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雪の災いと時の災い




「…………ぐぬ」



ネアはその時、すやすやと眠ろうとしていた。

すやすやのすやくらいまでは来ていたのだが、馴染みのある香りに目が覚めてしまい、ぐぬぬと眉を寄せる事になる。


素晴らしい手触りの毛布に口元まで埋め、ぬくぬくと温まった空気の中で眠るばかりの時間ほど、幸福なものはないだろう。

もし、その幸せを奪い取ろうとする者がいれば、伸びやかな睡眠を愛する人間は、欠片とて残さず粉砕するばかりであった。



でも、あの香りがしたのだ。


百合と薔薇とオレンジの馨しい香気は、リーエンベルクの大浴場にお湯が張られている合図である。

今はもう滅多に使われなくなった王族専用の浴場では、きっと夜結晶のシャンデリアに明かりが灯っている事だろう。




(………ぐぬぬ。……………ぐぬぅ)





薄らと開いた目を閉じると、不思議と目が回った。



ばしゅんと体に当たる雪玉の感覚に、見上げた広間の天井の飾り木の枝と、きらきら光るオーナメント。

青みを幾層にも重ねたような氷の色と、雪の中の教会の美しさ。

雪玉の弾けるその向こうで、珍しく子供のように笑っていたエーダリアに、顔面に雪玉が投げつけられ、くしゃくしゃになって儚くなったノアの姿。



ああ、楽しかったなと考えると、逆に何だか不吉な気がした繊細な人間は、使い魔に投げようとした雪玉が、腕力不足で届かずにべしゃりと手前に落ちた瞬間の悲しみも思い出しておいた。



多分、運命には天秤がある。



悲しみに傾く時には幸運に傾くのが容易ではないその天秤は、なぜか、幸福な時ばかり、がたんと傾きを変えやすくなる。

だからネアは、その運命の釣り合いが取れるようにと、日々、心を砕いていた。


この世界であれば、軽微な不安は蓄積した祝福で追い払えるが、災厄や障りは何の前触れもない事も多い。

であれば、その災いの手が何を掴んでも叩きのめせるように、手元に沢山武器を用意しておかなければ。



ネアのそれは、悲しみと喜びの均衡を保つ天秤ではない。


何としても、二度と悲しみに傾かせない為の、断固として動かしませんの天秤である。

人間は、とても我が儘な生き物なのだ。



だからネアは、そんな我が儘な人間らしい感傷で、瞼の裏の暗闇でちかちかと回る記憶を見つめ、このまま心地よい眠りの底に落ちてゆくべきか、目を覚まして大浴場に向かうべきかを天秤にかけた。




(こんな風に目が回ると、まるで、子供の頃に、遊園地に行った日の夜みたいだわ………)

 


その時の事を思い出して、また考える。

でもその記憶はもうネアハーレイのものだから、ここで暮らしているただのネアは、橇遊びの日や、竜に乗った日の夜のようだと思うべきだろうか。


心を削るような怖い思いをした日も、こんな風にくるくると目まぐるしく視界を揺さぶられる夢を見るが、そんな日の夢は、もっと暗く焦燥感に満ちている。

だから、楽しかった時間を万華鏡のようにくるくると入れ替えてゆく夢は、そんな時間を過ごせた日の夜だけの特別なのだろう。


少しだけ目が回るし、場合によってはどこかからぽいと落とされるような夢を見て、びゃんと目を覚ましてしまう事もあるけれど。



(でも、こんな夢は、楽しくて賑やかだった日の夜にしか見れないものだから………)


だからずっとここにいて、夢の中を歩いてもいい。



「…………むぐ」



そして、どこからともなくそんな夢に忍び込み、ふわりといい香りを届けてくれたのは、紛れもなくネアの大好きな大浴場であった。

眠りから遠ざけることなどゆるすまじと思う事も出来たが、ここもまた、ネアの心の中では、天秤の幸運のお皿に区分けされるものである。


眠りの入り口でだけ沢山手にする事が出来る多幸感を諦め、疲れた体を引き摺って大浴場まで辿り着くことが出来れば、心が蕩けそうなくらいにいい香りのするお湯に浸かる事が出来るのだとして、それは果たして、睡眠時間を削ってまで求めたいものだろうか。



(でも…………、)



きっと、このリーエンベルクの中に、夢中で雪遊びをしてしまったいい大人と、残念ながらもっと長くお歳を重ねられている人外者達がいると知り、あの大浴場は、その疲れを癒すべくお湯を張ってくれたのだろう。


であればもうお風呂に入りに行くしかないのだが、疲労困憊して眠るばかりだった人間に、お風呂に辿り着くだけの力は残されているだろうか。


廊下の途中でぱたりと倒れてしまったら、朝まで誰も見付けてくれないかもしれない。

ウィームが雪深い土地であってもリーエンベルクの中は流石に暖かくしてあるが、とは言え、どこでも眠れるくらいにほこほこではなく、季節を楽しめるくらいの室温だ。


よって、冬毛を持たない人間にとって、廊下での就寝はあまりにも難易度が高い。



(では、どうするべきなのか………)



目を閉じて、たっぷりと蓄えられたお湯と、体の内側から豊かな香りを吸い込めるような空間を思い出す。

深呼吸するだけで心のかさかさしていた部分が潤うようで、あのお湯に浸かって体を伸ばしてふあっと深呼吸が出来たなら、どれだけの心地よさだろう。



そう思った途端、ネアは、その瞬間の自分の為だけにむくりと起き上がった。

ぱさりと落ちた毛布の隙間から、体温で温めた空気が解けて消える。



「むぐ。…………おふろ」

「ネア?大浴場に行くかい?」

「ふぁぐ。………やはり、我慢出来ません。どれだけくたくたの命懸けでも、私は大浴場に行きます」

「連れて行ってあげようか?」

「………む。………一緒に大浴場に行ってくれます?もし私が廊下で動かなくなったら、助けて欲しいのです………」

「持ち上げていってあげるよ。君はとても疲れているから、その方がいいのではないかな」

「な、なぬ………」



ここで、正しい伴侶なら、手でも繋いで共に歩いてゆこうと提案するべきだろう。


しかし、怠惰な人間はあっさりその誘惑に負けてしまい、ディノに持ち上げて貰ってご機嫌になった。

なんとこの乗り物で、自分の体力はほぼ使う事なく、あの素敵な大浴場に向かえるのだ。



「優しい伴侶なので、ぴったりくっつきますね。なおこれは、体を起こしている力がないからではなく、伴侶が大好きの印なのですよ?」

「…………可愛い」

「私を大浴場まで連れて行ってくれる伴侶がいるだなんて、どれだけの贅沢なのでしょう。今夜は私が甘やかして貰ったので、この週末は、ディノがして欲しい事をしましょうか」

「………フレンチトーストかな」

「ふふ。では、ディノの為に、美味しいフレンチトーストを焼きますね!」

「うん………」



持ち上げて貰っているので、嬉しそうに目元を染めたディノの瞳がとても近い。

長い真珠色の睫毛の美しさと、その影を映した水紺の瞳の深さはどうだろう。


こんなに美しく凄艶な生き物が、手作りフレンチトーストで大喜びしてくれるのだから、大事に大事にして、美味しい物を沢山食べさせてあげよう。


小さな喜びを噛み締めてネアが微笑めば、そっと手の中に三つ編みが設置された。

ここでこの三つ編みを引っ張ると、限りなく手綱のようになってしまうのだが、片手でネアを持ち上げていてもこうして三つ編みのお届をしてくれたのは、きっと、ディノが三つ編みを引っ張って欲しいからでもあるのだろう。


外に出掛けない時に渡される三つ編みはディノなりの甘え方なので、ネアは、賢者の面持ちになり、美しい三つ編みをにぎにぎしてやった。




廊下は、ふかふかの絨毯を踏むので靴音は立たない。

ちょっぴり秘密を共有しているような空気が素敵な真夜中の廊下を抜けて、二人は大浴場の方に向かった。


窓の向こうは雪が降っていて、ぼんやりと明るい廊下に等間隔に並ぶ窓と、その向こう側の雪明りは、不思議な夜の展示室のよう。


ネアは、ディノに寄りかかったままこてんと眠ってしまいたかったが、その美しさに目を引かれ、夜の冴え冴えとした美貌を見ている内に、意識が綺麗に透明になってゆく。



(なんて美しい夜だろう………)




その美しさに見惚れている内に、ネア達はいつもの大浴場に到着した。


霧が這うような香りの帯に触れ、ああ、お湯が張られているのだなぁとにんまり笑う。

こうして訪れるときの大浴場は、お湯の張られていない時とは色相が違う。

それは、人間の髪色と魔物の髪色のような違いで、内側から光を孕むように、壁の彫刻やシャンデリアがきらきらと光るのだ。



ネアは、まずは着替えだと更衣室を分けようとしたが、この人間は地面に下ろすとくしゃんとなってしまうと思われたのか、或いは二人きりだからか、そのまま同じ更衣室に運ばれてしまった。


多分ここで、ネアが淑女としての威厳を思い出して大騒ぎすれば良かったのだ。

だがネアも、まぁいいかと深く考えなかった。

そして、小さな悲劇に足を踏み入れてしまったのだ。



「むぎゃ!」

「……………おい、そいつは向こうだろ」

「おや、君達も来ていたのだね」

「はだか!」



そこには、さてお風呂に向かおうかなと服を全て脱ぎ終えたところな選択の魔物がいて、前髪を片手で後ろに撫で付けているところであった。

男性だからそんなものかもしれないが、すっぱりさっぱり裸でそれを恥じるでもない佇まいに、びみゃんと飛び上がったネアは、慌ててディノの首筋に顔を埋める。



「ネア、アルテアがいたから、向こうの更衣室で着替えられるかい?」

「……………ふぁぐ。そうしまふ。寝起きで回避行動が遅れ、視線を逸らすのが遅れました。何という悲劇なのだ……………」

「おい、別に害になりやしないだろうが」

「寧ろ、その肌色が、無垢なる乙女の視界にとって害以外の何だと言うのでしょう。ですが、野生の魔物さんはそんなものだと理解していますので、記憶からぽいして知らなかった事にします」

「やれやれだな……………」



ネアはあらためて女性用の更衣室に運ばれ、ディノは自分もこちらで着替えた方がいいかどうか尋ねてくれた。


幸い、既にしっかり目が覚めていたのでネアはもう大丈夫だと首を横に振り、ディノには、先程の魔物に浴室着を着せるという重要な任務をお願いしておく。

そして、なかなか大雑把な淑女は、ていっと着ている物を脱いでしまい、浴室着に着替えた。


予め着込んでこちらに来ることも多いが、今回は、意識がむにゃむにゃしているままに運ばれてきたので、か弱い腕に浴室着を掴むので精一杯だったのだ。

何度も訪れている場所なので、危険などもないだろう。


そう思い髪の毛をくるりと結い上げて髪留めで留めると、ネアは、浴室への扉を開いて素晴らしい香りの湯気の中に歩いていった。



(あれ、……………ディノはまだ来ていないのかな……………)



自分の着替えが早いのは自負していたが、魔物達はまだ更衣室にいるようだ。

そう考え、胸の底までが瑞々しく潤うような空気を吸い込んでいると、ばしゃんと水音がした。



「……………む。さては、先に湯船に入っていましたね!」


三つ編みをまとめてお湯につかないようにしてあげようと思っていたのに、既にそちらに居たのかと眉を持ち上げたのは、何となく、アルテアがこちらを気にせず自分のペースで入浴するように感じていたからだろう。

ディノも、そんなアルテアと一緒に湯船の方に向かってしまっているのだろうか。


とは言え、まずはざっとお湯を浴びてからなので、ネアは、洗い場に立ち寄った。


この浴室は湯船の真上のシャンデリアや、お湯を汲み上げる噴水の形を模した中央の装飾も素晴らしいが、こんな洗い場の蛇口の一つにまで、息を呑むような精緻な細工が施されている。

そんな美術品のような黄金の蛇口を捻り、シャワーを出した時の事だった。



「……………ネア?」

「む?」



不意に真横から声をかけられ、ネアは、一度シャワーを止めると、おやっとそちらを向く。

湯気の霧が晴れるようにして視界が開けて初めて、おや、そちら側が見えていなかったのだなと気付いた。

そしてそこには、お二人目の肌色の魔物が佇んでいたのである。



「ぎゃ!はだか!!」



至近距離での裸の魔物に、ネアはびゃんと飛び上がりかけて、ここが滑りやすい浴室の床であることを思い出す。


しかしなぜか、心では危ないから止まるのだと考えていても、体は咄嗟に逃げ出そうとするかのように身を屈めてしまうではないか。

そうなれば勿論、ちぐはぐな動きに体が傾く。



(し、しまった!これは……………)



だが、はっとしたネアがすてんと転んだりするよりも、すっと歩み寄った魔物がそんな人間を捕まえる方が早かった。


危うく体勢を崩しかけたところで、お腹周りに腕を回され、ひょいと持ち上げられてしまった人間は慌ててじたばたする。

唸り声を上げて藻掻いていると、くすりと笑う気配があった。



「ぐるる……………」

「雪遊びの弊害かな。残念ながら、敵同士だったものな」

「……………ぐる」

「ネア、雪遊びは終わっただろう?もう戦わなくていいし、逃げなくていいんだからな?」



そう微笑みかけてくれたウィリアムに、心の中で荒ぶっていたネアが、確かにもう戦いは終わったのだと頷く。


だが、今はもっと大事な問題があったような気がするのだが、果たして何だっただろうか。

こてんと首を傾げたネアの頭をウィリアムは撫でてくれたが、ネアは、やはり何か釈然としないぞと眉を寄せた。



「……………む。最初は、もっと別の物から逃げていたような気がしましたが、確かに戦いは終わりました」

「そうなのか?でも、浴室で走ると危ないからな」

「はい。うっかり走り出そうとしてぎくりとしたのですが、心の反応が体の反応に追いつきませんでした。………ウィリアムさんも、大浴場が開いている事に気付いたのですね」

「ああ。いい匂いがしたからな。この仕組みは、正直有難い。この湯に入ると、寝つきの良さと翌朝の爽快さがまるで違うんだ」

「ええ。なので私も、半分以上眠っていましたが、頑張って起きてディノに運んできて貰ったのですよ」

「シルハーンは?」

「更衣室で別れたのですが、アルテアさんに浴室着を着せてくれている筈です」

「おっとアルテアもいるのか……………」



ネアは、うむと頷いたところで、漸く異変に気付いた。


現在ネアを持ち上げている魔物が、限りなく肌色であることを思い出したのだ。

雪遊びの災いなのか、うっかり雪合戦の敵ではないということを理解する方に頭が時間をかけてしまい、そもそも最初は、裸の魔物から逃げ出そうとしたことを失念していたのだ。



「………ほわ、はだかです」

「ん?………ああ。そうだな。一人だと思って入っていたから、浴室着の準備がないんだ。今夜は我慢してくれ」

「ふぁい…………」



ここでネアは暫し悩んだ。

ネアも浴室着なので、非常に肌の触れ合いが大きくなる持ち上げを解除して欲しいのだが、そうすると視界がどうなってしまうのだろう。

この状態の方が見える肌色は少なく、とは言え、このままでいる訳にもいかない。


「ウィリアムさんは、魔術でえいっと浴室着は着れないのです?」

「ああ。俺はあんまり器用じゃないからな」

「そんな訳ないだろうが」

「む、アルテアさんで………ぎゃ!はだか!!」

「アルテアが逃げた……………」



そこにやって来たのは、ちょっぴりへなへなになったディノと、浴室着を着ずに逃げ出したらしいアルテアだ。



「ディノ、ウィリアムさんがいましたよ」

「浮気………」

「浮気ではなく、私が、うっかり雪遊びの時のことを思い出して逃げ出そうとしてしまい、浴室で走ると危ないのでと捕獲してくれたのです。ただ、たいへん裸なので、この状態を解除すると視界の安全を確保出来ず、どうしようかと悩んでおりました」

「浴室着は、着ないのだね…………」

「持って来てないみたいなので、ウィリアムさんについてはどうにかして視線を上部に固定しますね」

「すみません、シルハーン。この時間なので、ネアが来る事はないだろうと思っていました」

「そのお粗末な理由で通るなら、俺も同じだろうが」

「なぬ。アルテアさんは服を作れるぐらいに器用なので、どうにか出来る筈です…………」

「残念だが、この場ではもう難しいな。それと、さっさとそいつから離れろ。相変わらず情緒皆無だが、お前は、今の自分の状態を分かっているんだろうな?」



すっと目を細めたアルテアに言われ、ネアは首を傾げた。



「浴室着で、ウィリアムさんに捕獲されています………?」

「その浴室着だ。ダリルからの物だろ」

「はい。既婚者用の布面積の少ない物ですね。私はディノの伴侶なので、大人の装いになりました」



ネアがふんすと胸を張ってそう言えば、ディノは、既婚者という響きに恥じらい、なぜかアルテアは顔を顰めた。


「だからだ。さっさと離れろ。…………お前も、いつまでもそうしている必要はないだろうが」

「下ろすところでしたよ。シルハーンが来たので、もう転ばせてしまう危険もないですからね」

「うむ。雪遊びの災いで一瞬荒ぶってしまいましたが、もうあの戦いは終わったことを思い出したのです。激しい戦いでしたが、我が陣営は一人の犠牲を出す事もなく、勝利を手にしました」

「ほお、言っておくが、お前は、そもそも最初に負けた筈じゃなかったのか?」

「ま、まけていませんよ!あのときはまだ、かいせんまえでした!!」

「…………っ、ネア、………その、ここで弾むと危ないからな」

「は!ウィリアムさんに持ち上げて貰っていたのを忘れていました。腕に負担をかけないよう、すぐに下りますからね」

「ウィリアムなんて…………」


ネアは無事に床に下ろして貰い、暴れる人間を捕獲するので疲れてしまったのか、ウィリアムは一足先に湯船に向かってしまった。


「……………ほら見ろ。まぁ、あいつは半分以上は自己責任だがな」

「なぜ責められる風なのだ」

「ネア、転んでしまいそうだったのかい?」

「ええ。雪遊びの記憶が蘇ってしまい、敵だったウィリアムさんから隠れようと、うっかり浴室で走ろうとしてしまいました」

「おいで。転ばないようにね」

「はい!ざっと体を綺麗にして、お湯に浸かりますね」

「うん」



勿論、ディノはウィーム風の浴室着を着ていてくれた。


ネアは安心してそんな魔物と一緒にシャワーでお湯をかけ、使い魔の方は見ないようにした。 



「……………ふぁ」


ざあっと肌を滑り落ちるお湯の心地よさに、うっとりする。


見上げた天井には湯気が立ち昇り、淡い金色の光がゆらゆらと広がっていた。

呼吸をするだけでも心の端からほろほろと崩れ落ちてゆくような気持ち良さがあり、思わず唇の端が持ち上がってしまう。


さて、いよいよあのお湯に入るぞというところで、誰かの話し声を聞いたような気がして振り返ると、くあっと欠伸をしながらこちらに歩いてくるノアがいるではないか。



「……………にゃぬ」

「わーお。ネア達も来てたんだ」

「もはや、肌色が多過ぎて、心を無にしてやり過ごすしかありません」

「あ、ヒルドとエーダリアは浴室着を着る派だから、大丈夫だよ。僕は着ない派!」

「ふむ。視界からぽいしますね」

「ありゃ。妹が冷たいぞ……………」


(……………そうか。あの雪遊びの後だから、みんなこの温泉に入りたかったのだわ)



アルテアの誕生日会をして、スケートをして、雪遊びをして。


そうしてその日の真夜中には、こんな風にみんなで大浴場で出会うのも悪くない。

どうせなら冷たいカムカム茶でも持ってくれば良かったなと考えながら、とは言え夜は有限のものなので、ネアは先にお湯に浸かっていることにした。



「おや、ネア様達も来られていたのですね」

「相変わらず、この大浴場は素晴らしい香りだな」

「よーし、泳ぐぞ」

「ネイ?」

「ごめんって………」


わいわいがやがやしている家族の賑やかさを楽しみ、ゆっくりとお湯に身を沈めたネアは、はふぅと至福の溜め息を吐く。


湯舟の方に来れば、中央の噴水からこぽこぽとお湯が湧き出し流れ落ちるので、汲み上げられた温泉の香りがいっそうに馨しくなる。

霧の結晶石を使った細工は、その繊細さから生花のように見えてしまうくらいで、妖精や竜の彫刻もあるウィーム最盛期の見事なものだ。



「ふにゅ……………」


湯舟に下りる段差に腰かけ、ネアは、ふにゃんとお湯に体を沈めた。


呼吸からも肌からも沁み込むような気持ち良さに心を委ねると、少し奥で、湯舟の縁に頭を載せるようにして深く浸かっているウィリアムや、しれっと隣にいるアルテアが裸であることは些細な問題に過ぎないと思えるようになった。


暫くすると、エーダリア達もこちらに来て、のんびりだらりとした至福の時間を共に過ごす。


アルテアは手早く体や髪も洗ってしまったようで、濡れた髪を手櫛で掻き上げているし、ヒルドは長い髪を濡らさないように結い上げている。


湯船に浸かる前に、持ってきた髪留めでディノも多少は結い上げてやったのだが、髪の毛が長いので全部を持ち上げてしまうのには無理があり、毛先はお湯に浸かっていた。



こぽり、こぽこぽ。



最初は、楽しかった雪合戦の話などもしていたが、暫くすると、皆が無言になった。


ふくふくと体を伸ばし、肌に触れるお湯の感触と馥郁たる香りにだけ包まれる時間には、言葉など必要なかったのだ。

なんて贅沢な時間なのだろう。


ネアは、途中でがくんと頭が傾いてしまい、隣から差し出された手のひらに頭を支えて貰った。

うっかり眠り込んでお湯を抜かれるような以前の悲劇を繰り返してはならないと、慌てて座り直す。



「ったく。沈むなよ」

「むぐ。……………む、ディノはすっかりくしゃくしゃです」

「……………うん」



お風呂大好きっ子の魔物は、目元を染めて嬉しそうにお湯に浸かっていた。

元々、ディノ程長湯ではないネアですらこの有り様なのだから、ディノがすっかりへなへなになってしまうのも当然と言えた。


なのでネアは、もう少ししっかり体を起こしている使い魔が右手にいる事に安堵し、もしもの時は、こちらの魔物に寄りかかればいいやとまた手足を伸ばす。



時が齎した恐ろしい災いが忍び寄っていることに、全く気付いていなかったのだ。




「さて、そろそろ……………ぎゃむ?!」


こちらはそろそろ上がろうかなと、ネアが立ち上がろうとしたときの事だった。


膝が萎えたようになってしまったネアは、そのまま、湯舟の底にとぷんと沈んでしまう。

すぐさま誰かに引き上げられたものの、ずぶ濡れになった髪の毛からぼたぼたとお湯をこぼしながら、突然の事に驚き過ぎて、ふるふるするしかなかった。



「ネア!大丈夫かい?」

「……………げふん。…………か、体に力が入りません。そして、腕の付け根と背中が猛烈に痛いです」

「ぶつけてしまったのかな。おいで、治してあげるよ」


そう手を伸ばしたディノに、ネアは、どうやら引き上げをしてくれたらしいアルテアの膝の上に持ち上げられ、不穏な予感に表情を曇らせる。



「いえ、この痛さは…………、き、筋肉痛です」

「やれやれだな………。ったく、こんなところで事故るなよ」

「まぁ。そうやって笑っていられるのも、今の内ですよ!アルテアさんは、私よりもお年寄りですし…」

「ならないだろうな。お前の筋肉疲労は、この時間に突然現れたことからして恐らく、魔術性のものだ。雪玉を作る作業を随分としていた事で、可動域を限界まで酷使し続けていたんだろう」

「………雪玉ですよ?」

「雪の魔術の形成にあたるだろうが。魔術回路の磨耗の疲労なら、治癒はせずにやり過ごすしかないぞ」

「……………なぬ」



なぜそんな事ですら可動域の話になるのだろうとわなわなしていれば、こちらを心配そうに見ていたエーダリアが、この疲労に効くお茶があると教えてくれた。



「私の部屋に備えがあるから、後で、飲んでゆくといい。それとも、部屋に届けようか?」

「…………む、むぐ。エーダリア様は明日も執務ですので、取りに伺いますね。ただ、…………私がここから生きて帰るだけの力が残っているかどうかにもよるので、場合によってはディノにお願いするかもしれません」

「ったく。俺が帰りに受け取っておいてやる。寝る前に淹れてやるから、飲んでから寝ろよ」

「………ですが、アルテアさんはお誕生日の夜という感じでもあるので、のんびりして欲しいです」



ネアがそう言えば、こちらを見たアルテアは赤紫色の瞳を瞠っていた。

だが、すぐにふうっと息を吐き、ぎゅむっとネアの鼻を摘まむではないか。



「むぐる…………」

「どうせ、その様子だと、満足に部屋にも帰れないんだろうが。そのくらいなら大して時間もかからない。付き合ってやるから、それまでは寝るなよ」

「甘えてしまっていいのです?」

「ほお?パイを強請る時とは大違いだな」

「あら、あれはアルテアさんのご褒美なので、遠慮なく要求出来るのですよ」

「何でだよ」

「ネア、早めに対処したほうが楽だから、アルテアにお茶を淹れて貰うといいよ。………取り敢えず、ウィリアムを起こすのは僕がやるからさ」

「なぬ…………」

「ウィリアムが…………… 」



アルテアから伴侶の腕に戻されていたネアが見たのは、湯船の縁に頭を載せたまま、やけに静かだなと思ったところすやすや眠ってしまっている終焉の魔物であった。


少し熱くなったのかお湯には胸下くらいまでの浸かりになっており、両腕も湯船の縁に上げて疲れたお父さんスタイルでの就寝だ。


だが、お風呂での睡眠は溺死の危険があるので、どうか目を覚まして欲しい。



「ありゃ、エーダリアも少し寝そう?そろそろ上がるかい?」

「………ん、…………ああ、大丈夫だ。あまりにも心地よくて、つい目を閉じてしまった」

「じゃあ、僕はウィリアムを起こしてくるよ。で、一足先に上がっているから、沈みそうになったら呼んでね」

「おや、私がおりますから、大丈夫ですよ」

「い、いや、自分で上れるのだからな………」

「ふふ。沢山遊んだので、みんなくたくたなのですね」



だが、残念な事に魔術性の筋肉疲労に襲われているのはネアだけらしく、お湯から上がると、こわこわに痛む背中を丸め、ネアは、呆れ顔の使い魔にざっと髪の毛を洗って貰った。


もはや誕生日の魔物を酷使してしまっていると言わざるを得なかったが、既に腕が持ち上がらなくなっていたので、ここは致し方ないと言えよう。


なお、この筋肉痛のような痛みは、温泉に浸かって体を緩めた事で現れたらしい。


疲労感が先に立って眠ってしまっていたので知覚が遅れたのか、元々、大人の筋肉痛のような遅効性だという魔術の筋肉痛が今やってきたのかは分からないが、温泉に入ったので、何もせずに寝てしまうよりは明日の苦痛がだいぶ緩和されるようだ。



「……………だが、その、……お前はもう気にしないのだな」


お湯から上がると、同じように出てきたエーダリアが、そんな事を言うではないか。

眉を寄せてから言いたい事を察し、ネアは遠い目をして頷いた。

なお、体が痛いので、ちょっとよろよろしている。


「視界に肌色が多い事は、もはや気にした方が負けだと思いました。野生の生き物は、みな裸ですしね」

「そ、そうなのだな……………」

「ただ、ディノや、エーダリア様とヒルドさんは、安心してそちらを見てお喋りが出来ますので、とても助かります」

「先程ネイとも話をしておりましたが、我々は王宮での生活が長かったので、どうしても自室以外の浴室では、このように過ごさないと安心出来ないのでしょうね」

「ああ。ノアベルトは脱いだ方が寛げるだろうと言うのだが、こちらの方が落ち着くのだ。………それと、あちらは大丈夫だろうか?」

「………ほわ、ノアがお湯に浮かんでいます?!」



エーダリアの視線を辿ると、ぷかりと湯船に浮かんだ塩の魔物がいる。

この際もうお尻が見えても仕方ないが、寧ろ、死んでやしまいかと危ぶむ光景に、ネアは真っ青になる。



「ウィリアムの寝起きは最悪だぞ。不用意に起こそうとするからだ」

「ぎゃ!見ていたのなら、言って下さい!!ディノ、ノアを助けてあげてくれます?」

「うん。ウィリアムも起こしてこよう」

「はい。私はもう、あまり多くを動けない身なので、お任せしますね!」

「ディノ様、私も手伝いましょうか?」

「では、ノアベルトを運んできたら、任せてもいいかい?」

「ええ。ウィリアム様も、随分とお疲れだったようですね」



(……………あ、)



こんな時、ヒルドがくすりと微笑めば、やはり家族のような光景であった。


ほっとしたネアは、アルテアから体は自分で洗えと言われてしまい、恨めしい思いで背中に手が届かなくなっている現状を訴え、使い魔を暫し絶句させた後、背面を洗って貰った。



温泉に浸かるだけならお湯を流すくらいで済んだのだが、髪の毛を洗ったので体もしっかり洗う必要があったのだ。

この作業については、そろそろ寝台に潜り込みたい乙女としては、なかなかの作業量オーバーである。


さすがに前面は何とか最後の力を振り絞って洗ったが、そこ迄を終えたネアは、浴室用の椅子に座ったままかくりと首を落とした。

後はもう、誰かが素敵に乾かして寝台に運んでくれるのを待つばかりである。


道半ばで力尽きるのはたいへん遺憾な事だが、か弱い人間には体力上の作業上限というものがあるのだ。

おまけに、魔術性の筋肉痛にも襲われているので、ここが本当の限界である。



「ぐぅ」

「おい!お前はこの状況で寝るな!その足らな過ぎる情緒をどうにかしろ!!」

「…………うーん、思いがけず熟睡していたな。この大浴場に来ると、心地よさに心が緩むらしい。………ん?アルテア、ネアはどうしたんです?」

「ネア、どうしたんだい?」

「…………も、もう、体力の限界でふ。眠くて……………ぐぅ」

「おい……。危機感も生存本能も皆無かよ………」

「可哀想に、運んであげるよ」

「おっと、…………この状況下でここまで無防備だと、さすがに目の毒だな」



その後ネアは、アルテアに髪の毛を乾かして貰い、何とか着替えを終えた。


眠さのあまりに判断力が著しく低下していたものか、大きく分厚いバスタオルを巻き付け、もういいやとお部屋に帰ろうとしたので叱られはしたが、ディノが魔術でしゅわんと何かを着せてくれたので、そのように着替えが出来ない人間にはもっと優しくするべきだったのだろう。



どこかの部屋で、椅子に座らせられてほかほかと湯気を立てるお茶を飲まされたような記憶はある。


次に目を覚ました時には、自分の部屋の寝室にいて、カーテンの隙間から朝の光を感じながらぬくぬくと毛布にくるまっていたので、真夜中に大浴場に出掛けたのは夢だったのかもしれない。



だが、朝食の席で、お前は絶対にリーエンベルク以外の共同浴場には行くなとアルテアに叱られたので、やはり実際に起きた事なのかもしれなかった。



なお、筋肉痛は起き抜けには残っていたが、朝食を終える頃には気にならなくなっていた。

雪玉作りからやってくる災いは時を超えての筋肉痛を齎すのだと知り、早い回復を得られる事が出来たネアは、心から大浴場のお知らせに感謝した。



とは言え、敵チームは雪辱戦を希望しているので、第二回戦もあるかもしれない。







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