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30. 侵食されていたようです(本編)




アンセルムの工房の入り口に立つレイノ達の状況は、現在とても緊迫していた。


何よりもまず、レイノが契約したばかりの魔物が、レイノの教官でもあるアンセルムを踏みつけて微笑んでいるのだと言えば、この状況の異様さが伝わるだろうか。


その上、レイノは驚きの精霊のお作法を聞かされ、とてもわなわなしている。




「…………死の精霊」

「ああ。アンセルムは死の精霊の王族の一人だ。まさか、名前も変えずに人間に混ざって暮らしているとは思わなかったけどな…………」

「…………ウィルは、アンセルム神父とお知り合いなのですか?」

「同じ系譜だから、かなり昔からよく知っている。同じ戦場で仕事をする事が多かったからな」

「そして、死の精霊さんは、…………求婚した相手を殺してしまうのですか…………」



レイノの声がとても平坦なので、不憫になったのだろう。

ウィルは、僅かに困ったような優しい微笑みを浮かべた。



「結果的にはな。とは言え、伴侶にする為に必要な事だから、お互いに同意であれば構わないとは思う」

「……………同意は、………ありません。この工房にお部屋があるのは、アンセルム神父は私の教官だからです。そもそも、私はここで保護されたばかりで、出会ってまだ三日目ではないですか………」

「だろうな。だから、こうしたんだ」

「……………ぎゅ」



レイノは、契約の魔物の靴の下で力なく蠢いている後見人の一人を冷ややかに見下ろし、とは言えとても良くしていただいたので、真意は問おうと考えた。



「…………しかし、教官として任されただけで、組織の中でその役目を強要されてしまい、不本意ながら致し方なくご飯を作るしかなかったという可能性も………」

「それはないな。であれば、食事を与える事で繋ぐ求愛の魔術の繋ぎを切ればいい」

「…………それは、勿論ばっさりですよね?」

「残念ながら、しっかり付与されているが、これから切るから安心していい」



ウィルにそう説明され、レイノは先程よりも激しくわなわなした。



「…………わ、私の純粋な感謝と信頼を、う、裏切ったのですね…………!」



対話の場を設定してくれようとしたのか、ウィルが片足で器用にアンセルムをひっくり返してくれたので、苦しげに呻いて目を開いたアンセルムは、この修羅場に巻き込まれたままなデュノル司教に抱き上げられたレイノに見下ろされる形になる。


かなり激しくがつんとやられていたが、こうして仰向けになると、アンセルムは怪我などをしている様子もなく、表情以外には特に問題なさそうに見える。



「…………やれやれ、僕は君に何度か示唆しましたよ。……………それに、人ならざるものの好意を、対価無くして受け取れると思ったら大間違いです」

「…………………犯罪者が、開き直りました」

「言っておきますが、僕が君を庇護する役目を得たことで、君は、魔術的に僕の管理下に置かれるんですよ。人間の物差しで測れば問題のない契約でも、相手が同じ種族でなければそうはいきません」



レイノは、煩わしげにふうっと息を吐いてこちらを見たアンセルムに、信じられないものを見る思いで眉を寄せた。



「なぜ、私の方が呆れられているのでしょう…………」

「それは、君と僕の階位の差です。君が竜を狩って庭で飼おうとするように、死の精霊は、気に入った相手が他の種族であればその命を刈り取って持ち帰る。本来なら拒絶する権利のない階位の君には、知らなかったからと僕を糾弾する権限はありません。ただ、それだけの事ですから」



レイノの教官としてなされた時の会話よりも、アンセルムの声音は冷淡かもしれない。


眼鏡を外した面立ちは、ただの眼鏡程度でこれ程までに印象が変わるだろうかと言うくらいに凄艶な美貌で、最初からこのアンセルムに出会っていたらまず人間だとは思わないだろう。


でも、レイノにそう教えてくれたアンセルムの態度は、精霊であることが明かされてからもそう大きく変化することはなく、そんな言葉の温度を知れば、例えレイノを殺すつもりだったのだとしても、それが彼にとっては自然な事なのだと否が応でも理解させてくれた。



(アンセルム神父は、…………死の精霊だった………………)



その言葉を受け、レイノはあらためて教えられた事実を噛み締める。


リシャード枢機卿との会話で一度は精霊かもしれないと理解しかけていたが、そこに思わぬ精霊の生態をぶつけられると、同じ人間として育んだ短い時間が思いがけず障害になっていたようだ。



(でも、…………確かに違う生き物なのであれば、こんな風に思いもよらない行動を取られる事もあるのかもしれない……………)



「ふむ。…………精霊めのやり口は学びました。ですが、アンセルム神父は教官としてはとても頼りになる方でしたが、異性として見る事は出来ませんので、お断りさせて下さい。ウィルにもう一度くしゃりとやって貰えば、納得してくれますか?」

「……………まったく、そういうところですよ。君は終焉の子供で、僕の理想にぴたりとはまる。…………ウィリアム、召喚儀式は教会側の都合によるもので、彼女を先に見付けたのは僕なので引いてくれませんか?」

「うーん、どうしてこの状況でそれを言おうと思ったんだろうな」

「…………はは。それは、あなたが擬態していて、」



ここで、アンセルムはざあっと霧のように姿を崩してウィルの足の下から姿を消すと、また凝り工房の戸口にすらりと立った。



「…………こうして、今は僕の方が大きな力を振るえるからです。これでも一応、この教区は僕の管理下にあり、この工房はより深い僕の領域なんですよ?」


いっそ優雅な程の仕草でわざとらしく神父服の裾を手で払ってみせ、アンセルムはネアに微笑みかける。



「レイノ、君の魔物は名前と姿を変えた状態で、契約を交わしています。本来であれば、彼は系譜の王にあたり、僕よりも階位が上になりますが、君が彼をウィルとして認識し、交わされた約定がこの教区内では彼を縛る。…………さて、提案ですが、彼との契約を破棄して僕と契約しませんか?」

「まぁ、なぜでしょう?」

「終焉の魔物は、気に入った人間に優しくすることもありますが、その役目を放棄してまで誰かを愛することはありませんよ。優しいからこそ、とても残酷な魔物です」



(…………終焉の、魔物…………?)




確かそれは、魔物の王族の一人ではなかっただろうか。

そう考えてまた愕然としていたレイノに、ふうっと、誰かの溜め息が聞こえた。



レイノは、自分を抱き上げたままでいるデュノル司教がその溜め息の主だと知り、うっかり失念しかけていた変化にどきりとした。


あの儀式の後から、いや、儀式の前から、デュノル司教は初めて一緒に朝食を食べた時のようには微笑んでくれなくなっていた。

こちらを見る眼差しは、微笑んではいても酷薄に滑らかで、美しい水紺色の瞳がたとえようもなく美しく揺らぐ事はない。


先程、疲れているのなら一緒にと提案してしまった時だけまたあの色の影が見えたような気がしたのに、今のデュノル司教の気配はどこまでも怜悧に鋭く磨かれている。



「君が思う程、彼は心を動かさない訳ではないよ。…………それに、この子のことをとても大切にしてくれている」



そんなデュノル司教の言葉に、ウィルが小さく息を飲むのが見えた。

途方に暮れたように、けれども嬉しそうに瞳を揺らし、見ているレイノが気恥ずかしくなる程に安堵に満ちた柔らかな微笑みを浮かべる。


そのやり取りに不安になったものか、アンセルムは、怪訝そうにウィルを見た。



「……………もしかして、あなたは、元々彼女の事を知っているんですか?」

「そうだな。元々守護を与えるくらいには。それを知らずに手を出したとしても、俺の方が階位は上だからな。報復を受けずに済む術はない。それと、残念ながら事前に手は打ってある。予めこれが本当の名前ではないと伝えてあるので、俺は契約した名前には縛られないんだ。…………この通り」



ざんっと、麦藁の束を切るような音が響き、レイノは、今度は鞘のない抜き身の剣が、アンセルムに突き立てられている光景に両手で口元を覆った。



「…………っ?!」



悲鳴にもならない声を上げ、心臓が止まりそうになったが、なぜか、腹部を貫かれて壁に縫い止められてしまっているアンセルムは、顔を顰めて肩を落としているものの、然程痛がるような様子がない。


レイノの動揺が伝わったものか、こちらを見たウィルが、散歩中に近所の公園ですれ違ったくらいの朗らかさで微笑んでくれる。



「レイノ、気体化出来るこの階位の精霊は丈夫だからな。多少細かく両断しても死にはしない」

「きたい?……………りょうだんしても…………?」

「アンセルムの階位だと、俺でも完全に殺すまでには最低でも一日はかかる」

「…………ちょっと頭が追いつきません。そして、目の前の光景が刺激的過ぎます…………」

「すまない。こうして縫い止めているのは事情があるんだ。この特等の精霊の領域で、彼が本来の精霊としての力を振るう状態で固定しておけば、ここはいい遮蔽地になるからな」



説明されたことは難しかったが、この場所をある状態で固定する為に必要なのは分かった。



「……………これで防壁になりますが、どうしますか?」



こちらを見てそう尋ねたウィルが見たのは、デュノル司教ではないだろうか。

以前のレイノを知っていたようであることからも、やはり知り合いなのだろうかと考え、レイノは微かな違和感を覚えて額に指で触れる。



そうしてまた、先程気付いた恐ろしさの内側を覗き込んだ。




「やれやれ。僕の役割は、君達の為の聖域代わりですか…………。これでも、終焉の剣にこうして串刺しにされている訳ですから、なかなかに不快なのですが…………」

「アンセルム、黙っていてくれないか?」

「…………そうだね。少しだけ緩めようか。それから、君が契約の上で繋がってくれている部分でだけはせめて、この子に本当のことを少しでも多く教えてあげてくれるかい?」

「ではそうしましょう。……………レイノ?」



またレイノには不可解な言葉を交わし、デュノル司教は抱き上げていたレイノをそっと下ろしてくれた。

けれど、立たせようとして手を離したレイノが頭を抱えるようにして蹲ったので、ウィルだけではなくデュノル司教も驚いたようだ。



「レイノ?!」



決して声を荒げはしないが、デュノル司教の切迫したその響きを少しぼんやりと聞きながら、レイノが感じていたのは、頭の中で思考を司る部分を覆っていた、透明なシートのようなものがずるりと引き抜かれるのにも似た、何とも悍ましい感覚だった。



「……………私は、本当のレイノではありませんでした」



綺麗な瞳を不安そうに揺らしてもう一度抱き上げようとしてくれているデュノル司教に、思わずそう言えば、はっとしたように目を瞠る。


ウィルもこちらに来てくれたが、片手ではアンセルムを剣で工房の壁に縫い止めているので、デュノル司教のようにレイノを抱き起すことは出来ない。



「………レイノは偽名です。ここに保護されて、この世界には魔法があるようだと考えた私は、物語でよくありがちな名前の拘束を避ける為に咄嗟に偽名を名乗った筈でした。…………この姿が見覚えのないものになってしまっていても、こちらでは容姿が変換されてしまうのかなだとか、誰かの体の中に魂が入れ替わるようにして入り込んでしまったのかなと、そう考えていた筈なのです………」



本当のことを吐露するのには、まだ危ういのかもしれない。


けれども、その時のレイノは気付いてしまったことを口に出さずにはいられなかった。

ここで誰かに伝えておけば、もし、また自分がおかしくなってしまっても、せめてウィルは覚えておいてくれるだろう。


そう考えると、自分にとって唯一のものを損なわれた不快感と恐怖に、ぐっと奥歯を噛み締める。



ネアハーレイはネアハーレイのものだ。

それしか確かなものがなく、それだけしか自分のものがないのに、どうしてそれを奪われるままにしておけるのだろう。



だから、恐怖の扉を開きその奥に芽生えるのは、最後のものを奪われた、胸を掻き毟るような憎悪と怒りだった。




「…………それなのに、私にはいつからか、私はずっともうレイノで、ただ記憶を失っているだけなのだと考える事が増えました。レイノは作りものだった筈なのに、どんどんレイノになって……………わたしは、」



そこで、ふっとレイノの頬に誰かの手が触れた。


温かいと感じる体温ではなく、寧ろレイノよりも低い体温であったが、その温度がじわりと染み入るようで、胸の奥がぐぐっと引き絞られる。



「……………デュノル司教」

「ごめんね、君が、…………表層とは言えそこまで侵食されていることも、君がその侵食に気付いて何とか踏み留まろうとしている怖さにも、私は気付いてあげられなかった。……………ウィリアム、彼をそのまま固定しておいておくれ」

「任せて下さい。…………擬態を?」

「……………いや、それはまだ危ういかもしれない。でも、精霊の巣として機能し始めたここならば、遮蔽が徹底しているのも確かだ。出来る限りの事は説明してしまうよ」

「それなら、アンセルムを少し動かせるようにしましょう。彼女を休ませられる場所があった方がいい」

「うん。そうだね……………」

「………………司教様?」



そっと、壊れ物に触れるように優しく抱き締められ、レイノはもう一度デュノル司教の腕の中に戻った。


よく分からないが、もうデュノル司教は先程のような冷淡な無機質さでこちらを見ない。

その代わり、とても悲しそうな顔をしていた。


ずっと工房の入り口のところにいたので、屋内に入ることにしたようだ。

壁に縫い止めていた剣を引き抜き、ウィルが片手で無造作にアンセルムの首を掴むと、アンセルムがうんざりしたように降参ですよと呟いている。



「……………信じ難い事ですが、あなたがそのように会話をする相手は限られている。アルテアではないようですから、そこにおられるのは、どうやら僕としてはとても困った方であるらしい。…………ウィリアム。さすがに僕も、万象には牙を向けません。手を離していただいても?」

「画策し罠を巡らせるのは精霊の資質の一端だ。俺の気に留まるような動きを見せたら、首だけあれば充分だという事を理解して貰うようになるぞ」

「…………何ともまぁ、あなたらしい言葉ですね。何かをしたらではなく、懸念を抱いたら即座に首を落とすつもりですね。…………それと、これでもここは実際に僕の家の一つですから、くれぐれも調度品を壊さないでくださいよ」



そう言い、よろよろと工房の扉を開けたアンセルムが、レイノはもう見知った部屋に案内してくれる。


食卓としても勉強机としても使っていた大きな一枚板のテーブルに、クッション張りの座り心地の良い椅子がレイノはお気に入りだった。

この部屋で過ごす時間はとても心地良くて、レイノは、それがこれからの日常になるのだとしても構わないくらいだったのに。


それがまさか、勝手に目をつけられ、危うく殺されてしまうところだったらしいのだから、この世界は油断も隙もない。



(でも、私がもっと自分をネアハーレイだと認識していたら、そうは思わなかったのだろうか。……………記憶を無くしたレイノに成り替わりつつあったからこそ、ここを居心地がいいと感じかけていた?)



きりりと痛むような事はないが、思考を濁らせていたものが剥がれ落ちて、正しい記憶を再編するのに大忙しな頭を押さえ、レイノは、抱き上げてくれているデュノル司教の胸に体を寄せた。



上手く説明出来ないが、ウィルに触れている時ほどではないものの、その体温に寄り添うと少しだけ体が軽くなる。

優しく背中を撫で下ろされ、不思議な安堵感にほうっと息を吐いた。




「さてと、歓迎していないお客にお茶を出す程にお人好しではありませんが、レイノは何か飲みますか?」

「……………いえ、…………ええとその………」

「さすがの僕も、万象の庇護を受けているらしい君に、魔術の繋がりは付与しませんし、これまでのものも剥離させたので安心して下さい。両思いなら兎も角、今の様子だと確実に僕が排除されるだけですからね」



レイノは、誰も説明してくれる気配がない謎ワードの万象とは何だろうと、とても大きな気持ちで考えていたが、どうやらデュノル司教を示す言葉のようなので、実はそんな肩書きを持つもの凄い司祭なのかもしれない。

であれば、彼は己の才能や本来の力を隠して潜入調査のような事をしているのだろうか。



「そうか。アンセルムは腕は二本もいらないのかもしれないな」

「腕は二本でこそだと思いますけれどね。……………もしかすると、この様子では猊下も仮面の下に誰かいるのかな。…………仮にもここは、僕の庭なのであまり好き勝手をされませんよう」



口で言う程に萎縮した様子もなく、そう言ってのけたアンセルムに、レイノが気に入っていた軍帽をテーブルの上に置いてしまい、ウィルはふっと唇の端を持ち上げる。



「それは、本人に言うといい」

「………………僕が見ても、稀有な人間だと思う以上には何も得られませんでした。であれば、あれだけの擬態を可能とする力にその言い方だと、彼も白持ちですか……………。まさか、今代のグレアムじゃないでしょうね?」

「どうだろうな。…………レイノ、大丈夫か?」



椅子に腰を下ろしたデュノル司教の膝上に抱かれる形になったレイノは、長い旅から帰ってきて家の椅子に腰掛けたかのような疲労感にくたりとしていた。


まだ、どうやらこちら側で育んだものがあるらしい記憶が戻る事はないが、ネアハーレイとしての自覚はだいぶ戻ってきた。

レイノは偽名でしかなく、実在しない人間であることも。



心配そうにこちらを覗き込んでくれたウィルに、そちらを見て力なく呟く。

その微笑みを見ると、何かを思い出したくて堪らないような、不思議な息苦しさを感じてしまうのはなぜだろう。



「無理はしていないな?」

「…………その、…………頭の中がぐるんぐるんしています。…………今の私は、成る程確かにあなたの事を以前から知っているようだと考えられるのですが、ここに来る迄はそこまでの確信は得られませんでした」

「そうか。やはりここは記憶の干渉が大きい場所なんだな。信仰の土地にありがちだが、…………」

「………映画という言葉を忘れかけ、危うく存在しないレイノになりかけていたのは、…………先程、司教様が話していた侵食とやらのせいなのですか?」



背後のデュノル司教にも聞こえるように体を捻ってそう尋ねたレイノに、耳元で吐息が揺れる。

微かな衣擦れの音に続き、優しい手がそっとレイノの頭を撫でた。



「君を侵食しかけていたのは、この教区全体に敷かれた、術者にとって都合のいい情報を迷い子達に浸透させる為の魔術の弊害だ。……………恐らく、その術式を管理する人物に君が迷い子のレイノとして認識された事で、君には、新たな情報が書き加えられる以前に、記憶を失ったレイノであるという認識が幾重にも浸透させられていったのだろう。……………アンセルム神父、君はその術式を編んだのが誰なのかを知っているね?」



その声は刃物のようで、濡れたように光る美しい青銀色の刃を思わせた。

指先を近付けただけで切り落とされてしまいそうな、空気そのものの鋭さを。



それを恐れたのか、それとも思い当たるデュノル司教の正体に敬意を示したものか、アンセルムは素直に頷いた。



「この土地に、最初にあの門を作ったのは僕ですが、今は、その仕組みごとアリスフィアにあげてしまいました。この教区の魔術を構築したのは彼女ですよ」

「やはり、あの教区主なのだね…………。君は、それを助けているのかい?」

「ふむ。………それは肯定でも良いし、否定も出来るでしょう。あなたからの問いかけですから正直にお答えしますが、僕は、休日の道楽として、異端審問官として教会組織に所属しています。尤も、人間とはなかなかにしたたかで頑強で、他の教区に在籍している同僚の中には、僕がこの教区の隠者である事も知っていて、その上で全く気にかけない者もいますけれどね。………あなたの問いかけを一概に否定しきれないのは、ここが、異端審問官という暇潰しを隅々まで遊び尽くす為に組み上げた僕の遊技場だからです」

「それなら、なぜ、あの門を人間に譲ってしまったのだろう?」



その問いかけに微笑んだアンセルムに、そして、彼の言葉を当然の事のように聞いていられるウィルにも、レイノは人ではない者達の心の違いを見た。


これだけ多くの人間達が暮らしその命を預ける信仰の土地を、精霊の一人が遊び場だと言い切った事でぞっとするのは、レイノが人間だからなのだ。



「アリステルという歌乞いをご存知ですか?実はね、彼女を呼び落としたのはアリスフィアなんです」

「……………この国の歌乞いだった人間だね」

「ええ。元々あの門は、迷い子を呼び寄せる為のものではなく、異端審問官としての興味を引く、異端者を呼び落とす為の審判の門として作りました。そこから呼び落としたアリスフィアは、こちらに落とされてからすっかり面白みがなくなったので、好きにさせていたのですが、血族を求めたのかもしれません。…………あの人間を呼び落とし、僕は、その終焉の気配のある子供にとても興味を惹かれました」

「あの歌乞いが、か?………俺は何も感じなかったが…………」



訝しげにそう呟いたウィルに、アンセルムは僅かに苦笑する。



「終焉そのものであるあなたと、死を司る僕に見えるものは違います。今思えば、それは終焉を齎すその愚かさに付随した、終焉の特異点の気配でしかなかったのでしょう」

「であれば、門を彼女に与えたのは、その人間を呼び落としたことへの、褒美なのかな?」

「いいえ。当時の僕は、アリステルにとても期待し、彼女が殺されるその瞬間までをガーウィンの神父の一人として見届けましたが、残念ながら、最後まで何ともつまらぬ人間だったと失望しただけでした」



そう微笑んだアンセルムは、人ならざる者の身勝手さで、けれどもその暗い光を放つような夜菫の瞳は例えようもなく美しい。

振り払おうとしても振り払おうとしても、惹かれてしまう死の美貌そのものが凝ったような、そんな生き物に思えた。



「…………ああ。それで、うんざりして門を放置したのか」

「僕達が作り出す道具なんて、そんなものでしょう。…………でも、アリステルに失望したのは、僕だけではなかったらしい。アリスフィアもあの人間の行いには何某かの失望を抱き、その報復を始めるように今の迷い子集めを始めました。………それに気付いて僕がここに戻る頃にはいい具合に歪み壊れて、僕が探すものを見付けるには好都合だったので黙認していたというところでしょうか」



なんと身勝手な言い分だろう。

でも、きっと聖典の神の振る舞いにもこんな理由があるのかもしれない。

やはり人ならざる者達は人間ではなく、彼等の喜びや欲望は人間とは違う。




「であれば、ここは隠者である君の管理地だ。侵食魔術を構築したのは、君の庇護下の人間だという事だね」

「……………ええ。ですから、僕はこうして経緯をお話ししています。貴方のような方がその姿を持ちここにいる理由は、ここで生まれ育った魔術が目的でしょう。生き物としては執着のないアリスフィアですが、彼女が現在、僕の道具である事は否定しようがありません。であれば、そこは潔く告白しなければいけませんからね」



アンセルムは微笑んで優雅にお辞儀をしてみせ、レイノは、デュノル司教がまた小さく息を吐く音が聞こえた。



「……………君の思惑は、私を懐柔する事で、ウィリアムにこの子を譲らせることかな?」

「はは、それも考えましたが、…………その様子を見ていると、多分レイノはあなたのものなのではありませんか?であれば、謝罪も兼ねてご協力するのは当然のこと。僕はこれでも、一族の次代の王の座を狙っていますから、今はあまり階位を下げたくない」

「この子は私の伴侶だ」

「………………それは」



さらりと言われた事に、アンセルムは今度こそ絶句した。

けれども、その驚きはレイノの比ではなかったに違いない。



(え…………?)




「………………はんりょ」



呆然とそう呟いたレイノに、デュノル司教はふわりとレイノを持ち上げて座り直させ、二人が顔を見合わせられるようにする。


こちらを見た水紺色の瞳の澄明さには、また微かな平坦さが覗き、レイノは、漸くそれがこの人の苦痛の均し方なのだと気が付いた。



「それは、ここに敷かれた魔術から本来の君を守る為に、覆い隠しておかなければならない事だった。…………だから君には、こちら側に来る前までの記憶しかないんだ」

「……………そう、なのですね。…………はんりょ」

「うん。…………そんな事を言われて今は不愉快かもしれないが、少しだけ我慢しておくれ」

「…………………むぐぐ」



困ったような悲しげな微笑みで言われ、それは不愉快な事なのかどうかを考えてみたが、今のレイノにはよく分からなかった。



「…………それと、アンセルム神父が死んでいます」

「放っておいて構わないぞ」

「……………はい。少しだけ泣いているみたいなので、そっとしておきましょうか」



求婚した人間が既婚者だと知ってしまったアンセルムはしくしく泣いていたが、突然既婚者になったレイノもまだとても動揺していた。


眉を寄せて受け取った情報を一生懸命咀嚼していたレイノは、またそっと頭を撫でられ、どこか悄然としているデュノル司教を見上げる。



「少しでも君が安心出来るようにしたかったのだけれど、………ここでの君と私は、見知らぬ者同士だ。話せないことばかりでは納得出来ずに、不安にしていただろう」

「そう…………かもしれません。昨日の朝食の時はまだ納得出来たのですが、時間が経つと………心の隅っこからじわじわと怖くなり、あなたを疑いたくなりました」

「…………それは、レイノとして作り上げた君すら歪められたからでもあるのだろう。侵食がそのようにして君を蝕んでいた事に気付けなかったのは、私の手落ちだ。暫くこの遮蔽地にいれば侵食魔術の効果も弱まる。外に出ても、…………ウィリアムが君の契約者になったことで、彼の側にいればその影響を受け難くなったからね」

「はい。…………それと、ウィルは、ウィリアム、なのですか?」



そう尋ねたレイノに、ウィルは微笑んで頷いてくれた。

レイノとデュノル司教の会話をほっとしたように聞いてくれているので、二人が伴侶である事は元々知っていたらしい。



(伴侶……………)



その響きには、なぜか安堵を覚えた。

見知らぬ伴侶など承服出来なくて当然なのに、どうしてだかとても腑に落ちた。



「だから、デュノル司教は妻帯者だとお話しされていたのですね………………」

「………ああ、…………昨日のことだね?」

「……………ふぁぎゅ」



ここで、もしゃもしゃした気持ちで頷いたレイノに、デュノル司教は微かに目を瞠った。



「…………それを、気にしていたのかい?」

「…………ふぁぎゅふ。デュノル司教にきっと素敵な奥様がいるのだと考え、なぜか少しだけむしゃくしゃしたのは、潜在意識の私が反応したのでしょうか………………」

「かわいい…………………」

「……………そろそろ、僕の工房から出ていきませんか?」



アンセルムは不服そうに低く呻いていたが、ウィルことウィリアムが本当の名前なレイノの契約の魔物は、もやくしゃの理由が分かり、尚且つやっと確かに自分に紐付くものを得られてほっとしたレイノに、良かったなと微笑みかけてくれる。



「だから、ウィルは私を司教様に預けたのですか?」

「ああ。外では契約の魔物として俺が君を守るが、せめて遮蔽地にいる間はそこにいた方がいい。ネ………レイノが、一番安心出来るのはやはりその場所だろう」



残念ながら、まだ記憶が戻った訳ではないので、そんな風に優しく微笑む軍服姿の魔物は、とてもレイノの心をざわつかせた。

おまけに、今は多少の擬態をしているものの、本来この軍服は真っ白だというのだから大変だ。

是非にその姿を拝見したい。



「……………はい。でも、ウィルの側にいても何だかほっとします」

「はは。そう言って貰えると嬉しいな。……………そう言えば、この教区にいる静謐の祟りものは誰なんですか?」



ふと思い出したようにそう問いかけたウィルに、デュノル司教が僅かに首を傾げる。

この土地に祟りものとやらが居ることは、デュノル司教には分からなかったようだ。



「君だからこそ、それが祟りものだと気付けたのだろうね。…………魔術を構築したのがそうであれば、アリスフィアという人間なのかな」

「ええ、彼女ですよ。ウィームの歌乞いを殺して、この国の歌乞いに、それも国に軽視されないだけの力を持つ歌乞いになる事が目標だったようで、今はせっせと迷い子達を食べています」

「………………食べ…………」



あんまりな告白が簡単にされてしまい、レイノはそれはまさかホラー的な展開ではなかろうかと、慌ててデュノル司教に体を寄せた。

やはり、迷い子を食べると聞いて驚いたものか、ウィルとデュノル司教もぴたりと黙り込んでしまう。



「…………もしかして、他の迷い子の方々が怪物と言っていたのは…………」

「アリスフィアの事です。とは言え、迷い子を集めている以上は迷い子の運用でも実績を上げなければいけませんから、外から訝しまれないように、貸し出して教区の外で活動させる迷い子もいます。全てを食べてしまう訳ではありませんが」

「…………そこまで分かれば、帰れるんじゃないんですか?」

「いや、………そのような生き物の住む土地にこの子を置いておくのは不愉快だが、覆いをかけた魔術の剥離の条件を満たす為には、まだやらなければならない事が残っているんだ」



そう呟き、気遣わしげにレイノを見たデュノル司教は、レイノの張り詰めた様子に気付いても思うように守れていない事が、とても悲しかったと教えてくれた。


レイノに、伴侶である事と一定の条件を満たせばここから出られることを伝えられ、漸くほっとしたように表情を緩めている。



「俺が、ここに呼び落とされた直後のあなたの表情が気懸りだったんですが、俺が召喚されたとなれば、彼女がそこまで追い詰められていると考えますよね………」

「今のこの子は、君を知らない筈だった。召喚が可能なだけの可動域や魔術構築もなかったから、その心を終焉に向けてしまったのかと考えてしまったんだ。………まさか、彼が既に終焉の魔物についての話をしていたとは思わなかったからね」



そう言われ、立ち直ったらしいアンセルムは、どこか投げやりに微笑んだ。



「今思えば、自分の迂闊さに絶望するばかりですよ。万象の伴侶に手をかけずに済んだのは、せめてもの救いですが。それと、ウィリアムの召喚が成功したのは、儀式上での終焉の供物があったからでしょう。レイノは、最初に召喚した蟻を踏み潰していましたからね」

「ぎゃ!許すまじ!!!」

「僕は随分と長く生きてきましたが、あれだけの召喚魔術を展開しておいて、まさか蟻が召喚される場面を見る事があるとは思いませんでした」

「ありなどしりません!いいがかりです!!ウィル、こやつは邪悪な精霊です!」

「よし、少し黙らせておこう」

「蟻を……………召喚出来るのだね…………」

「……………ありなどしりません…………」



その蟻を召喚する術式を組んでしまったのは自分なので、デュノル司教はとても困惑していたようだ。


レイノは、色々な面を見ても尚、アンセルムに対してはまだどこか親しみが捨てきれずにいたが、今後もこの不都合な事実を発信してゆくつもりなら、口を封じることも吝かではないと、非情な決意を固めるのだった。











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