31. 解決が仕事ではありません(本編)
昼食の席であらためて話し合いの場を設けると言われていたので、それまではと、レイノ達はアンセルムの工房で時間を過ごした。
ここは無事に靄も晴れたところで、ネアハーレイとしたいところだが、あまり本当の名前をこころに留めおいても危険があるそうで、言葉を選んでそう教えられてからは、レイノはもう忘れてはしまわないものの、本当の名前は大切にしまっておくことにした。
なお、デュノル司教には予定していた執務や儀式などがあったようだが、今回はレイノの契約の魔物であるウィルの要望でここに来ているということもあり、その役目を優先する事が出来ているらしい。
この教区では、教区としての日々の務めよりも優先される項目が幾つか定められており、迷い子が契約者を得るにあたっての手助けもそこに含まれている。
加えて、ウィルがとても階位の高い魔物であると周知された後なので、こうしてデュノル司教がその要求に従っていても問題にはならないらしいが、とは言え、諸々の調整などは必要であり、その計画にないあれこれについては、リシャード枢機卿が対処してくれているようだ。
工房の外から遮蔽されても、魔術の連絡板は生きているので、そこから確認を取り、デュノル司教もお昼まで一緒に居られることになった。
アンセルムはとてもげんなりしていたが、皆がナーバスになる食事問題については、デュノル司教がどこからか取り寄せたものが提供され、レイノは初めて食べる筈なのにどこか懐かしさを感じる美味しい朝食をのんびりといただいた。
「そう言えば、…………リシャード枢機卿の手料理も食べてしまったのですが、それは問題ありませんか?」
「彼のものは問題ないよ。君の好きなものばかり作ってくれただろう?」
「はい!鴨のコンフィと、パイも美味しかったですし、デザートの苺のタルトは絶品でした!」
「……………へぇ、猊下は料理をされるんですね。それを聞くとなぜかとても君に他の料理を食べさせたくなりますが、無駄に命を縮める予定はないので、諦めましょう」
「ふぐ。………グラタン…………は、とても美味しかったです」
思わずそう言ってしまい、レイノは、体を強張らせた伴侶の為に、慌てて、今のところ一番美味しかったのはフレンチトーストだったと付け加えた。
「あのフレンチトーストは、君が作ってくれたんだ。私も上から粉をかけて仕上げをしたんだよ」
「まぁ。だから、私が大好きな味だったのですね…………!」
そう納得したレイノに、デュノル司教は、あの夢の中で見た事が、夢ではなく実際に起きたことなのだと教えてくれた。
レイノとしてはあまり覚えていないのだが、それでもとても楽しい時間だったことは目が覚めても心のどこかに残っている。
(不思議な世界だわ。………夢の中の私は、記憶があるだなんて……………)
でも、どうやら自分は、この伴侶をとても大切にしているのだなと納得し、レイノは何だか嬉しくなった。
大切なものがあるのだと知る事は、とても幸せな事ではないか。
仕事が終わればそのお家に帰れるそうなので、今からとても楽しみである。
「………と言うことは、私は、いずれはそのお家に帰れるのですか?」
「ここでの君は、迷い子として保護され、迷い子としての役割を果たしその手順を踏む必要がある」
精霊の巣として遮蔽地になる場所であれ、その外に戻ってからの為に持ち帰れない情報もあるのだと言う。
アンセルムの工房を出るまでにと、憂鬱そうに瞳を曇らせ教えてくれたデュノル司教は、レイノの中に残っていても問題のない範疇でこれからするべき事を教えてくれた。
「今日が終われば、この仕事も一区切りだ。大変な一日になるけれど、君の家に帰れるまでにもう少しだけ頑張れるかい?」
「はい。こうして、デュノル司教が近くにいてくれますし、外では、ウィルが守ってくれるのでしょう?」
「ああ。それは任せておいてくれ。見誤った舵取りを修正するつもりなら、アンセルムも力を尽くしてくれるだろう」
「…………そうするしかないようです。ですが、このような経験もそれなりに興味深いのは確かですし、僕はまだレイノの教官ですから、君の手助けをするのも当然なのかもしれませんね」
そう淡く微笑んだアンセルムは、最初に見せてくれた皆に愛されるお人好しの神父としての顔ではく、人ならざるものの気紛れを滲ませた柔和さでそう約束してくれた。
(…………何となく、この人の温度感が見えてきたような気がする。精霊なのに、人間のふりをして異端審問官としての仕事をしているくらいには、愉快な事であれば面倒も楽しめるような人なのかもしれない…………)
であれば、今回の事でも落とし所を見付け、 納得してくれたのだろうと安堵していたレイノは、すぐにまた違う脅威に対面する事になった。
「……………さて、どういう経緯でその召喚になったのか、報告を聞かせて貰おうか」
工房を出てリシャード枢機卿の執務室を訪れたレイノは、衛兵に伴われて開いた扉の向こうに立つ、たいへん冷ややかな美貌の唇の端だけを持ち上げ暗い微笑みを浮かべた枢機卿の表情に慄いた。
可動域でどう判断されるにせよ、レイノとて空気の読める大人である。
これはとても怒っていらっしゃると、すぐさま理解せざるを得ない。
(た、確かに、よりにもよって一番偉い猊下が、あの場所に一人で残って儀式の結果について対処してくれていたのだわ………)
あの場では叱責される事もなく送り出してくれたのだが、それは衆目の手前、そうせざるを得なかったからに過ぎない。
朝の儀式の報告をするのはこれからだったのだとあわあわし、レイノは、辛うじて一言だけ絞り出した。
「…………ぎ、儀式は大成功です」
「ほお。歌乞いの儀式でもなく、白みがかった水灰色の髪と装束の、限りなく高位の魔物を呼び落としたようだが」
「望まれた以上の成果を上げるのが、私の役目だと心得ておりました」
「召喚術式の中で、召喚した生き物を滅ぼしておいてか?」
「……………ありなどしりません」
「儀式中に終焉の予兆を入れ込んだのは知っている。いいか。そもそも、召喚に応じた存在を例え蟻でも殺すな。場合によっては擬態した高位の生き物を傷付けようとした事で障りを受けるぞ」
「という事は、あれはただの蟻さんではなかったのですね!」
「普通に蟻だな。俺でも、召喚儀式で蟻を呼び出した奴は初めて見たぞ」
「……………ありなどしりません」
もしや、とても凄い生き物だったのかもしれないという刹那の希望を打ち砕いたリシャード枢機卿に、レイノは厳しい面持ちで首を振った。
頼りになるレイノの魔物が証拠隠滅を済ませてくれた以上、勿論、蟻を呼び出した過去など持ち合わせてはいないので、その嫌疑についてはきっぱりと否定してゆく所存だ。
ぶんぶんと真顔で首を横に振ったレイノを、冷たい目で見ていたリシャード枢機卿だったが、ふと、表情を和らげた。
「………だが、顔色は戻ったな。その点においては、まずまずか」
「………………む」
「あんな表情をしておいて、気付かれていないと思っていたのか?」
呆れたようにそう言われ、頭の上にぼさりと手を乗せられたレイノは、やはりこの人も本来のネアハーレイを知っている人なのだと結論付ける。
アンセルムの工房では、枢機卿との関係について迄、デュノル司教が踏み込む事はなかったが、それはアンセルムの存在を考慮して手の内の全てを明かさなかったのかもしれず、こうしてこちらを見ると、リシャード枢機卿の眼差しは何だかとても親密なのだ。
漆黒の聖衣を翻し、部屋の奥にあるテーブルに歩み寄ると、その上に几帳面に並べられた幾つかの難解そうな書類を取り上げている後ろ姿に、この人とはどんな関係なのだろうと考えた。
何となくだが、こうして共に動くことが様になっているような気もする。
(…………もしかすると、猊下は本来の私にとっても直属の上司だったりするのかしら…………)
こうして潜入調査をしているとなれば、極秘裏に動くスパイのような仕事をしているのかもしれないと考え、レイノは密かにわくわくした。
かつてのネアハーレイも、偽りで心を覆って一人で見知らぬ場所に滑り込んだ。
けれど、こうして仲間がいて戦っているのだと思えば、それは怖いばかりの事ではない。
(でも、まだやる事が残っているのだし、油断をして転ばないようにしなければ。……………これはお仕事で、けれども私がここに送り込まれた一番の目的は教えて貰えなかった。デュノル司教の言葉だと、私が拾おうとしているのは心臓のようなもので、けれども、良くないものにわざわざその心臓を探しているのだと知られたら、とても厄介な事になるらしい………)
心臓という言葉から、それはなくてはならないものだと考えることは出来る。
けれど、魔術において、知る事とは知られる事だと言われても、きっとレイノにはその本当の意味を噛み砕けていないのだろう。
レイノが終焉の魔物についての知識を得ていたからこそウィルを召喚出来たと教えられ、知識があるという事が、橋のようになってどこかへの道を繋ぐ事はぼんやり理解出来た。
けれど、レイノの頬にそっと手を当てて、痛みを堪えるような目をしたデュノル司教から、それは大切な探し物なのだと言われれば、今はもう、知らない事が残っていてもそこまで怖くはなかった。
(そうだわ。…………こういうものなのだ)
隠されていても、嗅ぎ取ってこれは信頼に足るものだと掴み取れる要素もある。
侵食の魔術とやらで曇ってしまっていたその感覚が、またこの手の内に戻ってきてくれた。
残された時間の間は、ウィルの側を離れないようにして侵食魔術とやらに捕まらないようにしようと、レイノは、こちらもきっと掴み取っていいはずのリシャード枢機卿にぺこりと頭を下げた。
今のレイノが履いている靴擦れの気配もない新しい靴は、この枢機卿が取り寄せてくれたものなのだ。
「ご心配をおかけしました」
「俺が迷い子の後見人を引き受けたのは、それが他のカードには切れない効果を持つものだからだ。果たすべき役目と、己の立場を弁えて不相応な領域には手を出すな」
その言葉は冷淡であったが、あちこちにレイノが忘れてはならない行き先が散りばめられている。
(あ、……………)
解決する事が仕事ではないと、誰かに言われたような気がした。
この場所からしか確かめられない事を調べ、そして無事に帰ることがレイノの仕事だ。
そう言い含めて送り出してくれたのは、レイノにとって、家族のように大切な人だったのではなかっただろうか。
(…………私にそう言ってくれたのは、猊下だったのかしら…………?)
枢機卿は、レイノを庇護した夜に、美味しい料理をたくさん振る舞ってくれた。
デュノル司教が、好きなものばかり作ってくれただろうと話していたくらいなので、リシャード枢機卿の手料理を食べるのは初めてではないのかもしれない。
「あまりこの子を叱らないでやってくれるかい?どうやら、私の方で失言もあったようだ。思いがけない認識を浸透させてしまったことで、この子を不安にしていたらしい」
デュノル司教の言葉は、レイノが取り違えた伴侶という言葉に付随するようで、この教区に敷かれた魔術の問題に触れているようにも聞こえる。
はっとしたレイノは、先程のリシャード枢機卿の言葉からの一連の流れが、この二人なりの報告と共有でもあるのだと察し、その巧妙な言い回しに感嘆した。
そのどちらを答えとして受け取ったものか、けれども、必要な情報は余さず得たに違いなく、リシャード枢機卿は満腹の猫のように微笑み、優雅な仕草で肩を竦めてみせた。
「…………それなら、工房では有意義な話し合いが出来たようだな」
「彼女の契約の魔物との関係も悪くないよ。これであれば、確かに召喚術式は成功だったと言えるのではないかな?」
「…………僕に対しては、話し合いではありませんでしたけれどね…………」
こうして、レイノが契約の魔物を得た事で行われた会合は、リシャード枢機卿の執務室にある会議用の円形テーブルで行われた。
今回も、シスター達や家事妖精と呼ばれる輪郭だけの影のような生き物の手すら借りず、枢機卿は手ずから紅茶を淹れてくれるようだ。
ただし、アンセルムはそれを断って自分で淹れているのと、ウィルについては、目の前にティーポットとカップが無造作に置かれているばかり。
これは、魔術の繋ぎを避ける為に行う、契約の魔物における仕様だとリシャード枢機卿からは説明があったが、その説明の間にやけに静かな眼差しをしていたので本当は違うのかもしれず、ウィルの紅茶はレイノが慌てて淹れてあげることになった。
(猊下は、まだウィルが終焉の魔物だとは知らないのかしら…………?それとも、知っていてもこの対応なのかな…………)
王族の魔物の一人だということなので、もし知らなかったらと心配になったが、デュノル司教のように、ウィルと知り合いだからこそのこの距離感の可能性もある。
レイノの予測としては、死の精霊の王族だというアンセルムにも凄まじいと言わしめた魔術を扱うくらいなので、後者寄りなのではないだろうか。
(でも、そう思うとウィルは、随分と色々な人間と仲良くしてくれている魔物なのだわ…………)
アンセルムが話してくれた終焉の魔物は、特等の人外者であり、あまり人間がかかわって良い存在ではないと言う事だったが、あれこれ親身に世話を焼いてくれるウィルを見ていると、世話好きなお兄さんといった感じで、寧ろここにいる誰よりも近しく感じてしまう程だ。
アンセルムへの対応のみ、若干剣の使用頻度が高い傾向にあるものの、ここに来る途中の廊下では、留め金が外れて風にばたんばたんしていた窓をさりげなく直してくれた庶民的な一面も見せてくれた。
そんなウィルを見て、レイノは、初めて得る契約の魔物がウィルで良かったと心から思った。
(以前から私と仲良くしてくれている事と、歌乞いの儀式ではない召喚に応じたからということで、守護を与えても命を削ったりはしないって約束もしてくれたし…………)
じっと見つめれば、おやっと目を瞠ってこちらを見て優しく微笑んでくれる眼差しは、困った事があれば駆け込みたいような誠実さだ。
レイノとしては、憧れの騎士風の魔物と無償契約出来たようなものなので、この契約が仕事を終えてからも続くのかどうかたいへん気になるところだ。
勿論、既婚者になるので、違う種族の生き物とはいえ、見目麗しい男性姿のウィルとの契約は問題になるかもしれないが、その場合は友達としてで構わないので、是非に時々は本来の白い軍服姿で会いに来て欲しい。
「さて、…………」
かたんと、琥珀を切り出したような美しい板が置かれ、そこに銀細工の留め金でぱちんと挟まれた書類が提示された。
独特な装飾の文字は、濡れているように見える泉水晶のインクで書かれており、レイノにはその文字までは読めないものの、厳かな雰囲気を感じさせる文字組みの構成の意図は読み取れる。
これはきっと、命令や辞令のような、公式な文書なのだろう。
「本日中に、教区主立会いの下、誓約儀式が執り行われる事が決定した」
「おや、思っていたより早く決まりましたね。…………やはり、契約相手が魔物だからでしょうか。教区主様は、聖人の称号を得る歌乞いの誕生には敏感ですからね」
そう驚いてみせたアンセルムに、リシャード枢機卿は片方の眉だけを器用に持ち上げてみせる。
「歌乞い以前に、契約した魔物の髪色が白がかっていれば、一刻も早く誓約儀式をと思うのは当然だろうが………」
そう呟く声の苦々しさに、レイノはちらりとウィルの方を見る。
こちらは朗らかに微笑んでいるばかりで、特に枢機卿の言葉を気にしている様子はない。
ゆったりと椅子に腰掛け足を組んだ様子から、すっかりと寛いでいるようだ。
「擬態をするにせよ、ある程度は階位があることを示さないと防壁にならないと思ったんだが、良い方向に働いたみたいだな」
「ふふ、ウィルのお陰ですね」
優しく微笑みかけてくれたウィルに、レイノがそう返せば、リシャード枢機卿はいっそうに冷たい目になる。
「……………俺とデュノル司教も立ち会うが、儀式祭壇に登るのはお前と契約の魔物だけだ。今度は事故るなよ」
「…………じこなどありませんでした。ウィルはとても良い魔物なのです」
「言い直して欲しいのか?儀式で不確定な介入があっても、あの蟻のように踏み殺すな」
「ぐるる!!」
鋭く唸ったレイノに対し、アンセルムが手を伸ばしたが、ウィルがすっと剣に手をかけるとぎくりとしたように手を引いた。
その隙に、デュノル司教が絵付けの美しい陶器のボウルをどこからか取り出し、中の菫の形をした可愛い砂糖菓子をくれたので、レイノは、その幸せな甘さにすとんと鎮められてしまう。
「今回は歌乞いですから、鹿角の聖堂での儀式になりますね。この教会ではなく、修道院の奥にある森の中の聖堂です」
そう語ったのはアンセルムだ。
直接に手を貸すようなことはなくとも、教区の隠者としてアリスフィアの行なっていることは一通り把握しており、どこにどのような魔術の仕掛けがあるのかも熟知しているという。
そう聞けば、この精霊さえ押さえておけばほぼ解決間違いなしな証人に思えてしまうが、魔術というものには理や規則があるので、そう簡単でもないらしい。
特に信仰の魔術については、戒律という形で言動を厳しく管理されてしまうことから、最も複雑な魔術の一つだとされているのだとか。
(アンセルム神父が、異端審問官として過ごしているのは、その魔術の複雑さが頭の体操になるからだと言うけれど…………)
異端審問官の肩書きで遊ぶ為に、アンセルムは、この土地を整えてあの迷い子の門の原型となるものを作った。
結果として土地の手入れを続けるので隠者としての肩書きまで得てしまい、ここにはもう二百年も暮らしているのだと言う。
「…………契約によって、儀式をする場所が変わるのですか?」
何となくだが、全ての大掛かりな儀式はこちらの教会側で行われるのだろうと考えていたので、そう首を傾げてみせたレイノに、アンセルムが説明を重ねてくれる。
「付与される肩書きが変わるので、それぞれに対応し、失礼のないような魔術と装飾を施した施設に分けてあるんです。…………まぁ、それは建前で、現実的な問題としては、迷い子が契約する種族によって身に宿す魔術が違うので、この土地の魔術を生かし最適な舞台を設ける必要があるんですよ」
(それはつまり、………拘束を強める為に必要なのかしら…………)
レイノが契約の魔物を得たことで、この教区に敷き詰められた侵食魔術はより強固になっている可能性があるそうだ。
だから、こうしてアンセルムが語る言葉も、隠された真実の全てではない。
何よりもレイノ自身が、迷い子として交わした約束で教区に繋がれた状態なので、遮蔽地の外では、交わされる言葉にいっそうの制限があった。
とは言え、アンセルムはその制限を外すことも出来るこの教区の隠者なのだが、アリスフィアが警戒しないよう、いざという時までは、精霊らしさは出さないようにという方針である。
ふと、昨日の朝のミサで出会った少女の姿を思い出す。
レイノの目には幼くも見えてしまう相貌と、充分に経験を積み老成した教区主らしい声音と。
そのアンバランスさが、あの少女をどこか危うく見せる。
(…………静謐の祟りものだと、ウィルは呼んでいた……………)
レイノが見たアリスフィアの眼差しには、喪失で固められた決意と空虚さがあって、彼女は未だに契約者を得られていない迷い子で。
(どうして彼女は、祟りものなんてものになってしまったのだろう…………?)
ウィルが来た事で、緩められて得られた事実があった代わりに、アリスフィアについての詳細な情報は然程与えられなかった。
それは勿論、調査対象にしなければならないくらいには情報そのものもないのだろうが、彼女がこの教区の怪物だと判明した以上は、デュノル司教にはその処遇についての考えがある筈だ。
(…………猊下とデュノル司教のやり取りといい、あちこちに散りばめられたヒントからすると、私がここにいる意味は教区主様をどうこうする事ではないのだと思う。………工房での話でも、これから行われる誓約儀式さえ終えてしまえば、後はもう日付が変われば、ここを出られるというような雰囲気だったし……………)
だからレイノは考える。
きっと、このような仕事は、物語の正義のようには真っ当ではないのではなかろうかと。
アリスフィアという存在が迷い子達を食べてしまうにせよ、迷い子を集められる仕組みは有用である可能性はないだろうか。
場合によっては、彼女をそのままこの土地に残すつもりさえあるのかもしれない。
だから、どこまでを任務の区切りとするべきかが明言されない可能性を踏まえ、レイノは予め予防線を張っておくことにした。
これは最後の頁まで読まないものなのだと事前に考えておかなければ、うっかり開かなくてもいい頁を捲ってしまいかねないからだ。
「その儀式について、手順やお作法など、私が備えておくことはあるのでしょうか?」
「秘儀として管理される儀式は、敢えてその内容を明かされていないものが多い。この儀式もそのようなものの一つで、事前に全てを教えられる訳ではないが、まずは、教区主から召喚に応じた人外者に対しての挨拶がある。その後に、歌乞いと契約の魔物として遵守するべき教区との取り決めを示され、それを了承して署名をすることになる筈だ。形としては二カ国間の境界と制約を公にする、調印式に似ているな」
「魔術の誓約は絶対のものだと教わりましたが、……………遵守するべきという内容のものを、私の判断で交わしてしまって良いのですか?」
その問いかけにこちらを見たリシャード枢機卿は、青緑色の瞳を細めじっとレイノを覗き込んだ。
「これについては、お前が、迷い子として保護された時に交わされた誓約から続く、魔術の輪の結びの文のようなものだ。後見人を選ばせ、迷い子達を保護して教育してやる理由こそ、この結びにある。基本的にはそのまま進めて構わないが、儀式の内容に問題があれば、その魔物が指摘するだろう」
一通りの説明を受け、レイノは頷いた。
今朝に行われた召喚の儀式と違い、これから向かう誓約儀式はこの教区側の主導のものだ。
不安がないと言えば嘘になるが、一連の魔術の輪を閉じて完成させる事が目的だと暗に示され、それならばと飲み込む。
「レイノ、儀式の間は俺が君を抱き上げているつもりだから、離れないようにするんだぞ」
「…………手が塞がってしまいます。かえって足手纏いになりませんか?」
「知らなかったのか?契約の魔物は狭量なんだ。手に入れた契約者が、自分から離れるのを好まない」
にっこり笑ってそう言ったウィルは、そんな契約の魔物の習性を利用してレイノを抱え込む理由にするつもりなのだろう。
「では、私の魔物に持ち上げていて貰いますね」
その言葉になぜか、隣に座ったデュノル司教が長い髪の一房をレイノの膝の上にそっと乗せてくる。
これはどのようなサインだろうと首を傾げれば、悲しげにしょんぼりとしていた。
その時、こつこつと扉が鳴らされた。
「猊下、迷い子のシャーロット様がおいでになりました。後見人のシスターエイハン、契約の魔物様とご一緒におられまして、デュノル司教に取り次ぎをいただきたいとの事ですが」
規則正しいノックの後に、リシャード枢機卿の許可を受け、衛兵の一人が扉を開けて入って来た。
そうして持ち込まれた思いがけない知らせに、レイノはぎりぎりと眉を寄せる。
それは、昨晩、デュノル司教の庇護を求め、今朝の儀式の後でその名前を呼び駆け寄ろうとしていた歌乞いの少女の訪問であった。




