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夜明けの寝室とタンタリア




(……………タンタリア)



その不思議な響きに首を傾げ、ネアはむぐぐっと眉を寄せた。


いつもなら隣ですやすやと眠っている魔物はお出かけ中で、今日は、夜明け前から午後までは魔物の会合に出ている。



伸ばした手でシーツを探り、そこにディノの体温がないことを確かめてしまう。

分かっていて伸ばした指先の冷たさに、ネアは、自損事故ばりにくしゅんとなった。

今でも毛布の巣で眠る事もある魔物だが、こんな日はなぜか、隣に眠る姿がない事が寂しくなるらしい。



そうしてまた、あの言葉が心の中に響いた。




(ディノが珍しく出かけている、こんな日に………)



この響きの言葉は何だろう。


ネアは窓の外の暗さを見て眉を寄せたものの、観念してもぞもぞと起き出すと、手帳を取り出した。

寝起きのよれよれしている手つきでうっかりページを破らないようにしつつ、これまでに書き留めてきたメモをじっくりと読んでゆく。



(タンタリア…………)



もしかすると、以前に調べたことがある言葉で、その意味を忘れているだけなのだろうかとも思ったのだが、最後のページにも登場しなかったのでそうではないらしい。


となると、聞いてはいるものの記録を取らないままに頭の中からこぼれ落ちた言葉に違いなく、ネアは、へにゃりと眉を下げた。




タンタリア。



その言葉を頭の中で響かせると、青白く静謐な空間が浮かぶ。

冬の氷と雪の聖堂や、青白い月明かりのお城に立つような気がして、ざわりと音を立てたのは夜の風のようだった。


タンタリア。


或いはそれは、魔術や音楽の名称だろうか。

音を収めたばかりのピアノの演奏や、指先を載せたばかりのチェンバロの音のようで、とろりと滴り落ちるのは溶かした黄金にも似た不思議な雫。



「…………むぐぅ」



寝台の上に腰掛けたまま爪先をぱたぱたさせ、ネアは、ばすんと横倒しになった。


こんな時にディノが隣にいてくれたなら、これは何だろうと尋ねてしまえるのに、ネアの大事な魔物は、グレアムとウィリアムと一緒に、今頃はランシーン近くの不思議な小島にいるに違いない。



(漂流物の現れる年に行われる、古い魔術のもてなしの宴というもので、ディノが参加するのは二回に一回だけと決められているらしい)



なぜ二回に一回なのかと言えば、魔術の編み目を整える為なのだそうだ。

規則正しく編み上げてゆく事で制御の難しい前世界の名残りの魔術を管理する為の、これもまた、古の手法なのだとか。


こちらから誰にでも分かるような明確な規則を作り、それを破らずにいれば、形のない魔術にも外殻を与えられると聞けば、エーダリアは興奮のあまり椅子から立ち上がりかけていたが、ネアにはまだよく分からない魔術の作法である。




「……………おい、また事故ったんじゃないだろうな」



寝台の上に転がりじたばたしていたネアは、そんな声がひらりと落ちてきて、くしゃくしゃの毛布に埋めていた顔を上げた。



「……アルテアさんです」

「寝るつもりなら、毛布の上に転がるのはやめろ」



いつの間にこちらに来たのだろう。

顔を顰めてこちらを見下ろしていたのは、ディノが不在にしている間はと、かつてのディノの寝室で休んでいた選択の魔物だ。


勿論、ノアもリーエンベルク内にいるのだが、先日の真っ赤なスナック問題で王都との調整がまだ終わっていないらしく、エーダリア達は、いつそちらの話し合いに呼ばれるか分からない状態にある。

たまたまその三人が席を外している間にネアが一人で事故るという展開を避けるべく、アルテアがリーエンベルクの、それもディノの寝室に泊まる事になったのだった。



髪の毛は僅かに寝乱れており、白い前髪の間から見える赤紫色の瞳は、ぞくりとするような光を孕んでいる。


人ならざるものの目をした魔物にじっと見下ろされ、ネアは、おやこの魔物はどうやら不機嫌そうだぞと目を瞠った。



「…………思い出せない言葉があり、どのような意味なのだろうと考えていただけなのです。どうか、こちらの事は気にせずに、ゆっくり休んでいて下さいね」

「ほお。お前の日頃の様子を知っておいて、よくもそう出来ると思ったな」

「むぅ。眠たくて荒ぶっているのでなければ、どこかに悪さをしに行くところなのですか?」

「…………何でだよ」

「森に帰るのは、もう少しだけ待っていて下さいね。魔物さんですので、突然、こんな事を任されてむしゃくしゃしてきたぞという事も、………ぎゃふ?!」



ばすんと、わざと勢い良く寝台に腰掛けた魔物のせいで、ネアは体が弾んでしまった。

舌を噛みそうになったので怒り狂い、すぐ横に腰掛けた魔物の脇腹をばしばしと攻撃する。



「お、おのれ!なぜ、お腹がふんにゃりしていないのだ!」

「お前程には食わないからだろうな。………それで、思い出せない言葉は何だ?お前の引きの良さを思えば、ろくでもない魔術付与の可能性もある」

「…………まぁ。では、その言葉を口に出してしまうと、あまり良くないのではないでしょうか?」

「そうだな。懸念を覚えるのなら、音にはするな。言葉から感じ取れる印象はあるか?」



片手で前髪を掻き上げながらそう問いかけるアルテアは、パジャマ姿ではなかった。


自分用の部屋ではないので、パジャマ姿を見られるリスクを回避したのかなと考えかけ、もし、こちらの寝室でネアがじたばたしている気配に気付いて来てくれたのなら、何が起こっていても対応出来るよう、簡単に着替えておいてくれたのかもしれないのだと気付いた。


何しろ魔物達は、魔術でしゅわんと着替える事も出来るのだ。



(アルテアさんは、普段はそうして着替えることを、あまり好まないようだけれど………)



どちらにせよ、わざわざ着替えさせてしまったのなら、少しばかり申し訳ない。



「言葉の響きからは、………」



こちらの事は早めに済ませてしまおうと思ったネアは、説明に選ぶ言葉が直接結びつかないようにしながら、素早くタンタリアの印象を説明した。


体を起こして話そうとしたのだが、そうするより早く伸ばされた手が額に触れてしまい、起き上がれなくなってしまう。


そこを押さえられると人間は体を起こせなくなるのだともがもがしたが、アルテアは、ふっと意地悪な微笑みを浮かべただけで、手を離してはくれなかった。



(まだ、少しだけ不機嫌そうだ。………どうしてなのだろう………)



微笑んではいるけれど、微笑みの一層奥にある気配が冷たいので、いつもの選択の魔物の表情とは違う色の影が表情を縁取る。

魔物らしい気配だなと考えながら、ネアは、そんなアルテアの瞳を遠慮なく覗き込んだ。



「………何だ」

「おでこの手が邪魔でよく見えませんが、アルテアさんは、ちょっぴり不機嫌なのですか?」

「……………さてな。そういう事もあるだろうさ」

「使い魔のご褒美クッキーと、投げて遊ぶがらがらがありますが、どちらか欲しいものはありますか?」

「いらん。いいか、どっちも捨ててこい」

「では、私をどこかの危ない場所にぽいしてみたくなりそうな気分ならば、きりんさんを差し上げればいいのでしょうか?」



その質問には、取り違えられそうな温度は込めないようにした。


もし、この問いかけに懇願や不安が滲めば、こんな時の魔物はとても苛立つだろう。

そのような感情を見せたのならば、お望み通りにと荒ぶる厄介さを持ち出してくるかもしれない。


だからネアは、出来る限り淡々と、あくまでも状況確認であるという事を主張しつつ、そう尋ねてみた。



「その可能性があると考えたのなら、お前がこうも大人しくしているのは、勝算があるからか?」

「この、思い出せない言葉が良くないものだといけないので、念の為にと、手には既にきりん札を握り締めており…」

「やめろ。絶対にそれを見せるなよ」

「意地悪しないと約束してくれなければ、私とて、暴虐の限りを尽くす邪悪な人間になってしまうのかもしれません」

「ったく。お前は勘が良過ぎるな……」

「あら、さては私を、また雪食い鳥の巣に放り込もうとしていたのですか?」

「………するか」



ふうっと息を吐き、アルテアは、どこか諦観にも似た眼差しでこちらを見る。


その心を揺らしたのは、どんな選択の分岐なのだろうと考えかけ、ネアは、これもまた厄介な魔物であると半眼になった。



「取り敢えず、ちびふわにしておけば……」

「やめろ。そもそも、お前がまた妙なものを持ち込んでいなければ、思案の切っ掛けもなかったんだぞ」

「まぁ。隙を見せなければ噛みたくもならなかったと言うのは、少々乱暴ですよ?私は、ただでさえ、この言葉が何なのか分からなくてもやもやしているので、……むぐ!はにゃをつまむのはやめるのだ!!」

「っ?!………おい、その寝間着で暴れるな!!」

「ダリルさんがくれた、可愛いやつなのです。もはもはしているだけののんびりお部屋着だと、アルテアさんに貶されそうでしたので、今日は、渾身の可愛いお部屋着なのですよ?」

「前から何度も、それを着る際には上に羽織れと言ってきた筈だが?」

「なぜ、就寝時に着込まねばならぬのだ………」



だが、そんなやり取りをしている間に、アルテアの表情はいつものものに戻っていた。


とは言えその普通は、アルテアが、ここでより多く纏うだけの装いに過ぎないので、気紛れな魔物の気が変わることくらいは、これからだってあるだろう。



「………聞いた限りの印象では、さして問題はなさそうだな。真っ先に思い浮かぶという事は、土地や建物の名称だろう。そのようなものが主体で魔術や音階に紐付くからこそ、お前でも、魔術や音楽という印象も得られたようだな」

「…………私でもというのは、どのような意味なのでしょう」

「お前の可動域とお前の音感だと、音楽や魔術単体の気配は、感じ取れる筈がないからだな」

「ぐるるる!!!」



まさかの二重の暴言に、怒り狂った人間が使い魔に体当たりをしようと体を転がしかけた、その時のことだった。




がおん。




どこかで重たく鋭い音がして、ネアは、ぎょっとしてしまう。

この部屋の中という近さではなかったが、せいぜい、窓の向こうや壁の向こうではないかというくらいの近さであった。



「…………成る程な。タンタリアの書庫か」

「は!そ、その言葉です!!」

「意識を徘徊する、魔術の繋ぎ手の領域への入り口だ。言葉や音を魂の裏側の平原にばら撒き、うっかり拾い上げた者の近くを侵食する」

「…………良くないものを、呼び込んでしまったのでしょうか?」



慌てて体を起こそうとしたネアを、アルテアが手を伸ばして介助してくれる。

背中に手を回して起き上がらせて貰い、ネアはそのまま、すっぽり選択の魔物の腕の中に収められてしまった。



「正体を知らなければ災厄にもなるが、………エーダリアに連絡をして起こしてこい。………いや、ノアベルトを叩き起こすか」

「ありゃ。もう起きてるけど………」



すぐ近くから聞こえた義兄の声に、ネアが振り返ると、いつの間に部屋に入ってきていたのか、くしゃくしゃの寝起きの髪の毛のノアが立っているではないか。


目が合うとにっこりと微笑んでくれたので、どうやら、タンタリアという謎の入り口めは、そこまで危ういものではないらしい。



「タンタリアだ。俺が知る限りでは、百二十四年ぶりだな」

「僕が知る限りでは、七十八年ぶりかな。どちらにせよ、出現が確認されてもそこに立ち会える事は滅多にないから、エーダリアとヒルドには声をかけてあるよ。カーテンを開けるのは、ちょっと待ってくれるかい?」

「それがいいだろうな。権利を得られるのは、子供だけだ。その言葉の領域をどこまで広げたとしても、こいつとエーダリアくらいしか該当しないだろう。騎士の一人も加えておきたいところだが、父親だったことがある以上、該当者にはならないだろうよ」

「うん。グラストは難しいね。かと言って、他の騎士達だと契約で引き留めておけないから、あちらに引き摺られると危ないかもしれない。まぁ、エーダリアがいただけでも、良かったとするしかないかな」



(権利を得られる…………?)



それはどういう事だろうかと首を傾げたネアに、アルテアが、ざっくりではあるが、タンタリアの仕組みと役割を教えてくれる。



このタンタリアは、固定させると宜しくない叡智を集めた書庫である。


世界の表層から失われた物ではないが、特定の箇所に留めておけない難しいものを集めて管理し、世界のあちこちを彷徨い続けるのだ。


特定の手続きを踏めば来訪予約が取れるのだが、それ以外にもタンタリアに出会えることがある。

それが、このタンタリア側からの訪問であった。



「まぁ、向こうから来てくれるのですか?」

「彷徨い続けるだけだと、失われてゆく叡智にしかならないからな。時折姿を現して、まだそこにあるという事を示していく。その場合の目撃者に選ばれるのは子供達である事が多い。タンタリアを知り、相応しい対処が出来れば、必要な叡智を収めた魔術書と巡り会える祝福を得る権利を授けるが、適切な対処方法を知らない者には、災いを授けていく」

「………後者に、圧倒的な不穏さを感じるのです」

「これがまた不思議でさ、災いは子供にはいかないんだよね。その土地に暮らす大人達に現れるんだ」

「ふむ。お子さん達への教育を怠ったとして、大人達にお仕置きしてしまうのでしょうか………」

「ありゃ、そういう事かぁ」


タンタリアは、人間の前に訪れる際には、魂の裏側の平原に徴を齎すのだそうだ。

それを拾い上げると入り口が現れ、相応しい対応が取れるかどうかの試練めいた確認がなされる。


なお、単体派生の種族にはこうした訪れはないそうなので、世代交代のある生き物達にのみ、タンタリアを知っているかどうかという問いかけがあるのだろう。



そんな話をしていると、ばたばたと音がしてエーダリア達がやって来た。

ネアは、部屋にやって来たエーダリアの装いに目を丸くし、鳶色の瞳をきらきらにしているエーダリアの大喜び具合にも驚いてしまう。



「ほわ、盛装姿です………」

「ああ。盛装姿で訪れるべき、高貴な場所なのだ。姿を消したと言われる大魔術師達が、今も尚その中で叡智の管理をしているとも言われているし、…………かつては、ウィーム王家の者が勤めていたとされている」

「…………まぁ。ウィーム王家の方が、働かれておられたのですね」



一緒にいるヒルドは、支度を手伝ったのだろう。

走らなくても逃げませんよとぜいぜいしているので、エーダリアは、ここまで走って来てしまったらしい。



「よーし、じゃあ済ませておこうか。エーダリアがカーテンを開けばいいだけだから、ネアも後ろからなら覗けるよ」

「むむ、盛装姿になります?」

「それは、エーダリアだけで大丈夫だよ。………ええと、でも何か羽織ろうか!」

「ふむ。では……ぎゃふ?!なぜにセーターを上から被せられたのだ?!」

「ったく。これを着ていろ」

「え、アルテアのセーターなんて、複雑なんだけど………」

「むぐぅ………」



とは言えネアは、運命が薄弱なのでうっかり呼び込まれないようにと、アルテアの膝の上に持ち上げられ、いよいよエーダリアがカーテンを開ける事となった。


先程の音以降、何の動きもないようだが、確かに、窓の向こうに何かがあるという感じは残っている。


相応しい対応とは何だろうと思っていたが、盛装姿になる事だけでいいのだろうか。



「では、開けるぞ」

「はい!」


じゃっと音を立てて、カーテンが開かれた。



(……………わぁ!)



いつもならリーエンベルクの庭が見える筈の窓の向こうに広がっていたのは、ウィーム中央にある博物館のような、壮麗な石造りの建物の入り口であった。

その入口の前には、一人の背の高い男性が立っていて、こちらを見てにっこり微笑む。



波打つような腰までの銀髪を持つその男性は、裾広がりのシルエットの、裾の部分に刺繍のある、ふっくらとした中綿入りの天鵞絨の上着を着ていて、その下は白いシャツとジレだ。

ジレの下の部分に見える細い刺繍の腰帯には、きらりと光る結晶石の飾りがあり、どこかエーダリアの装いと似ている。



(………おや、これだけ?)



特に詠唱も音楽も、そして交わされる言葉もないらしい。



エーダリアは暫し硬直した後、窓の向こうに向かって深々と頭を下げ、またゆっくりと持ち上げた。

すると、タンタリアの入り口に立っていた男性がにっこり微笑み、じゃあねと言うように手を振って踵を返す。



入り口のアプローチの石段を上がれば、いつの間にか現れた衛兵のような者達が大きな扉を開く。

その向こうにちらりと美しい庭園が見え、男性はその中に入っていた。



ばたんと扉が閉じた途端、またあの、がおんという重たい音が響き、そして何もかもが夢のようにしゅわんと消えてしまう。




「…………思っていたより、呆気なく終わってしまいました」

「…………満足したようだな。だが、まだ残っていたとはな」

「わーお。…………ウィーム王家の生き残りかぁ」

「な、なぬ?!今の方は、エーダリア様の仰っていた、ウィーム王家の方なのですか?!」

「あいつの着ていた上着の裾の刺繍模様は、かつてのウィームの紋章だ。着られるのは、ウィーム王家の人間に限られる」

「……………まぁ」



ネアは、まだじっと窓の方を見て動かずにいるエーダリアの表情を見てみたかったが、それは、無作法なのかもしれない。


優しく微笑んだヒルドが、そっとハンカチを手渡しており、エーダリアは涙を拭ったようだ。



(……………そうか。エーダリア様にとって、生きているウィーム王家の方と出会えるのは、初めての事なのだわ)



「タンタリアでは、迎え入れた時の肩書きを固定して、その中に残す。例えばウィーム王家の者であれば、ウィーム王家の肩書きがなければ扱えない叡智もあるからな。だから、あの人間はウィーム王家の者として今もタンタリアに在籍しているんだろう。…………あいつの親世代か。そう言えば一人、いつの間にか年表や家系図から消えていた奴がいたな」

「アルテアさんのお知り合いの方の、ご家族なのですか?」

「ウィーム王だった、花の魔術師の叔父だろうよ。………姿を見るまではそんな奴がいたと思い出せなかったとなると、認識阻害の魔術を敷いてウィームを出たんだろう。…………逃げたな」

「なぬ………」



どうやら先程の御仁は、王家の者としての役割を放り出して出奔し、タンタリアで働いているらしい。

偶然迷い込んだのか、元々タンタリアを目指したのかは分からないが、それはいつか、エーダリアがあちらを訪れた時に明らかになるのかもしれない。




「私にはまだ、タンタリアへの来訪予約を取る権利がないのだ」



ややあって、感極まったような、けれども悔しそうな声で、エーダリアがそう言った。

こちらを見た鳶色の瞳はまだ濡れていたが、既に、涙はすっかりと拭われてしまっている。



「権利を得る為に必要な事があるのですか?」

「年齢制限だな。あの中に集められた叡智は、ある程度の学びを得てからしか閲覧が許されない物が多い。私は、後十一年経たなければ、来訪予約を取れないのだ」

「そこは、階位や実績ではなく、年齢なのですね?」



こちらの世界の人間にとって、実年齢というのはとても曖昧な物である。


何しろ季節の運行の遅延で一年が伸びたりもするし、魔術可動域によって同じ人間でも寿命が異なる世界だ。

その結果、生まれてから暫くの間は数えられている年齢は、魔術可動域で成人と見做されるとあっさり忘れられてしまう。



(それでも、タンタリアへの訪問の権利を得られるのは、年齢で測るものなのが不思議だわ)



なぜだろうかと首を傾げたネアに、ノアがその理由を説明してくれた。



「ほら、どれだけ優秀でも、社会生活の中で積み上げる世代に見合った経験だけは、補いようがないからさ。タンタリアは、下手をすると魅入られて戻れなくなるような事も多い場所だから、帰り道を確保させるだけの執着と重石として、ある程度しっかりと生きてきたっていう証跡がないと、入れないんだよね」

「加えて、あの中の叡智を扱うのに相応しいだけの分別を育てる為の、期間指定でもあるな。勿論、種族によって、入れる年齢は変わってくる」

「むむ。となると、あの中には色々な種族の方がいるのでしょうか?」

「ああ。ウィーム中央くらいの生活領域はある空間だからな。訪問客の為の宿泊施設も多い。一度の訪問で許される滞在期間は三日で、一度訪問したら五年は申請が下りない仕組みになっている」

「しっかりとした運用があるのですね………」



タンタリアを見た窓はネアの寝室なので、こうしてみんなが集まるのは不思議な感じだった。


ディノもいれば良かったのになと少し残念だが、ノア曰く、ディノがいたら、タンタリアの入り口は、別の場所を選んで現れたかもしれないという。



「階位的に、シルの領域に入り口を開くのは不敬になるからね。そう考えると、寝室にネアが一人だったのも良かったのかもしれないね。………エーダリアが、………ありゃ」

「ふふ。エーダリア様がそんなに泣いてしまうくらいなのですから、あの方に会えて良かったです!」

「………そう言えば、私の一族からもタンタリアに入った者がおりましたね。私の二つ前の世代ですので今も生きているかは分かりませんが、エーダリア様がタンタリアに向かわれる際には、是非にお供させていただきましょう」

「その時は僕も一緒に行くよ。向こうに行きつけの食堂があるから、そこで食事をしよう」

「………お前は、よく行くのか?」

「うーん、時々ね。最近だと五年くらい前に行ったんだけど、ウィーム王家の人間がいたのは知らなかったなぁ」



(となると、アルテアさんも行くのだろうか………)



そう思い振り返ると、昨年の夏にも行ったばかりだと教えられ、ネアはエーダリアと共に目を丸くする。



「アルテアさんは、あの方の事をご存知ではなかったのですか?」

「一つの街くらいの規模だと言っただろう。限られた滞在時間の中で、調べ物をする為に来訪申請を出すんだ。探し物の内容に直接関わりがない限り、来訪者が見ているのはほぼ書庫に収められた資料になる」

「そうなんだよねぇ。僕も、向こうの管理者は二人くらいしか知らないなぁ………」

「ふむ。言われてみれば、時間制限があるのですから、調べ物を優先してしまいますよね………」

「………そうか。では私は、いつかタンタリアを訪れる時には、ウィーム王家に纏わる叡智こそを求めに行こう」



そう微笑んだエーダリアは、もし認識阻害の魔術が敷かれているのであれば、やがて、タンタリアの入り口に立っていた人物の事は忘れてしまうのだろうと言う。


だが、いつか訪問する際に求める叡智をウィーム王家の叡智としておけば、あの人物との対面が叶う可能性があるだろうとも。



「…………忘れてしまうのは、ちょっぴり寂しいですね。折角、ウィーム王家に連なる方がまだいてくれたのだと知る事が出来たのですから、ずっと覚えていたいです………」

「いや、統一戦争で展開された魔術に触れるようなことがあれば、取り返しがつかなくなる。叡智の集約がある場所にいて統一戦争を知らない筈もないだろうから、その対策は取った上でここで姿を見せてくれたのだとは思うが……」

「となると、きっとあの方も、エーダリア様に会えて嬉しかったのでしょうね」

「そう言えば、お前にも手を振っていたな」

「うむ。偉大なる発見者ですからね!」

「お前が、何の考えなしにカーテンを開けていたら、また事故だったな」

「ぐるる!!」




ネア達はここで、まだ夜明け前だった事を思い出してもう一度寝ましょうかと言う感じになり、タンタリアとの出会いの興奮をそれぞれの胸に、解散する事になった。


今日は午前中の仕事がお休みなエーダリアは、多分、暫くは寝付けないだろう。

そこにはノアが付き添うそうなので、ヒルドは朝までの短い時間をもう少しだけ休めそうだ。


着せられたセーターを脱ぐとアルテアが嫌な顔をしたが、ネアは、セーターはお返しして、いそいそと毛布に包まると、なぜだか隣の寝室に戻らずに寝台の端に腰掛けたままの魔物はさて置き、素敵な二度寝をするのだと目を閉じる。




(タン…………あれ、何だったっけ…………)



先程はあんなにも鮮明だった名称が思考の中でぼんやりとしてゆき、やがて、ぽしゃんと眠りの中に意識が落ちた。



髪を撫でる手のひらの温度を感じながら、もしここで先程の気分のむらが出てしまい、使い魔が悪さをしそうな魔物になっていたらどうしてくれようかとも思ったが、今は、心地よい眠りに戻る以上に大事な事などあるだろうか。



まぁいいかと大雑把に投げ出してしまった人間のおでこに、ふわりと落とされたのは、いつもの使い魔の祝福の口付けだったのかもしれない。







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