191. バベルクレアに収穫します(本編)
イブメリアの祝祭が戻ってきた。
そんな表現が使われる世界に於いて、本日はこの季節の最終夜に続く三祝祭の一つ、バベルクレアである。
ネアは嬉しいのと寂しいのとでそわそわしてしまい、今朝は、まだ夜が明けきらない内から外客棟の一部屋を借りてリーエンベルクの飾り木を見ていた。
青を淡く刷いたような美しい夜明け前の星空の下で、素晴らしい飾り木はちかちかと光る。
ぼうっと街灯の明かりが丸い輪を重ねる夜明け前のウィームには、細やかな雪が降り続けており、リーエンベルク前広場には人影もない。
だが、雪の上に点々と何かの足跡が残っていて、ネアは、その足跡を残したのはどんな生き物なのだろうと考える。
夜渡り鹿かもしれないし、森狼かもしれない。
だが、冬犬のような、まだ見たこともないような生き物もいるのだろう。
そんな光景は、いつまででも見ていられた。
大好きなイブメリアの季節の雪景色に、煌めく飾り木の色が散らばる。
万華鏡のような彩りが、雪の上にステンドグラスのような模様を描く様子がまた美しいのだ。
「………ふぁ」
「気に入ったかい?」
「はい。大好きな景色です。アルテアさんのくれた教会も大好きなのですが、やはりこの景色は、私のお家のイブメリアなのですよ。そして、リノアールの飾り木と大聖堂の飾り木が、私の暮らす街のイブメリアで、私の日常のものなのです。………見て下さい、広場から街に向かう並木道も、オーナメントや星屑、光るお花がかけられてきらきらと光っています。飾り木の並木道があるなんて、物語の中のようではありませんか」
「……うん。可愛い」
膝の上で小さく弾んだネアに、ディノは水紺色の瞳をきらきらさせた。
その姿を見たネアが、こんな伴侶が隣にいるからいっそうに幸せなのだと伝えてしまえば、なぜか片手で顔を覆ってしまうではないか。
「ディノ………?」
「ずるい………」
「まぁ。私がディノを大好きなのは、ディノが私の自慢の伴侶だからなので、どうか慣れて下さいね。………あ、空の端が白んできました!………もうバベルクレアの日なのですね。ローストビーフと花火はとても楽しみなのですが、大好きな季節がゆっくりと通り過ぎてゆこうとしているのが、少しだけ寂しく感じてしまいます」
「もう少し延ばすかい?」
そう尋ねたディノに、ネアは微笑んだ。
優しい魔物は、心配そうにこちらを見ている。
「ふふ。ちょっとだけ、そんな悪い事も考えてしまいますよね。ですが、市場のご贔屓のソーセージ屋のご主人は、イブメリアに求婚する予定らしくそわそわしているので、今年は勘弁して差し上げましょう。来年は延ばしてしまうかもしれませんよ!」
「うん。では、今年はこのままにしておこう」
「………少し青白く明るくなった夜明けの景色も、こんなに素敵なのですね。………ディノ、私の我儘に付き合ってこの部屋に泊まってくれて、有難うございます」
「うん。………君の好きなものを、……沢山見られるからね」
そんな事を言ってくれた魔物に、ネアは、ぱっと笑顔になった。
すぐに手を取ろうとすると、きゃっとなった魔物は慌てて三つ編みを押し付けてくる。
「ディノの好きなものも、沢山見せてくれますか?」
「………ネアかな」
「なぬ……………」
「沢山動いていると、凄く可愛い………」
「な、なぬ………。み、見て下さい!空が金色になってきましたよ」
話の方向がおかしくなってきたので、ネアは慌てて話題を変える事にした。
だが、窓からの景色は刻々と色を変えてゆき、その美しさにまた目を奪われ、ふにゅりと笑顔になる。
「バルコニーに出てみるかい?君は、手摺の石材の表面が白く凍るのを見るのが好きなのだろう?」
「むむ、それは見に行かねばなりません!ディノ、お外に出るので暖かくして下さいね」
「君に貰ったガウンがあるから、大丈夫だよ」
「あら、もう着ているのです?」
「うん。君は、これを羽織るかな」
「…………ま、まさか、新しいコートでは………」
「君が好きな、雪の日の空の色だよ。イブメリアの朝が一番好きなのだろう?………その、………何でもない日の贈り物だからね」
「まぁ!………こんなに素敵な物なのに、いいのですか?」
「………うん」
一瞬、断りかけてしまったネアは、何でもない日の贈り物をしたかった魔物がおずおずとこちらを見た様子に、微笑んでこの贈り物を受け取る事にした。
勿論それは、手渡された贈り物がとろけるような手触りの毛皮のコートで、短めの毛足が白と水色がかった灰色や灰紫色の様々な色合いが混ざり合い、最高の雪空の色となっていたから物欲に負けた訳ではない。
ふと、ずっと昔に欲しかった複雑な色合いのセーターを思い出し、ネアは贈り物のコートをぎゅっと抱き締めた。
一つずつ、一つずつ。
あの時は指の間からこぼれて失ってきたものばかりだったのに、今度は、欲しかった物を一つずつ手に入れてゆくよう。
「…………何でもない日の、けれども特別な贈り物ですね。とても嬉しくて心がぎゅわっとなったので、このコートはずっと大事にします。飾り木の煌めきが映る窓辺で私の大事なディノが渡してくれたことで、いっそうに嬉しくなってしまうのでしょう」
「うん………」
ネアが飛び跳ねたからか、ディノは嬉しそうに目元を染めた。
(ああ、どうか…………)
どうかこの優しい魔物も、欲しかったものを一つずつにでも沢山手にしていますように。
そう願い、ネアは、いそいそとコートを羽織る。
かちゃりと窓を開けると肌に触れる空気は身を切る程に冷たかったが、雪と飾り木と夜明けの香りを胸いっぱいに吸い込める贅沢さには敵わなかった。
砕いたダイヤモンドのようなものがきらきらと舞っていて、その美しさに、胸の中の柔らかな部分がかたかたと震える。
「おや、ダイヤモンドダストだね。妖精達が森の向こうにいるようだ」
「ハザーナさんも、いるかもしれません!淡い雪曇りの朝日が当たって、虹色にも見えるのですね」
「こうして虹色に見えるものは、様々な色と系譜の欠片が混ざっているんだよ。魔術の祝福の煌めきでもあるからね」
「それで、こんなに素敵な色なのですね。灰色の雲の空と雪景色のウィームと重ねると、真珠のようです。ディノの髪色にも似ていて、このコートを貰えた日だからなのか、特別な夜明けになりました」
「………ネア、…………その、」
「まぁ、手を繋いでくれるのですか?」
「うん………」
ディノから手を差し出してくれる事は珍しいので、ネアはまた嬉しくなって、その手をぎゅっと握った。
ディノは少しだけくしゃりとなったが、それでも嬉しそうに微笑み、そっと口付けを落としてくれる。
唇に触れた温度に胸の中がくしゃくしゃになったが、ネアも微笑み、こちらを見たディノに口付けを返す。
お目当ての手摺りの表面には、ざらりとした氷か霜が結ばれていて、夜明けの光にきらきらと光っていた。
繊細な美しさに胸を暖め、これを喜ぶだろうと思ってくれた伴侶がいる贅沢さにむふんと頬を緩める。
「……………ディノ。これから、怖いことや悪いものに出会ったら、私にも話して下さいね。良くない事が起きていたり、厄介な事に巻き込まれていてもです。ディノは私のたった一つの替えの効かない宝物なので、その報告は絶対なのですよ?」
「…………ネア」
「今はもう沢山の方が周りにいますから、私ではどうにもならないものは、リーエンベルクの家族や、皆さんに助けて貰います。………いいですか!困った事を隠して、問題を育ててしまう事だけはいけません。そんな事をすると、私も心がくしゃくしゃになって破滅するので、私を滅ぼさないようにする為にも徹底して下さい」
突然そんな事を言い出した伴侶に、ディノは、どきりとするような優しい微笑みを浮かべた。
この伴侶の美貌に慣れた筈のネアですら、くしゃんと倒れてしまいそうな美しさに、がさがさっと音を立てて近くの木の枝にいた生き物が落ちる音がする。
「……………君は、………君がそう言うのなら、そうするよ。その方が怖くないのだよね」
「はい。そして、何か言いかけましたね?」
「ご主人様………」
「隠し事はなりません。擦れ違いがあって自滅する伴侶は、物語の中だけで充分なのです!」
「……………君は、………私の事がとても好きなのかなと………思ったんだ」
盛大にもじもじした後、ディノは、そんな事を言うではないか。
ネアは目を瞬き、そんな伴侶をじっと見つめてしまう。
「…………まぁ。とても好きだから、こうして伴侶になったのですよ?とても好きですし、一番大好きです」
「……………うん。その、………大好きだよ、ネア」
「はい!では、両想いですね。…………なぬ。滅びました…………」
だがしかし、ディノの限界値はここ迄だったらしい。
部屋の中に戻す為にと、何とか引っ張って立ち上がらせようとしたのだが、やや本格的に死んでいるようなので、か弱い乙女の力では移動は難しい。
なので、伴侶の回収問題が発生してしまったネアは、助けを呼んで来ますねと言い残して隣の部屋に突撃する事にした。
「むぅ。…………そう言えば、就寝時は装備なしなのでしょうか」
だが、最も近くの援軍をと、お隣の部屋に入ってしまったものの、まだ薄暗い部屋の中でネアは一つの懸案事項を思い出していた。
とは言え、ここでまぁいいやと思ってしまうのが、人間の適応能力の高さである。
こちらに関しては事なかれ主義ではなく、様々な状況に対応できる人間の偉大さと言えよう。
のしのしと寝室まで歩いてゆき、毛布の膨らみを発見して、しめしめと歩み寄る。
この部屋は、今後、終焉の魔物の私室になる予定なのだが、ウィリアムは、魔術施錠の条件付けをネアについては出入り自由にしてくれているので、簡単に侵入出来るのであった。
「…………ん?…………ネア?」
「む、…………人の気配にはっとして起きるという、不審者対応の目覚めにしてしまいましたが、助けて貰いたくてお部屋を訪ねたのであって、侵入者ではありません………」
「…………そうなんだな。…………もう朝か」
「まだ早い時間なので、是非に二度寝して下さいね。…………むぐ」
どこか眠そうな目をして体を起こしたウィリアムに、かけていた毛布がぱさりと落ちる。
現在見えているのは腰くらい迄だが、恐らく就寝時は裸である事が多いこの魔物は、今日もその仕様なのだろう。
寛いで過ごして欲しいので指摘はせずにおき、ネアはすすっと目を逸らした。
「……………おっと、何か羽織らないとだな。すぐに動けるが、どうした?」
「こんな時間に御免なさい。実は、ディノがバルコニーでくしゃくしゃになってしまったのです。私では引っ張っても動かなかったので、どなたか、持ち運びをしていただけるような援軍を探していました」
「おっと、それなら急ごう」
微笑んですぐに立ち上がってくれるウィリアムは、近くの椅子の上にあったガウンのようなものを取り上げ、さっと羽織ったようだ。
バルコニーに出るので寒くないか心配だったが、くすりと笑って魔術遮蔽するからなと悪戯っぽく教えてくれる。
「…………せっかく、今夜はローストビーフと花火なので、凍えてしまわないようにして下さいね」
「ああ。これでも、寒さには強い方なんだ。………ほら、冷えていないだろう?」
手を取り、胸元に押し当ててくれたウィリアムに、ネアは、成る程ほかほかであると肌の温度チェックを終える。
とは言えまだ外に出た訳ではないので、体温チェックはその後にするべきなのかもしれない。
だが、臨時飾り木鑑賞宿として借りていた隣の部屋に戻り、バルコニーで儚くなっていた伴侶を部屋の中に運び込んで貰った後にもウィリアムの肌温度チェックをしたが、幸いにも冷え切ってしまっていることはなかった。
「え、………魔術で服も着れるよね?何でその間、ウィリアムはそんな格好なのさ」
「もう一度、寝るつもりだったから、しっかりと着込む必要はないと思ったんだ」
「うむ。うっかり着替えを終えてしまうと、二度寝が出来なくなったりしますものね」
「ありゃ………。ネア、ウィリアムは本当に腹黒いからね?」
「はは、心外だな」
そう笑ったウィリアムが、ふっと瞳を揺らした。
その表情を見たネアは、ゼノーシュと顔を見合わせてにんまりする。
終焉の魔物がお口に入れたのは、リーエンベルク特製のローストビーフだ。
アルテアの誕生日でも振る舞われたが、本日は晩餐の要なので分厚く切られており、しっかり食べる事であらためてその美味しさに気付いてくれたのだろう。
「………これは、美味しいな。しっかり食べると、香草の香りがいい」
「ふふ、これでウィリアムさんも、バベルクレアのローストビーフの虜ですね」
「うん。リーエンベルクのローストビーフは、凄く美味しいんだよ。バベルクレアに食べられるのは、しっかり食べられる厚さだから僕も大好き!」
「まぁ。ゼノには負けませんよ!私も大好きです」
「可愛い………。弾んでる………」
「今夜の付け添えは、マッシュポテトではなく、薄く切ったジャガイモと、ホワイトソースとチーズのミルフィーユ仕立てなのですよ。ちょっぴり贅沢な気持ちでいただけますし、とても美味しいのです」
他にも、細かく挽いたパン粉を付けて揚げた野菜に、葡萄酢のソースをかけたものも添えられていて、さくさくと美味しくいただける。
細切りにした冬野菜がたっぷり入った牛コンソメのスープに、前菜は蟹のムースのブリュレ仕立てのような美味しい何やつかであった。
「今日はね、リースを盗んだ妖精がいたんだよ」
「まぁ、街の見回りの時ですか?」
「ううん、ここでなの」
「…………おのれ………」
「でも、ヒルドが見付けて羽を毟ってくれたし、リースはグラストがすぐに戻したんだ」
「それを聞いてほっとしました!リースを外されている間に、祝祭の系譜の方に悪さをされたら大変ですものね………」
「うん!ローストビーフを食べる日だから、僕も怒るよ」
可愛らしく頷いたゼノーシュにグラストは微笑んでいるが、ヒルドが盗人の羽を毟ったと聞いてしまったエーダリアは、隣の妖精をまじまじと見ている。
「ですが、リーエンベルクでの盗みとなると、お外から忍び込んだ悪者なのです?」
「いえ、何年か挑戦し続けたものの、結局インスの実が食べられないと理解して憤りを溜め込んだ妖精がいまして、その腹いせだったようですよ」
「………数年がかりでむしゃくしゃを育てた上での、衝動的な窃盗でした」
そんな事もあるのだなと目を丸くしたネアに、エーダリアが、植物の系譜だと珍しくはないのだと教えてくれる。
「………植物の系譜の妖精さんだったのに、インスの実が食べられないことは、なかなか納得出来なかったのですね………」
「どうして、インスの実を食べたがるのかな………」
「冬場だと他に食べ物がないのかなとも思いましたが、この辺りの森であれば、この季節でも実る果実が幾つかある筈です。困った妖精さんですねぇ」
ぱくりとローストビーフを頬張り、ネアは美味しい伝統を噛み締めた。
表面のしっかりとした味わいは香草と薔薇塩で、内側の柔らかなお肉のジューシーさを引き立ててくれる。
かけられたソースは二種類だ。
月のない冬夜の蒸留酒を使った濃厚なソースは、ローストビーフ新世代の先の革命期をネアに齎した。
いつもの果実のソースとの組み合わせも素晴らしく、そこに、今夜はいつもより華やかな装いのエーダリアやヒルドという、視覚的な贅沢さまでが楽しめてしまう。
「ジゼル達は、挨拶だけだったのか?」
その盛装姿の理由を尋ねたウィリアムに、ノアがひらりと片手を振る。
夕刻までに祝祭の儀式を終えたエーダリア達がまだ盛装姿なのは、先程までリーエンベルクを訪れていたジゼルと会っていた為だ。
「挨拶は挨拶だったけれど、祝祭のものじゃなくて、許可取りだね。今夜遅くから明日の朝にかけて、禁足地の森の奥で雪嵐の顕現の予兆が出ているみたいなんだ。つまりのところ、狩りの始まりって訳だ」
「ああ。雪嵐は雪竜達の仇敵だからな。久し振りの顕現だが、こちらとしては、雪竜と間違えて近付いた領民が被害に遭う前に彼等が狩りを決めてくれて良かった」
エーダリアが安堵の眼差しになるくらい、雪嵐は厄介なものなのだそうだ。
この世界の雪嵐は一つの種ばかりではないが、今回の雪嵐については、吹雪などでホワイトアウトした際に見られる雪魔術の障りの蜃気楼への畏れから生まれた生き物で、雪竜の影を模したような擬態型の生き物なのだという。
妖精種に分類はされているがそうではないかもしれないなど、まだ未知の部分も多く残っている。
そして雪嵐は、雪竜の子供と人間を好んで襲う。
だからこそ雪竜達は、見付け次第狩ってしまうのだとか。
今回もそうするようだが、戦って地面に叩き落としてから駆除するので、いささか騒がしくなるらしい。
エーダリア達は、禁足地の森の奥なので然程街には影響が出ないからと狩りが始まる事は快諾したものの、リーエンベルクの敷地内での狩りは厳禁とした。
美しい祝祭の花火を打ち上げ終えたばかりの日に、空から叩き落とされた雪嵐のせいで建物をぺしゃんこにされる訳にはいかない。
竜の狩りは、荒々しいのだ。
林檎のムースを使った可愛らしい赤いケーキをいただいた後は、いよいよ花火の時間である。
わくわくと胸を弾ませたネアに対し、エーダリアの顔色はあまり優れない。
深く息を呑みふうっと吐く仕草は、どの世界でも共通する緊張している人の行動だ。
今年の花火はどのようなものなのかの情報はネアにも齎されていなかったが、きっと素敵な花火なのは間違い無いだろう。
そんな思いで見つめている視線に気付いてしまったらしく、エーダリアは、よろりと体を傾けている。
「………もしや、まだ花火が完成していないのですか?」
「い、いや、花火そのものは完成しているのだがな。今回の花火は…………あまり、目立った特徴がないのだ」
「まぁ。それでも、エーダリア様が作られた物なのですから、きっと私は気に入ってしまうと思いますよ。綺麗な色の花火を見るだけでも、素敵な祝祭の夜だと嬉しくなってしまうのです」
「………ああ」
「わーお。顔色が酷いけど、大丈夫かい?ええと、………もう少しシュプリを飲んでおく?」
「………ネイ?」
「ごめんなさい………」
では準備に入ると会食堂を出て行ったエーダリア達を見送り、ネアは、こてんと首を傾げた。
毎年あれだけ素晴らしい花火が打ち上げられているのだから、特徴のない花火とは言えきっと素晴らしいものに違いないのだが、満足のいく出来ではなかったのかもしれない。
「きっと、領民の皆さんも気に入る筈なので、花火を打ち上げた後で、どうかエーダリア様の心が落ち着くと良いのですが………」
「祝福魔術の調整を随分と行なっていたようだから、普通の花火という訳ではないと思うけれどね………」
「年に一度か二度の舞台だろう。緊張するのは分かるが、俺も、特徴がないという程じゃないと思うぞ。…………シルハーンの言うように、構築されている魔術の気配からすると、祝福魔術を使っているようだしな」
「むぅ。絶対に素敵な花火の予感ではないですか………」
やがて、定刻の少し前に、ネア達は屋根に上がった。
雪の積もった屋根の上のいつもの場所に、魔術で足場を調えてから長椅子を設置する。
温かな膝掛けをかけ、保温の魔術をかけた水筒に入っているのはホットワインで、花火が始まるまで待てなかった人間がかぽりと蓋を開けると、ほかほかと湯気が立った。
いい匂いをくんくんして既に祝祭の楽しみに溺れている人間が空を見上げていると、ふわりと近くの夜闇が揺れる。
そこに立ったのは、漆黒の装いの一人の魔物だ。
「…………む!アルテアさんです」
「あれ、間に合ったんですね」
「おや、間に合ったのだね」
「………何か、大切な用事があったのですか?」
ネアは、必ず今夜も来るのだろうと、もしかしたら花火が大好きなのかもしれない使い魔の訪問を疑ってもいなかったのだが、ディノとウィリアムが驚いていたので、もしかしたら来られない筈だったのかもしれない。
「…………片は付けてある。後始末は帰ってからだな」
「災厄の気配は払ってあるようだけれど、困っていたりはしないかい?」
「土地の洗浄と、こちらの摩耗の補填くらいのものだ。…………おい、妙な触り方をするな」
何やら込み入った様子の会話をしていたアルテアは、ご主人様にコートの上から腰回りを撫でられてしまい、顔を顰めた。
とても呆れた顔をしているのは、艶々とした黒い毛皮のコートを羽織っているからだろう。
もふもふにとても貪欲な人間がコートとはいえ撫でずにはいられなかったと考えているに違いなく、ネアは、困った魔物だなと苦笑する。
(でも、こうして花火を見に来れているのだから、動けない程の損傷ではないのだろう………)
だがネアは、前髪を半分掻き上げたような髪型や夜会に出ていたのかなという盛装姿には騙されなかった。
ディノ達との会話も不穏であるが、それ以前に、何となく腰回りの力強さというべきか、しなやかで強靭な魔物の熱や存在感が欠けているような気がしたのだ。
ウィリアムがさり気なく席を移り、アルテアはネアの隣に座る。
アルテアが現れた位置から最も遠いディノの隣の席に移動したウィリアムの様子もまた、ネアの感じる微かな異変が間違いではない事を示している。
時々どたばたとしているものの、基本的にこちらの魔物達は仲良しなのだ。
「アルテアさん、お口を開けて下さいね」
「………は?…………なにを………っ?!」
がしゅっと音がして、ちょっぴり襟元に溢れたかもしれないものの、ネアは、無防備な魔物のお口に加算の銀器で一万倍にした傷薬を突っ込んでおいた。
むがっとなったアルテアが、口元を押さえて体を屈めてしまったが、この薬がとてもよく効くのは間違いないのでひとまず安堵に胸を撫で下ろしておこう。
「傷薬を、飲ませてしまったのだね………」
「この感じは、まず間違いなく怪我だと思うのです。使い魔さんは分かりやすいですからね」
「うーん、さすがだなと言うべきか、アルテアが迂闊なのかどちらかだな………」
「……………おい、………それは、塗布薬だと何度も言わなかったか?」
「飲用でも効いてきましたし、この寒空の下で服を脱がせるよりは効率的でしょう。うむ、お腹周りの変な感じはなくなりましたね!」
「まさかとは思うが、アルテアの損傷箇所が感じられたのか?」
「ええ、何となくですが。こう、……とてもか弱い感じに思えたと言うか、体が緩んでいるように感じられたというか………、そのような感じなのです!」
「……………その表現をやめろ」
その時だった。
どぉんと音が響き、花火の打ち上げの合図となる、音だけの花火が上がった。
続いて打ち上げられたのは、気分の高揚などを高める妖精の花火で、きらきらしゅわしゅわと淡い金色の雨のような花火を空にかける。
「ふぁ!」
使い魔の怪我も治ったようなのでと、ネアは早々に意識を花火に切り替えてしまった。
ここから先は、美しいバベルクレアの祝祭の花火をただ見上げて過ごす、一年の中でも贅沢な時間である。
どぉんとまた音が響いたのは、魔術で打ち上げられる花火が、序章となる妖精の花火から、今年の祝祭の為に作られた物へ変化する合図だ。
そうして、次に打ち上がったのは美しい薔薇色の花火であった。
真円に広がるのではなく、縁の形が不規則になっているので、夜空に薔薇の花が咲いたようだ。
薔薇色の花びらを広げてから、淡いシャンパン色に煌めきを変え、花びらのように光をはらはらと落としてゆく。
(ああ、なんて美しいのだろう………)
美しくてどこか怖くもあるのは、今のネアの手のひらにあるものが、大切なものばかりだからなのだろう。
随分と増えた宝物だが、失えないと思える程のものは、やはり他の人間よりは少ない気がする。
(私はとても心が狭い人間で、他の多くの人達のようには他者を愛せない。だからこそ、その人の手を離して他の誰かをというやり直しは、効かないのだから………)
「後で、アルテアが負傷した理由は説明してあげるよ。問題が残るようであれば、私も対処するから、怖がらなくていい」
その次にも同じような花を模した花火が打ち上がり、そっと耳元に唇を寄せたディノが、そう言って安心させてくれる。
今朝の会話があった直後なので、ネアの抱えた不安や懸念を察してくれたのだろう。
「…………ええ。ディノ、有難うございます」
「うん。君が怖くないのが一番だからね」
「………ったく。飲ませるのはやめろ。いいな?」
「ぷいです!怪我をしたら治療するのは、当たり前なのですよ」
「おい………」
「ふぁ!!次は、狐さん花火ですよ!」
「………その次の物は、ボールかな………」
「ふふ、すっかりウィームらしい花火になりましたねぇ」
「うーん、色々と複雑な花火だな………」
その後も、様々な花火が打ち上がった。
ウィームの冬の夜空を彩る美しい花々は、星屑の煌めきを宿していたり、かつてのバベルクレアでネアが見た、リーエンベルクからの祝祭花火のように、花を降らせたりもする。
これはまさか、新しい技術を他の花火師達が取り込む事で、エーダリアに課せられるハードルは年々上がるのではとネアが密かに慄いていると、いよいよリーエンベルクからの花火となった。
「い、いよいよです!」
「ああ、祝福魔術の展開が始まったね。いい詠唱だ」「む!微かにエーダリア様の詠唱が聞こえてきました………」
「ほお、結実と成果の祝福を定着させたのか」
「不特定多数の者達に付与しても問題のないくらいの濃度だけれど、このような魔術を扱える人間は決して多くはないよ。けれども、彼一人が魔術付与を行なっていると確信を持てるのは、我々と彼を知る領民達くらいだろう」
「外部の方達には、エーダリア様がとても凄いという事が公になり過ぎないのですね?」
「うん。領内には可能な事を示しておき、領外には不要な懸念を与えない手段を選ぶ。領主としては、とても良いやり方だ。…………上がるよ」
「ほわ…………」
ひゅおるると、光の細い細い筋を残し、花火が打ち上げられた。
次の瞬間、夜空には、細やかで繊細な色とりどりの花びらのような大輪の花火が開く。
淡い色合いを幾つも重ねた美しさは、虹色というよりは、お祝いの紙吹雪やフラワーシャワーのよう。
そして、そんな色とりどりの花びらがじゅわっと細やかな光の粒子になって解け、きらきらとダイヤモンドダストのように降り注ぐ。
宝石の欠片が降ってきたり、糸巻きを持ち上げることはない、それだけの花火だ。
胸がいっぱいになる美しさだが、確かに特別な効果が目に見える訳ではない。
「…………それでも、充分に美しいですね。胸がいっぱいになってしまいました」
「………だが、どうやら思わぬ付与効果が出たようだがな」
「なぬ………」
「おや、土地の魔術基盤が、今の花火を気に入ってしまったようだね。降り注いだ祝福を育ててしまったらしい」
「な、なぬ?」
「ああ。これはいいな。荒廃した戦場に打ち上げられたら、麦や果実の木が育つかもしれないのか………」
魔物達の呟きに呆然とした後、ネアは、家族の責務を思い出し慌ててエーダリア達がいる塔の方に手を振った。
エーダリアとノアからの反応はなかったが、ヒルドが手を振り返して応えてくれる。
後に確認された情報によると、その日にリーエンベルクから打ち上げられた花火の降らせた祝福は、ウィーム中央のあちこちで、土地の祝福を育てたそうだ。
果実を実らせる木には季節外れの実が実り、花々は満開となったらしい。
祝福を受けて結ばれた物が多いので、それに気付いた途端に、領民達はわあっと大騒ぎになった。
祝福を受けて育った果実は祝福を授けてくれるし、花蜜からも同じような効果を得られる。
結晶化した枝先や、内側の炎や光が階位を上げたオーナメントまで、花火の影響は様々なところに現れた。
流石にオーナメントはいけないが、木の実や花蜜は、誰もが自由に採取出来る贈り物なので、ここから領民達と人ならざる者達との苛烈な争奪戦が始まったのだ。
「…………街の方から聞こえて来るのは、鬨の声でしょうか。しかし、私とて負けていられません!ディノ、お庭に行きましょう!!」
「ご主人様!」
「おい、落ち着け………」
「ぎゃ!妖精さん達が既に収穫を始めています。ま、負けるものですか!」
ネアは、慌ててリーエンベルクの庭と禁足地の森の入り口付近で収穫を始め、後にその成果は、エーダリアにとっても大切な研究資料になった。
その時、ただでさえ忙しい祝祭の季節に、観測と調査が必要となる騒ぎを起こしたウィーム領主は、ダリルからこってり叱られており、最後まで採取には参加出来なかったのである。
ネアはとても楽しかったのでまたやって欲しかったが、この花火は流石に、暫くの間再現が許されなさそうだ。




