にゃわものとにゃわまもの
「にゃわ…………」
ネアはその日、思わぬ人物との再会を思わぬ形で迎えていた。
そこ迄は問題のない範囲であったのだが、そこに思わぬ人が現れてしまい、絶賛、これはもはや呪いかなという状況下である。
これはまさか、使い魔との会話でにゃわなる趣味を理解出来ない的な発言をしてしまった事による、にゃわなるものからの呪いだろうか。
だらだらと冷や汗をかきながら、ネアはお隣の魔物をじっと見上げる。
「にゃわしではありません…………」
「おや、違うのかな。素質はありそうだけれど」
そんな事をさらりと告げて朗らかに笑ったのは、またしても休日にウィームに来てしまったオフェトリウスだ。
以前はヴェルリアに戻り給えと言っていたところだが、最近は、あれこれお世話になったり、その資質の有用性を家族が認めつつある事から、ネアも、この魔物の引退後のウィーム移住については前向きになってきていた。
だが、今日ばかりは、絶対会いたくなかった人であるどころか、寧ろ、今すぐ王都に戻っていただきたい。
本日のオフェトリウスは、淡い金色の髪の毛に青い瞳の見目麗しい王子様的な美貌の魔物である。
今日は擬態はしていないのかなと思えば、髪の色合いが絶妙に変えられており、こうして見ると淡い金色の髪なのだが、艶々とした人外者らしい煌めきが抑えられているので砂色にも見えるような色でもあった。
柔らかな水灰色のカシミヤのような毛織りのコートはトレンチ仕立てなので、この魔物はコートはトレンチ型が好きなのだろう。
確かに、貴族的で柔和な立ち振る舞いにはよく似合う。
そして、魔物だがこの国の王都で騎士団長も務めているその人物は、ネアの儚い弁論に対し、先程の恐ろしい言葉を返したのだった。
「なぬ………。ししょ、………」
「さすがだわ。微妙な具合の知り合いと、こんな所でこんな遭遇をする素質も、なかなかのものよねぇ………」
「私は、師匠と、お久し振りの世間話をしていただけなのですよ。なので、こうして持っているにゃわ……縄には、深い意味などないのです」
「キュ………」
あわあわと主張したネアに、オフェトリウスはにっこり微笑んで首を傾げる。
その仕草にはやはり、魔物らしい印象が滲んでいた。
であれば、ウィームの訪問は王都からの派遣ではなく私用なのだろう。
そう考えると、うっかりウィームの歌乞いがこんな売り場にいたと報告されずに済む事に少しだけ安心する。
とは言え、個人的な誤解も是非に解いておかねばなるまい。
「それと、ここで彼と一緒にいる姿は、あまり目撃されない方がいいのではないかな」
「…………こちらの事情をご存知なのですか?」
だが、再び弁明に入ろうとしたネアは、そんなオフェトリウスの一言にひやりと背筋を冷やした。
それは秘密なのだ。
ウィームの中でも、ほんの一握りの者達しか知らない筈のことである。
「これでも僕は、自分の暮らしを守る事には熱心でね。のらりくらりと騎士の仕事だけをしている訳ではないからね」
「騎士団長さんなのでは………」
「あらやだ、騎士団長なの。かなり歪んだ嗜好を持っていそうだけれど、そんな立場だとそれは歪むかもしれないわね」
「はは、何か分析されているみたいだな」
(なぜ私は、偶然師匠を見付けてこっそり挨拶に来たところで、この人に出会ってしまったのだろう………)
アルビクロム在住の梱包妖精であるグレーティアは、仕事で使う道具類の買い付けという名目で、本日はウィームを訪れていた。
実際には、エーダリアやダリルとウェルバの処遇や存在の秘匿などを話し合う為に来ているのだが、そのダーダムウェルの魔術師があれこれと特別過ぎてしまうので、実は三回目となる今回の会談が行われたのだった。
ウェルバの存在は、王都でも一部の者達には精査した情報を共有しているが、世界の均衡の為に伏せておかねばならない要素も多い。
また、かつてのラエタの魔術構成と今のヴェルクレアの魔術の理解が異なる部分もあり、調整を重ねて結んだ契約に不備が見付かると、今回のような、追加の再調整の議論が必要となる。
厳密には死者となるウェルバ本人は、公的な契約を結ぶ事は出来ない。
その為、家族であるグレーティアが承認に必要で、尚且つ、あまりにも危うい議論もあるのでと、より万全な防壁を整えられるウィームで行うのは当然と言えよう。
そちらは無事に終了したと聞いた際に、グレーティアがリノアールの専門店に立ち寄るらしいと教えてくれたのは、ダリルであった。
(それはつまり、こっそり会ってもいいのだという意味だと思って駆け付けたのだけれど、まさか、オフェトリウスさんをグレーティアさんに引き合わせる為の舞台設定だったのだろうか………)
何しろ相手はダリルなので、ネアは裏を読まずにはいられない。
オフェトリウスの立場を考えれば、偶然、王都から遠く離れたウィームのこの場に居合わせる事はあまりに不自然だ。
高位の魔物なので、その行動を追いきれなかったのかもしれないが、ネアですら、グレーティアに接触している事が問題にならないよう、伴侶な魔物をムグリスにして胸元に入れてきた配慮具合なのに、まさかの王都の騎士団長がここに現れてしまうのは絶対におかしい。
「さては、計画的な犯行ですね?!」
「あれ、君にも何か誤解されているのかな」
「…………ふうん。そういう事かしらね。あの書架妖精ならやりそうだわ。でも、本当に偶然なら、こちらの趣味があるのかしら。弟子、縛ってみる?」
「にゃ!にゃわりません?!」
「あ、僕はどちらかと言うと逆の方がいいかな。縛られる方が好みだと、流石にこの仕事には向いていないと言わざるを得ないからね」
「あら、うちには騎士の客もいるわよ?」
「一代限りの騎士や、階級によってはいるだろうね。けれども、大勢の騎士達を統括し敵を捕縛殲滅する僕の役割や資質は、被虐的な嗜好との相性は良くないだろう。派生してから今迄の長らくをそのように勤める事になるからには、やはり得意分野でないと」
「あらやだ、これは真正だわ。弟子、この男には隙を見せちゃ駄目よ」
声を潜め、けれどもオフェトリウスにも聞こえる程度の音量のままそう告げたグレーティアに、ネアは、目をしぱしぱさせ、この会話に混ざるにはあまりにも普通の乙女であると懸命に伝えた。
胸元のムグリスディノも、とても専門的な会話だと察したのか、三つ編みをへなへなにして困惑を示している。
とは言え、元はと言えば、こちらの伴侶の為に学びに出て結ばれた縁なのだ。
「あくまでも、嗜好についてだよ。深く掘り下げないでくれると嬉しいな」
「いやねぇ。終焉より闇が深そうだわ」
「おや、彼と知り合いなのか。因みに僕は、ウィリアムよりは付き合いやすいと自負しているのだけれど」
「ああ、やっぱりあなたは魔物なのね」
「おっと、探りを入れられていたのか。うっかり引っかかってしまった」
「わざとらしいわ。隠す気もなかったでしょうに」
「…………ええと、会話が弾んでいるようなので、私はそろそろ失礼しますね」
「あ、それならちょっと待って。テイラムへのお土産は、今持っている縄のどっちがいいかしら?」
「は!………にゃわ………」
はっと息を呑み、ネアは、この状況に陥る前の事を思い出した。
こそこそっとグレーティアに声をかけて互いの近況報告などをした後にそんな相談をされたからこそ、ネアは、二本の専門的な用途の縄を手にしているのだ。
そして、よりにもよってその時に、オフェトリウスに声をかけられてしまったのである。
「あの子なら、くすんだ緑色かしらね」
「で、では、比較の為だけに縄を手にしていた一般人は、お買い上げになるという縄を師匠にお渡ししますね。もう片方はすぐさま棚に戻します」
「あら、隠さなくても、どうせこの男は色々経験済みだと思うわよ?」
「私は、私の評判を守りたいのだ………」
「女の子には色々な秘密があるだろう。僕は、趣味の多様さについては理解があると思うよ」
くすりと微笑んだオフェトリウスに、ネアは、ぶんぶんと首を横に振った。
さも受け入れるよ的な王子様然とした微笑みを浮かべられても、そもそもがネアの好みではないのだ。
勘違いをされてはとても困る。
だがなぜか、オフェトリウスはこんな品物があるんだねと、ネアが棚に戻そうとした縄を取り上げるではないか。
どうかもう、この売り場のどんな物にも興味を示さないで欲しいし、興味があるのならネアが立ち去ってからにして欲しい。
「ねぇ、弟子。ところで、後ろのもう一人は誰かしら?」
「なぬ………?」
お髭の素敵な紳士で淑女なグレーティアが、小粋な仕草でひょいと指差した背後を振り返り、ネアは心から絶望した。
恐ろしいことに、そこに立っていたのは擬態をしていても造作を変えていないので誰なのかが明白過ぎる、つい最近お会いしたばかりの個性的な魔物だ。
「ごしゅ………」
「なぜ、ニエークさんがここにいるのでしょう………」
「…………やだ。縛られたい系だわ。お相手にどう?」
「ん?何で僕を見て言うのかな………」
ネアは、これは大変な集まりになってしまったと慄き、慌てて逃げ出そうとしたところで、唯一の退出路にニエークが立ってしまっている事実に気付いてしまった。
慌てて周囲を見回し、誰が一番信頼に足りるのかを考え、グレーティアの背後にしゃっと隠れる。
「ぐるる……!」
「あら、可愛いわよ弟子。レインカルみたい」
「ぐる?!」
「ニエーク、すまないがこちらは取り込んでいるんだ。後からでもいいかな?」
「なぜ、お前がごし………ウィームの愛し子の隣にいるのだ。今はもう、ウィームからは手を引いた筈だろう。ここから立ち去り、さっさとヴェルリアに帰るといい」
「先程から、君が言いかけてはやめている呼び名が気になるなぁ………」
「………何のことだ」
「…………ねぇ、弟子。あなた、やっぱり才能あるわよ?」
「かいなどありません………」
「キュ………」
ネアは、悲しい思いで周囲を見回し、眉を下げた。
ムグリスな伴侶がふかふかの体を押し付けて慰めてくれるが、この売り場に長居しているだけでも色々な物を失っているような気がする。
そして、一刻も早く撤退しなければ、より多くのものを失うかもしれなかった。
「し、師匠、私はご挨拶に来ただけなので、そろそろ失礼しますね」
「ええ、縄選びに付き合ってくれて有難う。来てくれて嬉しかったわ。………で、帰り道になる通路の真ん中にあれが立ってるけど、いいの?」
「………ぎゃふ」
「ネアは、ニエークが苦手なのか?」
「苦手なものか。このお方は、謙虚であられるだけだ」
「何で君が答えるのかは謎だけれど、ネアの反応の理由は、何となく分かってきたような気がするな。………彼は、いざという時の為に、僕達の顔合わせをしておきたかっただけだろう。それが済んだ以上は、僕も失礼して良さそうだね。ネア、一緒にこの売り場を出ようか」
「ま、そんなところでしょうね。私も、いざという時の為にそちらにも話が通る相手がいるなら少し安心だわ。………弟子、これと一緒に離脱した方が良さそうよ?」
「ふぁい………」
(そうか、オフェトリウスさんをここに案内したのは、やはりダリルさんなのだわ………)
ダリルは、最初からオフェトリウスのウィーム移住に賛成していた一人なので、やはりオフェトリウスがウィーム領主をしていた頃からの付き合いがあるのだろう。
知らせるという行為そのものが厳しく制限されるウェルバの存在については、実は、ヴェンツェル達にも詳細までは伝えられていない。
幾つかの特殊な救済措置を持つネア達とは違い、彼等にもしもの時があった場合、そこにいるのが復活薬を作り上げた魔術師だと知っている事は、あまりにも強い毒になるだろう。
下手をすれば、エーダリア達とばかりではなく、ウィームとの関係が悪化する可能性すらある。
なので、その事実については終焉の魔物や統括である選択の魔物が情報の管理をし、エーダリア達に沈黙を誓わせるという体で、負担のない緘口令を敷いていた。
(でも、王都にも事情に通じている人がいた方がいいのも確かなのだわ)
そうして選ばれたのがオフェトリウスなのも、納得の人選である。
何となくだが、この魔物は復活薬などには価値を見出さない気がするし、持ち得る資質から、沈黙の誓いを立てればしっかり守るだろう。
何しろ、限りなく中央にいながらも、精神的にはウィーム寄りという貴重な人材だ。
しかし、ネア達には理解出来るその背景は、勿論、ニエークにとっては知る由もない事である。
金色の虹彩模様のある水色の瞳を細めた雪の魔物は、王都からの客人への不信感を隠そうともしなかった。
「オフェトリウス、なぜ君が、我が物顔でご主人様と共にいるのだ」
「あらやだ。ご主人様って言っちゃったわよ」
「かいなどありません………」
「………噂には聞いていたけれど、凄いな。ニエークまで会員なのか」
「ぎゃ!なぜ知っているのだ?!」
「僕も、こちらには古い友人がいるからね。………さて、ニエーク、その場所からどいてくれるかな。僕達はこの売り場から出たいのだけれど、何しろこのような品物の売り場だからね、残念ながら、君が立っている通路しか出口がないんだ」
「キュ………」
ディノがとても助けたそうにこちらを見ていてくれたが、如何せん、グレーティアとの接触をあまり公にしないように擬態した状態である。
ネアは、今すぐ伴侶に助けて欲しい思いを何とか堪えてもう少しの我慢をお願いし、なぜか今度は、ふるふるしながらこちらを見ているニエークからそっと視線を外した。
もはや究極の選択ではあるが、ご主人様と呼びながら足下に滑り込んできた事のある魔物よりは、もう弱みを握られたので今更どうしようもない剣の魔物の方が心に優しい気がする。
本来ならグレーティア一択なのだが、どうやらこちらの妖精は、まだお買い物が終わっていないようだ。
(と言うか、…………グレーティアさんとガレンとの、特定死者の国内在住における特例契約が結ばれる迄はと、こうして人目を忍んで会いに来ているけれど、………この売り場に入る姿を見られたら、それ以前の問題として私の社会的な評判が死ぬのでは………?)
おまけにネアは、唐突にそんな事に気付いてしまった。
売っている物が刺激的過ぎるのでと、専門店の立ち並ぶ階の奥にひっそり設けられた販売区画だが、だからこそ、ここに入るのはそちらの嗜好の商品を買い求めるお客様でしかない。
さっとここに入れば、周囲からは目隠しされた売り場なので安心してグレーティアとお喋り出来ると思っていたネアだが、そもそも、出入りを見られるだけでも危険なので安心してはいけなかったのだ。
(普通のお客さんに、ここから出てきた瞬間を見られるのは耐え難いし、かといってオフェトリウスさんと一緒に出るのもどうなのだろう…………)
「………し、市販の転移門で帰りまふ」
「ネア、販売店からの転移の退出は認められていない筈だよ?」
くすりと笑ってそう教えてくれたオフェトリウスに、ネアは、そんな当たり前の事すら失念していた自分の焦り具合にがくりと肩を落とす。
「………ぐ、ぐぬぬ。そうでした。であれば、オフェトリウスさんには素早くここから出ていただき、私は、その影からこそこそと出てゆきますね。なお、通路から出る時に一般客の方に姿を見られないよう、細心の注意を払う必要があります!」
「紳士たる者、いつだってご婦人の盾とならなければだね。勿論構わないけれど、そうこうしている内に、またお客が来たようだ」
「な、なぜなのだ。なぜこの売り場は大人気なのだ?!」
しかし、幸いにもと言うべきか、売り場に入った途端に困惑の眼差しをしているので幸いではないと見做すべきかは分からないが、そこにやって来たのは、ニエークの世話役であるトナカイの魔物のオルガであった。
売り場の専門的さの度が過ぎるという動揺を一瞬見せたが、すぐにきりりとして、こちらにお辞儀をしてくれると、相変わらず通路を塞いでいたニエークの首根っこをむんずと掴む。
(おや、以前よりも遠慮がなくなったような気がする………)
仲良しになったのか、あの後も引き続きニエークが世話をかけたのかどちらかなのだが、オルガの表情を見ていると後者なのかもしれない。
「ニエーク、帰ろう。また迷惑をかければ、叱られるだけでは済まなくなるぞ」
「迷惑などはかけていない。寧ろ、ご………ウィームの愛し子を困らせているのは、オフェトリウスだろう」
「………そうなのか?」
かなりのお久し振りなトナカイの魔物にそう尋ねられ、ネアはそっと首を横に振った。
「何も起きていないので、後は解散するばかりなのですよ。私はたまたま知り合いに挨拶に来ただけの通りすがりの者ですし、ニエークさんにそこをどいていただければ、後はここから立ち去るだけなのです」
「…………たまたま」
不思議そうに呟いたオルガが何かをじっと見るので、おやっと思ったネアは、その視線を辿って瞠目した。
一緒にこちらを出ようと言う話をしていたせいか、いつの間にかオフェトリウスが、エスコートでもするかのようにネアの手を取っていたのだ。
おまけにもう片方の手には、先ほど面白がって手にした専門的な縄を束ねた商品が持たれたままである。
一応胸元に伴侶もいるのだが、このままでは、オフェトリウスとこんな専門的な売り場に来た不埒な人間のようではないか。
オルガはとても空気を読んでくれそうな人材だが、やはり、ここで口を封じて沼に捨ててくるべきかもしれない。
「…………安心してくれ。この趣味については公言しない」
「ち、違います!!そう誤解されては困るからこそ、私は追い詰められているのですよ!」
「そうなのか?………では、もしかすると………ニエークが君達をここに連れてきてしまったのか?」
「オルガ、僕はそんなことはしない!」
「もしニエークが悪さをしたのなら、きちんと謝らせる」
「…………ニエークさんに連れて来られたのではありません。…………その、………自分の足で来ました」
「そ、そうか。では、…………人間には、多様な趣味があっていいと思う」
「また同じところに戻ってきた!知り合いに挨拶に来ただけなのですよ?!」
「キュ………」
ままならない現実に怒り狂った人側は、まずはオフェトリウスに縄を置かせ、ニエークには、ここから立ち去る為の退路の明け渡しを要求した。
通路の端に寄るように鋭く命じられた雪の魔物は、目元を染めてたいそう恥入り、なぜか嬉しそうにしている。
そんな系譜の王をオルガが悲しげに見ているが、断じてこちらは関係者ではないので、同じテーブルで考えないで欲しい。
「そして、もう通路が開けたので、手は離してくれてもいいのですよ?」
「騎士として、念の為にね。まだどんな危険があるのか分からないだろう」
おかしな趣味など持たない善良な乙女の申し出に、オフェトリウスがそう微笑んだ時の事だった。
「…………成る程、それが理由か。……オフェトリウス、彼女は私が責任を持ってリーエンベルクに連れて帰る。君は一人で店を出給え」
ひやりとするような冷たい声が響き、ネアは目を瞬いた。
つい今し方まで目元を染めていたとは思えない厳しい声音は、高位の魔物らしい美しさに満ちている。
「ニエーク?」
「君の個人的な計画の為に、彼女を利用しない事だ。ウィームを終の住処にしたいと言うのであれば、中央に属する君が不用意に彼女との距離を狭めて誇示するのではなく、もっと別のやり方で住民達の理解を得るべきだろう」
「それはまるで、僕が、彼女を利用しているような言い方だね。仲良くしたいという下心はあるけれど、外部に向けての緩衝材にするつもりなどはない。何しろ彼女は、僕が次に仕えたいと思っている主人だからね」
「僕のご主人様なのだが?」
「こらっ!ニエーク!」
「キュキュ!!」
「一瞬、ひやりとした空気になりかけましたが、またしてもそちらの方向に転がり落ちました………」
「こんなところで馬鹿な男達ねぇ。もう、全員縛っちゃおうかしら……」
「キュ?!」
(でも、意外だったな…………)
オフェトリウスと喧々としている雪の魔物の姿を見ながら、ネアは、少しだけニエークへの評価をあらためていた。
今迄は特殊な言動の印象が強過ぎたが、やはり、長年ウィームを守ってきた高位の魔物でもある。
ウィームの側に立つ魔物としての立場からオフェトリウスへの苦言を呈した様子は、前提にあまりオフェトリウスが好きではなさそうな事情が垣間見えたとしても、ちょっぴり頼もしい人外者という感じがした。
(オフェトリウスさんが王都の騎士である事を考慮して、このような親密な関係の相手としか訪れないようなお店から一緒に出てくる様子を見られないようにと気を遣ってくれたのだわ……………)
その点については、確かにニエークの言う通りだ。
グレーティアは、よりそつなく対応出来る相手という意味でオフェトリウスを選んでくれたのだろうし、ネアも一瞬はオフェトリウスの方がいいと思ってしまったが、ウィームにはここにいる水灰色のコートの男性が王都の騎士団長だと気付いてしまうような目の持ち主もいるだろう。
ここはやはり、勇気を出して一人で店を出た方が良さそうな気がする。
「そもそも君は、あの時の法案の成立にも否定的だったな。この土地を守りたいと言うのならば、ああも非協力的だったのはどういうことなのだろう」
「人間の側に立った君の主張を、僕の領域に持ち込まないで欲しいね。僕がこの地を守護しているのは、人間達の取り決めを赤子のように甘やかす為ではない。系譜の王として最も相応しい土地に城を建て、そのような土地だからこその守護を与えているまでだ」
だが、ネアが通り抜けたい通路では、ニエークとオフェトリウスによる、過去の因縁を巡る戦いが勃発していた。
先程開かれたばかりの通路がまた塞がれる形になり、ネアはぎりぎりと眉を寄せる。
「おのれ…………」
「キュ」
「はい、弟子。ご自由にお試し下さいって用意されている、質感を確認する用の縄があるわよ」
この時なぜ、グレーティアはネアにそんな物を渡してくれたのだろう。
また、なぜその売り場には、お試し用の縄などが置かれていたのだろう。
だが、にっこり微笑んでそこを通してくれませんかの眼差しを向けていたのに気付いて貰えなかった人間は、とてもむしゃくしゃしていた。
お昼時の客足が途切れる時間帯の内に店を出たかったし、うっかりリノアールが午後の賑わいに入ってからここから出る羽目になったら許さないという思いもあった。
要するにネアは、とても焦っていたのである。
「……………は!お店を出ています」
「…………キュ」
「ディノ?」
「キュ…………」
ふと我に返ると、ネアは、リノアールの専門店が並ぶ通路をすたすたと歩いていた。
周囲には誰もおらず、どうやら無事にあの場を切り抜けられたらしい。
周囲にもそこまでお客さんの姿はなく、これなら誰かに見咎められる事もないだろうと胸を撫で下ろしていたネアは、指先に、にゃわめいたものをしっかりと握ったような不思議な跡が残っている事に気付いた。
「…………にゃわ」
「キュ」
「にゃわ、…………わしていませんよね?」
「キュ………」
「こ、………これは、気付かなかった事にしましょう!あの場には師匠もいましたし、もし、記憶の外側で何らかの事故が起きていたとしても、記憶がないので私の関与するものではありません」
「キュ…………」
「…………ですが、王都の騎士団長さんを縛ってしまっていたら、後で責任問題になったりします?」
「キュ………」
考えている内に不安になってきたネアは、カードから擬態上手で現場調整に長けているに違いない使い魔を呼び出し、あの売り場で何が起きているのかを確かめて貰った。
詳細は語られなかったが、憮然とした顔で戻ってきたアルテア曰く、とても幸せそうなニエークととても困惑しているオフェトリウスがいたそうで、余分になりかねない魔物をまとめて縛り上げてはいけないと、厳しく叱られてしまう。
とても悲しい気持ちになったので、帰り道は広場の屋台でホットワインなどをいただくしかなさそうだ。
出張費用としてアルテアにもホットワインを強請られたが、その支払いは妥当なところなので、人型に戻ったディノと三人で美味しいホットワインを飲んで帰ろうと思う。
なお、グレーティアからの伝言をアルテアが届けてくれ、やはり素晴らしい才能だと褒められたが、栞の魔物の祝福を持っているだけの無垢なる乙女にはそちらの嗜好はないので、今後は、にゃわなる活動をしてゆくつもりはないのだった。




