193. クラヴィスには色々と予定があります(本編)
「さぁ、もうお家ですよ!ここまできたら、もう許しません!!さっさと着ているものを脱いで、傷の手当です!!」
リーエンベルクに帰着するなりネアが怒り狂ったのは、勿論、あの場で怪我をしていたのがヒルドだけではなかったからである。
何も、帰り道の馬車が公開処刑のようで居たたまれず、恥ずかしさを何とかして誤魔化そうとしている訳ではない。
実は、今回の事件では、エーダリアも腕に負傷していた。
だが、領内だけの問題で済まされなくなるあの現場に於いて、護衛であるヒルドの負傷と、領主であるエーダリアの負傷の重さはまるで違う。
よってそれは公に出来ず、気付いていた者達もいたのだろうが、エーダリアは、自身の負傷を隠し通さねばならなかった。
(ヒルドさんは、あの場では雪嵐の殲滅を優先させたという事もあるけれど、血の匂いを誤魔化して傷薬を取り出す為に、ある程度の負傷の必要もあったのだろう……………)
大事な人が傷を負ったその場で、そんな事までを判断しながら動くのは、どれだけの思いだっただろう。
おまけにヒルドが負った傷は、本人が想定していたよりも遥かに深いものであった。
こちらについては、大聖堂に現れた雪嵐が半ば悪変しかけて本来よりも遥かに狂暴になっていたせいらしいのだが、辛うじて腕の切断には至らなかったと話していたヒルドの負傷の程度を、恐らく治癒の前に見てしまったエーダリアは、どれだけ恐ろしかったことか。
それぞれに、望みもしなかった形で手の中を空っぽにした事がある二人なのだ。
互いに互いを案じたいあの場面で、何事もないふりをしなければならないのは、堪らない怖さに違いない。
うっかりエーダリアの負傷に気付きかけたネアをヒルドが制したのは、ガーウィンから招かれた聖職者達や、王都からのお客の目があったからだった。
皆がぐっと堪えて言葉を飲み込んでいたあの場で、危うく声に出してエーダリアを案じてしまいかけたネアは、自分の未熟さと迂闊さに恥じ入るばかりだ。
「ヒルドが、傷薬で濡らした手で傷を負った箇所を掴んでくれたのだ。あの騒ぎの中でと、帰りの馬車との二回、ノアベルトからも服用型の魔物の薬を貰っているので、もう傷そのものは問題ない。心配をかけたが、安心してくれ」
「ですが、傷が本当に塞がっているのかは、ヒルドさんがきちんと調べるそうですよ?」
「ヒルド……………、私は、お前程に大きな傷を負った訳ではないのだ。寧ろ、お前こそ、午後の儀式までに少しでも休んでくれ」
「あなたに何の問題もないと分かれば、私も少しは休めそうですね。まずは、傷を負った箇所を見せて下さい」
「ノアベルト……………」
エーダリアはノアに助けを求めたが、契約の魔物はにっこり微笑んだものの味方ではなかった。
「まずは脱いで、どこかに魔術的な障りがないかも調べなきゃだ。……………あ、これはヒルドもだからね!シルがグレイシアに雪嵐の亡骸を燃やすように頼んでくれたお陰で、どちらにせよ、魔術的な繋ぎが持ち出される事は防げたよ。でも、傷そのものへの魔術付与は痕跡として残りかねないからね」
「ま、待て!そこまで脱がせる必要はないのではないか?!負傷したのは腕だけではないか!」
「うむ。私はこのくらいであれば動じませんよ。寧ろ、医療現場に於ける肌色率においては、集計に含まないという認識でいますので、じっと見ていても恥じらいはありません」
「うんうん。そうだよね。…………さて、まずは腕からだ。寒かったら言ってね」
ヒルドとノアに上半身の着衣を容赦なく脱がされながら、こちらを見たエーダリアは、困ったように目元を染めている。
眉は困り眉になってしまっているが、ノアの真剣な診察には、どこか擽ったそうに世話を焼かれているようにも見えた。
(良かった。傷は残っていないみたいだ。………でも、上着はどこも傷付いていなかったけれど、シャツには切断面が残っているのだわ……………)
ざっくりと切れたシャツを見ると、エーダリアが受けた傷は決して浅くはなかったのだと分かる。
血の跡は残されていないが、出血だって相当なものだったのではないだろうか。
上着の袖部分の修復は、ノアが行ったのだろう。
魔術で構築された訳ではない衣服の修復は意外に難しいと聞くので、ノアが隣にいたからこそ負傷を隠し通せたのかもしれない。
こちらの人間はとても心配症なので、どこも何もないかをネアなりにじっと観察していると、こちらを見たエーダリアが苦笑する。
「ネア、お前のお陰で大事に至らなかった。礼を言う。……………だが、どうして気付けたのだ?」
「………あの錫杖に付けられていたリボンが、カワセミに見えたのです」
「カワセミに……………?」
ネアの答えに困惑の様子を見せたエーダリアに、ヒルドとノアもこちらを見る。
困惑の眼差しの三人に見つめられ、ネアは、ふんすと胸を張った。
「ディノ曰く、あのリボンには、皆さんには気付かれない程度の、持ち主の方の強い思いが凝って僅かに魔術的な障りを帯びていたのだとか。よって、可動域が上品な私だからこそ、あのリボンをただのリボンのように見逃せなかったのだろうという事でした。なお、狩りの女王としての獲物への執念も、その気配を見逃さなかった要素なのだそうです」
「………そうか。だから、お前だけが気付いたのだな」
(勿論、あの時に私が気付けたから、酷い事にならなかったのは本当だろう……………)
それでも完全には間に合わなかったのは、運命の疵に近い魔術的な轍が、既にエーダリアに付与されていたからだ。
エーダリアはまだ詳細を知らされていないが、今年のグレイシア脱走の一件の背後にあったのは、エーダリアを陥れ、亡命者受け入れを強いろうとしたイスキアの陰謀である。
リンツェで終わったと思っていたその事件で、誰もが見落としていたのは、エーダリアがウィーム領主であるというそんな簡単な事であった。
(ウィームでの祝祭運行が後退したという事そのものが運命の疵に近いものになって、ウィームを治めるエーダリア様にも響いてしまい、今回の事件が起きたというのがディノの見立てなのだ)
今回の舞台となったクラヴィスを始めとする祝祭儀式は、信仰の魔術と無縁ではいられない。
そして、信仰の魔術の庭には、幾つもの規則性がある。
ネアの生まれ育った世界でも似たような嗜好があり、こちらの世界でも変わらずに好まれる定型の道筋があるくらいともなると、これはもう、各世界が辿りがちになるくらいのお決まりの筋書きなのだろう。
(運命の疵、使命の半ばで命を落とした人達、そして命を落とした誰かから派生したかもしれない人ならざるもの。………イスキアで亡命を望んだ人は、ウィームに迎え入れて欲しいというだけの要望しか持たなかったけれど、その交渉を調える為の舞台に選んだのは、信仰の領域であるイブメリアの大聖堂という舞台だった)
そんな舞台に、亡命してくる筈だった貴婦人の聖布が持ち込まれていたのだから、腹立たしい事とは言え、魔術の結びが運命の天秤をも揺らすこの世界で何も起こらない筈はないのかもしれない。
今回揃えられた条件が信仰の定型にありがちな材料であることと、エーダリアに運命の疵がつけられているかもしれないことに気付いたのはノアで、各所と相談して急遽運用されることになったのが、ネアと揃いで作られた髪飾りだ。
雪の上につけた轍を使って運命が規則正しい道を辿るように、今回の祝祭儀式で何かが起こるというのは、ほぼ想定されていたのである。
そしてその運命の疵を辿ってやってくる何かは、ネアの髪飾りを通して、ディノからも排除出来るようにしてあった。
「最初から、ノアが何かが起こるかもしれないと教えていてくれたので、おかしな気配に対しても敏感になっていたのかもしれません。ですが、まさか襲撃になるとは思ってもいませんでした………」
「ああ。………私はまだ、細部までを聞かされてはいないのだが、想定されていたのは、魔術的な仕掛けや障りであったからな」
そう頷いているエーダリアには勿論、今回の送り火の魔物の失踪が、ただの失踪ではないことくらいは伝えられている。
だが、相変わらず事の詳細は伏せられたままだ。
そこまで徹底し、イスキアが決行日としたイブメリアが終わる迄は不用意な魔術の繋ぎが出来ないようにと詳細を伏せていたのに、よりにもよってあの錫杖持ちの聖職者は、政治的な便宜を図る事と引き換えに、イスキアの貴婦人の聖布を儀式道具に使ってしまった。
マイロ達がリンツェで苦心して潰した道筋や運命の要素を、あの青いリボンが繋ぎ直してしまったのである。
(亡命を求めてイブメリアの舞台を作ったイスキアの思惑と、特赦を求めて聖域に押しかけてきた雪嵐の動機はとても似ている。だからこそ、エーダリア様につけられていた運命の疵に似た轍が、あの雪嵐の攻撃をエーダリア様に繋いでしまったのだわ………)
おまけに、そんな展開が信仰の庭で好まれる主題ともなれば、魔術的な再現への引力はますます高くなる。
ただ、ネア達が警戒していたのは、儀式を失敗に導くような仕掛けや企みが展開することであったので、警戒するべき対策がずれてしまった。
「僕の妹もこの手の予兆には敏感だけど、今回は、ネアにしか気付けない運命の運びだったのかもしれないね」
そんなノアの言葉に、エーダリアは目を瞬く。
首を傾げたネアに、宝石のような青紫色の瞳の魔物はふわりと微笑んだ。
「今回のことを踏まえての僕の考えだと、雪嵐の妖精が派生する切っ掛けには、信仰や特赦の魔術が絡むんだろう。姿形の曖昧さや、その状態で人間や雪竜の子供を襲う残虐さは、死霊や祟りもの、もしくはあわいの怪物に近い区分の証なのかもしれない。だから僕は、本当は妖精じゃないと思うんだよね」
「……………そう、なのか?」
「うん。………そうするとさ、最初から聖域や信仰の庭の領域だ。おまけにそこは、何かと劇がかった啓示や試練の演目が大好きなんだよね。その傾向から見ると、ネアは、何かに気付いたり何かを目撃したりする役回りなんだ。…………ほら、昨晩のアルテアの怪我にも、気付いたんだよね?」
「まぁ。確かにあれも、雪嵐さんにやられた傷でしたが、関係があるのですか?」
ぎくりとして尋ねたネアに、ノアは考え込むような目をしてみせてから、徴として用意された必然なのかも知れないと言う。
信仰の常用する物語には、その後起きる悲劇に似たような出来事を重ね、啓示として読み取らせる展開が多い。
忠告を読み解ける信心深さがあれば失わず、真摯に啓示を受け取らない者は破滅するよくある展開である。
「雪嵐が、この時期にたまたま力を付けたっていう事自体は、条件そのものが揃った訳だから、おかしくないんだ。でもさ、リーエンベルクの周辺に同じ要素が重なり過ぎるのは異様だよね?………だから、ウィリアム達には雪嵐の精霊からは目を離さないでいて貰ったんだけど、まさか、こっちの雪嵐が動くとはなぁ………」
「なぬ。お二人は帰ったのではなく、もしかして、雪嵐の精霊さんを見張っていてくれているのです?」
驚いたネアに、ノアがそうだよと微笑む。
ディノの方を見れば、こちらもこくりと頷いた。
「まぁ。…………全く気付いていませんでした」
「今回は、アルテアの周囲で起きた事の方が、予兆として誂えられたものだったのだろう。アルテアが訪れていた夜会はイブメリアに関連するものだ。そちらも信仰の庭として繋がってはいたからね」
「あっちもこっちも雪嵐だったね。そのお陰で注視しておくべきだろうなって感じは捉えられたんだけど、僕の家族は引きが大きいから、きっとより高位の精霊の方が本命かなって思っていたんだ。それは僕の見立て違いだよ。…………ごめん、エーダリア。雪嵐が飛び込んでくるまで、僕は人型の生き物ばかり警戒していた」
「謝らないでくれ。今回、私は守られているばかりではないか。……………ヒルドにも、あんな酷い怪我をさせてしまった」
そう項垂れたエーダリアに新しいシャツを着せてやりながら、ヒルドはふっと艶やかに微笑んだ。
襲撃の際に結い上げたものが崩れたらしく、髪を下ろしている森と湖のシーは、はっとする程に美しい。
「おや、私が、今回の事で怖気付いているとでも?」
「そんな事は言っていないだろう!………あの怪我は、お前にとってもかなりの損傷だった筈だ」
項垂れたエーダリアの頬に、そっとヒルドの手が添えられる。
その姿は、師弟の姿というよりはどこか親子のような柔らかさもあって、深い愛情が透けて見える仕草であった。
「ええ。ですが、私にとっては、あの攻撃を受けたのがあなたではなく、あの程度の攻撃であれば、私が癒せない程の傷にはならないという事こそが全てです」
「……………ヒルド」
「失えないものと、失わせる訳にはいかないものは、私とてきちんと区別をつけておりますよ。………さて、もういいでしょう。あまり時間もないですからね。そろそろ昼食にしましょうか」
「あ、ヒルドも脱ぐんだからね!」
「ネイ…………」
ここでノアに捕まったヒルドも脱がされてしまい、心配するあまり大事な妖精の逃亡を許さなかったエーダリアが、塩の魔物の診察に大いに貢献した。
ヒルドは途中から苦笑していたが、まだ腕や肩に薄っすらと残った赤い線が、この妖精がどれだけの怪我を負ったのかを示していて、ネアは胸が苦しくなってしまう。
「………むぐ」
「ネア様?……………この通り、表面に赤みが残るだけですからね」
「…………ふぁい。二人とも大事な家族なので、こんな酷い怪我をするのは、どうしても我慢なりません。なぜ私は、あの雪嵐めをこの手で滅ぼさなかったのでしょう………」
「あ、震えてるのって、凄く怒ってるからなんだ………」
「ご主人様…………」
許されるのなら、妖精の方の雪嵐は一匹残らず狩り尽くしてくれるという思いであったが、派生の条件すらよく分からない生き物に関わる方が危うい。
ネアは、ふすふすと怒りの息を吐きつつ、とは言え己の憤りの為だけに危ない事など出来る筈もなく、美味しい匂いのする会食堂に向かう事にした。
こつこつと床を踏む音に、いつものリーエンベルクの景色は美しく穏やかであった。
今日はクラヴィスの祝祭で、エーダリア達にとっては忙しい一日でもあるが、このウィームを最も美しく輝かせる日でもある。
窓の向こうの森と、庭園の花々に結ばれた祝福結晶。
廊下の飾り棚に置かれた花瓶の花は、祝祭を思わせる繊細な灰紫色の薔薇と、薔薇色のライラックのような細やかな花を咲かせる花枝の組み合わせがえもいわれぬ美しさだ。
「もしかすると、あのケーキ投げ犯は、何かを察して、エーダリア様に祝福を与えようとしてくれていたのかもしれませんね」
「ああ。帰りの馬車の中で、私達もそう話していたのだ。祝祭の系譜の生き物だからな。そのような事もあるだろう。あの瞬間に備えて無理をして今朝まで残ってくれていたのだとすれば、追いかけ回して悪い事をしたな………」
「エーダリア様の代わりにケーキを投げつけられたネア様が、異変に気付く役割を果たすようになったのかもしれませんね」
ヒルドにそう言われ、ネアはこくりと頷いた。
(…………だから私は、あの声を聞いたのだろうか)
帰りの馬車の中で、ディノにはあの不思議な光景と、聞こえてきた声の事を話してある。
石造りの廟のような天蓋の下で誰かが微笑んでいるのは分かったが、その造作までは分からなかった。
とは言え、しっかり声は聞こえたし、その声音には感情の温度が感じられている。
その事を危険と見做すのか、より鮮明な予知と受け止めるのかどうかも含め、ディノは、馬車の中で暫く考え込んでいた。
「むむ…………」
「先程話していた、霊廟のような場所に座していた、何者かの言葉が気になるのか」
そう声をかけてくれたエーダリアには、幸いにもこちらの話は伝えられている。
「はい。今回は正直助かりましたが、………声の主が、あまり良い気質の方に感じられないのです」
「殉教者って、これ程に何が今回の毒なのかを分かりやすく教えてくれる表現もないけれど、凄く嫌な言葉だよね」
顎先に手を当てて首を傾げたノアに、ネアはそうなのだと力強く頷く。
あの時の嘲るような冷たい声音は、落ち着いて考えれば、どこで出会った者なのかが思い出せた。
「…………この子に予兆や啓示を与えた者は、迷宮で出会った人外者だと思うよ。そして、この世界層の者ではないのだろう」
「だよねぇ。ネアが見た物から考えられる系譜が、まず、今の世界にはないもんね。今の世界層で、音楽と啓示に加えて、信仰までを揃える高位者はいないんだ」
「信仰も、あやつめの要素に入っているのですか?」
「殉教者って言葉を、自分の領域として使っているっぽいからね。ネアが話してくれた内容だと、自分の領域のものかと思って目を凝らしたけれど、世界層が違うから恩恵が得られなかったって聞こえるからさ」
「………ぐぬ。面倒そうな要素が加わりました……」
「因みに、この世界で敢えて何が近いかと言えば、寧ろクロムフェルツあたりかな」
「まぁ。飾り木さんは大好きです!」
そう宣言してしまってから、ディノが荒ぶるかなとぎくりとしたネアだったが、真珠色の睫毛を揺らした魔物は、考え事をしていたからか、聞き流してくれたようだ。
「ネアが、ケーキを投げ付けられた事で得た祝福は、今日がもうバベルクレアではなかった事で、守護とするには弱かったのではないかな。………その結果、警戒を促すその声を拾い易くするよう働いたのかもしれない。……………君が同じような気配を感じるのは初めてではない。あの迷宮で経路が出来たと考えるべきか、……………君が元から持つ要素が、そちらに繋がりやすい道筋なのかもしれない」
「はい。………毎回少しずつ形を変えているので、距離や接し方で形を変えるものなのか、元々色々な側面を持つ方なのかのどちらかなのですよね。……しっかりと会話が出来たのは、祠守りの竜めに引き合わされた時だけなのですが、………どうもあの時とは違う……段階のものという感じがしました」
会食堂の扉を開けて、いつもの席に座る。
準備をしていてくれた給仕妖精が飲み物と前菜の準備をしてくれて、ヒルドに伺いを立てると、すぐにパンとバター、サラダやスープなども運んできてくれた。
一品ずつ運んで貰う事も多いが、込み入った話をする場合や、時間があまりない時はこの方式だ。
祝祭の食卓なので少し残念だが、却って色々な料理が並んで贅沢にも見える。
暖かな部屋なので、ネアはまずごくごくと飲めるような林檎ジュースをお願いした。
ウィームは水も美味しいのだが、今はジュースを一気飲みする贅沢が欲しかったのだ。
「その世界層が何を可能とするのかは分からないけれど、姿を変えるのであれば、グレイシアのように季節の運行を身に宿す者だと考えておこうか。君が霊廟や天蓋だと感じた装飾は、どちらかと言えば信仰の系譜の道具だ。殉教者という言葉を使い、聖歌に反応した事からしても、クロムフェルツに近しいという考えは遠からずなのかもしれない」
「………そう言えば、今回は霊廟のような物の両脇に、ツ……飾り木めいた装飾がありました」
ツリーと言いかけてその言葉を飲み込んだが、ツリーであれば特に問題はないような気がした。
なぜか、あまり口にしない方がいいと思ったのは、クリスマスという表現である。
思考の中で使う分には構わないけれど、クロムフェルツに出会ったあの日から、何かをそう呼ぶ事が、今は危ういと思うのだ。
(それが、遠くにいる何かを呼ぶ声になってしまうかもしれないから)
ネアがそんな話をするのは、ディノには二度目である。
今はエーダリア達もいるのでと、もう一度言葉を選んでその懸念を伝えると、成程と頷いたのはノアであった。
「そっか。この世界層にない祝祭を司る者なら、僕達よりもネアの方が近しいって事はあり得るね。たまたま迷宮の褒賞で繋がったのも確かだし、その上で、元より持つ相性なのかもしれない」
「そうだね。イブメリアに近い祝祭を司る者であれば、この時期に存在が鮮明になるのも理解出来る。………あの魔術の影を見ると、やはり君に災いを齎すものではなさそうなんだ。………けれども、祝福に近しいものであれ、その全てが好意的とは言えない。……………祝祭の季節に加え、境界を曖昧にする漂流物の訪れが近い事も、君との繋がりを深める要因かもしれないから、こちらから関わるような事はやめておこうか」
(……………悪意や障りという形をしたものでなくて、良かった)
どうであれ用心せねばならないにせよ、輪郭というものは大事だ。
ディノの言葉を聞いて、ネアは、指先に凝っていた怖さが抜け落ちるような気がする。
また、漂流物が近く、その上でイブメリアの時期という条件が輪郭を鮮明にするのであれば、今年のイブメリアを最大値として構えるだけで済むのかもしれない。
「はい。ではそうしますね。よく分からないもやっと感は残りますが、私にとってはもう、こちらでのイブメリア程に素敵なものはないので、そやつと繋がるかもしれないあちらの祝祭には、懐かしさ以外の感慨はありません」
「うん。君がそうしてこちら側を選ぶのは、……この言い方で良いのか分らないけれど、良い管理法なのだと思う。対になるもののこちら側を、君が気に入っていて良かった」
「…………そもそも、私はディノが大好きなので、そんなディノに紐付かないこちらの世界ではないものが、こちらの素敵さに劣るのは当たり前なのですよ?」
「………ネアが虐待した」
「解せぬ………」
ちょっぴりくしゃりとなった魔物を仕方なく撫でてやり、ネアは、美味しいチーズクリームのスープを夢中で飲んだ。
今年のクラヴィスの昼食には、もったりとし過ぎない絶妙な味わいのスープが出され、しゃくしゃくとした食感の甘酸っぱい花びらが入っている。
黄みがかったチーズスープに白い花びらが入っている様子は、どこか少女めいた繊細な美しさだ。
白い花びらが先程の事を思い出させるかと思ったが、単純に美味しいと思うだけで済んでほっとする。
この花びらは、祝祭の季節にだけ出回る雪薔薇の一種らしく、味は林檎に近いだろうか。
酸味がスープをすっきりと飲ませてくれるのだが、こうして料理に果実味のある素材の組み合わせを好むウィームは、何と素晴らしい場所なのだろう。
呼び落とされてから、そんな組み合わせに夢中になっているネアにとっては至高の一品であった。
小さめのスープカップで量も多くないからか、具材などは特に入っていないのがまた素朴で美味しく、パンと合わせて飲む事を目的とした引き立て役のスープでもある。
「今日ばかりは、エーダリア様に鶏皮を沢山譲るのもやむなしと思っていましたが、今年はお皿に取り分けてくれるのですね」
「時間がない事を考慮しての工夫かもしれませんが、どうやら今年は、鶏の香草焼き以外にも鶏肉料理が出るようですよ」
「ほ、ほかにも!」
秘密を明かすようなヒルドの言葉に大興奮のネアは、すぐに二品目の鶏肉料理と挨拶を交わす事が出来た。
一度、丸焼きの状態で見せてくれ、その場で人数分の各自のお皿に切り分けられた香草焼きの横に並んでいるのは、鶏肉で鶏レバーやキノコなどを包み、くるりと巻いてパン粉を付けて揚げた、アルテアの誕生日会にもあった料理ではないか。
聞けば、その時に人気があったので、今度はソースをグレービーソースに変えて出してくれたらしい。
更には鶏肉のコンフィの杏ソース添えも並んでいて、素晴らしい鶏肉料理の一皿が出来上がる。
付け合わせの人参のグラッセは、ほくりと甘く、とろりと焼いたポロ葱にはマスタードソースがかかっているのだから、どれも美味しいばかりでうっとりしてしまう。
「……………まぁ、エーダリア様?」
「ありゃ、どうして泣いてるのさ?!どこか痛い?ど、どうしよう、ヒルド?!」
ここでネアは、さぞかしエーダリアも喜んでいるに違いないと顔を上げ、涙目で食事をしているエーダリアにびっくりしてしまった。
ディノも驚いたように目を瞠っているし、ノアに至っては激しく動揺している。
「……………どうされましたか?」
あわあわするネア達に、心をそっと撫でるような優しい声でヒルドが尋ねる。
エーダリアは涙に気付かれてしまい目元を染めていたが、ヒルドの優しい眼差しに気付いたのか、ふにゃりと口元を崩すような柔らかな微笑みを浮かべた。
「………どうも、教会や聖堂の周囲で、大事な者が血を流しているのは苦手でな。……………ヒルドが当たり前のように隣に座り、食事をしているのを見たら、……………胸が苦しくなったのだ」
「……………グエンの事を思い出しましたか」
「そうなのだろう。……………もう、あの事件の苦しみは和らいだのかと思っていたのだが、こうして揺り戻しが来ることもあるのだな。今の私に、…………家族がいなかったら、果たしてあの時も乗り越えられていたかどうか」
ネアの目の前で、エーダリアがそんな話をしてくれることは珍しい。
きっと、ヒルド達とはもっと色々なことを話しているのだろうが、家族でも、それぞれに接する側面が違うのだ。
(……………グエンさんの事があった時にエーダリア様を支えたのは、ヒルドさんだったのだろう。あの時、やっと一緒に暮らせるようになったばかりだったヒルドさんが近くにいたからこそ、エーダリア様は一人ぼっちで大事なご友人の死を乗り越えずに済んだのだわ……………)
だからこそ、今回のヒルドの負傷は、エーダリアにとって恐ろしいものだったのだろう。
その時は領主としての責務もあり乗り越えられたが、やっと落ち着いたことで、心が大きく動いたのかもしれない。
「……………私はどこにも行きませんよ。ずっとお傍におりますと、そう言ったでしょう」
「ああ。……………そうだな。ノアベルトも、ネアもディノも、……どうか、怪我などはしないでくれ」
「え、今日その台詞を言うのって、僕の役目だったんじゃない?!」
「私でも良かったのですよ!今回は、私がエーダリア様やヒルドさんを心配する事件だったのでは……」
「そうだな、………すまない。上手く言えないが、なぜだかそう思ってしまったのだ」
「………でも、家族が揃って美味しい物を一緒に食べられるのは、とても幸せな事ですね」
「家族……………」
「ふふ。ディノが私をこの素敵な世界に呼んでくれて、そして、エーダリア様が私に素敵なお家を与えてくれたからの、とびきりの贅沢なのですよ」
「ネア………」
ネア達はクラヴィスの祝祭料理を囲み、全員で顔を見合わせて微笑んだ。
エーダリアはまだちょっぴり泣いていたが、美味しそうに鶏肉を食べている。
どんな事件の後だって、ネア達はいつも、こうして家族で食卓を囲んできたのだった。
はらはらと舞い散る雪を覗かせる窓の向こうには、美しい祝祭のウィームが広がっている。
もう誰も一人ではない事こそが、祝祭日の幸いなのだろう。




