184. 一人だけ飛べません(本編)
「今回は、デザートをいただいたらもう帰る感じでしょうか?」
「おい、食い気だけなのをどうにかしろ」
「ネア様、僕がケーキなどを幾つかお持ちしましょうか?」
「ケーキ………」
「ワイアート、君はネアの側を離れない方がいい。俺が取りに行こう」
そう微笑んだグレアムが離れようとしたので、ネアは慌てて呼び止めた。
自分で取りに行くのならまだしも、給仕でもないグレアムにそんな事はさせられない。
今日は冬告げの舞踏会で、グレアムはお客の一人なのだ。
だが、微笑んで振り返ったグレアムが何かを言おうとしたところで、会場からきゃーっと悲鳴が上がった。
(…………っ、)
これだけリツムを警戒しているその時である。
ぞっとして振り返った先で揺れたのは、美しい季節の舞踏会ではあまりにも無粋な、鮮やかな白い翼であった。
ネアはそんな翼を持つ生き物をよく知っていたが、随分と久し振りに見たような気がする。
とは言え、一度は空に攫われた事があるのだから、忘れたくても忘れようがない相手ではないか。
ばさりと大きく広げられた六枚の翼は、その時と変わらない白さのままであった。
「………おい、まさかあいつか」
「冬の系譜とは言え、あれを呼ぶような者がいたとはな。………アルテア、念の為に防壁を立てられますか?」
「もう展開している。……グレアム?」
「彼は、俺が対処しよう。………一度懲らしめてあるから近付かないと信じたいが、それでもネアが見付かると厄介だ」
「…………ほわ。なぜあやつがここにいるのだ。ラファエルさんや、アンナさんはどうしたのでしょう………」
「うーん。呼ばれたというよりも、身内の招待状を奪って入り込んだという方がしっくりくるな。ネア、少し隠れていてくれ」
「むむ、ウィリアムさんのケープの中です!」
ネアはここで、少しだけ悩んだ。
自分達がこの料理のテーブルの側にいた場合、美味しい料理の安全度が今後どのようになるのかは、とても大切な問題であった。
これだけの人材が前に立っているので、背後のテーブルは安全だと思うべきか、ここを標的にされたら却って危ういと思うべきか。
守るべきものは背後にある。
であれば、賢い人間が知恵を絞り、何とかしてこの遺産を守らねばならないのは当然と言えよう。
グレアムが純白の排除に出かけてゆくのを見送り、ネアは、ウィリアムのケープの内側で防衛作戦を練りながらむふんと息を吐く。
アルテアが呆れたような目でこちらを見ているが、いい匂いがするしとても強い外壁だしで、隠れ場所としては完璧である。
しっかりと腰に回された腕の力強さを感じながら、ネアは、ケープの内側でこっそりちびふわ符を取り出しておいた。
少し考え、ダリルから貰った迷路の術符と、このような場所で振り回しても安心な武器も取り出しておく。
それぞれにドレスの隠しポケットに押し込むのだが、マーメイドラインのドレスなので、いつもより収納力は低いのが難点であった。
「………狡猾だな。グレアムを見るなり、翼を畳みやがった」
(………む、)
そんなアルテアの言葉に白い翼が見えた方を向けば、けぶるような金髪に青い目をした雪食い鳥は、ぴっちりと翼を畳み、犠牲の魔物に優雅にお辞儀をしてみせている。
深みのある深紅の盛装姿は、遠くからでも視認出来る鮮やかさだ。
「騒ぎを起こさなければ、グレアムも排除は出来ませんからね。さっきの悲鳴は?」
「純白を見た招待客が、勝手に悲鳴を上げただけだろう。種族や階位によっては捕食者として見るからな」
「むぅ。同じように悪食と言われていても、ダナエさんはそんなことはないのに、あやつは大人しく出来ないのでしょうか?」
「いや、今回は大人しくされていた方が厄介なんだ。今みたいにそつなく振る舞っていても、飽きた頃に騒ぎを起こすのは目に見えているからな。寧ろ、早々に問題を起こして放り出せた方がこちらとしては有難い」
「………言っておくが、ダナエも客は食ってるぞ?」
「ダナエさんは優しくて可愛い食いしん坊竜さんなので、そこは不問としましょう」
「…………くっ、春闇の竜か」
ここでワイアートが何か言ったような気がして、ネアは、ウィリアムのケープで死角を作ってから顔を出すという方式で、ちらりとそちらを窺った。
目が合ったワイアートはぎくりとしたように瞳を揺らし、胸に手を当てて一礼する。
何やら恥じ入った様子であるが、先程の呟きが理由だろうか。
となると、竜は竜なりに、可愛いと言われる同族に嫉妬したりもするのかなと考えたネアは、そんな雪竜の祝い子も、ウィームでよく活躍してくれる良い竜であると褒めておこうとぴょこんと体を傾けた。
「…………っ、角度を考えろ!」
「なぬ。なぜケープのカーテンを閉じられたのだ………」
しかし、隣にいたアルテアに突然にケープを閉じられてしまい、ウィリアムのケープの中に幽閉されるではないか。
むぐっとなったネアはじたばたしようとしたところで危うく前のめりに転倒しかけ、腰に回された腕にぐっと体を支えて貰った。
一瞬体が浮いてしまったが、ウィリアムの咄嗟の行動で事なきを得る。
「アルテア、気を付けて下さい。………ネア、大丈夫だったか?」
「ふぁ、危うくすてんとなるところでした。後で、使い魔さんにはきちんと報復しますね」
「お前に情緒があれば、必要なかった措置だがな」
「またしても情緒………?」
ウィリアムのケープの内側で首を傾げたネアは、このままの顔の見えないやり取りではなく、外の世界にも参加させ給えと、もう一度顔を出そうとした。
もしその時に、床石の輝きに目を留めて何気なく足下を見なければ、そこから先でどうなっていたのだろう。
(………え、)
磨き上げられた石床なので、多少なりとも映り込みがある。
だが、ネアが見下ろした足下に映っていたのは、その上に立っている自分でもウィリアムでもなかった。
透明な硝子越しに覗き込むように、床石を挟んだ反対側には別の舞踏会の会場があって、その煌めきがこちらにもちかちかと届いている。
そして、ネアの反対側に立っているのは、あの白い髪の男性であった。
「………っ!!」
こちらの視線を感じたのか、足下を見下ろそうとした男性の動きに気付き、ネアは、びゃんとそこから飛び出した。
思わずウィリアムの腕を振り払って逃げてしまったが、驚いたように手を伸ばしたアルテアにすぐ捕獲され、それでも勢いを殺しきれずにととっとよろめく。
「………おい?!」
「あ、足下に侵入されました!床石の下です!!」
「………っ、アルテア!」
「くそ、積極的に映し合わせてきたか!………っ、ネア、手を離すぞ!」
「ふぁ、………ぎゃ?!」
そこからの展開は、あまりにも急なものであった。
腕を掴んだアルテアに、ぶんと勢いをつけて体を押し出されたネアは、そのまま放り投げられるように誰かの腕にしっかりと抱き止められる。
か弱い乙女をしっかりと受け止めた誰かは、揺らぎもしない力強さで素早くネアを抱え上げ、何歩か後退する。
ネアが、何とか現状を把握出来たのはそこまでで、がしゃんという鈍い音が響いたのは、その直後だった。
「掴まっていて下さい。床から一度離れます」
「わ、………ワイアートさん?!」
「はい。どのようなご命令も喜んで承りますが、今暫くは、どうか僕に判断を預けていただけますか?」
「は、はい!」
ネアが頷くや否や、ぐらりと体が揺れた。
一瞬、振り落とされてしまうのかと思ったネアは慌ててワイアートにしがみついてしまったが、ぶわりと巻き上がった風を感じたので、垂直に飛び上がっただけだったらしい。
(………飛び上がった………?)
「ぎゃ!お空を飛んでます!!」
「ええ。滅多にない事ですが、リツムがこちらへの接触を図ったようです。重なった層に、余程階位が高い者がいるようだ。………いや、先程の会話を聞く限り、道具なのかもしれませんが」
「接触?………は!ウィリアムさんとアルテアさんは………」
慌てて顔を上げると、ネア達がいるのは冬告げの会場の空であった。
大広間などの屋内ではなく、森の縁取りを得た会場だからこそ可能だった避難場所なのだが、慌てて下を見たネアは戦慄した。
ばらばらと。
そして、まるで悪夢のように。
先程見た足下の世界は、こうして真上から見るとあまりにも鮮明で、どこか騙し絵のようだ。
「………落ちて、」
「ええ。映し取って、飲み込みましたね。このような侵食型のリツムは珍しい。とは言え、百年程前の夏告げでは、かなりの被害を出したリツムの出現があったそうです。お陰でその年の冬には、世界的なものではありませんでしたが、蝕が起きました」
それは、不思議な不思議な光景であった。
こちら側と、リツムの舞踏会が映り込んだ足下を隔てていた硝子板が失われたように、冬告げのお客の何人かが、とぷんと向こう側に落ちてゆく。
同時に向こう側からこちらに落ちてきたお客もいるが、それはまるで、あちらとこちらの駒の入れ替えのようにも見えた。
一人が失われると、一人が入り込む。
そんな様子はどこか奇妙で悍ましく、ひゅっと息を呑んだネアは、震え上がりそうになった。
とは言え、こちらとて冬告げの舞踏会なのだ。
そうそう簡単にあちらに奪われはせず、多くの参加者達は、それぞれに自身の足元を補強している。
例えばアルテアは、足下に光る術式陣のようなものを展開させていたし、ウィリアムは力任せに床石を蹴り、ひび割れたその部分だけはあちら側への道を閉じていた。
妖精達には羽があるし、アルテアのように魔術で足場を設けた者も多い。
そして、幸いな事に会場の全ての場所が変化したのではなく、床下にリツムが現れたのはネア達が立っていた場所を中心とした限られた場所だけであったようで、グレアム達がいた方は元の床石のままであった。
(先程までは、この舞踏会の会場に薄く重なるようにしてそこにあったのに………)
重なるのも不穏であるが、こうして明確に境界を設け、そこを超えてくるものはもっと悍しい。
「ネア様の真下にいた、白銀の髪の男が核でしょうね。残念ながら、何の道具やどのような人物なのかは分かりませんが。………不愉快な魔術の気配だ。炎と夏至祭でしょうか」
「白い髪に見えてしまっていましたが、白銀なのですね………」
「ええ。逆さまなので分かり難いですが、光の角度によって、灰色の影が深くなりますからね。重なり合わせただけでは思うように場を繋げられず、映し合わせてこちらに入り込もうとしているようだ。……………余程、こちら側への執着や憎しみが強いとみえる」
そう呟いたワイアートの言葉に、ネアは背筋が寒くなった。
初めての参加ではないのだから、この季節の舞踏会にはどれだけの意味があり、どれ程丁寧に管理されているのかは、ネアだって知っている。
(それなのに、このようにして浸食してくるだなんて……………)
聞いた限りでは、こちらの何某かの条件が揃う事で、向こう側の環境を整えてしまうのだろう。
普段は起こらない事が起きたからこそ、現れたものなのだとは思う。
だが、ちっぽけな人間の目線からすると、高位の者達が整えた大事な舞踏会にこうも簡単に場を重ねてきてしまうということ自体が、何やら衝撃的であった。
呆然と眼下を見つめるネアの頭上で、ばさりと、力強い羽ばたきの音がする。
目を瞬き、思わず体を捻ってそちらを見てしまったせいか、気付いたワイアートが僅かに目元を染めた。
「申し訳ありません。中途半端な姿ですが、どうかご容赦下さい」
「あら、そんな事は思っていませんよ?とても綺麗な白混じりの薄紫色の翼です。ジゼルさんもそうでしたが、雪竜さんの白にはこのような色合いが混ざるのですね」
「王の色味とは微妙に違うのですが、僕は、たまたま瞳の色に近いこちらの白を得たようですね。………っ、ネア様掴まっていて下さい!」
「む?………みぎゃ?!」
そして、ここで更に、とんでもない事が起きた。
リツムの侵食ですっかり忘れていたが、そう言えば先程までのネア達は、会場の向こう側にいたリュツィフェールを警戒していたのだ。
それなのにこんな風に空に留まっていれば、こちらに気付いてくれと言わんばかりではないか。
(し、しまった!!)
真っ白な塊が飛んできたと思った途端、ワイアートがぐっと体を捻り、凄まじい衝撃が加わる。
しっかり抱え込まれたネアは大きく体が揺さぶられたばかりであったが、ネアを庇ってくれたワイアートは、攻撃を直接受けたようだ。
がつっという鈍い音と同時に微かに寄せられた眉に、ネアは、ぎりりと襲撃者を振り返る。
「ははっ、………どこかで見た事のある小娘だと思えば。まさか、このような所にも出入りしているとはな」
「お、おのれ鳥め!よくもワイアートさんを蹴りましたね!!」
「………護衛か。多少白くとも、まだ幼竜では話にならんな」
「………そうか。その翼を引き抜かれたいようだな。よくも、ご主………この方を危険に晒してくれたな」
「なんだ。取り澄ましたような見た目のくせに、意外に血の気が多いのか。俺としても、そちらの小娘はさすがに殺せんが、お前であれば遠慮はせんぞ。片羽でも捥いでやれば、いい暇潰しに………っ?!」
ここでリュツィフェールが見誤ったのは、ワイアートの腕の中にいた、ネアという敵の力量だろう。
恐らく、空中にいるので戦力外にしたのだろうが、ワイアートがネアを抱える両手を使えずにいる代わりに、こちらの人間はある程度動きが取れるのだ。
何だか追い詰めてやったぞ的な空気を醸し出していたものの、ネアだって少しも油断はしていない。
そして、そんなネアが投げつけたのは、先程、術符と共に取り出しておいた紐付きカワセミボールであった。
カワセミボールは、狩ったカワセミの革を丸めて、投擲用の紐を付けただけの簡単な道具だ。
多少、命中率を上げる魔術や打撃力を上げる魔術などはたっぷりめに添付されているものの、簡単に作れてしまう。
だが、ふんだんに使われているカワセミの外皮は、火薬の魔物の銃撃すら防ぐ硬さなので、きりんボールを投げ付けられない現場では、有効な武器の一つになるだろうと考えていた。
出来れば、それこそ狙撃を可能とするような道具があれば尚良かったのだが、今のネアは、下の人々を諸共滅ぼしてしまう激辛香辛料油の入った水鉄砲しか持っていない。
とは言え、今回は、カワセミボールが良い働きをしたようだ。
一人だけ飛べないという不利な戦場でも、この狩りの女王は、相応しい武器を使い戦えてしまうのである。
「………ふむ。落ちましたね」
「………流石です」
顔面に物凄く硬いものを力いっぱい叩きつけられ、わしゃんと床に落ちた六枚羽の雪食い鳥は、走ってきたグレアムに素早く捕獲された。
一緒に走ってきたジゼルも、グレアムがいつもの大剣でばしんとやってしまったリュツィフェールをぜいぜいしながら踏みつけ、何らかの魔術的な拘束をかけている。
こちらを見上げ、ほっとしたように息を吐いたグレアムに、ネアは微笑み、ワイアートはお辞儀をしたようだ。
いきなり悪食の雪食い鳥が落ちてきたので、周囲のお客はきゃっとなっていたが、幸いにも大きな騒ぎにはならずに済みそうではないか。
「あのお二人だと、簡単に捕まえてしまえるのですねぇ」
「いえ、………ネア様が、意識を失わせたからこそ可能だったのでしょう。顔面に直撃しましたからね」
「確かに厄介な相手ですが、こちらは今はそれどころではないので、手早く排除出来て良かったです。あやつは所詮、過去に葬り去った事のある程度の獲物に過ぎません。寧ろ、経験から学ばなかった愚かな鳥さんです」
「……………ええ」
なぜか声が震えたぞと思い振り仰いだワイアートが恥じらっているので、ネアは、とは言え、淑女が舞踏会で戦ってはならなかったかなと少しだけ後悔した。
しかし、より大きな脅威はリツムなのだ。
既に一度手合わせした純白ごときで時間を取られる訳にはいかないので、こちらは早々に退場いただこう。
「………ですが、もしかすると、あやつにも同伴者がいたのでしょうか」
「恐らく、一人で参加したと思われますが、ネア様が、そのような些事を気にせずとも良いと思いますよ。あなたのなさる事に歯向かう者がいれば、こちらで全て排除いたしますから」
「む、……むむ?」
さすがにそこまでしてくれなくてもいいのだが、ネアは、ここでもう一度、力で解決するのが大好きな竜という生き物について思い出した。
穏やかな気質の方が前に出るダナエやベージ、ドリー達ならそんな事はないだろうが、他の竜は、すぐにがおーとやりがちだった。
つまりは、このような言動は、習性による部分が大きいのだろう。
(……………そして、リツムの方も、何とかなりそうな雰囲気になってきた、……………のだろうか……………)
「真下の皆さんは、大丈夫でしょうか?」
「あちらも、癒着を剥離出来そうですね。重なった層が見えなくなっていますから」
「良かったです!ウィリアムさんも、アルテアさんも無事でした……………」
「あのお二人は、最高位に近しい魔物ですから、リツム如きには損なわれないでしょう。生き物以外には反応しなかったのか、料理のテーブルも無事ですよ」
「ええ。あのテーブルに悪さをしたら、私は、悲しみのあまりにリツムで重なってきた方々を全員滅ぼさねばなりませんでした。………もう下に降りられそうですか?」
「ご不安でしょうが、あちらから声がかかるまでもう少しお待ち下さい」
いつの間にか、床石の下の舞踏会会場は見えなくなっていた。
あの白銀の髪の男性の姿も見えなくなっているものの、先程の入れ替えでこちらに出てきてしまった者達はどうだろう。
視線を巡らせてみれば、先程落ちてきた人物だろうなという、会場の係員に捕縛されている女性が見えたので、残念ながら、こちらに入り込んでしまった者は残るようだ。
よく分からないどこかから、こちら側に入り込んだ者がいるというのは、怖い事だと思う。
だが、季節の舞踏会の会場には独自の遮蔽魔術もある筈なので、更に外に出してしまうという事態にはならないと思いたい。
「はい。では、下が落ち着き次第に下ろして下さいね」
だが、ひとまずは仲間の無事を喜ぼうと、胸を撫で下ろしたネアがそう言えば、早く解放して欲しいと言われたように感じてしまったのか、ワイアートがしゅんとしてしまった。
「…………竜などに持ち運ばれるのはお嫌でしょうが…」
「ワイアートさんは、先程、リュツィフェールさんに蹴られてしまったでしょう?その時に、私を庇う為に背中を向けてくれました。早く下に降りて、その部分を痛めていないかどうかも確かめましょうね」
「このくらい、なんて事はありません。あなたをお守り出来たのですから、これ以上の喜びはありませんよ」
グレアムに何を言われたのか、この雪竜はすっかり責任感に満ち溢れてしまっているぞと困惑しつつ、けれどもネアは、きらきらさせてこちらを見ているワイアートに、感謝の思いを込めて微笑みかける。
嬉しそうに目元を染める姿は大型犬の区分だが、さすが竜種らしく、いずれは魔物達よりも長身になる片鱗を感じさせる肢体だ。
或いは、既に身長などは抜いてしまっているかもしれず、どちらにせよ、一介の人間であるネアからすると随分大きい。
そんな竜ではあるものの、嬉しそうにこちらを見ているからには、一度撫でておけばいいのだろうかと考えていると、下から声がかかった。
「おい、こちらは終いだ。そいつを返しに来い」
「む。アルテアさんから声がかかりました!」
「……………おかしいな。返して貰うのは、俺の筈なんだがな……………」
ばさりと翼を打ち振るう音が響き、ふわりとした降下の感覚に肌がざわつく。
漸く地上に戻る事が出来たネアが周囲を見回せば、どうやら大きな損傷などは出ていないようで、テーブルに飾られた薔薇の花びらがひらりと一枚だけ落ちたのが印象的であった。
奥の楽団が奏でる音楽は当たり前のように続いているし、床石に残った生々しいひび割れは、はらはらと舞い落ちた雪片が触れた途端に、しゅわんと消えていってしまう。
後はもう、美しく着飾った男女が踊る、艶やかな冬告げの夜があるばかり。
きらきらと光る飾り木は変わらずに佇んでいて、外周の森は、冬の祝福をふんだんに蓄え、溜め息を吐きたくなるほどに美しい。
そこには、つい今しがたまで起きていた騒動の名残は、まるで残っていなかった。
「ネア、手を離していてすまなかったな」
「むぐ。……………ウィリアムさんも、足元は大丈夫でした?」
「ああ。どれだけ深く重なっても、所詮向こうは裏でこちらが表側だ。季節の祝福のあるこの会場に立つ以上、俺やアルテアであれば、自分一人の足元を守るのには何の支障もない。だが、リツムの備える意味を思えば、ネアが触れるには少し危ういものだった筈なんだ。彼がいてくれて助かった」
「ワイアートさんは、あの純白めからも守ってくれたのですよ。…………ワイアートさん、背中は、お怪我などはされていませんか?もし、痛めているようであれば傷薬がありますから仰って下さい」
地上に降ろして貰うなり、さっとウィリアムに持ち上げられてしまったネアは、こちらを見て微笑んでいる雪竜を、鋭い目でじっと見つめる。
困ったようににっこり微笑んでいるが、どうも、蹴られた背中の状態を確認した様子が見受けられないので、痛みを堪えていたりしたら大変ではないか。
「ええ。僕の事はどうぞお気遣いなく」
「痛みもありません?」
「竜は頑丈ですから」
「むむぅ。もし、沢山飛んでお腹が空いていたら、獲物などはいりますか?」
「獲物……………?」
「おい、お前は何を狩ったんだ、何を!」
ネアがワイアートに差し出したのは、純白を倒した後の滞空期間中にぶーんと飛んできたのを、反射的に掴み取ってしまった細長い毛皮状の何かだ。
深みのある青色の毛皮生物は、ぐったりぐんにゃりしているので確実に滅びているが、通りすがりだったのか敵だったのかはもはや分からない。
とは言え、相手が竜なら、おつまみついでにぱくりといけてしまいそうな大きさではないか。
「……………獲物を、僕に?」
「おい、お前もしっかりしろ。これを食うと思われているんだぞ?」
「た、食べます!あなたが、そうせよとお命じになるのであれば!」
「悪食になるつもりかよ……………」
「なぬ。竜さんなのに、このようなものはいただかないのですね?では、こやつはやめましょう。その代わりに、私のお勧めの苺のシュプリなどを飲みますか?給仕の方を呼べば、すぐに持って来てくれると思いますし、きっとお疲れでしょうからすっきりしますよ」
「喜んで!」
「ネア、彼は、会場の給仕とアルテアに預けようか。あちらのテーブルで、デザートを食べたかったんだものな」
「……………むぐ。ケーキ」
「リツムの騒ぎで後になってしまったから、急いで向かった方がいいかもしれないぞ」
「い、いきます!!」
強欲で身勝手な人間は、そんな誘惑には到底勝てなかった。
すぐさま近くにいた給仕を呼んで貰い、ワイアートへの飲み物を手配すると、デザートの聖地への巡礼に旅立つべくきりりと背筋を伸ばす。
「我々は、これからデザートをいただくのですが、ご一緒しますか?それとも、お姉さまのところへ戻られますか?」
「姉は、あちらで元気に過ごしておりますから、ご一緒しても?」
「ネア、竜は置いていってもいいんだぞ?」
「ですが、ご近所さんですので……………」
「いい加減に、掴んでいる物を捨てろ」
「まぁ。うっかり、獲物を鷲掴みにしたままでした。こやつは、金庫に移動しますね」
「……………それは置いていけ。冬走りの眷属だ。後々で面倒なことになる」
「……………まぁ。ではぽいです。あちらにいる方の羽に引っ掛けておきます?」
「なんでだよ」
呆れたような顔をしたアルテアだったが、そこに立っている妖精は、先程、床石の向こう側から入り込んだものなので、別にどうなってもいいのだとネアが真顔で言えば、はっとしたように振り返った。
全てを確認出来た訳ではないが、誰よりも観察に向いた場所にいた以上、ネアは、ある程度のリツムの入れ替わりは覚えておこうとずっと目を凝らしていたのだ。
そんな妖精は、アルテアが声をかけ、会場の精霊達がすぐさま捕縛してくれ、その際に、ネアが狩ってしまった冬走りの眷属な毛皮生物も一緒に回収された。
労せず厄介な獲物を手放せたネアはほっと息を吐き、しっかりと持ち上げてくれているウィリアムと視線を交わす。
「せっかくの舞踏会なのに、落ち着かなかったな。リュツィフェールの排除とリツムの剥離も終わったようだから、この後は、ネアとゆっくり過ごせそうだ」
「ふふ。では、まずはケーキをいただいてもいいですか?」
「ああ。その後でまたダンスに戻ろうな」
「はい!……………むぐ?!」
ここでネアは、お口の中にさくさくじゅんわりな何かを押し込まれ、目を瞠った。
目を瞬き、そんな贈り物をしてくれたアルテアを見れば、どこか呆れたような顔をしているものの、とても良い使い魔具合であるのは間違いない。
むぐむぐとお口の中の美味しいものを噛み締め、すっかりお気に入りの一口ステーキのパイ包みであるとにんまりする。
「……………なぬ。ソースが違います……………」
「お前は気付いていなかったようだが、同じように見えて二種類あったからな」
「ほわ、……………わ、罠だったのです?」
「なんでだよ。…………ウィリアム、向かいから歩いて来るニエークには用心しろよ」
「おっと、防壁があった筈なんだが、振り切ってきたのか……………」
「……………彼は、僕が足止めしましょう。どうぞ、あちらのテーブルへ向かわれていて下さい」
しかしここで、なぜかワイアートがニエークの対処に向かってくれてしまい、ネアは、雪の系譜同士で知り合いなのかなと首を傾げる。
助けて貰ったばかりでここで置いていってしまって大丈夫だろうかと少し心配であったが、一緒にいる紺色の髪の美しい女性の面立ちがそっくりなので、きっと彼女がワイアートの姉なのだろう。
であればそちらは任せてしまい、いざ、美味しいケーキなどをいただいておこうぞと、ネアは厳かに頷いた。
「………ウィリアムさん、リツムとやらは、もう大丈夫なのですか?」
「ああ。アルテアの見立て通り、道具類の層だったな。スリフェアと道具屋のあわいが入り混じったような、奇妙な空間だった。表層から剥離して重なり、入り混じっているような場所もあるのかもしれない」
「ワイアートさんが、あの白銀の髪の男性が、今回のリツムの核ではないかと仰っていました」
「俺もそう思う。アルテアから、ウィームの祝祭で現れた白い夏至祭の棒ではないかと聞いたが、今回は、こちらが剥離そのものを優先させるのを見越していたのか、表層には現れなかったな」
白金色の瞳を細めて微笑んだウィリアムにそう教えて貰い、ネアは、ほんの少しの不安を残したまま、美しい灰色の床石を踏む。
繊細な金色の模様はそのままで、先程見たようなここではないどこかの舞踏会の光景は、もう映り込んでいなかった。
(………でも、ここではないどこかがあるのなら、あの舞踏会もまた、どこかで続いているのだろうか)
そんな事を考えかけ、首を振る。
すっかり忘れていた道具屋のあわいの記憶のように、そちらの記憶は、剥離させて捨ててゆくのが正しい在り方なのだろう。
であれば、終わってもなお思案し続ける事で、不要な縁などは繋がないように。
心を解いてゆくような美しいワルツの旋律に、誰かのドレスの裾が花びらのように広がる。
ふくよかな枝葉の色合いに真っ赤なリボンが美しい飾り木の上に輝く星飾りを見上げ、ネアは、その美しさこそを心の中に重ねて焼き直した。
飾り木のどこにでも、きっとあの優しく微笑む人がいるのだろう。
それならばきっと、飾り木の枝の下はいつだって、祝祭を尊び願いをかける子供達を見守っていてくれる人の手のひらの中に違いない。




