182. 冬告げは重なります(本編)
その日のウィームは、朝から雪が降っていた。
灰色の空の向こうから白い雪が舞い落ちる様の美しさでは、きっとウィームに勝る場所はない。
すっかりこの土地が大好きになったネアは、何度だってそう思うだろう。
かくして、冬告げの日の朝はこうではなくてはと喜びに弾んで目を覚ましたネアは今、ウィリアムに髪の毛を結い上げて貰っている。
今日は、冬告げの舞踏会なのだ。
鏡の中の男性らしく美しい指先が、青みがかった灰色の髪を緻密に結い上げてゆくのを見ている。
軍服を纏い剣を手にする魔物だと思えば、その手の輪郭は、ディノともアルテアとも、勿論ノアとも違う。
こうして髪を整えて貰うのはどこか親密で、それなのに安心して自分を預けられるこそばゆさは、時々、ネアの首筋をそわりとさせた。
何しろこの人間はとても警戒心が強く、こんな風に誰かに面倒を見て貰う事なんて、ずっと苦手だった筈なのだ。
ディノにだけ。
そしてディノだからこそと思う事が多いけれど、ウィリアムにはウィリアムの、そして他の家族や仲間にはそれぞれの、これまでのネアハーレイの人生では信じられないくらいのものを預けている。
そんな事を考えながら、飽きずにずっと鏡の中のウィリアムを見つめていた。
途中で、あまりにも凝視したせいか鏡の中で目が合ってしまい、ウィリアムがふっと微笑んでくれる。
どこか秘密めいた眼差しに微笑みを返し、これから訪れる場所を思ってそわそわと爪先を動かした。
(…………わ、……少し髪の毛を引き出しただけなのに、がらりと印象が変わった……)
今年は、ふんわりさせながらも髪の毛は上げてしまう結い方で、ネアは密かに去年の髪型を惜しんでいた。
しかし、ウィリアムの得意な少し崩したような柔らかな髪形に、どこからか取り出された生花のような装飾が美しい宝石の櫛が飾られると、途端にどこか色めいた大人の女性らしい髪型がぐっと繊細になる。
それはもう、上品な大人の装丁の中に童話の挿絵が隠されていたような美しさで、ネアは目をきらきらさせた。
「…………この髪飾り一つで、ぐっと雰囲気が変わるのですね」
「ああ。この髪飾りを使う為に、控えめな結い上げにしたからな」
「しゃりんと下がっている雫型の宝石のようなものが、なんて綺麗に光るのでしょう!」
「ああ。ダイヤモンドダストの祝福石だな。ネアの髪飾りに使いたいからと話して、ハザーナに分けて貰ったんだ」
「まぁ。ハザーナさんがこのきらきらの祝福石を分けて下さったのです?今日お会いしたら、お礼を言わなければなりませんね」
だが、白薔薇と雪紫陽花を模した髪飾りにすっかり心を奪われたネアが、こんなにも素敵な物を飾って貰ったのだと報告したくて振り返ると、残念ながら伴侶の魔物の姿はないようだ。
微笑んで立っているヒルドが、そっと、いつものカーテンの方を示してくれる。
するとそこに、義兄と一緒に隠れている魔物の三つ編みが見えた。
(……………良かった。ノアも元気そうだわ)
伴侶と義兄なのだから、出来ればここにいて欲しかったのだが、そんな光景ももう毎回の事だ。
となると、何だかこれでいいのかもしれないと、妙にほっこりしてしまうから不思議ではないか。
特に義兄なノアは、昨日の夜にリーエンベルクに戻って来るまでにどこかでとても怖い目に遭ったようだ。
ネアの知らない事情を、他の家族は知っているような気がしたが、教えてくれないのであればそこには触れない方がいい事情があるのだろう。
こちらの世界には様々な魔術が敷かれており、ネアは、それでもいいから何もかもの全てを共有して欲しいという我儘でそんな危険に触れるつもりはない。
もし必要なら教えてくれるだろうし、不要であればそこにはそれなりの事情がある。
もしかしたら、ただ心配させないようにしてくれているだけかもしれないけれど、であればそれは、大事な家族の気遣いなのだろう。
(だから私は、ノアが元気でここに居てくれるだけでいいのだわ)
もし、その厄介事が継続するのであれば、きっとお知らせがある筈だ。
だが、昨晩、蕩けるチーズがかかったシュニッツェルを食べていたノアの幸せそうな顔を見ていると、ああ、もう大丈夫なのだなと安心出来た。
遅い晩餐の後は銀狐姿でヒルドと一緒に寝たらしい塩の魔物は、今は、カーテンの後ろに隠れて震えている。
「ディノ、カーテンの裏から出て来てくれませんか?」
「……………虐待する」
「あら、こんなに素敵になったので、伴侶には絶対に見て欲しいのです。それに、出かける前にお見送りもして欲しいのですが、私の大事な伴侶は出てきてくれないのですか?」
「……………ネア」
狡賢い人間に誘導されてしまい、ディノは、もそりとカーテンの裏から顔を出す。
凄艶な美貌の魔物が恥じらう子犬のようにカーテンの裏からこちらを見る様子は、何とも無防備な感じがした。
一緒にノアも顔を出してくれたのだが、なぜかその途端に二人できゃっとなっている。
もしかするとこの魔物達は、寄り添うと互いの心の動きが連動してしまうのかもしれない。
「どうですか?今回は、ぐっと腰回りの括れた大人のデザインのドレスなのですが、アンダードレスのフリルがスリットから見えるのが何とも可憐なのですよ。因みに、初めてのケープのついたドレスなのです!」
「可愛い、弾んでる……………」
「ウィリアムさんとお揃いなので、何だか安心してしまいますね」
「ウィリアムなんて……………」
今年のネアのドレスは、首後ろと肩口からドレスと一体になっているケープが足元まで伸びている、とても上品なものだ。
ケープは細長い布地の両端を折りたたんで伸ばしたような古典的なデザインで、ネアの生まれ育った世界でも、古き良き時代の王妃のドレスなどで見かけるものがあった。
シルエットがマーメイドラインなので、アンダードレスのフリルがなければ女王のような気高いドレスだが、付け加える要素でぐっと繊細な印象になるのが仕立て妖精の女王の仕掛けだろう。
実は密かに、偉大で凛々しく見せてくれるケープのひらひらに憧れていた人間は、背中の後ろに伸びる布地が嬉しくてたまらず、どうしてもふんすと胸を張ってしまうのだ。
(なぜかこの形のケープなのに、羽や翼のようにも見える。………ドレスと同じような質感に感じられるけれど、軽やかで薄くて、刺繍がとても映える布なのだわ)
それでいて、軽薄な印象にならないようにすとんと下に落ちるケープのデザインは、どこか聖職者のような荘厳さも備えている。
プリンセスラインのドレスではなく、体のラインを女性らしく描き出す、繊細な刺繍のあるハイネックと、マーメイドラインの純白のドレスとは合うのだろうかと思っていたが、実際に着てみればこの上ない組み合わせであった。
おまけに、施された刺繍がシェルホワイトと淡い水色を使っているからか、ウィームの伝統的な陶器のような上品さで、堪らなく美しい。
ハイネックのデザインなので喉元は覆われているが、舞踏会のドレスらしく、首下から胸元にかけては大胆に開き、肩甲骨から下の背中も大きく開いている。
禁欲的なドレスに感じられるが、こうして着てみると女性らしい美しさをしっかり出してくれるので、ネアは、今年の冬告げのドレスもたいそう気に入ってしまった。
「え、ウィリアムと揃え過ぎじゃない…………?」
「ウィリアムなんて……………」
「ウィリアムさんは、ケープの裾部分のカットが、私のアンダードレスのフリルと同じ形になっているのですよ。コットンレースのような刺繍の縁取りが美しくて、遠目に見ると翼のようにも見えるケープなんですよ。なお、首元の毛足の長い毛皮がふぁさっとなるので、怜悧な華やかさが素敵だと思いませんか?」
「………ウィリアムなんて」
そちらの盛装姿も素晴らしくて、ウィリアムを褒め過ぎてしまったからか、伴侶な魔物はやや荒ぶっていたが、それでもネアの前に来てくれると、目元を染めたままこくりと頷く。
カーテンの後ろに旅立っていたせいか、髪の毛が少しだけくしゃりとなっていて、微笑んだネアはその部分を指先で撫で付けてやった。
「綺麗だよ、ネア。君に素晴らしく似合っている。………綺麗で、………虐待」
「後半の様子がおかしいので、違う表現を探してみましょうか?」
「綺麗で、…………酷い?」
「なぜなのだ」
「動いてる。可愛い………。ウィリアムなんて…………」
「わーお。背中の部分、ウィリアムに役得過ぎない?!ちょっと危ないところまで触れそうだよね?」
「………むむ?お尻は隠れていますし、しっかり肌を覆い過ぎてしまうと、舞踏会らしさが減ってしまいますからね。なので、胸元と背中は、ばばんと開いているのですよ!」
「ひどい…………」
「胸もさ、……そこだけそんなに開いてるって、ウィリアムの趣味だよね………?」
「ノアベルト?言っておくが、このドレスを作ったのは俺じゃないぞ?」
ネアは、わいわいする家族に向けてくるっと回ってみせ、たいへんお美しいですよと、ヒルドに褒めて貰った。
ゼノーシュも来てくれるかなと思ったが、ダリルと打ち合わせをしているエーダリアに付き添ったグラストと共に外しているので、今年の冬告げでも、リャムラ評はいただけないようだ。
もう一度くるっとしてみせると、きゃっとなった魔物達がヒルドの背後に隠れてしまったが、こちらにウィリアムが来たところを見ると、そろそろ出立の時間なのだろう。
「ネア、そろそろだな」
「はい!ウィリアムさん、今年も宜しくお願いしますね」
「ああ。……シルハーン、ネアをお預かりします」
「ウィリアムなんて…………」
こちらを見て微笑んだ終焉の魔物は、前髪を上げて、水晶の小枝を編んだような王冠を被っている。
そんな装いは初めて一緒に出掛けた冬告げの舞踏会から同じだが、その佇まいは万象以外の唯一の王族の魔物らしく、ひやりとするような排他的な美しさだ。
雑踏に紛れると言われる終焉の資質よりも、その魔物の王族としての質が表に出るからだろうか。
何度見ても、普段の姿では感じられない男性的な艶やかさが際立ち、何だか得したような気持ちになってしまう。
純白の盛装姿は、やはりどこかに軍服めいた鋭さがあるものの、普段の装いを感じさせるデザインだからこそ、舞踏会用に添えられた華やかさが際立つに違いない。
王族位の魔物らしい気品だけでなく、匂い立つような男性的な色香を引き出すのもまた、仕立て妖精の女王の腕なのだろう。
差し伸べられた手を取り、ディノに行ってきますと声をかけると、水紺色の瞳を揺らした魔物がこくりと頷く。
ノアとヒルドにそんな魔物を託し、ネアは、ふわりと腕の中に収めてくれたウィリアムと共に、淡い薄闇を踏んだ。
「どきどきしてきました………!」
「昨年の冬告げを見てしまった後だと、少し物足りなく感じるかもしれないな」
「あちらの会場は、百年に一度なのですものね。昨年の冬告げの舞踏会は、クロムフェルツさんにお会い出来てしまったりと、素敵な一日でした」
「ああ。今年は……………」
何かを言いかけ、ウィリアムが僅かに瞳を瞠ったような気がした。
抱きかかえられるようにその腕の中にいたネアは、おやっと首を傾げる。
だが、その答えを見付けるより早く、しゅわんと揺れて巻き上がる風に雪の香りが混ざり、開けた視界には深い雪の森の色が映った。
(……………ここは、)
訪れたそこは、確かにおとぎ話の森だった。
青みのかかった緑の森に深い雪を湛えた白緑色に、赤い木の実がぼうっと光る。
時刻は、夕暮れから夜にかけての時間だろう。
空には青みが残り、けれども、木々に飾られた細やかなオーナメントや祝福石の煌めきが、イルミネーションのようなきらきらとした細やかな光を揺らしている。
雪の上には、ふんだんに花びらが振り撒かれていた。
木々の根元にはウィームと同じように雪中の花々が咲き誇っているが、今年の冬告げの会場の花々は硝子細工のようだ。
木々に飾られた祝福石の煌めきを映し、淡いシャンパン色に煌めいている。
「この森の木々は、ホーリーテに似ていますね」
「………ああ。ホーリートそのものだろう。………だから不思議なんだ。百年に一度のダムトクラムは終わったばかりなのに、……………この会場は一体……………」
その言葉に、今年の冬告げの会場にはどんなご馳走があるのかなとうきうきしていたネアは、ゆっくりと眉を持ち上げた。
そう言えば先程、転移の薄闇の中でウィリアムが怪訝そうな顔をしていなかっただろうか。
もしや、厄介な状況や不穏な展開を迎えているのだろうかと考え、慌ててウィリアムの腕をぎゅっとする。
今日の靴はドレスに合わせた物で、真珠と雪結晶で飾られていた。
ある程度の魔術付与は行い、踏み滅ぼす系の技は可能になっているものの、いつもの戦闘靴に比べると心許ないのは確かなのだ。
さくりと浅い雪を踏み、まるで森の中に誘われるような道を歩けば、真っ直ぐに向かう先には冬告げの舞踏会の会場があって、優雅な音楽や喧噪が聞こえてくる。
今迄の冬告げであればただ心が弾むばかりなのだが、考えるような眼差しで周囲の森を見ているウィリアムに、ネアは、どきどきする胸をそっと押さえた。
「ぎゅむ………」
「…………ネア。すまない、不安にさせたな。気になる要素はあるが、この先にあるのはいつもの冬告げの舞踏会の会場なのは間違いない。アルテアやグレアム達もいるだろうから、ひとまず安心してくれ」
「は、はい。………その上で、何か思いがけない事が起きているのでしょうか?それとも、準備を行った誰かが、うっかり張り切り過ぎたものを用意してしまったのです?」
「後者の可能性も、ないとは言えないだろうな。今年の主催は冬走りの精霊なんだ。あの階位の精霊になってくると、正直なところ、俺でも何を可能としているのかまでは分からない事が多い」
「むむぅ……………」
確かに、それぞれの季節の系譜の舞踏会に柱として現れる精霊達は、何だかよく分からないものという感じがある。
気体になれてしまうのだから当然だろうと言えば、ミカやナインにもそのような事は可能なのだ。
となると、どこまで人間が理解出来るような思考と生態を持っている相手なのかに尽きるのかもしれない。
(そして、今の世界は魔物が治める世界の代だと聞いているのに、その魔物は気体にはなれないのだわ……………)
そう考えると何だか不思議な気がした。
ディノにも出来ない事や、ディノが知らない事もある世界だからこその采配なのかもしれないが、よく分からないものが多く許される世界なのだった。
やがて、雪の森の中を抜け、靴音の響きが変わった。
澄んだ灰色の石床の敷かれた、会場に入ったのだ。
「……………ほわ」
開けた空間を見回し、ネアは目を瞬く。
今年の冬告げの会場は、なんとも繊細であった。
淡い淡い白灰色の床石には、細やかな金色の模様が入っている。
額縁のようなその模様が連なり、雪の日の空のようなロマンチックな空間が広がっていて、会場を縁取るのはホーリーテの森なのだが、雪化粧した森は彩度が低い。
(淡い灰色と淡い金色と………)
会場の内側に見える木々に飾ってあるオーナメントは、透けるような淡いシャンパン色の物ばかりであった。
どこまでも色味を統一し、不透明色である白灰色を不思議なくらいに透明に感じさせる。
だが、会場の中央には大きな大きな、見上げる程の高さの飾り木があって、その飾り木の色合いがはっとする程に鮮やかなのだ。
こっくりとした深緑の葉がどこか懐かしさを感じさせる飾り木の装飾は、この会場に多く使われる淡い金色と、艶々した真っ赤な林檎のような赤色で、会場のテーブルにも灰色の花瓶に真っ赤な薔薇が飾られている。
花びらがたっぷり詰まったオールドローズ系の薔薇なので強い印象にはならず、この会場の、クラシカルで繊細な雰囲気を高めていた。
「………綺麗ですね。白と淡い金色と白灰色を基調としていて、そこにアクセントで深みのある赤が入るなんて………」
「…………ああ。綺麗だな」
(ウィリアムさん………?)
なぜか、眩しさに目を細めるような表情をしたウィリアムを、ネアは見上げた。
すると、こちらの視線に気付いたウィリアムが、身を屈めてなぜこの色彩に息を詰めたのかを教えてくれる。
「グレアムと、………彼の伴侶が暮らしていた城の内装の配色に似ていたんだ。彼は、少し辛いかもしれないな」
「まぁ。…………では、グレアムさんをお見かけしたら、声をかけましょうね。一緒に何でもないお喋りが出来れば、大切な方を思い出して胸がきりりとなっても、ちょっぴり気分が変わるかもしれません」
「ああ。早めに会えるといいんだが………。おっと、」
ウィリアムは、冬告げの舞踏会を訪れる者の中では最高位の一人にあたる。
そんなウィリアムの訪問に、入り口近くにいた者達が恭しくお辞儀をした。
ふぁさりと揺れる女性達のドレスの華やかさは勿論のこと、男達も、この場所を訪れる事を許された高位の人外者らしい美貌を備えている。
宝石を紡いだような髪に、煌びやかな装飾品、そんな輝きにも劣らない妖精達の羽の色に、清しく芳しい冬の花の香り。
そんな人々が一斉に頭を下げる光景は、物語の世界に身を浸しても想像しきれないくらいに圧巻であった。
ましてやこの美しい冬告げの会場で、奥には素晴らしい大きな飾り木があるのだ。
(………ああ、この瞬間だけでも、なんて美しいのだろう)
早くも胸がいっぱいになってしまったネアは、その感動を隣の魔物に伝えようとして、ウィリアムが視線を向けたお髭の男性に気付き、ぎょっとしてしまう。
そこには、きっと美麗なおじさまだったのに違いない誰かの、疲れきってぼろぼろになった姿があった。
舞踏会のお客と言うには疲れ果てており、寧ろ、誰か早く寝かしつけて差し上げてと思わずにはいられない。
同伴者の姿は見えないので、一人でウィリアムに挨拶をしに来たのだろう。
「…………やあ、ウィリアム」
「あ、ああ。………リハク、さては招待状が書き終わらないんだな?」
「はは、恥ずかしい限りだが、まだまだ…………まだまだ残っている。……そう。まだ残っているんだ。………それなのに、この舞踏会を訪れなければならず、盛装姿を整え、ここまで足を運ぶだけの時間でどれだけのカードが書けたのかと思うと、胸が潰れるような思いになる………」
「…………そ、そうか。それは悩ましいな」
「おまけに今宵は、リツムの領域が重なったのだとか。一曲だけ踊って早めに帰宅しようとしてたのに、それも叶わなくなったのだからな………!!」
「リツムの領域なのか…………!………いや、なぜ今回の会場に、ここまでホーリーテの木があるのだろうと不思議だったんだ」
「そうか。冬にしか訪れない君も、見るのは初めてなんだな。………連れの手は、今宵ばかりは離さないようにするといい。今夜の舞踏会も皆は楽しんでいるが、とは言え、あちら側に迷い込まないようにかなり警戒もしているのだろう。この空気を見るといい。よりこちら側の足元を頑強にする終焉の魔物の到着を、皆が心から喜んでいるのだと思う。いやはや、来てくれて良かった」
「成る程な。得心がいった」
そんな二人のやり取りには謎も多かったが、ネアは、初めて来た冬告げの舞踏会で出会った、黒みがかった灰色の髪の冬眠の精霊王が、よれよれになって立ち去るのを静かに見送った。
この時期に、まだ冬眠のお知らせを出す為のカードが書き終わっていないとなると、なかなか逼迫した状況なのだろう。
一刻も早く帰りたかった義務参加の舞踏会に、最後までいなければならないと知った絶望は、なんとなくだが察する事が出来る。
「リツム………というものが重なっているのですか?」
だが、こちらの興味はそこなのだと、ウィリアムに問いかけると、冬眠の精霊王の挨拶から立て続けに四組の男女から挨拶をされてしまっていたウィリアムが、困ったようにこちらを見る。
給仕がシュプリを持ってきてくれて、漸く息をつけたのだ。
「ああ。………リツムは、あわいや影絵のようなものに近いが、季節の舞踏会くらいにしか現れない、より稀有な現象だ。………前の世界層や、どこにも存在しない筈の世界層が重なる現象の名称になる」
「どこにも、存在しない筈の世界層……………」
「あわいも、元はと言えばそちらの領域に近いけれどな………」
リツムの発生の条件は、普段であれば考えられない程の多様な魔術の重なりと、場としてその魔術を踏みしめる高位の人外者達の存在だ。
季節の舞踏会ではなくても、同じくらいの参加者を集める事が出来れば条件を満たせるが、そのような場面はやはり多くはない。
よって、これ迄の発見報告は季節の舞踏会に限られており、殆どが夏の舞踏会であった。
「詳細については今は話せないが、まさか冬でも確認されるとはな。俺も、そこ迄は考えていなかった。………幸い、アルテアは今年の冬告げでは同伴者がいないから、ダンスが終わったら彼にも出来るだけ側に居て貰うようにしような」
「なぬ。アルテアさんは、同伴者さんを見付けられなかったのでしょうか?」
「いや、………複数の標的に向けた、求婚相当の好意を持ってくれる女性の存在を利用した呪いが、時間指定を経て発動したんだ。アルテアもそうだが、この冬告げに招かれている何人かもその対象となっている。それぞれに対策はしているものの、万が一にでも呪いの展開を持ち込まないよう、今年限りの特例で同伴者なしでの参加も認められているんだ」
求婚などはしないような相手を選べばいいのではと言えなくもないが、それは口で言う程に簡単な事ではない。
何しろ、お相手の女性の心は当人にしか分からないものであるし、そもそも、同伴者が婚約者や恋人だったりして、最初から自分が該当してしまう事が分かっている者もいる。
であれば、危険は冒さず一人でも参加出来るようにとなり、ほっとした者達も多い。
「時間指定があったと言う事は、今日だけを避ければ問題ない呪いなのです?」
「いや、本来なら今日に発動するべきものだったんだが、前後十日間はずれが出る可能性が高いらしい。現にアルテアは数日前に呪いが発動している。冬告げを狙ったものだったという事は、その後で判明したんだ」
「……………ふむ。もしかして、ノアもですか?」
そんな説明を受けたネアが、ここ数日以内にアルテアに起きた事を考え、尚且つ、昨晩の事を思い出すのは当然と言えた。
なのでとそう尋ねると、ウィリアムはしまったという顔をしたが、みんなには内緒だぞと頷いてくれた。
ここで漸く、ノアが、怖い女性に追いかけられているから帰りが遅くなると話していて、珍しく二日もリーエンベルクを空けた理由がネアにも分かった。
(………呪いだったのだ)
幸いにも、その呪いの発動は一度限り。
相手を損なうものではなく、求婚してくれるような女性やその段階を経た伴侶がおり、そんな相手から怒りや恨みを買うような場面があれば、途端に厄介な災いや障りに見舞われるようになっているのだそうだ。
アルテアもノアもその一回を終えてしまったので、今後の不安はないと知り、ネアは胸を撫で下ろした。
また、求婚してくれる相手がいないと、呪いは発動しない。
それはそれで少し悲しいのだから、嫌な呪いと言えよう。
「ウィリアムさんは、もう終えられたのですか?」
「俺は、問題となった宴には忙しくて行かなかったから、その呪いはかけられていないんだ。グレアムも大丈夫だが、………ヨシュアはいたな。アルミエも呼ばれたと聞いている」
「ふむ。高位の方達が、大勢招かれていた宴でかけられた呪いだったのですね。ですが、となると今回は、あまりない事が二つも重なっているという事に………?」
「と言うより、滅多にない事が許された事で、季節の舞踏会の定型が崩れ、リツムを呼び込んだのかもしれないな。季節の舞踏会に様々な決まり事があるのは、その手順を全うする事で余分を招き入れないという防衛としての意味もある。………奔放な者たちが多い夏の舞踏会は、規則が破られやすいからこそ、リツムの発現が多いんだ」
「………なんとなく分かるような気がします。人間も、なぜか夏になると羽目を外す若者などが増えますから………」
「言われてみれば、確かにそうだな………」
苦笑したウィリアムが、手を差し出した。
ネアも微笑み、その腕の中で体の向きを変え、パートナーの手を取り直す。
いつもなら体を離してから行うダンスへのお誘いだが、今日は場が危ういようなので、こうして体をくっつけたまま行おう。
奥に立っている女性が、こちらを見ておのれという目をしているが、今日ばかりはその羨望の眼差しにどれだけ慄いていても、ウィリアムから離れる訳にはいかなかった。
「今年の給仕の方々は、会場の床石より濃い灰色の制服なのですね」
「冬走りの系譜だけじゃないな。男達は雪竜だろう」
「ふむ。すらりと背が高くて、皆さんとても素敵ですね」
「ネア、竜は拗らせると面倒だから、あまり深く関わらないようにな?」
「むぐぅ」
優しく微笑むウィリアムからそんな事を言われてしまった人間は、お洒落な男性給仕の服装を褒めようとしていた言葉をむぐっと飲み込んだ。
(わ、…………綺麗だな)
彩度の低い背景の中でも、終焉の魔物の持つ白い色は鮮やかであった。
光を孕んだ白金色の瞳に落ちる白い睫毛の影は、いつもとは違う髪型のせいか、ぞくりとするような色を帯びている。
薄く深く、どこか魔物的でけれども男性らしい微笑みを向けられ、ネアはそんな魔物を見上げた。
小さく微笑みを深めたウィリアムが、ふっと口付けを一つ落としてゆく。
「ネア。今日は、俺の腕の中にいてくれるな?」
「はい。危なくないように、ぎゅっとしていますね。ですが、………お料理のテーブルにも、連れて行ってくれますか?」
「ああ。勿論だ。暫く踊ったら、そちらに行こうな」
「はい!」
その約束さえ出来ればと、びょんと小さく跳ねて笑顔になったネアに、ウィリアムはくすりと笑い、ディートリンデやハザーナ、グレアム達とは挨拶出来るようにするからなと付け加えてくれる。
なぜかそんなネア達のやり取りを呆然と見守っている者達もいるが、美しい終焉の魔物とのダンスより、料理への欲求を主張したネアに驚いているのかもしれない。
(………そして今日は、向こう側と混ざらないように、………気を付けなければいけないのだわ)
それがどんな向こう側なのかを、ウィリアムはまだ口にしていなかった。
あの言い方からすると、言うべきではない事なのかもしれないし、出来る限り知らない方が安全なものなのかもしれない。
だがまずは、季節の舞踏会の醍醐味を堪能してしまおう。
やはり舞踏会と言えば、ダンスである。
手を取り合い、ネア達が会場の中央に向かうと、慌ててダンスに向かう者達の姿も見える。
対照的に、終焉の魔物と同じ回でダンスは出来ないと、慌てて下がる階位の低い者達もいた。
手は離さないように、指先をウィリアムに預けたままお辞儀をする。
奥にいる楽団員達の装いも淡い灰色で、終焉の魔物のダンスの開始を待ち、指揮者のタクトを見ているようだ。
(……………あ、)
その向こうに、誰かと話をしているアルテアの姿が見えた。
今回の装いはウィリアムと同じように白一色で、隣にいるのは、よく見えないがグレアムだろうか。
ちらりとこちらを見たような気がしたが、残念ながら、角度的に視線は合わなかった。
身勝手な人間は、呪いとやらのせいでそんな使い魔が単身参加である事に少しだけ安堵してしまい、もし何かの異変があったら、さっと捕まえてしまおうと企んでおく。
やがて、音楽が始まり、ダンスが始まった。
すっかり馴染んだ腕に身を任せたネアはふと、踊る人並みの向こうに、白い髪の見知らぬ誰かを見たような気がした。




