湖の主と林檎の道標
ざぶんと、澄み渡った湖面が揺れた。
そこから現れた生き物の問いかけを聞き、ネアは困惑に眉を顰める。
「湖の主さんとやらから、青い林檎と金色の林檎のどちらを湖に落としたのかを聞かれていますが、残念ながら、狐さんを落としている場合はどうすればいいのですか?」
「……………俺に聞くな」
「……………は!狐さんが浮かんできました!!」
本日のネアが美しい森の中を彷徨い歩いているのは、事故に巻き込まれたからではない。
事故りがちというたいへんに不名誉な称号を得ている事は知っているが、今回は、あくまでも収穫に訪れているだけなのだ。
とは言え、訪問そのものは事故ではないにせよ、そこで事故が起きた事は否定しようがない。
だが、今回その事故に見舞われているのは、本来は塩の魔物である筈の銀狐であった。
「狐さん!」
その呼びかけに、呆然と湖の主を見ていた銀狐が青紫色の瞳をこちらに向ける。
溺れてしまうような様子はなく、しゃばしゃばと泳いでいるので、湖に落ちたところでそれならばいっそと、林檎を取るために潜っていただけらしい。
ほうっと安堵の息を吐き、ネアはひとまず胸を撫で下ろす。
(でも、木から落ちて転がって行った青い林檎を求めて、狐さんが湖に落ちるとは思わなかった…………)
転がるものを追わずにはいられないのは悲しい習性だが、そもそもが高位の魔物であるので、そこはどうにか理性で堪えて欲しかった。
しかし今、ざぶんと湖に顔を出し、小ぶりな青い林檎を咥えて泳いでいるのは、確かにネアの義兄でもある。
幸いにも湖面に立っている湖の主はそんな銀狐に注意を向ける事はなく、今は岸に向かって泳いできてくれていた。
「やれやれだな。回収に行くぞ」
「この、湖の主さんはどうしましょう?」
「放っておけ」
「……………なぬ」
林檎と銀狐がその順番で湖に落ちた直後、きらきらと光り始めた湖に現れたのは湖の主だという青い髪の美しい乙女であった。
青い林檎と金色の林檎のどちらを落としたのかを問われていたが、アルテアが放っておけと言うからには、こうした問いかけに応える事もまた、魔術的な効果を生んでしまうのかもしれない。
なのでネアは、じっとこちらを見ている乙女にはらはらしながらも、その場を立ち去ろうとした。
「汝が落としたのは、青い林檎と金色の林檎、そのどちらであるか答えよ」
「ぎゃ!」
「ったく。さっさとこっちに来い」
何とかやり過ごそうとした途端に質問を重ねられてしまった人間が震えていると、気付いたアルテアがすぐに回収に来てくれた。
さっと抱え上げられてほっと息を吐き、ネアは、そんな使い魔の首元に顔を埋めてしまう。
これは、湖の主の視線を避ける為の人間らしい狡賢さなのだが、アルテアはなぜか小さく息を呑んだようだ。
安心させるようにそっと背中を撫でる腕を申し訳なく思いながら、ネアは、ちょっぴり人魚に似た表情の湖の主とやらの視線から逃げさせていただく。
アルテアな乗り物は何だかいい匂いがするし、人間とは違う生き物の力強さで乗り心地は抜群だ。
水音とムギーという声が聞こえてきたので、無事に銀狐も陸に上がってくれたらしい。
本当はそちらがどうなっているのかも心配なのだが、中身は塩の魔物なので頑張ってくれ給えと言うしかない。
(良かった。ノアも無事に水から上がったようだし、後はここから離れてしまえば………)
「いいか、その林檎は置いていけ。後々、厄介な縁になりかねないからな」
そんなやり取りが聞こえてきて、さては銀狐が林檎を離さないのだなと思いつつも、背中に湖の主の視線を感じ続けているネアは、そのままアルテアの首元に顔を埋めさせていただくことにした。
ネアはこの湖の主はとても苦手な感じだが、きっとアルテアなら、上手く対処してくれるだろう。
しっとりとしたカシミヤ素材のような上着に頬を寄せ、魔物な乗り物の乗り心地にも煩い人間は、こてんと預ける頭の角度を調整して呼吸も確保する。
ぴしゃんと水音がした。
(………っ、)
一瞬、湖の主がこちらに来たのだろうかと思いぞくりとしたが、アルテアの持ち上げ方が変わったので、片手でネアを抱き上げながら、空いているもう片方の手で銀狐も抱えてしまったらしい。
ふおんと揺れた魔術の風は、ずぶ濡れの銀狐を乾かす為のものだろう。
そのまま歩いて湖から離れる気配があり、やがて、淡い転移の薄闇を踏むような独特な魔術の風が揺れる。
「もういいぞ」
「……………ふぁい。あの湖の主さんはいません?」
「ああ。………お前は、ああいうのが苦手なのか」
そろりと顔を上げると、少し呆れたような表情だが冷ややかではない目をこちらに向けるアルテアがいた。
どこも濡れておらずにお腹の下に手を入れて持ち上げるようにされていた銀狐も、尻尾をふりふりしていた。
「ヴェルリアの海で、片目を差し出してきた人魚さんを思い出すので、あのような方はちょっぴり苦手なのです…………」
「水辺の連中は確かに、陸の生き物とは気配が違うかもしれないな」
「ええ。竜さんや、初代白もふは大丈夫なのですが、瞳の表情が無機質な感じがするというか、感情が読み取り難い方は苦手なのです。………そして、……ぎゃふ?!」
「何だ?」
ここで、ネアがぴゃんとなってしまい、アルテアがその視線を辿ってくれる。
ネアが見付けるなり竦み上がってしまったのは、近くの木の根元に落ちていた、金色の林檎だ。
金色と言っても黄金で出来ているような眩しさはなく、艶消しの淡い金色くらいの色調なのだが、あの湖の主との遭遇の直後である。
もしや、その問いかけに付随する魔術に追いかけられているのだろうかと、か弱い乙女は慄いてしまったのだ。
「この森には、黎明の系譜の林檎の木が多い。だからこそ、湖でもあの質問だったんだろうよ」
「あ、あれは、湖の主さんは関係のない林檎ですよね?あやつめを退ける為に、湖にきりんさんボールを投げ込む必要はありません?」
「やめろ。湖一つ干上がらせるつもりか」
「………では、問題のない林檎なのでしょうか?」
「上に、黎明林檎の木の枝が張り出しているだろう。普通に落ちてきただけだろうな。………だが、黎明の系譜は執念深い。さして祝福の旨味もない林檎如きで、妙な縁の道筋を付けられても厄介だから、くれぐれも持ち帰らないようにしろよ」
「はい!狐さんも、あの林檎に手を出してはなりませんからね?」
ネアがそう言えば、地面に下ろして貰った銀狐はきりりと頷いたが、相手が丸い物体なので、ネアは不安でならなかった。
とは言え、黎明の系譜と聞いて思い出したのはファンデルツの夜会の幼女だったので、先程の湖の主と関わるよりは随分と心穏やかでいられる。
「………ふむ。愛くるしい幼女なら、先程の方よりはいいかもしれません」
「厄介さでは変わらないな。いいか、用意してある豚肉とローズマリーのパイ包み焼きが食べたいなら、どちらとも関わるなよ」
「あ、あの林檎はぽいです!」
先程まで見えていた大きな湖は、もうどこにも見えなかった。
ふうっと息を吐き水の匂いがしない事を確かめると、ネアは、そろりと周囲を見回した。
さくさくと落ち葉を踏んで歩く森は、澄んだ空気が心地良く、木漏れ日は微かに暖かい。
同じ季節が巡っていても、この森の温度はウィームの初秋よりも高いくらいだろう。
ここは、ヴェルリアの北西部にある深い森で、ウィームの森よりは赤や黄色の葉や花を持つ植物が多く、例えば、大きな木の地面から飛び出して瘤のようになっている根の横に生えているキノコも、目を瞠るような鮮やかな赤色である。
迂闊に食べてもいいのかなとは思えない色彩であったが、時折市場で見かけるキノコの中には、あのくらいに色鮮やかなものもあった。
一概に色鮮やかだから毒という事もなく、この世界では思いがけない物が一般的な食材だったりもする。
「あのキノコは、………食べられるのですか?」
「………ああ、癖はあるが食べられるな」
そう教えてくれたアルテアに、ネアは目を瞬いた。
あれだけ鮮やかな赤色のキノコが食べられることも驚きだったが、思わず見上げた先の、周囲に人がいないのでと擬態をしていないアルテアの姿に、このちょっと悪そうな美貌の魔物と、森のキノコの話をしている不思議さについて考えてしまったのだ。
今日は森歩きなので、アルテアは、仕立てのいい濃灰色のウールのセーター姿だ。
白いシャツにセーターという装いで帽子を被っているので、はっとするような白い髪さえなければ、ご近所の貴族が森の散策に来ているという風情である。
(………でも、この容貌を見てしまえば、誰も人間だとは思わないだろう)
長い睫毛の影が落ち、その影を薄闇として鮮やかに輝くのは人ならざるものらしい赤紫色の瞳だ。
そんな、排他的な美貌を持つ男性が教えてくれるキノコの見分け方講座に耳を傾け、ネアは、ふむふむと頷いた。
「むむぅ。つまり、少しだけかさの部分が橙色がかっているこのキノコは、食べられるのですね」
「持って帰るなら採取してやるが、あまり勧めはしないな。辛味のある山椒のような味だ」
「まぁ。となると、香辛料のような使い方をするのです?」
「いや。そのまま食べるようになる。だからか、あまりウィームの人間は好まないな。ガーウィンの人間達はスープに使うが」
「もしや、あの激辛スープ………」
元は違う国なので、土地によって人々の好みの味の違いというものはあるだろう。
そして残念ながら、ウィームの料理が大好きなネアには、到底受け入れられない味がある。
ネアは、匂いを嗅いだだけでもぎゃふんとなってしまうガーウィンと言えばのスープを思い出し、ぶるりと身震いすると首を横に振った。
「美味しくなさそうなので、あのキノコには、このままこの森で生きていって貰おうと思います。私は、引き続き堅実に、目的のクヴァラの実を探す事を優先するようにしますね」
ネアが厳かにそう答えれば、こちらを見たアルテアがふっと微笑む。
鮮やかな赤紫色の瞳が、獲物を弄うかのようにきらりと光った。
「そうか。お前がそのまま食べたいと言うのなら、ここで焼いてやらない事もなかったが、いいんだな?」
「さては、意地悪魔物ですね!辛い山椒味を丸齧りな焼きキノコなど、乙女のお口には入れてはならないのですよ?」
「今のところ、悪食の素養はなさそうか。良かったな」
「ぐるる………」
とは言え、美味しくないキノコくらいであれば、雪食い鳥の巣に放り込まれるよりはいいのかもしれない。
ちらりと様子を窺ったが、森に帰りたい期ではなさそうだぞと判断し、ネアはふすんと息を吐いた。
山椒と聞いて興味津々だったのか、銀狐が赤いキノコに近付いて匂いを嗅いでいる。
その途端に、ムギーと声を上げてけばけばになっているので、あまりいい匂いではないのだろう。
歩みに合わせて、こぼれ落ちてくる木漏れ日の形が変わる。
複雑に組み合わされる木の葉の隙間から差し込む細い光の筋に、ちらちらと視界が揺れた。
木漏れ日を映したアルテアの瞳を見ていると、光と影が目まぐるしく入れ替わり、精緻なカットを施した宝石のようだ。
解放されないままなのでおやっと思っていると、こちらを見て片眉を持ち上げたアルテアは、ネアを抱えたまま歩く事にしたようだ。
本日はこの森に大事なインクを作る為の材料を採取しに来たのだが、これだけ豊かな森なので、その合間で狩りなどを楽しめないこともないだろう。
しかし、普段であればそんな楽しみを逃したくないと即刻の解放を要求するネアも、まだ湖の主への警戒心が緩められずにいたので、まぁいいかと、魔物な乗り物の上にいることにした。
「こちらの森は、小さな妖精さんや、きらきら光るような物は少ないのですね……………」
「光を宿すものの多くは、祝福の濃さを示しているからな。豊かな森だが、ここではウィーム程の煌めきは蓄えられないだろう。加えて、土地の気質もある。陽光や火の系譜の生き物は、蓄えるよりも消費する事を好む傾向が強い」
「むむ。確かに、海を有する土地の人々は、ちょっぴり楽観的で豪快な印象がありますよね。加えて、ヴェルリアであれば、冬が短いのでそこまで備蓄が重要ではないのかもしれません」
「だろうな。…………あの花には手を出すなよ?」
視線で示された花を見て、ネアはこくりと頷いた。
こうして、いつもの森ではない場所を歩いていて出会う植物は、出来るだけきちんと覚えておこうと目を凝らす。
「マーガレットのような、綺麗な黄色いお花ですね。危険なものなのですか?」
「昼下がりの妖精の、求婚の印だ。迂闊に摘むと、求婚されるからな」
「……………相手を選んでいただきたい」
「花びらの中に、不自然な煌めきがあるのが見えるな?……この界隈の森はウィームとは違う。あちらの森程には光らないという前提の上で、不自然な輝きを宿すものには注意を怠るなよ」
「はい!………む、狐さん?」
ここで銀狐が足を止めたのでそちらを見ると、ふかふかの前足で何かを押さえ込んでいる。
何を捕まえてしまったのだろうと眉を寄せたネアは、小さなモグラのような生き物がじたばたしているのを発見してしまった。
「………土暮らしだ。俺達の足下に落とし穴を掘ろうとしていたようだな」
「まぁ。悪いモグラさんなのですねぇ………」
「言っておくが、これは犬の仲間だぞ?」
「犬………どこが、………犬?」
ネアは、モグラにしか見えない生き物に犬らしさを見付けられずに困惑してしまい、お手柄銀狐の前足から解放され、震えながらこちらを見上げていた土暮らしは、その眼差しの残酷さに愕然としたようだった。
さかんにちょびっとした尻尾を見せて、これが犬の証であるというような行動を取っているが、ますます犬感は皆無なのでネアはそっと首を横に振った。
すごすごと土の中に戻ってゆく土暮らしは、やはり土を掘って地下に暮らす生き物のようだ。
ふさふさの茶色い毛並みは柔らかそうだったが、とは言え、あまり飼いたい系の生き物ではない。
(風は少し吹いているくらいだけれど、ひんやりとしていて気持ちいいな…………)
さわりさわりと、微かな風が森を揺らしていた。
森というものの様相は、その森を形作っている木々や草花の種類で大きく姿を変える。
熱帯雨林の森などは最初から色相も匂いも違うが、そこまでの差はないような森に見えても、生えている木の種類が違うと木々の形も枝葉の色も違うので、見知らぬ森を歩いているという感じが鮮明であった。
見た事のない鮮やかな赤い花の咲く茂みに、黄色い小花の下草。
秋に色付いた落ち葉には黄色が多く、他にも、赤や橙や紫と、なんとも色鮮やかな森ではないか。
賑やかな市場や祝祭の屋台を見ているような楽しさに、ネアは唇の端を持ち上げた。
湖の主が現れてしょんぼりしていたが、あの独特の気配から離れたからか、少しずつ心が持ち上がってきたのだ。
(ディノも来られれば良かったのにな……………)
今日の収穫には、系譜上の相性の悪さがあり、ディノは来られないのだ。
ムグリスにして胸元に詰めてきたかったのだが、それも危ういという話になり、リーエンベルクでお留守番をしてくれている。
その代わりに同行してくれたのが銀狐だが、ネアを持ち上げたまま森を歩いている使い魔には、まだ塩の魔物だと告白出来ていない、危うい関係性でもあった。
収穫に来ているクヴァラの実は、ネアの守護の蓋が完全に閉まっていないことと、今後のリーエンベルクの安全の為にという理由から、初めて運用される木の実である。
魔術の潤沢なウィームの森とは違う森でしか育たない、多くの魔術を宿さない祝福の実なのだそうだ。
(祝福の系譜でありながらも、多くの魔術を宿さないただの木の実だからこそ、その実から作ったインクで敷地内の守護術式を書いておくと、一部とは言え、階位の低い災いからも守ってくれるようになるのだとか……………)
ネアの対策として挙がったものだが、今後のリーエンベルクの為にも有用なものだと、今日のネアの仕事は、そんなクヴァラの実探しとなった。
そしてアルテアは、過去にこの森でクヴァラの実の収穫を行ったという経験が買われて同行してくれている。
魔術の系譜としてはグラフィーツの同行があればより探し易いのだが、残念ながら、そう簡単にお願い出来る距離感ではない。
「まぁ。狐さんが探してくれるのです?」
しかしここで、ふんふんと地面を嗅ぎ、銀狐がぴしりと尻尾を立てた。
どこかきりりとした眼差しで振り返るのでそう聞いてみると、任せ給えというような顔で頷くではないか。
ネアはアルテアと顔を見合わせ、そんな冬毛になった生き物に付いて行ってみる事にした。
すると、ほんの少し歩いたところで、ててんと黄金の林檎が落ちている。
落ち葉の中に鎮座した林檎は、木から落ちてきたというよりは、誰かがそこに置いていったような感じがした。
「………むぅ」
おまけに、そこから一定間隔でずっと林檎が並んでいるではないか。
たいへん作為的かつ、警戒心を煽る仕掛けである。
「…………手を出すなよ」
「はい。……これは、我々をクヴァラの実まで案内してくれていたりします?」
「しないだろうな。ざっと確認したが、湖へ向かっている」
「ぎゃ!」
銀狐は置かれた黄金の林檎の前にお座りして、得意げに胸を張っていた。
罠を教えてくれたのか、これがいい物だと思ってしまい教えてくれたのかは謎だが、その真偽は、このもふもふな公爵位の魔物が人型に戻ってから追及しよう。
ネアはそろそろ自立しようと思っていたのだが、湖へ誘導する林檎が置いてあると知り、慌ててもう一度、使い魔な乗り物にしがみついた。
人間は元より身勝手な生き物だが、危険を前にしたときにはよりその性質が顕著になるものだ。
うっかり何かが作用してあの湖の主の元に引き戻されたりしたら嫌なので、絶対に使い魔から離れたくはない。
落ちたり迷い込んだりしがちな人間は、一人になった途端に起こりがちな展開にとても警戒していた。
「ぐるる………」
「やけに執念深いな。まさか、湖の主やその系譜と、縁を結んでいたりはしないだろうな?」
「記憶にございません。………む」
ふいに、こつんとおでこを合わされ、ネアは頭突きだろうかと眉を寄せた。
だが、何かを思案するような表情からすると、おでこで熱を測る的な動作なのかもしれない。
ふつりと触れる吐息の温度に、僅かに息を潜める。
アルテアの体温の方が少し低いようだ。
「………なさそうだな」
「熱は出ていませんよ?」
「魔術の繋ぎだ。………守護の精査を行った後だからな。余分の添付があればとうに見付かっているとは思ったが、お前は何を拾ってくるか分からないからな」
「あやつとの縁があれば、すぐさまぽいします………」
(…………あ、)
ここでネアはふと、足下のもふもふした義兄が、どこかにそれに近い祝福を受けていたような記憶が蘇った。
あれは確かバルバの日のことで、尚且つこちらの選択の魔物も一緒ではなかっただろうか。
「………ふと思い出したのですが、バルバで出会った石鹸な湖の主さんの祝福は関係ありませんか?」
「…………ないだろうな。お前には効果がなかった上に、俺のものは引き剥がしてある。祝福の残滓が何らかの形でもう一度結ばれるにしても、それを付与された者が、最低でももう一人いる必要があるからな」
「もう一人………」
ネアはとても優秀なので、ここで、足下の銀狐を見ることはしなかった。
だが、そんな条件で付与された祝福がもう一度動くのなら、可能性はあるのではないだろうか。
「ここまで見え透いた罠にかかりはしないだろうが、守護を重ねておいてやる。早々にクヴァラの実を収穫して戻った方が良さそうだな」
「むぐ」
唇の端にふわりと落とされたのは、祝福の口付けだ。
おでこかなと顔を下向きにしてしまったネアは、なぬっと目を丸くする。
「………何だ、足りないのか?」
「私では過不足が測れないのですが、足りないのならもっとして欲しいです。あの湖には戻りません……」
「……………節操なしめ」
「なぜに叱られたのだ………」
びしりとおでこを指で弾かれたネアが唸り声を上げていると、呆れ顔で目を細めたアルテアに、もう一度口付けを落とされた。
今度は前髪を掻き上げておでこに落ちた守護に、ネアはこれ程までに警戒される罠なのだなと背筋を伸ばした。
「実を回収して戻る迄に、妙な声を聞いたり水音が聞こえたりしたら必ず言え。いいな?」
「は、はい!………急いでクヴァラの実を探さなければなりませんね。まだ見付かりませんが、あの湖の近くではないといいのですが…………」
「この奥にある大きな椎の木の近くと、少し進んだ先にある山百合の茂みの近くだ。湖には近くないから安心しろ」
「………まぁ。もう、場所も調べてくれたのです?」
「時間をかけて、妙な事になっても面倒だからな。切り上げるぞ。………何だ?」
アルテアのその声に、ネアは、足下の銀狐に視線を向けた。
なぜかネアの冬毛の義兄は、けばけばになって涙目でこちらを見上げている。
(……………あ、)
ネアはここで、この塩の魔物な銀狐が、湖の主の祝福を再度浮かび上がらせてしまった理由に気付いたのだなと理解した。
だがそれは、ここでアルテアに伝えるとたいへんに拗れる話なので、今使い魔に森に帰られたら困るネアとしては、告白の機会を先延ばしにして貰いたい。
身勝手な人間は、漸く義兄に芽生えたかもしれない告白の勇気を踏み躙ると分かっていても、今だけは頼もしい使い魔に置いていかれる訳にはいかなかったのだ。
(ど、どうしよう?!)
慌てたネアは、ここは何としても、銀狐の何かを訴えるような眼差しを誤魔化さなければならないと思考を巡らせる。
「き、狐さんも、アルテアさんの守護が欲しいのですね!」
「…………は?」
ネアにそんな風に問いかけられてしまった銀狐は、尻尾をぴしゃんと立てていっそうにけばけばになった。ネアは成る程そうなのだなという表情を作り、やや呆然としているアルテアの方を見る。
誤解されてしまった銀狐がムギーと鳴いて足踏みしたが、守護が貰えなくて荒ぶるように見えなくもないと、邪悪な人間を安堵させた。
「………いちいち守護なんぞかけていられるか。足元の場を繋いでおいてやるから、離れないようにしろ」
「だそうですよ。少し安心しましたか?」
だがここで、多分、皆が思っている以上に面倒見のいい選択の魔物がそんな妥協案を出してしまい、けばけば銀狐は、今更違うとも言えなくなったのか、涙目のままこくりと頷いた。
魔物という生き物同士であるのだから、そうして切り出されたものがどれだけ稀有なのかが、銀狐には分かってしまったのだろう。
(そもそも、毎回一緒に予防接種に行ってくれて、時々ボールでも遊んでくれるくらいだから、アルテアさんはかなり狐さんを気に入ってはいるのだと思う……………)
その結果、守護とまではいかずともなかなかに破格の待遇となってしまい、銀狐は震えながら森を歩いていた。
一歩歩くごとにふさふさの尻尾がぶわっとけばけばになるので、繋いであるという足場から何かを感じるのだろうか。
その後、クヴァラの実は無事に見付かった。
これはもう、アルテアが場所を特定してくれたからでもあるのだが、本当に、アルテアが話していた場所に実がなっていたのだ。
ころんとしたブルーベリーのような実をつけるクヴァラの木は、ネアの顎下くらいの高さの茂みになっていて、ところどころに小さな水色の花が咲いている。
クチナシによく似た花は爽やかな檸檬のような香りがして、赤い実との色合いの対比が可愛らしい。
インクを作れるだけの量という事で、今回は小さな籠いっぱいに収穫させていただき、ネア達は無事にその森での任務を終えた。
「今日のお仕事の後半は、ずっとアルテアさんを乗り回してしまいました。………ディノの、疲労回復のお薬を飲みます?」
「……………何だその言い方は」
「私は腰もしっかり括れている素敵な乙女ですが、とは言え人間一人分の重さですので、腕などが攣っていないといいのですが……………」
無事にリーエンベルクに帰着してから、漸くその可能性に気付いたネアがへにゃりと眉を下げると、呆れたような溜め息を吐いたアルテアが、頭の上にぼすんと手のひらを載せる。
「そうだな。この貸しを何で返すのかは、考えておいてやる」
「……………では、鮭のクリームソースな冬のパイと、甘酸っぱい果実のタルトにしますね」
「なんでだよ」
足場を繋いで貰っていた銀狐は、戻るなりぴゃっと走ってゆき、部屋に迎えに来てくれたヒルドの足の後ろに隠れてしまっている。
アルテアが拗ねるといけないので、ネアは、湖の主が怖かったので、森と湖のシーに守って貰おうとしているのだろうと厳かに伝えておいた。
自分の身の安全を優先させてしまったせいで、本当は塩の魔物であるという告白がまた先延ばしになってしまったなと反省したネアは、すぐさま部屋に戻ったノアに会いに行った。
すると、やはりとても動揺していた塩の魔物は、どこか途方に暮れたような目で、選択の魔物は、会うと耳の後ろを触って毛玉を作っていないのか調べてくれるのだと教えてくれる。
足下の魔術を繋いで貰えたことで、とうとう本人もご寵愛具合に気付いてしまったのだ。
あまりにも自然に可愛がっているのだなと知ってしまったネアは、いつかの告白の日を思って慄くしかなかったが、傷心旅行の準備はずっと前から整っているので精一杯慰めるしかない。
なお、ヒルドの見立てによると、やはり湖の主から貰った祝福が少しだけ戻ってしまっていたそうだ。
ネアには怖いばかりだったが、あの森にあった湖の主は良い性質の生き物であったらしい。
湖を訪れた者達に何某かの祝福を授けようとしてくれており、その思いが、かつて別の湖の主の祝福を得たアルテアとノアが揃った事で、引き剥がした筈の祝福を基盤にあの湖との縁にして結び直されかけていたのだそうだ。
ネアは、お留守番を頑張った伴侶を沢山撫でてやりつつ、約束のパイが出てくるまでの時間で、森で見付けたキノコの話をする事にした。
大切な魔物が刺激的な味のキノコを食べてしまわないように始めた話だったが、アルテアが銀狐の足元に魔術を繋いでくれた下りでディノも震えてしまったので、魔物達には少しだけ刺激の強い日だったようだ。
なお、集めてきた実はとてもいいインクになったらしい。
エーダリアは、今から使うのが楽しみだという。




