196. 雪白の舞踏会で減っています(本編)
イブメリアの朝は、しっとりと濡れたような雪曇りで、美しい灰色の中に色付く飾り木の煌めきは、緻密な宝石刺繍のようであった。
その繊細な縁取りは枝葉の形をしていて、様々なオーナメントがきらきらしゃわりと細やかな光を放つ。
ウィームの冬に燃えるように鮮やかな色合いというものはないのだが、その代わりに、雪の白さがはっとするような清廉な輝きとなって、くすんだ青色や青灰色がまた上品で柔らかな石造りの街を輝かせていた。
ゴーンゴーンと鐘の音が鳴り響き、ネアは、体に響く音に胸を震わせながら、ウィーム大聖堂の高い天井を見上げた。
生まれ育った世界なら神がおわすと言われる天井の下は、それはそれは荘厳な佇まいなのだが、こちらの世界に於いては、そもそも隣に信仰を集める存在に相当する人外者が立っていたりする。
おまけにそんな生き物は、とても三つ編みを持たせてくるのだ。
然し乍ら、今のネアは、どこかに迷い込まないようにと安全の為に三つ編みを持たされても尚、厳かな気持ちであった。
魔術仕掛けのパイプオルガンの音色と聖歌の余韻が残っているのは、クラヴィスの事件を経て魔術洗浄がなされたからなのだそうだ。
聖歌の調べに身構えかけたネアに、ディノが、こちらの祝祭に結ぶ歌声なので安全なのだと教えてくれたので、安心して美しい音の響きを楽しんでいる。
(光のヴェールが落ちて、とても綺麗……)
ステンドグラスからの光は雪の日らしく淡く深い色をしていて、天井から吊るされた香炉から、香木を焚いている煙がたなびく向こうに、素朴な風合いの飾り木が立てられている。
瑞々しいモミの木のような枝葉には、祝福の光が、ちかりと揺れたりもしていた。
ネアは贈り物のケープを羽織り、儀式を象る様々な音の中で静かに佇んでいた。
これからエーダリアの詠唱が始まるので、響く音の余韻までの全てを聞き逃さない所存である。
壇上に立つエーダリアの装いは、この大聖堂の中だと雪明かりのような不思議な清廉さに見え、本日の装いは、服地が光の角度で色合いが違って見えるのだという事に気付いたネアは、身内の特権で得意げに微笑む。
天窓のステンドグラスの縁には妖精が腰かけていて、お客の中には竜や魔物もいる。
神聖であるのと同時に、どこかひやりとするような異形の気配のある儀式の場は、何度訪れても見飽きる事はなかった。
きん、と、音が澄み渡った。
詠唱の前に落ちる静謐にすら祝祭の朝の光が滲んでいる様は、とても秘密めいていて、とても特別な物のような気がする。
だからまた、麗しい祝祭の気配に微笑んでしまうのだ。
(雪の降る音がする…………)
しんしんと降り積もる雪は音を吸い込み、静けさそのものを音階として横たわる。
そんな中で始まるイブメリアの朝のミサは、ただその場に立っているだけで、ネアの胸を震わせるのだ。
清しい飾り木の枝葉の香りの瑞々しさを、香炉から立ち昇る煙が少しだけくすませる。
重なり合う不思議な香りの中で、祝祭の日を迎えた盛装姿の人々が、美しく凛とした詠唱に聞き惚れていた。
(……………ああ、そうか)
ネアはふと、すっかり見落としていた事に気付いた。
ネアの隣にいる美しい魔物は、多分この世界のどんなものでもあるのだろう。
それでもなぜか、ネアがディノの瞳の中に見付けるのはいつも、イブメリアの夜や夜明けのような繊細な美しさという、一番大好きな情景ばかりなのだ。
そして同時に、エーダリアの詠唱はいつも、イブメリアの朝を思わせる。
ウィームの血族だからなのかもしれないが、こうしてイブメリアの儀式を執り行うエーダリアは、どんな時よりもその祝祭に相応しいと思えてしまった。
この灰色がかった空の明るさと、ステンドグラスから落ちる色影の中のエーダリアは、僅かに持ち上げた指先で祝祭からこぼれ落ちる祝福をなぞり、複雑で頑強なイブメリアの誓いや祈りを繋いでゆく。
祭壇の上には信仰を司る魔物のレイラもいるのに、その姿はなんと堂々としていて美しい事か。
(…………今年は、私が担当する詠唱はないけれど、そのお陰でこんなに素敵なものをじっくり堪能出来てしまうのだわ)
その年の祝祭に相応しい者が、幾つかの詠唱や宣言を引き受けるのが、ウィームのイブメリアのミサだ。
今年は、ネアではなくてヒルドがその役目を果たすのだから、ただの観客でいる事を許されたのは、どれだけの幸運だろう。
こちらの事情で参加出来ない申し訳なさを噛み締める必要もなく、緊張のあまり声がひっくり返ったり、うっかり言うべき事を忘れてしまったらと思い悩む必要もない。
ただ、ただ、この清廉で美しい時間にたぷんと身を浸し、祝祭の煌めきに心をほろほろにするだけ。
(狐さんが狐温泉でとろとろになるのなら、私が一番に溺れてしまうのは、このイブメリア周りの全てなのだろう………)
となると、夏の国などに呼び落とされていたら、いつかこんな素敵な雪とイブメリアの土地がある事を知って世界を呪うに違いないので、ネアがウィームに暮らしているのは、この世界の為でもあったのだ。
そんな事を考えてにやりとしていると、司祭から詠唱を引き継いだエーダリアがふっと声を収めた。
エーダリアの詠唱の中で重ねられたヒルドの声は、豊かで深い夜の森を思わせる。
力のある人ならざる者の持つ声の美しさにまたしても打ちのめされ、漆黒の盛装姿のヒルドの美貌が、エーダリアの装いと綺麗に対になっている事に目を輝かせる。
そうして存在を知らしめ、ここにウィーム領主を守る者がいるのだと宣言する為の装いなのだろう。
その詠唱をもう一度引き継ぐのは、雪竜であるワイアートだ。
髪色が変わり階位を上げた筈なのだが、今日は今までのような黒髪に擬態しているらしい。
そう考えると、以前から髪色は変化していたものの、ずっと擬態で隠していたのかもしれなかった。
こちらは白灰色の盛装姿で、たいへん美しい。
(あ、司祭様の詠唱だ。……………となると、朝のミサはこれで終わりなのかな)
ネアの大好きな声を持つ司祭はもういなくなってしまったので、あの声をまた聞けたらいいのになと考えていると、ゴーンゴーンと鐘の音が鳴り響いた。
いつの間にか、大気中に残された音の余韻を残し、儀式は閉幕を迎えている。
「………まぁ、もう終わりなのです?」
「朝のミサは、夜よりは短いのだろう。今年は調香の小枝があるようだね。試してみるかい?」
「ちょうこうのこえだ………」
「うん。祝祭の儀式で、その日の朝に汲み上げられた祝福の香りを配るんだ。手順として儀式に組み込まれたものではないけれど、相応しい香りが出来上がると行う事も多い。香りで行う魔術調律のようなものだね」
「……………どんな香りがあるのか、試してみてもいいですか?」
「では、こちらの列に並ぼうか」
「はい!」
ディノが教えてくれた調香の小枝の儀式は、綺麗な結晶石や花々を詰め込んだグラスのような物を持った聖職者達が、その容れ物の上に翳した小枝を、訪れた人々の手首に触れさせる儀式であるらしい。
祝祭で香り立つ祝福が生まれないと行われない儀式なので、ディノも久し振りに見たようだ。
ネアはいそいそと香りの配布列に加わり、固唾を飲んで順番を待つ。
見知らぬ若い聖職者もいたが、選んで並んだのは、以前からこの大聖堂で見かける男性の列だ。
信仰の魔物が失踪して捜索に当たった時、表に出て会話をするような事はなかった人物だが、感じのいい人だなと覚えていたのである。
「全部で五種類の香りがありますので、お気に召した物を指示下さい」
「はい。この五種類の中ですね……………」
硝子の蓋のようなものをかぱりと開け、匂いを嗅げる道具がある。
ネアは順番に五種類の香りを嗅がせて貰ったが、残念ながら、これは素晴らしいぞというお気に入りの香りはなかった。
とは言え、ここまで並んでしまった以上は引くに引けなくなっており、その中で一つを選んで手首に香りを移して貰う。
(ウッディな香りも好きなのだけれど、どちらかと言えばこの調香はエキゾチックというか、オリエンタルな感じに偏ってしまうのかな。果実の香りの甘い調香は、ジャスミンが入っているのか、少しもったりしているように感じる……………)
どちらかと言えば今迄は、雨上がりの香草園や瑞々しい果樹園の香りのような調香に触れる事が多かったので、この組み合わせは少し意外であった。
受け取った香りをくんくんし、ネアはこっそり落ち込んだ。
この世界の香りであれば全てが素晴らしい訳ではないのだなという、不思議な達観のようなものをも得る事が出来たと思い、今回は勉強だったと考えるしかない。
ネアが喜ぶだろうと思って調香の小枝の儀式を教えてくれた魔物の手前、儀式に参加出来た事については大いに喜んでおいたが、身に纏った香りには少しだけぐぬぬとなっている我儘な人間である。
(果実みのある無花果の香りだったのに、甘酸っぱい香りの部分が、肌につけると感じられなくなった!)
結果として、もったりした甘さと粉っぽさだけが残った香りを纏う事になり、ネアは、きっぱりとあの場でお断り出来なかった自分の不甲斐なさを悲しく思った。
狐温泉に頭から飛び込みたい気分だが、今暫くは我慢し、どこかでさっと手首を洗ってしまおう。
そんな苦悩から解放されたのは、雪白の香炉の舞踏会へ向かう準備の時間であった。
逆に言えば、その時間まで逃げ出せなかったのだともいえるのだが、ドレスに着替える段階になってようやく、身支度を整える為にという理由付けで、手を洗う機会が持てたのだ。
相性の良くなかった香りから解放された人間は、真っ先に伴侶の腕の中に飛び込んでしまい、うっとりとするような魔物の匂いをくんくんしたので、いきなり襲われたディノはよれよれになってしまった。
だがこれは、必要な回復措置なのだ。
「虐待する……………」
「調香の小枝の儀式はわくわくしましたが、私はやはり、ディノの香りが一番好きなようです。祝祭に汲み上げられた香りなどでは、私の大事な魔物には勝てなかったのですね!」
「ご主人様!」
勿論、その二者の間には、他にも庭に咲いている薔薇の香りや、摘みたての檸檬の香りに銀狐の犬用シャンプーの匂いなども含まれるが、賢明な人間はそこまでを明らかにはしなかった。
なんなら焼き立てのパイの匂いも先程の香りよりは好きなものの、そちらについては、身に纏うとまた違う印象になりかねない。
「今年の雪白の香炉の舞踏会のドレスは、物語のようでとても素敵ですね!…………羽織っているヴェールケープの繊細な模様が美しくて、こんなに透けるのに内側が柔らかく毛皮で裏打ちされているのですよ!」
「とても良く似合うよ。……………綺麗だね、ネア」
「む、……………むむ!とても素敵な感じに褒めて貰いましたが、手に持った三つ編みで目元を隠しながらではいけませんよ?」
「……………ずるい」
この日の為にディノが用意してくれたドレスは、淡く灰色がかった白いドレスであった。
背中が大きく開いた大人の女性らしい意匠だが、背面の縁取りのレースの繊細さは豪奢な額縁のようであるし、しっかりと開いた胸元も生花かなというくらいに精巧な作りの白い薔薇の花飾りでふんわり縁取っているので、うっとりするくらいに儚げなのだ。
布地をたっぷり取って広がるスカートは、肩掛けにしているヴェールケープと同じ薄い布地を重ねてある。
この雪白石膏の透かし彫りのような風合いの布が、透かし模様のあるトレーシングペーパーのようにも見えるのに、触れるととろりと柔らかくてしなやかな素晴らしい質感なのだから堪らない。
小さな額縁に入った花の絵が並ぶ繊細でクラシカルな透かし模様は、まるで、老舗の陶器店の高価なラインの品物を包む包装紙のよう。
透かし模様に見えるのに実際には透け感はなく、布の内側に淡い光の模様を織り込む、雪明かりの祝福を受けた珍しいものなのだとか。
髪の毛は結い上げずに下ろしているが、ウィリアムが襟元の薔薇とよく似た薔薇を庭園から摘んできて器用に髪飾りにしてくれた。
ヒルドの耳飾りを色の擬態で淡い菫色にしてつけ、反対側に同じような形を模して作った耳飾りで揃いとする。
「今日のディノの装いは、私とお揃いなのですね?」
「……………うん。おいで、君は私の伴侶だからね」
「ふふ、こんな風に空の上の舞踏会に出掛けるのも、イブメリアの恒例行事になりましたね」
「恒例行事……………なのだね」
「……………まぁ、涙ぐんでしまうのですか?」
「そのようなものを持つのは、……………君が来てくれてからだから」
「あらあら、季節の祝祭やいつものお料理も、夏休みに海遊びも、もうずっと家族の恒例行事なのですよ?」
「……………ネアが凄く虐待する」
「解せぬ」
とは言え、これからは楽しみにしていた舞踏会なのだ。
しゃらんと鎖を鳴らして、雪白の香炉を手に取ったディノに導かれ、ネアは窓から続く空の上の経典の楽園に向かう。
(……………ああ、)
イブメリアの祝祭儀式もそうだが、こうして煙の立ち昇る先に浮かび形成される階段を見ていると、記憶の中に一枚一枚積み上げてゆく美しい風景に、心が震えた。
ディノがあらためてほろりとしてしまうのも分かるような気がして、ネアは抱き上げてくれた伴侶に頬笑みかけておいた。
イブメリアだけの恩寵として雲間に開く扉の向こうには、今日もあの美しい舞踏会会場が広がっているのだろう。
だが、そんな期待に胸を弾ませて階段を登り切ったネア達が見たのは、例年に比べると驚くぐらいに閑散としている雪白の香炉の舞踏会会場であった。
「まぁ。……………今日は、お客様の出足が遅いのかもしれませんね」
「うん。でも、気になる魔術の痕跡があるね。…………これは、殲滅術式ではないかな」
「せんめつじゅつしき……………」
会場の美しさに感動するよりも先に、そんな異変に気を取られてしまい、ネアは慌てて周囲を見回した。
(……………やっぱり、随分と人が少ないような気がする)
ぽつぽつといるお客達は、ネア達のようになぜこんなに参加者が少ないのだろうと首を傾げている者もいるが、なぜか深い安堵の面持ちで抱き合っている者達もいる。
だが、一体何があったのだろうと慄いていると、シュプリを持ってきてくれた給仕の女性が、ネア達の到着前に起きた大事件について教えてくれた。
「……………ほわ、このような場所で浮気の発覚があれば、それはもう荒れ狂っても致し方ありません。ですが、傍に居たお客を片っ端からこの会場から投げ捨てるのは、大迷惑だと言わざるを得ません……………」
「投げ落としてしまったのだね……………」
「給仕さんのおっしゃるように、投げ落とされて無事だったとしても、もう、会場には怖くて戻れませんよね……………」
「……………この殲滅術式は、捕縛の際に使われたものだったのだね……………」
騒ぎを起こしたご婦人は、会場にいたお客達が協力して捕縛したのだそうだ。
すっかり祟りものになりかけていたので、面倒見のいいお客が、荒ぶる伴侶に茫然自失のご主人と共に抱えて地上に下りてくれたそうで、会場に残る不思議な安堵感は、投げ捨て犯がいなくなってのものだったらしい。
(……………む!)
受け取った細長いグラスには、淡い薔薇色のシュプリが入っていた。
そんなシュプリを一口飲み、ネアは美味しさに身震いする。
最近、果実の味のシュプリにすっかりはまっており、そのようなものがないかと尋ねて出して貰ったこちらは、新鮮な桃をふんだんに使ったシュプリなのだそうだ。
桃と言えばちびころとなった昨今、少しばかりの緊張感の中で一口含んだものの、あまりの美味しさに、既に二杯目のお代わりをお願いする給仕を目で探している邪悪な人間が誕生してしまう。
「無事に事件も解決した、いい時間に来ましたね」
「うん。君が怖い思いをするような事がなくて良かった」
「誰かが私の大事な魔物を投げ落とそうとしたら、すぐさま踏み滅ぼして千切り捨てます!」
「ご主人様!」
疑問も解消されたのでと、あらためて会場を見回せば、その美しさにはうっとりするばかりだ。
ほうっと感嘆の息を吐いたネアに、隣のディノが淡く微笑む気配がある。
はらはらと降る粉雪に、ふくよかな花の香り。
どこからともなく流れる音楽に、イブメリアの街の明かりが揺れる。
「……………ここは、いつも美しいですね。ディノ、今年もこんな素敵な舞踏会に連れてきてくれて、有難うございます」
「うん。……………これからもずっと、…………恒例行事なのだろう?」
「ええ。ディノと一緒にイブメリアを過ごせるのならどんな日だって幸せなのですが、ここに来る度に、ディノが最初に連れてきてくれた日の事を思い出して嬉しくなってしまうのです」
「ウィリアムやアルテアと来た事もあったね」
「ふふ。あの時は、ちび犬さんとぱたぱたちびふわが一緒でしたね」
氷を切り出して敷き詰めたような床石は、眼下に広がるウィームの街並みを覗かせており、何も知らずにこの上にぽいと放り出されたら、きっと足が竦んでしまうだろう。
だが、周囲を囲む森の壮麗さに、会場との境に咲き誇る花々の美しさは圧巻とも言えた。
見上げれば大きなシャンデリアがきらきらと光っていて、細やかな雪が祝福の煌めきのように舞い落ちる。
(……………人が少ないから、床石に落ちるシャンデリアの光や人影が、なんて美しく見えるのだろう)
普段は他のお客に隠されてしまう色や影が、今日ばかりは贅沢に楽しめる。
万象の魔物の訪れに優雅に挨拶をする者達が多い一方で、相変わらず、この舞踏会では心地よい不干渉さが暗黙のルールであった。
雪雲の下に広がる街並みには、祝祭の明かりがそこかしこに煌めいていて、その輝きに目を凝らしていると、なぜか、胸の奥の柔らかな部分がくしゃりとなるような涙の気配があった。
美しくて美しくて、温かそうで愛おしい。
そんな美しい空からお客を投げ飛ばすだなんて、絶対にしてはならないのだときりりとする。
(でも、こんなにも美しい場所だからこそ、愛する人の心が離れたと知ってずたぼろになってしまったのかもしれない……………)
「ネア、踊ろうか」
「はい!……………ディノ、浮気はしないで下さいね」
「……………ひどい」
「ふふ。今は、こんな風に言っただけでしょんぼりしてしまう私の自慢の伴侶ですが、ここで荒ぶった方の事を考え、どれだけ寂しくて悔しかったのだろうと考えたら、いつかの私のように、心変わりをしたら言って下さいと言うだけでは済ませたくなくなったのです」
エスコートしてくれるディノの手を取り、ダンスの輪に入る。
見上げた澄明な瞳は、この会場を彩る様々な光を映し、はっとするような凄艶な光を孕んでいた。
困ったように薄く微笑み、そんな魔物がそっと口付けを落としてくれる。
このような衆目の中で授けられる口付けには気恥ずかしさもあったが、柔らかな温度にまた胸が震えた。
「ネア、私はどこにもいかないよ?」
「ええ。……………私もどこにも行かないという条件と引き換えに、ディノも、ずっとどこにも行かないという密約を交わせますか?」
「……………君がどこかに行ってしまっても、私はずっと君の傍にいるだろう」
言葉選びがやや失敗気味なので、若干ぞくりとしないでもなかったが、そんなことをあまりにも悲し気に言う魔物に、ネアは唇の端を持ち上げた。
「ねぇ、ディノ。私も多分、ディノ以外の誰かとは、どこにも行けない不器用で歪な、とても残念な人間なのです」
「ネアは、可愛い………」
「ふふ。ディノがそんな風に私を大事にしてくれる魔物過ぎて、きっと他の誰かでは満足出来ない強欲さが育ち過ぎてしまったのだと思うので、これからもずっと一緒にいて下さいね」
「……………うん。……………ネア、」
優雅で流れる流星のように煌めく響きを宿したワルツの旋律の中、手を取り合ってくるりと回る。
このターンは、ウィリアムのターンを真似して二人で何度も練習したものだ。
ぎゅっと抱き寄せてくれるその温度に触れ、ネアは、幸福な時間にすっかりくたくたになってしまった。
「ディノ?」
「……………その、……………あい、……………愛しているよ」
「まぁ!こんな素敵な舞踏会で、そんなに特別な言葉を言ってくれるのですか?」
「人間は、その言葉をとても大切にするのだろう?私はまだ、……………君に沢山伝えられていなかったから、……………それで、不安になってしまっていないかい?」
「いいえ。皆さんが好むような言葉がなくても、ディノはいつだって、私を大事にしてくれましたから。……………でも、こんな風に言葉で告げて貰えると、特別な贈り物を貰ったようでもっと幸せになってしまいます!」
「では、……………また君に伝えられるようにするよ。……………今は、あまり多くは言えないから」
「あら、あまり多くは言えないのですか?」
「……………うん」
目元を染めてこくりと頷き、ディノは、ちょっぴりくしゃくしゃになってしまった。
成る程、耐性がないので沢山使おうとすると死んでしまうのだなと理解し、ネアは、そんな伴侶に伸び上がって顔を寄せると囁く。
「ディノが儚くなってしまうと大変なので、私からの言葉は帰ってから言いますね」
「虐待……………」
「むぅ。予告だけでももう、へなへなになってしまうのですか?」
「ネアが凄く可愛い……………」
毎年思うのだが、雪白の香炉の舞踏会で好まれる音楽は、季節の舞踏会のような華やかなものではないのだろう。
どちらかと言えば、胸の奥を震わせるような美しく繊細なワルツや、一緒に来た恋人や伴侶とゆったり踊れるような落ち着いた曲が多い。
会話をしながらでも踊れる音楽が多いので、ついつい踊り過ぎてしまって喉がからからになるのだが、幸いにも今回は、ディノが弱ってしまったので六曲程でダンスを切り上げて軽食のテーブルに向かう事になった。
「むむ、以前に見かけた、中に凍らせた花蜜がしゃりっと入っているクリームチーズがあります!」
「君が気に入っていたものだね。好きなだけ食べるといい」
「はい。………こっそり、三個も食べてしまいますが、こんな伴侶に失望してはいけませんよ?」
「浮気はしない……………」
ふるふると首を横に振ったディノにくすりと笑い、ネアは、軽食のテーブルを独占出来ている事に密かにほくそ笑んだ。
悲しい事件があったものの巻き込まれてはいないし、お客が少ないので、何だか会場を独占しているような奇妙な高揚感がある。
だが、うっかりそんな気持ちになってしまうのはネアだけではなかったらしく、ふと視線を向けたテーブルの向こうの会場の端の木々のあたりには、大胆な口付けを交わす妖精の恋人たちがいて、ネアは慌てて視線を逸らした。
「…………ふぁむ」
「おや、…………まだ、あのような光景には慣れないのかな」
「男女の恋人さんであれば、ふむふむと受け流せるのですが、…………なぜか、男性同士の恋人さんのあのような姿を見ると、とても照れてしまうのです」
「そのようなものなのだね」
手を繋いでも儚くなってしまう魔物なのに、ディノは、恋人達の親密な触れ合いには耐性があるようだ。
気付けば、人が少ないからと周囲の目を気にせずに寄り添えてしまったのか、あちこちで親密に体を寄せ合う者達がいる。
「……………あぐ」
そんな周囲の状況を把握すると、蟹のムースに蕩けるチーズを載せ、尚且つ上にカラメルを流し入れてクリームブリュレのように焼いた料理をぱくぱく食べていたネアは、小さなスプーンを駆使して、濃厚なムースをグラスに残してなるものかと必死にこそげ取っている自分はどうなのだろうと首を傾げた。
「ネア?」
「……………むぐ。……………このムースのお料理をもう一ついただいたら、お口をシュプリでさっぱりさせるので、もう一度踊りませんか?」
「うん。そうしようか。……………ずるい」
「何だかディノにくっつきたい気分になったので、こうしてもたれかかってしまいますね。…………この姿勢だと、飲み物が飲み辛くはありません?」
「大丈夫だよ。……………疲れたのかい?」
「………ディノに、甘えたくなったのです。そ、その、……………伴侶なのですから、こんな風にくっつくのもいいかなと思いました!」
「爪先を踏むかい?」
「……………どきりとするような優しい声で申し出てきましたが、何かが違うのだ……………」
この魔物に耐性がなければ、ネアもくらりとしてしまうくらいに男性的な美しい微笑みだった。
それなのになぜか、差し出されているのは爪先である。
ネアがへにゃりと眉を下げて首を横に振ると、ディノは困ったような顔をするではないか。
「ぐ、ぐぬぅ!!」
焦ったネアは、大急ぎで二個目の蟹のムースを食べてしまうと、近くのテーブルに置かれていたシュプリの中から、辛口そうなものを選び出しごくごくぷはっと飲み干し、お口の中の蟹具合を払拭する。
漸く準備が整ってから両手でディノを掴み背伸びをした。
残念ながら届かなかったので少し屈んで貰ってから、えいっと口付けを授ければ、ディノは呆然と固まってしまう。
「……………ネア」
「伴侶と過ごす舞踏会なのですから、こちらの方向が正解なのですよ」
「……………城に寄ってゆくには、少し時間が足りないかな」
「……………き、きょうはいぶめりあなので、おしろにはいきません」
「そうだね。橇遊びもあるし、君にあまり無理をさせるのはやめておこう」
「……………ふぁい。うっかり、あやまったとびらをあけるところでした」
「では、ここで出来る事だけでいいかな」
「な、なぬ。……………にゃむ」
そっと唇を寄せ、深い口付けが落ちる。
ネアは、こんな時も蟹のムースの味がしませんようにと願ってしまう自分はなんてあさましいのだろうと考え、いい匂いのするディノの腕の中に収まった。
(……………やっぱり、私はディノの香りが一番好き)
いつかのネアハーレイだったなら、パイの香りに勝てなかったかもしれないが、こちらに呼び落されてからは、もっと大事なものがこんなにも増えた。
折角食べたばかりの美味しい料理の味を口の中から消す行為なんて、かつてのネアであれば、とんでもないと考えたに違いないのだから。
「……………また、来年もここに来よう。ずっと、……………何度でも」
「はい。何度でも連れてきて下さいね。きっとここなら、何度来ても私は大好きな筈ですから」
「うん。では、もう一度踊ろうか」
「はい!」
ふわりと翻るドレスの裾に、これもまたいつの間にか増えていた冬の夜明けの光を結晶化させて作った宝石飾りのある靴先が見える。
眼下に広がるイブメリアの街並みを見下ろし、ネアは、大事な魔物の腕を取った。
ふと、投げ落とされたお客はウィームに落ちたのかなと考えてしまったが、ふるふると頭を振って伴侶とのダンスに戻る。
お口の中にやっぱりまだ残っている気がする蟹肉風味も、犠牲になったお客の事も忘れ、今は伴侶との時間を楽しもう。




