186. お誕生日は疲れ果てます(本編)
その日はクラヴィスではなかったが、ウィームのリーエンベルクでは、選択の魔物のお誕生日会が行われることになった。
しかしここで問題となるのは、本日がクラヴィスではなく、そもそも本来の選択の魔物の誕生日はイブメリアの後なのではと思わないでもなかったが、そんな事ではない。
お誕生日会の直前まで、その主賓である魔物が、ちびちびふわふわしながらリーエンベルク中を駆けずり回っていた事だ。
そして、そんなちびふわな魔物を捕まえる為に、ご主人様な人間もあちこちを駆け回り、すっかり疲労困憊していることだろう。
しゅばっと素早く駆け回る事も種としての強みであるちびふわに対し、人間は、残念ながらちびこい生き物を追いかけて長時間走り回る事には適応していない。
「……………ふはむ」
「………くそ、何だあの仕掛けは……」
「え、何で二人で息切らしてるの?アルテアに至っては、何で着崩してるのさ?!」
「アルテア、首はいるんでしたっけ?」
「言っておくが、諸悪の根源はグレアムだぞ。誰かの首を落としたいなら、そっちに行け」
「ん?グレアムですか?」
「………ふぁ。…………ぐぬぅ。誰か、………水を、水を下さい………」
ネアは、ぜいぜいと肩で息をしていたが、まだ整わない呼吸をどうにかするべく、お水を所望した。
もういい大人なので自分でやるべきなのだが、既に、立っている場所から動けないのだ。
「…………ネア様、こちらにお座り下さい」
「ふぇぐ…………ヒルドさん」
「ディノ様はどうされましたか?」
「ディノも、違う方向から、廊下の飾り棚の下に逃げ込むアルテアさんを探してくれていたのですが、…」
「え、待って!待って、………僕はまだ今の説明が呑み込めないから、ちょっと整理させて!」
「………アルテア様が?」
呆然としたノアとヒルドにじっと見詰められ、こちらも息を荒げていた魔物の三席は、とても暗い目をした。
なお、エーダリアとウィリアムは、まだ状況が掴めないらしくただ呆然としている。
「…………おい、説明が雑過ぎるぞ」
「………ふは。…………むぐ。い、命の水です!」
使い魔から苦情が届いたが、ネアは、それどころではなかった。
利己的な人間という生き物は、時として自分の命こそを何よりも優先させてしまうのだ。
説明よりはこちらを優先するのだと、ひりつくような呼吸を宥める為にぐびぐびと冷たい水を飲んでいたのだが、慌てて飲んだせいかけほりと咳き込んでしまった。
すぐに背中をさすってくれるヒルドは、ネアを椅子に座らせると、その前に膝を突くようにして見上げてくれている。
どうか立って下さいと言いたいのだが、ネアはまだ、欲張って飲んだ水がおかしなところに入ってしまい、胸が痛くなるくらいにげふげふしているのだ。
続けての命の危機である。
なお、ノアとエーダリア、そしてウィリアムは、途方に暮れたように視線を交わし合っている。
ますますアルテアが顔を顰めているが、ネアが告げた内容は事実は事実なので反論しようがないのかもしれない。
「ええと、お兄ちゃんに教えてくれるかな。アルテアは、………廊下の棚の下に潜り込んだの?」
「………アルテアさんは、ちびふわ姿で脱走したのです」
「…………あ、そう言う事か!………はぁ。良かったよ。とうとうアルテアまで変な扉を開いたかと思った」
「…………そんな訳ないだろうが」
「そっか、だからグレアムなんだね。………って、シルはもしかしてまだ探してるのかな。迎えに行って来ようか?」
「………ふぁ、………い。お願いします。いつもの、大浴場に向かう………げふん!………廊下の、本棟側から攻めた筈なのでふ」
「うん。ネアはそれ迄に、少し休んでおこうか」
「…………ふぁむ」
部屋を出てゆきながら頭をふわりと撫でてくれたノアに、ネアは、椅子の上にだらんと伸びた。
ここでやっと、ヒルドに立っていて下さいねと言う事が出来たが、まだ立ち上がる力はない。
ちびふわを捕まえて元に戻したのがこの会場の手前だったので、ネアは、ディノと合流するよりも、こちらに助けを求めに来ることにした。
一度こちらで呼吸を整えてからディノを呼びに行くつもりであったが、残念ながらその体力はもう残ってなさそうなので、伴侶の回収については義兄に託そう。
「………グレアムの仕掛けがあったのか」
「………ふぁい。アルテアさんは、今日は大浴場は開いてないのかと、壁の模様をべしんと叩き、その途端にちびふわになりました。なお今回は、尻尾の付け根に可愛いピンクのリボンが結ばれた、お祝いちびふわだったのですよ」
「やめろ………」
「お祝いされる者に、お祝いする者が触れれば元に戻るというカードがひらりと落ちましたので、お誕生日のお祝い的な仕掛けだったのでしょう。………しかし、ちびふわはそこから一目散に逃げ出したのです」
お祝い会場が静寂に包まれたのは、皆が、そんなお祝いちびふわを想像してしまったからだろう。
アルテアにもそれが分かったのか、ぎりりと音を立てそうなくらいに眉を寄せている。
そこに、かつりと音がして背後に誰かの気配を感じた。
振り返りたいが体がごわごわなネアは、むぐぐっと、視線だけで振り返る。
「…………ネア、シルを保護してきたよ」
「ご主人様………」
「ディノ!途中ではぐれてしまいましたが、この通り、なんとかアルテアさんは捕まえましたからね」
「良かった。アルテアは、窓から逃げてしまわなかったのだね………」
広間に戻ってきたノアは、無事に、よれよれになった魔物の王様を保護してくれたようだ。
実際にちびふわを発見して捕獲に至ったのはネアなので当然だが、幸い、ディノは普通に歩けており、呼吸もそこまで乱れてはいないように見える。
よれよれしているのは、一生懸命ちびふわを探してくれていたからだろう。
ネアが椅子に座らせられ、手に水の入ったグラスを持っている事に気付くと目を瞠り、ひらりと三つ編みを揺らしてこちらに来てくれた。
「大丈夫かい?」
「………ふぁい。ヒルドさんがお水と椅子を用意してくれましたので、やっと落ち着いたところでした。ちびふわな大きさの生き物を廊下に解き放つと、狩りの女王である私ですら体力の限界に近いところまで追い込まれてしまうのは、大きな誤算でした……」
長く話せば、それだけ呼吸を摩耗する。
まだ体に力が入らずに思わず語尾が弱まったネアに、ディノは、そっと頭を撫でてくれる。
先程のノアから引き続き、一人だけが椅子に腰掛けているこの構図だと、皆が頭を撫で易いようだ。
「あの後も、棚の下やカーテンの影に入ってしまったのかい?」
「そうなのですよ。恐らく、こちらの会場から甘いケーキの香りがしていたので、甘いもの大好きなちびふわが狂乱したのだと思われますが、大事にならなくて良かったです」
「やめろ………」
「うーん、まさか今日、アルテアが狂乱したと聞くことになるとは思いませんでしたね」
そう微笑んだウィリアムはじろりと睨まれているが、アルテアもやっと呼吸を整えたばかりであるので、あまり格好が付かない。
ネアは、ちびふわなアルテアの尻尾に付けられていたピンクのリボンが、人型の選択の魔物の後頭部付近の髪の毛の束をちび結びにして結ばれている事に気付いていたが、お誕生日だからまぁいいかなと気にしない事にした。
縁の部分が上品なフリルになっており、淡いピンク色の上等なリボンだ。
なかなか成人男性が付けない物ではあるが、リーエンベルクからの贈り物だと思って、いつもとは違う自分を楽しんで欲しい。
こちら側からアルテアを見てしまったノアがとても笑いそうになっているものの、義妹の意図を察した塩の魔物は、込み上げてくる笑いをぐっと堪える事に成功していた。
「…………その、怪我などはしなかっただろうか?この棟の窓の周囲には、他の棟よりも強固な魔術的な施錠がなされている。気付かずに触れてしまうと、小さな生き物の状態では危うかったかもしれない。どこかに怪我や不調などがあれば、魔物の薬は沢山あるので言ってくれ」
「わーお、善意で追い詰めたぞ………」
「エーダリア様、既に元の姿に戻られておりますので、そちらの質問は不要かと」
「そ、そうなのだな………!」
恥入ったように口元を片手で覆ったエーダリアに、ウィリアムがくすりと笑う。
アルテアはずっと暗い顔をしているが、それは怪我をしてしまったからではなく、己の運命と向き合っているのだろう。
髪の毛も少しくしゃりとしていて、衣服も乱れた魔物はとても色めかしい雰囲気だったが、凄艶な魔物の美貌のせいでどこか絵になってしまう。
「アルテア、着替えてきては?元々、こちらに来る服装ではなかったようですから」
「………ああ。………シルハーン、こいつにも、念の為に魔術洗浄をかけておけ。あらゆる物をひっくり返していたからな」
「なぬ。私は、最後に廊下の突き当たりの飾り棚の下に隠れたちびふわを捕獲する為に、絨毯の端っこをどかしただけですよ?なお、その絨毯はきちんと元に戻しておきました」
「戻したのは俺だろうが」
「甘いものが食べたくて荒れ狂うちびふわを捕らえるのは、たいへん難しい任務でした………」
「やめろ」
ここで、本日の主賓は一度退場になる。
くるりと後ろを向いた時に、ウィリアムやエーダリア、ヒルドの目が丸くなったので、選択の魔物のお祝いリボンに気付いてしまったのだろう。
ゼノーシュがいたらお労しいと言われてしまったかもしれないが、体力の回復に努めているご主人様は、決して立ち上がって教えてあげるのが面倒なのではなく、リーエンベルクからのお祝いであれば少しでも長く堪能するべきだと思っている。
「ネア、………それは、」
「エーダリア様、これもまた、リーエンベルクからの素敵なお祝いなのだと思います。ちびふわの時は、可愛いなと思いつつも捕まえるのに必死で堪能出来ませんでしたが、こうして見ると、贈り物を飾る上等なリボンのようでとても素敵ですね」
「アルテアが………」
「あら、ディノは気付いていなかったのです?」
「うん………」
このやり取りを聞き、選択の魔物は、漸く自らの身に起きた異変に気付いたようだ。
無言のまま、そっと首周りや髪の毛に触れると、綺麗にリボン結びされたちび結びのある後頭部に気付き、さっと毟り取る。
「おい………」
「む、なぜこちらを見るのでしょう。それはお祝いリボンなので、私が結んでしまった訳ではないのですよ?」
「気付いた時に言え!」
「むむ、………とてもよくお似合いでした?」
「なんでだよ」
よろよろと一時退場していったアルテアに、エーダリアがほっとしたように息を吐いた。
「ネア、あのような場合は教えてやった方がいいのではないか?」
「ですが、あのようなお祝い結びも、それはそれでありなのではと思わせてしまうのが、アルテアさんなのです」
「わーお。僕の妹は残酷だなぁ………」
「それにしても、………ケーキの香りでおかしくなったのか………」
「ええ。いっそもう、こちらに誘導する事も考えたのですが、我を忘れてお祝いのケーキやお料理をくしゃくしゃにしてしまったら、アルテアさんもきっと悲しい筈ですから」
なのでネアは、何としてもちびふわをこの中広間に入る前に捕まえねばならなかった。
また、うっかり窓や扉から外に逃してしまったら、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。
何しろ今回のちびふわ化は、時間制限などもあったかもしれないにせよ、お祝いする者が触れるまでは元の姿に戻れないのだ。
「それと、お前にも負担があるのであまり推奨はしないが、今回のような場合は、失せ物探しの結晶が使えたのではないか?」
「ぎゃ!」
「………うーん、それでアルテアが取り戻せるのも複雑だな………」
時刻は夕刻から夜へと変わる頃合いで、雪の降るウィームの冬はとても明るい。
特に、こんな雪の降る日の空は灰紫にけぶり、この土地に多い雪の系譜の植物達は、漸くの開花の時期を迎えて輝くような祝福の光を宿した花を咲かせる。
本日の中広間は、またしても、扉を開くとその装いを変えてくれた部屋で、そこかしこに、リーエンベルクの不思議な祝福が満ちている。
白と水色を基調としている内装は高価で繊細な陶器のようで、ころんとした薔薇の蕾と楽器をモチーフとした彫刻が美しい。
天井はなんと一面がモミの木の枝葉を敷き詰めたようになっていて、オーナメントがかけられきらきらと光っている。
イブメリアの広間に違いないのだが、ぐっと落ち着いた雰囲気がとても上品で、ネアはこの広間もまた大好きになってしまった。
「ふふ、教会の風景がぴったりですね」
「こちらの壁に併設して開いているのは、アルテアからネアへの贈り物なんだな」
「はい!せっかくイブメリアの教会の贈り物をいただいたので、こちらに風景として繋げさせていただきました。なお、後で向こう側の湖でスケートもするので、楽しみにしていて下さいね」
「ああ。エーダリアから、リーエンベルクにあるスケート靴を借りたよ。河川沿いで何かが起きた場合に備え、スケート靴も揃えてあるんだな」
そんな予定を控えているので、ネアは切に体力を復活させねばならず、ディノが作ってくれた魔物の体力回復薬を男前にぐびりと飲んだ。
「ぷは!これで行けます!」
「このリーエンベルクには、まだまだいろいろな仕掛けがあるのだな………」
「何となくですが、エーダリア様が被害に遭う事はないような気がしますね」
「ありゃ、そんな感じだね……」
「と言うか、アルテアさんが事故りやすいのでは………」
ネア達が、乾杯用ではない湖水メゾンの通常販売のシュプリを開けて待っていると、アルテアは割と早めに会場に戻ってきてくれた。
無事に主賓も揃い、ここで誕生日のお祝いとなる。
「では、お祝いを開始しましょうね。アルテアさん、お誕生日おめでとうございます!」
着替えたアルテアは、はっとするような美しさであった。
ピンクのリボンの印象を何とか払拭しようとしたのか、或いは、祝福ごとなので魔術的な変化があるものか。
艶々としているシルク地のスリーピースは、光の角度で浮かび上がるクラシカルな花柄が美しい。
薔薇を中心とした柄なのだが、羽模様も混ざっていてなんとも繊細だ。
雪のように白いシャツとクラヴァットを留めるのは、瞳と同じ色の宝石のブローチで、額縁のような装飾のバックルのベルトまでが一揃えの優美さであった。
ではではと、それぞれのグラスに乾杯用のシュプリが注がれ、ネア達は、それぞれのグラスを持ち上げてお祝いの意を示す。
「乾杯用のこのシュプリは、冬星と金貨のオーナメントのシュプリだよ」
「まぁ!何て綺麗な金色なのでしょう。僅かな赤みと深みのある金貨のような色のシュプリで、グラスの底から、しゅわしゅわと祝福の煌めきのような泡が立ち上っています!」
「料理を食べながら飲めるものを探したから、飲みやすい筈だよ」
「となると、ノアが出してくれた物なのですね?」
「うん。アルテアのお祝いってのも癪だけど、僕はシュプリはかなり集めてるし、ネア達には美味しいものを沢山飲んで欲しいからね」
「…………ウィームの、旧王朝時代のものか?」
「そうそう。今はない王家筋のメゾンのシュプリだよ。アルテアも知ってる?」
「…………残っていたのか」
ちょっぴり呆然としているアルテアは、このシュプリがお気に入りだったようだ。
特別に高価な物ではなかったが、そのせいで取っておかずに飲んでしまう者達が多く、メゾンが失われてから二度と飲めなくなってしまった事に打ちのめされた者も多かったのだとか。
「という事は、アルテアさんもなのですか?」
「メゾンが失われてから、俺の手元にあったのは二本だった。あっと言う間になくなったな」
「え、………こっち見ても、ここで開けちゃったからもうないけど?」
「これ限りかよ……」
「…………ふぁ。飲みやすくて香りのいいシュプリですね。イブメリアの季節の夜を思うようですが、今がまさにその季節なので、ぴったり美味しいシュプリなのですね」
「このシュプリを作っていたメゾンでは、リズモの祝福を得る為に、飾り木に金貨のオーナメントをかけていたらしいよ。リズモって群れで動くでしょ。財運のリズモを呼び寄せると、収穫のリズモも一緒に来るからさ」
「むむ、リズモ…………最近は狩っていませんね。また狩りに行かなければ……」
「ネア、リズモは珍しいんだからな?」
苦笑したウィリアムにそう言われ、ネアは、首を傾げた。
ネアからしてみると、探すまでには苦労する事も多いが、とは言え、狩りでは出会えない事はない獲物なのである。
そもそも、このリズモの祝福ありきで狩りの女王の座を守っているので、ネアは、リズモ達のいつまでもの繁栄を切に願っている。
「さて、お料理です!」
「やれやれだな………」
「アルテアさんの好きな、生牡蠣や海老もありますからね」
椅子とテーブルはあるが、お料理の取り分けはご自由にのビュッフェ形式なので、料理のテーブルには様々な料理が用意されていた。
イブメリアの祝祭を思わせるローストビーフや冬の美味しさのグラタンなどもあるが、選択の魔物の好みそうな海の幸の料理も多い。
ネアは、しゃっと駆け込むとぴりりと辛い謎めいた素敵ソースのかかった生牡蠣を美味しくつるりといただいた。
今年の初お目見えは、鶏肉に、キノコやレバーなどの詰め物をしてロール状にしてからパン粉をつけて揚げたものだろう。
一口大の輪切りにした物を、葡萄酢のソースでいただく。
「むぐ。………そして、こちらにあるのも牡蠣なのです?」
「揚げてあるのかな」
「揚げた物を、酢に通してあるようですよ。岩塩と果実のソースがありますので、こちらと一緒にどうぞ」
「エスカベーシュですね。ふぁ、お野菜の揚げた物も添えてあるので美味しそうです」
「えすか………」
「ヒルドさんが説明してくれたお料理の仕方の、私の生まれ育った世界版の名前なのですよ。こちらには、生海老のタルタルもあります!………は!大蒜を効かせて炒めた海老さんも………」
「ハイフク海老だな」
「その海老は、バンルから貰った物なのだ。仕事の関係で木箱いっぱい貰ったそうなのだが、一人では食べきれないと言ってな………」
ネアは、少しだけ遠い目をしたエーダリアに、バンルはまた失恋してしまったのかなと考える。
眼差しで問いかけるとエーダリアが頷いたので、まさかのイブメリア前の悲劇である。
一度、ノアが飲もうかと誘ったらしいが、立っている岸辺が正反対だと断られたらしい。
毎回振られてしまうバンルにとって、立ち去る事の方が多い塩の魔物は一緒に失恋話は出来ない相手らしい。
なお、エーダリアについて語るのはありのようだが、そちらは、ノアが銀狐話が出てしまいそうだと警戒している。
「アルテアさんの大好きな、ケーキもありますからね」
「………普通にこっちからだろ」
「燻製鮭とコンソメジュレのグラスを取りましたが、先程までは、ケーキを食べる為にあんなに暴れていたちびふわでしたのに……」
「いいか、もうやめろ」
「むぐ、ちび………ぎゃ!」
ネアはちびふわの荒ぶりように触れかけたせいで、使い魔にお皿の上の小さなカナッペを取られてしまい、じたばたした。
くしゅんと眉を下げて隣のウィリアムを見上げると、後で叱っておくからなと微笑んでくれたウィリアムが、同じ前菜をもう一度お皿に載せてくれた。
「………むぐ!美味しいれふ」
「可愛い………」
「ディノ、これは人参のムースにちょっぴり分厚く削ぎ落とした生ハムと、山羊のチーズを削ったものをかけてあるのですよ」
「………私は、こちらにしようかな…………」
「あらあら、やっぱり人参については一度考えてしまうのです?」
「ご主人様………」
「あれ、シルハーンは、人参が苦手でしたっけ?」
不思議そうに尋ねたウィリアムに、ネアは、くすりと微笑んで首を横に振った。
「最近、ハムハムさんの話をした日があったのですが、ちょうど、その日のお昼にハムハムさんを思わせる形のちび人参のグラッセが出たのです。その日以降、ディノは人参が出ると少しだけ躊躇うようになってしまったのですが、味は嫌いではないみたいです」
「ああ、………ヨシュアのペットか。畑の賢者の亜種なんだが、見た目は人参に近いからな……」
「人参なんて………」
そんなやり取りをしていると、アルテアとノアが何かを熱心に話し合っている姿があった。
ここで家族のように共にいる事も増えたが、いつもとはちょっと違う形なのでなぜかなと思っていると、こちらにやって来たヒルドが、葡萄畑の話だと教えてくれた。
「アルテア様と、どのような砂利を敷くのかで意見が合わないようですね」
「葡萄畑に敷く砂利なのです?」
「ええ。夜結晶というところまでは一致しているのですが、星空の系譜か、霧雨の系譜かの議論のようですね」
「葡萄畑にしては贅沢過ぎないか………?」
ネアにはどんな葡萄畑が正解なのか分からないが、ウィリアムやヒルドの様子を見ていると、かなり手をかけた葡萄を育てようとしているようだ。
「苗も注文済みだと聞いて、計画がそこ迄進んでいた事に驚きました」
「もう土地は購入してあるのだね………」
「食楽の祝福を定着させる為に、今年いっぱいは土地を休めているようですよ」
「凄い拘りようだな………」
「むぅ。葡萄酒用の葡萄なので、食べられないなんて………」
そう悲しく呟けば、こちらの会話が聞こえていたのか、アルテアが、パイには出来るがなと意地悪な微笑みを浮かべる。
思わず弾んでしまったネアに、ノアも、葡萄パイぐらいならいくらでもご馳走するよと約束してくれた。
「そして、皆さんがリンデルをしてくれているので、家族のような感じがしますね」
「ヒルドも持ってるのに、なかなかしてくれないんだよ」
「なぬ?!」
ここでネアは、いつの間にと目を瞠り、皆の視線を集めた森と湖のシーは薄く微笑んだ。
「エーダリア様とネイから、どうせなら揃いにしようという事でいただいたのですが、私の仕事は手先を使う事が多いですからね。ウィリアム様のように、鎖に通して首から下げている事が多いでしょうか」
「ヒルドさん、今度見せてくれますか?」
「おや、今でも構いませんよ。エーダリア様は魔術師なので指輪となりましたが、私の物はネイと同じようにリンデルとしました」
ヒルドは、快く襟元から取り出したリンデルを見せてくれた。
なぜか奥でエーダリアとノアがほっとしたような顔をしているので、指に嵌めていないのであまり好きじゃなかったかなと悩んでいたらしい。
そんな様子に気付いたヒルドが、仕舞い込んだりはしませんよと苦笑している。
「………ヒルドさんのリンデルは、森の木の枝と、ホーリートもあります。まぁ、この部分に湖と……リーエンベルクです!」
「ええ。店の主人から、円環の風景の意匠にすると土地に根付き易いと聞いたそうでして、私の資質と合わせたウィームの風景を選んでくれたようですよ」
「繊細な細工で、彫った図柄の奥が僅かに金色がかって見えるのですね。なんて素敵なのでしょう。教えてくれれば、私も参加したのですが………」
「ネアが浮気する………」
「なぬ……………」
「やめておけ。下手に妖精に指輪を贈ろうものなら、婚姻が成立するぞ」
ネアは、自分もこの贈り物に参加したかったと足踏みをしてしまったが、途端にディノが荒ぶり始めたばかりか、アルテアにまで頭の上にぼさりと手を載せられ目を瞬いた。
「私は、ネア様に羽の庇護と耳飾りをお贈りしていますからね。指輪と耳飾りに相当する贈り物を受け取ってしまうと、婚姻の約定になってしまいますから」
残念ですがと教えてくれたヒルドに、ネアは、そのような仕組みなのだなと頷いた。
こうして見ると、アルテアのリンデルは夜の資質もあるので深い濃紺や夜の色の光を放ち、ノアのリンデルは白銀に近い。
ウィリアムの物は、僅かに葡萄酒色の煌めきを帯びていた。
(お店で見た時と、こうして大広間の照明の下で見る時とでは光り方が違うのだわ………)
「で?………これは何だ?」
「アルテアさんへの、渾身のお誕生日のケーキですよ!頑張って作ったので、美味しく食べて下さいね」
「…………昨年で終わりにしろと言わなかったか?」
一通りの食事を終えたからか、選択の魔物はお誕生日ケーキが気になり始めたようだ。
じっとりとした目でこちらを見るので、ネアは、力作であるとふんすと胸を張った。
今年のネア作の誕生日ケーキは、昨年ゼノーシュだけではなく、アルテアにも好評であったピスタチオクリームを再採用し、木苺のムースと合わせている。
だがそれは壁面までで、上部には、ネア伝統の純白のクリームチーズを使ったクリームの花と、丸まりちびふわを作ってあった。
「白薔薇に囲まれたちびふわなのですよ。他のお花にも挑戦しようとしましたが、造形で挫折したので薔薇になりました。あちらに教会も見えているので、何だかちびふわの結婚式のようになりましたね………」
「やめろ………」
「アルテアが………」
ネアが貰った教会を景色に採用したのは満更でもない様子だったものの、憮然とした顔でフッキュウとなっているときの幸せちびふわのクリーム造形を見つめていたアルテアだが、ケーキを切り分けると、主賓が取るべき薔薇の花の多い部分には必然的にちびふわも載ってきてしまう。
これは、昨年は成功したのでと、同じ作戦に出た狡猾な人間の仕業であった。
「…………おっと、……自分で取るんですね」
「放っておけ」
「わーお。今年も自分で切り分けて、自分で持っていったぞ」
「ふふ。これからも仲良くして欲しい使い魔さんのケーキなので、いつも有難うございますの愛情をたっぷり込めてありますからね」
しかし、ネアがそう言えば、こちらを見た選択の魔物は暫し無言になってしまった。
「………節操なしめ」
「なぜ叱られたのだ………」
「ふぅ。僕も、愛情たっぷりなところを取れたかな!」
「まぁ、ノアももうケーキを食べてくれるのです?」
「うん。この後はスケートだからね」
「そう言えば、エーダリア様とスケートをするのは初めてです」
「念の為に言っておくが、私は滑れるからな?」
「なぬ………。もし苦手なら、氷の素晴らしい魔術を持つ私が、教えて差し上げますよ?」
「言っておくが、お前の魔術とやらは飲み物すら冷ませないからな?」
「そ、そんな事はありません!いざとなれば、アルテアさんをかちこちにだってしてしまうのですよ!」
「不可能だな」
ふっと笑った使い魔は、ちびふわクリームをぱくりと口に入れてしまったところであった。
お口に入るまでの一瞬で、使い魔とフォークの上のクリームちびふわという奇跡のコラボレーションが出来上がったのだが、ネアはしっかり己の記憶に焼き付けておくに留めて口には出さなかった。
「まぁ。そんな事を言っていると、知りませんからね?」
「出来るならやってみるか?何なら一晩空けてやるぞ?」
赤紫色の瞳を眇めて微笑んだ魔物は、人間を破滅に誘う邪なもののようなひやりとするような美しさであったが、今回ばかりは相手が悪かったと諦めて貰おう。
不敵に微笑んだ人間は、気分は大魔術師である。
「アルテアさんが、この冬の内に保冷庫に落ちますように」
「……………おい、やめろ」
「ここで願っておくと必ず叶いそうなので、私は使い魔さんを氷漬けに出来る偉大なる人間なのですよ?」
「いいか、すぐに撤回しろ。お前の運命周りでろくでもない願掛けをするな!」
「私は、偉大な氷の魔術を使えるのですよね?」
「………ったく。そういう事にしておいてやる。保冷庫はやめろ」
「はい!では、保冷庫のお願いは取り消しますね」
「わーお。誕生日に呪われるところだったぞ………」
ここで、ほんの少ししか参加出来ないと話していたグラスト達が顔を出してくれ、ゼノーシュはネアの作ったケーキをまた褒めてくれた。
勿論、リーエンベルクの料理人が作った梨のタルトも幸せそうにぱくぱくとお腹に入れてゆく。
どんな魔術の動きが記されているのか、教会の側でもどこからともなく雪が降り始めていた。
広間でのお祝いを終えたら、今年は、この向こう側の湖でスケートをするのだ。
美しい教会とその前に建てられた飾り木の煌めきに、ネアは、もう一度お食事に戻ってのハイフク海老を噛み締めた。
だが、スケートの前にまず、今年の贈り物を渡してしまわなければならない。
勿論、今年の贈り物だって、なかなかの自信作なのだ。
きっと喜んでくれるに違いない。




