記念日と白い街並み
朝食の時には止んでいた雪が、街に出ようとした時にはまた降り始めていた。
降り続ける雪は柔らかな水灰色の大きめの雪片で、花びらのように、ひらりはらりと落ちる。
(昨年の今頃に比べると、今年は雪が沢山降っているような気がする)
そんな事を考えながらコートの襟元を閉め、ネアは、廊下を執務棟に向かうヒルドに手を振った。
今日は、朝の内からザルツとの重要な会議があるらしいのだが、幸いにも、ザルツ伯が無事に宿題を終えてくれた事で魔術通信で事足りるようになったらしい。
事前に質問書を送ってあるので当然ですねと微笑んだヒルドは、通信会議で済まなくなってしまった時の為に作っておいた資料が無駄になったとは言わない。
昨晩は遅く迄かかって会議の下準備をしていたエーダリアもヒルドも、結果として表に出ないままになっている仕事が、これ迄にどれだけあるのだろう。
魔術可動域で足を引っ張らなければ手伝えたのにとしょんぼりしたネアだったが、エーダリアから、お前がここに来てから、どれだけの祟りものの被害が減ったと思っているのだと真顔で言われてしまった。
(私が、このウィームに来てから。ディノと出会って、歌乞いになって、伴侶になってから)
そんな日々に栞を挟めば、まだ思っていたよりも短いけれど、ここでの日々はいつの間にかネアの当たり前になっていて、この手の中のものはいつの間にか本物の宝物になった。
こちらを見ている魔物の美貌は、優しく微笑んでいても酷薄な境界の向こう側のものではなく、どんな時もネアを守ってくれるたった一人の伴侶になった。
今は水紺色の瞳をきらきらさせ、口元をもぞもぞさせてこちらを見ている。
近くにあった雪ライラックの花がしゃりりと結晶化してしまい、木の枝にいたちびこい毛玉妖精達が大はしゃぎでその花枝を讃えていた。
「ディノ、どうですか?」
嬉しそうに目元を染めているディノに見つめられ、雪の中で翳した手には、ゆらゆらと柔らかな光を宿すディノの紡いだ真珠が光る。
万象の魔物の魔術を紡いで作られた真珠なので、そうそう打撃や環境変化で損なわれる事はない。
だからこそ、こんな雪の日でも使えてしまうのだ。
「とても似合っているよ。………可愛い」
「ふふ。この真珠の指輪は、雪の日の装いや気分によく似合いますね。私にとっての特別なお祝いの日は冬に集中しているので、この指輪は、きっとこれから大活躍してしまうに違いありません!」
「うん」
「………は!………で、ですが、これ迄に貰った他の指輪も大好きなので、どうやって選べばいいのでしょう。………全部大好きで悩んでしまうなんて、なんという試練なのだ………」
「悩んでしまうのだね」
その恐ろしい可能性に気付いてしまってあわあわしたが、とは言え今日は、絶対に真珠の指輪なのである。
ネアは、また視線を指に落として唇の端を持ち上げ、手袋などという無粋なものはしなくてもいいだろうかと考えたものの、乙女の指先の繊細さを考えて渋々装着した。
ふぁさりと、真珠色の三つ編みが揺れ、ネアは一緒に指輪を覗き込んでいる魔物を見上げた。
ふっと瞳を瞠ったディノに、ネアは伸び上がって口付けする。
ぴっとなった魔物が目元を染め、小さな声でずるいと呟いた。
「ディノ、私の伴侶になってくれて、有難うございます。出かけましょうか」
「…………うん。ネア、私の、……伴侶になってくれて有難う」
記念日の朝にもそんな会話は済ませていたけれど、二人の記念日のおでかけだから、またここでそんな言葉を交わすのもいいだろう。
ディノが少し弱ってしまうものの、一年にこの日にしか言えない言葉なので、余す事なく使い果たす所存である。
「今年は、のんびりのお祝いなので、街まで歩き進めてみて、あまりにも雪が激しくなるようなら、途中から転移で連れて行って貰えます?」
「そうだね。ザハに着く迄の間であれば、天候が変化する事はないのではないかな」
ネア達の今年のお祝いは、ザハで記念日のケーキを食べる事だ。
誕生日の日になる迄の夜をディノのお城で過ごしたばかりなので、今年は、特別過ぎない特別な日を過ごしてみる事にした。
実は昨日、ディノが、本日の星浴びの劇場の席に空きがあるかどうかを確認してくれたところ、この時期は家族連れで満席になりがちらしく、空席が一つもなかったらしい。
伴侶の為に席を押さえられなかったとしょんぼりしたディノの為に、ネアは、何でもないことを楽しむ記念日にしたのだ。
(特別な事が見付からなくても、二人で美味しいケーキを食べるだけでいいのだと、ディノが感じてくれるといいな)
先日のネアの誕生日もそうだが、これからもきっと、何も出来ない記念日もあるだろう。
そんな時に大事な魔物が悲しくならないように、日常にほんの少しの加点で楽しめる記念日の提案をするつもりである。
「………む」
「おや、あちらの方かな」
さわんと、ケーキ作りで粉をふるうような音がした。
森の方を見ると、雪がけぶっているので、大きな木の枝から雪の塊が落ちたらしい。
昨日までの雪は粉雪だったのと、陽光で雪が溶けるような日がなかったので、枝から落ちる雪も音が軽やかだ。
リーエンベルクにあった飾り木はなくなってしまったが、飾り気のない並木道の清廉さも、ウィームの雪景色に映えて美しい。
青緑色の枝葉には光を宿したような雪が積もり、冬の系譜の妖精達がきゃあっとはしゃいでいる。
オオンと声が聞こえてきて振り返れば、雪空の中で羽を伸ばしている雪竜が、雪空の高みでぐるりと旋回していた。
雪の降り積もった歩道に踏み出す前に、ネアは、こつりと戦闘靴の踵を鳴らし、君は雪靴ではないが今日は頑張り給えと檄を飛ばしておく。
ふかふかと雪が積もり始めている街並みを見れば、本来は雪靴を履いておくべきなのだが、今日はとても大事な日なので、近付く不審者は片っ端から滅ぼす所存なのだ。
その為の戦闘靴である。
何しろ本日のウィームには、とある蒐集家の鞄から脱走した不在染みと呼ばれる魔物が八十七体も潜んでいて、よりにもよってのなかなかな厳戒態勢中なのだった。
幸い、人命を奪うような生き物ではないのだが、その代わりに、出会った相手の衣服に頑固な染みをつけるとても厄介な魔物なのだ。
冬のお出かけ着は、染みを付けられると厄介な素材が多く、おまけに厚みがあるので、ひっそりと訪れる襲撃に気付かない事も多い。
知らない内に大切なコートに染みを付けられかねないともなれば、周囲の確認を怠れない日であった。
「その魔物めが現れたら、片っ端から滅ぼして、記念日を一緒に過ごす大事な伴侶を守りますね」
「うん………」
「何でもない日に貰ったお気に入りのコートに、一つでも染みを付けたら許しません!そもそも、なぜにそんな魔物を集めてしまったのだ……」
「どうして集めてしまったのかな。………人間は、可愛いと思えば、どのようなものも受け入れてしまうのかい?」
不安そうに尋ねた魔物に、ネアは、差し出された三つ編みを受け取った。
少しだけしおしおと項垂れているこの魔物は、嫌厭されることの多い不在染みの魔物を収集していたご婦人が、ただ可愛いから集めて愛でていただけなので、その愛着は理屈ではないのだと主張しているという話を聞いたらしい。
朝から深刻な顔をしてノアとひそひそ話していたので、自分の伴侶にもそんな事が起こるかもしれないと考えて不安になっているのだろう。
結婚記念にこんな事でディノを不安にさせた観光客を恨めしく思いながら、ネアは、大事な魔物の三つ編みをくいくいっと引っ張ってやる。
「私には、不在染みめを飼っていた観光客の方の主張は理解出来ませんが、そのような嗜好の方がいるのは確かなのでしょう」
「君は、違うのかい?」
「ええ。私は、大切な衣服に魔術染みを作ってしまうかもしれない悪い生き物よりも、こんなに素敵なディノがいるので、そちらはいらないのです」
「………エーダリアが、君はとても気に入るかもしれないと話していたよ」
「手のひら大の、ぽわぽわ毛並みのちびにゃんこですものね。ですが私は、とても自分が大切なのです。それに加えて、一緒にいるディノもとても大切な魔物なので、そんな私の持ち物に染みを付けようとする生き物になど、心を奪われる事はありません」
「うん………」
「むむむ、言葉を尽くしても凄く疑われているのはなぜなのだ………」
「毛皮なんて………」
とは言え、今日は大切な日なので、二人は手を繋いで街へと向かう歩道に出た。
門を抜ける際にこの時間の正門担当だったロマックから、結婚記念日のお祝いの言葉を貰い、微笑んでお礼を返す。
つい最近に誕生日を奪われたばかりのネアに、騎士達はとても優しいのだ。
時々、狂乱したら誰にも止められなくなるという不穏な単語も聞こえてくるのだが、どのような意味なのかは追及しないようにしている。
空気はきりりと冷えていて、けれども耳や指先が凍り付きそうな気温ではなかった。
ウィームは、雪の降る日の方が暖かいとされていて、それは雪の魔術の齎すものなのだという。
ネアが生まれ育った世界でも、雪が降る前の日の夜はふわりと寒さが緩んだものだ。
さくさく、さくり。
足跡一つない雪の上から、雪をかいて整えられた歩道へ。
正門の前から少し歩くと、そんな歩道の上を針先までが水色になっているハリネズミのような生き物が、小ぶりな林檎を背中に乗せてててっと走ってゆくのが見えた。
背中の針に浅く刺す事で林檎を固定しているようだが、目的地に到着した後に、ちゃんと下ろせるかどうか心配になってしまう。
「まぁ。ディノ、雪かきを委託された、外部協力者の方ですよ!」
「おや、林檎を運んでいるのだね」
「今日は、随分と大きな雪片ですので、リーエンベルクでも早めに除雪の協力依頼を出しているのかもしれませんね」
「うん。………ニエークなのかな」
「む?」
はらはらと降り続ける雪は、今後の積雪を思えば心配でもあったが、花びらを降らせているような美しさに、ネアはどうしても笑顔になってしまう。
(今日は、大切な日なのだ)
そんな日にこの花びらのような雪が降っていたら、まるで祝福のフラワーシャワーのようで嬉しくなってしまうではないか。
ついつい足取りが弾むようになり、こちらを見て微笑んだ魔物に軽く体を寄せると、ディノは体当たりだと言って喜んでしまった。
「ずるい………」
「むぅ。ぎゅっとくっついただけのつもりでしたが、体当たりとして認識されました………」
「ネアが、沢山懐いてくる……」
「それにしても、花びらのようで素敵な雪ですね。今日ばかりは、こんな雪が降っている事に感謝してしまいます。…………む?………今、あちらを歩いている方がぱたりと倒れてしまったのですが、ご病気でしょうか?」
「………ニエークかな」
いきなりの事なので驚いてしまったが、一緒にいた男性が手慣れた様子で背負って連れ帰ったので、元々の持病なのかもしれない。
記念日を迎えてとても慈悲深くなっていたネアは、道を挟んで反対側の歩道を歩いていた男性の無事を祈っておいた。
「もう、この歩道は怖くないかい?」
歩きながらディノにそう問いかけられ、ネアは、こくりと頷いた。
手袋越しではあるものの、繋いだ手をしっかりと握り直せば、ディノの目元がいっそうに柔らかくなる。
「ええ。ですが今はもう冬なので、同じ季節になった時には、また不安を覚える事もあるかもしれません。そんな時は、手を繋いでくれますか?」
「勿論だよ。君が怖くないように、ずっと側にいるからね」
「ふむ。では、軽めに握っている手をもう少しぎゅっとしてくれますか?手袋越しなので、手が解けてしまわないようにしていたいのです」
「…………虐待」
「なぜなのだ………」
街に向かう歩道には、ちらほらと人影があった。
イブメリアの時期ほどではないが、リーエンベルクを見に来た観光客もいるし、地元の領民達にはこの並木道をお散歩コースにしている者もいる。
そんな中をゆったり歩き、二人は街の入り口に差し掛かった。
(新年の飾りは、淡いセージグリーンのリボンなのだわ)
街灯にかけられたイブメリアのリボン飾りやリースの代わりに、いつの間にか新年のお祝い飾りがお目見えしていたようだ。
揃いの飾りが並ぶ美しさに目を輝かせていたネアは、しゅっと足元に滑り込んだ小さな生き物を素早く屈んで鷲掴みにする。
「にゃーん」
「捕まえました!」
「……………ネアが浮気する」
「ふむ。確かに愛くるしい感じな子猫風ですが、どれだけ可愛くても許されない事はあります」
ご主人様がふわふわ毛皮のにゃんこを捕獲した途端に荒ぶり始めた魔物は、そんなネアの声がとても低かった事で、おやっと目を瞠ったようだ。
そして、貰ったばかりのコートをとても大事にしている人間は、足元に滑り込んできた不在染みの魔物は間違いなく有罪だと考えていた。
「ネア……………?」
「うっかり遭遇した場合の対処方法の確認を忘れていましたが、捕獲した魔物さんは、森にでも投げ捨てておけばいいのでしょうか?それとも、街の騎士さんに渡しておきます?」
「キシャー!!」
「あら、可愛さで篭絡出来ないと分かった途端に威嚇を始めましたが、私は、あなたなど簡単に滅ぼせるのですよ?私のコートに触れようとしただけでも万死に値します」
「シャー!!!」
擬態してネアの隣に立っているのが魔物の王様であることに気付けないのか、不在染みの魔物は何とか逃げ出そうともがもが暴れていた。
だが、それっぽっちのことでネアが愚かな魔物を手放す筈もない。
ふっと冷たく笑った人間に、漸く不在染みの魔物も己の窮地を悟ったようだ。
ぶるぶると震え始めた猫姿の魔物を掴んだまま、ネアが周囲を見回していると、何者かが隣に立ち影が落ちる。
おやっと思い顔を上げれば、立っていたのは随分とお久し振りな精霊ではないか。
ふくよかな金髪に燐光の緑の瞳をした美しい男性は、黒い毛皮のコートを羽織っていても、どこか異国風の気配がある。
きしりと雪を踏むブーツは、色鮮やかな刺繍のある黒いムートンのような素材のもので、ネアは心の中でこれは可愛いぞと注目してしまった。
「まぁ、……………ジルクさんです」
「お久し振りです、ご主人様。その魔物は、俺が預かりましょう。知人を介して、元の持ち主に返しておきますよ」
「む。…………滅ぼしておかなくてもいいのですか?」
「にゃぐ?!」
「はは、相変わらずの残忍さだ。いいですねぇ」
「そして私は、もうあなたのご主人様ではなくなったので、その呼び方はやめていただきたい」
「これはつれない。悪さをしませんよという主張みたいなものなので、どうかご容赦を。…………ま、不在染みは、野生のものなら廃棄でもいいんですけれどね。残念ながらそれには捜索願いが出されているので、ヴェルクレア内での今後の取り扱いには厳重注意が課されるでしょうが、ひとまずは飼い主への返却となります」
「見付からなかったという事にして、一匹くらい……………」
「にゃ、にゃーん?!」
敵と見做した者は容赦しない主義である人間に暗い目でじっと見つめられ、不在染みの魔物は、慌ててジルクに助けを求め始めた。
言葉が分かるのかもしれないが、そうではなくても助けてくれそうな気配を感じたのだろう。
ネアは、ジルクが恭しくディノに一礼したのを見て、若干わざとらしい慇懃さがあるものの、いつもの揶揄うような口調を改めているのは、隣に万象の魔物がいるからなのだなと考えた。
「ですが、…………この国や領地に属していないジルクさんに、預けてもいいものでしょうか?」
「ご安心を。俺は今回、正式な委託も受けていますからね。それに、個人的な理由も、……………まぁ、少しはあるかな」
「も、もしや、隠し子的な……………」
「おっと、とんでもない角度から疑いがかけられましたが、そいつは魔物でしょう?精霊からは生まれませんよ」
「にゃん…………」
「む。馬鹿にしたような目でこちらを見たので、尻尾はもぎ取っておきましょう」
「にゃーん?!」
優しさの欠片もない人間に尻尾を掴まれ、慌てた不在染みの魔物はジルクに必死に前足を伸ばした。
がくがくと震えながら引き渡され、相手がそうそう優しいばかりではない商人だと気付かないまま、ジルクの腕にひしっとしがみついている。
そんな不在染みの魔物をどこかにしまってしまうと、ジルクは、ディノに向けて深々と頭を下げる。
「万象の君、御前で伴侶の方との交渉となりましたが、祝い事の前にこのような運びとなりましたこと、是非にご容赦いただきたい」
「君も、依頼を受けてきたのだろう。その魔物を引き取ってくれるようだし、構わないよ」
「………感謝いたします」
仰々しい挨拶と共にふわりと姿を消したジルクに、ネアは目を瞬いた。
いつもと雰囲気が違うぞと思ったのは、ディノがいるからだとは思ったが、あの精霊がこんなにも畏まるとは思ってもいなかったのだ。
「………まぁ。あんなに腰の低いジルクさんは、初めて見ました」
「魔物の婚姻の日に、その魔物より階位の劣る異種族が新たな契約を持ちかける事は、不敬だとされている。古い因習だが、彼は商人だから蔑ろにはしないのだろう」
「そのような理由だったのですね。…………謎にお行儀が良かったので、てっきり、後々で露見すると立場が悪くなるような個人的な関係がある猫さんなのかと思いました……………」
「あの魔物は、悪意のある染みから派生するからね。ジルクの子供ではないかな……………」
不在染みは、悪意や無関心でつけられた染みから派生する魔物であるらしい。
引っ掛けられた葡萄酒や、気付かないふりをされたインクの染み。
汚れているのに拭いて貰えずに、放置された食べこぼしの染みなど。
小さな悪意や無関心がそのくらいならと受け流されるように、獲物にひっそりと忍び寄る事が得意なのだという。
「むぅ。派生してしまうのは致し方ありませんが、仲良くは出来ませんね。ふわふわにゃんこの無駄遣いです」
「君は、……………あのような毛皮の生き物でも、捨ててしまえるのだね」
「はい。襲ってくる野生の獣さんなどは、制圧してしまえばこちらのものなので愛でる事もありますが、あの魔物さんは、資質そのものが私の持ち物を損なう存在です。私が必要か不必要かを判断するのは、主にその部分なので、……………ディノ?なぜ震えてしまうのでしょう?」
「不必要にはならない……………」
「あらあら、私にとって一番大事な魔物なのに、怖くなってしまったのです?」
ネアは、震える魔物から三つ編みを差し出され、ぎゅっと握ってやった。
獲物に心を寄せても荒ぶるくせに、あまりにも冷酷に切り捨てても怯えてしまう困った魔物である。
その後、恐らく、ネア達のコートが汚し甲斐のある色だったからなのだろうが、ネア達は、ザハまでの道中でもう一匹の不在染みの魔物に襲われた。
ネアは、ディノに忍び寄ろうとした魔物を容赦なく掴み、ぶんぶんと振ってくらくらさせておいてから、近くにいた街の騎士に預けておく。
その個体については、魔術染料染みという厄介な資質を持っていたので、悪さをされる前に捕縛出来て何よりだ。
道中で捕り物もあったが、無事にザハに辿り着けば、昨年と同じ怪物除けの祝福石が入り口に飾られている。
小鳥の形をしたきらきらと光るオーナメントのようなものを、細いリボンで沢山吊るしてあるのだ。
あまり怪物除けにはならないと判明したらしい古くからの大晦日に向けた飾りだが、とは言え、繊細で可愛らしい。
季節行事を示す装飾として、効果云々ではなく、伝統になっているのかもしれない。
今年のリボンは水色で、小鳥達の煌めきが落ち、氷から紡いだリボンのようであった。
雪の中に赤い制服のザハのドアマンが、恭しくお辞儀をしてくれる。
お待ちしておりましたとにっこり微笑んで扉を開けてくれたので、今日が記念日の来訪だと知っているようだった。
「………ふぁ。今日のエントランスは、いい匂いがします」
「薔薇とジャスミン、………後はオレンジかな」
「百合の香りも混ざっているでしょうか。どことなく、大好きなリーエンベルクの大浴場の香りに似ていますね」
「うん」
そんな話をしながらいつもの喫茶室に向かうと、穏やかに微笑んだ、いつものおじさま給仕が待っていてくれた。
給仕服が似合うすらりとした長身で、ネアがこの世界に来てからずっと、ザハと言えばの付き合いだ。
「いらっしゃいませ。こちらまでは、歩いてこられたのですか?」
「ええ。今日はのんびり過ごす記念日にしたので、二人で、リーエンベルクから歩いてみたのです」
「おや、それは贅沢な過ごし方ですね。雪も、見た目よりは重くなかったかと思いますが、靴先などは濡れておりませんでしょうか。乾かしたい物があれば、お申し付け下さい」
「はい。私は大丈夫です。ディノも、………ふふ、大丈夫なようですね」
「うん」
「では、コートをお預かりして、お席に案内させていただきます」
「はい。宜しくお願いします」
ネア達が案内されたのは、扉を閉めて個室にすることも出来る奥の席で、人目に晒される事はないが隔離されている訳でもない、のんびりと過ごせる素敵な配置だ。
ふかふかとした絨毯を踏み訪れた店内には、優雅なピアノ曲が流れている。
テーブルの上を見たネアは、ぱっと笑顔になった。
「まぁ……………!」
「今年も、薔薇を飾ってくれたのだね」
「ええ。お二人の大事な日を、ザハで祝っていただける事は、我々にとって光栄な事ですからね」
テーブルには、昨年と同じように灰紫色の薔薇が飾られていた。
繊細なカットが光を万華鏡のようにテーブルに広げるクリスタルの入れ物に入ったキャンドルには、ぼうっと柔らかな魔術の火が灯る。
引いて貰った椅子に座って息を吐くと、すぐに置かれた水のグラスの表面の曇りまでもが、なんだか今日は愛おしく思える。
きりりと冷たい水をグラスに注いだことでグラスの表面が曇るのだが、水の種類によってはそうはならないらしい。
だが、ネアの大好きな雪と森の系譜の水は、このようになるのだ。
「という事はつまり、このお水は私の大好きな味なのですよ」
「良かったね、ネア」
「はい!お祝い用のケーキを頼むのは決まっているので、後はもう、美味しい飲み物を選んでさえしまえば、ディノと一緒に至福の時間が過ごせるに違いありません!」
「ご主人様!」
テーブルの中央に置かれた、お二人の記念日にという文字が記された小さな箔押しの模様の美しい銀色のカードは、恐らくグレアムの手によるものだろう。
ディノに確認したところ、グレアムの筆跡で間違いないようなので、持ち帰らずにはいられない心遣いだ。
「今年の記念日のケーキは、どんなケーキなのでしょうね」
「また、あの絵を貰えるのかな……………」
「去年のものは、ディノの宝物部屋に飾ってありますものね」
そう言えば嬉しそうに頷いた魔物は、紅茶を決めるのに少しだけ迷ったようだ。
いつもなら紅茶にするネアが、今日の気分で香草茶を選んでしまったので、選出基準が揺らいでしまったらしい。
「ディノは、メランジェ以外の珈琲は、あまり飲まないのですね」
「メランジェがいいかな……………」
「ノアも、濃い珈琲をぐいっと飲みそうに見えて、実はホットミルク派なのですよ。そんな風に、それぞれの嗜好を教えて貰うのも、家族の事を知ってゆくようで何だか楽しいですね」
「………君が選んだ香草茶の下のものは、あまり得意ではないんだ」
「むむ、こちらは、……薔薇の実のお茶ですね。確かに酸味があるので、好き好きだと思います。ふふ、ディノの事をまた一つ知ってしまいましたよ!」
「……………可愛い」
「ディノ、これからもまた、好きな事を沢山教えて下さいね。そして、嫌いなものや苦手なものも知りたいです。私はディノの伴侶なので、そんな情報が特別に沢山必要なのですよ!」
「では、私もそうなのかな………?」
「むむ。では、私のとっておきの秘密を一つ、結婚記念日なので明かしてしまいますね」
「特別な秘密……………」
ごくりと息を呑み頷いた魔物に、ネアは、厳かにその秘密を打ち明けた。
「実は、大好きなタルトですが、一般的だとされるお作法に則って食べていると、一番最後にお口に入ることになる、背面のタルト生地多めの部分には、毎回不満を感じているのです」
「……………あまり好きではないのかい?」
そう尋ねる魔物があまりにも不安そうなので、ネアはくすりと微笑んだ。
「そうではないのですが、手前で食べてしまう部分の方が、私の中では一番美味しい場所なので、出来れば最後にそのあたりを食べたいのです。……………ただ、私は立派な淑女なので、ケーキ類はカットされた中心部分のところから順番にお行儀よくいただくのですよ」
「可哀想に………。最後に中央を食べてもいいのではないかな………」
「では、今度お家でその食べ方をしてみても、びっくりしてしまいません?」
「勿論だよ。君が、美味しいと感じられるように食べるといい」
「はい!そんな罪深い食べ方を許してくれるだなんて、ディノは優しい魔物ですね」
「……………ずるい」
ネアが選んだのは、祝祭の紅茶と迷ったが味を想像して決めた砂糖プラムと星の歌の香草茶で、ディノは、夜の庭園の紅茶と迷ってからメランジェを選んでいた。
昨年にもこのザハで話した好きと嫌いの話は、一年を経て、また少し厚みを増してきたようだ。
ネアの香草茶をティーポットからカップに注いでくれながら、二人の会話を聞いていたおじさま給仕なグレアムの眼差しは、どこか満足気である。
ディノのメランジェも届き、ケーキを待つ魔物は、わくわくしているのか口元がむずむずしている。
テーブルの上の薔薇はまたしても二輪ほどが結晶化してしまっているし、窓の外で道行く人々が空を見上げているので、雪空には虹がかかっているのかもしれない。
すかさず取り出した魔術書を開いているのは、魔術師なのだろう。
(……………幸せそうだわ)
幸せそうなディノの姿に、ネアは、胸の中がほかほかになる。
美しい魔物が目を輝かせ、美味しそうにメランジェを飲む姿を見られるだけでも、今日は特別な日だろう。
そんな贅沢を噛み締め、ネアは唇の端を持ち上げる。
ケーキがテーブルに届くと、ディノは、幸せそうに微笑んだ。
何でもないお祝いの日を過ごそうとしていたネアよりもずっと幸せそうにしていてくれるのだから、ネアだって、とびきりの笑顔になってしまうしかない。
柊の絵付けのあるお皿の上のケーキは、ホールケーキだが、二人で半分にして丁度いいくらいの大きさだ。
どこか冬の宝物のような繊細さで、冴え冴えとした甘い香りに心が華やぐ。
「まぁ。今年のケーキは、リーエンベルクです!!」
「…………建物を作ってあるのだね」
「リボンのリースの中に、平面で表現されたリーエンベルクがあって、中央に、お花のクリームと一緒にあるのがそれぞれの指輪でしょうか。沢山のお花もあって、なんて綺麗なのでしょう………」
「………また、切ってしまうのかな」
「今年も、ケーキのデザイン画をお渡ししますので、こちらをお持ち帰り下さい」
「……………有難う」
ケーキナイフを持ったグレアムにしょんぼりしたディノだったが、綺麗な紙挟みに入ったケーキの絵を貰って安堵したのか、目をきらきらさせている。
その姿を見て微笑んだおじさま給仕の眼差しは、ネアがはっとしてしまうくらいに優しく美しい。
「本日のケーキは、いつものザハのチョコレートケーキではなく、ホワイトチョコレートのクリームに、雪苺に祝祭の薔薇のコンフィチュールが入っている物なのですよ。……………あぐ。………ふぁ、なんて美味しいのでしょう!」
「……………可愛い。…………ネアが、ずっと可愛い」
「……む。なぜに泣いてしまったのです?!………ぎゃ!こちらも泣いてる!!」
だが、美味しいケーキを頬張って幸せいっぱいで微笑んだネアは、突然泣いてしまった伴侶に驚き、そんなディノの姿を見て貰い泣きしてしまったおじさま給仕に重ねて驚いてしまった。
おろおろしているネアに、犠牲の魔物なおじさま給仕は、ハンカチは沢山持って来ておりますのでと微笑んだが、美味しくケーキを食べているだけなのでどうか落ち着き給えと念じずにはいられなかった。
「ネアが、動いてる……………」
「ディノ、一口ごとに泣いてしまわないで、一緒に美味しいケーキを食べましょうね?」
「……………うん。……………ネア、また、……………来年も、一緒にケーキを食べてくれるかい?」
「ええ、また一緒にザハに来ましょうね。こうして、大好きな伴侶と二人で記念日のケーキを食べられるだけで、今日は、特別に素敵な結婚記念日なのですから」
「………虐待された」
「な、なぬ………」
どうやら、ケーキの絵を貰ってから、ディノは心が柔らかくなり過ぎてしまったらしい。
大事なケーキの絵をぎゅっと抱き締めて泣いている魔物はとても綺麗だが、そろそろ、テーブルの上の薔薇が全部結晶化してしまいそうな勢いなので、ネアは、微笑みながらではあるが、お皿の上のケーキを守るべくこっそり薔薇の花を手で押しのけた。
お裾分けした結晶化の薔薇を、グレアムは、ウィームにある家に飾るらしい。
ご友人にもどうぞと言うと、また嬉しそうに笑ってくれたので、ネアは持ち帰り用にザハのケーキ箱に詰めて貰った結晶化した薔薇は、明日会うウィリアムにも分けてあげようとふんすと胸を張る。
「美味しくて素敵な記念日でしたね」
「ネアが、沢山動いてずっと可愛かった……………」
「む、むむぅ……………」
だが、ザハを出ようとすると、誰かが何かの加減が出来なくなったとかで、ウィームは激しい吹雪になっていた。
犯人は恐らく雪の系譜の誰かだろう。
この後はまたゆっくりと街を歩く予定だったので、なんてことをしてくれたのだと肩を落としたネアは、びゅうびゅうと吹き荒ぶ風雪に、真っ白になった街を眺めたのだった。




