198. 誕生日に届きます(本編)
どこか遠くで、鐘の音が響いたような気がした。
ネアはゆっくりと瞬きをし、唇の端に微笑みを浮かべる。
日付を考えるといつもは寝台ですやすや眠っている夜なのだが、こんな夜もあっていいだろう。
見上げた天井は高く、幾重にも重なるシャンデリアの輪は雪の結晶のようであった。
重なり落ちるヴェールは雪と夜霧の祝福石を紡いだもので、シャンデリアの線描にかかる白いオーロラのようでもある。
ふくよかなおとぎ話の森の香りは、ネアの大好きな魔物の香りだ。
短い時間を共に過ごすのなら、ネアが一番好きだと思うのはノアの香りだろう。
けれども、共に暮らしてゆくことを考えると、やはりディノの香り程に心が解ける香りはないのだった。
深く息を吸い、そんな香りを贅沢に吸い込む。
そうするとまるで、心の端々まで瑞々しい煌めきが宿るようで、ネアはあまりの心地よさにふにゅんと頬を緩めた。
(……………天井にあるシャンデリアの全てに、明かりが入っている訳ではないのだわ)
何度もこの天井を見上げた事があるが、そんな事を今更に考えてしまうのはなぜだろう。
ぽつぽつと入った灯りは夜空に瞬く星のようで、どこからともなく真っ白な花びらが舞い散る。
「……………誕生日おめでとう、ネア」
「ふふ。今年も、一番にディノにお祝いして貰えました」
「うん。……………今夜は、ここで良かったのかい?」
「ええ。お気に入りという意味ではやはり、ディノとの生活を始めて今も暮らしている私達のお部屋が一番なのですが、この、ディノのお城でも誕生日を迎えてみたかったのです」
そう言えば、嬉しそうに微笑んだ魔物がとても綺麗だったので、ネアは、そんな誕生日の過ごし方を思いついた自分を褒め称えたくなる。
(勿論、今の私達が暮らしているのは、リーエンベルクの部屋なのだけれど)
だから多分、この万象の魔物のお城が新しい生活拠点になる事はないだろう。
でもこの美しいお城は、ディノの生家のようなものなのだ。
だからこうして、時々訪れ、共に時間を過ごし、特別な日をここで過ごした思い出を記してゆくのもいい。
いつかのディノが、寂しくて堪らなくならないように。
そして今のネアが、かつての大事な魔物の日々を思えるように。
「考え事かい?」
優しく微笑んだ魔物が、柔らかな口付けを落とす。
その温度に胸の奥を掻き毟られるような気がして、ネアは、えいっと手を伸ばして大事な魔物を抱き締めてしまった。
すると、先程まで優雅なけだもののような顔をしていた魔物が、途端に目元を染めて恥じらってしまう。
「……………ネア、……………ずるい」
「ふふ。誕生日になったばかりの日なので、一番大事なものを抱き締めました。ディノ、私の伴侶になってくれて有難うございます」
「……………うん。ネア、……………あい、……………」
ここで、すっかりへなへなの魔物が首元に顔を埋めてきたので、ネアは、小さく笑ってそんな伴侶を抱き締める。
老獪で酷薄でもある魔物だが、上級の愛情表現はまだ苦手なのだ。
頑張って言おうとしたものの、挫折してくしゃくしゃになってしまったらしい。
「ディノ、大好きですよ」
「……………うん」
「そして、世界で一番、…………愛しています」
「……………虐待した」
「ぷは!……………私も、この告白をするのにとても死力を尽くしたので、ディノは、準備を重ねてまたいつか言って下さいね」
「……………もっと、沢山言ってあげられなくてごめんね」
困ったような悲しい微笑みは、なんてこの魔物に似合うのだろう。
きらきらと光を宿した瞳ははっとする程に心を映していて、魔物らしい微笑みよりもどこか寄る辺ない人ならざるものという感じがする。
(ああ、……………私はこの魔物が好きだな……………)
ディノがこんな風に微笑む度に、ネアは不謹慎ながらに胸がときめいてしまい、そんな自分の身勝手さをうやむやにするべく、悄然としている伴侶をしっかり撫でてやった。
「多分、この言葉は私達には特別過ぎて、沢山言えないくらいの方が私達らしいのでしょう。なので、特別な贈り物として貰えるものにしておきましょうか」
「また、……………必ず言うよ。私がそれを贈るのは、君だけなのだから」
「あら、分かりませんよ?いつか、思わずその言葉を告げたくなってしまうようなとろふわ毛布に出会うかもしれませんし、私も、ディノにそんな言葉を言わせてしまうくらいに、これまでで一番美味しいフレンチトーストが焼ける日もあるかもしれません」
「……………ご主人様」
ネアの言葉に困惑したような目をした魔物は、随分と長く生きてきたけれど、まだそんな風に愛しているという言葉を流用したことはないようだ。
きっとこれから、大好きな物が沢山増えてゆき、もっと沢山心を動かせるようになれば、ちょっと贅沢な使い方も出来るようになるかもしれない。
「ふふ。今の私にとって、ディノが傍にいて当たり前の家族であるように、このままずっと二人で一緒にいたら、この言葉をもっと気軽に使いこなせるようになるのかもしれません。勿論、今の特別さのままでもいいですし、そうして変化してゆくのも楽しいかもしれませんね」
「変わって、…………ゆくものなのだろうか」
「どうなるのかは、ずっと先のお楽しみなので、ずっとずっと先のどこかで、あの時はこんな風に話していたねと今日の話をしましょうね」
「……………うん」
上から覗き込むようにして背中に回された腕でぎゅっと抱き寄せられ、ネアは、少しばかり持ち上がった体に微笑みを深めた。
一般的に魔物の方が種族的に作りは大きいが、竜種と比べて頑強さはあまり表に出ない。
だが、人間より華奢に思える妖精の力強さも含め、彼等はやはり人間とは違うのだ。
だからこそ、安心して抱き締めたり持ち上げたりして貰えるのは、怠惰な人間にとっての恩恵かもしれない。
ぴったりと合わせた体温は涙が出そうなくらいに幸福な温度で、両手を持ち上げて大事な魔物の頬を包む。
「……………そして、私の意識は、もうそう長くは保ちません……………」
「ご主人様……………」
「むぐ。ディノとくっついていて安心してしまったのか、意識の端がぽわぽわしてきました……………」
「では、君への贈り物を渡してしまおうかな」
「まぁ、もう貰ってしまっていいのです?」
少しだけ眠りのカーテンが閉まり始めていたが、ネアは、誕生日の贈り物だと聞いて体を起こした。
ディノは、ネアが半身を起こすのを手伝ってくれて、どこからか取り出した素晴らしい手触りの上着を肩にかけてくれる。
こちらの伴侶は、昔の生活の癖が抜けないネアが、どれだけ安全な場所でも無防備な状態で眠れない事を知っているので、既に素敵な夜着は装着済なのだが、肩が剥き出しなので寒くないようにと気遣ってくれたらしい。
「これを君に」
「まぁ!箱に素敵なリボンがかかっています!」
寝台の上で向かい合って受け取った箱は、淡いピンク色の天鵞絨製だ。
一体型になっている箱の底の部分から伸びたリボンを箱の上で結ぶなんとも可憐な作りで、白みがかったピンクの上品さと、リボンの淡い白灰色の組み合わせが堪らなく繊細であった。
しゅるりとリボンを解いて箱を開けると、そこには、ネアが待ちに待っていた贈り物が入っている。
「……………一粒真珠の指輪です!」
「うん。去年の贈り物と、揃いで使えるようにしてあるよ。……………気に入ったかい?」
「はい。……………この、真珠の台座の部分が葉っぱになっているのが、なんて細やかな装飾で美しいのでしょう。このディノの髪色のような綺麗な真珠が、花の蕾のようにも見えますね」
「君が選んだ大きさにしてあるよ。あまり大きくても、使い勝手が悪いからね」
きりりとしてディノがそんな事を言うのは、ネアが、真珠の大きさについての大事な話をしておいたからである。
昨年の素晴らしい真珠の首飾りな贈り物を経て、今年の誕生日にディノから真珠の指輪を貰えるのは、実はだいぶ前から決まっていたのだ。
生まれ育った世界では、揃いの真珠の装身具を記念日に贈る風習もあるのだと話した際に、ディノが、では来年の贈り物は真珠の指輪にしようと申し出てくれて、ネアは、慌てて一粒真珠がいいことと、大き過ぎる真珠はぶつけてしまいそうで怖いので適切な大きさがあるのだという事を力説しておいた。
「ぴったり、欲しかった大きさです!このくらいの差ならば、首飾りより少し小さめの粒であることも気になりませんし、装飾品に慣れていない私でも、大事な指輪を引っ掛けたりぶつけたりせずに済みます。……………ふぁ、なんて綺麗なのでしょう。寝具に引っ掛けてしまわなければ、つけたまま寝たいくらいですが、とてもとても大事な宝物になったので、渋々箱に戻しますね……………」
「可愛い……………」
そう言ったものの、ネアは、箱に戻した指輪をもう一度取り上げて指に嵌めてしまい、じゃじゃんとディノに見せて、喜びを噛み締めてしまった。
ネアがあまりにも喜んだのでディノまで弱ってしまい、未だに言葉にし尽くせないくらいに美しい万象のお城には、きらきらと虹色の輝きを宿した特別なダイヤモンドダストが降ってしまった。
大きな窓の向こうの夜空にはオーロラがかかり、夜明かりを映した雪の上で、光のビーズのように煌めく。
お気に入りの寝具を持ち込んであるので、枕が合わないことも、見目はいいが落ち着かないすべすべの寝具などで寝かされることもなく、ネアは、お気に入りの毛布に包まって美しい景色と素晴らしい贈り物の余韻に目を閉じる。
目を覚ませばきっと最高の誕生日の朝が待っていて、世界は喜びで満ちている筈だったのだ。
悲しい事や理不尽な事は何もなく、もう、惨めさやひもじさで震える事もない。
そう信じていたから、贅沢な夜の中で目を閉じるのは怖くなかったし、その時はまだ、誕生日の日に誰かを呪うようになるとは思いもしなかった。
例えばそれは、小さな封筒で訪れる。
戻ったリーエンベルクで身支度をして、誕生日の為の素敵なドレスを着て廊下を歩いた後のこと。
すっかり馴染んだテーブルの上に置かれた紺青の綺麗な封筒は、上等な紙だと一目で分かる風合いにざらりとしていて、おまけに、透かしの綺麗な模様が入っていた。
手に取ってくるりと返せば、封をしてあるのは花輪を模したシールで、とても可愛らしかったのだと思う。
透かし模様に隠された小さなサインに唇の端を持ち上げたネアは、そんな封筒に違和感を抱けなかった。
その日はネアの誕生日だった。
お天気はそこまで良くはなく、若干吹雪と言えなくもなかった。
だが、そんな封筒が会食堂の自分の席に置かれていて、そしてその日が誕生日であったのなら、中に入っているのは、誕生日だからこそ送られてきたカードだと思うだろう。
ましてや封筒にあるサインを良く知っていて、それが危害を加えるような名前ではないと考えていたのなら尚更だ。
だが、ネアが、ふむふむと封筒を開いていると、血相を変えたエーダリアが会食堂に飛び込んできた。
おやっと首を傾げた時にはもう、ぺりりとシールを剥してしまっていたと思う。
会食堂の扉に手をかけ、こちらを見たエーダリアが息を切らしている上に蒼白だと気付くと、少しばかり嫌な予感がしたのは確かだ。
それでもネアはまだ、いつものような誕生日が訪れると信じていた。
「その封筒を、開けてしまったのだな……………。すまない、ネア……………」
「む?……………エーダリア様が、がくっとなりました……………」
「それは、……………誕生日祝いならずのカードだ」
「……………ま、まさか、そんな筈はありません。政敵もいない私を、一体誰が呪うと言うのでしょう」
「無差別なのだ……………。すまないネア、私がもっと早く気付いているべきだった……………」
「むさべつ……………」
「ああ。イブメリアの後から、各地で、無差別の祝い事ならずの呪いの手紙が出回っていたらしい。上質な封筒に、花輪の封蝋やシールなどで届くそれは、ウィームでも昨日から報告が上がり始めていたのだ。……………先程、緊急でその対策会議を行ってきたところで、ゼベルからの報告があり、リーエンベルクにもよく似た封筒が届いていると知ったのだ……………」
「で、ですが、封筒の端の透かし模様に、こっそり、リノアールという文字が入っています。きっと、リノアールからのお得意様用カードに違いありません!」
「ネア、……………それは、リノアールが開発した夜明かりの封筒という意味で入れられている文字で、サインではないのだ。送り主が、リノアールの製品を使ったに過ぎない」
「ぎゃふ……………」
あまりにも悲しいお知らせに、ネアは、ぱたりとテーブルに突っ伏した。
何しろ今日は、年に一度しかない誕生日で、美味しいご馳走が沢山食べられる筈だったのだ。
それなのにまさか、この誕生日会を控えた当日の朝に、無差別の呪いの手紙でお祝いを封じられると思うだろうか。
手からぱさりと落ちた封筒は、すかさずエーダリアが魔術封印をしてくれる。
そこに戻ってきたのは、今日の予定などを共有する為にたまたま席を外していたディノとノアで、打ちひしがれてテーブルに顔を伏せているネアに気付いたのか、慌てて駆け寄ってきた。
きっと、ディノかノアのどちらかが一緒にいてくれれば、ネアがこの封筒を開く事はなかったに違いない。
だが、もう手遅れなのだ。
ネアの可動域では、その封筒の中に厄介な呪いが仕込まれている事は見抜きようがなかった。
「ネア、どうしたんだい?どこか痛いのかい?」
「ありゃ、泣いてる?……………シル、どうしよう。ネアが泣いてる……………」
「ネア、……………何か、悲しい事があったのかな……………」
「……………そのだな、……………私が気付くのが間に合わず、祝い事ならずの手紙を開いてしまったのだ」
「……………この子に、誰かがそのようなものを送ってきたのかい?」
勿論ディノは、自分の伴侶がどれだけ誕生日を楽しみにしているのかをよく知っていた。
ふっと翳った日差しに、部屋の温度がぴしりと低くなる。
はっとしたように息を呑んだノアが何かをするよりも早く、めそめそしていたネアは、勢いよく立ち上がると、冷ややかな目をした魔物の頬に問答無用で口付けてしまった。
「……………虐待した」
「ディノ、私の為に怒ってくれるのはとても嬉しいのですが、ここにいるのは、ノアやエーダリア様なので、どうか心を落ち着けて下さいね。……………くすん。……………このお手紙は、どうやら無差別で送られてくるようなのですよ」
「……………君宛てではなかったのかい?」
「む。……………そう言えば、テーブルの私のいつもの席にあったのですから、無差別ながらにも私宛になっていたという事なのでしょうか?」
「でも、宛名はないよね。エーダリア、ちょっと見せて」
「ああ。……………この場合は、送り主の固有魔術が、祝い事を控えた者に強制的にカードや手紙を届けてしまうらしい。受け取った者や見かけた者が、なぜかその人物宛てだと思い込むのだそうだ」
「……………そのような魔術付与を可能とする者は、そう多くはない筈だね」
「送り主ははっきりしていて、因果を司る高位の精霊なのだ。………どうも、イブメリアに失恋したようで……………」
そうして語られたのは、あまりにも身勝手な、無差別お祝いならず事件であった。
震えるネアはディノの膝の上に持ち上げられ、伴侶の腕にしっかり守られながら、その事件のあらましを聞かされた。
「えーとつまり、イブメリアに失恋した馬鹿な精霊が、幸せそうだと決めつけた人間がいそうなところに、片っ端からこの手紙を送ってるって訳?」
「ああ。ここもそうだが、複数名が在籍している場所を狙う周到さだ。封筒の花輪の意匠に因果の成就の魔術を仕掛けてあり、届いた先でその魔術の祝福が、手紙を必ず標的に届ける因果になっている」
「あ、僕、犯人が分かった……………」
「…………ネアが受け取ってしまった封筒も、リーエンベルクに届いた後で、郵便物の仕分けをしていた騎士が送付者不明で確認作業に回していたのだが、封印迄はしていなかったことで、どうやってか回収箱から零れ落ち、この会食堂に届いてしまった」
「……………ふぎゅ。もしや、自分で勝手に届いてくるやつなのですか?」
「因果の成就の魔術だからね。この封筒にかけられている魔術は、因果の成就の祝福なんだよね。……………うーん、よりにもよって祝福か。かなり陰険だぞ…………。エーダリア、その手紙は、ウィームで配られているのかい?」
「それがどうも、世界各地の大きな都市で配られているらしい」
「わーお。物凄く迷惑なんだけど……………」
恐らく、この手紙の送り主は、因果の成就の精霊王なのだろう。
なまじ階位が高いのでその手紙は大きな力を持ってしまい、土地の封筒やカードを使うので怪しまれずに開いてしまう者達が多いという周到さだ。
人間を標的にしているので、失恋相手は人間だったことが予測される。
「私は、そやつを殺せばいいのですね……………」
「ネア、落ち着こうか!確かに今回は殺したい案件だけど、不特定多数相手だから、これ以上は関わらない方がいいよ。何しろ因果の成就だからね。……………下手に関わった方が、余計な不幸を招き入れかねない」
「……………ぎゅわ。復讐も出来ないのですか?」
じわっと涙目になったネアを見て、ディノは慌ててしまったのか、どこからか取り出した使い魔印のギモーブをお口に押し込んでくれた。
甘酸っぱさと香りから、木苺味に違いないとネアは短く頷く。
「あの精霊の持つ祝福や資質を思うと、特に今は、手を出さない方がいいだろう。この手紙を受け取った事で出来た魔術の繋ぎは切っておくけれど、精神が不安定な状態であるからこそ、このような事をしたのだからね。……………夏至祭で出会ったときのように、対面しての交渉や対話が可能であればいいのだけれど、もし、一時的にでも正気を失っているのであれば、障りを受けると良くない精霊の一人になる」
「うんうん。特に今はさ、この手紙を受け取ったってことは、ネアが、あいつが呪いたいくらいに幸せだったって知らしめるようなものだからね」
「ぐるる……………」
悲しく唸ったネアは、心の中から、幸せに弾んでいたきらきらしたものが、穴の開いた風船の中の空気のように抜けてしまう気がした。
どうしても眉がへにゃりとなってしまうのは、今日のお祝いの料理がどれも素晴らしいに違いないと知っている事と、強欲な人間は、自分が貰える筈だった誕生日の贈り物を一つだって失いたくなかったからだ。
「ええと、シルからの贈り物はもう受け取ってるよね?」
「……………ふぁい。これで、楽しみにしていたディノからの贈り物も受け取れていなかったのなら、私は憤死しました」
「ネアは死なない……………」
「……………わーお。すぐにお兄ちゃんが代替え案を出すから、ちょっとだけ我慢してね」
「ぎゅ……………ぐるるる」
ネアが悲しみのあまりに唸り続けている間に、エーダリアは慌てて厨房に向かい、料理人達と料理やお祝いのケーキなどをどうするのか相談してきてくれた。
手分けをしたヒルドが、各方面へも連絡してくれる。
それはとても必要な措置であったが、ネアからしてみれば、大事な大事な誕生日の、ご馳走とケーキとお祝いなので、胸が張り裂けそうであった。
お祝いに来てくれる予定のウィリアムやアルテアには、ノアがカードを借りてゆき、本日の予定をどうするべきかも含め、連絡してくれるそうだ。
「今日は、どうしてもまた行きたい、あの星の劇場に連れていって貰う予定だったのですよ。二度目なので一般のお客様に混じっての鑑賞予定でしたから、昨年とは違う楽しさだろうとわくわくしていました。……………ぎゅ」
「あの劇場には、また連れていってあげるよ。年内のどこかで、席が空いているかどうか確認しておこうか?」
「……………ふぎゅ。この時期は本来であればとても混んでいるそうですので、もう空いていないかもしれません。年明けでもいいので、無理をせずお席が空いている日に、一緒に行ってくれますか?」
「勿論だよ。去年の誕生日とは違う星空の上映のある日で、席を押さえておこう」
「ふぁい。……………ぎゅむ……………わたしの、おたんじょうび……………」
「ネア、……………」
考えれば考える程、失った物はとても鮮明になる。
ああすれば良かっただとか、あの時はまだ幸せだったと、どうしてだか人間は、失った物の事の方が想像力が豊かになってしまうのだ。
(もし、私が大魔術師だったなら……………)
ネアはきっとこんな封筒の仕掛けにはすぐに気付いただろうし、指先一本で精霊王焼きにして、焼き物が大好きなほこりにあげたかもしれない。
けれども実際にはネアの可動域は上品過ぎ、何とか飛蝗を滅ぼせるくらいだった。
一報を受けて、ウィリアムとアルテアが予定より早い時間にリーエンベルクに駆け付けた時には、ネアはすっかりくしゃくしゃになって、ディノの膝の上で荒んだ目をしていた。
ほこりにはゼノーシュが連絡を入れてくれ、ネアの為に用意してあったリーエンベルクのケーキは、ゼノーシュとほこりが引き受けてくれて、半分ずつ食べてくれる事になったらしい。
お祝い訪問になってしまうといけないからと、ほこりのお城でお茶の時間を設けて会う事にしたのだと聞けば、可愛い雛玉に会えなかった憎しみも募る。
「……………ほこりにも、久し振りに会う予定だったのです。えぐ」
「またすぐに会えるよう、調整しておいてあげるよ」
「……………ったく。お前らしいと言えばらしいがな」
そう肩を竦めたアルテアを見上げ、ネアはぐすぐすと鼻を鳴らした。
当たり前だが、誕生日の為に作っておいてくれたであろうケーキを持っている様子はない。
「……………アルテアさんのケーキも、他の誰かに食べられてしまうのですか?」
「今日は無理だが、数日置いてから、魔術の繋ぎを切って食わせてやる。あわいの土壌が必要だが、お前の持っている厨房でも、あの屋敷でも問題ないだろう」
「……………ケキ……………」
「言えてないからな」
「やれやれ。あちこちで起きている騒ぎが、まさかネアにも降りかかるとはな……………」
「ふにゅ。……………騒ぎになっているのです?」
「ああ。一人でも多く、カードを受け取る者が出るように、標的となる人間が多いと考えた場所に送り付けているんだ。結果的に、一般的な幸福を享受していそうな者達が多く集まるだろうと考えられ、祝い事も多い王宮などの送付先が多くなる。中には、祝典などを封じられた場所もあるようだからな」
そう教えてくれたウィリアムは、何を気にしているのだろう。
さかんにノアと視線で会話しているので、ネアはまだ涙で濡れている目を瞬き、そんな様子を凝視する。
(……………きっと、ノアやエーダリア様の時のように、回避措置を取れば、それなりに素敵な日になる筈だから……………)
何しろここには、世界の中でも指折りの魔術の専門家にも等しい、高位の人外者達が集まっているのだ。
目をきらきらさせて、そんな魔物達の救済を待っていたネアは、次の瞬間、にっこり微笑んだウィリアムの手でひょいっと小脇に抱えられた。
「ぎゃむ!!……………な、なぜ、小麦袋持ちなのですか?」
「すまないな、ネア。少しだけ我慢してくれ。祝いにならないような運び方が必要らしい」
「ぐ、ぐぬぅ……………。しかし、この場合はやむを得ません!」
「ではシルハーン、少しネアを借りますね」
「……………うん。この子を頼むよ」
「ええ」
かくしてネアは、終焉の魔物の手によってリーエンベルクから連れ去られ、薄闇の転移を何回か踏んだと思う。
嵐の夜の帆船の甲板があり、大きな火を囲む夏至祭の祭りがあった。
小麦袋な抱えられ方だが、周囲の風景は見えるように体が折曲がらないようにしてくれていたので、ネアはそんな不思議な光景を見つめ、目を丸くする。
美しい薔薇の咲き誇る庭園は、霞がかった光景からすると随分と高い山の上にあるようだ。
差し込む朝日に雲海が広がり、また風景が変わる。
「……………ほわ、」
その次に訪れた眩い程の星が降る夜の中を歩けば、しゃりしゃりと星の降る音が聞こえてきた。
ウィリアムの肩や髪の毛にも、細やかな星が当たって、より小さな光の粒子になって砕けてゆく。
星が落ちる地面には菫色の花が満開になっていて、ヴェールのように波打つ星の雨が降り注ぐ度、そんな花畑が何度も明るくなる。
「ここは、どこなのですか?」
そう問いかけたネアに、ウィリアムがくすりと笑う気配がした。
何しろ小麦袋持ちなので、ウィリアムの顔はよく見えないのだ。
「さて、どこなんだろうな。今回の目的地は経路が複雑で、ノアベルトが魔術の手順書で指定した経路を辿っているだけなんだ」
「ノアが……………」
「目的地は、あわいの中に隔離された劇場になる。遠い昔に、選択の魔物の障りを受けて世界の地表から消えた場所だから、お世辞にも祝いの場とは言い難いだろう。贅を尽くして建てられた美しい劇場だったが、残念だ」
(あちこちを経由して目的地に向かっているのは、多分、私の為なのだろう……………)
何となくだがそんな気がして、ネアは、次の経由地でもまた目を丸くした。
青と紫紺に滲む美しい色相のその場所は、駅舎の向こうが水に沈んでいて、見た事もないような水晶細工の魚のようなものが悠々と泳いでいる。
住人たちは色とりどりの傘をさして歩いていて、時々、空の上に浮かぶ月から、誰かがざばんと大きな水桶で青い水を流しいれてゆくのだ。
(……………何て不思議なところだろう!)
目的地があわいなら、ここもあわいなのかもしれない。
その次に降り立ったのは雪の森の中にある小さな集落で、もふもふとした小さな狐たちが暮らしていた。
小麦色のふかふかの毛並みに可愛らしい緑のエプロンをつけていて、装いからすると職人なのかもしれない。
狐温泉のいい匂いがしたので、もしや、この集落であの温泉で取り扱いのある石鹸を作っているのではと考えたところで、また視界が切り替わった。
空気の分厚さが変わり、濃密な森の香りが鼻孔に届く。
「……………もう着いたぞ。下ろすから、転ばないようにな」
「はい。……………ふぁ、……………ここに、劇場があるのですか?」
「ああ。奇妙な様相だろう。劇場そのものはもう少し奥だから、外周の庭だとでも思えばいい」
ノアが経由地に考えてくれた沢山の不思議で美しい場所を越え、ネアが立っているのは深い森であった。
ごつごつとした節のある大きな木々は、どちらかと言えば、悪い魔法使いの出て来る森に相応しい排他的な森の様相である。
だが、木々の枝に育った結晶や、山椒によく似た木の宝石のような黒い実には、華美ではない美しさがあって、思わず見惚れてしまう。
咲いている花々は、鈴蘭や百合などが多いようだ。
こちらの世界では様々な品種があり、魔術の豊かな土地では見かける機会の多い薔薇の代わりに、ニワトコによく似た花を咲かせる大きな木がそこかしこにあった。
よく見れば一つ残さず結晶化している小さな白い花たちは、どれだけの魔術を宿しているのだろう。
小さな明かりが重なって森をぼうっと照らしているようで、ネアは、ここもまた違うおとぎ話の森であると、見知らぬ森を眺めて唇の端を持ち上げる。
「ウィームの森とはまるで違う、けれども、この場所なりの特別さや美しさがあるところですね」
「アルテアから魔術承認を受けている俺や、アルテアの守護を持っているネアでなければ、災いの森なんだろう。だが、……………得てして、身を滅ぼす物は美しいと言われるからな」
「まぁ。……………本来は、怖い場所なのですね……………」
そんな森を少し歩けば、木の葉の重なったふかふかとした地面に、ぽつぽつと石畳の部分が混ざり始める。
苔むした石畳は元は砂色だったのだろう。
やがてそこに、くすんだ色の明かりを湛える街灯が現れ、人影もなく明かりの灯った宝石店が現れた。
いつの間にか周囲には壮麗な街並が広がり、見回せば、大きな都市の街の一角だけがこの森の中に移植されているようだ。
「この森が檻で、障りを受けた区画だけを中に入れてあると聞いている。魔術の階層が違うので出会う事はないだろうが、住人達もずっとここに閉じ込められているのかもしれないな」
「階層が違うのですか?」
「ああ。今回アルテアが開いたのは、このあわいの中でも、比較的表層の部分なんだ。蓄えられたあわいは、魔術的な地層が出来ている事も多くて、どの階層を訪れるかによって見え方が違う。本来の状態に近い場所が表層に近く、例えばここなら、街の人々の暮らしが普通に続いているどこかがあれば、相当な深層にあたると考えるといい」
「……………壊れていたり歪んでいたりしても、気付かないくらいに深い場所という事なのですね」
ネアのその言葉に、ウィリアムは短く頷いた。
自然派生のあわいではなく、アルテアが作り上げた箱庭のようなものなので、死者達を管理する終焉の魔物にとってはあまり望ましくない土地だと言うが、人為的な囲いの中であるからこそ、この場所の魔術遮蔽度はかなり高い。
「目的地は劇場なんだ。門番代わりの精霊がいて、受付があるが、怖がらないでくれ」
「なぬ。受付という事は、チケットを買ったりもするのでしょうか……………」
「今日は貸し切りだからな。チケットはアルテアから預かっている」
「ど、どうしましょう。ここはちょっぴり怖い場所かもしれないのですが、わくわくしてきてしまいました!」
足踏みしたネアがそう告白すれば、ふっと微笑みを深めたウィリアムが、大きな手で頭を撫でてくれた。
ウィリアムはいつもの軍服なのでケープを羽織っているが、ネアは、コートを着ていなくても寒くはないくらいの気温である。
だが、街の区画の部分には雪が積もっていて、大きな飾り木が広場の方に見えるという事は、祝祭の季節に隔離された場所なのだろう。
さくりと雪を踏んでも冷たくないところが、切り取られて入れ物だけになった場所という感覚を強めていた。
「温度がないので、まるで、舞台のセットのようです」
「ああ、ネアはそう感じるのか。……………俺には、生き物の亡骸のように感じられる」
「む……………可動域は上品なだけなのですよ?」
「はは、そうじゃないさ。俺は終焉だから、そのような部分を汲み取り易いんだろう」
ネアが小さな声で訴えると、こちらを見たウィリアムがくすりと笑う。伸ばされた手でひょいと抱き上げ、なぜか一度振り回してから、淡い口付けを落とされた。
「…………こういう場所だからな。安全の為に」
「……………ふふ。有難うございます」
でもそれはきっと、ウィームでの誕生祝いの儀式に重ねてくれたのだ。
危険な場所に連れてきて、身の安全を図る為に守護を重ねるくらいでは、やはりまだ誕生日のお祝いとは言いようもない。
ちゃんと、お祝いならずの法則を守りつつ、ネアが得る筈だったものを与えてくれたのだろう。
「さてと、ここだな」
「ほわ……………」
大きな劇場の前で立ち止まり、ネアは小さく息を呑んだ。
最高位に近しい魔物にさえ、見事だったと言わせるくらいなのだ。
そう思って心を備えてはいたものの、こうして実物を見れば、なんと美しい劇場なのだろう。
石造りの劇場の美しさは、使われている灰色がかった琥珀のような色合いの石材も勿論であるが、建築意匠の素晴らしさも感嘆するしかない程であった。
花枝と楽器に妖精達を表したモチーフを、そこかしこに散りばめてある。
であればこの土地は、妖精の加護が厚いところだったのかもしれない。
そんな事を考えながら奥に進めば、チケット売り場の窓にはカーテンがかかっていたが、歌劇場の入り口には不思議な生き物がいた。
牡鹿の頭蓋骨のような頭部を持つ背の高い異形が、そんな容貌に不似合いなくらいに繊細な手を伸ばし、ウィリアムが差し出したチケットの半券を千切ってくれる。
白い手袋に包まれた手は女性のような美しさだったが、服装からすると男性なのだろう。
系譜の誰かなのかなと首を傾げていると、ウィリアムが、この劇場の番人として作られた人造精霊なのだと教えてくれた。
「アルテアが作ったものだから、ネアに危害を加える事はないからな」
「……………アルテアさんが作った、精霊さんなのですね」
「ああ。あの形は、このあわいに合わせての事だろうな。かつてここには、牡鹿の角を持つ一人の妖精王がいて、アルテアが手をかけて育てた街を奪おうとしたんだ」
それは、鹿角の聖女の信仰が人間の文化圏で広がりつつあった時代だったという。
同じような鹿角を持つ妖精王は、人間達の目にはさぞかし神々しく映ったに違いない。
「悪いのはそやつなのに、この街も切り取られてしまったのですか?」
「アルテアの場合、自分が管理者である事を表に出すのは好まない。そんな噂も聞かなかったから、恐らく、表面的には人間が治めているという事になっていたんだろう。だからこの地に暮らす人間達は、街の管理者が高位の魔物だとは知らないまま、妖精王の差し出した対価に目が眩んで、街の権利を渡してしまった」
「…………ふむ。その結果、檻の中に入れられてしまったのですね」
玄関ホールに飾られた大きな花瓶にふんだんに生けられた薔薇は、だからといって、アルテアの色という訳ではなかった。
繊細なアプリコットカラーの薔薇は瑞々しく、一緒に生けた水色の花が、野の花のような柔らかな印象で、豪奢なだけではない清涼さを添えている。
「……………それでも、このお花の生け方は、アルテアさんの趣味という感じがします」
「だってさ、アルテア」
「…………俺の屋敷にも何度か来ているからな。見慣れたんだろうよ」
「ありゃ、嬉しいのに素直じゃないぞ」
「………ネア、もう大丈夫だよ。この中であれば、持ち帰る物は得られないけれど祝福は阻害されないからね」
「ディノ!そして、エーダリア様とヒルドさんもいます!……………皆さんは、もうこちらで待っていてくれたのですね」
客席に入る扉を開けば、そこにはネアの大事な家族がいた。
こっくりとした青色の天鵞絨張りの座席を見れば、これだけの劇場を作り上げた街がどれだけ裕福だったのかが一目で分かる。
優美な細工の椅子に、息を呑む程に美しい花枝を模したシャンデリア。
ネアには、この街を育んだ魔物がどこまでを手掛けたのかが何となく見えてしまう気がして、それだけの物が失われた時には落胆したのだろうかと考えた。
「アルテアさんが、この場所を提供して下さったのですね」
「あのままにしておけば、お前が、何をしでかすか分からなかったからな」
「むぅ。それは否定しきれませんので、こんなに素敵な場所を訪れられた事を素直に喜んでしまいますね」
「……………お前は、やはりそうなのか」
「む?」
アルテアが瞳を瞠り、そんな事を呟く。
赤紫色の瞳が揺れたような気がして首を傾げると、にんまり微笑んだノアが説明してくれた。
「アルテアはさ、僕が幾つかの候補地の中からここを選んだら、ネアは嫌がるだろうって言うんだよね。まぁ、履歴が履歴だし明るい雰囲気って訳じゃないからね。でも、魔術的には入場制限のかけられる劇場程に安全なところもないし、僕が、ネアはきっとこういう場所も気に入るよって説得したんだ」
「まぁ。こんなに美しい劇場ですし、…………履歴は多少複雑ですが、ここは、アルテアさんの持ち物なのでしょう?」
「……………この節操なしめ」
「むぅ。なぜ貶されたのか謎めいています。……………そして、エーダリア様も、珍しい魔術があるのか目がきらきらですからね」
「やれやれ、この方は……………」
ネアのそんな指摘に、エーダリアは、はっとして視線をこちらに戻す。
だが、シャンデリアに光を蓄える魔術が気になって仕方ないようで、どうしても頭上が気になってしまっていて、呆れたようにヒルドが額に手を当てていた。
「僕の家族なんだ。このくらい大丈夫だよ」
「お前の家族だからというよりも、俺との契約があるからだろ」
「おっと、ネアが持っている契約は、アルテアとのものだけじゃありませんよ」
「ネア、三つ編みを持っておいで」
「むぅ。怖くはないのですが、とても落ち込んでしまい、ディノにも心配をかけてしまったので、三つ編みをぎゅっとしますね」
「ノアベルト、地図を返しておくぞ。誘導魔術に引っ張られると、うっかりまたここに迷い込みかねないからな」
「普段は道を閉じてある。今は、工房として使っているからな」
わいわいとしたやり取りの中で、ネアは、心配そうにこちらを見たディノに微笑んだ。
楽しみにしていた誕生日とはだいぶ違う一日になりそうだし、どうやら、新たに誕生日の贈り物を受け取る事は出来ないようだ。
けれどもここには家族や大事な仲間がいて、みんなで楽しく過ごせるのなら、いつだってそれは最上級のお祝いに違いない。
そして勿論、この鋭敏な人間は気付いていたのである。
どこからか漂う美味しい香りは、劇場内に、ご馳走が用意されているからに違いない。
美味しいものが食べられるのであれば、それはもうお祝い以外の何物でもなかった。
「……………じゅるり」
「お前は、食い気だけでどうにかなりそうだな……………」
呆れたように溜め息を吐いた使い魔は、たいそうなお料理上手でもあるのだ。




