆると頷いた。
静まり返った森には人の気配はないように感じられたが、森の見回りをしていたのはリーエンベルクの騎士達なのだから、逃げ遅れていたのだとしたら不用意に騒ぎ立てはしないだろう。
「アルテアは仕事であわいに出ているし、どのような経緯で鳥羽がこの森に来たのかを確かめる迄は、ノアベルトはリーエンベルクから離したくない。ウィリアムも鳥籠の中にいるし、どうしようかな」
「ヨシュアを呼ばれては?」
「…………ヨシュアを、かい?………彼には、彼の領域があるだろう。確かに鳥羽との相性はいいけれど、彼の意思でこちらを訪れているのでなければ、こちらの対処の為に呼び寄せていいものではない」
「そうなりますと、………ラジエルは、あまり呼びたくありませんね」
「むむ!雨関連であれば、この森にはミカエルさんのお住まいがあった筈です!」
ここで、名前の出てくる魔物達の共通点に気付いたネアがそう声を上げると、魔物達は、はっとしたように顔を見合わせた。
「………彼は、リーエンベルクの騎士達と連携が取れた筈だから、騎士達はそちらかもしれないね。であれば、こちらで補うのは別の要素でもいいのかな」
「ベージやワイアートは分が悪いので、となるとグラフィーツに声をかけますか?」
「近接戦闘になるけれど、いいのかな………」
ディノがそう言うとグレアムが少し考え込んでしまったので、砂糖の魔物は近接戦闘には長けていないようだ。
(つまり、敵は武闘派………!!)
おまけに素早く動き、竜で火山の火を食べるらしい。
ネアは、この時ほどかつてディノが持っていた雨呼びの羽を、元々あった国に返却させてしまった事を後悔したことはなかっただろう。
ぐぬぬと思いながら森の奥を見つめていると、真っ白な雪の森の向こうで、ひらりと水色のものが動くのが見えた気がした。
「っ!!………騎士さん達です!!」
「………先に合流してしまおう」
はっと息を呑んだディノが、ネアの見付けた騎士達の方へ浅い転移を踏む。
ぶわりと空気の温度の変わる、けれどもいつもの転移とは違うどこか表層だけの薄闇を抜けて飛び出した先には、こちらに向けて走ってきていた二人の騎士の姿がある。
ネア達に気付くと目に見えて安堵の表情になったので、何とかして避難しようとしていたのだろう。
残念ながら周囲にはミカエルの姿はなく、二人だけのようだ。
「ネア様!」
「ロジさん、ご無事でしたか?………エトさんは、……怪我をしたのです?」
「い、いえ、逃げようとして飛び出してきた鉱石竜にぶつかっただけですから………」
合流出来て胸を撫で下ろしたネアは、エトの額に血が滲んでいる事に気付きぎょっとしてしまったが、衝突事故だったようだ。
「出血があったのなら、血の取り戻しは行ったのか?」
一歩遅れてこちらに来たグレアムにそう尋ねられ、エトが小さく息を呑む。
侯爵であるグレアムより、ディノやゼノーシュ、よく騎士達の鍛錬にも付き合うウィリアムの方が階位が上なのだが、エトは、グレアムと対面したのは初めてなのだろう。
いきなり話しかけられてびっくりしてしまうのは、高位の魔物への免疫があるリーエンベルクの騎士でも避けようがない。
ちらりとこちらを見たエトにディノが頷きかけてやると、エトはほっとしたようにグレアムにこくりと頷く。
「…………ええ。そのせいで、避難が遅れてしまいましたが」
「それなら、ひとまず問題はないな。このような時に最も厄介なのは、対処した問題を解決した後に、思いがけない事で身を危うくすることだからな」
「………ご指導いただき、有難うございます」
深々と頭を下げたエトに、グレアムは一拍置いてから、おやっという顔をした。
その後で片手で額を押さえたので、どうやら、無意識の指導だったらしい。
「………相手がリーエンベルクの騎士だと、ついやってしまうな」
くすりと笑ったグレアムに、エトが目を瞬き、ロジがおやという顔をしたのを見て、ネアは、このような時はロジの方が冷静なのだなと心の中で頷いておいた。
そんなロジは、油断なく周囲を見回しながら、呼吸を整えていた。
聞けば、災い除けの魔術などを重ねがけして、鳥羽竜との遭遇を避けながらの避難だったらしい。
森が閉鎖領域に入る前は、小さな生き物達が恐慌状態になっていたので、ただ走るだけでも一苦労だったのだとか。
「ネア様達も、森におられたのですね」
「森の様子がおかしなことに気付いて騎士棟に連絡を入れたところ、ロジさん達が、まだ森にいる筈だと思い飛び込んでしまったのです。……実は我々はまだこちらに来たばかりなのですが、何があったのですか?」
「……すみません、僕達のせいでしたか」
「まぁ、こうして合流出来て良かったのですよ!でなければ私は、私の大事な魔物を危ない場所に連れ込んだだけのご主人様になってしまうところでした」
そう微笑んだネアに、ロジが申し訳なさそうな顔で、けれどもほっとしたように微笑みを返してくれる。
実は、ロジはリーエンベルクの騎士達の中でも、ネアが個人的にお喋り出来る騎士の一人なので、初めましてのお喋りではない。
そして、そんなロジは、ここできりりとした表情になると、胸に手を当てて一礼した。
普段の生活ではあまり意識したことはないが、リーエンベルクの中の階位としては、国の歌乞いのネアの方が高いので、あらためての報告としてこのように畏まってくれたのだろう。
なお、ネアはこのような時に、それは不要だと思わない人間だ。
ある程度の規律や順序立ては、組織を効率よく動かす為に大切なものなのだ。
だからこそ、こうして今も、潤滑に情報の共有が行われ、騎士達がより経験の豊富な魔物達の指示に従ってくれることに繋がってくれる。
「ここから、南側に向かった森の窪地奥に、僅かにではありましたが、見たこともない深紅の竜の姿を確認しました。我々は幸いにもその地区を通り抜けた後でしたので全容を確認した訳ではありませんが、恐らく、………あの様子は悪食だと思います。それと、嫌な予感がして森への見回りの時間を早めてしまったので、……災いの天秤にかかる事案なのでしょう」
「黒い風切羽を持つ、赤い鳥の翼を持つ竜だっただろうか」
そう問いかけたディノに、ロジが重々しく頷く。
「はい。長い尾羽を持ち、面立ち以外は鳥のような姿に見えました。瞳は琥珀から金、魔術属性は火かと思われます」
「間違いないね。鳥羽竜だ」
「となると、ロジさんが見回りの時間を早めたので、その厄介な竜さんと遭遇せずに済んだのかもしれませんね」
「…………そうでしょうか」
ネアの言葉に水色の髪に緑の瞳の騎士は目を瞠ったので、いつもの時間に見回りに出ていれば、このような事件に巻き込まれなかったのではと考えていたのだろう。
ロジは、持ち主を苦しめる為だけに受け継がれる、災いの予兆を得る呪いを持って生まれてきた騎士だ。
ウィームでは、こうしてリーエンベルクの騎士に採用されてしまうくらいの才能として扱われるが、それでも、災いの天秤を持つ者達の予感は、あまり良い結果を生まない事も多い。
幼い頃なども含め、比較的理解がある土地とはいえ、彼の力がいつも上手く扱われてきたとは限らないのだ。
エーダリアのようにその扱いに長けた主人を得るまでは、それなりに苦労したに違いなく、どうしても、ちょっぴり後ろ向きな受け止め方をしてしまうのだろう。
「あら、そのお陰で、我々は竜さんがやはりいるのだと確信を持てましたし、どちらの方向で確認されたのかも知る事が出来てしまいました。どちらにせよ、排除しなければならない獲物なら、位置確認は大事ですからね」
「となると、…………リーエンベルクの排他結界にも、影響を及ぼす可能性があるのですね」
リーエンベルクの騎士達は、ウィームに多くいる騎士達の中でも最上位に近しい才能を持つ者達だ。
ロジは、ネアの発言からこのようなところは流石であるという理解力を見せ、いっそうに凛々しい表情になる。
犠牲の魔物に話しかけられてしまってもぞもぞしていたエトも、すっと覚悟を決めたような眼差しになった。
(この人達にとってのリーエンベルクは、自分の居場所をより豊かにした家なのだわ)
ロジもエトも、その外側ではきっと、生き難いと感じる事も少なくなかったに違いない履歴を持つ騎士達である。
同じようにちくちくするセーターしかない場所からここにやって来たネアにとっても、リーエンベルクは大事な我が家なので、彼等の覚悟の切実さは痛い程に分かるのだ。
「この森に住む雨降らしをどこかで見かけたかい?」
ディノに問いかけられ、ロジはまず一礼した。
都度行われるこのあたりの対応は、同じリーエンベルク居住とは言えしっかりしていて、こうした様子を見ると、ディノに靴紐の結び方を教えてくれたりするゼベルは、やはり規格外の騎士なのだなと思ってしまう。
高位の人外者は、人間にとっては神にも等しい。
同じ敷地内で暮らしていても、互いの関係性を見て、ロジはきちんと一線を引いている。
「ええ。彼は、我々とは反対側の森の奥にいて、逃げ遅れたムグリス達を保護していました。彼が、雪の魔術の強いこの時期に無理をして雨を降らせてくれなければ、僕達もここまで退避出来たかどうか。………あの竜は、恐ろしく動きが早く、そして獰猛です。あの様子ですと、手負いか空腹かのどちらかでしょうね」
「………悪食の可能性がある生き物で、空腹となると面倒な事になるかもしれないね。そちらの資質のものであれば、手負いであるより気性が荒くなるんだ」
「それと、ジッタが来ております」
考え込むように眉を寄せたディノは、続いた報告で目を瞠った。
「……………ジッタが、この森に来ているのかい?」
「ええ。僕は、あの手の生き物に対応出来る人間を、ネア様の他にはジッタくらいしか知りません。ですので、エトにリーエンベルクへの連絡を任せ、対処法を知らないか連絡を取ったところ、………その、パンが美味しく焼けるので、鳥羽の火を狩れるなら狩っておきたいと………」
「ほわ、………唐突に、厄介な竜さんが獲物にしか思えなくなりました………」
とても困惑したような目でこちらを見る魔物にそう言えば、ディノも、途方に暮れたようにこくりと頷く。
だが、相手が悪食でもあるのなら、ジッタだとは言え命懸けの狩りなのかもしれない。
「彼であれば、鳥羽を狩れるかもしれないな。アレクシスよりも身体能力は高いだろう………」
そう呟いたのはグレアムだ。
どうやら密かにウィームで就業しているこの魔物は、ジッタの事をよく知っているらしい。
「まぁ、ジッタさんの事もなかなかにご存知なのですね」
「ああ。会合で何度か会ったことがあるし、打ち上げなどで一緒だった事もあるからな。あの血筋の特徴をこれでもかと受け継いだ人間だ。………シルハーン、どうされますか?」
「………この気配だと、確かに鳥羽は足止めされているようだね。でも、様子は見てきた方がいいだろう。グレアム、この子を見ていてくれるかい?」
「いえ、俺が行きましょう。ジッタなら、こちらの姿でも顔見知りではありますから」
グレアムにそう言われたディノが少しだけ躊躇ったのを見て、ネアは、どうやらこの魔物はジッタが心配らしいぞと少しだけにこにこしてしまう。
グレアムもそんなディノの様子に気付いたらしく、はっとするような優しい目で微笑んだ。
「彼なら大丈夫でしょう。俺が合流した後で、もし………この違和感が正しく、手に負えない相手となれば、お呼びしても?」
「………そうだね。では、ひとまずそちらの様子の確認と、ジッタの手助けを頼んでもいいかい?」
「ええ、勿論です。閉鎖領域が解除されるかもしれませんので、騎士達はリーエンベルク近くまで下がらせておいて良いでしょう。………ネア、シルハーンを頼む」
「はい!ディノに何かをしようとするものがいたら、私が討ち滅ぼしますね!」
拳を握って約束したネアに、ディノは少しだけおろおろしたが、この人間を野放しにすると戦いに行ってしまうと思ったのか、しっかりと抱え直してきた。
ロジとエトには、この森を覆ってしまっている鳥羽の竜とやらの閉鎖領域の境界まで後退して貰っておき、ネア達はこの場で待機する事となる。
「ネアを守るのに………」
「あらあら、しょんぼりなのですか?」
「ご主人様…………」
「………は!今更、グレアムさんに眠りのベルを預けておけば良かったと気付いてしまいました!………ふにゅ」
「そうか、そのベルもあったのだね。………ここで鳴らしてしまうと、鳥羽の近くに誰かがいた場合、重なって倒れると危ないかな……」
「むぐぅ……」
こんな時にはやはり、戦い慣れしていないネアだと、咄嗟の判断が鈍ってしまう。
魔物達は高位の生き物であるが故に、道具を使うことを前提としての思考の組み立てがないので、ここは、ネアが気付くべきだったのだ。
(………違和感)
待機時間となって考えるのは、先程のグレアムの言葉にあった、不可解な一言だ。
ディノも当然のように受け入れていたので、今回の鳥羽竜の出現には、魔物達が気にかけるような不自然さもあるのかもしれない。
(近隣に生息している竜ではなさそう。移動中の目撃報告などが入っていないとなると、どこからウィームにやって来たのだろう………)
うおおおん!
突然、森の向こうから凄まじい雄叫びが聞こえてきて、ネアは、ディノの腕の中でびゃんと飛び上がった。
これが鳥羽の竜とやらの鳴き声だろうかとディノの方を見ると、長い睫毛の影で瞳を細めた魔物が、ぞくりとするような魔物らしい気配を纏う。
「………鳥羽竜の鳴き声とは少し違うようだ。あの騎士が悪食に思えたと話していたので気になっていたのだけれど、悪食というよりは呪いのようだね。自然に生きているものではなく、どこかから意図的に持ち込まれたものなのかもしれない。………ネア、しっかり掴まっておいで」
「はい!」
(呪いだった場合は、何が違うのだろう………?)
ディノの表情が曇ったのが気になっても、ネアには、そんな事すら分からない。
とは言え、緊迫した空気を感じながらもここで説明を求めるような真似はしたくないので、質問をぐっと飲み込んでしっかりとディノの肩に掴まっておいた。
ネアの疑問なんて、今は一番どうでもいいものだ。
その代わりに、ネアは、タジクーシャで活躍したハンマーを取り出しておいた。
何となくだが、相手が火に強い生き物となると、燃えてしまいそうなきりんボールや、属性的に耐性がありそうな激辛香辛料油より、このような武器の方が効果があるような気がしたのだ。
「………先程、呼ぶべき者を決めあぐねていたのは、……この竜の気配が少し奇妙なものだったからなんだ」
「もしかして、呪いのようなものなのかもしれないと、最初から少し感じていたのですか?」
「この鳥羽竜は、狩りの手法がとても荒い生き物なんだ。閉鎖領域で狩り場に囲いをつけ、その内側を焼くからね。………でも、この森には火の手が上がっていないだろう?」
「ええ。………どこかが燃えてしまっているような感じは、不思議としません」
「うん。そうして、本来の習性にない行動を取る、本来ならいる筈がない生き物というのは、得てして外部からの介入で持ち込まれた物である事が多い」
じゃりん。
そんな会話の中で、ディノの手に現れたのはあまり目にする事のない万象の魔物の錫杖で、ネアは、ついつい目を輝かせてしまった。
(そうか。………だから呪いかもしれなくて、グレアムさんもその事には気付いていたんだ。だから、騎士さん達をここで保護せずに、リーエンベルク側に後退させたのだわ)
以前にノアに教えて貰ったのだが、ディノの持つこの錫杖は、万象の魔物の魔術から切り出した万象の魔物だけが持つ道具である。
したがって、この錫杖を顕現させただけでも、周辺の魔術に与える影響はかなりのものなのだとか。
リーエンベルクの中であれば使えるようだし、使用領域を固定すれば、誰かを巻き添えにすることはない。
だが、すぐ近くにロジ達がいたのなら、魔術侵食に近しい症状を引き起こしかねなかっただろう。
(だからこそ、この場から遠ざけたのだわ)
ディノが錫杖を取り出す程の呪いがこの森のどこかにいるのだろうかと思えば、ネアは、戻ってきた異様な森の静けさが少しだけ怖くなる。
グレアムやジッタは、無事でいてくれるだろうか。
「グラフィーツに声をかけずにいて良かった。彼は災厄と祝福の両面を司るから、場合によっては現れたものの力を強めてしまうからね」
「まぁ、そうなってしまうのです?」
「事情を説明出来るような距離にいないから、彼は、状況を理解出来ないまま呼び落とされてしまうことになる。どのような状態のグラフィーツが現れるのか分からないから、その可能性があるんだよ」
ぐおんと、凄まじい衝撃が排他結界を揺らしたのは、その直後の事だった。
ひゅっと息を呑んだネアを抱き締め、ディノがじゃりんと錫杖を鳴らす。
あまりにも突然の事でよく見えなかったが、真っ赤な炎のような物が、いきなり排他結界にぶつかってきたのだ。
だが、ネアの目ではごうっと音を立てて掻き消された赤色が、生き物のようなものだったのか、魔術の火を投げつけられたのかすら分からない。
一瞬で掻き消されてばらばらと細やかな火の粉になって落ちる赤い煌めきに、ディノが、ふうっと息を吐くのが見えた。
「ネア、………週末の贈り物は、少し先になってしまうかもしれない」
不意に、ディノがそんな事を言った。
ちらちらと落ちてゆく赤い煌めきが消えると、周囲はまた、しんと静まり返る。
「…………こやつのせいですか?」
「うん。この呪いを構成している魔術は、リモワの小箱のような、贈り物の形を取って運ばれる箱型の呪いの一つみたいなんだ。この魔術に触れた直後に、箱を開けるという事を連想させる行為で、成就の形を作らない方がいいからね」
「………ふぁい。危ない事であれば、勿論、延期にしますね。とても悲しいですが、我が儘を言って怖い事が起こる方がずっとずっと嫌なのです」
「………ごめんね。君を、この森に入れなければ良かった」
「むぐ。忘れてしまったのですか?私が、騎士さんが心配なあまりに、ディノの手を掴んで森に向かってしまったのですよ?」
ディノがあまりにも悲しそうに謝るので、ネアは、まだこの目で見てもいない鳥羽の竜を、むんずと掴んで両手で引き千切ってしまいたくなった。
強欲な人間の天秤に於いては、大事な伴侶の魔物を悲しませただけで、生かして帰さないという判決になる。
「あの時はまだ、凝りの物や悪食の可能性を考えていて、人為的な物かもしれないとは思っていなかった。君は、贈り物を貰えるのをとても楽しみにしていたのに………」
「悪いのは、そんな呪いをリーエンベルクに持ち込んだ誰かです!どうか、そんなに落ち込まないで下さいね」
「触れたものの魔術証跡からすると、最近持ち込まれた物ではないかもしれないね。………鳥羽竜の本来の狩りをしていないだけではなくて、………何というか、不完全でひび割れた様子がある。このようなひび割れは、討伐や調伏でよく見られるものだ」
「ふむ。となると、………誰かが倒したものが、また現れてしまったのでしょうか」
「その可能性が高いだろう。グレアムに心当たりがないのであれば、とても古い時代の物かもしれない」
「おまけに、こんなに離れていても、こちらにも攻撃が届いてしまうくらいの力強さなのですね」
また遠くから、凄まじい雄叫びが聞こえてきた。
思わずそちらを見てしまったネアは、ここからでは見えない場所で、どんな壮絶な戦いとなっているのだろうと、じわりと手のひらに滲んだ汗を握り締める。
(グレアムさんとジッタさんがいて、もしかするとミカエルさんもいるかもしれない。ディノがそちらの様子を窺っていない筈もないのだから、きっとみんな大丈夫だとは思うけれど………)
そう考えてふるふるしていると、ディノが小さく眉を顰めた。
これはあまり良くない反応ではないかと慄いたネアの耳に、またしても、ごうっと強い風が吹き付けるような轟音が響く。
「………っ、」
「先程の炎は、どうしても向こうから届いたようには見えなかったのだけれど、やはり複数個体か。この呪いを作ったのは妖精のようだけれど、随分と強欲な呪いだね」
「ディノ?!」
滅多に聞かないような冷ややかな伴侶の声に目を瞠ったネアが見たのは、手を翳したネアの耳元を覆ってくれていたディノが戻した手の甲にあった、ぞっとするような赤い火傷の跡だ。
気付けば、ディノが持っていた錫杖は、もう消してしまったのかどこにもない。
その代わり、ネアの目の奥には、ディノの肌に滲んだ、わあっと声を上げて暴れたくなりたいくらいの赤色が残る。
こちらを見て安心させるように微笑んだ魔物はすぐにその傷を治してしまったけれど、大事な魔物が傷付けられた事に変わりはない。
あまりの怒りに声が出せなくなってしまったまま震えるネアを、困ったように微笑んだディノが、そっと撫でてくれるではないか。
「ごめん、怖かったね。錫杖で平定してしまおうとしたのだけれど、呪いが封じられていた場所に息を潜めて隠れてしまわないように、わざと攻撃させるしかなかったんだ」
「ふぇぐ。なぜ、怪我をしてしまったディノが謝ってしまうのですか?わ、私は、ディノに怪我をさせた奴なんて、絶対に許しません!!」
「ネア………」
こちらを見た水紺色の瞳がふるりと揺れ、どこか嬉しそうに解ける。
ご主人様が荒ぶってくれてディノは嬉しかったようだが、ネアはもはやそれどころではなかった。
(…………複数個体というからには、ここにも、鳥羽竜がいるのだわ。姿は見えないけれど、グレアムさんが動きがとても早いのだと話していたから、目で追いきれないだけなのかもしれない………)
「………ぐるる」
「ネア、そんなに威嚇しなくてもいいよ。こうして動き出した物なら捕捉出来るから、すぐに壊してしまうからね」
「そこです!!」
「ネア?!」
ディノの手には何かを引き寄せるような動きがあったので、恐らく、先程の攻撃を受ける事で、鳥羽竜に、魔術の鎖のようなものをかけておいたのだろう。
だが、万象の魔物が漸く捕まえたというその獲物を、気の短い人間は横取りしてしまった。
がしゃんというまたしても大きな音が響き、ぎゃんという潰れたような悲鳴が重なる。
すると、それまで何もなかった場所にごうっと燃え上がる炎が現れ、その炎が収束しながら真っ赤な竜の絵が描かれた石板になると、粉々に砕け落ちた。
砕けた石板が落ちた直後はじゅわっと雪の溶ける音がしたが、焼いた鉄が冷えて固まるように、雪の上に落ちた石板に描かれた赤い竜の絵が色を失うと、残された石板の欠片もそのままもろもろと灰になる。
雪の上に残されたハンマーは、きらきらと光って輪郭が解けると、再びネアの手に戻ってきた。
「ぐるるる………」
「ご主人様………」
リズモ狩りで、ネアは素早く動く獲物の捕え方を熟知していた。
鷲掴みではなく、ハンマーを投げつけるだけであれば、もっと簡単だ。
ざりりと不思議な音がして、どこか閉塞感のあった森が開かれる感じがした。
ああ、いつもの森が戻ってきたという感じがして、ネアは、はらりと降ってきた雪に頬を緩める。
「こ、これがなくなったという事は、グレアムさん達も無事なのですね………」
「うん。あちらも倒したようだよ。閉鎖領域が崩れたので、鳥羽竜は七体だけだったのだろう」
「…………なぬ。ななたい」
「うん。君が一つ壊してくれたからね」
「もしかして、ディノも幾つかばりんとやってくれていたのですか?」
「こちらに襲いかかってきた時にね。けれど、呪いに形を取られてしまっていたようだから、実体化出来ていたのは、せいぜい四体程だろう」
「むぅ。ディノに怪我をさせた奴めに報復をしたかったのですが、竜違いだったのかもしれません……」
遠くから、安否を問うノアの声が聞こえる。
その声に応えながら、迎えに来てくれたのだと思いほっとしていると、そっと三つ編みを持たせてくる魔物がいたので、褒めて欲しいのかなと思ったネアはその三つ編みをぎゅっと引っ張ってやった。
「可愛い………」
「ディノ、困った呪いを壊してくれて、有難うございました。騎士さん達も無事で、本当に良かったです!」
ぱたぱたと音がして顔を上げると、逃げ出していた生き物達が、森に戻ってきているところだった。
ずしんと音がして目を丸くすると、もう騒ぎは終わったのかなと言わんばかりに、巨大な羊のようなものが顔を覗かせている。
(そうか。ここは禁足地の森なのだ………)
人知の及ばぬもの達が暮らし、こうして目を覚ます、恐ろしい災いも眠っているかもしれないところ。
最近は何となくお家の裏手の森という認識になりつつあった場所だが、ネアは、あらためてそんな思いを胸に、深い深い雪の森を眺めたのだった。




