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197. 橇は飲まないで欲しいです(本編)




暗い夜の中に灯る祝祭の灯りに、幾重にも響くのは胸の中にある泉の淵を震わせるような詠唱であった。

窓の外の雪影が聖堂の中に落ち、はらはらと影の中に降り続けている。



魔術の火と蝋燭の明かりが夜から切り取った大聖堂の中では、今まさに、イブメリアの祝祭の終わりを告げる儀式が執り行われていた。


見上げる程の高さの円柱が立ち並ぶ柱廊の奥には、大聖堂の中に灯された光を集めた祭壇がある。

円環状のシャンデリアも、この日ばかりは、瑞々しい飾り木の枝をくるりと巻きつけてリースのような佇まいだ。


立派な石柱をくり抜くようにして設けられた小さな祭壇にも蝋燭の明かりが灯されていて、そっと手向けられた百合の花に祝祭の魔術がきらりと光った。



(きらきら光る飾り木の装飾に、綺麗なリボンや繊細な細工のオーナメント。………贈り物の箱の包装や、素敵なカードに、数え切れないくらいの種類のオーナメントまで)



イブメリアの好きな物を頭の中で並べると、大好きな季節の針が進んでしまったことが堪らなく寂しくなる。


ネアはとても身勝手な人間なので、この儀式を何とかして阻止してしまえば、これからもイブメリアが続くのかなと思う事もあるくらいなのだ。

それなのに、美味しい晩餐の最後の一品のように、ネアのテーブルの上に載せられたイブメリアの料理は、今まさに失われようとしていた。


また来年に会えるのでさようならではないのだけれど、それまでの日々をどう過ごせばいいのだろうと、いつもこの夜だけは途方に暮れてしまう。



(………ああ、終わらないで欲しいな)



街中の美しい飾り木がなくなり、家々の扉からリースが外される。

それだけでしょんぼりしてしまうネアは、その他の様々な場所でも、大好きな季節が立ち去ったことへの小さな喪失感の欠片を集めてゆくのだろう。


リノアールの特設会場で売られていたシナモンと林檎の香りのする祝祭のお菓子が下げられ、真っ赤な果実と白いクリームのケーキだけを売っていた菓子店は、いつものケーキを並べるようになる。


この夜が明けると、そこにはイブメリアから一番遠い朝があって、そんな最も遠い夜明けからまた、大好きな季節までゆっくりと歩いてゆく。


沢山のものを見送ったまま失くしてきたネアにとって、大事なものの幕引きは何とも苦手なものである。

季節の入れ替えは当然なのに、大事な宝物が手のひらから持ち去られてしまったような気がして、どうしても胸がぎゅっとなってしまうのだ。



それでも尚、そんな寂しさを払拭してしまうくらい、イブメリアの夜の儀式は美しかった。


両手を広げて祭壇に立った信仰の魔物のレイラに、耳下で揃えた髪の毛がさらりと揺れ、ゆったりとした白と深緑の聖衣の服裾には、祝祭の終わりの魔術がしゃらしゃらと煌めく。


どうやら今年のレイラのテーマは深緑であったようで、その色の装飾品で揃えたらしい艶々とした緑柱石のシャンデリア型の耳飾りは、白茶の髪の毛によく似合っていた。



「かの夜に現れし優しきもの、この夜に宿りし静かなるもの。この夜に立ち去りし美しきもの」



朗々と響く声は、この魔物に対して複雑な思いがあってもとても心地よい声音で、祝祭の最後の瞬間に幕を引く信仰の魔物は、魅入られてしまいそうなくらいに美しい。


「イブメリアよ、その祝祭の名において恩寵を定め、この地に妙なる福音を齎さんことを。立ち去る御身のその裳裾に、我らの信仰をもって忠誠の口付けを贈ろう」



こうして宣言されるイブメリアの終わりの詠唱は、毎年少しずつ形を変えるものだ。

だが、今年は特に温度の違う一節があり、ネアは、飾り木の小枝に口付けを贈るレイラを見ながら、なぜだろうと首を傾げている。


(魔物さんは、どのような階位であれ、一つの資質の王だった筈。ましてやレイラさんのような気質の魔物さんが、忠誠という表現を使うのは珍しいのではないのかな……………)


そんなネアの困惑に気付いたのだろう。

薄く微笑んだディノが、どうして詠唱にそのような表現が混ざったのかを教えてくれた。


「どこかに、クロムフェルツがいたのだろう。イブメリアに於いて、レイラが忠誠までを捧げるのは彼しかいないからね」

「まぁ。クロムフェルツさんに向けて、忠誠という言葉が使われたのですか?」

「クロムフェルツは、祝祭を司る王なんだ。どの祝祭よりも潤沢な魔術を宿している彼に対しては、他の祝祭の者達も礼儀を欠く事はない。信仰の盤上に彼を招いてもてなすレイラにとっては、誰よりも恐ろしい相手なのかもしれないね」



一度姿を現せば、イブメリアに属する資質が、どんな季節よりもたっぷりとした祝福となって信仰に満ちる。


だが、そんな存在が信仰の盤上から立ち去ってしまえば、大所帯の信仰の領域とは言え、無傷では済まないのだそうだ。

だから信仰の魔物は、この夜ばかりはイブメリアの王に膝を屈し、丁寧に送り出すのだそうだ。



(例えそれが、祝祭の幕を引くときであっても……………)



魔物らしい美貌で儀式を見守っていたグレイシアが、優美な所作で王冠を外す。


今年はイスキアからの陰謀への対策で頑張ってくれた舎弟と目が合い、ネアは微笑んで頷いておいた。

グレイシアが、ゆっくりと祭壇に歩み寄ってその王冠を置けば、イブメリアの幕引きはいっそうに進んだ。


王冠を祭壇に戻せば、大聖堂の尖塔で燃えていた祝祭の送り火が、グレイシアの手の中に戻ってくる。

その火を大聖堂横の飾り木に移して祝祭の象徴だったものを送り上げるのが、イブメリアの終幕なのだ。


今年の送り火の魔物のケープは、漆黒の羽飾りに縁取られた深紅のケープだ。


火の系譜の魔物であるグレイシアは、このウィームに於いて、深紅を自身の色とする珍しい魔物である。

大聖堂の中央通路をゆっくりと歩いてゆく横顔には、未だ残る祝祭の最後の足場に立つ魔物の、はっとするような清廉な美貌があった。



こつこつと響く靴音が聖堂を出てゆき、やがて、ステンドグラスの向こう側で赤々と燃える炎の色が浮かび上がる。



今年のイブメリアが終わったのだ。




「……………今年も終わってしまいましたね。ディノ、外に出るお客様が落ち着いたら、今年のランタンを貰いに行きましょうか」

「うん。そうしよう。寂しくなったら、アルテアから貰った教会に行くといい」

「はい。そうしますね。………また来年も、博物館前の広場の屋台で、ディノと一緒にイブメリアのお菓子を食べる日を今から楽しみにしてしまっています」

「うん」



(もしかすると……………)



雪山での橇遊びが祝祭の締め括りに行われるようになったのは、イブメリアの幕引きの後の寂しさを紛らわす為だったのかもしれない。

そんな事を考え、ネアは、大聖堂の外に出て大惨事かなという激しい燃え盛り方をしている飾り木を見つめる。


ごんごんと燃え盛る飾り木の送り火は、相変わらず街を滅ぼす気なのかなという危険な燃え方だが、これでも、大聖堂を全焼させたり、住人が巻き込まれたりはしない仕様なのだ。


とは言え、あまりの火力に、泣き出してしまっている観光客もいるくらいには激しく燃えている。



「……………む?……………気のせいでなければ、昨年までは要観察対象だった方が、当たり前のように火の回りではしゃいでいます」

「………あの人間は、ヴェルリアの者だったね。来てしまったのかな……………」

「一緒にいるのが、昨年の方々ですので、さてはすっかり仲良しになってしまったのでしょうか」


火を囲んでわいわいするウィーム領民や観光客達の中には、ヴェルリア侯爵の息子の姿があった。


松明の祝福を持つそれなりにいい年齢の男性なのだが、お酒を飲んですっかり出来上がってしまい、踊ったり歌ったりの大騒ぎだ。

とは言え、隣で踊っているのはハツ爺さんだし、その隣の御仁に至ってはエーダリアの会の会員らしいので、きっともう、ウィームにとっての懸念材料ではなくなったのだろう。



「……………あの御仁は、三日前からウィームに泊まり込む念の入れようで、王都では十日前からイブメリアにかかる執務を全て終えると宣言して、少なからず騒ぎになったそうです」


こつこつと歩み寄り、そんな事を教えてくれたのはヒルドだ。

鮮やかな火の色を透かした妖精の羽は、けれども系譜の違う色に染められる事はない。


「ヒルドさん………。あの方は、そんなにもウィームの送り火が大好きになってしまったのですね………」

「どうも、橇遊びも覚えたようでして、特注の橇を持ってウィーム領に入りましたからね」

「ほわ……………」


となるともう、すっかりウィーム贔屓な感じなので、ネアは侯爵子息が顔を緑に塗ってしまっている事については深く考えないようにしておき、きりりと背筋を伸ばしてランタンを貰う為の行列に向かう。


ヒルドの手には既にエーダリア達用のランタンがあったが、あまりリーエンベルク勢のみが優先的に受け取るのもどうかなと思い、ネア達は自分で並んで貰う事にしたのだ。



「では、私達も、ランタンを受け取ってきますね」

「ええ。今年は観光客の列が短いので、受け取りまでに左程時間がかからないでしょう。我々は先にアルバンに向かっております」

「むぅ。松ぼっくりのランタンは、私はとても楽しみなのですが………」



今年のランタンの花は、松の花枝と松ぼっくりである。


松の花はあまり華やかではないので松ぼっくりも添えてしまおうという試みなのだが、イブメリアのスワッグを思わせるモチーフで、ネアはとても気に入っている。



「やれやれ、凄い盛り上がりようだな」


列の最後尾に付いたところで、そう声をかけてくれたのはウィリアムだ。


緊張したレイラが儀式に失敗しないよう、大聖堂の儀式では一般客に擬態して後ろの方で見ていてくれたらしい。


統括の魔物としての参加がなかったアルテアも、同じようにしてどこかに紛れていた筈なのだと周囲を見回せば、アクス商会の職員らしい男性と語り込む壮年の男性の姿がとても気になったので、恐らく選択の魔物はそこにいるのだろう。



「毎年なぜか、送り火の時にはこのようになってしまうのですよ」

「どうしてこうなってしまうのかな……………」

「あらあら、ディノは私の後ろに隠れてしまうのです?」

「ご主人様………」

「絶対に燃やすという意志が凄いな…………。儀式的には、火の周りで踊る必要迄はない筈なんだが……………」



燃え盛る火が近くなるとディノも守ってくれるのだが、遠くから見ていると、ご主人様は危なくないし、荒ぶる領民達も視界に入るのでディノは怯えてしまうらしい。


うぉぉぉと地響きのように響く誰かの雄叫びを聞いてしまったのか、張り切っているなと苦笑しているウィリアムの視線の先には、ランタンを貰った領民達の嬉しそうな笑顔もあった。


ただし、頑張って貰ってきてくれたらしい父親の持つランタンを見た途端、なんとも言えないがっかりした顔になってしまっている観光客の少女の姿もある。

年ごろのお嬢さんなので、もっと可愛らしい花の細工などを期待していたのかもしれないと思えば、ネアは、あらあらという微笑ましい気持ちになってしまった。


嗜好はそれぞれだし、ネアはとても気に入っているが、確かに今年は少し渋めの雰囲気のランタンだ。

使われる花の選出には緩急を付けていると聞くので、来年にもう一度再挑戦してくれれば、納得のいく細工のランタンが手に入るのではないだろうか。



「ふぁ、綺麗な送り火ですね」


いつもより短い行列を経て、沢山並んだランタンの中からお気に入りの一つを選び、松ぼっくりの模様を透かしてウィームの夜を覗き込む。


ゆらゆらと揺れる炎の端がしゅわりと煌めくのは、この火が、送り火の魔術と祝祭の残滓を宿しているからだろう。



「………ああ、間に合いましたね」

「並び直している時間はなさそうだな。俺の分も受け取っておけ」

「むぅ。では、もう一つ下さい。そちらにいる、私の使い魔さんの分なのです。時々もふもふするよく懐いた使い魔さんなのですよ」

「やめろ………」


ランタンを手にして列を離れようかなという際どいところでアルテアも合流し、ネアは、慌てて追加でもう一つのランタンを受け取った。


昨年のような人気のモチーフだと、ランタンの残量を気にする観光客などからの顰蹙を買う行為になりかねないので、ランタンの受け取りは今後計画的に行っていただき、もう少し早くの合流をお待ちしたい次第だ。



大聖堂に集まった人々の中には、橇遊びを始める為に雪山へ移動する者達も多い。

晩餐を摂る間もなく儀式を見に来ている人達の為に、軽食の屋台なども開かれ、そちらはいつもの年のように盛況だ。


ネアは、ちらりとホットワインの屋台を見て、マシュマロと蜂蜜酒のシロップをかけたクリームを載せた飲み物に心を動かされていたが、この後に控える催しの為に、出来るだけ胃を軽くしておきたい。



「飲食物は終わってからにしておけ。橇自体も、祝祭の魔術を閉める為の儀式として成り立つからな」

「はい。どうしても気になる物は、打ち上げの会場に入る前に立ち寄ればいいのですものね」


アルテアは、先程の擬態を解き、髪色だけを擬態した姿になっている。

まだ街中にいるので上品な灰色のコートを羽織り、首元には豪奢な白斑の灰色の毛皮を巻いている。

こちらに合流する為に、どこかでさっと擬態を切り替えてきたのだろう。


ウィリアムの方を見ると、街の騎士の一人に手を振られ、笑顔を向けているところだった。

互いの微笑みの間にある距離感からすると、この滞在のどこかで仲良しになったというところだろう。

人間に擬態している時の終焉の魔物という前置きがつくが、思いがけず新たな一面を見られたような気がして、ネアは目を瞬いた。


こうして目に留まるのはほんの一面でしかないが、僅かな部分だからこそ、それぞれの魔物達の気質が見えるような気がする。



(さて………!)



まずは着替えからであると、ディノと頷き合い、大聖堂横の広場から階段を下りて聖域を抜けたネアは、ウィリアムとアルテアにちょっと失礼と断りを入れ、用意していて貰った着替え用の部屋に入った。

動き易い服装である事は必須なので、儀式の為に着ていたドレスへの未練はあったものの、潔く脱いでしまおう。



「着替え終わりました!」

「ネアのそれは、騎士達が遠征で使う魔術併設の更衣室なんだな」


ばぁんと扉を開けて飛び出してきた乙女を、ふわりと笑ったウィリアムが、両手で肩を押さえて受け止めてくれた。

なお、一緒に更衣室に持ち込まれた伴侶の魔物については、両手で顔を覆ってずるいと呟いている。


「はい。ゼノとグラストさんに教えて貰い、ディノが作ってくれました。出先で急に着替えたい際にとても有用ですよね。小さなお部屋なので、このような、自身の領域内ではない場所でも、一時的に併設出来るのですよ」

「………いいか、聖域を出たのはいい判断だが、扉を閉め終える前に、ドレスの背面の留め金を外すのはやめろ。扉を閉めてから脱げとまで言わせるつもりか………」

「むぅ。留め金を外してもドレスが脱げてしまう訳ではないですし、気が逸ってしまっただけではないですか。………さて、これからはいよいよ橇遊びです!今年こそは、のんびりと家族行事を楽しむ所存なのですよ」


ネアがそう言えば、とても疑わしげにこちらを見る赤紫色の瞳の魔物がいる。


「どうだろうな。お前の言う事は、もう信用しない事にした」

「まぁ。すっかり疑い深くなってしまっています………」



(……………おや、)


ふと気付けば、先程までは祝祭の夜を楽しむ領民に紛れられるような上品な水灰色の毛織りのコート姿だったウィリアムが、軍人が好むような活動的な形の漆黒のコート姿になっているではないか。

これは気合が入っているぞと密かに慄いていると、そんなネアの様子に気付いたのか、ウィリアムがにっこりと微笑む。



「エーダリア達とは、いつもの場所で合流か?」

「ええ。今年はヴェンツェル様が夜のミサに間に合いませんでしたので、先にアルバンのお山に行っているようです」


それはつまり、ヴェンツェルの名代としてヴェルリア貴族がウィームを訪れているという事である。

儀式の間は仕方ないにせよ、この後は、領主としての儀式もあるのでと早々に大聖堂を出るのが賢明だろう。


悪意を向ける者達ばかりではないが、好意的でも、豊かなウィームとの繋がりを深めようとする目的で、様々な提携などを求められる厄介さがある。

今夜の訪問客は、どうやらそちらの懸念がある相手らしい。


よってエーダリアは、橇遊びという名前の安全祈願な儀式を執り行うべく、事後の対応はダリルに任せて退出したのだった。



「ああ、王都では踊る飾り木が脱走したんだったな……………」

「まだ一度も見に行っていない、たいへん謎めいた飾り木ですが、柵を超えて脱走したというあたりでとても困惑しています。因みにヴェンツェル王子は、間に合えば橇遊びには参加するのだとか」

「やれやれだな。そのまま、ヴェルリアにいればいいだろ」

「きっと、エーダリア様と一緒に遊べる数少ない機会なので、とても楽しみにされているのだと思いますよ」



そしてそれは間違いなく、この国の第一王子に無理をさせてしまう程のご褒美であったらしい。


魔物達の助けを借りて転移でアルバンの山に到着したネアは、豪奢なケープの裾が黒焦げになり、エーダリアにとても心配されてしまっているヴェンツェルの姿に瞠目することになった。



「も、……………燃やされかけてしまったのです?!」

「ネア、久し振りだ。ディノ、今夜は俺達も参加させて貰う事になった。ヴェンツェルはとても楽しみにしていたから、今年も了承してくれて助かった」

「ドリーさん!ヴェンツェル様のケープの裾が……」

「…………あの人間は、どうしたんだい?」

「逃げた飾り木の捕縛で、街の店の麦酒を飲みに行きたいと暴れる飾り木が火を放ったんだ。守護や排他結界があるので大事には至らなかったが、その中に収まらなかった服裾が燃えてしまった」



こちらに気付き挨拶をしに来てくれたのは、火竜のドリーである。


赤い髪にとろりと光る美しい金色の瞳を持つ優しい竜で、ネアにとっては、グレイシアを介してお世話になった事もある恩人の一人だ。

毎年素敵な贈り物をくれるので、ディノもすっかり心を許している感があった。



だが、話している内容は、よく考えればとんでもないものではないか。


伝説の火竜とも言われるドリーの守護を持つヴェンツェルが、服裾とは言え火の障りを受けたのだ。

荒れ狂う飾り木がどれだけ手強かったのかを知るには、これ以上ない被害者とも言える。



「飾り木が、…………火を放ったのです?」

「ああ。ヴェルリアのと言うべきか、あの飾り木は特に気性が荒いからな」

「……………む、……………むむ?飾り木が火を放つだけでも大混乱なのに、うっかり、気性の荒いクロムフェルツさんを想像してしまったので、脳内が更なる大混乱です」

「この世界の各地で行われる祝祭風習だ。様々な側面があるだろうな」

「…………アルテアさんのそれはまさか、荒ぶるクロムフェルツさんもいるという肯定なのでは………」


あまり考えたくなかったと慄くネアの姿に、ここでヴェンツェルも気付いたようだ。

こちらを向くと、赤い瞳を細めて微笑む。



「久し振りだな。弟が世話になっている」

「お久し振りです、ヴェンツェル様。エーダリア様は私や私の大事な魔物の面倒も見てくれていますので、お互いに大事にし合う、すっかりの仲良しなのですよ」

「ああ。そのようだな」



こうして話をすると、直前までエーダリア用の柔らかな眼差しをしていた様子が却って際立った。

ケープを燃やされても頑張って駆け付けてしまう程に、ヴェンツェルは弟に会えるのが嬉しいのだろう。

ましてや今回は、イブメリアの儀式には参加していないので、完全に私用であることを隠しようもない。


だが、こちらに向き直ってからは第一王子らしい表情に切り替えていたヴェンツェルは、大国の王子らしい抜かりのなさでディノやアルテアに丁寧に挨拶をしていて、そんな姿を見ると、いずれこの国を背負う者として高位の魔物達に挨拶に来たという部分もあるのかもしれない。


墨色がかった深い緑色のコートは、ヴェンツェルの持つ配色に、とてもよく似合っていた。

豪奢な金髪に橙がかった火の色の赤い瞳は、髪と瞳を入れ替えて同じ配色となっているドリーの対のようだ。


そんなヴェンツェルは、ウィリアムに対しては敢えて挨拶を省き、深くお辞儀をするだけで済ませているが、これは、ウィリアムがヴェンツェルの領域内での契約を持たない高位の人外者だからである。

挨拶をさせて貰えると安易に思わず、離れた位置での最敬礼をするのが最も適切な対応なのであった。



びゅおんと雪混じりの風が吹き荒ぶ。


荒天ではないし、雪もはらはらと降るくらいだが、ここは街から離れた山の中腹なので、時折このような風が吹くのだ。



「よーし、今年は僕が優勝かな」


ぐいんと伸びをして笑ったノアは、橇遊びだからといって特別な装いに変えることはない。

だが、毎年エーダリアをしっかりと守りながら滑っている事を思えば、本気を出せばかなりの腕前なのだろう。


「お前が、これ迄に優勝争いに加わったことがあったか?」

「ありゃ、凄く敵意を向けられているけど、僕だってそれなりに腕はあるつもりだよ?今年はアルテアだけは負かしておくのもいいかもね?あれ、今年も?」

「ほお、やれるならやってみろ」

「今年こそは、私も優勝を目指すつもりなのだ。橇に付与した魔術構築は、幾つか試作を重ねてかなり緻密な物を作り上げることが出来たからな」

「……………まさかとは思うが、魔物達の争いに加わるつもりなのか?」


なかなかに好戦的な弟の姿にヴェンツェルは困惑していたので、ネアは、弟さんはそれなりの戦歴を出しているのだと伝えておいた。

とても驚いているが、一応エーダリアもこの国の魔術機関の長なのである。



「ここにランタンをかけて……、出来ました!」

「可愛い、弾んでる………」

「ふふ、これで橇の準備はばっちりなのですよ!」

「おい、その服装で弾むな!」

「なぜ、橇遊び用のパンツスタイルでも叱られたのだ………」

「雪で滑るからかな………」

「むむ、では転倒しないように、橇に乗り込みますね!」



出発地点に並んだ挑戦者達の中に、今年も、グラストとゼノーシュの姿はない。


少し寂しかったが、何やらそちらはそちらで、騎士達による負けられない戦いが行われているそうなので、ネアは、後で誰が優勝したのかを教えて貰おうと思っている。



「むむ、私とディノはいつもの橇ですが、皆さんは改良を重ねてきているのです?」

「いや、俺は昨年のままだぞ。アルテアはかなり意気込んでいるみたいだがな」

「ふむふむ。ウィリアムさんは、昨年と同じ橇なのですね」


言われてみれば確かに、アルテアの橇は初めて見るような古めかしい木の橇であった。

飴色の木材の表面はすべすべしていて、上品な趣きの作りだ。

なお、エーダリアとノアは橇については昨年と同じだが、魔術的な効果を重ねてあるらしい。



「ウィリアムの場合は、橇というより力技だからな」

「うん。ウィリアムはそっちの滑り方だよね。優雅さとしてはいまいちだけど、まぁ、ウィリアムだからね」

「ノアベルト。その手の評価は、勝ってからするべきじゃないのか?」

「わーお、こっちも好戦的だぞ………」



試合前の駆け引きが行われる中で、ランタンを貰ったドリーが、ヴェンツェルと一緒に、乗る橇のランタンかけに送り火を設置している。

穏やかな声で説明しているドリーの様子には深い愛情が窺えて、ネアは、たいへんな仲良しであるとにこにこしてしまった。


なお、毎回ネアには謎で仕方ないのだが、あれだけ激しく滑っても大事なランタンがどこかへ吹き飛んでしまう事はない。

魔術で守られているにせよ、時々乗り手は吹き飛ぶらしいので、この仕様についての謎は深まるばかりだ。



「では、私は麓で待っておりましょう。………いいですか、くれぐれも無茶はなされませんよう」

「ヒルド、これでも私は、毎年この行事に参加しているのだからな……」

「だからこそですよ。あなたは、慣れた頃に心を緩める癖がありますからね」



こちらを振り返って微笑み、ヒルドが転移を踏んでゴール地点に向かう。


後はもう、魔術仕掛けのスタートの合図で滑り出すばかりなので、ネアは背中を預ける形で一緒に橇に乗ってくれているディノを振り返り、そして、目を見開いた。



「……………ほわ。背後に、おかしなものがいます」

「…………ご主人様」

「さては、知らない生き物ですね?もふもふとした、………巨大尻尾でしょうか。そして、最近見たばかりの雪犬さん的な角がありますね」



振り返った先に佇んでいたのは、小さな屋敷くらいはあるだろうかという巨大な毛皮の塊であった。


ふすふすと体が揺れているので、しっかりと呼吸はしている生き物らしい。

そう考えると野生動物的な認識になるとは言え、夜闇の中でこの大きさともなるとかなりひやりとする。



「………わーお、何これ。え、………逃げるべきかな」

「おい、また妙なものを呼び込みやがって」

「あら、このおかしな形状からすると、アルテアさんの系譜の可能性もあるのでは………?」

「ん?背後に何かいるのか?」

「これは、………大きな生き物だな。ウィームにはこんな獣もいるのか」

「ヴェンツェル、感心している場合じゃない。危ない生き物かもしれないのだから、絶対に俺から離れないようにしていてくれ」



それぞれに困惑の声を上げる参加者の中で、背後を振り返ったまま固まっていたのは、エーダリアだ。

青ざめた面持ちでゆっくりと視線を前に戻し、ふうっと息を吐く。


先程までの儀式の盛装姿から、育ちのいい冒険者的な装いに着替えているあたり、エーダリアがどれだけ橇遊びを楽しみにしていたのかは言うまでもないだろう。



それなのに、今は酷く暗い目をしている。



「ありゃ、もしかしてこれが何なのか知ってる?」

「………橇食いだ。私も、遭遇するのは初めてだ」

「……………え、………逃げなきゃいけない感じ?」

「いや、この状態で現れてしまった以上、橇から降りると食べられるだけなので、麓までは橇で滑り降りるしかない」

「わーお、また変な生き物が現れたぞ」

「これは、祝祭の運行を見守る生き物で、橇遊びの規則にとても厳しいとされている。橇食いが現れたら、風習として定められている範囲で橇遊びをしなければならないそうだ。ただし、飲み込まれても本当に食べられてしまう訳ではない事に加え、橇遊びを無事に終えたのと同等の祝福を授ける生き物なので、悪いものではないのだが………」

「という事は、今年は、競争は諦めてのんびりと楽しく橇で麓まで行けばいいのですね」



そんな事であれば恐るに足りないと、ほっと胸を撫で下ろしたネアは、次の瞬間、荒ぶるウィームの人々の風習から生まれた、恐るべき獣の習性を知る事になる。



「…………いや、競争は必須なのだ。四位以下の者と、橇運びの作法が間違っている者は飲み込まれるぞ」

「ぎゅわ………。おかしいです。家族でも遊ぶ橇なのですよ?」

「………となると、障りはないという感じなのか?」

「いや、橇食いの腹の中を通されてから吐き出されるだけなのだが、…………そうなると、翌日は酷い筋肉痛で動けなくなると言われているのだ」

「…………何という恐ろしい獣さんなのだ」

「そのような生き物がいるのだね………」




かくして、その年の橇遊びは、開始前から、何ともいえない緊張感に包まれていた。


四位以下という事は、三組は橇食いの餌食になる。

加えて橇運び規定という厄介な審査もあり、勝てば何でもいいという訳でもなさそうだ。



「ディノ、一番ではなくていいので、堅実に勝ちましょう」

「うん。………祝祭の系譜の者のようだから、逃げ出すのは難しそうだね。魔術で退けると、障りが出るかもしれない」

「むむぅ。では、必ず勝たなくてはいけません!お口に入るのも嫌ですし、筋肉痛は絶対に避けたいです……」

「安心しろ。いい薬湯を作ってやる」

「こ、こちらが負ける前提なのは、やめるのだ!ここにいるのは、誰もが率先して守るべき淑女なのですよ?」



だが、周囲を見れば、か弱き乙女の為に負けてあげようという気配一つないではないか。

おまけに、王都からのお客に気を遣う気配も、ウィーム領主を守ろうとする気配もない。


ぞくりとしたネアは、ディノにもう一度必勝の誓いをして貰い、試合開始の合図を待った。




そこから先の狂乱の時間については、多くを語るまい。



と言うより、もの凄い勢いで追いかけてくる巨大毛皮尻尾という脅威はあまりにも苛烈で、競技中のネアの記憶は、朧げにしか残っていなかった。



ただひたすらに、筋肉痛は嫌だと繰り返し念じていたような気がするし、ぎゅおんと橇が空を飛んだ瞬間には、心臓が止まりそうになったことも覚えている。




だが、気付けばそこは雪原であった。

はらりと雪が舞い落ち、ランタンの光が淡く揺れている。



(…………ここは、麓の雪原………)



そう認識し、はっと息を呑んだ。

慌てて立ち上がろうとして体が傾き、ぽふんとディノの腕の中に抱き止めて貰う。



「………の、飲み込まれるのは嫌でふ!!」

「ネア、もう終わったから大丈夫だよ」

「ディノ!………みんなは無事ですか?…………ぎゃ!ノアがぺっとされています!!」



となると、一体誰が犠牲になってしまったのだろうと振り返ったネアが見たのは、橇食いに飲み込まれた橇ごと、犠牲者たちがぺっと吐き出されている光景であった。



雪原に儚く倒れ伏しているアルテアの姿もあり、ウィリアムは、雪の上に体を起こして首を振っている。



「ネア!お前達も無事だったか………!」

「エーダリア様!ご無事だったのですね!」

「ああ。兄上と私が同着の一位だったからな。………お前達が二位だったのだろうが、………三位がいないとなると、橇運びで規定違反となったのだろう」


そう肩を落としたエーダリアは、最後は敢えてヴェンツェルと速度を合わせて一位で揃えたのだと教えてくれた。

橇食いは、人数ではなく順位で判断してくれるので、救われる者を増やそうとしてくれたらしい。



「…………やれやれ、どうしても何事もなく滑り終えるのが難しいようですね。………そちらは大丈夫ですか?」

「久し振りに愉快な時間だった。なぁ、ドリー?」

「……………俺は、息が止まるかと思った。ここまで力を振り絞ったのは久し振りだ…………」



ぜいぜいと肩で息をするドリーという珍しいものも見られてしまい、ネアは、役目を終えた橇食いが姿を消してしまった事に安堵しつつ、吐き出された義兄を雪から掘り起こしに行った。


ノアは、勢いよくぺっとされたので、ふかふかの雪に沈んでしまったようだ。

おまけにしくしく泣いているので、とても怖かったのだろう。


アルテアについては、ウィリアムが片手で引っ張り上げてくれているので、きっと元気に起き上がってくれるに違いない。



「ノア、………大丈夫ですか?」

「…………え、僕、三位だったんだけど、何で食べられたの?…………っていうか、エーダリアとあの王子強過ぎじゃない!?」

「ヴェンツェル様はドリーさんが頑張ったようですが、エーダリア様は完全にお一人の力ですものね………」



橇食いのお口の中は湿っていて嫌な匂いがしたと泣いている義兄を慰めながら、ネアは、今夜の打ち上げは荒れそうだぞと遠い目をした。


とは言え、橇食いに飲み込まれても無事に橇で滑り終えたのと同じだけの祝福は得られるのは間違いないので、滑り直しの必要はないらしい。



「ディノ、頑張ってくれて有難うございました。お礼にぎゅっとしますね」

「虐待………」

「え、僕も抱き締めて………」

「ノアは、………洗浄魔術的なものを施してからにして下さいね」

「え、僕の妹が冷たい………」



遠い山々の向こうでも、ちらちらと揺れるランタンの光が見えている。

ネアは、そのどこかにもあの毛皮尻尾がいるのかなと考えつつ、皆の安全と幸福を心から祈っておいた。









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― 新着の感想 ―
[気になる点]  いつも楽しく読ませてもらっています。  同着1位が2台なら、次の順位は3位になるはずですから、ネアたちも飲み込まれるのではないでしょうか。  同着2位が2台なら、次が4位になって話は…
[一言] 本当に些末なことなんで、恐縮ですが、 今回の橇食いの話で、「三位以下」だと三位が含まれてしまうので、橇食いに食べられないのは1位と2位のみになってしまう気がしました。
[良い点] いつも楽しく拝見させて頂いています。 今年の10月頃から一気にここまで読み進めてしまったくらい、今はこのシリーズにのめり込んでしまいました。 色彩や匂いの表現が素敵で、絵に描き起こしたくな…
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