飾り木の街と美味しい昼食 2
いざ、イファムの街に入ると、そこはもう、イブメリアの時期の市場やリノアールのような賑わいと華やかさであった。
どこからともなく陽気な祝祭の音楽が流れてきて、薄曇りの街にきらきら光るのは、飾り木の枝にかけられた光るランタンだ。
駅前の広場には、ささっと用事を済ませたいお客や旅人たちの為に、クッキーの専門店やソーセージのお土産屋さんなどが賑やかに立ち並んでいる。
「…………ふぁ」
「いいか、手を離すなよ。それと、……聞いてないな。………これを巻いておけ。俺の魔術から切り出した物だからな」
「艶とろストールなアルテアさんが首に巻かれました……。飾り木が、街のあちこちでぴかぴかしていて………」
「ったく………」
一際大きな飾り木を立てている店は飲食店であるらしく、騎士風の男達が店の前に並んでいた。
この国の民には見えないので、きっと隣国から食事に来たのだろう。
馬や馬車だと半刻程の所用時間で、列車ならもっと手軽に来られると考えると、普通の休憩時間では足りないだろうが、仕事に少し余裕のある日や、買い出しなどの大義名分があれば、仕事を持つ者達が平日に訪れるのも可能な立地だ。
ネアは、さては美味しいお店だろうかとそちらを凝視し、注視するがあまりに足がもつれたところで、アルテアにひょいと持ち上げられ、方向転換されてしまう。
「なぬ。体の向きが変わりましたよ?」
「三区の店から確かめるんだろ。反対方向だ」
呆れ顔でそう告げた使い魔は、襟足の髪の毛をちび結びにしているのでいつもよりも砕けた印象である。
じっと見上げると指先でおでこをぴしゃんと弾かれ、ネアは唸り声を上げた。
だがまたすぐに、ぎゅっと祝祭の賑やかさが詰まった街に目を奪われてしまう
(去年訪れた、季節の秋とは違うのだわ………)
あちらはおとぎ話の森であったが、同じおとぎ話さがあっても、こちらはもっと賑やかで生き生きとしていて、人間の領域のものという感じがした。
深い森や妖精達の姿とはまた違う、雑多だからこそ楽しい玩具箱のような色合いに満ちている。
「この街は、祝祭の飾りが美しいな…………」
そんな呟きに振り返ると、エーダリアがどこかひたむきな眼差しで街並みを見ている。
こんな風に生き生きとした人々の生活が感じられる街だからこそ、エーダリアは、眩しいものを見るかのように目を細めるのかもしれない。
だからネアは、そんな家族の手をぎゅっと握った。
そして、その手を握るとなぜか、伴侶だけではない家族ともこんな風に飾り木を眺められるのだと、その贅沢さにはっとしてしまって、目の奥がつんとする。
「………手の込んだ木の飾りが多いので、そのような加工を生業とされる方々もいるのでしょうか?」
「木箱などを作る職人の家の女達が、イブメリアのオーナメントを作っているらしいな。この時期は、葡萄酒を買うとついてくるらしいぞ」
「葡萄酒……。おのれ、ソーセージやチョコチップクッキーにはついてないだなんて………」
「単価の問題だろうな。クッキーは、缶売りのものなら可能性があるかもしれんが……」
「クッキー様!」
イファムの飾り木は、モミの木のような緑の葉を持つ木に、木で作った繊細で可愛いオーナメントを飾り、星型の硝子か水晶の小さなランタンの中に、光る鉱石を入れたものを沢山吊るす方式のようだ。
親指の先くらいの星型のランタンが可愛くて、ネアはついつい弾むような足取りになってしまう。
小さな額縁のような形に切り抜き、真ん中の画布の部分に雪景色の街並みや飾り木の絵が描かれているオーナメントが多いようで、それよりも多く飾られている色付けをした木製の林檎のオーナメントと合わせて、こちらでは伝統的な装飾なのかもしれない。
どの飾り木にも吊るされていて、インスの赤い実の代わりに飾り木の緑に鮮やかな彩りを添えていた。
中には、小さな小屋の形の物や、クッキーを模した木彫りのオーナメントもあり、見ているだけでも伝わる温かい風合いが素晴らしい。
(こっそり集めているオーナメントとは趣が違うけれど、こういう木のオーナメントも、素朴な感じがして可愛いな……………)
そんな事を考えていた時だ。
ネアは、通りの反対側の歩道から、じっとこちらを見ている男性に気付いた。
何かを確かめるかのようにこちらを見ているのは、腰までの長い灰色の髪に淡い緑色の瞳をした美しい男性で、ロングコートに帽子姿という、騎士や兵士達が多い街並みの中では目立つ貴族的な容貌をしている。
知り合いの擬態なのかもしれないが、現状は知らない人でしかない。
そんな男性がなぜこちらをじっと見るのだろうかと居心地が悪くなり、ネアは、気付かないふりをしてその場をやり過ごそうとした。
しかしその男性は、馬車の往来のある細い道を乱暴に横切って、こちらに歩いてくるではないか。
ぎょっとしたネアの腕を引いて、隠すように前に出てくれたアルテアが、すっと目を細める。
「ほぇ、アルテアだ」
「……………ヨシュアか」
「イファムに食事に来たのかい?」
「必要があってな。この界隈で騒ぎを起こす予定なら、街から離れてやれ」
「やっぱり、一緒なのは、ネアとエーダリアなんだね。イーザに怒られるから巻き込まないようにはするけれど、僕の系譜の妖精を何人も殺した人間がこの街にいるんだ。それは絶対に持って帰るよ」
「七区か三区のどちらかで食事をする予定だ。いいか、そこには立ち入るなよ」
「……………ほぇ、この街は狭いのに、アルテアは我が儘なんだ」
「こいつらを巻き込むと、お前の相談役に怒られるんじゃなかったのか?」
アルテアにそう言われてしまい、背の高い灰色の髪の男性は考え込む様子を見せる。
ネアは、雲の魔物と言えばのターバンがないので、本当にこれはヨシュアだろうかと目を丸くしてしまう。
今までになく怜悧な魔物らしい佇まいにエーダリアも警戒していたようだが、ややあってヨシュアが頷くと、ほうっと安堵の息を吐いていた。
何しろこちらも呪いの道中なので、揉め事は出来るだけ避けたい。
「食事をするんだよね。七区なら、ガゾンかな。三区はピエールと葡萄亭のどちらかだと思う」
「…………目当ては、ガゾンと葡萄亭だな」
「その店は壊さないようにするよ」
「狭い街だと、たった今自分で言っただろ。外でやれよ」
「我が儘だなぁ。ガゾンの今日のメニューは、ソーセージの盛り合わせと南瓜のポタージュに葡萄パンだよ」
「まぁ。ヨシュアさんは、そのお店に行かれたのですか?」
「探している人間が、まだ街に到着していなかったからね」
「では、私達の昼食は、満席でもない限りはそのお店にしようと思います。ヨシュアさんも、我々のいる場所を把握しておける方がきっといいのですよね?」
「そうだよ。ネアはちゃんと分かってるんだ」
「豪雨は周辺被害が大きくなる。使うなよ」
「……………アルテアは我が儘だ。でも、ガゾンに行くなら、その周りは壊さないようにするよ。ネアとエーダリアは、傷付けたりしないって決めてあるからね」
「あら………」
それだけを言い残し、ヨシュアはふいっと姿を消してしまった。
よりによって騒ぎを起こしかねない奴がいる時にとアルテアが顔を顰めているが、ネアは、いつの間にか雲の魔物の線引きの内側に入っていたというお知らせがなされたエーダリアを振り返る。
すると、目を丸くしたエーダリアが、どうやらそうであるらしいとこくりと頷いた。
とても驚いているが、そんな風に誰かの線引きの内側に入れて貰える事は嬉しいのだろう。
少し恥じらったように目を瞬いたエーダリアは、知ったばかりの事実を噛み締めるように、もう一度ゆっくりと頷いた。
良かったですねと微笑んだネアだが、ここから先は時間勝負だ。
きっと騒ぎが起きるに違いないのでと、お目当ての店に急ぐ事にした。
「ですが、人間らしい我が儘で、こんな風に賑やかな街並みで騒ぎが起こってしまうと思うと、少し心配ですね」
「ああ。家族連れも多い。出来れば、街の外でやって欲しいのだが、………そのような事を望むのは身勝手なのだろう」
「いつもならきりんさんで脅しておくのですが、今日のヨシュアさんは、少しだけ表情の温度が低めでした。こんな時は、多少思うところがあれ、自分の領域の外側まで欲張らずにそっとしておくに限ります」
「…………ほお、気付いたのか」
ネアの言葉に、アルテアがちらりとこちらを見た。
表情一つでどこか意地悪そうな感じになるのだが、それがまた魅力的な魔物である。
相変わらず人目を引かないように普通のおじさまに擬態したりはしないのだが、案外、認識などを阻害するような魔術は展開しているのかもしれない。
かつこつざりりと、石畳を歩く。
ざりりと砂や土が混ざるのは、大勢の人達が行き交う土地柄だからだろう。
淡いセージグリーンや檸檬色、はたまた水色や淡いピンクなど、淡い淡い色合いを重ねているので派手ではないが、目抜き通りには漆喰壁に色を塗った建物もあり、街の奥に行けば行くほど、大通り沿いの建物は華やかな佇まいだ。
お店の前には必ず飾り木が置かれているので、まるで飾り木の並木道のようにも見える。
飾り木の街のようだと目を輝かせながら歩いていたネアは、ふと気付くと、歩道からのアプローチを上がって一軒のレストランに自然に入店するところであった。
「……………ほわ、お店に入っています」
「ガゾンに着いたぞと、言っておいた筈だが?運よく、客の切れ目に入ったな。並ばずに入れるとは思わなかったが、思いがけず早く解術に向かえそうだ…………」
「中は天井が高いのだな。外から見えていた窓は、吹き抜けの部分だったのか……………」
ネア達が入店すると、いらっしゃいませと、給仕の男性が声をかけてくれる。
にこやかに微笑み席まで案内してくれる運びは、とてもスムーズで感じがいい。
このような所にも人気店の片鱗が見えるのだなと頷き、窓側ではないものの、額装された風景の絵のある落ち着いて食事が出来そうな奥まった席に通された。
「ソーセージグラタンに、川鱒のバタームニエル。檸檬ソース添え、鶏肉とローズマリーの葡萄がらの香りの包み焼き、薄焼きクレープと挽肉の辛味巻き、四種のチーズのニョッキと蕪のスープ、そして、本日のソーセージの盛り合わせですね……………」
「…………鶏肉とローズマリーか…………」
思わず読み上げてしまったメニューに、エーダリアが難しい顔をしている。
鶏皮大好きっ子なウィーム領主にとって、包み焼きはかなり気になる一品だろう。
だが、即決で盛り合わせを選んだネアがその後、ずるずると他の料理にも未練を残しているのとは対照的に、エーダリアは少し悩んでから盛り合わせを選ぶと、後はもう迷わなかった。
「俺は川鱒だな。…………何だ?」
「うっかりお隣のテーブルの美味しそうな盛り付けを見てしまい、迷っていた料理を注文されました…………。し、しかし、私はソーセージの盛り合わせをいただくのですよ!」
「少し分けてやる。それでいいだろ」
「使い魔様!」
「デザートなども安価に付け足せるようになっているのか。厨房の負担は増すだろうが、いい店なのだな…………」
「むむ、追加の少し盛りデザートはこんなに安いのですね…………」
メニューを見て驚いたのは、追加デザートの値段だ。
ウィーム中央で屋台のホットワインを買う半分くらいの値段で、二種盛りの少しだけと言いながらもなかなか立派なデザートが追加出来るのだ。
本日のデザートは、林檎と胡桃のタルトに、フォンダンショコラ、そこに三種のジェラートから好きな物が添えられる。
「お待たせしました。紅茶は食後でと伺っておりますが、早めに飲まれるようであれば店員にお声掛け下さい」
「まぁ、あっという間に料理が出てきました。…………ふぁ!揚げジャガイモまで付いています!」
「…………この量で、あの値段なのか……………」
「おい、ストールを外すんじゃなくて、巻き付けるようになってるぞ」
「なぬ。お食事で汚さないように外そうとしたのに、興奮のあまり手が上手く動かせません……………」
「ったく。こっちを向け」
料理の到着が思ったより早く、デザートメニューを見ていたネアは、まだ食べられる体勢になっておらず、わたわたしてしまった。
とは言え、回転が早いせいで居心地が悪い店ではなく、食後は紅茶とデザートでのんびり出来る。
早く料理が出て来るのは、限られた時間で食事をしに来ている者達の為であるらしい。
クロークやコートかけなどはないので、ストールを外して貰ってコートを脱ぐと、荷物は空いている椅子にかけておくか、必要であれば荷物を入れる籠を貸してくれるシステムのようだ。
この辺りにも、騎士や兵士達が、自分の荷物を手元に置いておけるような工夫が見受けられた。
「……………見ているだけでお口がもぐもぐしてしまう、素敵な盛り合わせです」
「五種類もあるとは思わなかった。ここで様々な種類を食べておけば、土産などを買う際に選びやすくていいのかもしれないな」
「ええ。……………あぐ!………ふぁ、このちょっと平べったい形の粗挽きソーセージは、荒く切ったお肉がじゅわ旨ですよ!香草の香りがぷわりとして、………もしやこれが、有名な香草とお塩のソーセージなのです?」
「ああ。それがイファムソーセージと言われる物だな。だが、こちらの白い物も昔からある」
「はぐ!…………むむ、こちらはお肉がムースのようになっていて、上品な味わいです。このマスタードを合わせていただくと、……………ふぐ。楽園がお口の中に現れました………」
「……………イファムソーセージ」
「は!エーダリア様が、大好きな物を見付けたお顔になっています……………」
「このソーセージを買って帰れるだろうか。ヒルドやノアベルトにも、食べさせてやりたい。いや、騎士達にもだな……………」
エーダリアは美味しい食べ物に出会うと、少しだけぴっと背筋が伸びる。
元々姿勢も良く綺麗な食べ姿なのだが、そんな風に体の動きに心が現れてしまう姿は、どこか稚い。
ゆっくりと噛み締めてソーセージを食べ終え、バランスよく、焼いてバターをたっぷり塗り、表面が黄金色になった干しブドウトーストを齧り、また目を輝かせた。
「ふぁぐ。…………ジャガイモが美味しいのですよ。細切りにしてさっと揚げたものですが、素揚げにお塩を振る物ではなく、衣を付けて揚げた味がしっかりついているジャガイモではありませんか……………」
「ああ。この付け添えのジャガイモは美味しいな。ヒルドが好きそうだ…………」
「なぬ。ヒルドさんが……………」
ネアの前の世界の感覚では、フライドポテトはややジャンクフード寄りだが、こちらの世界では家庭の味に近しいものでもあるらしい。
どちらかと言えばマッシュポテトの比率の方が多いウィーム風は、細切りにして揚げてから塩を振るのだが、例えばヴェルリア風であるとジャガイモは大きめに切られ、食べ応えがあるものとなる。
味付きフライドポテトが大好きなネアにとっては、この付け添えはまさかの幸せな出会いであった。
皮がぱりっとしている辛めのチョリソーに、中にチーズの入っているもの。
野菜たっぷりの変わりソーセージも美味しく、たっぷりの量を大きめのカップで貰える紅茶と、デザートの林檎と胡桃のタルトまで食べ終え、ネアは至福の溜め息を吐く。
ミルクポットの牛乳はきちんと温められていて、店側の拘りが随所に窺えた。
贅沢を言えば、香草檸檬バターを上に載せたアルテアの川鱒の料理は一口お口に入れて貰い満足したものの、奥のお客が食べているグラタンや、初めましてのチャタプ風巻きサンドイッチのようなものも美味しそうなので、メニュー制覇を目指して何度か来たいお店である。
ネアは、呪いとの縁などが問題なければ、今度はディノと来たいなとほくそ笑み、隣のアルテアに呆れたような目で見られてしまった。
「そして、もう呪いは解けたのですか?」
「大体はな。会計を済ませて店を出れば、完全に解けるだろう。そこで、シルハーン達を呼べる」
「はい!では、ディノには準備をしていて貰いますね」
カードにその旨を書くと、ディノからはすぐに返事が来た。
ネアはコートをアルテアに着せて貰い、ストールも巻き直されながら、おや、このくらいは自分で出来た筈だぞと首を傾げる。
テーブルでのお会計なのでアルテアが手早く支払ってしまい、エーダリアは恐縮していたが、とは言えこちらは、普段のリーエンベルクの滞在具合を考えると、気にしなくてもいいと思う。
(お店を出れば、呪いも解けるのだわ…………)
だが、そこからしゅんと転移で帰宅するのではなく、まずはディノやノアが合流し、念の為に魔術の付与や残響がないのかを調べてからの帰宅となる。
また、その際にソーセージやチョコチップクッキーをお土産に買って帰る予定なので、後はもう、楽しみしか待っていない状態であった。
だとしてもネアは、ここで油断をするような人間ではなかった。
美味しさにお腹がふくふくしていても、過ごしたのが幸せな時間であったからこそ、その他の不用な要素の介入は許せないと考える、強欲な人間なのである。
「お嬢さん、すまないが助けてくれないかい?」
だから、歩道で膝を突いてしまったご老人にそう声をかけられたとき、ネアは露骨に顔を顰めた。
蹲っていたのは、布を重ねて巻いたような魔術師らしい装いの白髪混じりのご老人で、髪に混じる白髪は老齢のもののようだ。
ただ、黄色の瞳の印象が、なぜかいやに鋭い。
手を引っ張って欲しいというだけのようだが、であれば適役は、歩道を行き交う騎士達の方であろう。
なぜ、すぐ近くにいた訳でもないネアに歩道の真ん中から声をかけたのだろうと、眉を寄せ、表面的な微笑みで取り繕う。
「申し訳ありません。私では力足らずでしょうから、連れに頼みますので少し待って下さいね」
そう微笑んだネアが振り返ろうとしたのは、アルテアとエーダリアが、店を出たところで騎士たちに声をかけられていたからである。
一人の大柄な騎士が持っていた手斧のような道具が、背中の留め金がずれて、エーダリアの頭にごつんと当たってしまったのだ。
すぐに騎士も気付き体を捻ったが、間に合わなかったのだろう。
悪意あってのことではないと分かったのか、頭を押さえたエーダリアが苦笑して構わないと言っているのに対し、生真面目そうな騎士は何度も謝っている。
だが、呪いが明けたその瞬間であるからして、アルテアは警戒したのだろう。
手をしっかりと掴んだままのネアを背中の後ろに押し込むようにして、もう片方の手でエーダリアの頭を検分していた。
いきなり魔物の第三席に髪の毛をかき分けられてしまったエーダリアは目を丸くしていて、ネアは、そんなエーダリアの無垢な姿を守るべく、アルテアと背中合わせで背後を警戒していたところで、ご老人と目が合ったのだった。
(だからこそ、それが人助けでも、不用意な事はしたくないのだわ……………)
「いやいや、そこまでせずともいいさ。立ち上がる為の反動をつける為に、さっと手を貸してくれるだけで構わんよ。お嬢さんで充分だ」
感じが悪くならないように微笑みは浮かべておいたのだが、老人は、申し出を挫かれたように感じたのか、少しだけむっとしたようだった。
確かに、歩道で膝を突いてしまい、今すぐに助けて欲しいのなら焦りもあるだろう。
本当に足を痛めただけのご老人であればたいへん申し訳ないなと思ったが、こちらにいる人間は、社会的な善良さよりも、自分と自分の大事なものだけが何よりも大事なのだ。
ネアの目では測れない魔術の動きがある以上は、ここで簡単に手を差し出す訳にはいかない。
伸ばされた手から避けるようにアルテア側に一歩下がったところで、暗く深く、暗い冬の森に浮かぶ獣の目のように光った老人の眼差しに、ひやりと背筋が冷える。
その直後、物凄い勢いでぐいっと体を抱き込まれ、視界が暗転した。
「ぎゃ!」
「…………っ!ネ………レイノ!?」
音の壁が引き続き展開されているのかを案じ、こんな場面でも呼び名を選べるエーダリアに、そんな場合ではないのだが、ネアは、おおっと目を瞠る。
だが、ぎゅっとその腕の中に収められてアルテアの強い怒りを感じ、またぎくりとした。
その怒りが、通りすがりの得体の知れない老人を警戒するには、あまりにも強い反応に思えたのだ。
「…………これは、俺のものだ。指一本触れるなよ、燈籠細工師」
その言葉は低く冷たく、刃物のような声で、ネアには分からないその肩書に、周囲にいた人達がはっとしたようにその場から逃げ出してゆく。
エーダリアに一生懸命謝っていた騎士や、その仲間たちが怯えたようにお店に駆け込むのを見て、何かまずい肩書の厄介な相手なのだと感じたネアも、気持ちを引き締め直す。
店を出たところでカードを開く予定だったのだが、想定外の事態が起きてディノはまだ呼べていない。
(でも、……………)
指輪に向かって名前を呼べば、来てくれるだろうか。
エーダリアもいるので、味方は一人でも増やしておきたい。
なぜだか、今のままではアルテアが不利だと、そう感じたから。
「ほう、ほう、ほう。これは珍しいところで、珍しいものに出会うのう。いい上着を見付けたと思ったのだが、まさかその連れが同業者とは」
「ヨシュアが追いかけていた人間は、お前か……………」
「心の狭いことじゃて。妖精や精霊の、十人や二十人。美しい入れ物は高く売れる。然らば、儂のような職人も世の中には必要なのさね。お前さんは、仮面のだろう。同じ獲物を扱う同業者ではないか」
その直後、きゃあっと悲鳴が上がった。
ぎょっとして目を瞠れば、老人はにんまりと微笑む。
人間なのだろうが、どこか獣染みた微笑みは、不思議なくらいに異形のものめいた気配がある。
そしてなぜか、すぐ近くで複数の悲鳴が聞こえたのに、周囲には誰もいない。
悲鳴が聞こえた方を見ると、老人の腰帯に挟まれた、木製の水筒のような物に行き当たった。
それが例えようもなく不吉なことに思えて、ネアはエーダリアの方を見る。
そっと首を横に振ったエーダリアを見て、ああ、先程の悲鳴の人たちはもう救いようがないのだなと感じた。
「お嬢さん。この哀れな老人に手を貸してくれないかね。先程、近くの街で十五人程の子供達を借りてきたのだが、そちらを切り貼りするよりもお嬢さんの皮の方が使い勝手が良さそうだ」
「俺の物に手を出すなと言わなかったか?」
「高位の人外者も、考え物だのう。魔物など、災厄祓いの燈籠の輪の中では無力と言ってもいい。それでもまだ、こうも威勢がいいのだから、身に付いた矜持の高さかもしれんな」
「その災厄の筆頭であるお前が、よくも言えたものだな」
「だが、魔術師となってかれこれ百年余り、それがずっと儂の固有魔術さ」
(……………燈籠の輪)
という事は、今のネア達は、何某かの領域の中にいるのだろう。
アルテアに扱える魔術に縛りがある場合は、ネアが眠りのベルを取り出した方がいい気がする。
災厄祓いの魔術であれば、災厄として付与される魔術は効かないのだろう。
きりんも効果があるかもしれないが、安心して使えそうなのは、眠りのベルか激辛香辛料油のどちらかしかない。
「どうだい、お嬢さん。この老人を助けると思って、儂の手を取らんかね。なに、少しの間その体を入れ物として借りるだけでいい。そうしてくれれば、お前さんの連れには手を出さないと誓おう」
「お断りします」
「それは何とも強欲な事だ。可哀想な仲間達を見殺しにするのかね?或いは、今持っている、子供達の命と引き換えにしてもいい」
その提案に、奥でエーダリアが首を横に振るのが見えた。
ネアにだってもう助けられないのだと分かるのに、それでもこうして相手の心を揺さぶる問いかけをするのが、この老人の手法なのだろう。
「私は、私の知らないものは天秤に載せないので、その方々の事を引き合いに出しても意味がありませんよ。ですが、その代わりにここに居るのは、私の大事な方々です。もし、あなたがこの方々に悪さをするのであれば、私は、絶対にあなたを許しません」
そんな言い分にぽかんとした老人は、ぶはっと噴き出すと、そのまま声を上げて笑い始めた。
可動域が小鳥よりも低い娘が何を一人前にと笑っているが、そもそも、ネアの可動域は小鳥などと比較出来るようなものではない。
生まれたてでも五倍以上の可動域を持つ生き物を引き合いに出した以上、きっと死にたいのだろう。
「……………余計な事はするな。すぐにシルハーンが動くが、今の俺は、お前達に術式付与が届かないように調整するので手一杯だからな」
ふっと、耳元でそんな囁きが聞こえた。
言葉の温度の低さの割にアルテアが動かないのには、そんな理由があったらしい。
エーダリアは大丈夫だろうかとはらはらしたが、あちらは魔術師の組織の長ではないか。
動かずにいてくれるので、ネアは説明されなければ分からなかった事も既に理解しているような気がする。
ぎりりと、堅く巻いた布紐をより強く捩じり上げるような嫌な音がした。
ネアは、いっそうに冷ややかになったアルテアの眼差しと、蒼白の面持ちでこちらを見たエーダリアに、自分には見えない何が起こっているのだろうと、怖さでいっぱいになる。
だがそれでも、アルテアがネアを抱え込む手に過分な力が入る事はなかったし、燈籠細工師と呼ばれた白髪混じりの老人が動くこともなかった。
「……………そこにいたんだね」
だから、その時に落ちた声ほど、頼もしいものはなかっただろう。
第三席の魔物を前にしても動じなかった老人が、空から落ちてきたその声に、ひゅっと鋭く息を呑む。
虚空から伸びる人影は、地面ではなく、空を歩く魔物のものだ。
「僕は地面に足を付けないから、君の固有魔術の領域の輪には入らないんだよ。だからこそ、雲の系譜から何人も攫って殺していたみたいだけど、そんな事で魔術領域を広げられると思ったのかい?」
「……………く、…………雲の魔物」
「僕は優しいから、君の為の新しい住み家を、雲の上に用意してあるんだ。君の持つ燈籠魔術は、魔術の理で得た固有魔術だけれど、その特性上、地上でなければ使えないんだったかな」
魔物らしいヨシュアの声は、霜が下りたような冷たさであった。
滲ませた怒りに、系譜の者達を守る良い王であるのだと感じられるのと同時に、話に聞く雲の魔物の残忍さが垣間見え、ネアは、残念ながら慄くのではなく、いいぞもっとやってしまえと強く思う。
「では、その人間の足元を照らす光は消してしまおうか。もう必要のないものだろう」
「ディノ!」
そこに現れたのは、ふわりと三つ編みを揺らして石畳を踏んだネアの大事な魔物だ。
地面に足を付けてしまっていいのだろうかとひやっとしたが、ディノが下り立つのと同時に、アルテアがふうっと息を吐いたので、この老人が展開していた魔術を解除してくれたらしい。
ひらりと翻るのは濃紺のコートで、ディノは擬態をしていた。
その背後では、何かに掬い上げられるように老人の体がふわりと持ち上がり、こちらを見て短く頷いたヨシュアが軽く手を動かすと、揃ってぽふんと消えてしまう。
「……………まぁ。いなくなってしまいました」
「元々あいつの獲物だった男だからな。どれだけ生かされるにせよ、もう、地上に下ろされる事はないだろうよ」
「ネア、大丈夫だったかい?」
「ディノ、来てくれたのですね!」
「うん。君の声が聞こえたからね。可哀想に、怖い思いをしただろう」
「あら、私は守って貰うばかりだったのですよ?……………アルテアさん、大丈夫ですか?」
その代わりに、きっと何かが起きていたのはアルテアだろう。
ネアは、あの嫌な音と、その音が聞こえた時のエーダリアの表情を見ているのだ。
しかし、慌ててそう問われた選択の魔物は、飄々とした様子でぞんざいに片手を振る。
「行動の制限が入っただけだ。妙に時間をかけると思ったが、ヨシュア待ちだったか」
「うん。今回は、ヨシュアに系譜の王として正当な復讐の権利がある。あの人間が誕生の祝福を力とした理持ちである以上は、そういう者が捕らえた方が取りこぼしがなくて憂いがないだろう」
「かもしれんな。…………お前は、どこも問題ないな?……………手を見せてみろ」
「…………む。アルテアさんに怪我がないかを心配している最中だったのに、なぜ私の体を調べてしまうのでしょう。なお、あの方は、最初から怪しさしかなかったので、指先一つ差し出していませんよ」
「…………ネア、アルテアは魔術拘束を受けていた。首と手首に石縄をかけられていたんだ」
「……………おい」
「おっと、僕の契約者を睨まないで欲しいなぁ」
「まぁ、ノアも来てくれたのですね」
いつの間にかエーダリアの隣にはノアがいて、甲斐甲斐しくエーダリアのコートを直してやったり、どこか損傷や浸食がないかを調べている。
途中でエーダリアが手斧がぶつかった事件を話したのか、わぁっとなって頭を調べている様子に、うんざりしたような顔のアルテアが何ともなかったぞと伝えていた。
同じようにして健康診断を終えたネアは、ディノに使い魔の健康状態も調べて貰ったが、幸い、怪我や後遺症のようなものはなかったようだ。
傷を負っていたものの、すぐに自分で治してしまった可能性はあるが、効果や不快感が残っていないと分かるだけでもほっとする。
「あいつはさ、この辺りでは有名な魔術師なんだよ。アルテアが、ヨシュアの話を聞いたところで相手を確かめなかったのが痛かったかな。でもまぁ、ネアやエーダリアには悪さは出来なかったからね」
そう教えてくれたノアから、この辺りの国々で悪さをしている有名人だと聞けば、周囲にいた人々があっという間に避難してしまったのも頷ける。
生誕の祝いで与えられた災厄除けの祝福を逆手に取り、誰からも捕縛されずにこの上なく悪辣な所業を繰り返していた人物であるらしい。
元より厄除けや災い除けの意味を持つ燈籠魔術を絶対の領域とし、災いなどに置き換えられる魔術の全てを無効化するという、なかなかに恐ろしい力を持つ魔術師だったのだ。
「ある程度の守護は、災厄への置き換えが出来る。こいつの守護は、重ねてかけたばかりだろうが」
「嫌だなぁ。僕の大事な女の子に、そんなもの残しておかないよ。祝福の無効化っていうのもあるけど、魔物の守護は災厄への置き換えからの封じ込めが一番嫌な展開だから、シルの権限で、中立の魔術として上から覆いをかけてあるよ」
「…………は?」
「だから、アルテアが敢えて擬態を解かずに術式の中心を自分にしなくても、ネアやエーダリアの集めた守護や祝福が剥がれ落ちたりはしなかったんだよね」
そんな指摘を受け、アルテアは酷く遠い目をしていた。
折角守ってくれたのにと悲しくなってしまったネアは、そんな使い魔に、お土産のソーセージかチョコチップクッキーを買ってあげなければと心に誓う。
エーダリアは、その効果が自分にもかけられているのかと驚いていたが、くすりと笑ったノアが、僕が頼んだんだよと自慢げに報告していた。
「……………お土産を買いたかったのだろう?もう大丈夫だけれど、早く帰りたいかい?」
「い、いえ。時間を取れるのであれば、折角ですから、美味しかったソーセージなどを買って帰りたいですし、初めて来た街をディノと一緒に歩いてみたいです。…………もう、置き石の呪いも解術出来てしまったのですよね?」
「うん。そして今の物は、恐らくその呪いの縁続きではないのだろう。ただ、偶然が重なっただけで。とは言え、直前のエーダリアの事もあるし、あの人間に因果の成就の祝福がある以上、全てが偶然かどうかは私にも分からないけれどね」
「むむ。確かに、エーダリア様の頭に手斧がごつんとなった事件があり、アルテアさんとエーダリア様の注意が逸れた直後でしたものね。ですが、もう終わったのであれば、それでいいのかもしれません。…………ただ、あの方はなぜ、私が手を取る事に固執したのでしょう?その後に入れ物として使うような口ぶりでしたが、私でなくとも良かったような気がするのです。私には、何か目を付けられやすい要素があったのですか?」
「……………ご主人様」
「なぬ。なぜくしゃりとなったのだ」
伴侶の不審な反応に眉を寄せていたネアは、ふうっと溜め息を吐いたアルテアから、あまりにも悲しいその理由を教えられた。
「お前の可動域が、あまりにも低過ぎるからだ」
「……………いみがわかりません」
「あいつの足跡は、唯一無二の固有魔術のせいで存外に辿られやすい。だが、俺と同じように仮面の魔術を好んで使う魔術師でもある。可動域が低い器を得れば、移動時に魔術の痕跡を残す事はなくなるからな。…………一時でも透明な存在になれば、ヨシュアの目を眩ませられると思ったんだろう」
「……………とうめいなそんざいではないのですよ?」
「お前程の可動域の人間なんぞ、この土地でも滅多にいないだろう。あいつが、災厄除けの魔術師でなければ、かけられた守護や祝福のせいでその特異性が目隠しされるが、それを取り払った状態でお前を見ていたとなると、さぞかし目立ったのは間違いないな」
「……………やはり、あやつは死にたいようです」
「ありゃ。安心していいと思うよ。ヨシュアが持ち帰るくらいだから、相当な事をしたんじゃないかな。もうこっちには戻されないだろうし、生きて解放されることもないと思うよ」
「可哀想に。クッキーを買いに行くかい?」
「……………ぐるる。……………クッキー……………」
空を見上げると、当たり前だがそこにはもう、ヨシュアや、あの老人の姿はなかった。
ディノが何かをしたようで、周囲には元の往来が戻りつつあり、楽しそうに歩く人々がネア達を気にする事もない。
少しだけ、悲鳴を上げた子供達がどうなってしまうのかを考えはしたが、すぐにその思考には蓋をした。
これなら安心してお土産が買えそうだと息を吐き、ネアは、きらきらとイブメリアの飾りの煌めく賑やかで楽しい街を見回す。
そして、さっと伴侶と手を繋いでしまい、ディノをくしゃくしゃにしたのだった。




