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祝祭の足跡と人命救助




にゃむにゃむと素敵な眠りを噛み締め、ネアは目を開いた。


薄らとした意識の向こうには清廉なウィームの雪景色が広がっていて、青白い夜明けの光と共に禁足地の向こうまでを見通せる。


もう少しだけ目を開いて、おやカーテンを閉め忘れたのかなと思えば、そう言えば昨晩は、美しい夜の光から祝祭の煌めきが失われてゆくのが寂しくて、ずっとウィームの夜を見ていたのだと思い出す。


どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。



(……………ディノは、)



こんな朝に、真っ先に探すのは大事な伴侶である。

幸いにもディノは隣ですやすやと眠っていて、流れるような真珠色の髪が、冬空の朝の光にきらきらと輝いていた。 


なんて綺麗なのだろうと手を伸ばそうとしたネアは、ぎしりと痛んだ体にふぎゃっと悲鳴を上げる。



「……………ネア?」

「ぐぎぎ……………き、きんにくつうです……………おのれ、私は橇食いに呑み込まれてはいないのに……………」

「ネアは、いつも筋肉痛になってしまうのだよね」

「ぐぬぅ。思い返してみれば、そうなのでした。……………ディノ、この痛みをぽいして下さい」

「おや、ではこちらにおいで」

「……………にゃむ?」



ふっと微笑んだ魔物の表情は、ぞくりとする程に美しかった。


ぎくりとしたネアはじたばたしたが、体の節々がぎしぎしと痛むこの状態では、もはや脱走する力は残されていなかったようだ。


すぐさま魔物の腕の中に捕獲されてしまい、あわあわしている頬に口付けを一つ落とされた。

さらりと落ちてきた髪の毛のヴェールに、まるで魔物の檻に閉じ込められているような気分になる。



「可愛い………」

「き、きんにくつうをいやすだけなのですよ……………?」

「うん。そうだね、………君は私の伴侶なのだから、困った症状が残らないようにしよう」

「お、おかしいです。なぜ素肌に触れる必要があるのですか?」

「困ったご主人様だね。触れないと、丁寧に治せないだろう?」

「罠です……………わにゃ……………にゃふん」



ちょっぴり悪い魔物に触れ合いを深められ、ネアは、はっと息を呑んだ。


何しろカーテンが開けたままであるので、そちらを封じない事には、まだ息絶える訳にはいかない。

あの窓から誰かが覗いてくることは然う然うないだろうが、庭や森に暮らす毛玉妖精や栗鼠妖精のようなちびこい生き物達は、窓の近くまでやって来る事があるのだ。



「ディノ、せめてカーテンを閉めて下さい。……………そ、その、……………恥ずかしいので」

「……………そうだね」


三つ編みは解いてしまっているのでと真珠色の長い髪の毛を掴みながらそう言えば、おやっと眉を持ち上げたディノは、唇の端で淡く微笑んだ。


すぐさまカーテンがしゃっと閉められてほっとしたが、今の不思議な魔術はちょっと気になるぞと、ネアは目を瞠ってしまう。



「まるで、手で閉めたような具合なのですね。となると、寝転がったまま物を取ったりするのにも使えるのですか?」

「……………ネア?」

「……………にゃむ」


うっかり気が逸れてしまった伴侶を咎めるような眼差しは、まだまだ伴侶のお作法については経験値が低い人間が、ぎゃっとなって滅んでしまいそうな凄艶さであった。


どこか詰るような表情をした魔物らしい排他的な美貌で、カーテンを閉めた薄暗い部屋の中で、光を孕んだ眼差しはどきりとするくらいに深い。


だが、このままどうにかなる前に、本当に筋肉痛の解消はなされるのだろうか。

そう考えた人間が慄いていると、どこか遠くでぎゃーっという悲鳴が聞こえた。



「……………ノアベルトかな」

「ノアの声でしたね……………」

「特に外的な要因が加わったようには思えないから、昨晩の橇食いの魔術付与かな」

「……………そう言えば、筋肉痛になる予定なノアでした。………起き抜けに、痛みに気付いてしまったのかもしれません」



ディノは少しだけ困ったように微笑み、そわそわと視線を彷徨わせた伴侶に、深く罪深い口付けを一つ落とす。


それだけでしゅわんと心の体力が溶け出してしまったネアの頭をそっと撫で、長い髪を片手で掻き寄せてゆっくりと体を起こした。


こんな時は、いつものもじもじしている大型犬な魔物ではなく、長命で高位な魔物らしい眼差しを見ることが出来て、ネアは、人間には宿らない色彩や表情の重さに心を震わせてしまうのだ。


長い睫毛の影を落とした横顔には、やれやれという呆れの色はなく、声の聞こえてきた方向に意識を向け、真摯に塩の魔物を案じている様子はどこか静謐でもあった。


優しい魔物なのだと思えば、ネアは、誇らしさに胸がほこほこになる。



「……………助けに行った方がいいのかな」

「……………ふにゃむ。……………魔物さんは、きっと、あまり筋肉痛にはならないのですよね?」

「うん。私はなった事がないから、ノアベルトもそうなのだと思うよ。彼は、苦痛や不快感を好まないからね」

「であれば、救助に行った方が良さそうです。すぐさま治してしまえるのであればいいのですが、初めての事だと、きっと、なぜこんなにも体が痛くて、どうしたら少しでも楽になれるのかが、一人では分からないでしょうから。……………む、筋肉痛が消えています」



気付けば、先程までの体の痛みや疲労感は、綺麗に消えていた。


ネアは、ぱっと顔を輝かせてディノを見上げ、治してあるよと微笑んだ伴侶に心から感謝する。

橇食いに呑み込まれてもいないのに筋肉痛を体験してしまったのは遺憾であったが、あの巨大毛皮尻尾に追いかけられていたので、橇に乗っている間中、ぎゅっと体に力を入れていたのが敗因なのだろう。


木々の間や雪の積もった岩の割れ目などを、橇がびゅんと滑り抜ける瞬間が怖くて、どうしても一生懸命踏ん張ってしまうのだ。



「……………む、むぬ」

「ネア?」

「筋肉痛が治ってすっきりしたかと思ったのですが、なぜか、吸い込まれそうなくらいの眠気を感じます」

「…………体の苦痛を取り除く際に、君から何か対価を取ったつもりはないから、少し妙だね……………」

「ぐらぐらします。……………ふぁ、このまま毛布の中に頭を突っ込んで、お昼くらいまで眠っていたいくらいに眠いので、効果的な対処法として一度目を閉じてみますね」

「目を閉じてしまうのかい?」

「決して、眠いからではないのですよ。……………ぐぅ」



こんな時、人間はとても無力なものだ。


自分自身に、これは誘惑に負けるのではなく、ちょっとした確認作業の為に目を閉じてみるだけのことなのだと言い聞かせてしまったネアは、あっさり眠りの国に誘われてしまう。

すとんと落ちたその先はとても安らかで、うっとりとしたまま、眠りの器の中に体を横たえた。



「君は、部屋で待っているかい?」

「む?!……………むぐぬ。……………危うく眠ってしまうところでした。一緒にノアを助けに行きましょう」

「うん。では、持ち上げてあげるよ」

「ふむ。未だに眠たくてふらふらするので、その対応は吝かではありません」



まだ眠たくて体に力が入らないネアを、ディノは、軽々と抱き上げてくれる。

おや最近はこんなことが別の場面でもあったなと思い、ネアは眠たい目をこしこしと擦った。


甘えてしまうのもいいのだが、これから向かう先には要救助者がいるのだから、今日くらいはしゃんとしていよう。

あまり人命救助に慣れていない魔物に、負担をかけ過ぎたくはない。



「そのまま、もたれておいで。……………魔術付与という程のものではないけれど、昨晩現れた生き物の領域に近付いた事が原因かもしれないね。君は、ノアベルトと兄妹になっているし、アルテアとの契約もある。筋肉痛という条件のどこかで、あちらの魔術と結びかけていたのだろう」

「…………お、おのれ。お休みの日の前の夜に現れると素敵なやつですが、起きるべき朝にはやめるのだ……………」



部屋を出ると、温度や色相ががらりと変わる。



(……………朝だわ)



こんな日は、部屋を出てみたところで意外にも夜明け前だったというような展開を期待してしまうのだが、残念なことに、しっかり夜明けを迎えていた。

淡い薄水色の夜明けの光が差し込むリーエンベルクの廊下は、天井が高いせいか窓より上の部分には、まだ夜の名残りの色が取り残されている。


清廉な空気は夜明け特有の澄み切った味わいで、昨日まで感じられた祝祭の気配はもう消えていた。

何がという訳ではないが、魔術可動域の低いネアにも、その要素を整えていた何かが失われたと分かってしまうのだ。



目指すノアの部屋は、ネア達の部屋のある棟で、廊下一本で繋がっている。

異変があれば素早い行き来が出来るようにしてあるからなのだが、ネアが眠たくなってしまったりしていたので、少しお待たせしてしまったようだ。



漸く辿り着いた部屋の前に立てば、しんと静まり返った部屋からは、先程の悲鳴の理由は窺い知れない。

あまりにも静かなので、もしやもう手遅れなのではという不安が過ぎったものの、ディノが落ち着いてくれているので、きっとまだ大丈夫だろう。


魔術施錠は外されており、ネア達はそっと部屋に入り、床にうつ伏せで倒れているノアを発見した。


力なく投げ出された片手が、まるで事件現場のような凄惨さであるが、恐らくはただの筋肉痛である。

それでも、高位の美しい生き物がこんなにも無防備に倒れている姿は、胸が締め付けられるような悲しさであった。



「……………ノア、死んでしまっていませんか?」

「まだ生きているけど、……………床に落ちたままだと、悲しくて死んじゃうかもしれない」

「さては、思わぬ筋肉痛で寝台から落ちましたね………」

「うん。……………何これ。……………最悪に痛いし、体が重いんだけど」

「床に落ちてしまったのだね……………」

「ディノ、私は解放しても暫し自分の力で活動出来ますので、どうかノアを寝台の上に戻してあげてくれませんか?その、………裸なので、体も冷えてしまいそうですし」

「うん。そうしようか。ネア、ここに座っていてくれるかい?」

「長椅子に設置されましたが、眠気でくらくらしているだけなので、立っている事も出来るのです……………」

「僕は立てない……………」

「まぁ。…………慣れない痛みでしょんぼりしてしまうので、ディノに治して貰いましょうね」



しかし、慌ててそう提案したネアは、橇食いの齎した恐ろしい災いを、あらためて知る事になる。


驚くべきことに、橇遊びで橇食いに呑まれてしまった者達が味わう筋肉痛は、決められた期間はどうやっても魔術の回復が効かないのだそうだ。

これは、回復を試してみたノアが発見した法則であるらしく、どんな高位の者も橇遊びの前には皆平等という措置なのかもしれない。



まさかそんな恐ろしい枷がかけられているとは知らず、ネアは、すっかり弱ってしまったノアが、しくしく泣きながら寝台に横たわっている姿に胸が苦しくなってしまう。


大怪我をした訳ではないのだが、慣れない痛み方に、とても心が弱くなってしまっているようだ。



「ネアともう一度会える迄は、人間なんて大嫌いだったけど、……………今度からは、少し尊敬しようかな。こんな痛みに毎回耐えているのは、ちょっと凄いと思うよ」

「横になっていてもじわじわ痛むので悲しいと思いますが、どうかもう、そんなに泣かないで下さいね」

「アルテアに、薬湯を作って貰うかい?…………実際に作れるかどうかは聞いてみないと分からないけれど、昨日、そのような事を話していたからね」

「ありゃ、……………してたっけ?」

「……………むむ。そう言えば、私が呑まれる前提で、そんな会話がありましたね。となると、アルテアさんには、筋肉痛に効く薬湯を作れる可能性があるのです?」

「うん。魔術は無効化されても、薬湯という形であれば取り込めるかもしれないよ」

「……………この痛みと不快感がなくなるなら、ちょっと苦いくらいの薬湯なんて何杯でも飲めるよ」



目をきらきらさせてそう言った義兄に、ネアは眉を下げた。


「ノア、苦いのではないのですよ。……………温めた沼味です」

「……………え、試練が多過ぎない?僕、本来なら今日が誕生日なんだけど……………」

「ヒルドさんの提案で、年明けに振り替えておいて良かったですね……………」

「……………うん。ヒルドがさ、橇遊びもあるから、きっと絶対にイブメリアの翌日には出来ないと思うって言うんだよ。その代わり、今日もとびきりのシュニッツェルとお酒を出して大事にしてくれるって約束してくれたから、それなら二倍だしいいかなって思ったんだ。……………ヒルドは正しかったんだね」


そう呟いた塩の魔物の眼差しは、確かにあの理論は実証されたのだと訴える研究者のような誠実さで、ネアは、毎年こんな感じになってしまう義兄の誕生日について考える。


そろそろ本格的に、年明けで誕生日を定めた方がいいのではないだろうか。

予定が立て込む時期だからと早々に年明けに誕生日をずらしてあるウィリアムは、賢明だったのかもしれない。



「……………もう沼でもいい」

「む。諦めました。……………さては、どんな寝方をしても、楽な姿勢がない事に気付きましたね?」

「おかしいよね、これ。普通さ、横になったら楽になるんじゃないの?」

「肩の下にタオルを入れたりしながら、より楽な姿勢を探る方法もあるのですが、全身が筋肉痛だとその作業すらままなりませんものね……………」



ずっと痛みを堪えている訳にもいかないのでと、ノアも観念したようだ。


やはり薬湯にお越しいただくことにし、ネア達がアルテアの部屋に向かう事になる。

寝台に戻したノアには、うっかり落ちてもいけないのでと寝返りはしないように言いつけておき、念の為にエーダリア達にも一報を入れておいた。


このままだと、契約の魔物が筋肉痛で動けないと知らず、呼んでしまう可能性もある。



「アルテアさんから、返事はありませんね……………」

「……………アルテアもかな」



カードから呼びかけても応答がないので、きっと、昨晩の橇遊びで疲れ果ててしまい、すやすや眠っているのだろう。

こちらは眠気に襲われ続けてはいるものの、しっかり起きて動いてはいるので、寝起きの悪い選択の魔物などが目撃出来てしまうかもしれないと考えたネアは、にやりと笑い、外客棟に向かった。



(そう言えば、ドリーさんとヴェンツェル様は、もう王都に帰ったのかな……………)



昨晩、ウィームにあるいつものお店で、橇遊びの打ち上げが行われた。


その際、よく分からない毛皮の生き物に、大事な契約の人間が呑み込まれかねなかったドリーが、いつもより多めにお酒をいただいてしまう場面があった。

そして、なぜかそんな契約の竜のペースで一緒にお酒を飲んでしまったヴェンツェルが、くしゃりと潰れてしまったのだ。


そのまま王都に連れ帰ってもいいが、折角ウィームに来たのでこちらで休ませてやりたいとドリーが考えたのは、何も、ヴェンツェルがエーダリアを密かに溺愛しているからではない。


どれだけ第一王子の立場が盤石であっても、王都でのヴェンツェルの足元には、危険や陰謀は皆無ではないのだろう。

だからこそドリーは、そんな場所に、気を許せる者達との飲み会ですっかりくしゃくしゃになった契約の子供を戻したくなかったのだそうだ。



祝祭の日の夜だから。



(……………リーエンベルクであれば、その心配はない)


この旧王宮の主人はエーダリアであるし、ヴェルリア王族の血を引く者を泊めてもいいだろうかとリーエンベルクのご機嫌こそ窺いはすれど、ヴェンツェルの命を脅かすような者は誰もいないのだ。

ドリーの申し出を聞き、ネアはそんな当たり前の事にはっとしてしまった。


幸いにも、一つ貸しでということならとダリルの許可が出たので、昨晩、ヴェンツェル達はリーエンベルクに泊まっている。


早い時間には帰らねばならないと話していたが、酔い覚ましの薬を貰って意識を回復したヴェンツェルは、弟の暮らすウィームの領主館でのんびりと過ごしたのだそうだ。


ヴェンツェル達の予定に合わせて、エーダリアは早めに朝食を摂ると話していた。

今の通信の様子では筋肉痛で倒れている気配もなかったので、きっと一緒に食事をしたのだろう。




「…………アルテアさん、入りますよ?」


ここでアルテアの部屋に辿り着き、扉をノックしても応答がないので、ネアは、ディノに扉を開けて貰った。


鍵がかかっている可能性もあったのだが、扉がすんなり開いた様子からすると、あまり施錠の文化がないのか、何かと心遣いが細やかなリーエンベルクが鍵を開けてくれたかのどちらかだろう。



カーテンを開けておらず、薄暗い部屋の中に入ったネアは、小さく息を呑んだ。



温めた浴室と湯気の香りのする部屋の中に、入浴明けに儚くなってしまったのであろう魔物の悲しい姿があったのだ。



「……………アルテア、……筋肉痛かい?」

「……………くそ、……………放っておけ」

「ほわ。……………アルテアさんは、何とか長椅子までは辿り着いたのですね……………」

「お前の情緒はどうなってるんだ……………」

「なぜか早々に情緒が貶されていますが、そのままではお腹を冷やしてしまうので、寝台に入れておいた方が良さそうです。……………ちびふわにしてしまいます?」

「やめろ……………」



こちらの魔物は床に落ちている事はなかったが、夜明け前に入浴し、着替える前に筋肉痛に襲われたのだろう。


この様子を見る限り、入浴前から筋肉痛だったのなら、きっと動かなかった筈なのだ。

そう推理した人間は、自分の鋭さに恥じらいながら、ディノが本日二人目の裸の魔物を寝台に戻す作業を見守った。


アルテアの場合はバスタオルのおまけがあったが、そちらについては、濡れているのでネアが引っぺがして洗濯物籠に放り込んでおく。


バスタオルを奪い取る際に、アルテアがたいそう絶望的な眼差しをこちらに向けていたが、濡れたバスタオルを寝台の中に持ち込むのは本人の為にもならない。



「髪の毛は乾かしておいたよ」

「まぁ。ディノはもう、すっかり人命救助の専門家ですね。なんて頼もしいのでしょう」

「ご主人様!」

「……………治癒魔術も魔術洗浄も効かないのは、どういう事だ……………」

「アルテア、………恐らくなのだけれど、魔術で何かを緩和しようとすると、体の痛みや疲弊感が悪化するのではないかな。君達の魔術に触れたネアも、橇に乗っていた時の体の痛みを回復させた途端に、酷い眠気に襲われていたようなんだ。ノアベルトも治癒を試してみて、無効化されたと話していたよ」

「……………そういうことか。道理で……………」

「……………む。アルテアさんが力尽きました」

「薬湯なら効果があるのかなと思ったのだけれど、……もう作るのは難しそうだね」



魔術で痛みの緩和を図る措置と、薬湯の魔術効果は領域が違う。

ディノは、魔物の薬ではなく、薬湯であればと期待をかけていたようなので少ししょんぼりしていた。



だが、治療の可能性が絶たれた今、ネア達に出来る事は、もう一人の犠牲者の安否確認しかない。



「という事なので、エーダリア様達にノアを頼んでおき、我々は、ウィリアムさんの様子を見に行きましょう」

「………うん。ウィリアムも、動けなくなってしまっているのかな」

「まさか、またはだかなのでは……………」

「ウィリアムもなのかな……………」

「おい、そいつはここに置いていけ。どうせあいつは、何も着ていないからな」

「む。アルテアさんが意識を取り戻しました」

「………そうするかい?」

「あら、救助現場においては、肌色具合も不問としますので、一緒に行ってお手伝いしますよ?」

「……………情緒がないにも程があるぞ」

「解せぬ」



使い魔にはその場に留まるように説得されたが、ネアは、とは言え、前の二人を見舞っておいてウィリアムだけ仲間外れにするのはどうだろうと思い、ディノと共にウィリアムの部屋を訪ねた。


しかしそこは既に無人となっており、困惑した二人は顔を見合わせてしまう。



「……………まさか、どこかで倒れているのでは」

「探してみようか……………」

「おや、ネア様、ディノ様。おはようございます」


ウィリアムはどこに行ってしまったのだろうと青ざめたネアは、背後から声をかけられて振り返る。

そこに立っていたのは、朝の光に羽先に鮮やかな光の影を落としている、森と湖のシーだ。


「ヒルドさん、おはようございます。………どこかで、ウィリアムさんを見かけませんでしたか?筋肉痛が酷いと思うのですが、お部屋にいないのです」

「ああ、ウィリアム様であれば、騎士達の朝の鍛錬に参加しておられましたよ」

「なぬ……………」

「ウィリアムは、動けているのだね……………」

「……そう言えば、ウィリアムさんは、人間に擬態して騎士をされていたのでしたよね。もしや、筋肉痛にも慣れっこなのです?」

「そのような事もあるかもしれませんね。付き合い方を知っていればやり過ごせるものだと、グラストも言っておりましたから」

「もしかして、ヒルドさんが騎士棟の方から来たのは、ノアの為にグラストさんにお話を聞きに行ってくれていたからなのでは?」



気付いてそう言えば、ヒルドは、柔らかな微笑みを浮かべ、友人が痛がって泣いておりましたのでと教えてくれる。

すっかり大事にされている義兄に、ネアは、そちらの看病はヒルドとエーダリアに任せる事にした。



「もう、ヴェンツェル様とドリーさんは、王都にお戻りになったのですね」

「ええ。夜明け前に朝食を摂り、先程王都に戻りましたよ。………ディノ様。今回は、リーエンベルクに彼等が滞在することを了承いただき、有難うございました」

「………あの二人であれば、構わないよ。ただ、王都との調整が取れている場合に限るけれどね。今回は、ノアベルトだけでなく、アルテアやウィリアムも魔術探索や持ち込みなどの問題はないと確認してくれたから、私も気にかけずに済んだんだ」

「エーダリア様は、このような形で兄君と共に過ごされたのは初めてでしたからね。……………それは、あちらにも言える事でしょうが。ドリーが自分の我が儘でと滞在申請を通した事で、思いがけず、これ迄には得られなかった時間をエーダリア様に持たせて差し上げる事が出来ました」



(それならばきっと、エーダリア様とヴェンツェル様の朝食は、とても素敵な時間だったのだろう……………)



橇食いが齎したのは酷い筋肉痛ばかりではなく、橇遊びにかける家族の幸福という意味での恩寵もあったのかもしれない。

或いは、そういう事にしてくれた優しい火竜が、大事な契約の子供のために、得難い時間を手に入れようとしたのかもしれない。



「あれ、……………シルハーン、どうしました?」

「ウィリアム。君の様子を見に来たのだけれど、体の痛みは大丈夫かい?」


そこに、騎士達との鍛錬を終えたウィリアムが戻ってきた。


雪の日の朝なのだが、袖を捲り、上着は片側の肩にひょいとかけている。

如何にも運動をしてきましたという佇まいな終焉の魔物は、ディノに掴まり立ちしているネアを見ると、おやっと眉を持ち上げる。


「ネア?……………筋肉痛か?」

「むぐぐ………。筋肉痛はディノに治して貰ったのですが、橇食いさんの魔術に触れたせいで、治療の反動としてとても眠いのです。気を抜くとふらりとなってしまうので、転ばないようにディノに掴まっていました」

「おっと、そんな影響が出ているのか。……………シルハーン。もしかして、………アルテアやノアベルトに、何かありました?」


不思議そうに尋ねたウィリアムに、ディノが、これまでに訪れた部屋の惨状を話せば、白金の瞳を細めた魔物は、ふっと意地悪な微笑みを浮かべるではないか。

ウィリアムがこんな表情をするのは珍しいので、ネアは、おおっと心の中で拳を握ってしまう。



「もう一度アルテアの部屋に戻るのであれば、俺も一緒に行きましょう。この状態の緩和であれば、相談に乗れるかもしれないので」

「では、頼んでもいいかい?」

「ええ。ネア、眠たかったらこちらに来るか?」

「むぐ、……………もう少し自分で歩けると思うのです。もうそろそろな朝食の時間が終わる迄は、何とか起きている予定なのですよ?」

「ネア様、今朝の食事は遅めの時間に設定されておりませんでしたか?」

「……………は!……………となると、今からお部屋に帰れば二度寝……………、はしません!使い魔さんの一大事なのですから、救護活動を優先しますね」



ここで、うっかり朝食の時間を後ろにずらしたのを忘れていたネアは、頭の中で素早く計算をした。


安息日らしい寛いだ服装だが、既に着替えは済んでいるので、アルテアへのお見舞いが終わってから部屋に戻れば、少しだけだらりとする時間は取れるだろう。



(なので、もう少し頑張って、アルテアさんを元気付けてこよう!)



だが、そんな人間の覚悟は、部屋でくしゃぼろになった選択の魔物の横たわる寝台を見ている内に、あえなく崩れてしまった。




「こちら側が空いているので、さり気なく占拠しますね……………」

「おい?!……………馬鹿かお前は!眠たいなら、部屋に戻れ!!」

「もう体力の限界ですし、ここなら見守り看護も可能な位置です。決して、眠気に負けてお見舞いを蔑ろにしている訳ではないので、……………ぐぅ」

「アルテアなんて……………」

「大丈夫ですよ、シルハーン。アルテアは、俺が外に運動に連れ出しますから」

「ふざけるな。魔術の重ねで、お前より遥かに痛みが増しているんだ。その手を離せ!」



隣でばたばたしている様子があったが、ネアは、誰かの体温でぬくぬくになった毛布の間に滑り込み、ほふんと幸せな溜め息を吐いた。

しっかりとディノの三つ編みも握っているので、伴侶への配慮も万全である。



その後、短い時間だがぐっすり眠ったネアは、爽やかな気持ちで目を覚ました。


気付くとアルテアの部屋はとても静かになっており、隣には眠っている誰かの気配と体温がある。

握り締めた三つ編みを辿って視線を持ち上げれば、ディノは、寝台の横に椅子を置いてウィリアムとお喋りをしていたようだ。



そろそろ朝食の時間だと言うので、それを聞いた人間が哀れな使い魔を見捨ててしまったのは、仕方のない事だったのだろう。

世の中には、残酷で悲しい事が沢山あるのだ。



「………フキュフ」

「うむ。食事の間はお膝の上に置いたタオルの上に抱っこですので、これで一人ではありませんからね……!」

「アルテアが……………」



ノアは、部屋でエーダリアやヒルドと一緒にいるのだそうだ。


元々あまりしっかり食べる方ではないので、今朝の食事は、キノコのメランジェ風のスープだけで済ませたらしい。



また少し雪が降り始めた窓の向こうを見上げ、ネアは、この祝祭の足跡にこっそり感謝した。


橇食いに出会ってしまったのは災難だと言う者もいるかもしれないが、こんな風に家族で寄り添って過ごせる朝をくれたのは、イブメリアの夜の最後の贈り物だったのかもしれない。








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― 新着の感想 ―
[一言]  前話では橇食いが「飲み込む」と「飲」の字が、今話では「呑み込む」と「呑」の字が使われています。どちらかに統一した方が良いのではと思いますので、一報いたします。
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