192. クラヴィスに招かれます(本編)
バベルクレアの花火が終わり、昨晩は真夜中過ぎから雪竜達の大掛かりな捕り物があったようだ。
禁足地の森の奥で鋭く飛び交う雪竜達の姿が見られたらしいが、ネアはその時間はすやすや眠ってしまっていたので、残念ながらその勇姿を見る事は叶わなかった。
(見逃してしまった………)
今年は朝の儀式への参加の仕事があるので、ちょっぴり凛々しく装いたいネアは、支度に時間がかかることも見越して随分と早く起きている。
そうして、起きてから雪竜の狩りの事を思い出し、窓から少し獰猛な雪竜達の狩りが見られたかもしれなかったのにと、とてもとても後悔したのだ。
「………くすん」
「雪竜の狩りが見たかったのだね………」
「ふぁい。ですが、それをディノに伝えるのすら忘れて、ホットワインとローストビーフのほこほこのお腹でぐっすり眠ってしまいました………」
昨日に引き続きの早朝起床だったのでまだ間に合うかなと思ったが、夜明けの空は澄んだ雪雲が広がるばかりで、もうどこにも雪竜達の姿は見えなかった。
(……………おや?)
ふと、ネアは隣にいる魔物の横顔が、少しだけ厳しい事に気付いた。
どうしたのだろうと思えば、窓の方を見ている気がする。
何か異変があっただろうかと思い目を凝らすと、窓の右端に、白いものがべったりとついているではないか。
「…………私のお部屋の窓を、誰かが荒らしたようです」
「荒らされてしまったのかい………?」
「あの窓の端にべっしゃりついているのは、ケーキですよね?となると、ケーキ投げの何やつかが現れたのかなと思いましたが、あのケーキは、投げつけた後で暫くすると消えてしまうのではなかったのでしょうか………」
「これは、………付与された魔術が完結していないのかもしれないね。………調べてみようか」
「はい。隣の部屋から、扉を開けて外に出てみます?」
しかしここで、ネア達は、祝祭に派生した生き物の思いがけない執念に触れる事になる。
外に出てみると、クラヴィスとバベルクレアで色違いだという、祝祭の魔術の名残りがあったらしい。
となるとこれは、間違いなくケーキ投げを使命とした生き物による仕業であるようだ。
ネアが暗い目で窓に張り付いたケーキを見ていると、突然、べしゃりという濡れた音がした。
頭に何やら柔らかな物が落ちてきたネアは、じんわりと冷たく頭皮を冷やす物体の温度に、とても嫌な予感を覚えずにはいられない。
ぷわんと、甘いケーキの匂いがするのだが、それは窓からの香りではない気がする。
「…………ふぎゅ」
「ネア?!」
「屋根の上から、雪玉が落ちてきたのです?」
「………ケーキ、なのかな」
「お、おかしいです!もう今日はクラヴィスなのですよ?窓は時刻が読めないので兎も角、この攻撃は大遅刻ではないですか。それも、お出かけを控えた乙女の頭部を狙うとは、何という不埒者でしょう!」
怒り狂った人間が暴れても、ケーキ投げの犯人の姿はどこにもない。
ディノ曰く、本来の領域を外れたこの時間までケーキを投げつける為に、とても無理をして残っていたのではないだろうかという事であった。
ケーキを投げつけられたネアを見て、満足して消えてしまった可能性もあるらしい。
つまり、恨みを晴らそうにも、来年のバベルクレアまでは会えないのだ。
「すぐに部屋に戻ろうか。家事妖精を呼ぶかい?」
「祝福の朝なのですよ!しかも今日は、クラヴィスの儀式に参加する日なのです。それなのに、朝からお風呂に入らねばならないだなんて、許されざる行為です!おのれ、もう一度出てくるのだ!!」
「ネア、落ち着いて。浴室に連れて行った方がいいのかな………」
「ぐるるる!!」
朝の素敵な気分と、もう明日の夜にはイブメリアが終わってしまうのだという寂しさに心を揺さぶられていた人間は、残された大事な持ち時間をケーキに削られる無念さを噛み締め、伴侶に慰められながらとぼとぼと屋内に向かう。
さくりと雪を踏む音が聞こえたのは、その時だった。
「…………ネア?」
「エーダリア様?………こちらのお庭に来るのは、珍しいですね」
「その頭は、………ケーキを投げつけられたのだな?」
「ふぁい。昨晩のケーキ投げ犯が、つい先程まで居残っていたようです。この窓にケーキが投げ付けられていたので外に出たら、…………む、窓のケーキが消えています…………」
「こちらのものは、消えてしまったのだね………」
「ネア様、…………これは………」
「ぎゅわ、ヒルドさんとノアも一緒だったのですね………」
「わーお。ネアが襲われるとは思わなかったなぁ。ゼノーシュが一晩かけて追いかけていたんだけれど、捕まえられなかったんだよね。それで、今朝は僕達も、被害者が出ていないか見回りをしていたんだけど………」
ネアは、ケーキがずり落ちてこないよう現状あまり頭を動かせずにいるので、体を捻って僅かにだけ振り返りながら会話し、クラヴィスの朝にケーキを投げ付けられる事になった経緯を把握した。
どうやらケーキ投げの犯人は、昨晩はエーダリアに狙いを定めていたらしい。
何度か窓の向こうからケーキを投げつけられて困惑するエーダリアに、夜の見回りとなったグラスト達が、ケーキ投げ犯探しに出たという。
その結果、一晩中、グラストにはケーキを投げる事を許さない見聞の魔物に追いかけ回されていたケーキ投げの生き物は、誰にもケーキを投げ付けられずにいたに違いない。
最後の力を振り絞って、屋根の上からネアにケーキを投げ、やっと満足して消えたのだろうという事であった。
「………ですが、昨年の騒ぎを思い出して、少しほっとしました!このケーキも、暫くすれば消える筈ですよね?」
「これは、普通のケーキなのではないかな」
「なぜなのだ………」
「うーん、僕の推理だと、もうクラヴィスだからさ。魔術で作ったケーキを用意するだけの力がなくて、普通のケーキをどこからか持ってきたんじゃないのかな?」
「ぐるるる!!」
かくして善良な乙女には、朝から、頭に投げ付けられたケーキを洗い落とすという悲しい作業が待っていた。
生クリームが意外に厄介だったこともあり、食事に向かう頃にはすっかりくたくたになってしまったネアにはもう、本日のクラヴィスの装いを楽しんでくるりと回ってみせる力もない。
今日は珍しく漆黒の装いで、だが、繊細な刺繍が施された圧縮ウールのような素材のドレスは、細やかに縫い込まれた結晶石が色を添え、光の角度できらきらと光る。
荘厳な儀式に似合うような装いをと、首元も覆うような聖衣めいた雰囲気にした部分も気に入っていた。
(回復薬を飲めば、しゃきんと元気になれるのだけれど……………)
狡猾なネアが、そう考えない筈もない。
だが、美味しい物をいただく際には、回復薬の味のしない健やかなお口でいるのが淑女の務めである。
今暫くは我慢しておき、薬は、出かける前に飲んでおこう。
「今年は、クラヴィスの朝の儀式に参加するので、牛乳たっぷりの紅茶と、温かい鶏肉の小さなパイという軽めのお食事になりますからね。本当はもう少し時間があったのですが、折角早起きしたのにまさかの誤算でした………。ディノ、髪を洗っていたせいで、忙しなくなってしまってごめんなさい」
「私が、屋根の上を見ていれば、君はスープも飲めたのに………」
「あら、しょんぼりなのです?綺麗に三つ編みにしたばかりのディノの髪の毛にケーキを投げ付けられたら、私はもっと怒り狂ったでしょう。ですので今回は、せめて私で良かったのでしょう。ささ、しゅんと会食堂に向かいますよ!」
「ご主人様!」
(そう言えば、アルテアさんは自宅に帰ったのかしら………)
雪の色が静謐な色を添える廊下を歩きながら、そんな事を考えた。
ウィリアムは、年明けに戦乱となりかねない土地を見に行くということで、アルテアと共に花火の後でリーエンベルクを発っている。
怪我をしてリーエンベルクにやってきた使い魔については、ディノから、一昨日からアルテアが出かけていた夜会で厄介な精霊との間に諍いがあったと教えて貰った。
お相手の精霊もまた雪嵐というものから派生した生き物なのだと聞かされたネアは、昨晩の雪竜達の狩りとの関連性があったのだろうかと考えてしまったが、たまたま、ここ数日は魔術的な条件が揃い、雪嵐の系譜の生き物達が力を強めやすい時期だったのだそうだ。
美しい女性だと聞けば男女間の問題があったのかなと思わないでもなかったが、一度拗れてしまった関係について、部外者が言及するのはやめておこう。
怪我をしたばかりなのでリーエンベルクに泊まってゆけばと思いかけ、そう言えば野生の魔物でもあるのだとはっとしてしまい、その背中を見送っている。
美味しいクリーム煮の入ったパイをはふはふといただいたネアは、そろそろ出かけるというヒルドの声に頷いた。
ゴーンゴーンと、鐘の音が聞こえる。
澄んだ響きは重たく、聖域を音で洗う荘厳さは、この季節の雪景色のような美しさだ。
(…………ああ、この飾り木も綺麗だな)
大聖堂まで乗ってきた馬車を降りたネアは、大きな飾り木を見上げて唇の端を持ち上げる。
ふくよかな緑の枝葉は、リーエンベルクの飾り木ほどに結晶化してはいないが、生木の質感もまた清しい美しさがある。
大聖堂前に現れたネア達の到着に、丁度通りかかったインスの実らしい赤い実をどこからか盗んできていたちびこい毛玉妖精が、みっと声を上げると、赤い実を落として逃げ出して行くのが見えた。
「あの実をどのリースから奪ってきたのかも気になるが、食べなくて良かったと思うべきなのだろうな」
「困った食いしん坊ですねぇ。あのちびこさでインスの実を食べていたら、確実に致死量だった筈です」
「であれば、長らえてくれて良かった」
そう苦笑したのはエーダリアだ。
そんな領主一行を大聖堂の入り口で待っていたのは、教会関係者と、大聖堂周辺の警戒と領民の整理にあたる街の騎士達で、クラヴィスの祝祭の儀式らしくいつもよりは華やかな装いであった。
胸に手を当てて深々と一礼した騎士達に対し、教会関係者達は僅かな会釈に留める。
ネアの生まれ育った世界とは違い、こちらの世界の領主と聖職者達はさほど親密ではないのだ。
ガーウィンでもそうなのだから、ウィームは、よりいっそうに互いの領域を切り分けている。
「おはようございます。今朝は冷えますね」
「ええ。雪嵐の翌日だからでしょう。聖域では、篝火を焚いてやり過ごされたのですか?」
「はは、得体の知れない生き物に、教会の扉を叩かれては堪りません。何しろあの妖精達は、聖域の特赦を求めて逃げ込んでくる事がありますから。………昨晩は恐々としておりましたが、無事にクラヴィスになって何よりです」
ヒルドと、この大聖堂に配属されている教会関係者のやり取りが聞こえてきて、ネアは、雪嵐が聖域を求めるのだと初めて知った。
聖域に特赦を望むのであれば、信仰の赦しを求めるような思想を持つ生き物なのだろうか。
(その外側で自立している人ならざる者かと思っていたけれど、教会にやって来るだなんて、何だか不思議だわ………)
おまけに、クラヴィスになるともう聖域に駆け込めなくなるのか、或いは、クラヴィスになると力を失うものなのか。
繋ぎ合わせたピースを見ていると、どこか童話や伝承に出て来る怪物のようでもある。
アルテアと何かがあった精霊の方は美しい女性らしいのでそこまででもないが、雪竜の姿を模すという妖精の雪嵐については、どうにも得体の知れない感じがした。
りぃんと鳴らされたのは、鈴の木だろうか。
誰かの持つ儀式用の錫杖からひらりと翻るリボンの色は綺麗な青色で、ネアは、なぜかその色に目を引かれた。
錫杖を持っているのは見た事のない聖職者であったが、この三祝日の儀式では、ガーウィンからやって来る参加者もいる。
見知らぬ者達の全てが怪しいという訳でもなく、祝祭儀式としては古くから変わらない形であった。
「………ネア?」
「なぜか、あの錫杖をじっと見ていました。雪の中でひらりとしたので、狩りの女王としての本能が刺激されてしまったのかもしれません」
「カワセミかな………」
「ふふ。同じようなぺらぺらリボン生物ですものね」
ネアが足を止めた事に気付き、声をかけてくれたディノの手を取れば、ここから先は、教会の領域魔術の中になる。
信仰の領域での儀式はいつだって魔術を大きく動かす舞台でもあるので、ディノは、こんな時ばかりは恥じらわずに手を繋いでくれるのだ。
前を歩くエーダリアの盛装姿は、ウィーム中央の今年のイブメリアのリボンを思わせる、白灰色の天鵞絨に、細やかに祝結晶を縫い込んだ刺繍の装飾がある。
ふくよかな漆黒の縁取りは夜の系譜の竜の毛皮で、エーダリアの艶やかに櫛削られた銀髪によく似合っていた。
そんな姿を満足気に見守っているのは、古参のウィーム領民達だ。
(こうして見ても、お揃いとまでは分からないかな…………)
エーダリアが左側の編み込みに飾っているホーリートを模した繊細な髪飾りは、よく見れば、頭の後ろで編み込みをしたネアとお揃いなのだが、予めそう言われなければ分からない程度の相似性の品物だ。
必要になるかもしれないと言われ、魔術的な連続性を持たせる為に作られた物であるらしく、以前のディノであれば荒ぶりかねない案件だが、なぜか今年は、しょんぼりしながらではあるが大人しく受け入れてくれていた。
ゴーンと、また鐘の音が響く。
開けられた大きな扉の向こうから聞こえてきた聖歌は、朝の儀式前のミサに参加している子供達が歌っているのだろう。
開けた視界の向こうに煌めくステンドグラスの窓は、宝石のような鮮やかさであった。
ぴしゃんと、水音が響く。
(……………え?)
その音にぎくりとして、ネアは足元を見た。
ネアが踏んでいるのは、ウィーム大聖堂入り口のモザイク床で、どこにも水の気配はない。
どこからか吹き込んできた雪片は白い花びらのようで、であれば、朝陽で雪が溶けるような陽射しは出ていない筈だった。
(ううん、…………雪片じゃない………)
そう気付き、ぞっとする。
そう言えば風など吹いていない筈なのにひらりと飛ばされてゆく白い花びらは、ここではないどこかの湖面に落ちる。
遠くに見える壮麗な廟のような石造りの天蓋の下で、誰かが嫣然と微笑む気配は、淡い陽炎のよう。
その天蓋の両端には二本の飾り木があり、白い紙飾りが吊り下げられ、木の上にはざらりとした質感の金色の星飾りがかけられていた。
「殉教者が生まれるとしても、こちらの祭壇には届かぬ歌声だな。やれやれ、またここではないどこかの祝祭か」
(…………っ?!)
ただの幻のようなものだと思ったのに、その声が聞こえた途端に背筋が冷えた。
そして、その声を、どこかで聞いた事があるような気がした。
でもそれよりも何よりも、ネアが恐ろしかったのは、その声の主が見ているのが自分ではなく、エーダリアだと確信していたからだ。
「ノア!エーダリア様を!!」
咄嗟に叫んだ声は準備が調わずにひび割れたが、はっとしたように体を揺らしたノアは、すぐさまエーダリアの手を掴んでしっかり抱き寄せた。
その途端、ごうっと風が唸り視界が真っ白になった。
人々の驚き慄く声を聞いた直後、ネアもディノの腕の中に抱き込まれたが、ぶおんと吹き荒ぶ白い嵐の中で、ヒルドの、凍えるように冷たい鮮やかな瑠璃色の瞳が、ぎりりと細められるのを見たような気がした。
「っ、ディノ…………!」
「雪嵐だ。………約定があった、クラヴィスとイブメリアには聖域に近付けない筈なのだけれど。………約定を忘れるような、狂乱や悪変に近しい状態だったのかもしれないね……………」
「エーダリア様は?!」
「大丈夫だよ。ノアベルトがいるし、もう雪嵐も倒されたようだ。………ただ、ヒルドが負傷したみたいだね」
「ヒルドさんが……!!」
一瞬にして視界を奪った雪嵐は、訪れた時と同じように唐突に晴れた。
「ヒルド!」
その直後に響いたエーダリアの悲痛な声に、ばたばたと大勢の人達が行き交う音。
この周囲にいたのは、何も教会関係者や護衛の騎士達ばかりではない。
吹き込んだ雪嵐の勢いに転倒している者もいたし、何よりもウィーム領主を守ろうとして駆け付けた人々が多過ぎる。
そんな人達が目隠しになってしまい、ネアは、その奥で何が起きているのかを確かめられずにいた。
先程のエーダリアの声音に冷静さがあったのが、こんな時にも取り乱しきれない領主としての立場を思い知らされるようで、ぎゅっと胸を締め付ける。
ネアが不安のあまりに泣きたくなる以上に、エーダリアの胸の方が苦しいだろう。
もしここでヒルドが負傷したのであれば、それは間違いなくエーダリアを守っての事なのだから。
「ディノ、エーダリア様達のところへ行きたいです」
「私たちとの間に、彼等を襲った雪嵐の亡骸がある。もう少しだけ待っておくれ」
「…………ヒ、ヒルドさんは………」
「心配ない。薬で治せる程度の怪我だよ。ノアベルトが排他結界を展開したけれど、彼は、自分の役目を考えてそれよりも前に出てしまったようだね」
「………ふぁい。……………ノアの結界の内側に、……………えぐ、いて欲しかったです」
「分かってはいても、内側には留まれなかった理由もあるのだろう」
どうしても声が震えてしまうが、ネアは、こみ上げてきた涙を飲み込んだ。
今のネアはウィームの歌乞いで、ここには契約の魔物と仕事で来ている。
出来る事をして、少しでも現場を収める為に役立たなくてはいけない。
そっと頭を撫でるディノの手に勇気づけられ、背筋を伸ばした。
ネアには、雪嵐のものだという亡骸は見えなかったが、誰かが、障りを受けないように雪の塊から離れるようにと指示を出す声が聞こえる。
だがその直後、ざあっと音を立てて何か大きなものが青白い炎に包まれた。
「…………祝祭の日に、悪さをするのは許さない」
低く不機嫌そうな声に、おおっと聞こえる安堵の声は領民達のものだろうか。
やっと視界が開けて、ネアは大聖堂の入り口に立つグレイシアの姿を見る事が出来た。
イブメリア程ではないが、祝祭の儀式らしく華やかな盛装姿の送り火の魔物は、雪嵐の亡骸が燃え尽きたのを見ると頷き、大聖堂の中に戻ってゆく。
「グレイシアさんです………!」
「騎士達が移動させようとしていたけれど、今日であれば、グレイシアに処理をさせた方がいいだろう。祝祭のテーブルの上では、殆どの災いは、送り火で浄化してしまえるからね」
「もしかして、ディノが呼んでくれたのです?」
「うん。雪嵐の亡骸は、雪の塊になってすぐには消えないものなんだ。ここには置いておけないものだし、………障りを受ける者が出てはいけないからね」
ひょいと持ち上げられ、床に膝をついたヒルドと、そんな妖精を囲むようにして屈み込んでいるエーダリア達の傍に運んで貰う。
はっとしたように道を開けてくれたのは抜き身の剣を手にしたグラストで、ネアは、この騎士も側にいてくれたのだと安堵に胸を撫で下ろした。
「………ヒルドさん」
呼びかけに顔を上げてくれたヒルドに負担がかからないよう、ネアはすぐに下ろして貰い、床に膝をついた。
こちらを見て微笑んだヒルドの瞳が少しも曇っていない事が、泣きたいくらいに嬉しかった。
「…………ネア様。………あなたのお陰で、間に合う事が出来ました」
「傷薬は足りていますか?……う、…………腕と肩が……」
「ネイの守護のお陰で、幸いにも切断には至りませんでしたね。私はまだ頑強ですからこの程度で済みましたが、ネア様が気付かなければ、…………エーダリア様がこの攻撃を受けていたでしょう」
その声は静かであったが、いつの間にか聖堂内から聞こえていた聖歌も途切れ、しんと静まり返った周囲によく響いた。
途端に周囲の領民達が冷ややかな殺意とも言えるべき気配を帯びたが、今のネアには頼もしいばかりだ。
ここには、味方が沢山いる。
「……………すまないな、皆、心配をかけた。他に怪我人はいないか?小さな擦り傷や打撲でも、不調のある者達は騎士に声をかけてくれ」
ネア達が来た事で、ヒルドを安心して任せられると思ったのだろう。
表情を引き締め、ノアの手を借りて立ち上がったエーダリアは、こちらを見て短く頷くと、領主としての仕事に戻る。
その姿を見た領民達からは、安堵の溜め息が漏れた。
怪我をしたのがエーダリアではない事は伝わっていたようだが、それでも、こうして元気な姿を見せて貰えると、ほっとするのだろう。
「……………エーダリア様は、」
「ネア様。あの方は問題ありません。幸いにも、怪我をしたのは私一人でしたから」
「……………ええ。そうでした。ですので、ヒルドさんのお怪我を診ますね」
瑠璃色の瞳にじっと見つめられ、ネアはすぐに頷いた。
絶対に蔑ろに出来ないことが一つあるが、その話は、儀式が終わった後になるのだろう。
加えて、ヒルドの怪我は、ネアの目にはぞっとする程に酷いものに思える。
持っていた傷薬をすぐに使ってくれたらしいのだが、怪我の痕跡はまだ生々しかった。
「薬で回復が間に合わなかった部分は、ネイが治癒をしてくれました。私も、もう大丈夫ですよ」
「ヒルド、少しだけそのままの姿勢でいてくれるかい?ゼノーシュも見てくれているけれど、君が血を落としていないかを確かめているから」
「ディノ様、お手数をおかけします」
(となると、ディノは今は動けない…………)
ディノがその大事な作業をしていると知り、ネアは、慌てて周囲を見回した。
リーエンベルクの騎士達がいないかと思い視線を巡らせたのだが、今は周辺の整理にあたっているようだ。
そして、そんな中でネアが見付けたのは、とある知人の水色の瞳であった。
びしっと、そんな知人に対し不躾なやり方でとある人物を指差したネアに、たまたま目が合ってしまったベージは目を瞠る。
だが、そこからネアが示した人物を捕縛するまでの行動は、高位の人外者らしい素早さだった。
「何をするんだ?!わ、私は何もしていないぞ!!」
「……………すまないが、話を聞きたい者達がいるようだ。この場から離れないよう捕縛させて貰った」
「私は、儀式の為に呼ばれたのだぞ?!祝祭儀式を執り行う者に、このような乱暴な真似をするなど、不敬にも……………」
ベージに取り押さえられた聖職者は、騒ぎ立ててしまったものの、すぐに自分を取り押さえているのが人間ではないことに気付いたようだ。
ストラの刺繍などを見ているとそれなりの立場の聖職者ではあるようで、一人の人間を捕縛するくらいの自由はあるに違いない、ベージの人外者としての階位の高さにも気付いたのだろう。
すとんと表情を収め、黙り込んでしまった。
領外の人間にとって、高位の人外者はそれだけで畏怖の対象である。
無関係であれば少し可哀想だが、この場から逃す訳にはいかなかった。
「……………ネア様?」
ネアがベージに捕縛を頼んだのを、ヒルドも見ていたようだ。
訝しむように名前を呼ばれ、どう説明するべきかを少し悩む。
ヒルドが血を落としていないかを調べ終えたディノも、不思議そうにこちらを見る。
「あの錫杖のリボンが、とても気になるのです。どうにかして取り上げ、調べて貰った方がいいのかもしれません」
「………そう言えば、君は、先程からあのリボンを気にしていたね。騎士達が傍に居るようだから、ノアベルトに話しておこう」
「はい。宜しくお願いしま……………、む、どなたかがリボンを取り上げましたね」
「……………あの人間は、沢山叩かれてしまうのだね」
「ほわ、錫杖を持っていた方が、領民の皆さんから袋叩きに遭っています……………」
「やれやれ、止めさせないといけませんね。………グラスト!」
ネアは一瞬、自分の捕縛依頼が紛らわしかったかなと、混乱を招いてしまった可能性に戦慄した。
この世界の運命を持たないネアは、予感や予兆の捉え方が他の人達とは違うかもしれないからと、そのような感覚を無視しないよう言われている。
なのでと捕まえて貰ったのだが、もし何でもなかったら、この状況はとてもまずい。
だが、グラスト達がすぐに駆け付けて現場を収めた後、こちらに来てくれたベージが、何が起こったのかを教えてくれた。
「お怪我などはありませんでしたか?」
「ベージさん、先程は、あのような失礼なお願いの仕方になってしまいましたが、協力して下さって有難うございます」
「いえ、祝祭儀式の場ですからね。こうして、氷竜を代表して俺も参加しているくらいです。ウィームにとっての大事な儀式を、不注意とは言え傷付けさせる訳にはいきません」
微笑んだ氷竜の騎士は、祝祭の儀式に参加するに相応しい優美な騎士服姿で、あの聖職者が持っていた錫杖のリボンが、異国の貴婦人の遺品であったことを明かしてくれた。
これは、ネアと同じようにリボンが何だか気になるぞとなった慧眼の領民達が問い詰め、あの聖職者が訳もわからず告白したのだそうだ。
その高貴な女性はウィームへの移住を希望しており、祝祭の儀式に自分の持っていた聖布を是非に使って欲しいと、あの聖職者に頼んでいたのだそうだ。
祝祭への参加は、領民の証でもある。
だからこそその人物は、何某かの対価と引き換えに、聖布の持ち込みを依頼し、いつか自分がこの地で暮らせるようにという願掛けを、魔術の結びとしてかけたのだろうと推察された。
そのような儀式の私物化は防ぎ難く、珍しくはないそうだ。
とは言え今回は、そのリボンを託した女性が既に亡くなっていた事で、鎮魂も常時行う聖域の中では気付き難い障りが生まれていたらしい。
「あの雪嵐を取り逃がしたのは、我々の失態だ」
何とか無事に終えられた朝の儀式の後で、大聖堂に残ったエーダリアにそう頭を下げたのは、雪竜の王のジゼルだった。
白紫色の盛装姿はぞくりとするような人外の美貌を引き立てているが、滅多にない人ならざるものの王からの謝罪に目を瞬き、エーダリアは、きっぱりと首を横に振る。
「いや、その排除があなた方の役目ではないだろう。あくまでも、雪竜の子供達の為に行った狩りであれば、取り逃がしていた個体がいたとしてもそれを責める権利は私達にはない。………今回は、あの聖布が、何らかの魔術の結びとして雪嵐を呼び込む為の標となったと考えられている。雪嵐については、その生態があまり明らかではないからな。あくまでも諸説ある中の一説でしかないが、……………雪嵐は、雪の中で命を落とした者の無念から派生するという説があるので、死者同士の引き合いが生じたのかもしれない」
そう答えたエーダリアに、ネアは、ただの白い雪混じりの風のようだった何かが、人間の心の残滓を持った生き物である可能性もあるのだと知った。
あのような事件があったばかりだからと、儀式を終えた大聖堂は人払いをし、あらためて他の雪嵐などの不確定要因が入り込んでいないのか、建物内を詳しく調べられている。
「だが、我々の狩りで狂乱した可能性も高い。………雪嵐が、特赦を求め聖域を目指す生き物である以上は、信仰の文化圏の知識を持つものなのは間違いないだろう。それが、雪の中で彷徨う者達が解放を求めているのか、それとも、崩壊後に祀り上げられての再派生を求めてのことなのかは、今のところ判明してはいないがな……………」
「今回の一件を受け、教会の側でも、あらためて雪嵐についての調査を行うそうだ。現状では、あのリボンに使われた聖布が魔術的なひび割れとなり、大聖堂前への道を開いたと考えられているが、それでも襲い掛かる瞬間まで誰一人として気配を捉えられなかったのは不自然だろう。特赦を求めて聖域にやって来る事といい、何か、聖域での固有魔術や誰にも知られていない特性などがあるのかもしれない」
「………そうだな。こちらでも、またその姿を見付ければ雪嵐狩りをする。何かあればそちらにも情報を共有しよう」
「ああ。そうしてくれると助かる」
ジゼルが立ち去ると、エーダリアはふうっと大きく息を吐いた。
ネアはそんな家族の隣に立ち、こちらを見た鳶色の瞳に浮かんだ疲弊と安堵に、そっと手を伸ばしてその腕に添える。
幸い、エーダリアは触れた手を振り払いはしなかった。
「……………もう、リーエンベルクに帰れますか?お昼からの儀式には、まだ少し時間があるのでしょう?」
「……ああ。とは言えあまり猶予はないが、……………このような事の後なのだ。皆で食事をしよう」
触れている腕は、決して細いばかりではない。
筋骨隆々とした男性ではないし、魔物や竜、騎士達の中に入ると華奢にも見えるが、エーダリアはこの国の魔術の長である。
その確かな力強さと、けれども家族としての弱さも感じ、ネアは微笑む。
なぜその腕に触れたのかを、エーダリアは理解している筈だし、ネアだけではなく、家族は皆気付いている。
或いは騎士達もそうなのかもしれないし、目敏い領民にも気付いている者達はいるだろう。
客席にいたバンルの憤怒と後悔の眼差しを見れば、その彼が気付いていない筈もなかった。
「うん。一度リーエンベルクに帰ろうか。諸々の調査と裏取りは、ダリル達に任せよう」
「では、………もう少しご辛抱願えますか」
「……………ヒルド、それをお前に言われると、とても複雑なのだが………」
「私は、幸いにも公に出来る立場でしたからね。あなたのように振舞う必要はない」
最後に大聖堂で儀式を執り行う聖職者達に挨拶をし、午後の儀式の開始時刻は少し遅らされる事になったという話をすれば、後はもう、リーエンベルクに帰る為の馬車に乗るばかりだ。
ノアは転移での帰宅を勧めたが、エーダリアは、祝祭日はこの馬車を見る為に街頭に立つ者達もいるからと、頑なに首を振った。
「馬車の中であれば、エーダリア様の手当が出来ますか?」
ネアがそう尋ねたのは、帰りの馬車の中だ。
エーダリアは、ヒルドとノアと一緒に、ネアとディノは別の馬車となる。
「ある程度の手当は、ヒルドの負傷に隠して行っているだろう。魔術洗浄や傷口の確認などは、祝祭儀式の道筋から出た後で、リーエンベルクに戻ってから行った方が良いだろうね。今回の一件は、………恐らく、聖域の固有魔術が絡んでくる。であれば、その道筋から離れてからの方が、良くないものとの魔術の繋ぎをしっかり切れる筈だからね」
「ぐぬぬ……………」
「………ネア、怖かったね。君が気付いたお陰で、エーダリア達が難を逃れたのは事実なのだから、どうか、もう少し体の力を抜いておくれ」
「…………む。むぐ……………体が、すっかりこわこわになっていました」
ディノに指摘されるまで、ネアは、自分がどれだけ気を張っているのかに気付いていなかった。
深く息を吐いて心を緩めると、隣に座った魔物にぴったりと寄り添う。
馴染んだ体温にふにゃりと力を抜けば、こちらを静かに窺う魔物らしい眼差しがあった。
「雪嵐が飛び込んでくる直前に、君の足元に不可思議な魔術の影が落ちた」
「……………ええ。ディノ、あの時何が起きたのか、話を聞いてくれますか?」
「話してくれるかい?でもその前に…………」
「なぬ。なぜ椅子になるのだ。馬車の窓からお外に見えてしまうので、これはちょっと…………」
「君は私の伴侶なのだから、気付いた者達も気にはしないだろう。祝祭というものは、恩寵や恩恵でもあるけれど、同時に普段は触れない古い魔術の境界や祈りに触れる日でもある。ここにはないものの話をするときに、君の足元がまた不安定になっても困るからね」
「……………ふぁい。き、危険は理解しましたが、とてもおちつきません。……………ぎゃ!お外の人達に、凄く見られています!!」
ディノと大事な話をしなければいけない帰り道であったが、仕事中の馬車での過ごし方について領民達からあれこれ言われてしまわないか気になって堪らないネアには、リーエンベルクに到着するまでの道のりはあまりにも長く感じられた。
やっとリーエンベルクに戻った時に心から安堵したのは、こちらの精神的な負担のせいでもあったに違いない。




