表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/880

28. 夜は寝かせて欲しいです(本編)



その説得をなぜレイノがすることになったのか、大人はなんと狡猾なのだろうと、いつかの報復を決意しながら、レイノは、戻ってくるなりこれからの予定を説明されたばかりの教官と対話を行なっていた。



「ですので、そのような展開はえてして真夜中に、保護された筈の部屋で証人や命を狙われていた王族が必ず殺されてしまうのです」

「……………君がどんな環境下で育ちその常識を手に入れたのかはたいへん興味深いですが、工房にいれば僕が一緒にいるんですよ?」

「環境下というよりは、映画や…………映画とは何でしょう?」

「僕に聞かれても分かりませんよ。…………レイノ、猊下の部屋は確かに安全でしょうが、そこで想定されるのは君を狙う相手だけでは済みません」

「……………む。確かに、恨みを買ってしまいそうな言動を何度か拝見しています。襲撃が重なった場合は、猊下を囮にして逃げれば良いのでしょうか?」

「ほお、その場合はお前は蟻と契約するんだな」

「ま、任せて下さい。悪い奴が来たら、私が勇ましく滅ぼします!」

「レイノ、それではそもそも保護される理由がありませんよ…………」

「なぬ………」



アンセルムは、立場上強くは言えないのだがそれでも一目瞭然な程に不服そうだったが、リシャードがとある言葉を出すと顔色を変えた。



「そう言えば、この教区の管理者は白百合の魔物ではないようだな。代わりに精霊の気配が濃いようだが、隠者は精霊か」

「……………猊下、各教区の隠者は代々の教え子様にしか伝えられないものですよ」

「だが、目のいい者が稀にその姿を捉えることも出来ると言われている。大胆にも白百合の魔物を隠れ蓑にしているが、終焉か静謐の系譜だな」



ひっそりと微笑んだリシャードの眼差しは、レイノが物語を読むのが好きではなくても、人間の中に紛れ込んだ悪魔のように見えただろう。



(……………隠者って何だろう…………)



どうやら、教区というところには怪物だけではなく、隠者までいるようだ。

物語ならわくわくして読み進めるのだが、参加している身としては、不穏なものであれば避けたい。



なぜか、ここでアンセルムは、気掛かりがあるようにレイノの方をちらりと見た。

枢機卿との間で何らかの駆け引きが行われているようだが、レイノには皆目見当がつかない。



「…………隠者について語らうことは、あまり良くないこととされています。信仰の場に身を置くのであれば、猊下と言えどお控えいただきますよう」

「迷い子の後見をするなら、その手のことも共有しておいてやれ。こいつを見てみろ。隙あらば災厄を引き込みかねないぞ」

「解せぬ」

「猊下、レイノは………………いえ、レイノは……………」

「アンセルム神父は、なぜに口籠もってしまうのでしょう。ここは私の名誉の為に頑張るところでは………」

「ええ、勿論そのつもりだったのですが、滞在二日目にして全く違う理由と状況で二回も命を狙われるとなると、なかなか…………」

「……………味方が味方ではなくなりました。そして、ここには隠れ住んでいる精霊がいるのですか?」



レイノがそう尋ねると、男達はそれぞれに含みのある目をこちらに向けた。

表情から窺うに、デュノル司教もその存在を知っているようだ。



「例えそれが精霊だとしても、隠者については、みだりに口にしてはいけない事とされます。不用意にその存在に言及しないよう、注意しましょうね」

「…………もしかしてその方は、住民税などを払っていないので、いらっしゃらない体にしておくのですか?」

「……………住民税」

「山奥ならいざ知らず、きちんと居住区が用意されている場所なのに、隠れて住んでいるからには、税金を払わずに物置や軒下に潜んでいるなどの後ろめたい事情があるに違いません。…………は!もしや、人型ではなくあまり姿を現さない獣さん的な…」

「レイノ、隠者とは、その教区の中にひっそりと紛れて暮らしている、教区を守護する特等の人外者の通り名です。コグリスではありません」

「……………用無しでした」



一瞬とても心が弾んでしまったものの、マスコットキャラクター的な愛くるしいもふもふが現れないと知り、残酷な人間はすっと興味を失った。


幸い、軒下や倉庫に住み着いた不法占拠の怪しい精霊ではなかったようだが、素敵な祝福を授けるのでもなければ、特に出会いたいとも思えない。



「念の為に聞きますが、…………その方に出会うと、魔術可動域が上がったり……」

「それはないな」

「ふむ。やはり用無しです。私は初心を忘れず、勇ましく凛々しい竜との出会いを求めてゆきましょう」

「………レイノ。竜は粗野で短慮なところもありますから、契約までにゆっくりと考えてゆきましょうね」

「……………む」



すかさずそう忠告してくれてアンセルムは、レイノの契約が明日に控えていることを知らない。



もしアンセルムがレイノにとって良くない存在だった場合を考慮し、リシャードが独断で強行したということにして、明日の契約の儀式は行われる予定だ。


元々リシャード枢機卿は、強引な手腕でも知られているようで、そこで押し切っても訝しまれないだけの背景はあると言う。

枢機卿は、召喚を禁止する権利こそあれ、枢機卿自身が契約召喚を行うと宣言した場合は、それを可能とするだけの技術さえあれば教区の誰にもそれを止める権利はない。



(でも、何だか後ろめたいな……………)



アンセルムの事が嫌いではないので、レイノは、揺らぎそうになった表情をしっかりと引き締めた。



綺麗事を言うつもりはない。


目的に対し、その道のりで自分の本意ではなく傷付けてしまうものがあるとしても、それを切り捨てるだけの身勝手さは持ち合わせている。

けれども、寄る辺なく過ごした長い長い時間の後に、一緒に食事を摂ってくれたアンセルムは、それだけでレイノに特別な恩寵を与えてくれた存在なのだった。



(誰かの手料理を食べて、その人が当たり前のように側に居てくれたのは、どれくらいぶりだっただろう……………)



もしかしたら、最近にもそのような人がいたのかもしれないが、レイノはそれを覚えていないのだ。

そうなると、今はまだ、再び誰かとあんな風に過ごした最初の人は、アンセルムとなってしまう。



それなら、安全の為にリシャード枢機卿の部屋で過ごすとしても、アンセルムも同席してはいけないのだろうかとレイノは提案してみたが、凍えるような瞳で一瞥されて却下されてしまった。

レイノは、あくまでも可動域上子供扱いなので許されており、アンセルム迄もとなるとそれは別の話になるようだ。



結局、レイノはアンセルムを説得するしかなく、納得して貰えるまでにはそれなりに時間を要した。


漸く納得してくれたアンセルムが、丁寧なお辞儀をし、目が合ったレイノに微笑みかけてから部屋を退出してゆけば、しゅんとしたレイノだけが残される。




「……………成る程、それなりに躾を進めていたようだな」



冷たい声でそう呟いたリシャード枢機卿をちらりと見上げ、レイノは、お気に入りだったラベンダー水を思った。


あの部屋にあったものはどれも趣味に合ったが、その中でもあのラベンダー水は特別で、とても大事にされているように感じられ、いい匂いがして嬉しかった。



(……………でも、感傷的になるのはやめよう。アンセルム神父から離れないという選択もあった筈なのに、こちらに残ると決めたのは私なのだわ……………)



レイノが為したのは、アンセルムを切り捨てる選択ではなく、デュノル司教の言葉を信じ、リシャード枢機卿の方針に従うという選択肢だ。

けれども、そちらを選ぶにあたり、今夜はアンセルム神父が差し出した手に対し、首を振らなければならなかった。


でも、これで良かったのだろうかと悩む事など、きっと永遠に出来てしまう。

こちらをと選んだ以上は、これから何をするのかを考えるべきだろう。




「私は、これから猊下のお部屋に移動するのですよね?退出をアンセルム神父と同時にしなかったのは、敢えてですか?」

「そうだ。この措置は、ある程度強制されたものだと周囲が受け取れば、アンセルムとこちらとで、跳ね返ってくる反応が変わるからな。方針を同じくしていないと思われた方が都合がいい」



何とシンプルで老獪な思惑だろう。

些細なところでも、不要かもしれないその一手を重ねられる人なのだから、この人は、枢機卿という役職を得るまでに熾烈な駆け引きの盤上に何度上がったのか。


レイノはその周到さに少しだけ慄きながら頷き、何やら真っさらな紙にさらさらと文字が書き込まれてゆく台帳のようなものを見ているデュノル司教の方に視線を移した。


この魔術仕掛けの連絡板はアンセルムの工房でも見たが、すらすらと見えないペン先で描かれる文字が紙に咲きほころぶようで、何とも美しい。


しかし、デュノル司教は小さく溜め息を吐いているので、あまり良い知らせではないのかもしれない。



「筆頭司祭からか」

「いや、…………もう一人の歌乞いの後見人からだ。私は音楽の魔術を修めているからね。後見人の司祭と共に、特例での保護を求めて来た」

「ほお、………正式に聖人の称号を得ているとなると、さすがに強気だな。…………ウィームへの配属を希望していた迷い子か」

「戒律に従い、筆頭司祭を含めた三人の司祭の推薦と、教区主の承認を得てあるらしい。困ったものだね」

「それは断れないだろうな」



立ち上がり、物憂げにしているデュノル司教の姿に、レイノは、もう一人の歌乞いと言えばと、朝のミサの席で一番端の席にいた迷い子を思い出していた。

天鵞絨のような深紫色の髪とその髪色を柔らかく中和する茶色の瞳を持ち、僅かに垂れ目がちな微笑みが見る者を和ませる、目を引く程に美しい少女だった。



(あの人が、ウィームという土地に…………)



もし、ここに来る前のレイノがデュノル司教を知っているのなら、そこはレイノにとっても大切な土地なのではないだろうか。

だが、ウィームのザルツという地名を思い浮かべても、あまり心に響くものはなかった。



「だろうね。………このような時、組織というものの決まり事は煩わしい。聖域としての庇護であれば他に誰でも良いだろうに」

「それだけが理由なものか。教区内では、あの歌乞いがウィームという土地に執着していることは有名らしい。ビスクート司教とは相性が悪く、デュノル司教に取り入ろうとしていることも。それなりに愉快な寝物語が聞けるかもしれないぞ?」

「……………とても不愉快な響きの問いかけだね」

「その様子だと、既に接触はあったか。………おおかた、後見人の座は埋まってしまったが、伴侶の座は空いているとでも言われたな」

「私は妻帯者だと、その申し出は断ったよ」



(え、………………)



レイノの頭上を飛び交うそのやり取りに、ぴくりと心が震えた。

なぜだか分からないが、デュノル司教が妻帯者である事に驚いてしまったのだ。


決してそのような対象として見ていた訳ではなかったのだが、妻帯者であるのなら、レイノに対しての距離はいささか不適切なのではないだろうかと考えると、胸の奥がくつくつと音を立てるように軋む。



(…………倫理観上、どうかなともやもやしたのかしら?…………でも、こちらの世界の聖職者は、結婚は許されているのね。それとも、宗派によって違ったりもするのだろうか………)



慌てて違う事を考えて不明瞭なざわつきから目を逸らしたが、自分でも良く分からないままに、やはり心が重いような気がする。

まさか、ここに来る前の自分はこの人に懸想していたのではあるまいかと考えたが、それにしては、デュノル司教に向けた心の揺らぎは柔らかかった。


(もっと根源的な、…………まるで、家族のような……………?)


先程の事件現場でも、レイノはこの人を守らなければと思った。

であれば、その感覚がこの体の本来の持ち主のものであるのとしても、彼のいた伯爵家にお仕えしていただとか、婆や的な存在だった可能性もある。



(…………可動域的には、婆やはないかな。…………それなら、デュノル司教担当の侍女とか…………。うん、それなら髪の毛を編んであげたりするような面倒を見たくなる衝動にも説明がつくし、何だかあり得そう…………)



これは良い推理かもしれないと、レイノはふんすと胸を張る。

まだ微かに胸が騒つくので、デュノル司教の奥方には、大事な坊ちゃんを取られたようで姑的な感情を向けてしまっているのかもしれない。



「………………おい」

「…………は!つい、自分の人生について考えていました。何だか実はとても素直そうな方なので、坊ちゃんを渡したくないと思ってしまう気持ちも分かります」

「……………は?」



リシャード枢機卿には怪訝そうな顔をされたが、レイノは人生には苦味がつきものなのだという表情で頷いてみせ、その、今夜はデュノル司教の庇護を求めるという迷い子達の訪問の前に、その部屋を出た。



ふと、後ろ髪が引かれる思いで、部屋に残されるデュノル司教を振り返る。

一人ぼっちにする訳ではないのだが、なぜか不憫に思ってしまうのは、やはりお仕えしていた坊ちゃんだからなのかもしれない。



(…………坊ちゃん、レイノは味方ですよ)



心の中でそう呟けば、何だかとてもしっくりとする。




「まぁ、猊下。…………失礼いたしました」



デュノル司教の部屋を出てその専用区画となる廊下を抜けたところで、件の歌乞いと出会った。



(わ、…………なんて綺麗な子なんだろう…………)



レイノは、あらためて近くで見たその少女に、思わず目を丸くしてしまった。

こうして近くで見れば、白肌の輝くような柔らかな艶が惚れ惚れとする程だ。

迷い子達は皆美しいが、この少女が聖人としての名前を得たのは分かる気がする。

あの、ロダートという少年もだが、歌乞いになれるのも納得の他の迷い子達の中でも飛び抜けた存在感だ。



(ユビアチェという子も綺麗だったけれど、契約はあの妖精に押し切られてしまったみたい…………?)



枢機卿付きの衛兵達に付き従われ歩いた距離は、思っていたよりもずっと長かった。

綺麗に靴擦れを治して貰った足が痛むことはなかったが、心なしか、壮麗な教会建築を楽しむ心の余裕はないように感じる。




「ここからは、特殊な魔術が敷かれている。………あっては困る事だが、もし何かがあれば、この床石の境界までが俺の排他魔術領域であることを覚えておけ」



枢機卿の滞在する一画に繋がる廊下のとある場所で、リシャード枢機卿はそう教えてくれた。


レイノはこくりと頷き、先程のデュノル司教の部屋に続く廊下にもあった、独特な紋様が刻まれた床石の境目を確認する。


まずは紋様でここからは立ち入りを制限されるのだと知らせ、そこからまた暫く歩くと、青緑色の見事な絨毯が現れた。

境界のところからこの絨毯を敷くかどうかはそれぞれの使用者に任されているようで、枢機卿はあえて絨毯を敷かない部分を設けて目眩しにしているようだ。




「………それで、デュノル司教が既婚者である事が気になったのか?」


部屋に入るなり、リシャード枢機卿は、ここからもう二人なのは勘弁していただきたいと震えている可憐なレイノに、そんな事を言うではないか。


使用人がいたりはしないのだろうかと暗い目をしていたレイノは、ぎぎっと軋む首を捻ってそちらを見ると、半眼で首を振った。



「私は坊ちゃんの幸せをお祈りしています。………それよりも、執務室となる前室を抜けた奥はこんなに広いお部屋ですのに、なぜ人の気配がないのでしょう?」

「自分の身の回りの事は、自分で出来る。必要のない事で他人に手を出されるのは不愉快だからな。何だ、まさか、入浴や着替えの手伝いをして貰いたいのか?」



嘲るような冷ややかさで、そうこちらを見たリシャード枢機卿に、レイノはまた暗い目で首を振った。



「自分の事は自分で出来ますので、お気遣いは結構です」

「ほお、料理と食器洗いもだな?」

「おかしいではありませんか。なぜ、枢機卿ともあろう方に、作られたお食事が届かないのでしょう?実はこっそり虐められていたりするのでしょうか?」

「そんな訳あるか。…………周囲には忙しいので食事は簡単に済ませていると話しているが、この状況下で呑気に出された食事を取る程に愚かではないだけだ」



そう言われてしまえば、レイノはデュノル司教が心配になった。

朝食の席で食べたものは、大切な人と作ったと話していたが、大丈夫だったのだろうか。



(…………でもあの夜、私は誰かと一緒にフレンチトーストを作る夢を見たのだ…………)



そう思うと少し前までは胸がほかほかしたのに、今はまた重苦しくなった。

これはもう、よほど奥方との相性が悪いのか、失った記憶を取り戻そうとしてどこかに不具合が出ているのかもしれない。




「さてと。………今夜は入浴は控えろ。流石に地下から汲み上げる水の管理までは手間だからな。それとも、俺がその場で錬成で循環させる湯を使うなら、入っても構わないがどうする?」

「……………辞退させていただきます。ですが、歯磨きをして顔は洗えますか?」

「それくらいは、俺が隣に居ても出来るだろう。不満そうだが、水程に侵食魔術を混入出来るものはないぞ?特に髪は魔術に繋がるものだ。髪を洗って頭髪を汚染されると厄介な事になる」

「……………ふぁい。修行だと思い、付き添いの下に歯を磨き顔を洗います……………」


まさか、この部屋でずっと枢機卿に張り付かれるとは思ってもいなかったレイノは、げんなりしつつ頷いた。


「…………と言う事は、お食事は猊下が作られるのですか?」

「他に誰が作るんだ」



胡乱げにこちらを見た美麗な枢機卿の姿に、この時のレイノは微かな絶望を覚えていた。

やはり、多少の問題があっても工房の自分の部屋にいれば、アンセルムの美味しいご飯が食べられたかもしれないのだ。





「……………鴨肉様…………」



しかし、夕刻までは執務を進めるリシャード枢機卿の側で教本を与えられ手持ち無沙汰に過ごし、とりあえず竜なら氷竜かなという結論を出したところで、夕食の準備が始まると、レイノは容易く弾まされてしまった。



なんと、リシャード枢機卿が作り始めたのは、鴨肉のコンフィとフレッシュチーズを練り込んだローズマリー風味のマッシュポテト。

更には、とろとろの鶏肉のクリーム煮が入った小さめのパイに、春野菜のゼリー寄せ、目を瞠るくらいに様々なものが入った色とりどりなサラダだった。


ひょいっと口に放り込まれて味見をさせて貰ったところ、サラダに使われている薔薇の花びらは、見た目が美しいだけではなく、果物のような味わいでとても美味しい。


もっちりした黒パンに四種のバターもあり、レイノは、これはもう枢機卿様と敬うしかなく、この後見人に付いてゆこうと心に誓う。

美味しい食べ物を作り、それを快く振舞ってくれる人に悪い人はいないのだ。



「あまりにも警戒心が薄そうだから言っておくが、人外者からの食べ物の振る舞いにはくれぐれも用心しておけ」

「むぐ。…………パイはさくさくとろりですよね?」

「何で疑問形なんだ……………」



十人くらいで囲めそうな大きなテーブルを二人で向かい合わせに座り、むぐむぐとパイを頬張りながら、レイノは首を傾げた。

言われてみれば確かに、そんな話をアンセルムからも聞いたような気がする。



「猊下のお料理をずっと食べられれば、問題はなさそうです。それとも、猊下は人間ではないのですか?」

「かもしれないぞ?」

「……………とは言え、とろさくのパイや鴨肉様は正義なので、その場合は良い関係性を学び、美味しくいただくしかなく…………」

「やれやれだな…………」



料理をするにあたり、リシャード枢機卿は豪奢な魔術師めいた上着を脱ぎ、襟の留め金を外して下に着ていた聖衣の袖を捲っていた。

そうすると寛いだ感じになるのだが、そんな風にしていても決して扱い易い相手には見えないところがこの枢機卿らしい。



「で、契約の目算は立ったのか?属性と系譜で合わないものを選ぶなよ」

「教本についていた、属性相性チャート表を使って調べたところ、私は冬の系譜との相性が良いそうです。その中の竜さんの中には、雪竜さんと氷竜さんがおりますが、雪竜さんは王族や貴族っぽい雰囲気で、氷竜さんは騎士っぽい気質なのだとか。………であれば、断然騎士さんのような氷竜さんと言わざるを得ません……………」

「……………であれば、氷の系統の魔術で底上げしてやる。くれぐれも魔物は狙うなよ。歌乞いの儀式はお前には向かない」

「私としては、出てきてしまうのが魔物でさえなければ華麗に歌うのも吝かではないのですが、何か支障がありそうなのですか?」

「死ぬな」

「………………自慢の美声は、封印しておきます…………」



可動域の問題だろうかと慌ててそう誓ったレイノは、聖女にもなりたくはないだろうと言われ、思わぬところでしっかりと気質を把握されている事に驚いた。



(………それに、アンセルム神父ともデュノル司教とも違うけれど、猊下と一緒にいるのは思っていたよりも寛げたかも…………?)



華奢なワイングラスがシャンデリアの光に煌めき、たいそうな悪役っぷりな艶やかな微笑みを浮かべた枢機卿の姿に、レイノは眉を寄せた。



「…………不正が発覚して、私の竜さんが奪われるような事はありませんか?」

「……………お前、何でその呼び方に変えた?この部屋に来るまでは、ただ竜と呼んでいなかったか?」

「教本を読んで身近な存在に感じ始めたため、竜から竜さんと呼び名が進化しました。………なお、魔物は魔物めに変化し、妖精と精霊はそのままです」

「魔物だけおかしいだろ」

「首を掴んで痛めつけられたのですから、最早それでいいのではないでしょうか?」

「…………安心しろ。そいつはもう、聖錫の腹の中だ」



そう言われ、レイノはじりじりっとリシャード枢機卿の方ににじり寄った。

青緑色の瞳をすっと細めてこちらを見た枢機卿に、レイノはおずおずと教えを請うてみる。



「その、聖錫というものはどのようなものなのでしょうか?アンセルム神父の扱う武器は、有名なものなのですか?」

「ほお、随分と興味があるようだな」

「……………そして、アンセルム神父は、人間ではないのでしょうか?」



重ねてそう問いかけたレイノに、無言でじっとこちらを見たリシャード枢機卿に、緊張にごくりと唾を飲む音が聞こえてしまわないだろうか。



(でも、…………三人でいた時には、私が知りたいような会話はあまり出てこなかった…………。どこかで、一つくらいこの出来事の核心に触れるような知識を更新しておきたいと考えるのは、浅はかなのだろうか…………)



カチャリと、手にしていたフォークを置く音が響き、レイノは視線を伏せたことで見えた意外に長い枢機卿の睫毛の影を、頑張って見据えていた。


怖気付いてここで目を逸らしたら、大切なことは話して貰えないような気がしたのだ。




「……………あれは、恐らく精霊だろう。俺があの場所に駆け付けた時に残っていた魔術の痕跡は、精霊のそれに近い」

「……………精霊」

「…………だが、ガーウィンに在籍する異端審問官は、代々に引き継ぐ異端審問官だけが扱える武器を持っている。アンセルム神父のものは聖錫と呼ばれる武器だが、それに精霊の魔術を宿らせている場合は別だ……………どうした?」

「……………精霊の、………精霊さんの作った食事を食べると、とても困った事になるのでは?」

「だろうな。明日の儀式で契約者を得たら、相談してみろ」

「……………よりによって精霊さん」

「不満そうだな?」


なぜかとても愉快そうにそう言われ、レイノは、この枢機卿が自分の後見人をしてくれているのは、実はレイノをつついて遊ぶのが楽しいからではないだろうかと悲しげに項垂れる。


それも、実は甘酸っぱい種の構い方ではなく、完全に暇潰しの類の厄介な方だ。



「教本で色々と説明を読みましたが、…………精霊さんの気質は、あまり得意ではありません」

「それなら、尚更明日の儀式は成功させろよ。……………まぁ、力を貸してやるんだ。失敗のしようもないがな」



そう微笑んでその話題は締め括られてしまい、アンセルムがどんな精霊なのかという事までは聞けなかった。

まだ、アンセルムが精霊かどうかはリシャード枢機卿の中でも疑惑の段階なのかもしれないが、だからこそ、教区の隠者という存在について言及したのかもしれない。



(でも、…………精霊さんだったのなら、色々と腑に落ちるのかもしれない。不確かな部分や、少しひやりとする部分、私とは感覚が違うと思えたところも、種族が違うのだと思えば理解し易くなる……………)



同族という区分は時として厄介なもので、同じものだと思えば悩みもするが、こうして精霊かもしれないとなると、ただそういうものなのだろうとほっとしてしまう。

如何に人間が、同調し理解しなければと無意識に感じているかが現れている感覚だが、抑えようとして抑えられるものでもない。



(アンセルム神父が精霊さんなら、契約でアンセルム神父を指名したら駄目なのかしら?もしかすると黒幕かもしれない的な危うさはあるけれど、契約で縛ってしまえば、こちらのものなのでは…………?)



そんな事も考えたが、隠者というこの土地に守護を与える存在だった場合は、恐れ多くもという感じで契約の儀式が頓挫しかねない。

精霊については、人型の精霊からが高位になると学んでいるので、完全に人間に混ざって生活している程となると、どれだけ高位の存在なのか計り知れないではないか。



(気に入られてはいるようだけれど、…………そこでもし契約に成功してしまったなら、それはそれで面倒な事になるかもしれない……………)



レイノはまだ、この世界の事をよく知らない。


勿論教本で勉強はしているが、あの門をくぐるまでの記憶がない以上、この国が密かに魔王と戦ってはいないとは言い切れない。

高位の精霊などと契約してしまい、その事で抗いようもなく重い責任を課されてしまったりしたら、レイノは、まず間違いなく放り出して逃げたくなる。



(坊ちゃんのお世話をしている侍女さんくらいの役割が…………)




そう考えかけ、また、ちりりと胸が軋んだ。



今頃、デュノル司教は何をしているのだろう。

レイノがこうしているように、庇護を求めて来た迷い子の少女と、テーブルを囲んで晩餐としているのだろうか。


歌乞いは、契約の相手が狭量な場合が多く、結婚や出産などとは縁遠くなると言われているそうだが、この国の顔とされた歌乞いは第三王子と婚約していたようだし、デュノル司教の部屋を訪ねた歌乞いも伴侶を探せているのだから、その限りでもないのだろう。



(…………でも、大きな力を持つのだから、国としてもそんな契約を得た迷い子を、国に繫ぎ止めるような婚姻を結びたいと思うのは当然だわ………)



その場合、ウィームという土地の領主やデュノル司教の親族である貴族達が、その迷い子を逃すべからずという判断を下す可能性もある。


他領からの派遣駐在という受け入れには難色を示しても、婚姻による移住ともなれば、迷い子はその領地の所属になるのではないだろうか。


レイノにはそうは見えないが、デュノル司教はウィームではあまり立場が良くなかったようだ。

上の意向としてそれを強要されたら、断るだけの力はないのかもしれない。



「…………何だ。唸っていても、タルトはふた切れまでだぞ」

「…………坊ちゃんの奥様が、入れ替えになるかもしれません…………」

「は……………?」



何の事だと追求されたので、侍女だったかもしれないという表現は避け、問題のない範囲で言葉を選んで説明してみれば、リシャード枢機卿は絶句していたようだ。

なぜか頭を抱えてしまい、しょうもない事を考えていないで早く寝るようにと叱られてしまう。



なお、その夜には、レイノ目当てかリシャード枢機卿目当てか分からない暗殺の危機が三回あった。


どれもお粗末なものだったので、レイノは不機嫌そうな部屋着用の簡素な白い聖衣姿のリシャード枢機卿が、雑な感じで侵入者を拘束している姿を二回見る羽目になる。

残り一回は部屋の外にいる衛兵達が排除したようだが、前の二回も討ち漏らしたという事ではなく、リシャード枢機卿自ら、指定した条件を満たした襲撃者はこちらに通すように指示を出しておいたらしい。



今夜の夢にとても期待をかけていたレイノは何度も起こされてうんざりしたが、どのような者達から狙われているのかを正確に見定める事も大事なのだそうだ。



「お前はさっさと寝ておけ。結界を重ねてかけてあるから、そちらの部屋に迄入り込む事はない」

「…………では、この扉を是非にぱたんと……………」

「目視出来るようにしてあると、何度言わせれば分かるんだ?続き間にした意味がなくなるだろうが」

「…………むぐる。それでどったんばったんされて、なぜ安眠出来ると言うのだ…………」




だからだろうか。



翌朝目を覚ましたレイノは、心がくしゃくしゃになるような思いで、まだ明けてもいない空の暗さに世界を呪いたくなった。



楽しみにしていた夢は見られず、会いたくて堪らない誰かはそこにはいなかった。

誰かがそっと抱き締めてくれたような気はするけれど、レイノは、夢の中でもずっと重苦しい気持ちでいたような気がする。



惨憺たる思いで身支度を整えさせられ、支給された聖衣に着替えると、枢機卿に伴われ、まだ人気もない薄暗い聖堂に向かう。




「夜に部屋に入り込んだ者達は、捕縛して引き渡す。三回だぞ?契約を急がせるのに、これ以上の理由があるか?」



こんな時間に召喚儀式が行われると叩き起こされて駆け付けた筆頭司祭に、そう説明しているリシャード枢機卿の姿に、昨晩の大騒ぎには、この駆け引きの材料としての意味もあったのだと悟ったレイノは、どこまでがこの人の手の上なのだろうかとひやりとした。




「レイノ!」



筆頭司祭に少し遅れ、慌てた様子で走ってきたアンセルムに、昨日とは違う豪奢な聖衣を纏い、ひらりとその裾を翻してやって来たデュノル司教も揃った。




「契約の儀式は、デュノル司教に任せる。俺の術式の属性だと、こいつが呼び落とすべき相手を、俺の術式で調伏しかねないからな」



そう説明しているリシャード枢機卿の横で、デュノル司教が困惑したように頷いた。

周囲に集まった他の司教や司祭達は、てっきり儀式そのものもリシャード枢機卿が行うと考えていたのだろう。

レイノもそう考えていたので困惑したのだが、枢機卿が自らが儀式を執行しないのは、レイノの契約をこっそり手助けしてくれる為なのかもしれない。



アンセルムは、まだ契約の儀式は早いと抗議しているようだったが、既に用意された魔術陣と祭壇を組み合わせたような場所に立たされてしまっているレイノには、もう近付く事が出来ない。


ここに踏み込んでしまうと、迷い子を損なう可能性があるからと、誰も術式陣には触れられなくなるのだそうだ。

勿論、悪意を持って誰かが術式陣に触れないように、周囲は枢機卿の衛兵達がきっちりと囲んでいる。



レイノは、口惜しそうに首を振り、心配そうにこちらを見たアンセルムに微笑みかけ、ここは任せ給えと頷いてやる。


そうでもしないと、強引に飛び込んで来そうだったからなのだが、それはもしかしたら、自分自身を納得させる為でもあったのかもしれない。




(…………私は誰を信じて、何の為にここに立っているのだろう……………)




レイノは、召喚の術式陣には一度踏み込んだら戻れないという事を、その中に立たされてから知らされた。

レイノを籠の内側に閉じ込めるようにして、張り巡らせられた魔術は、動き始めたら最後、召喚を終えるまでは開かないものだ。



(まるで、生贄の儀式のようだわ…………)




枢機卿の手のひらで踊るのは、果たしてレイノにとって正しい事なのだろうか。

あの優しい夢を見られていたら、もっと心は穏やかだっただろうか。


デュノル司教にあんな風に宥められ、語られた事は全て偽りで、彼はレイノを利用しただけなのかもしれない。

昨晩、リシャード枢機卿の部屋に預けられ、言葉を交わしたことで、この人の策に乗ってみようと下した判断は誤りかもしれない。



(…………だって、全てがとても性急過ぎる。理由が整えられ過ぎていて、不親切で、あまりにも不確かで…………………)




でも、ここに来る迄にも散々考えたが、レイノを利用して儀式を失敗させる、或いは儀式途中でレイノを殺してしまうような事をしても、彼等にその労力に見合うだけの収穫があるようにも思えない。




あれこれと考えてはみたものの、もはや、召喚の儀式は始まってしまった。




ぶわりと、温度のない魔術の風が吹き上がり、レイノが執り行う召喚の為の舞台をデュノル司教の魔術が組み上げる。

その美しい光景に胸を震わせ、レイノはその時を待った。




ずっと憧れていた大好きな竜を思い描いてみようとしたのだが、なぜだか、わあっと叫びたいような寄る辺なさを抱き締めてくれる、もっと強くて頼もしい誰かを呼び寄せ、この場にいる人達に叩きつけてしまいたいような乱暴な衝動を燻らせながら。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ