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29. 初回は契約に含まれません(本編)




デュノル司教の聖衣姿は、例えようもなく美しかった。


柔らかな濃紺の衣を僅かに色合いを変えて複雑に重ね、昨日までの装いよりも教会の聖職者らしい雰囲気がある。


しゃりりと揺れるのは、菫石を彫り出したような装飾品で、怜悧な眼差しからその美貌は夜の光のよう。

ふわりと羽織った足元までのケープはその内側に素晴らしい織り模様があり、魔術の風に膨らめばその艶やかさで目を惹いた。


階位としてはリシャード枢機卿の方が上なのだが、デュノル司教には、神の代理人めいた独特の気品がある。



手に持った聖書は、リシャード枢機卿が宝石を削ったものならば、デュノル司教のものは咲きこぼれる花で出来ているようだ。

聖書の形をした透明な容れ物の中で、次々と花々が咲き乱れ、儚い光の影となってはらはらと舞い落ち、崩れた。


でもそれは、水の揺らぎのように、風のざわめきのように、内から内からと入れ替わり続けているようにも見え、レイノは術式陣の真ん中から孤独な円形の外側に立つその姿を眺める。



(………………綺麗……………)




デュノル司教が指先で開いた聖書を辿れば、水晶で作られたチェンバロのような不思議で美しい音が響いた。


ベルの音、ピアノの音、ハープの音と指先の動きで音は複雑に表情を変えて旋律を重ねてゆき、人ならざる者達のオーケストラめいた騒めきが、けれども確かに荘厳な儀式の詠唱として組み立てられる。


ざあっと、魔術の風が聖衣を大きく揺らして長い髪が風に靡くと、より輝きを強めた聖書を覗き込む水紺色の瞳は、魔術を映して流星の光を孕むよう。


リシャード枢機卿の時と同じように、これまで絵画でしかお目にかかれなかった光輪が浮かび上がり、ダイヤモンドダストにも似た細やかな光の粒子がいっせいに立ち昇った。


聖職者に向かってその表現はどうかと思うが、リシャード枢機卿の使う魔術が悪しきものの魔法を思わせるなら、デュノル司教の扱う魔術は聖なるものの色合いだ。



でも、その聖なるものはきっと、人間に対して優しいばかりの存在ではないのかもしれない。





(…………あ、)




レイノの立つ術式陣を囲むように、またリシャード枢機卿のものとは形を違えた魔術陣が幾重にも描かれた。

レイノを囲む壁にも見えるその魔術陣は、デュノル司教が聖書で奏でる音楽に合わせてオーロラのように色が揺らめき変化している。



ばたばたと揺らめくスカートの裾を押さえながら、レイノは教えられた通りに、目を閉じた。


歌乞いの儀式には、ここから泉と鏡と歌声が必要になるが、召喚の儀式であれば、後はもう必要なのは祈りだけ。



一度、胸の奥がふつりと熱くなり、何かの予感を感じたレイノはそろりと目を開けてみた。




「………………む」



するとどうだろう。

少し離れた床の上を、てけてけと歩いている蟻が目に入りレイノは絶句した。

慌てて周囲の気配を探ったが、幸い術式陣の外側にいる者達からはこの細やかな昆虫は見えていないようだ。



(ま、まずい……………!)



ここで、残忍な人間はすかさず証拠隠滅に走った。


祈りを深めるような素振りで一歩前進し、この蟻が人目に触れる前にと容赦無く靴底で抹殺する。

保身の為の虐殺と謗られても否定のしようがないが、人間は体面を気にする弱い生き物なのである。


これは、必要な犠牲だったとばくばくする胸を押さえて自分に言い聞かせ、寄る辺なく不安だらけのこんな時に、蟻などを呼び出してしまった己の惨めさに世界を呪った。



(氷竜さんがいい。…………騎士みたいで、安心出来て、…………ずっと側にいてくれて…………蟻じゃないやつ………)



頑張って召喚のイメージを固めようとするのだけれど、レイノが脳裏に思い描ける騎士と言えば、見たこともない氷竜などではなく、あの物語に出て来た真っ白な騎士服の憧れの騎士くらいしかなかった。


けれども、この世界だと白は貴色となってしまい、真っ白な軍服姿の終焉の魔物がいるばかりだという。



(そう言えば、アンセルム神父は私が終焉の子供だと話していた。…………終焉に触れ、或いはそれを成した人間だって…………)




「……………あ、」



どこか遠くであの日の葬送の鐘の音が聞こえた気がして、ぞっとしたレイノが目を開けば、そこは一面の花畑だった。


よく見れば術式陣の中に立っているままなのだが、デュノル司教の展開する召喚魔術から落ちた花びらが敷き詰められ、花畑の中に立っているように思えてしまう。


けれど、それ程に美しい光景なのに目の前に誰かが現れている事もなく、レイノは少しだけ泣きそうになった。

リシャード枢機卿が手助けをしてくれているとは言えやはり可動域が低過ぎるのか、それとも最初に呼び出された蟻を抹殺してしまった報いだろうか。



そんな事を考えていた時だった。




ばさりと、ケープを翻すような音がして、くらりと術式陣の中が暗くなる。

その暗さは、白夜の夜のような明度が下がる白い闇の色で、どこまでも白いのに身震いするくらいに果てしなく暗いのだ。


そんな白い闇がふつりと凝り、レイノの目の前で人の形を結ぶ。

まだ輪郭を固定する前の白い闇の奥からこちらを見た瞳には、微かな驚きが滲み、ふっと誰かが微笑む気配がした。



それは美しい白い闇。

悍ましくて優しくて、騒々しく静謐なもの。



「……………ああ、そうか。ここに呼ばれたから、君の声がしたんだな。…………安心していい。君は忘れていても、俺は君を知っているから。……………でも今は、初めて会うように振る舞おう」



誰かがその中でレイノの耳元に唇を寄せ、そう囁く声が聞こえた。

どきりとする程に優しい声音に、レイノははっとして顔を上げようとしたが、召喚の成就で砕け散る魔術の眩さに思わず目を瞑ってしまう。



強い強い風が吹いたみたいに、咲き誇った魔術の花園がばらばらと散り去ってゆく。




「………………やれやれ、困ったところに呼び出されたものだな」



先程の闇の中で聞こえた声が、今度は穏やかな苦笑を滲ませてはっきりとそう言うのが聞こえ、レイノはそろりと目を開いた。


こつりと軍靴が床を鳴らし、目の前に立っているのは背の高い男性のようだ。

レイノが呆然と見上げていることに気付いたのか、優しく微笑んで頷いてくれる。



(この人が………………?)



白みがかった水灰色のケープに、軍帽と軍服の装いは高貴な軍人そのもので、先程までは鮮やかで暗い白に見えたのは、どうやらこの軍服だったらしい。


瞳と髪色も同じような色合いだが、その色相よりも白みがかって見える。

まるで宝石を紡いだような、内側で仄かな光を揺らすので、魔術の風に揺れる度に複雑に色を変える。


がたんと、術式陣の外で物音がしてそちらを見れば、アンセルムがよろめき、後ろにあった祭壇にぶつかっているのが見えた。

そちらを一瞥した軍服姿の男性は、なぜか背筋がひやりとするような瞳で、ぞっとする程に美しく淡く微笑む。



(……………竜……………なのかしら?)



リシャード枢機卿の方を見れば、信じられないものでも見たかのように、瞠目している。

デュノル司教も呆然としているし、周囲の人々も驚いているように見えた。



誰も何も言わなかった。

ばたんと音がしてそちらを見れば、聖堂の奥の方で失神してしまったらしい神父の姿がある。

その他にも何人か、膝を突いて体を丸めていたり、がたがたと震えてしまっている者達も。



しんと静まり返った聖堂の中で、レイノは、ここは契約の為の言葉をまず自分から言わなければいけなかった事を思い出し、慌てて背筋を伸ばした。




「…………私と、契約してくれますか?」



動揺していたのだろう。

声がひっくり返りかけて、へにょりと眉を下げながらではあったが、そう問いかけたレイノに、男性は微笑んで頷いてくれた。



「勿論だ。寧ろ、俺を呼び出してくれて光栄だ。………まだ強いか。もう少し調整するかな……………」

「………………竜さん?」

「はは、残念ながら俺は竜じゃない。魔物だが、許してくれるかな?」

「……………魔物………め…………さん」



何とも言えない顔をしてしまったのだろう。

こちらを見た軍服姿の魔物は、困ったように首を少しだけ傾げる。

その悲しげな眼差しに、レイノは慌ててしっかりと頷いた。

こちらから呼び出しておいてそんな反応を示されたら、あまりにも酷い扱いではないか。

なお、靴の下で絶命しているだろう小さな昆虫については、その限りではないとする。



「…………名前を聞いても?」

「…………レイノです。………あなたの名前は?」

「…………そうだな。ウィルと」

「……………っ?!」



ここでレイノは、出会ったばかりの魔物にひょいっと持ち上げられてしまい、 声にはならない声を上げてはくはくと口を動かす。

けれども、ウィルという魔物がこんな事をしたのは、きちんとした理由があったようだ。



「今は擬態をしているから、その名前を使ってくれ。本当の名前は、二人になった時にゆっくりと。それと、君の本当の名前は知っているからここでは言わなくていいからな。…………静謐の祟りもののいる土地で、不用意に名前を知られるのは危うい」

「祟りもの……………?」



この土地には、一体どれだけ得体のしれないものが潜んでいるのだろう。

そう問いかけたレイノに、ウィルは、その話はまた後でという感じでにっこり微笑み、レイノをしっかりと抱き直してくれた。

デュノル司教と同じ子供抱っこ方式だが、魔物ともなるとまるで子猫でも抱えているような軽やかさである。



ふっと漆黒の影が揺れ、レイノは顔を上げた。


押し留めようとしている司祭達の手を払い、こちらに歩いて来たリシャード枢機卿が、青緑色の瞳を細め、呆れたような顔でレイノを見ている。



「……………契約は済んだようだな」

「ここは、ガーウィンか。衆目に晒されるのは不愉快だが、彼女を得られたのなら我慢しよう」



やけに低いリシャード枢機卿の声に、レイノはぎくりとする。

竜ではなく魔物を呼び出してしまったことは、あまり枢機卿のお気に召さなかったようだ。



(……………もしかして、聖人の枠に入れられてしまうから…………?)



だが、レイノが行ったのは歌乞いではない。

それなのに何故魔物が出てきてしまったのだろうと首を傾げていると、こちらを見たウィルに宥めるようにふわりと頭を撫でられる。



「…………宜しくお願いします」

「君のことはしっかり守るよ。…………さてと、俺はこの枢機卿と話をした方が良さそうだ。まだ早朝だろう。君は寝ていてもいいぞ」

「…………む、……流石にこの状況で寝ていたら、叱られてしまうのでは…………」

「でも、疲れただろう?召喚儀式は消耗する筈だ。何かして欲しいことはあるか?」

「いえ。……………それと、お願いというか、あまり声を大にして言えないのですが、左足の靴底か、床のどこかに、最初に召喚され私に滅ぼされた悲運の蟻さんが眠っている筈なのです…………」

「……………蟻?」

「………………ふぁい。そんなものを召喚してしまったのだと、誰にも知られたくありません」

「…………そうか。随分と終焉の気配のある召喚だから問題が起きているのかと思ったが、術中で犠牲が出ていたんだな。分かった。それは二人の秘密にしておこう。……………よし。証拠は消しておいたから安心していい」



こそこそとその耳元に打ち明けたレイノに、近所の人気者のお兄さん的な爽やかで温かい微笑みを浮かべ、ウィルはそう約束してくれた。

何とも頼もしいことに、レイノに無残に命を散らされた最初の召喚者も、どうやら無事に証拠隠滅してくれたようだ。



「さてと、…………何人か気になる人物もいるみたいだが、紹介してくれるか?」



そう微笑んだウィルに、レイノはまた一つの手順を忘れていた事を思い出した。

契約した相手には、まず、後見人達を紹介しなければならないのだ。



「はい!」



そう頷いたレイノに、レイノの魔物はふわりと微笑んだ。

とても頼りになりそうであるし、何よりも親しみやすく誠実そうな雰囲気が素敵だ。

残念ながら騎士服ではないが、儀礼用の正装的な軍服も吝かではないレイノにとって、この魔物はかなり理想通りの相手なのかもしれない。



(…………でも、魔物さんだから命は削られるのかな?)



そう考えはしたものの、まぁいいかとレイノは頷く。


特に長生きに拘りはないし、良い契約相手と健やかに過ごせるのなら、量よりは質といったところだろうか。

ただし、聖人としての責務が上乗せされて過労死するのだけはご免なので、これからの事は、この魔物にしっかりと相談しなければなるまい。



(……………それに、この人は私を知っていると話していた……………)



であれば、彼が知っているのは、レイノとネアハーレイのどちらなのだろう。

少しだけそこが気になったが、それはまた後で聞いてみればいい。


デュノル司教は、ネアハーレイの名前の由来を知っているようだった。

自分の気質を考えれば、それを明かすだけの信頼を築き上げるだけの時間を、ネアハーレイとしてここで過ごしたのだろう。

そのどこかで、この魔物と出会ったこともあるのかもしれない。



(……………待って。何かがおかしいわ…………)




「レイノ?」



不思議そうに尋ねられ、レイノははっとした。

ウィルを後見人達に紹介しなければならないのに、考え込んでしまっていた。

それが手順であるので、既に一言は交わしてはいるが、リシャード枢機卿もレイノの紹介を待っているではないか。



「正面におられるのが、リシャード枢機卿です。あちらの、………儀式を執り行って下さったのが、デュノル司教、お二人とも私の後見人になります。教官になってくれているのが、……………アンセルム神父?」


レイノは、なぜかこちらに近寄らずに先程よろめいた位置で立ち尽くしているアンセルムの姿に、首を傾げた。

目が合うと困ったように儚げに微笑んだが、やはりこちらに来る様子はない。



「………………そうか。彼が、君の教官だったんだな」

「……………もしかして、アンセルム神父をご存知だったりします?」

「さぁ。……………おっと、……リシャード、だったか。彼女は俺の契約者だ。無理をさせずに休ませても?」



レイノは、むむっと眉を寄せてこちらに視線を戻した。

いつものように冷ややかに整った微笑みを浮かべてはいるが、やはり、リシャード枢機卿はかなり不機嫌に見える。



「その前に、…………御身の……契約に約定が欲しい。後見人として、彼女との契約が確かなものだという署名を、この迷い子の台帳に記す必要がある」

「へぇ、こんなものがあるのか」



リシャードが差し出した重厚な金属の装丁の本のようなものには、レイノの前に保護された迷い子達の名前が並んでいた。


幾つかの名前については、焼き焦げたようにもろもろと黒くなっており、その迷い子がもうこの世にはいない事を示している。

名前の全てではなく、一部が欠けているのは、体の一部が損なわれているという事だろうか。



ウィルは、隣にやって来たデュノル司教が差し出した銀水晶のペンを受け取ると、拒絶することなく、そこに既に書かれているレイノの名前の横の欄に優美な文字でサラサラと名前を記した。

すると、書かれた文字が青白く燃え上がり、黒いインクがきらきらと光る白灰色の宝石文字めいた質感で定着する。



「…………これでいいだろう。もう彼女を休ませて構わないか?」

「レイノは、教官であるアンセルム神父の工房に部屋を持っている。案内させよう。契約が得られたからには部屋持ちになるが、諸事情から急な召喚の儀式だった為に、その準備が進んでいない。用意させるまでは、客人用の棟で構わないか?」

「…………それは、…………そうだな、彼も交えて相談させて貰おう」



そうアンセルムの方に意味ありげな視線を向けたウィルに、レイノは、これはもう間違いなく知り合いだぞと息を詰める。

どんな知り合いなのか、アンセルムの瞳からは既に光が失われかけている。

とても苦手そうだ。




「猊下、勝手に決められては困ります。迷い子達の管理は私が一任されております故……………っ、」



どんどん進むやり取りにそう進み出たのは筆頭司祭だったが、ウィルがそちらを向くと、すっと表情の色が消え、真っ青になったまま何も言えずに震えている。



「…………下がっていろ。お前には負荷が大き過ぎる」


ほんの僅かにではあるが、明らかに忌々しげに顔を歪め、リシャード枢機卿はぞんざいに筆頭司祭を下がらせた。


未だ水を打ったように静まり返ったままの聖堂で、筆頭司祭が足を縺れさせながら後退する靴音が聞こえ、レイノは呼び出したばかりの魔物の表情を窺う。



(……………このひとが、怖いのだろうか)



レイノには、寧ろロダートの契約の魔物よりも、ユビアチェの契約の妖精よりも、ずっと親しみ易い雰囲気に思えるのだが、軍服であることがいけないのかもしれない。

腰の剣があるとは言え、武装についてはユビアチェの妖精も細い剣を持っていた筈だ。



「まずは、部屋に帰ろうか。そこで色々と話そう。…………そうだな、君の教官とも話をしたい」

「言っておくが、契約した迷い子の後見人を傷付ける事は出来ないぞ。………元より、系譜の順列や別の契約でもない限り」

「そうか。それを覚えておこう」


そう笑うと、レイノの魔物は怯えきって息を潜めている周囲の人間達を気にした風もなく、ひらりと踵を返す。



「レイノの朝食はそちらの部屋で用意させる。昼食でまた、こちらと話し合いの場を設けさせてくれ。…………それとは別に、教区主への報告の義務もある」

「やれやれ、何かと面倒なんだな。…………だが、彼女に必要なことなら、足を運ぼう」



背後からそう重ねたリシャードの声は苦々しく、レイノはこの様子で自分は目的を果たせるのだろうかと、はらはらしてしまう。


こつこつと、聖職者達の靴音とは違う軍靴の硬い靴音を響かせ、デュノル司教の前を通ろうとしたところで、レイノは、儀式を執り行ってくれたデュノル司教にお礼をするべく、ウィルの腕をぎゅっとして立ち止まって貰った。



(デュノル司教……………?)



こちらを見たデュノル司教の表情はどこか無機質で、その温度の剥落した美貌はひやりとする程に美しかった。

ウィルの体が微かに強張ったような気がしたが、こちらは、特に知り合いらしいやり取りはない。



「デュノル司教…………召喚の儀式を執り行っていただき、有難うございました」

「……………うん。無事に契約が成立したようで良かったよ。これからは彼に助けて貰うといい」

「……………はい。……その、…………疲れていらっしゃいますか?」



パレットナイフで真っ平らにしてしまったような微笑みに、思わずレイノはそう尋ねてしまった。

すると、こちらを見たデュノル司教は、困ったように少しだけ微笑んだ。



「…………そうだね。けれど、君に良い契約者が現れて良かった。…………レイノ?」



儀式を執り行ったからこそ、その疲労について問われたと思ったのだろう。

けれどもレイノは、デュノル司教の返答でそれを思い出した有り様で、彼にこんな目をさせている理由はまた別にあるような気がした。



「…………その、温かいお茶でも飲んで、ゆっくりなされて下さいね。…………それとも、これからアンセルム神父の工房に行くのですが、一緒に来られますか?そこなら、素敵な薔薇の紅茶や夏の果実の紅茶もありましたし…………」



レイノがそう言えば、デュノル司教は微かに目を瞠った。

そんな提案をしてしまってから、レイノは不敬とも取られかねない言葉を、このような公の場でしてしまったことにぎくりとする。



でも、どうしても今言わなければならないような気がしたのだ。



「…………それなら、…………あなたにも来て貰おうかな。彼女の後見人なら、話を聞きたい」



驚くべき事に、レイノの失言を上手に取りまとめてくれたのは契約したばかりの魔物だった。

ちらりと背後を振り返ったので、リシャード枢機卿と無言で交わしたやり取りがあったのかもしれない。


デュノル司教も一度そちらを見、それから静かに頷いた。




「デュノル様!」



けれど、デュノル司教が動こうとした時、可憐な声が祭壇の向こうの人垣から聞こえた。

たたっと美しい髪を揺らしてこちらに走って来ようとしたのは、昨晩デュノル司教が保護していた、もう一人の歌乞いだ。


案じるようなその瞳に、レイノの胸がなぜかきしりと音を立てる。



「…………っ、」



しかし、ウィルが、抱えられているレイノですらぎくりとするような冷たい一瞥を向ければ、彼女はへなへなと床に座り込んでしまう。

慌てたように駆け寄った小さな子供が、その体を抱き締め、こちらに向かって深々と頭を下げる。



(あれが、彼女の契約の魔物…………?)



その体が震えていることに気付いて、レイノはまた自分の魔物の横顔をじっと見上げる。

ロダートの契約の魔物に向けられた、精神圧とも言うべきものを思い出し、それが働いているのかなと思ったのだ。


そんなレイノの視線に気付きくすりと笑うと、ウィルはもう背後を振り返ることはなく、まだあの儀式直後の姿勢のまま立ち尽くしているアンセルムの前まで歩いて行く。



「アンセルム神父…………だったかな?工房に案内してくれ」

「……………ええ。そうさせていただきます」


あまりにも暗い声で答えたアンセルムに、思わずレイノも心配になってしまったが、周囲にいた者達も、その様子を見過ごせなかったようだ。


おずおずと控えめに、何人かから大丈夫だろうかと声をかけられたアンセルムに、レイノは、この状況下で彼等に発言の勇気を奮い起させたアンセルムの人望におおっと目を瞠る。



「アンセルム神父…………、その、ウィルはとても優しそうな魔物さんなので…………」

「……………はは、優しそう…………ですね、きっと」

「………………目が死んでいます。………ウィル………さん、…?」

「レイノ、敬称はやめてくれ」

「で、では、…………ウィル。アンセルム神父をどうか虐めないであげて下さいね。こちらに来たばかりの私に、とても良くして下さった方なのです。美味しいご飯も作ってくれましたし…………む?」



しかし、良かれと思ってアンセルムの優しさプレゼンを行なったレイノに、なぜかアンセルムは余計に顔色が悪くなってしまった。

ウィルについては、そうかと微笑んでいたが、その微笑みは刃物のようだ。

おまけに、どうしてなのかデュノル司教の表情もまた平坦になってしまう。



たいへん張り詰めた空気の中、レイノ達はなぜか人っ子一人いないがらんとした教会を抜け廊下を歩き、今迄に向かったことのない区画に出ると、薄暗く細い廊下を歩いた。

そうして辿り着いたのは、何枚かの絵画が飾られただけの寂しい印象の部屋だ。



窓から差し込む光の筋に舞う塵が見え、簡素な床石に窓の形に光の影が落ちている。




「ここが扉ですよ。…………まさか、こんな日が来るとは思いませんでしたが」

「ア、アンセルム神父?…………その、体がとても傾いてしまっていますが、工房に魔物さんを入れるのが複雑であれば、猊下に、どこかお部屋を用意して貰うようお願いしましょうか?」

「レイノ。彼は嫌がっていないから、安心していい」

「ウィル?」

「………………そうですね、とても光栄です」



物語の最後に旅に出る人のような微笑みを浮かべて、尚且つ消えてしまいそうな儚い声でそう呟き、アンセルムは一枚の奇妙な塔の絵を魔術で扉にして、今の魔法は何事だと目を丸くしたレイノが見守る中、がちゃりと開いた。


勿論、この間ウィルは一度もレイノを下ろさずに抱き抱えていたのだが、腕の筋肉疲労を心配したレイノに、このくらいであれば丸一日でも抱えていられるとさらりと言われたので、魔物は力持ちだと考えてそのまま乗車している。



あの儀式の後、レイノはとても怖い事に気付いてしまった。



それに気付けたのは、この魔物に抱えられてからの事だったので、そこに何らかの因果関係があるのならと、敢えて離れないようにしていたのだ。



塔の絵の向こうには、レイノの知っている天窓から光の差し込む階段があった。



アンセルムを先頭に階段を下り、最後尾についたデュノル司教の背後で重たい音を立てて扉が閉まる。

そうして扉が閉まっても、階段の天井には美しい円形の天窓があるので、暗いと感じることはない。



「やれやれ、…………もういいかな」

「…………もう少しお待ちいただけますか。何層か潜らないと、敷き詰めた魔術に近いですからね」



ウィルとアンセルムの間には、そんな不可思議なやり取りがあり、レイノはこてんと首を傾げた。


何となく力関係は見えて来たが、是非にきちんと説明して貰おう。



(……………と言うか、私は召喚したばかりの魔物さんをずっと乗り物にしていて、どうして少しも怖くないのかしら…………?)



レイノが通った時よりも長く感じる階段を時間をかけてゆっくりと降りて行き、やがて、柔らかな朝陽の差し込む工房の入り口に出る。



そこまで来た時のことだった。



ふうっと大きな溜め息が聞こえ、前を歩いていたアンセルムが天を仰ぐような仕草をすると、鼻の付け根を指先で揉み、眼鏡を外しながらこちらを振り返った。




「…………なぜあなたが、人間の召喚になど応じられたのですか?それも、よりにもよって僕の領域で」



そして、アンセルムが聞いたこともないような温度のないうんざりとした声音でそう問いかけたのは、レイノが契約したばかりの魔物。




「…………そうだな。その理由を説明する前に、…………レイノ、少しだけ…………ええと、デュ…………司教に預けられてくれるか?」

「………………む、……むぐ、………自分で立ちます」

「いや、…………どうしても」

「…………ど、どうしても?」



レイノは、今は何だかデュノル司教とは複雑な感じなのだと自立の主張をしたが、なぜか契約したばかりの素敵な軍服の魔物は、優しく微笑みながらもとても強引にレイノをデュノル司教に持たせてしまった。


迷い子は荷物ではないのだと、ぎりぎりと眉を寄せたまま、レイノはちらりと自分を受け取ってくれたデュノル司教の表情を窺う。

けれども、やはり不自然な程に整った美貌からは、何の感情も読み取れなかった。


ぎしりと固まってとても緊張せざるを得ないレイノに対し、ウィルは不思議にひやりとする微笑みを浮かべる。



「それから、これから俺の行動に驚かないでくれ。すぐに済むし、君の身の安全にかかわる理由もあるからな」

「……………ウィル?」

「はは、そうして呼ばれるのも新鮮だな」



その直後に起こったことは、記憶をなくして現在三日目のレイノにとって、かなり衝撃的な事件であった。



すっとアンセルムの方を向いたウィルが、腕を動かしたような気がしたその刹那、もうアンセルムは地面に沈められていたと思う。

荒事に縁のないレイノでも、骨がまずいと思わざるを得ない鈍い音が響き、ふるふるしながら呆然とウィルの手元を見たレイノは、何とか彼が鞘に収めたままの長剣でアンセルムを殴り倒したのだと理解した。




「……………け、喧嘩は禁止です」

「そうだな。レイノがまだ生きていてくれたから、首を落とすのはやめておくか」

「ぎゃ!優しそうなのに、とても武闘派です!私の教官をばらばらにしてはなりません!!」



すっかり動転してしまい、デュノル司教の腕の中でじたばたしたレイノに、それまでとは違う凄艶な微笑みを浮かべた魔物は、片足でうつ伏せに倒れてしまったアンセルムの背中を踏みつけながら、とんでもない事を言い出した。



「レイノ、精霊が食べ物を振る舞うのは、求婚の証だ。それと、死の精霊が他の種族を伴侶に迎える儀式は、まずその相手を殺してから用意した容れ物に移し替える。他の系譜の生き物だと、…………資質上、伴侶に迎える際に殺してしまうからな」

「………………なぬ……」




そうして、レイノを絶句させたのだった。








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