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星夜とシナモンロール



さらさらと、夜が揺れる。


とろとろとぷんと深まる秋の夜の暗さは、雪の夜になると、白銀の霧のヴェールがかかったり、星帯のカーテンが揺れていたりするようになり、その夜は、けぶるような星帯がさらさらと夜を彩っていた。


秋の空には金色の粒だった星々は、冬夜では白銀や青白い炎のように煌めいていて、けれども祝祭を控えた森の住人達があちこちにこっそりオーナメントやリースをかけているので、とても賑やかだ。

ここでも木の枝にかけられたリースを見付け、ネアは、小さな宝物を見付けたような気持ちになった。


雪化粧した森はレース模様の縁取りのようで、星明かりすらもが祝祭の飾りに見える。

おとぎ話の森があれば、きっとこんな景色だろう。

そして、そんな森の奥にイブメリアの祝福を受けた砂糖がけのシナモンロールがあると聞けば、強欲な人間には買いに行くという選択肢しかない。




「ジャムを添えてくれるのですか?」

「炊きたてのジャムを添えて、雪の中で食べるのだそうだ。雪明かりのオルゴールを鳴らす日にだけ出される店で、前回店を開いたのは八年前だった」

「ぜ、絶対に買います。誰にも負けません!」

「…………やれやれ、反省はどうしたのでしょうね」

「ヒルド………」



ここでエーダリアが叱られてしまうのは、そんな森の屋台に行こうとして、リーエンベルクを抜け出す瞬間に捕獲されたからである。

ノアは一緒だったのだが、そちらは共犯者だ。

つい先程まで、リーエンベルクの会食堂でヒルドからお説教を受けていた二人である。



「そもそも、なぜこっそり出掛けようとしたのですか?ノアも一緒なので、きちんと許可を取ってからお出かけすれば、きっと許してくれたと思いますよ」

「………ヒルドは、今日は夕刻から明日の昼までが休みだったのだ。なので、部屋で休んでいて貰おうと思ったのだ……」


しゅんとしてそう話したエーダリアとノアがちらちら視線を交わしている姿に、ネアはぴんときた。

そしてこちらの人間は、挫かれた企みをいとも簡単に公表してしまう残酷さを持ち合わせていたのである。


「さては、お休みのヒルドさんに、二人でそのシナモンロールを買ってきてあげようとしたのですね?」

「ネア?!」

「ちょ、わ………!!」

「あらあら、やっぱりなのです」


あまりにも無慈悲な家族の仕打ちにわあっとなった二人の姿に、ヒルドが目を瞠っている。

唇の端を持ち上げて見上げたネアに、ふうっと息を吐くと、森と湖のシーは、困ったような優しい目で微笑んでくれた。


「………なぜそれを、最初に言わなかったんです?」

「………祝福の作法で、道が開いた以上は行かねばならないという事もあったからな。無理に同行させてお前に負担をかけたくなかったのもあって、………その、………私が勝手に思い付いただけで…」

「それを、僕がいいねって言ったんだよ。だってほら、昨日は執務室まで運んでくれたからね」

「ですが、私が同行するとなったら、隠していても意味がないのでは?」

「うん。それはそうなんだけど、………祝福を得る為に出かけるよってなった今更、その話をしても格好悪いかなって………」

「困った二人ですねぇ。言ってしまった方が、きっとヒルドさんだって嬉しいと思いますよ?」

「………そのようなものなのだろうか?」



どこか無防備な眼差しでおずおずと尋ねたエーダリアに、ネアは、さっとヒルドを視線で示してしまった。

勇気を出して顔を上げれば、困ったような微笑みのままのヒルドが、どれだけ優しい目をしているのか分かるだろう。



「………そうですね。少なくとも、あのように叱ったりはしなかったでしょう。それと、このような外出は、私も誘ってくれた方が嬉しいですよ」

「そうなのだな………」

「ありゃ………」

「ふふ、仲良し家族ですね」



微笑んで隣の義兄を見上げると、悪辣な義妹の仕打ちに、ノアは目元を染めてしまっている。

さくさくと雪を踏む足音に、頭上の枝の上ではちかちかとオーナメントが光っていた。



森の中には、イブメリアの香りや気配が、あちこちにあった。


ふくよかな緑の香りは清々しく、ぽこんと雪の上に落ちてきた松ぼっくりを、慌てて取り戻しにくる栗鼠妖精がいる。

薔薇の木のような角を持つ牡鹿が木立の奥を駆けてゆき、その角に咲く薔薇の花がはらりと散った。



(……………あ、飾り木がある)



こんな森の中なのに、誰かが飾り木を立てたようだ。

森の広場のような場所に聳える飾り木には、綺麗なシャボン玉めいた硝子のオーナメントが吊るされていて、森を通り抜けるお客などどうでもいいと言わんばかりに、きらきら光る飾りをじっと見上げている雪兎達がいる。


その中には狐も混ざっていたが、家族な銀狐よりは体が大きく、野生の獣という感じの精悍で美しい横顔であった。



「あちこちに、道しるべがあるのですね」

「……………キュ?!」

「むむ、そして、ムグリスなディノが目を覚ましてくれました」

「キュキュ?」

「ここは、静謐の湖と星煙の森というあわいなのだそうですよ。特別に道が開いたので、ノアが道案内してくれて、皆でシナモンロールを買いに来たところなのです」

「キュ……………」

「ムグリスディノは、湯たんぽすりすり事件でこてんと眠っていたので、道が閉まってしまう前にと出掛けてきてしまいました。目が覚めてくれたのなら、一緒にシナモンロールが食べられますね」

「……………ここは、祝福の道筋のようだね」



ぽふんと元の姿に戻った伴侶は、ぐっすり眠っていたせいか、まだどこか無防備な目をしている。

眠っていたらいきなり見知らぬ森の中に連れて来られているので驚いただろうが、この森の冷気ですぐに目を覚ますよというのもノアの助言だったのだ。



「シル、まだこちらに来たばかりだよ。ほら、あの入り口から入ってきたんだ」

「リーエンベルクからかい?」

「その、少しだけ外周かな。禁足地の森の入り口で、道に下りる為の術式を組んだんだ。ミカエルから、ここの祝福の道が開いているみたいだってアメリアが聞いてきて、リーエンベルクからは、僕達が最後のお客ってところかな」

「最初は、ゼノとグラストさんが出掛けたのですよ。ゼノは幸せいっぱいで帰ってきて、その後は、ゼベルさんと奥様に、何人かの騎士さんが騎士棟のお土産用にシナモンロールを買い出しに出掛けたのです」

「私が眠っていたことで、君を待たせてしまったのかい?」



少し不安そうに尋ねたディノに、ネアは、微笑んで首を振った。


この森への祝福の道が開いた事を知り、エーダリアとノアが出掛けてゆこうとして叱られた話と、なぜこっそり出掛けようとしたのかまでを話してやる。



「なので、私は、元々、最後の順番が来るまではお留守番役だったのです。エーダリア様とノアが帰ってきてから、ディノを起こして出掛けようと思っていました。ただ、エーダリア様達が叱られてしまった後はもうみんなで出掛けようという事になり、こっそりリーエンベルクから抜け出してきたのです」

「抜け出してしまったのかい?」

「その、………今回は、今のところダリルさんには内緒なので……………」



ネアがこそこそっとそれを伝えると、エーダリアが、びゃっと背筋を伸ばした。

ヒルドは落ち着いているが、ノアも少しそわそわしている。



「………今のところ?」


不安そうな声を上げたのは、エーダリアだ。

こっそり出てしまおうという言葉をそのまま信じているに違いなく、ネアは胸が痛くなった。

時として人間は、何かを楽しんでいる間はせめて、残酷な真実を知らないままの方がいいという事もある。


今回は、まさにその状況であった。


「事後報告にはなりますが、隠しておくつもりはありませんよ」

「ヒルド?!」

「黙っていても、すぐに気付かれるでしょう。特にあなたは、王都での振舞いは落ち着いておられますが、ダリルにはすぐに嘘がばれますからね」

「……………そうだな」

「ありゃ。ここで過ごす間は、それは知らせない方が良かったのに」

「お前も知っていたのだな……………」

「というより、言わない筈はないんだろうなぁって思ってたよ。ダリルが怒ったら僕が一緒に謝ってあげるからさ。元気出して」


そう笑ったノアに背中をばしんと叩かれ、エーダリアは儚く頷いている。



今回、ダリルに黙ってリーエンベルクを空けているのは、何もシナモンロール欲しさに、後先の事を考えずに飛び出してきてしまったからではない。

この森の奥にある湖へ続く祝福の道は、以前にネアがあわいの列車で辿ったのと同じ類の、望んで得られるようなものではない祝福や気付きを与えてくれる、とても貴重な道への誘いなのだ。


開いた道を知る者がそこに行くことを望んでいるのであれば、その機会は決して逃さない方がいい。

いつだって魔術は気紛れで、自らの意思で手放した祝福は、不要と見做されてしまい、その後寄り付かなくなることもある。


だからこそ、歌劇場で夜を過ごしているので邪魔はしないであげたいダリルには事後報告とし、ここは無理を通してでもと出掛ける事になったのだった。



「その場所を知らずにいる場合や、知っていてもあまり興味がない場合は、祝福を取り逃す事もないのですよね」

「そうなんだよね。例えば、最初はこの話を知らなかったヒルドや、眠っていたシルは、そのまま行かなくても何も失わない。ウィリアムみたいに、門が開いたんだよって聞いても、あまり興味を示さない場合もね。その代わりに、エーダリアみたいにずっと行きたいって思っていたのに我慢をすると、思いがけない縁を失くしたりするから要注意って訳」

「ふむふむ。であれば、エーダリア様は、絶対に来るべきだった場所なのでしょう」


因みに、ネア達が不在にしている間のリーエンベルクには、入れ違いになる形で休息を取りにきたウィリアムがいてくれる。

これ以上に頼もしいお留守番はいないので、安心して任せておけるという訳だ。


ネア達が出てきた時はゼノーシュ達とお喋りをしていたが、その後は、いつもの部屋でのんびりするらしい。


色々な事があり、ウィリアムの部屋をあらためてしっかり設けようという話が出始めており、その途端にウィリアムがいつも使う部屋が少し広くなったそうなので、リーエンベルクは、終焉の魔物が時折滞在することを歓迎しているようだ。


こんな資質なのにいいんだなと微笑んでいたウィリアムは、何だかとても嬉しそうであった。



(ウィリアムさんは、ノアが言うようにそこまで興味もなかったみたいだけれど、この土地との相性が良くないからと来れなかった部分もあるから、お土産を買ってゆこう)



そう考えてきりりとしたネアの隣では、ディノがノアにお礼を言っていた。


「ノアベルト、この子を連れてきてくれて有難う。こちらの防壁は、私が引き取るよ」

「ムグリスなら、すぐに目を覚ますってわかっていたからね。こんな風に、入れ替わりで大勢を受け入れる祝福の道に出会うのは久し振りだ。よほど、この階層の機嫌がいいんだと思わないかい?」

「…………良い事があったのか、私達以前に訪れた客を気に入ったのだろう」

「そうかもしれないね。何しろ、今夜奏でられるオルゴールは、ウィームとは深い縁がある物だからさ」



ここは、いつでも開いている森ではない。


ディートリンデが暮らす隔離地の森のように、常にどこかにはあるものの、至る道が現れるのは数年に一度きりで、その道を見付けられるかどうかは運次第なのだそうだ。


道が開いたよというお知らせは、オルゴールの演奏を知らせる張り紙や招待状では相応しい相手に届けられるようで、今回は、ミカエルが森の木に貼られていた張り紙を見たのが最初であった。


ネア達のように、知り合いにそのお知らせを共有するのは許されているが、見知らぬ相手に教えるのはマナー違反なのだとか。

やはり魔術的な土地である以上、訪問の為に必要な規則もあるのだろう。



(例えば、どれだけこの森が魅力的でも、雪の上に記された道を外れて森の奥に立ち入るのはいけないらしい…………)


その規則を知らなければ、ネアはうっかり狩りなどしてしまったかもしれず、事前の知識はとても大事なものなのだと思わずにはいられない。

諸注意は最初の張り紙に書いてあるので、お知らせをよく読む事が求められ、注意事項を蔑ろにすると帰れなくなってしまう。



「ディノ、ほら、また飾り木があります。この森の方々は、イブメリアをとても楽しみにしているのですね」

「この森は、絵から派生したあわいだとも、物語から派生したあわいだとも言われている。ずっと昔から祝祭の季節の森があって、氷上にはオルゴール台があるのだそうだ。私は初めて来たのだけれど、ノアベルトは以前にも来た事があるのではないかな」

「どっちから派生したのかは知らないけど、何度か来た事があるよ。一度目は、どんな魔術規則なのかなって思って来てみたし、その後はデートで来た事もあるかな。………そう言えば、あの子にも刺されたんだっけ…………」

「なぜいつも刺されてしまうのでしょうね……………」

「うーん。何でだろうな。恋の終わり方っていうなら、ウィリアム程に拗れた事はない筈なんだけど……」

「もしかすると、ノアは刺しやすいのでしょうか?」

「え、そんな親しみ易さはいらないなぁ……………」



大きな木にかけられた、白い陶器のランタンの中に燃える魔術の火を辿り歩いてゆけば、やがて、木々の覆いが開けて氷の張った湖の畔に出た。


すんっと空気の温度が下がり、雪の森から冬の夜空へと視界の多くを占める色相が変わる。

指先や耳がきんと冷えるが、思い描いていた凍った湖よりもずっと美しい。

分厚い氷の下には何か光源があるらしく、青い宝石を透かしたように湖底からぼうっと光る湖は、おとぎ話の劇場のようでもあった。


湖の真ん中には、絨毯を敷いたように小花の咲き乱れる場所があって、その上には、見事な夜結晶作りの台が置かれている。

そして、その台の上に設置されているのが、小さな食器棚くらいの大きさの雪明りのオルゴールであった。



「まぁ!湖の真ん中に、手巻きオルゴールが置かれています」

「…………ああ。話に聞いた通りのオルゴールだ」

「綺麗な白いオルゴールですね。冬の夜の色を映して、なんとも言えない美しい色に染まっていて、雪の祝福石のように見えます」

「ウィームの雪陶器製なんだよね。だからさ、このあわいがご機嫌なのは、迎えているのがリーエンベルクからのお客だからじゃないかなって思っているんだ」

「エーダリア様は、あのオルゴールがウィームの雪陶器だとご存知だったのですね」

「ああ。ディートリンデに教えて貰ったのだ。シナモンロールの話をしてくれたのはジッタで、その二人の話を聞いてから、ずっとどのような物だろうと考えていた」



冬の夜の色と、雪明かりのオルゴールの煌めきを瞳に映して微笑んだエーダリアに、ヒルドが記憶を辿るような表情になった。



「………もしかして、五年ほど前にその話をされましたか?」

「ああ。覚えていてくれたのか。森と湖の風景でもあるだろう?お前に知らせたら喜ぶだろうかと思い、それとなく話をしたのだが、残念ながら何年もの間ここへの道は開かなかったので、このシナモンロールを持ち帰る事は出来なかった」

「そうだったのですね……………。確かに、あの時のあなたは、いつかそこで売られているシナモンロールを私に食べさせたいと話しておられましたね」


その日の事を懐かしむように微笑んだヒルドに、エーダリアは、内心とても照れてしまっているのがよく分かる眼差しで、控えめに微笑みを返していた。



(もしかしたら、買ってきたシナモンロールをヒルドさんに届けるのは、エーダリア様の夢だったのかもしれない。大事なヒルドさんに、森と湖のあるあわいの中で売られている美味しいお菓子を、是非に届けたかったのだろう……………)



けれども今は、こうして皆で買いに来られているのだ。

それもこれも、全員でここを訪れても絶対に安全だと断言出来る、高位の魔物が同行者であったから。

こうして得られる運命の糸の種類によって、きっと、誰の運命も大きく変わるのだろう。

ネア達の運命は、無事にシナモンロールに繋がっていたようだ。


「私の伴侶がディノで、良かったです!」

「……………虐待」

「ディノが優しい魔物なので、ノア達は、私も連れて出る事が出来たのですよ。正直、この森がこんなに美しいとは思いませんでしたので、素敵なイブメリアの森を見る事が出来たのは、ディノが優しい伴侶だからなのでしょう」

「……………ネアが虐待する……………」

「解せぬ」


湖の周囲にはネア達以外のお客もいて、皆がオルゴールを鳴らす瞬間を今か今かと待っていたようだ。

やがて、オルゴールの横に立っていた狼頭の燕尾服の男性が優雅にお辞儀をし、きりきりとオルゴールの横にあるレバーを回し始める。


かちかち、がしょん。


独特な歯車とその他の部品の噛み合う音が響き、期待に胸を弾ませていると、突然、素晴らしい旋律が流れ始めた。



(……………わ!)


思っていた単一の音ではなく、澄んだオルゴールの音色が幾重にも重なり合う。

心が弾むような祝祭音楽は、ネアの生まれた世界のクリスマスの音楽にも似ていて、荘厳な雰囲気を持ちながらも心が弾むような楽しさがあるのだ。


それはまるで、空から舞い落ちる粉雪や花びらのようで。

きらきらと煌めく、街中のイブメリアの装飾のようでもある。

部屋や扉に飾られるリースの香りがして、深い深いおとぎの森の香りと、ホットワインの香りがある。


ネアは、ただ心と耳を傾けその演奏に聞き入っていた。

チン!と、最後の音が弾かれて静寂が戻れば、皆が一斉に拍手をする。

舞台役者のようにお辞儀をした狼頭の男性に、ネアは、ほんの少しだけ、幼い頃に劇場で見かけた燕尾服姿の男性の事を思い出した。



「……………素敵でした」

「ああ。音が弾かれるごとに、魔術の祝福の煌めきが弾けるとは思わなかった。まるで、ダイヤモンドダストのようだったな……………」

「なぬ……………」

「前に来た時は、こんなに沢山の星は生まれなかったんだよね。今夜は特別かなぁ」

「そうなのです?……………星………」

「音楽に合わせて祝福が生み出される様は、この上なく美しいものですね。良い物を見させて貰いました」

「……………音楽に合わせて」

「ご主人様……………」

「あ、……………もしかして、ネアには見えなかった?」

「……………ぎゅむ」


残念ながら、ネアの可動域では、オルゴールの生み出す祝福の煌めきは見えなかったようだ。

とは言え、演奏がどれだけ素晴らしかったのかはしっかり体感したし、オルゴールの音色を聞きに来た森狼の子供達がもふもふ弾む素敵な光景も堪能している。


(何より、古い神殿と白薔薇を象った不思議な形のオルゴールと、あの狼頭の男性の組み合わせが、まるで物語の絵本の場面のようで……………)


この世界の魔術にまだまだ馴染みの薄いネアには、そうして佇む姿さえ舞台のように見えたのだ。

すっかり楽しくなってしまい、むふんと唇の端を持ち上げると、御主人様には魔術の祝福が見えなかったらしいとおろおろしていた魔物もほっとしたようだ。



「よーし、じゃあ買いに行こうか」

「はい!」

「……………あんなに焼いてあるのだな」

「まぁ、あの棚はまさか、……………全部シナモンロールなのです?」

「そうみたいだね……………」

「騎士達が随分買ったと思っていたが、あの準備であれば問題なかったのか……………」


お店の方を見て呆然としているエーダリアに、ネアは、そう言えば騎士達は最初、一口ずつでもいいからみんなで分け合おうと話していたシナモンロールを、一人一つで購入してきていたのを思い出した。

まだまだ在庫は沢山あり、更にはどんどん焼いているとも話していたが、実際にそうだったらしい。


シナモンロールのお店は、ウィームの広場にあるような木造の屋台に近しいものだった。

だが、横長で、そこそこ大きめの屋台を三軒くらい繋げたような規模である。


焦げ茶色の壁に深緑の屋根にはモミの木のような枝葉のリースや松ぼっくりが飾られ、柱には、金色のリボンと赤いインスの実を飾ったリースもかけられている。

素朴だが古き良きリースという感じがする店構えなので、そんなお店の奥に、青い不思議な結晶石を積み上げて作られた大きなオーブンがあり、次々と焼き上がるシナモンロールが見える様子は圧巻であった。


幾つも並んだ棚に準備されたシナモンロールは、一体幾つあるのだろう。

だが、それだけの数が売れるという見込みなのもまた、驚きではないか。



「……………もしかして、一度に百個くらい焼けるのでしょうか?」

「焼いているのは、森熊と森の妖精達のようですね」

「白っぽい灰色のくまさんがいます!」

「それが森熊だよ。あの様子だと、高位の精霊だろう。この店の主人のようだね」


ネアの目を釘付けにしたのは、赤い帽子とエプロン姿の灰色熊であった。

大きな体できびきびと動き回り、シナモンロールの成型から、祝福の砂糖がけまで何でもこなしている。

ヒルドが森妖精だと教えてくれたご婦人達は、その全員が、理想の母親を選ぶならコンテストで優勝出来そうな温かな微笑みの持ち主で、店員さんを見ているだけでも心がほっこりしてしまい、ネアは、小さく心を弾ませてシナモンロールの購入列に並んだ。


青く深い色合いの夜の中で、星の煌めきが雪に落ちる。

時折流れ星も落ちてきており、どこから来たものか、家族でシナモンロールを買っていた子供達が嬉しそうに拾っていた。



「……………もしかすると、近くに村や町があるのかもしれませんね」

「そのようだね。あわいの住人達もいるようだ」

「そして、……………あちらでもさもさ跳ねているのは、真夜中の座の精霊さんなのでは……………」

「おや、ミカの兄弟かな」

「ダンスの時に、びょいんと踊っていた方ですよね……………」


そんな謎毛皮の精霊も、道を開かれた一人だったらしい。

ネアは、あれ、一人ではなくて一匹かなと首を傾げつつ、従者を連れたもさもさが去ってゆくのを見送る。

こちらには気付かないまま行ってしまったが、オルゴールの演奏の時には姿が見えなかったので、前の回のお客だったか、脇目も振らずにシナモンロールを買いに来たのかのどちらかだろう。



何人かのお客が、ぎょっとする程のシナモンロールを買ってゆくのを見ている内に、ネア達の番が来た。


まずはエーダリアが五個セットを購入し、ノアはその箱を五箱も買ってエーダリアを驚かせていた。

そして、その次のヒルドの番になると、なぜか奥にいた灰色熊の店主がのそのそと店頭に出てくるではないか。


こちらをじっと見つめる眼差しは、古き良きものという感じがした。



「おや、懐かしい気配だね。君は、森と湖の国の、月光の剣を持ち宝石を紡ぐ妖精かい?」

「……………ええ。私の一族をご存知なのですか?」

「もう随分前になるが、常連客にその一族の者がいたよ。祖国で酷い戦があったそうで、生き延びる為にと羽を落とされた家族だった。けれども、この店の別の常連と母親が再婚してねぇ、そりゃあ仲のいい家族になったって有名だったもんさ。私の大好きなお客だったんだ」

「……………羽を、」


ヒルドはそこで言葉を失ってしまい、はっとしたように戻ってきたノアが、灰色熊の店主から話を聞いてくれた。


幸いにもお店が広いので、販売列の一つを堰き止めてもそこまで邪魔にはならないが、とは言え店の端に移動してからじっくり話を聞かせて貰う。


すると、羽を落とされてこのあわいに迷い込んだのは、母親と男の子と女の子の二人の子供の家族で、その母親と再婚したのは、近くにある町で暮らす人間の教師の男性だったということが分かる。

残念ながら種族的な相性があり、二人の間に子供は出来なかったが、その父親は二人の子供を溺愛し、娘が結婚した際には湖畔で号泣していたという。



「ええと、その家族は、…………まだこっちに残ってるのかい?」

「あの母親と子供達は、それぞれに老衰で亡くなったよ。今は、孫家族の世代だね。あんた等は、あわいのお客だろう。用意された道の外へは出られないけれど、この向こうの町にはあの家族の子孫が元気に暮らしているよ」

「……………そう、でしたか。……………まさかこのようなところで、一族の生き残りの話を聞けるとは思いませんでした……………」

「道の外には出られないし、道の外への介入も、道が外側に伸びていない限りはやめておいた方がいい。でも、伝言や手紙を渡すくらいなら大丈夫だろう。店が終わったら、家に帰るついでにあの家族になにか伝えておいてやろうか?」

「……………では、伝言を託しても?……………彼等は私を知らないかもしれませんが、それでも、何かを残されているかもしれませんから」

「ああ、そうするといい。祝福の道が結んだ縁なんだ。先月もね、滅びた国の王と、その子孫の出会いがあったばかりでね。ここは、そんな奇跡が起こる場所なのさ」



そう笑った灰色熊の店主から、ヒルドは、このあわいに移り住んだ家族の名前を聞き、静かに目を閉じていた。


国を興した程の一族の規模なので、知らない者達である可能性もあったのだ。

それなのに何と、面識はないが名前は知っているという家族であったらしい。

弟の従者の妻子であるとヒルドが言えば、という事はあんたは王子様だったんだねぇと、灰色熊が微笑む。


「あの子は、よく話していたものだ。森の奥にある城にどれだけ美しく素晴らしい王と王妃がいたか。最初の伴侶が仕えた王子が、どれだけ優しい青年だったかも」

「……………そうでしたか」


片手で胸を押さえ、俯くようにしてその思いを抱き締めているヒルドには、エーダリアとノアが寄り添う。

そちらはヒルドより早く泣いてしまっているが、ネアも涙を堪えるのに必死であった。



(失ったと思っていた人達が、幸福に暮らした痕跡に出会えるのは、どれだけの喜びだろう……………)



ましてや、途切れた筈のヒルドの一族の血は、羽を失った以上はかつてと同じものではなくても、ここで脈々と受け継がれてゆくのだ。

あの日の決断がその血を残したのだと思えば、それが、ヒルドにとってどれだけの喜びなのかは言うまでもない。


声では判別がつかないが、話し方からすると女性なのかなという青い瞳の灰色熊の店主は、その母親とは、休みの日に一緒にレース編みをする友人でもあったらしい。

孫世代の家族は今でも家長が教師を続けており、七人の孫の内の一人は、ここで森砂糖の妖精の一族に王妃として迎え入れられたそうだ。



ヒルドが長い手紙を書く間、ネア達は、お食事用の小屋の窓から美しい湖を眺め、一緒に注文したホットワインと共に、シナモンロールをいただいた。


胸がいっぱいだったせいか、そのシナモンロールはこれまでに食べた物の中で一番美味しく感じられ、ネアは二度目の並び直しにより、更に在庫を増やしてしまったくらいだ。


「ふふ、お店で食べてゆかないと、この作り立てのほかほかジャムは添えて貰えないのですよ」

「気に入ったかい?」

「はい。私は苺で、エーダリア様とノアが林檎、ヒルドさんとディノは杏だったので、みんなで少しずつ交換も出来て大満足です!」


鍋からとろりとお皿に添えて貰うジャムは、甘さが控えめで優しい味がした。

シナモンロールの味に飽きたらそのジャムを添えていただくのだが、最後まで充分に美味しいシナモンロールのどこでジャムを挟むのかが、なかなかに贅沢な悩みとなる。



ヒルドが、白い封筒に入れた手紙を店主に預けにゆく頃には、湖上で、次のオルゴールの演奏が始まっていた。


ここにその家族が来てくれれば再会も叶ったのだが、祝福が手のひらの上に置いてくれた幸福だけを、大事に噛み締めるのがいいのだろう。

こうして手紙を届けられるだけでも僥倖なのだ。



さらさらと星帯の揺れる夜空を見上げ、美味しい甘さの残った口をもぐもぐする。

淡い星空のような煌めきを宿したヒルドの羽が綺麗で、ネアは、大事な家族がやっと得る事が出来た吉報に心からの微笑みを浮かべたのであった。
















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[一言] この回は泣けました。ヒルドさん、良かったね!
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