194. 歌劇場で重ねます(本編)
クラヴィスの夜になった。
毎年その瞬間を迎える度に思うのだが、この夜程に素晴らしい日はないだろう。
雪の中、からからと車輪の音を立てて走って来る六頭立ての妖精馬の馬車に乗り、イブメリアの歌劇場に行くために誂えた特別なドレスを纏う。
隣に立つのは美しい魔物の伴侶で、ネアの指には、もう家族がいるのだと示す魔物の指輪が煌めいていた。
はらはらと雪が降る。
今年のクラヴィスの夜は生憎の雪模様だが、森や並木道では、イブメリアになる瞬間を待ち侘びる小さな生き物達がちかちかと光り、喜びに身震いする妖精達の羽が揺れると、細やかな祝福の光が鱗粉のように煌めき落ちた。
びゅおんと飛んでゆくのは雪竜だろうか。
雪嵐の事件を受け、ジゼルは特別な役目を設けて、雪竜達による街の見回りを行ってくれるらしい。
こんな祝祭の日に仕事が増えたら怒り狂うのではと思わないでもなかったが、意外にも、普段は飛行禁止の区域もある美しい祝祭のウィームの街を心置きなく見下ろせる見回り当番は、大人気なのだとか。
「今夜は、普通の指輪にしたのだね」
「はい。いつものディノの指輪の方が、貰った真珠の首飾りに合いますから。ディノがくれたこの首飾りは私のとっておきの宝物の一つなので、今夜はどうしても外せなかったのですよ」
「……………うん」
目元を染めて恥じらう魔物は、夜闇の中に冴え冴えと浮かび上がる怜悧な白の盛装姿で、どきりとするような凄艶な装いだ。
ディノのフロックコートはいつも、細身で丈が長めという優美なデザインなのだが、そこに淡い水紺色の祝福石だけを使った精緻な刺繍の装飾を施せば、暖かな色味というよりは、冬の冷たさを際立たせるような美貌となる。
そんな魔物の装いに合わせ、ネアは、何でもない日の贈り物のリボンにきらきら光る祝福石のついた飾り紐を合わせ、ディノの三つ編みに宝石のブローチを飾ったような華やかさを足しておいた。
「今夜のディノは、魔物らしい綺麗さでとても素敵ですね。いつものディノも大好きですが、このディノも大好きです」
「…………君も、………とても綺麗だよ」
ひやりとするような凄艶な美貌の生き物が、もじもじしながらそんな事を言ってくれるのだから、ネアは、微笑んでしまうしかない。
だが、三つ編みを渡してくる気配のある魔物にいち早く気付き、素早く手を握ってしまった。
このあたりは、先に勝負を決めた者勝ちなのだ。
(今年のドレスも、動き易くて素敵だな………)
ディノの手を握ってしまう選手権でふぁさりと揺れたドレスの裾には、繊細な紫紺色のレースが何層にも重ねられ、まるで夜に咲く菫の花びらのようだ。
だがこのドレスは、見た目の上品さに相反し、またしてもゆったり過ごせる素晴らしい仕立てなのである。
今夜のネアの装いは、少しだけ毛足が長いニット地のドレスで、しっかりと艶とはりのある生地は、体の輪郭を出し過ぎない優秀さで、見た目はアンゴラニットのようにも見える。
表面の質感の割に肌に触れてもちくりともしないし、抜けた毛が口や目に入ってむがっとなる事はない。
何しろこのニットは、夜霧を織った物なのだ。
長い長い夜霧のしなやかな紡ぎ糸を織り上げてあるので、手触りは素晴らしく、紡ぎ糸から短い毛が落ちたりもしない。
襟ぐりは大きく開いているが、ゆったりとドレープをつけて繊細な白いレースを覗かせている。
腕周りと腰回りはぐっと細く、スカートはプリンセスラインにふわりと広がるドレスと言えば、乙女の考えるドレスの典型的な理想形と言えよう。
(紫混じりの紺色は、見る角度によって雰囲気が変わるけれど、大人の女性らしい色香と、どこか凛として上品な雰囲気を出してくれて、さすがシシィさんのドレスだわ……………!)
素敵なドレスを着ているだけでも心は弾むのだから、イブメリアの歌劇場に向かう夜の罪深さは、言葉にならない程だ。
おまけに隣には、お揃いの毛皮を使ったコートを着ているそれはそれは美しい魔物がいる。
「ディノのコートは、何でもない日の贈り物として貰った私のコートと、お揃いなのですね?」
「伴侶は、そのようにしても良いのだそうだよ」
お揃いであることを知られてしまい、少しだけ後ろめたそうに視線を彷徨わせた魔物に、ネアは、にっこりと微笑んだ。
言ってくれればディノのリボンの色を紫紺の物にしても良かったが、とは言えあちらは少し色がくっきりとし過ぎるので、このリボンで良かったのだろうか。
「今夜の私の魔物は、こんなに素敵な伴侶とお揃いにしてくれるのですね」
「………見上げてくる」
「とてもありふれた仕草なので、まだ儚くならないで下さいね。……ふぁ、何て綺麗なのでしょう!」
正面玄関を出てから馬車の待つ場所まで歩いたのは、こうしてリーエンベルクの飾り木の前に立ち、残り少ないイブメリアの景色を堪能する為だ。
立派な枝葉の飾り木は枝先が結晶化しており、白みがかった色が結ばれた祝福の階位の高さを示している。
星明かりの夜空に浮かぶ宝石のような美しさに、ネアは、その輝きをうっとりと見上げた。
今年のリーエンベルクの飾り木は、淡いシャンパン色と淡い灰色がかった水色の光を灯している。
このイルミネーションのような煌めきは、月明かりと雪明かりの結晶石を使った装飾で、何とも柔らかな光が蝋燭の灯火のよう。
ずっと大事にされているオーナメントの中から、こっくりとした色合いの青い物を揃え、古典的な祝祭の美しさを思わせる金貨色のリボンが結ばれる様は、とびきり上等な贈り物を思わせてくれた。
そんな大好きな飾り木の横を抜け、ネアは、ディノのエスコートで迎えの馬車に乗る。
毎年歌劇場までの送迎を行ってくれる妖精の御者が、帽子を取って会釈してくれ、妖精馬にかけた手綱を持ち上げた。
「まぁ、今年の手綱はセージグリーンなのですね。細やかにきらきら光る金色が見えて、ちょっぴり贅沢な気持ちになれる素敵な色です」
「ネア、階段で弾んでしまうと危ないよ」
「む、むぐ!ついつい、はしゃいでしまいました。…………どうぞ宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げたネアに、じっとこちらを見ていた妖精馬達が蹄で雪をかく。
任せ給えという合図に違いなく、ネアはますます胸を弾ませた。
(特別で、特別で、…………でもこんな景色や体験は、いつの間にか私の生活の一部になった)
もう二度と取り戻す事のないと思っていた喜びや希望がきらきらと光り、真っ直ぐに続く、リーエンベルク前広場から街への並木道の美しさに震える胸を押さえる。
「むむ。今年は、昨年よりも歩道に領民の方が増えています?」
「そのようだね。エーダリアが話していた通りなのだね」
「素敵な馬車ですものね。私も一度、走っている様子を歩道から見てみたいのですが、そうすると乗れなくなってしまうので、そんな提案は自分会議で却下せざるを得ませんでした」
「自分会議…………」
ネア達がクラヴィスの夜に妖精馬の馬車を使うようになってから、リーエンベルクから街に向かう並木道には、その馬車を一目見ようと集まる領民達も増えたそうだ。
とは言え観光客の姿がないのは、私用のお出かけで使う馬車なのでと、領民達が情報統制を敷いてくれているらしい。
そんな事を教えてくれたエーダリアは、無事に本日の儀式を終え、今夜は、ゆっくりと家族の晩餐の時間を過ごしている。
(どうか、今夜はもうゆっくりと出来ますように………)
あんな事件があった後なので歌劇場に出掛けるのを躊躇っていたネアに、ヒルドは、形のない不安は、備える事で招き寄せてしまう事もあるので、イブメリアの夜を楽しんで欲しいと言ってくれた。
エーダリア達は、ウィーム領主の祝福をぶ厚くしておこうとバンルが貰ってきてくれたホーリートの枝に、祝祭用の特別な儀式シュプリを与えて魔術の火を灯すのだとか。
言葉だけでは想像が追い付かず、そちらもとても気になったが、きっと目を輝かせるエーダリアに、ノアが魔術の話をするのだろう。
そんな二人を見守るヒルドの微笑みまでが、いつの間にか簡単に思い浮かぶようになった。
ぱたんと馬車の扉が閉まれば、今度は、馬車の窓からイブメリアに向かう美しい世界を眺める事が出来る。
薄暗い馬車の中から窓枠に縁取られた景色は、どんなに何でもない一場面にも、わくわくするような物語が隠されているように見えた。
(……………そうか。向こう側だからこそなのかもしれない)
ふと、そんな事を考える。
前の世界で暮らしていたネアハーレイは、結局ずっと一人ぼっちだったからという背景はあれど、どれだけ時間が経っても愛する人を喪った苦しみは癒えなかった。
でも、ここはもうあの世界ではないから、こちらとあちらには窓枠の内側と外側のような線引きがある。
あそこまでとここからで境界線を設けたからこそ、ネアはこちら側に来てからは家族の喪失にわんわん泣いてしまう事はなくなったし、もうこの季節は、クリスマスではなくイブメリアになった。
「今年は、ウィリアムさんとアルテアさんは、現地集合なのですよね」
「うん。アルテアは歌劇場の魔物と話があるようだし、ウィリアムは、知り合いが脚本を書いているので挨拶をしてゆくらしい」
「いつもの物語を、違う角度からの歌劇に仕立て直してくれたのは、王都で大人気だった舞台を手がけた劇作家の方なのだそうです。カーライルさんという方なのですよ」
第一王子が評価したことで人気の出た舞台だったが、場所が場所なのでネアは観に行けなかった。
こっそり訪ねられる場所もあるが、劇場は社交の場でもあるので、思いがけない誰かに遭遇しかねない。
ましてや、大人気の演目なら尚更だ。
(……………どんな舞台になるのだろう)
主軸となる音楽は変えず、台詞回しも大きな変化をつけられないという制約の多い演目だ。
果たして、どんな演出になるのかが楽しみでならず、ネアは、座席の上で小さく弾んだ。
「楽しみかい?」
「ええ。……………にゃむ」
ふっと落とされた口付けの甘さに、なぜか背筋をぴしゃんと伸ばしてしまう。
くすりと微笑んだ魔物は男性的な老獪さがあって、けれども、えいっと口付けを返すと儚くなってしまう。
(私の大好きな、ウィームの街)
はらはらと降る雪には、そんな街の明かりが映り、ダイヤモンドダストのように細やかに光る。
イブメリアの祝祭に華やぐ街は、何をどう表現しても美しかった。
あちこちで飾り木の灯りが煌めき、街を行き交う人々の表情は幸せそうだ。
すっかり気分が盛り上がってしまったのか、飾り木から飾り木へとびゃんと飛び回っているちびこい毛皮竜が、歩いていたご婦人に激突しそうになって鷲掴みで捕獲されている。
かちこちに凍ったまま屋根から落ちたのか、歩道で真っ二つになっているパンの魔物がいて、大きな画材道具を抱えた女性が、水筒から温かな牛乳のようなものをかけてあげている姿も見えた。
そうするとどうなってしまうのかがとても気になったが、ちびこいマグカップを抱いた毛玉妖精達が、ほかほか牛乳のおこぼれを貰おうと駆け付けていたので、この後は牛乳争奪戦とパンの魔物の復活が同時に行われるのかもしれない。
「やはり、ダリルダレンの書庫の飾り付けは、ぐっと大人の雰囲気で素敵ですねぇ」
「魔術の段階の付け方を変えたようだね。開示と遮蔽の扱いがとても緻密だ」
「さすがダリルさんです!」
広場の屋台が連なる様は、玩具箱のような楽しさで、この三祝祭だけ飾られる屋根の上の装飾は、馬車を模した物や飾り木、中にはリーエンベルクを模した物もあった。
祝祭の夜を楽しむ人達で賑わう街をゆっくりと走る馬車はやがて、しゃわりと煌めく噴水のある広場をぐるりと周り、歌劇場の前に着いた。
祝福を増した水が細やかな光の粒子を映した噴水の中には、雪空の下でも寒くはないらしい水の系譜の妖精乙女達が、薄物を翻して踊っている。
噴水の台座には幾重にも花輪がかけられていたが、周囲の装飾とは趣きが違うので、これは妖精達が勝手にやってしまったのかもしれなかった。
「ふぁ。…………今年も歌劇場に到着しました。赤い絨毯の横に並んでいる蝋燭のような光の揺れ方をする照明器具は、初めて見たような気がします。何を使っているのでしょう」
「四角く切り出した氷結晶の中で、小さな火の記憶を結晶化したものだろう。ほら、台座の上の結晶石の中で揺らぐ光が、普通の結晶石に比べて随分と大きいだろう?大きな篝火などの記憶から持ってきたものだからだと思うよ」
「まぁ。氷の結晶の中に篝火の記憶を入れておけるのですね!」
馬車の扉を開けて貰いタラップを降りた先には、いつもの劇場の支配人が微笑んで待っていてくれた。
今年の襟元のブローチは、宝石を使った緑と青の彩りが美しいリースのもので、ネアは、オーナメントかなと思ったモチーフが銀狐が愛用のボールになっている銀狐リースだと気付き、目を瞠った。
「ようこそおいで下さいました。今宵は穏やかな雪の夜になりましたが、街並みは賑やかでしたでしょう。降る雪に雪竜達が祝福を授けておりますので、家の中で過ごしていた者達も、雪を見に出てきているようです」
「おや、だから雪の色が、朝とは違っていたのだね」
「ええ。そのような雪の中を走る妖精馬の馬車を見られるのは、この上ない喜びです。………さて、今宵の演目は、例年の工夫とは一味違うものになるとお約束しましょう。どうぞ楽しみにしていて下さい。お食事は、今年も皆様の声に応えてザハにお願いしております」
「まぁ、今年もザハのお食事をいただけるのですね!」
ネアが微笑みディノを見上げたのは、そこには必ず、あのおじさま給仕がいる筈だと考えたからだ。
支配人の先導で歌劇場に入れば、玄関ホールには大きな飾り木が立てられ、その下に、はっとするような盛装姿のウィリアムが待っていてくれた。
「ウィリアムさんです!」
「おや、珍しい装いだね」
今宵の終焉の魔物は、人外者らしい盛装姿というよりは、どこか人間の高位貴族的な装いであった。
黒地に黒の刺繍と結晶石の縫い込みが華やかな漆黒の盛装姿で、襟元には黒と白銀の宝石を使った素晴らしいブローチがあるのだが、何となくその組み合わせが妙に人間的なのだ。
お忍びの王族にも見える佇まいに、劇場を訪れたお客達がちらちらと見ている。
ネア達に気付くと微笑んだウィリアムに、近くにいたご婦人が顔を覆ってよろめいてしまっていた。
案内は結構だよとディノに言われ、支配人は優雅に一礼して立ち去ってゆく。
高位の魔物達のようなお客は不干渉を好む者が多く、どのように過ごすのかも気紛れなものなので、ここ迄と言われても気にする素振りはない。
何しろこの歌劇場には、歌劇場の魔物が住んでいるくらいだ。
「やあ、今夜のドレスも良く似合うな。…………触れたくなるようなドレスだ」
「ふふ、有難うございます。温かくて肌触りも良くて、とてもお気に入りなのですよ」
「シルハーン、今夜もどうぞ宜しくお願いします。…………今朝の件は、こちらでも調べておきました」
「うん。有難う、ウィリアム。……………今夜は、人間に擬態している事を誰かに見せておきたいのかな」
そう言われたウィリアムは苦笑すると、なかなか手強い人間がいるのだと教えてくれた。
「今年の脚本を手掛けた人間なんですが、彼は、目がいいですからね。なぜか、自分が関わるとどれだけ高位の者に遭遇しても気付かないという特異さもありますが、こうして、観衆や雑踏に紛れた人外者を、なぜか見付け出してしまう」
「であれば、災い除けの祝福を持っているのかもしれないね」
「まぁ。そのような方がいるのですねぇ………」
聞けば、あまりにも目のいい子供が生まれると、その子供の将来を危惧した親が、見えてしまっている脅威の中の、一定以上の階位の者とは関わらずに済むような、災い除けの縁切りを祝福として持たせる事があるらしい。
一般的な危険を認識する事は可能だが、相手が擬態などをしている場合は、自分事とすると途端に認識しなくなる魔術で、密かに人間に紛れている事を気付かれるのを好まない高位の人外者への対策としては、かなり有効なのだそうだ。
「こうして、ある程度の階位にある人間なんだろうという装いを見せておけば、小さな違和感などを覚えていても、身分故の守護の多さだろうと思ってくれるからな」
「ふむふむ。そのような方用の対策方法があるのですね」
「シルハーン。アルテアは、ロージェの控室に先に入っているようですよ」
「おや、では行こうか」
「はい!」
着飾った人々の間を抜けてロージェの控え室に入ると、そこには、既に寛いでいるアルテアがいた。
本日の装いは、上品な灰色のスリーピースで、白いシャツのクラヴァットの襟元には、花枝を模した深い赤紫色の宝石のブローチがきらりと光る。
珍しくドレスシャツなので袖口には男性用のものらしい控えめなフリルがあり、ブローチの色はアルテアの瞳よりは赤に傾いているので、どこか今年のウィームの街並みを思わせた。
そんな選択の魔物は、飲んでいたシュプリのグラスを手に部屋に入ってきたネア達の方を振り返り、なぜか眉を顰めるではないか。
「……………そのドレスはシシィだな」
「ええ。やはりアルテアさんは、気付いてしまうのですね。劇場でも過ごし易いドレスをと、ディノが頼んでくれたのですよ!」
「ウィリアムには、絶対に触らせるなよ」
「なぬ……………」
「困ったな。初めて見る素材だから、触れてみたかったんだが…………」
「あら、このふんわりした肌触りが自慢のドレスなので、触れるくらいはいいのですよ?」
「おい…………。その手のドレスを着るなら、情緒面をどうにかしろ」
「解せぬ」
薔薇のロージェ専用の控え室で上着を脱ぎ、用意されていたシュプリをいただく。
ネアのコートを脱ぐのを手伝ってくれたウィリアムを、ディノが羨ましそうにじっと見つめているので、ネアは、そんな伴侶のコートは自分がハンガーにかけるのだと引き取ろうとしたが、なぜか、コートでご主人様が見えなくなるという謎の理由で却下されてしまう。
今年の一口おつまみは、薄いビスケットをくるりと角巻きにし、内側にチーズを絞り入れた一口お菓子だ。
妖精の羽のような薄いクッキーの仄かな甘さと、香草風味の味のしっかりとしたチーズクリームが堪らなく後を引くので、ネアは大きな紙袋いっぱい食べたくなってしまった。
(……………あ、)
ネア達も席について見える角度が変わると、ネアは、アルテアのスリーピースの布地には光の加減で見えるような繊細な織り模様があることに気付いた。
ライラックの織り模様であるらしく、そのデザインに合わせてシャツを選んだのだろう。
女性的な雰囲気ではなく、男性らしい色香を漂わせる組み合わせに仕上げてしまえるのは、お洒落上級者だからなのか、魔物としての美貌故なのかは分からない。
上着を脱いだウィリアムがいつもの魔物らしい気配と装いに戻ったのは、人目を気にする必要がないロージェの中での装いにまでは気を遣っていなかったからだろう。
「……………まぁ。今年の歌劇場は、随分と装飾の趣きが変わりましたね」
「演出上の変更だろうが、悪くないな。祝福や祝祭魔術の繋ぎ方も上手い」
ロージェから劇場を見回したネアは、例年の雪や薔薇の装飾からがらりと変えられた景色に目を瞠る。
そこに広がっていたのは花々が咲き乱れるおとぎ話の森ではなく、人間達が生活の中で触れる事がある、見慣れた深い森の姿だ。
茶色い樹皮や背の高い木々の演出や、景色を移築したものか、客席の通路沿いや舞台の端に降り積もる深い雪が、まるで本物の森の中に迷い込んだように思わせた。
おや、イブメリアの歌劇場としては寂しいのではと思わせておき、見上げた天井に声を失う者が多い。
天井は、せり出した木々の枝いっぱいにかけられたオーナメントで埋め尽くされていて、気付かずに迷い込んだ奇妙な森という表現の強烈さに、感嘆の溜め息を吐いてしまう。
(今年の内装程、生きた森を感じさせるものはなかったかもしれない……………)
勿論、魔術を駆使した内装の美しさは毎年圧巻であったが、それはやはり舞台だからこそ安心して眺められる整えられた美しさだったのだと思う。
だからこそ、こうして見慣れた森の無骨さや清廉さを強調されると、祝祭の夜に冬の森に追いやられた、寄る辺ない主人公の少女と一緒に、深い森の中に迷い込んだような気持ちになる。
見上げれば、そこはもういつもの森ではないのだが、少女はまだ気付いていないのだろう。
「このロージェの中は、森の香りがしますね。お花は少ないですが、緑のリースの中にいるようで気持ちいいですし、天井のシャンデリアにまで雪が積もっているのがなんて素敵なのでしょう!」
「このシュプリも、敢えて祝祭らしい香り高さではなく、辛口のものにしたんだな」
「…………このお菓子と一緒だと、永久運動になる組み合せなのですよ。むぐ。開幕までにもう一つ……」
「明日のドレスが着れなくなるんだろうな」
「ぎゃ!腰を摘まむなど、許すまじです!」
「アルテア、そろそろ始まるみたいですよ。少し落ち着かれては?」
「ウィリアム……………」
「始まりました!」
舞台の幕が上がり、始まったのはいつもの物語だ。
何度見ても飽きない楽しさがあるのは、皆が楽しめる構成と、演出の違いで物語から受け取る印象が変わるからなのだが、今年は趣向ががらりと変わっていた。
(……………凄い。あらためて有名な劇作家を採用しただけあって、同じ物語を、違う角度で見ているような気持ちになってしまう内容なのだわ…………)
気付けば舞台の上の少女は、不幸だが健気な少女というだけではなくなっていた。
自分を蔑ろにする家で暮らしてゆくことを憂い、祝祭の夜の森に人外者の気配がある事に気付いた少女が、その袂から祝福を盗めないかと思案する様子は、人間らしい狡猾さだが、痛快でもある。
対する人外者達は、森に迷い込んだ哀れな乙女を人ならざる者らしい気紛れで弄ぼうとしているが、既に少女を揶揄いに来た雪玉の精霊が狩られてしまったので、この様子であれば、王達もあっという間に篭絡されてしまうのかもしれない。
「……………ほわ、前半が終わっています。つ、続きを、続きを早く見せて下さい!」
「うーん、どこかで見た事のあるような展開ですね……………。相変わらず、あの人間の描く物語の抽斗は、どこから拾ってきたのか気になる表現が多いな……………」
「アルテアなんて……………」
「…………あの冬の王は、ウィリアムだろうが。言っておくが、俺じゃないぞ」
「そこは見解が分かれるところでしょう。俺にも、あなたに見える部分がありましたよ。……………ただ、これだけの脚本を書いておいて、こちらの魔術の繋ぎには一切触れないのが凄いな……………」
「春の王様は、ちょっぴりディノに似ていましたね。なぜだか、大事にして差し上げたくなってしまう人物設定がとても上手で、ぐいぐい物語に引き込まれてしまいました」
「春の王なんて……………」
明るくなった舞台では、季節の王達をもてなす興が始まっている。
まずは音楽からで、薄い緑色に水色の羽模様がレースのようで繊細な妖精達が舞台に上がり、バイオリンを弾いていた。
そんな中、扉を開けてロージェの中に入ってきたのは、ザハのおじさま給仕こと、グレアムだ。
銀水晶の台車には、食事の準備をするための真っ白なクロスなどがかかっている。
目が合うとにっこり微笑んでくれる表情の温かさに、ネアは唇の端を持ち上げた。
「お食事をお持ちしました。今年も氷河の酒が手に入りましたので、こちらもお持ちしてあります」
「まぁ!氷河のお酒です!」
「弾んでる…………可愛い……………」
「おい、そのドレスで弾むな!」
「ん?…………今年の販売分は、随分と少なかった筈だよな…………?」
今年のイブメリアの料理には勿論、ネアの大好きな鴨料理があった。
出来が良かったという夜雨の無花果のソースをかけた鴨肉は、飴色になった皮目と、しっとりしたお肉が大満足の一口を約束してくれる。
見た目が華やかな花盛りは棘牛を薄切りにしたタルタル仕立てで、冬檸檬と薔薇塩のソースを添えて。
ホーリートの葉の模様を付けた小さなパイには、ふんわりとした白身魚とバターソースが入っていて、下に敷いた濃厚な香草のソースは、鮮やかな緑色の色味が可愛らしいばかりか、ふんわりと美味しい匂いでパイを包んでくれる。
ウィーム中央の祝祭料理で魚が出るのは珍しいなと思ったところ、これは星を回遊する珍しい魚で、今年はウィームの空を通る星雲の流れがあったので、ザハの料理人たちで釣りに出掛けたと教えて貰った。
「鱸に似たお味で、バターソースとの相性が抜群でした。とても美味しかったです」
「そう言っていただけると、料理人も喜ぶでしょう。…………その代わり今年は、フォアーグフの出来が良くなかったそうですので、雪林檎の蒸留酒のソースをかけた、棘豚のリエットのタルトとさせていただきました」
「ほお、あの酒を使っているのか……………」
「美味しい……………」
「むぐ!…………このリエットは、パンと一緒に食べるような、贅沢な食べ方もしてみたい美味しさですね」
「……………おや、リエットがお気に召しましたか?」
「うん。とても美味しいね」
ネアは、リエットを気に入ったと口にしたディノに頷いたグレアムの眼差しに、近い内に、このリエットがザハの通常メニューに組み込まれるか、差し入れで貰えたりするのかなとこっそりの期待を育てておく。
デザートはオレンジとクリームチーズのタルトで、彩りも美しい。
口の中でしゅわんと蕩けて消えるクリームチーズに、ネアは、あっという間に食べ尽くしてしまった。
後半の舞台の再開を示す鐘が鳴り、今年の軽食は何かなと下の客席を見ていたネアは、慌てて席に戻る。
美味しい時間にふくふくと喜びを噛み締たばかりのネアは、少しも色褪せない美しい夜を見ていた。
(イブメリアの贈り物は、明日の朝になってから)
優雅に一礼してロージェを出ていったグレアムに贈り物を渡せなかったのは、雪嵐の一件を踏まえ、魔術の繋ぎを生じる贈り物類の受け渡しは、全て後ろ倒しにしたからだ。
これは、より災いの不可侵の度合いを高めるイブメリアを待ってから贈り物の祝福を重ねる安全の大幅増量措置で、日付が変わった直後でもいいのだが、イブメリアの朝を迎えてからの方がより効果が高いらしい。
高位の者達からの贈り物は、貰うだけではなく、贈る事も含めた全てが、一つの祝福の形である。
イブメリアの贈り物を祝福として重ねる事で、その日に予定されていた陰謀の澱が、もし、運命の魔術のどこかに残っていても、重ね焼いて消してしまうという作戦なのだ。
幸い、グレアムも、明日の朝に少し時間が取れるようなので、その時に渡しに行く事にした。
(あ、……………場面が変わった)
暗く青白い冬の森は、人ならざる者達の宴席を経て、すっかり様変わりしていた。
どうやって客席の装飾の変更を行ったものか、気付けば、そこかしこに淡い水色の薔薇が咲いている。
はらはらと舞い散る雪は花びらに変わり、天井いっぱいに吊るされたオーナメントは、照明の当て方を変えたのか、先程よりも明るい金色に光り、イブメリアの日の夜空のようだった。
今宵の舞台では、冬の王も大人しく森へは帰らない。
少女が春の王を伴侶に選んでも、冬が明けるまではと、二人を自分の城に招いてしまった。
どこか人ならざる者らしい老獪さが滲む様子ではあるが、美しいが冷ややかなばかりだった最初の歌声とは違い、最後の歌の冬の王は楽しそうだ。
若干、人外者が良い玩具を見付けた感もあるものの、まだ話の途中だからと同行する秋の王を牽制する素振りには、とても懐いてしまったのだなという感じが覗えるような演出になっており、くすりと笑えるようなところがあった。
茶色くごつごつとしていた木の幹の装飾は、透き通って硝子細工のようになり、舞台の上だけではなく、客席でもあちこちで咲き誇る花々の甘い香りには、爽やかな果実のような香りが重なる。
幸せな恋人たちの歌が音楽の花火のように花開くと、暗い夜の森は、一瞬で祝福の煌めく花園に変わった。
「この、美しいイブメリアの夜に!」
「イブメリアの祝福を!」
わぁっと歓声が満ち、花びらと雪が舞う。
ネア達もグラスを手にイブメリアの開始を祝ったのだが、後半から銘柄を変えられ、イブメリアらしい華やかな味になったシュプリを飲んでいたネアは、ここで瞠目する。
「いつの間にか、劇場の内装がすっかり変わってしまっています……………」
「開始直後の装飾は、錬成途中の物を使っていたんだろう。祝祭の魔術が結ぶ事で、色や形に変化が出るような設定だ」
幕が引かれ、夢から覚めたように周囲を見回したお客達は、いつの間にか、歌劇場の内装が見慣れたイブメリアらしい華やかな装いに戻っている事に驚いたようだ。
アルテアの解説にゆっくりと目を瞬いたネアも、雪と薔薇の花びらの降る舞台をロージェから眺め、ロージェの中にも美しい薔薇が咲き誇っている事に目を丸くした。
「……………成る程。イブメリアの夜の祝杯に繋がる舞台を、こちら側の要素に繋げて書き換えておいたのだね。この仕組みを誰が考えたのかは分からないけれど、魔術の扱い方がとても巧みだね」
「ディノ?」
もしや今夜の演目には、ただの作品としてではなく、他にも何か意味付けがあったのだろうか。
そう考えたネアが、さっぱり分からないぞと首を傾げていると、こちらを見たディノが説明を重ねてくれる。
「今夜の演目では、それぞれの王達が、誰かに似ていただろう?そうして、舞台から感じ取れる認識を観客自身が自分の知る誰かに紐付けておくことで、舞台への喝采が、見知らぬ誰かに結ばないようにしたのではないかな。イブメリアはウィームでは最も大きな祝祭だ。祝祭の恩恵を持ち去られないよう、時々行われる舞台手法だね」
それは例えば、国の王をモデルにした人物を活躍させる舞台なども同じ仕組みなのだそうだ。
このイブメリアの演目には、それぞれにモデルとなった人外者がいるのだが、古い物語なのでその当事者が残っている訳ではないらしい。
なので今回は、祝祭への喝采を土地に根付かせる為に、幾つか細やかな魔術認識の調整を行ってあったという。
「……………であれば、カーライル程に向いた劇作家はいないですね。自分が出会った者の要素を作品に反映させるので、元々そのような傾向が強い」
「それぞれの観客が、自分の知る誰かを思い浮かべるようになっていたのですか?」
「というより、ウィームに縁のある特定のモデルがいたんだろうな。だが、仕草や言葉回しなどで、他にも何人かのウィームの住人に紐付けていたような気がする。カーライルは、実際に出会った者に想像で肉付けしてゆく事が多いからな」
(……………そうか。だからこそ、多くの観客が登場人物の中に、自分の知る誰かを重ね易いのだわ)
魔物達の話を聞いていると、何となくモデルはとても良く知っている誰かなような気がしたが、他にも様々な人達の要素が加わり、複雑に構成されているのだろう。
「今年のイブメリアの舞台の春の王様が、ちょっぴりディノに似ていたのはそれでだったのかもしれませんね。指輪を渡した場面では、おおっとなってしまいました」
「ネアがいいかな……………」
「あら、こんな時の私は、主人公に感情移入して観てしまうのでそう思っただけで、ディノを誰かに渡してしまったりはしませんよ?」
「そういうものなのかい?」
「ええ。人間は想像力豊かで、好きな物は全部自分事にしてしまう強欲な生き物なのです」
花びらの降りしきる歌劇場の中には、ちらほらと見知った顔もある。
今年もエイミンハーヌと観劇に訪れたバンルは、イブメリアまでに新しい恋人は作れなかったようだ。
養い子と噂の舞台を観に来ているジッタの姿もあるので、今夜はジッタのパン屋はお休みなのだろう。
ネアはふと、斜め向かいのロージェに、グラフィーツの姿を見たような気がしたが、舞い落ちる花びらに視界を遮られてよく見えなかった。
「……………今年も、もうイブメリアなのですね」
「うん。帰りは、街を少し走らせて貰うかい?」
「はい。イブメリアの穏やかな夜を眺めていられるのは、もう今夜と明日しかないので、綺麗な飾り木や賑やかな屋台などを窓から見たいです」
「それなら、ネアを窓側にしないとだな」
「おい、何でお前も乗る前提なんだ。あの馬車は三人乗りだろうが」
「あれ、アルテアはもう帰るんですよね?」
帰り際に魔物達が少しわしゃわしゃしたが、幸いにも馬車は四人乗りであった。
折角この夜を一緒に過ごせているウィリアムやアルテアを、進行方向に背中を向ける座席に座らせるのは申し訳なかったが、こちらの人間は自分の特等席を誰かに譲れない、たいへん心の狭い人間なのでどうか許して欲しい。




