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ダリミアの王宮とローズマリー



風に揺れる小さな花を見ると、不思議なくらいに心が安らいだ。


清しい香りだとは思っていたが、それは料理などの香り付けに使う香草としての認識であったのに、今はもう特別な花だという認識に変わっている。

ネアは時々、まだ若い葉を摘んで香草茶にしている事もあるそうで、ローズマリーの葉のお茶に蜂蜜を入れて飲むと、気持ちがすっきりするのだそうだ。



(今度やってみるか………)



そんな事を思いながらリンデルを撫でると、唇の端を持ち上げる。


これからはずっと、ローズマリーの料理やその薄紫色の花が特別なものになるだろう。

生活に近しい草花を守護や魔術に取り込む行為は、認識の容易さこそが力となる。

見慣れない高貴な花ではなく、良く知り、尚且つすぐに手に入る植物こそが日々を守る魔術を育むのだ。


だからこそウィリアムも、そうなればいいと思って、ローズマリーの花を選んだ。

表側には柊とイブメリアの日の夜を表現し、あの出会いの特別さを。

そして裏側には、これからの何でもない日常に寄り添う絵柄をと考えて。




「だから、それは俺の領域なんだ。手を出されては堪らないな」



かつてここは、ダリミアの王宮と呼ばれた壮麗な建物であった。


今は廃墟となり、先日の隔離地のホテルのように凄惨な記憶と終焉の顛末を繰り返す厄介な土地だが、終焉の系譜が足を運ばねばならない程の惨事になる事は少なく、あちら程の扱い難さはない。

寧ろ、かつてこの土地で収穫されていたダリミア麦など、他では見られなくなった植物が残る庭園があるので、希少植物目当てで、この敷地の中央にある植物園に足を運ぶ者達が一定数いるくらいだ。



そしてそんなダリミア王宮の中庭にある麦畑に、ウィリアムの大切なものが迷い込んでいる事に気付いたのは、ローズマリーの茂みを抜けた時だった。



はたはたと、金色の麦の穂を揺らす風がウィリアムのケープを揺らす。


視線の先に立っているのはせいぜい男爵位の魔物で、この土地を鳥籠で覆ったのが終焉の魔物だと知りながらも、未だに自分が優位だと信じている愚かな男だ。

そしてその男に腕を掴まれているのは、青みがかった灰色の髪に鳩羽色の瞳を持つ、ウィリアムにとって大切な少女であった。



「ほお、この貧相な娘が終焉の魔物の獲物か。あなたが人間に特別な思いを向けるのは珍しくないが、今回は随分と見栄えがしない人間を選んだものですね。まるで、レインカルのような灰色の…」



残念ながら、麦畑に立っていたネア達を捕らえた魔物を最初に黙らせたのは、ウィリアムではなかった。


その男がネアに対する禁句を口にした直後、ずだんという音がして、ひび割れるような悲鳴が辺りに響き渡る。

片足を押さえて悶絶し、そのまま地面に倒れた男を見下ろすネアの眼差しは、凍えるようだった。



「…………愚か者め。他者を貶める時には、己の命を捨てる覚悟を持って挑まねばならないのですよ」

「キュ………」

「皆が、心ない言葉に傷付くだけで許してくれると思うだなんて、大きな間違いなのです」

「キュ!」



ウィリアムは、麦畑の作業路を早足で抜けてそんなやり取りをしているネア達に歩み寄ると、ネアの足元に落ちていた魔物を拾い上げ、片手で首をへし折るとそのまま近くにあるあわいに投げ捨てた。

あまりよく確認せずに壊してしまったが、何の魔物だったのかは、後でシルハーンに聞いておこう。



「………怪我はしていないな。良かった」

「ウィリアムさんのお仕事の邪魔をしてしまいました………」


先程の魔物の首を掴んだので、その手袋は燃やしてしまい新しい物を再構築する。

すぐに抱き上げたネアの手首を調べて安堵に息を吐くと、先程とは打って変わって、ネアは悲しげに項垂れていた。



「いや、鳥籠は展開したばかりなんだ。俺の方こそ、中にネア達がいる事に気付かなくてすまない。……………ネア達は、麦の収穫に来たんだな?」

「はい。ここの麦で作るクッキーに特別な作用があると聞き、こうしてディノと一緒に麦を盗みに…いただきにきたのです」

「キュ………」

「ここは特殊な土地だが、普段は収穫地として賑わうくらいだからな。鳥籠の展開になるとは思っていなかったんだろう。俺が知る限りでも、ダリミアがこの状態になるのは三百年ぶりなんだ」

「ふぁい。ちょっと怖い幻影が立ち上がるとは聞いていましたが、それはあくまでも屋内なのでと、我々は麦畑にさっと来て、麦穂を刈り取りさっと帰るだけの予定だったのです」

「キュ………」



悲しげにそう話してくれたネアをしっかりと抱き寄せ、温かな頬をそっと撫でる。


こちらを見る眼差しには申し訳なさそうな色があるばかりで、いつかの誰かのような拒絶や恐怖はない。

もうそんな事を疑う筈はないのだけれど、それでも確認してしまう自分が少しおかしかった。

ネアはいつだって、手を差し出せば安心したようにこの腕の中に収まるのに。



「ネア、もう大丈夫だからな。だが、念の為に髪色の擬態はしておくか。もう少しすると、他の終焉の系譜の連中もやって来る」

「は、はい!では、無難めな色の…」

「こっちに寄越せ。擬態は俺がやっておく」

「……………ああ、やっぱりアルテアもいましたか」



背後から聞こえた声に、ふうっと息を吐いた。


シルハーンが擬態しているのなら、この二人だけではあるまいとは思っていたのだ。

このような土地で、シルハーンが敢えて擬態する事は考えられない。

であれば、シルハーンは元からこの姿で、ネア達を転移でここに連れて来た誰かがいた筈なのだ。



振り返った先に立っていたのは、珍しく、砂色のコートを着たアルテアだ。


淡い砂色のコートと同じくらいの明度の灰色の揃えの服は、鈍い金色の髪に擬態したアルテアの容貌を穏やかに見せている。

だが、どれだけ穏やかに微笑んでも、これが無害な生き物だと思う者はいないだろう。

この魔物は、穏やかで柔和な色彩に身を包んでいる時の方が残忍に見えるのだ。



「で、お前は早速事故ったんだな」

「むぅ。言われた通りに、麦畑に蹲っていましたよ。しかし、不届き者が現れ、見事な麦を踏み荒らしながら歩いてきたので、思わず立ち上がってしまったのです」

「それで、……………そいつはどうした」

「ああ、首を折って二度とこちらを煩わさないように捨てておきましたよ」

「………お前な。どうせ、何の魔物かも見ないまま、適当に排除したんだろ」

「適当も何も、既に瀕死だったので土地を汚さないように片付けるだけでも良かったんですが、何しろ、ネア達に危害を加えようとしていましたからね」

「……………まぁ。あの失礼な方はもういないのですね。元々たいそう目が悪かったようなので、もう一度やり直しの機会を得られて良かったのかもしれません」

「キュ…………」

「……………おい、そいつは何を言ったんだ」

「乙女の繊細な心を傷付けたのですから、罰せられて然るべきなのですよ」

「すまない。もう少し俺が早く気付けば良かったな。怪我がなくてほっとした………」

「……ですが、ウィリアムさんのお仕事の邪魔をしてしまいました………」


また悲しそうな表情になってしまったネアをじっと見つめると、分かりやすいくらいに眉を下げて悄然としている。

だが、なぜそんなに落ち込んでしまうのだろうと視線で問いかけると、そろりと顔を持ち上げてくれた。



「…………クロウウィンの事件の後から、ウィリアムさんのお仕事がかなり忙しくなったと聞いているのです。少しでも休んで欲しいくらいなのに、まさかの、お仕事の現場へ来てしまいました。使い魔さんもいるので、私の事はぽいしていていいですから、出来るだけご自身の休憩時間の確保を優先して下さいね……………」

「もしかして、グレアムあたりから何か聞いたのか?」

「まぁ。リンデルの日はお元気でしたが、その前に来た時は、椅子に設置して少し静かにしていると眠ってしまうくらいに疲れていたではないですか!ちょっぴり喜んでいる時だけ元気でも、私の目は誤魔化せませんよ!」

「キュ!」


拳を握ったネアが、腕の中で小さく弾む。

その様子に何だか口元の微笑みを深めてしまい、温かなその体を小さく揺すった。


「困ったな。こうして会えたのは、俺を元気付けに来てくれたのかと思ったんだが、違ったか」

「……………な、なぬ。出会えた方が、元気になります?」

「そうだな。今日から新しい鳥籠だと思っていた先で、ネアに会えたんだ。怖い思いをしていないかは心配だが、それでもこうして話せるのは嬉しいよ」

「で、では、お仕事先にまで押し入った私を見ても、むしゃくしゃしません?」

「まさか」



そう微笑めば、ネアはやっと安心したように頬を緩めた。


胸元に収まったシルハーンは、鳥籠の中でも元の姿に戻らないのかと思ったが、よく見れば周囲は、ムグリスの大好物の麦畑である。


種族性の変質を行っていないので、ムグリスの擬態とは言え妖精の羽などはないくらいだし、食事などの好みはムグリス本来の嗜好よりも本体の嗜好が優先されるようだが、それでもムグリス側の資質に引き摺られる部分もあるのだろう。



「もういいだろ。お前は、さっさと仕事を済ませてこい」

「やれやれ、まだ王妃の茶会が始まっていないので、待ち時間中なんですが……………」

「とは言え、お前が鳥籠を展開したんだ。今年の茶会には、王子役がいるんだろ」

「でしょうね。……………どこから迷い込んだのか、或いは、誰かに放り込まれたのか。正直、厄介な事にしかならないので、こういう悪戯はやめて欲しいんですけれどね……………」



このダリミアの王宮は、正確には、王族の治める宮殿ではない。


とある荘園主の壮麗な屋敷とその庭の一帯が、あまりにも素晴らしいので王宮と呼ばれるようになったのだ。

近隣の国々の王族たちをも凌ぐ程の富を有していたこの荘園の一族は、人望も厚く、周辺の民達からは王のように敬われていた。



この土地に暮らす人間達が滅びたのは、その富を狙う者達が、荘園主の一人娘を陥れたせいだと言われている。


正式な記録が残っていないので、恐らく介入したのであろう高位の人外者の証言でもなければ真実は明らかにならないが、荘園主の一人娘が隣国の王子を茶会で毒殺したとされる事件が起き、大きな戦乱をこの地に招き入れた。


荘園主の娘は王子の護衛にすぐさま切り殺されたが、所詮ここは、彼らの土地なのだ。


自分の娘を殺した者達を荘園主は許さなかったし、隣国の軍隊にこの地が滅ぼされても、このダリミアの王宮や、ダリミアの地に生い茂る作物は誰の手にも落ちなかった。


この地の固有種であった草花や作物も含めたその全てに、荘園を愛した人々の強い呪いがかけられていたからだ。



(だが、………荘園主とそこで暮らした人々が憎んだ国も滅びた今は、植物に残る呪いは既に剥がれ落ちた。ダリミアの王宮は風化せずに残っているが、それは、あくまでもこの地を誰かに奪われない為の戒めの舞台に過ぎない)



ダリミアの王宮と呼ばれた壮麗な建物が、年月に風化されずに残り、惨劇の日を繰り返すのは、この地を他国の者達が手に入れるのを防ぐ為だと言われている。

また、毎年、茶会の日になるとあの凄惨な事件を繰り返す事を可能とするだけの魔術が、この地には今も残されていた。


荘園で暮らした人々が敵に奪われてはなるものかと土地の植物に残した呪いが、植物から呪いが剥がれても尚土壌に残り、彼らの願いを繰り返し続けているのだから、これはもう、土地に焼き付けられた一種の魔術式のようなものなのだろう。


とは言え、今も残る王宮と呼ばれた壮麗な建物がその術式を発動する為の舞台装置になっているので、これを壊せば術式が失われ、一年に一度の上演は打ち切られる筈だ。



だが、それを良しとしないのが、この舞台の内側だけに残る当時の貴重な植物を求める者達だった。



(幸いにも、この土地に残る魔術は、この庭園からの収穫は禁じていない。禁じられているのは、他国の者達がこの土地を接収する事だからな………)



かくして、選択の魔物も含めた何人もの者達が協定を結び、ダリミアの王宮の管理と保護についての取り決めがなされたのはどれくらい前の事だろう。

誰かに所有されることを嫌い荒ぶる土地なので特定の主人を得る事はないが、その代わりに、この地はずっと不可侵という柵で囲われた温室のようなものであった。



「まぁ。……………王子様というのは、この土地をこのような形で残している発端となった事件の、毒殺された王子様の役に相当する方という事でしょうか?」

「ああ。惨劇の日を繰り返す場所を安定していると言っていいのかどうかは分からないが、普段は、当時の参加者だけで繰り返す幻影のようなものだからな。いつもなら、あの茶会の行われた部屋に入りでもしない限りは害はないんだ。ただ、……王子という肩書を持つ人間がその日にこの敷地に入ると、周辺の集落も含めた広範囲の人間に災いが及ぶ災厄の魔術に変化する」

「ふむ。一定の火の大きさを保って燃え続けている焚火に、燃料を放り込むようなものなのですね」

「そんな感じだな。だから、この土地を管理する者達も、焚火に悪さをしないよう注意していた筈なんだが……………」

「今回は、その管理者側の諍いから、希少な収穫地を損なうという行為に及んだようだな。馬鹿な連中だ………」



聞けばアルテアは、その気配を感じてネア達の側を離れていたようだ。

土地に細工をしていた者達の一部は捕縛したが、既にこの土地の魔術を悪変させる王子役は放り込まれた後であった。



「はぁ。そんな理由でしたか……………」

「アイザックに連絡を入れておいてやったから、残りの連中の処分は済ませるだろうよ。俺の管理している葡萄畑の収穫は終わっているが、アイザックの押さえている氷戻しの栗の木の収穫は明日からだ。共有の麦畑を荒らしたのも、今回の事件絡みの誰かだろう」

「ああ、だから素性が知りたかったんですね……………」

「キュ!」

「むむ。ディノが犯人の素性を知っているようですよ」

「キュキュ!」


ムグリス姿のままのシルハーンが何かを話していたが、さすがに理解出来ずにアルテアと顔を見合わせてしまった。

シルハーン自身も気付いたのか、小さな三つ編みをぴんと立てて目を丸くしてから、すぐに魔物の姿に戻ってくれる。



「……………この子の手を掴んだのは、蘭の系譜の植物の魔物だったようだよ」

「まぁ。花の香りがしたのは、だからだったのですねぇ」

「ああ、花の系譜だから、その靴で踏まれてほぼ致命傷だったんだな…………」

「踏み滅ぼすよりも、除草剤の方が相応しい方だったのかもしれません」

「ご主人様……………」


相手が蘭の系譜だと判明したことで、アルテアには思い当たる者達がいたようだ。

顎先に手を当てて暫く考え込んでいたが、こちらを見て、少しだけ嫌そうな顔をする。


「……………お前が動くまで、猶予はどのくらいある?」

「王子が迷い込んでいるにせよ、まだ茶会が始まる時間ではないので、半刻くらいは」

「暫くの間、こいつ等を預けるぞ」


それだけを言い残しふわりと姿を消してしまったアルテアに、今度はネアと顔を見合わせた。

困惑したようにこちらを見上げるネアに微笑みかけ、そっと下ろしてやる。

名残惜しいが、シルハーンが擬態を解いたのなら、ネアを抱えるのは彼の役目だ。

そもそも、シルハーンがいるのだからウィリアムが傍にいる必要もないのだが、アルテアはそれでもと考えたのだろう。


やはり、クロウウィンの一件から、より慎重になっているらしい。



「どうやら、急ぎ解決しないといけない事案のようですね」

「そのようだね。今でなければならないのなら、私達もここから動かない方がいいのだろう。おいで、ネア。危ない事があるといけないから、持ち上げていよう」

「はい。ウィリアムさんな乗り物から、伴侶に乗り換えをしますね。折角、守護類の定着が良くなる麦を求めてやって来たのですが、思いがけない事態に巻き込まれてしまいました……………」

「蘭の系譜という事は、ラジエルあたりが関わった問題かもしれませんね。確か、この庭園のどこかに、彼が権利を有している花壇があったと記憶しています」

「おや。であればアルテアは、本人が現れる前に問題を解決しようとしているのかもしれないね」

「……………その可能性が高いですね」


通り雨の魔物のラジエルは、普段は物静かだが、何か問題があると人の話を聞かずに暴走しがちな男だ。

司る通り雨の資質らしく、予測の出来ない大騒ぎを引き起こすラジエルがこの地で暴れるとなると、どのような騒ぎになるのかは容易く想像がつく。


丁寧に犯人を突き止めて排除するのではなく、自身が疑いをかけた者を責め立てる傾向があるので、この場に居たアルテアなどは容易く犯人に仕立て上げられかねない。

それどころか、ウィリアム自身も含め、ネアとシルハーンですら危ういくらいだった。



(……………という事は、ラジエルに降りかかった火の粉が、ラジエルの羽を焼く前に払うつもりだろうな)



他人の火の粉を払ってやるのだから骨折り損もいいところだが、ラジエル本人に対応させる方がより厄介な問題になるので、そのような意味でも、厄介な魔物なのだ。



「今の内に、麦の収穫をしておくか?」

「むむ。……………ですが、麦の収穫の正確な方法を、私もディノも知らないのです。根本から引っこ抜けばいいのですか?」

「鎌で刈り取るんだ。俺は何度かやった事があるから、手伝うよ」

「やり方を教えてくれれば私がやりますので、ウィリアムさんは少しでも休んでいて下さいね!」

「刈り取り方にコツがあるんだ。俺はなかなか上手いぞ」

「麦名人なのです……………?」


剣で薙げば簡単に麦穂を落とせるが、ネアが考えているのは丁寧な収穫なのだろう。

正確な刈り取り方を知らないので不用意に手を出せないと思っている彼女の為に、ここは正しい方法で麦の収穫を行う事にしよう。


そう思い、魔術で象り作った鎌で一束収穫してみせると、シルハーンの腕の中でネアが目を輝かせた。


「す、凄いです!ざしゅんと、一気に刈り取れてしまいました!!ウィリアムさんは、麦の収穫まで出来てしまうのですね!」

「ウィリアムなんて……………」

「昔、麦畑のある集落で、人間として暮らしていた事があったからな」

「ディノ、ここで見て学べば、私達もいざという時に麦の収穫が出来ますよ!」

「収穫……………」



かつて暮らしていたのが、この荘園地帯であった事は敢えて言いはしなかった。


ウィリアムが一人の医師として暮らしていたのは一年間だけだったし、この地が滅びたのはそれから五十年以上経ってからであった。

だが、人間のふりをしていたウィリアムを快くもてなしてくれた気のいい青年が、どのような思いで我が子が婚約者を殺す姿を目撃し、そして、王子の護衛の騎士達に粛清された我が子を見てどれだけ絶望したのかと思えば、微かに胸が痛むこともある。


かつて、ダリミアの王宮を取り巻くこの土地が、どれだけ美しかったのかを覚えているから。


茶会の行われる部屋には、きっと、ウィリアムが出会った頃の面影のある男がいるのだろう。

そう思えば、これ迄、その部屋の扉を開く事はなかった。

鳥籠で覆いをかけなければいけないような災厄に転じる年でも、茶会の参加者達は、あの部屋からは出てこないのだ。


何しろそれは、この土地に残った魔術式が映し出す、遠い過去の幻のようなもの。

この地で命を落とした人間達はとうに死者の国に迎え入れられ、もう別の人間として生まれ変わっている。



“君はいつか、どこかへ行ってしまうのだろう。僕が異国から集めた植物達が、父や祖父達がそうしてきたようにこの土地の人々をより豊かにするかどうかを、一緒に見届けて欲しかったなぁ”


そう笑った青年は、最後までウィリアムの正体を知らずに生涯を終えた。

彼が死者の国に迎え入れられたのは、この地の戦乱が苛烈を極めてウィリアムが呼ばれる前の事だったし、死者の国で出会うウィリアムは、彼が若かりし頃に土地の未来を語った医師の姿ではない。


どこかへ行ってしまうのはいつも、ウィリアムではない。



「ウィリアムさん?」

「ん?どうした?」

「……………今、ほんの少しだけ、懐かしいような寂しいようなお顔をしたので、気になってしまいました。もしかしてこの土地は、ウィリアムさんにも思い入れのある場所なのですか?」

「はは、ネアは鋭いな。……………いや、思い入れという程ではないが、短い時間をこの地で過ごした事がある。……………この麦は、麦穂の先が淡い金色に染まっているだろう?収穫期になると、どこまでも続く麦畑を染める淡い金色の風景が好きだったんだ。その景色をずっと見ていたくて、季節のひと巡りの間だけ、ここで暮らしていた事がある」

「まぁ。それはきっと、とても綺麗だったのでしょうね。広い広い麦畑があったのだと、アルテアさんも話していました。この土地がダリミアという荘園地帯だった頃、ここにはアルテアさんの工房もあって、秋の日の夜には満月の光を宿す麦畑を見たのだと話してくれたのです」

「……………ああ。そうだったな。満月の夜は、美しかった」



ネアの言葉に、不思議な安堵のようなものを覚えた。

この土地で暮らした人々の暮らしが失われても、それを覚えているのは自分だけではないのだと思うと、不思議なくらいに肩の荷が下りたような気持になる。

自分が悼まずとも、誰かの記憶に残り、あの穏やかな日々が確かにあったのだと語り継がれるのなら。


(この地を訪れる度に感じる虚しさのようなものは、……………もう考えなくてもいいのかもしれない)



「そうか。……………アルテアも、あの頃を知っているんだな」

「ええ。きっと、ウィリアムさんと同じ景色をご存知なのでしょう。ディノは、この土地は初めてなのですよね?」

「うん。ダリミアという土地に変わってからは、訪れていなかったかな。ギードが、とても美しい場所だったと話してくれた事がある」




麦の収穫をする間、ネア達とその頃のダリミアの話をした。

作業の途中で何度か、今日は大がかりな戦闘などは起こらないのでと、手袋の下の指に嵌めたままのリンデルの感触に唇の端を持ち上げる。


ウィリアムがこの地を去る前に、あの青年は思いを寄せた少女と婚約を交わしていた。

麦穂の絵柄の彫り込まれた金色の指輪を誇らしげに見せてくれた彼を見て、自分はそのような物を得る事はないのだろうなとぼんやり考えていた、遠い秋の日の事を思い出す。



「ぎゅっと持って、ざっくりいくのですね?」


気付けば、シルハーンの三つ編みを持たされたネアが、隣に立ってウィリアムの手元を熱心に見ていた。

一緒にこちらを見ているシルハーンも、不思議そうに麦の収穫の様子を見ている。


「やってみるか?」

「いいのですか?」

「ああ。シルハーン、少しだけネアを借りますよ。まだ時間になっていないとは言え、手を放すのは得策ではなさそうですから」

「うん。では、任せてもいいかい?この子は、麦の収穫をやってみたいようだ」

「ええ。よし、まずはここに立ってみような」

「むむ。ウィリアムさんが後ろから羽織り物になるのです?」

「ああ。少し窮屈だが、この体勢なら、俺から離れずに収穫が体験出来るからな」

「はい!」


背後から手を取ってやり、ネアが少なめの束ではあるものの、麦を収穫して笑顔になるのを見守った。

手にした麦を掲げて嬉しそうに微笑むネアの姿に、ああ、またここを訪れた時には、きっと今日の事を思い出すのだろうなと考える。



(……………それと、あの遠い日の、満月の夜の麦畑の美しさを……………)



「これが、美味しいクッキーになるのですよ……………。じゅるり」

「俺には、ここから魔術効果をどう構築するのかはさっぱりだが、ダリミアの麦の味は保証するよ。今はここにしか残っていないが、もっと沢山の収穫があった頃に、この土地の焼き菓子やクッキーを食べた事があるがどれも美味しかったからな」

「となると、アルテアさんに一刻も早く戻って来て貰い、クッキー作りに専念して貰うより他にありません……………。ウィリアムさんの分も残しておきます?」

「いや、この量だと、ネアに必要な量にぎりぎりかもしれない。まずはそちらを優先してくれ。……………その代わりに、またシルハーンにチーズのサレを焼いたら、少し分けてくれるか?」

「ええ。また焼きますね。ディノはチーズのサレで、ノアはオリーブのサレが大好きなのですが、ウィリアムさんも好きな具材があったら教えて下さいね」

「そうだな。……………それなら、ローズマリーを使った物が食べてみたいな」

「き、きっと美味しいに違いありません!じゅるり……………」



ネアの目が、先程ウィリアムが見ていたローズマリーの生い茂る庭園の一角に向けられる。

ウィリアムも、風に揺れる薄紫色の花を見つめて微笑み、リンデルを嵌めている指を手袋の上から押さえた。



「さて、では騎士らしく収穫した麦の格納をお手伝いしましょうか」


茶会が始まる前に、金庫に収めておいた方がいいだろう。

そう思い、胸に手を当てて一礼してみせると、ネアは目を丸くしてこちらを見る。


「き、騎士さんです!……………胸がぎゅわっとなりました……………」

「ウィリアムなんて……………」

「ふふ。今日は、偶然とはいえ、ウィリアムさんのお仕事を邪魔してしまったのかと思ってしょんぼりもしましたが、こんな素敵な体験が出来たので、すっかりいい一日になってしまいました。大事な大事な伴侶な、ムグリスディノのふかふかのお腹も撫でられましたものね」

「……………うん。……………ずるい」

「後はもう、美味しいクッキーを焼いて貰い、現段階の守護の層をより、……………美味しく?」

「複雑に固める、だ。また食い気だけになっているぞ」

「アルテアさんが戻ってきました!……………通り雨の魔物さんな問題は、無事に解決したのですか?」

「事件解決自体は、収穫前の被害を避けたいアイザックの担当だ。今回はな」

「ふむ。では私は、ミカエルさんから貰った、通り雨の魔物さんの眼鏡を叩き割らなくても済みそうですね」

「……………そう言えば、そんな物を持っていたな。いいか、不確定な変化を起こしたくはない。絶対に金庫から出すなよ?」

「では、そうしますね。そしてこの麦束は、ウィリアムさんが収穫してくれたのですよ!ですが、私も一束だけ収穫をお手伝いしたので、今度からは麦名人と呼んでくれても構いませんからね!」

「なんでだよ」




やがて、茶会が始まる時間になった。


鳥籠から出すよりもこの展開を終えるまで待たせた方が安全なのでと、ネア達は、アルテアの用意した併設空間の中に避難し、待っている事になった。


先程まで晴れていた空が急速に曇り出し、周囲は陰鬱な暗さに包まれる。

いつの間にか、背後の庭園には、漆黒の装いの欲望の魔物が立っていた。

こちらに背を向けているので表情は読めないが、この災厄が暴れている間、自身が管理の権利を得ている植物を保護する為に姿を現したのだろう。


或いは、王子役になる人間をこの土地に放り込んだ者達が、まだ残っていないかを警戒しているのかもしれない。



ふおんと渦巻いた冷たい風に、剣を抜いてその瞬間を待つ。

溢れ出た災厄を斬り鎮め、鳥籠の内側の被害を減らすのが、ウィリアムの今日の仕事だ。

僅かに死者の行列の姿が見え始めているという事は、やはり、近くにある集落などでの犠牲も避けられないのだろう。



(そうだな。……………あの麦畑と、ローズマリーの茂みは枯れないようにしよう)



なぜだかそんな事を思い、立ち位置を変える自分に小さく苦笑する。

だが、その小さな執着こそが、ウィリアムに、このリンデルと共に与えられた確かな楔なのだろう。
















繁忙期につき、

明日の更新は、短めの(〜3000文字くらい)更新となります。


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