199. 呪いのテーブルは安らかです(本編)
そこは、美しい歌劇場であった。
手をかけた繊細な仕事が随所に際立ち、壁灯はオリーブの小枝を模してある。
きらきらと輝く明かりには、どんな結晶石や魔術が使われているのだろう。
ネアは、目を輝かせて周囲を見回しつつ、さり気なく美味しい匂いの出所を探った。
「エーダリアみたいに、あわいの旅行にしても良かったんだけど、僕の妹はまだ守護の再添付が完全じゃないからね。定着を待って、尚且つ時期を見て守護の重ねがけをする予定だから、今回は逃げるよりも隠れる方にしたんだ」
「ふむ。だから、観客しか入れない劇場なのです?」
「うん。おまけにここはあわいで、支配人はアルテアだからね。選択が選択をかけて余分を排除出来る、何重にも囲われた檻の中だと思っていい。ここなら、劇場を出ても祝福の魔術を結ぶ贈り物は難しいけれど、ネアの楽しみにしていたご馳走は、この中で完結出来るから結構沢山食べられるよ。ただ、ケーキだけは意味付けが引っかかるかもしれなくて、別のケーキに切り替えてある」
お祝いのご馳走が食べられると知り、ネアはその場でびょいんと飛び跳ねた。
三つ編みを持ったままだったので、ディノがきゃっとなっている。
だが、ケーキはやはり難しいと知り、うっかり美味しそうなケーキを思い浮かべてしまったせいで、胸がぎゅっと締め付けられてしまう。
「………アルテアさんのケーキは後日食べられるそうですし、リーエンベルクのケーキは、ゼノとほこりが美味しく食べてくれるので、無駄にならなかったと安堵するしかありません。……………ふぎゅ。………ケーキ」
「ありゃ。………そっか、女の子にはケーキは大事だよね。でも、リーエンベルクでもまた美味しいケーキを作ってくれると思うよ」
「ああ。今回の物は、お前にこそ食べさせたかったのだと話していたからな。どこかの機会で、同じようなケーキを作ってくれるのではないだろうか」
「………まぁ、そうなのですか?どこかでまた出会えるのならば、失くしてしまった事にはなりませんね」
エーダリアの言葉に、ケーキについて思いを馳せてまた少し落ち込みかけていたネアは、何とか気持ちを持ち直す事が出来た。
加えて、誕生日の贈り物は、形や機会を変えて暫くしてからこっそり齎されると知ったネアは、やっと全ての憂いを払い、背筋がしゃんと伸びる。
(…………良かった。無駄になってしまう事はないのだわ………)
「………受け取れると知って、とてもほっとしました。強欲な私が、用意して貰った贈り物が一つ残らず欲しいのは勿論なのですが、特別な贈り物が渡されないままどこかにいってしまうのは耐えられません………」
「……ネア、怖かったね」
「むぐ、………そう言えばディノには、渡せなかった贈り物の話をしていたのでした」
「うん」
ネアの言葉にはっとしたように抱き締めてくれたディノには、母親の為に買ってわくわくとクローゼットに隠しておいた贈り物の話をした事がある。
買った時には素晴らしく思えた贈り物は、悲しくて箱を開けられないままずっとクローゼットに入っていて、何年もしてから箱を開けると、そんなに長く箱に入れられていることを想定していなかった繊細な細工はすっかり駄目になってしまっていた。
(贈り物は一つではなかった)
ユーリが贈りたかったであろう贈り物も買っておいたし、父にもこっそりハンカチを買ってあった。
三人で行けたらいいなと、海沿いの街にある陶器の美術館のチケットも買ってあったのに。
そんな楽しくて素敵な贈り物が開かれないまま、もう二度と楽しめないままに、無惨に置き去りにされる。
その悲しさと苦しさを覚えているネアは、誰かがべしゃりと落としてしまったケーキの箱を見るだけでも胸が潰れそうになるのだ。
届かずに潰える幸福の名残りを見るのは辛い。
とても。
とても。
「エーダリア様やノアのお祝いが封じられた時は、何としてもお祝いするのだと頑張るだけでしたが、自分ごとになると、どこかで素敵なものが取り残されていないか、ついつい悲しくなってしまったのです………」
「うん。無駄になるものが一つもないようにしよう。広間に飾る予定だった花は、災い除けのリースにして部屋に飾ってくれるそうだよ」
「………まぁ、リースに?」
「ヒルドがね、手配してくれたんだ」
ディノの言葉にヒルドの方を見ると、美しい森と湖のシーは、優しい微笑みを浮かべた。
災い除けのリースは贈り物ではなく、必要な備品として部屋に届けられるので、美しい花々は無駄にならずにずっと楽しめるのだそうだ。
「祝祭や季節のものではありませんからね。花が枯れるまで、ずっとお手元で楽しんでいただけますよ」
「はい!ヒルドさん、有難うございます」
「僕達からの贈り物だって、ちゃんとネアに届けるからね。安心して、今日は美味しいものを食べようか」
「はい!いただきますです!」
悲しい誕生日ではなく、ここからは、ご馳走も食べられる素敵な誕生日にしてゆけばいい。
すっかり笑顔になったネアを、ノアが突然持ち上げてくれた。
「よいしょ。僕の妹は軽いなぁ」
「にゃふ?!」
「誕生日の昼食会の席まで、お兄ちゃんが運んであげるよ。あまりにも軽いから、回っちゃうぞ!」
「ぎゃ!段差ではなりません!!」
幾重にも遮断された檻の中の劇場では、お誕生日おめでとうという言葉を交わす事は出来る。
贈り物は、持ち帰る際に祝福が壊れてしまうと捨てざるを得なくなるので諦め、その代わりにご馳走はお腹に入れてしまえるのだ。
すり鉢状になっている劇場の階段をゆっくりと降りてゆくと、座席の間の通路を抜ける。
左手に歩いてゆけば一度外の廊下に出るようだ。
「むむ、一度外に出てしまうのですか?」
「うん。客席に入って扉を閉めたことで、魔術の繋ぎがここでも一度切れたからね。目的地は、ロージェなんだ」
「ロージェ………」
「………久し振りに来ると、やはり大きな劇場ですね。舞台にあった黄金の馬車は、もうなくなったんですか?」
「お前がどの演目の時期にこの街にいたのかが分かる質問だな。………まさかとは思うが、あの妖精の首を落としたのはお前か………」
「俺はそちらの趣味はないので、どうしても我慢がならない妖精ならいましたね」
そんなやり取りに、ネアはエーダリアと顔を見合わせ、もしやこの街を奪取した妖精の末路はと思いを巡らせた。
だが、やっと目の合ったエーダリアは、すぐに扉にある無花果の木の彫刻に夢中になってしまう。
ぴたりと立ち止まり蹲りかけたエーダリアを、ヒルドがさっと抱え上げてしまい、ウィーム領主は目元を染めてしまった。
「ヒルド………!」
「そのままにしておくと、あなたは、魔術の細工に夢中になってはぐれそうですからね」
(わ、………)
廊下に出ると、ふくよかな緑色の絨毯の美しさにネアは目を瞠る。
同系色の緑で複雑な模様が織られていて、鈍い黄金の縁取りが、ずしりと重たい意匠を整えていた。
特別に好きな色の組み合わせではないのだが、絶妙な色合わせが素晴らしくて見惚れてしまう。
飴色の壁には花籠とリボンの細工があって、等間隔に並んだシャンデリアは、すり硝子に花の絵付けがある繊細なものだ。
これはと思いちらりと隣の魔物を見てしまったネアに、アルテアは、無言で頭の上にぽふりと手を載せる。
「………綺麗な劇場ですね。外観に玄関ホール、客席にロージェへの廊下と、歩く場所によって印象が変わるのに、つぎはぎの違和感が全くありません。物語の頁を変えながら、全てが一つの本の中にあるという感じがしますね」
「……………そういうところだぞ」
「なぬ?」
「………うーん。どうやら、まさにその演出だったらしいな」
「まぁ、正解なのです?となると、ご褒美にタルトなどを………」
「何でだよ」
辿り着いたロージェの扉には、薔薇のアーチのような細工があった。
だがそれは、ありがちな石材の細工ではなく、温かな風合いに使い込まれた重厚な木の扉の装飾だったので、気取った感じではなく魔術師の工房めいた秘密の扉の雰囲気がある。
扉の取っ手は象牙のような質感の素材だが、象のいないこの世界ではどんな物で出来ているのだろう。
わくわくと期待を高めたネアに凝視されながら、手慣れた様子でアルテアが扉を開けば、そこは、物語の中に出てくる魔法使いのお城のようだった。
「………こ、これは!!」
「まぁ。私より先に、エーダリア様が大興奮でした………」
「やれやれ、あなたは………」
「す、すまない。だが、これは花鉱石の標本なのではないか?世界のどこかに、夜の系譜の花鉱石の標本の部屋があると、昔に読んだ魔術書に書かれていたのだ。………もしかすると、それはここなのではと……」
「ああ。夜の系譜の、結晶化した際に透明度が高く仕上がった花鉱石だけを集めてある。土地に根付かせた魔術基盤に根を下ろさせているからな、ここから動かすのが難しい」
エーダリアは、思いがけずアルテアからの答えを貰ってしまい、目をきらきらにして頷いた。
そんな契約の人間の姿にノアとヒルドが顔を見合わせて微笑み、ネアはむふんと唇の端を持ち上げた。
その部屋は、深みのある赤紫色の絨毯を敷いた素晴らしいロージェであった。
絨毯には繊細な白抜きの模様があり、優美な花籠の表現は儚げな程だ。
壁は木材に釉薬のような塗料を塗り、艶々ざらりとした独特な質感を出してある。
そして、壁一面が泉結晶の飾り棚となっており、一つ一つの硝子扉の向こうに、円筒形の硝子の入れ物に入った花鉱石が収められていた。
ぼうっと光を孕み、或いは、きらきらと輝く花々の美しさは言葉にならない程だ。
こんなにも美しい標本部屋もあるのだと呆然としてしまうくらいだが、それを歌劇場のロージェに使ってあるのも凄い。
つまりのところ、選択の魔物がどれだけの熱意をかけてこの劇場を作り上げたかという事になる。
そのような歌劇場を含むこの街を、住人達の手で妖精に渡されてしまったのだから、その時の失望はかなりのものだったのだろう。
グレアムがかつてのウィームを支えたように、選択の魔物もまた、この街を作り上げる事に心を傾けたのではないだろうか。
あちこちに見られる装飾の本気度に、ネアはそんな事を考えてしまい、それだけの場所が失われた日の事を思った。
(試してみて、思うような結果は出なかった。………そういう事なのかもしれない)
だが、そんな使い魔の過去の心の傷を慮るより、今のネアにはとても大切な事があった。
なんとこのロージェはかなりの広さで、部屋の中央には銀水晶の美しい大テーブルがある。
猫足のような優美なテーブルの足からは鉱石の花が咲いていて、蒲公英の綿毛のような花はちかりと光っていた。
そして、そのテーブルの上には、ネアの大事なお誕生日のご馳走が並んでいた。
一度は失われたと思った、大切なご馳走である。
「じゅるり………」
「君の好きなものを、沢山持って来られたよ。幾つかはアルテアが調理し直してあるし、パイなどはわざと祝いの模様を崩していたり、タルトは既に切り分けてあるけれどね」
「はい!………ローストビーフ様に、まぁ、栗のおかずパイです。……ファンデルツの夜会でいただいた一口タルトも!………ふぁ!!い、無花果のタルトですよ!タル、………ぎゃ?!」
ネアはここで、運搬係なノアから床に下ろして貰った途端にはしゃぎ過ぎて何もないところで躓くという失態を犯し、すかさずアルテアに支えられた。
そろりと見上げると、アルテアの、呆れたような眼差しが向けられる。
「………ったく。鼻がなくなるぞ」
「ふぁい。鼻の命の恩人になってくれて、有難うございます」
「何だそれは………」
いそいそとテーブルに着けば、ぷわんといい匂いがした。
ネアの席は、正面にローストビーフを配置した素晴らしい位置取りだ。
「ローストビーフ様がいます。………そして、そちらのボウルを見る限り、無花果のタルトには、クリームも添えてくれるのですね」
「用意されていたケーキ類が出せなくなってしまいましたので、こちらのタルトは、アルテア様に新たに準備していただきました。たまたま用意があった物が、ネア様のお好きな無花果のタルトだったのだとか」
シュプリを注ぎながらそう教えてくれたヒルドに凛々しく頷き、ネアは、お礼を言って受け取った乾杯のグラスに弾ける細やかな泡を眺める。
「僕は、アルテアが、必ずどこかに無花果のタルトは備蓄してるって説に賭けるよね」
「奇遇だな。俺もだ」
「うむ。アルテアさんのタルトは、無花果とタルト生地が、食べている時に分離しない最高の物なのですよ。お誕生日に相応しい大好きなタルトと言わざるを得ず、その備えには感服するばかりです」
「いいか、無花果だったのは、たまたまだからな」
「良かったね、ネア。これで、ケーキの代わりになるかい?」
「はい!寧ろこのタルトは、そんなケーキの一族なのですよ!」
笑顔で頷いたネアに、ディノは嬉しそうに微笑み、なぜか、そっと膝の上に三つ編みを設置していった。
汚すといけないのでナプキンの下に仕舞ってしまうしかないが、ここで三つ編みを返却しないくらいには、ネアも伴侶とのやり取りに手慣れてきた。
そんな伴侶の魔物は、ノアにじっと見つめられ、途方に暮れたようにふるふると首を横に振っている。
「じゃあ、ここは僕が。………ネア、誕生日おめでとう!」
そんなディノに頷きかけ、グラスを手にお祝いの開始の挨拶をくれたのはノアだ。
ネアは、ぽわぽわとした胸の温かさを感じながら、こちらを見てくれている大事な仲間に笑顔を向ける。
「有難うございます!今日は、お誕生日を封じられた私の為に………おのれ、ふられ精霊め………、こうして素敵な会場の手配をしていただきました。たっぷりお祝いされてしまいますね」
「ありゃ、途中で怨嗟が込められたぞ」
「おめでとう、ネア。この場所も気に入ったようだね」
「はい。内装が、どこをどう取っても素敵なのですよ。舞台があんなに大きいという事は、公演時の舞台のセットなどは、それは壮麗だったのでしょう」
「………さて、どうだったかな」
「ですが今は、このご馳走の為の素敵な舞台と言わざるを得ず………」
「やれやれだな………」
ぐびりと飲んだシュプリは、昨年美味しかった杏のシュプリではないか。
作りたての瑞々しさが美味しいので、この季節にこそ、一番の味を楽しめるものだ。
ネアはそんな最初の一口でもう嬉しくなってしまい、薄く削ぎ切りにした白身魚の花盛りをぱくりといただく。
「むぐ!」
「だが、今日は無事にお祝いが言えて良かったな。今回ばかりは、ノアベルトの機転に感謝しておくか」
「わーお。ウィリアムだって、もっと僕に感謝してもいいんだけど?……………でもまぁ、呪い除けは得意だからね」
「……昨日ディノから貰った指輪を、今日のお祝いでも嵌めておきたかったのですが……」
「やめておけ。折角呪いを逃れた物を、敢えてこの道筋に浸す事もないだろう。今日中は身に付けない方がいい」
「まぁ、そうなのですね。アルテアさんに教えて貰わなければ、帰ってすぐに指に嵌めてしまったかもしれません………」
幸い、大事な指輪は朝食の席ではなく、誕生日会が始まってからお披露目しようと思っていたので、首飾りの金庫に入れたままにしていた。
まだお気に入りの真珠の首飾りもしていなかったが、そちらも念の為に控えておこう。
「今年のディノ様からの贈り物は、どのような指輪だったのですか?」
「ずっと欲しかった物なのです。昨年の真珠の首飾りと揃いになる、一粒真珠の指輪を貰いました。身に付け易い真珠の大きさも含め、こんな物が欲しいのだとディノにお願いしていた物なので、貰えてしまって嬉しくて堪りません……」
「ネアが可愛い………」
「シルハーンの紡ぐ色そのものだから、誕生日にはぴったりだな」
「はい!とても素敵なので、是非、指に嵌めたところも見て下さいね。自慢したくて堪らない宝物になりました。ディノ、あらためて有難うございます!」
「うん。このような事になるとは思っていなかったから、一つでも、君の手に今日の内に渡せた物があって良かった。他の贈り物は、星祭りで願うと良いそうだよ」
「まぁ、星祭りでお願いすればいいのです?」
「そこはさ、僕が魔術の道筋をつけてあるからね!星祭りでどんな屑星に願っても、遅れていた誕生日の贈り物が届くようになるよ」
「はい!」
贈り物が手元に届くのは、思っていたよりも早い段階になりそうだ。
それが嬉しくて椅子の上で小さく弾んだネアは、フォアグフの一口タルトをぱくりと頬張り、きりりと冷えたシュプリとの組み合わせを楽しんだ。
ロージェの中に美しい歌声が届き、おやっと思って振り返ると、舞台の上に、鷺羽の衣装を着たような美しい女性の姿が見えた。
共に歌っているのは燕尾服の男性で、どちらの歌声も伸びやかで情感がある。
体が透き通っているので亡霊かなと思って椅子の上で伸び上がると、ディノが一緒にそちらを見てくれる。
どうやらこのロージェは、会食と公演のどちらも楽しめる造りであるらしい。
なかなかない構造に、どれだけ考え抜かれた建築なのかが、より伝わってきた。
「あのお二人は、亡霊さんなのです?」
「この劇場の記憶のようだね。劇場が記憶に留めたくらい、有名な歌い手だったのかな」
「いい歌い手でしたよ。夫婦で、どちらも魅力的な歌声で、俺が観ることが出来たのは二度きりでしたが」
ウィリアムの言葉に、アルテアが短く頷く。
そんな様子を見ていたエーダリアが、小さく瞬きをした。
「この場所は、………精緻な魔術調整をしてあるのだな。あまり、他者を入れたくなかったのではないか?」
「………いや。そろそろ、空気の入れ替え時だったからな。執着が失せ始めた段階で取り壊す事も考えたが、残しておいたお陰で、こいつの事故に使えた訳だ」
「………むぐ。この、チーズが入ったあつあつミートパイを食べる場として、新しい喜びの形を私に齎しました?」
「ったく。………もう問題ないな?」
苦笑したアルテアの眼差しは、どきりとする程に柔らかく、指先で目元を拭われるような仕草に、ネアはこくりと頷いた。
アルテアがリーエンベルクに駆け付けてくれた時にはまだ、ネアはしくしく泣いていたのだ。
「………取り壊すのなら、私が貰ってもいいのですか?」
「………お前には、必要ないだろうが」
「完全に閉ざされた場所なら、思う存分歌えてしまうのでは……」
「やめろ。苦労して組み上げた魔術構築を、一つ残らず破壊する気か」
「ぐぬぅ………」
「………ふうん。ってことはまだ、ここは壊さないんだね。またネアの誕生日が出来るかもしれないし、ずっと残しておいたら?」
そんな義兄の言葉に、ネアは、もう二度と呪われてなるものかと首を横に振った。
だが、得心気味に笑ったウィリアムの表情からすると、ノアは、アルテアの中に残されたこの土地への執着に理由を与えてあげたのかもしれない。
「これは、何でしょう?色とりどりの粒々が入ったミントグリーンのソースがとても可愛い料理ですね」
「棘豚の香草焼きなのだそうだ。乾燥させた果実を細かく刻んだ、香草バターソースがかけられている」
「絶対にいただきます!」
イブメリアの菓子パンのような可愛い料理は、お肉のしっかりとした味にドライフルーツの甘味がアクセントになった香草ソースがよく合い、素晴らしい美味しさであった。
ネアは、夢中でむぐむぐといただき、その隣にある見慣れないサンドイッチに気付いてかっと目を見開くと、素早く手を伸ばす。
「おい、落ち着いて食え」
「私の見間違いでなければ、このサンドイッチには鴨様が入っています!」
「祝い料理である、樹氷林檎燻製の鴨だったのですが、祝い事の趣きが強過ぎたので、ご相談してアルテア様に作り替えていただきました。恐らく、この味はお好きかと」
「むむ!ヒルドさんのお勧めの言葉で、絶対に食べるのだと決めました。彩りの緑の葉っぱはルッコラでしょうか。………ふぁ、…………鴨です」
「うん。君の好きな鴨がないと思っていたけれど、ここにあったのだね」
「はい。私はとても優秀なので、大事なものは決して見落とさないのです。………あぐ!」
一口頬張り、ネアは、美味しさのあまりに爪先をぱたぱたさせた。
こちらの反応を見て、エーダリアがそろりと手を伸ばしたのは、皮目が美味しそうに見えるからだろう。
お祝い料理の中では浮いた存在だったサンドイッチは、新たな感動と驚きを以ってネアに受け入れられた。
「トーストしたパンに、マーマレードを塗り、塩味のしっかり効いた鴨の燻製の組み合わせです!ルッコラが爽やかに加わり、燻製にされていることで感じられる蒸留酒のようないい香りが、お口にふわりと残るのですよ。……あぐ。………むふぅ」
「可愛い、弾んでる………」
そっと伸ばされた手で頭を撫でられ、ネアは、胸の奥がくしゅんとなった。
ネアの誕生日が封鎖されたと知った際にはひやりとするような怒りを見せていた魔物が、今は、目元を染めて嬉しそうに微笑んでいる。
ヒルドは、新しいシュプリを開けてくれていて、ウィリアムとそんなシュプリの銘柄について話をしているようだ。
(ここは、安全なリーエンベルクではないのだわ。どれだけ遮蔽の中にあるとは言え、立場上、エーダリア様達からは、ここまで来ることは出来ないと言われても仕方なかったのに………)
ウィリアムとアルテアも、忙しい合間を縫っての参加である。
これ以上の時間はかけられないと言われても仕方がないところを、手分けをして、この歌劇場まで連れて来てくれた。
見回した部屋は、檻の中だとは思えない美しさで、贅沢にも、遠い日に魔物達の心すら動かしたに違いない歌声が聞こえてくる。
惜しみなく美しく、そして温かく愛おしい。
そんな思いは、ノアの作った道標を頼りに、ウィリアムがあわいツアーをしてくれていた頃に、この鴨の燻製のサンドイッチを作ってくれていたに違いない、アルテアの姿を思い浮かべれば尚更に。
(ディノはずっとはらはらしていたに違いないし、もしかすると、グレアムさん達にも連絡を取ってくれていたのではないかな)
今年の予定ではグレアムとの合流はなかった筈だが、何となく、ディノはどのような予定を組めばいいのかをグレアムに相談した気がする。
となるときっと、あのディノの事が大好きな犠牲の魔物は、ちょっとばかり余分に気にかけてくれていたりもしかねない。
各所に連絡を入れてくれ、外出の調整をしてくれたエーダリア達は言わずもがな。
会話からすると、ヒルドは、花や料理などが無駄にならないよう、細やかな作戦迄を考えてくれていたのだろう。
「………このサンドイッチは、新しい美味しさとの出会いでした。これは、誕生日会がくしゃりとやられなければ出会えなかったお料理です。………こんなことがあっても、大事な家族と一緒に美味しいものが食べられる私は、とても幸せ者なのですね。そんな素敵な事を実感出来たのが、このお祝いでいただけた最大の贈り物だったのかもしれません」
「…………あ、どうしよう。可愛い」
「ネイ、…………あなたが泣いてどうするんですか」
「だって、今のネアは、僕の方を見て言ってくれたからさ」
「ん?ノアベルトを見ていたか?」
「ノアベルトなんて………」
「むぐ。サンドイッチ様を見ていました………」
テーブルの上の料理がなくなる頃に、お待ちかねの無花果のタルトがやってきた。
添えられた生クリームは、ニワトコの砂糖漬けを乾燥させて砕き入れ、爽やかな香りが食欲をそそる。
ウィリアムに何かを言われて顔を顰めているアルテアと、笑い転げているノアを見ると、ネアは、またしても胸の奥がぎゅわんとなってしまった。
ネア一人が満たされていればいいという訳ではなく、ここにいる大事な人達が、今日を楽しく思える事こそが嬉しいではないか。
「………良かった。君は、今日も幸せそうに笑えているね」
「ふふ。とても幸せです。……でもそれは、ディノが昨晩の内にあの指輪をくれたからなのですよ。ディノが、私が喜ぶだろうと思ってくれて、あの指輪を夜の内に渡してくれていなければ、強欲な私はまだ立ち直れていなかったかもしれませんから」
「………大好きだよ、ネア」
「まぁ。負けませんよ、私だってディノが大好きなのです」
「うん………」
「そして、ここに一緒にいてくれる家族が、とても大好きです」
「沢山浮気した………」
「解せぬ」
お酒が入ってくると、アルテアは、この劇場は一つの土地やそこに暮らす人々に向き合い、手間をかけて心を寄せてみれば、もっと愉快な事が起こるかもしれないと考えて作ったのだと教えてくれた。
その時代の魔物達の流行りであったし、そうする事で思いがけない喜びを得る者達も多かったのだそうだ。
だが、結果としてこの街での施策は、さして愉快な結果を産まなかった。
やはり、鹿角の妖精王はウィリアムに求婚して滅ぼされてしまったらしく、ノアは、この劇場で精霊の女性に刺された事があるのだとか。
歌劇場の記憶に素晴らしい歌声を残した夫妻は、アルテアがこの土地を刈り取る一年前に、妖精王に今後は自分の為だけに歌えと言われたものの、その要求を固辞した結果、忽然と姿を消してしまったという。
「………その後だったかな。…………私が掬い上げなかった人間が、隣国の王子からの求婚を断ったせいで、この歌劇場があった国は滅びてしまった」
「以前に話して貰った、王子様と王女様のお話ですね」
「………うん」
「私の大事な魔物を困らせたので、そやつらについてはぽいです」
「ご主人様!」
しゅわしゅわぱちり。
グラスの中で、細やかな泡が弾ける。
そんなシュプリの煌めきを見ていたら、グラス越しに目が合ったウィリアムが、誕生日おめでとうと、あらためてお祝いを言ってくれた。
ヒルドが、食事を終えた後のおつまみ用にと開けてくれたシュプリは、追憶と雪窓のシュプリで、からりとした冷たい飲み口に、仄かに薔薇の香りがする。
お祝いにならないようにと選ばれた土地の履歴は、こんなにも美しい歌劇場の中にいても僅かに仄暗い。
だがそれこそが、一緒にテーブルのご馳走を囲む魔物達の履歴であり、資質そのものなのだ。
健やかで楽しくわしゃりとするばかりの誕生日とは、一風変わった趣きになったのかもしれないが、ネアは、そんな一面に触れられた事も嬉しかった。
「………もう一切れ、タルトを食べてもいいですか?」
「やれやれだな。今日だけだぞ」
「さてと、アルバンのチーズを出すかな。蜂蜜と雪菓子と組み合わせると美味しいよね」
「な、なぬ。となると、どちらを先にいただけばいいのだ………」
「………あの花鉱石は、幾つか控えがある。ウィームの雪砂糖と交換なら、手持ちの物を譲らないでもないが?」
「いいのか?!」
「……………エーダリア様」
「ヒルド、雪薔薇の花鉱石はとても珍しいのだ。何しろ、殆ど白に近くて、………っ、すまない」
「やれやれ、まったく」
「では、私にはこの歌劇場を……」
「やらないからな」
「ぐぬぅ………」
楽しいお祝いの席の下に重なるように、今もここに閉じ込められている人々がいるのかもしれない。
そんな残酷さも魔物らしさだし、万象の魔物が、死にゆく王女に請われた口付けを断った事も、ディノの選択である。
だからネアは、身勝手で強欲な人間らしい奔放さで、この歌劇場は好きだし今日は楽しい一日だったと結論付けた。
だが、それはそれとして、因果の成就の精霊王は、今度見かけたらカワセミか何かを投げつけようと思う。




