イチイの木と死の精霊
リーエンベルクはその日、夜明け前に、俄に騒がしくなった。
隣で慌てて起き上がった伴侶の動きにむぐっと飛び起きたネアは、そのまま何とか起き上がろうとしてじたばたし、寝台から落ちた。
毛布が絡まったのが敗因だったが、麗しい乙女としては、顔面から落下しなかったのはせめてもと言わざるを得ない。
鼻がへしゃげたら事案なので、ネアは慌てて手のひらで鼻の存命を確かめる。
「ネア!」
「手のひらと膝は痛めつけられましたが、絨毯のお陰で傷などはありませんし、大事なお鼻は無事でした。…………ディノ、何かあったのですか?」
「可哀想に。………どこも痛くないかい?」
「ぎゅ。ディノに持ち上げて貰えた途端に、ごつんとやった膝が痛まなくなりました。………ディノ、慌てて起きて出掛けてゆこうとするような何かが、あったのですよね?」
「アルテアが負傷したようだ。こちらに運び込まれるから、用意をしてくるよ。君も一緒に来るかい?」
「…………私も行きます」
負傷という一言で、ネアはざっと血の気が引いてしまい、慌ててディノの肩に手をかける。
そうすると、ばさりとした真珠色の睫毛を揺らしてふわりと優しく微笑みかけてくれた。
寝ていたところなので長い髪は下ろしてあり、真珠色の光を宿したヴェールのようだ。
「怖がらせてしまったね。でも損傷自体が重たい訳ではないから、安心していいよ」
「…………でも、こちらに運び込まれてしまうのですよね?」
「魔術剥離が厄介なのだそうだ。石化の魔術だからね」
「…………ちびふわが石に?!」
ネアはそこでたいへんに慄いてしまい、すぐに元に戻してみせると奮起した。
幸いにも、いざという時に使える薬剤類は、アレクシスの押し花手帳がある。
石化の解除に有効な物は何種類かあった筈だ。
だが、息巻いて駆け付けたご主人様を見るなり、なぜかアルテアは顔を顰めるではないか。
「…………おい、見物なら帰れ」
「ほゎ、アルテアさんの片足が艶ぴかの黒い石に………。もしかして、背中と髪の毛の一部もです?」
「さぁな」
「…………シルハーンすみません。ご無理を言いました」
「いや、エーダリア達が受け入れたのなら構わないよ。私かネアの立ち会いが必要だったのだろう?」
ディノに、胸に手を当てて一礼したのはグレアムだ。
片足が石化してしまったアルテアを支え、そっと椅子に座らせているのはウィリアムで、ネアと目が合うと安心させるように微笑んでくれたが、その眼差しには拭いきれないような疲弊がある。
(ウィリアムさんも、………かなり疲れているようだわ)
恐らく、この三人は同じ場所にいたのではないだろうか。
ウィリアムもいたとなると、戦場などの鳥籠を展開していたような場所なのかもしれない。
そしてそこで、アルテアが石化の攻撃を受けたのかもしれない。
「それにしても、アルテアがねぇ………」
「いや、今回狙われたのは俺か、グレアムだ。………弓の木の仕業だからな」
「ありゃ。弓の木かぁ。…………あいつさ、すぐに怒り出すから僕も何度か狙われた事があるんだけど、全部返り討ちにしてきたなぁ」
「その、血の気の多い奴めはどこですか!私のちびふわを虐めた罰で、踏み滅ぼしてくれる!!」
「おっと、僕の妹も血の気が多かった!」
伴侶の腕の中でネアが怒り狂うと、慌てた義兄が宥めてくれた。
「ネア、弓の木はさ、………」
「偶然ですが、最近、弓関係の品物との因縁が出来たばかりですから、個人的な見解としては滅ぼすのに躊躇いはありません」
「わーお。怒ってるぞ………。ネア、弓の木は通り名で、終焉の系譜の魔物の一人なんだ」
「………ふむ。いなくなってもいい魔物さんですね」
「断定形にしてきたぞ………。それが、残念ながら、いなくなると困る魔物なんだよね」
「木という事は、除草剤は効きますか?」
「ええとね、イチイの木の魔物の一人なんだ」
「なぬ。お酒をくれた良い方なのでは………」
「そうそう。そいつの、文化圏違いで派生した魔物ね」
「文化圏違い…………」
弓の木と呼ばれる魔物は、終焉の系譜の中で、魔術薬を使った毒殺を司るのだそうだ。
ネアもよく知るイチイの魔物は、ヴェルクレア国のあるこの大陸で派生した魔物である。
対する弓の木は、別の側陸地で派生した個体なのだと言う。
その魔物が派生したのは側陸地の中でも小さめの陸地であるが、豊かなイチイの木の森が広がっていて、幾つかの人間の国もあるらしい。
その陸地の者達はイチイの木を信仰の対象としており、土地の人間達に祀り上げられる事によって大きな力を持った魔物なのだとか。
その魔物は、暴虐の限りを尽くした人間の国の王を目障りだからと殺した事があり、頑強な守護を持つ王でも殺せる毒薬を作れる魔物という畏怖から階位を上げたので、終焉の系譜の魔物となったのだそうだ。
「つまり、そちらの文化圏では必要不可欠な魔物なんだよ。こっちの大陸では全く用無しだけどね」
「では、なぜこちらに来てしまったのです?」
「…………ウィリアムかグレアムが狙われたのなら、私怨で来たんだろうなぁ。理由は判明しているんだっけ?」
その問いかけに対し、二人の魔物は首を横に振った。
弓の木と呼ばれるだけあり、弓を持ち、鏃を固有魔術である毒に浸して武器とする魔物のようで、そんな弓の木に狙われた時に射線上にいたのがその二人だったそうだ。
椅子に座らせたアルテアの周囲では、グレアムが、銀のボウルに浸した布のような物を準備している。
エーダリアも手伝ってくれているのでネアも加わろうとしたが、少なくとも百は可動域がないと触れられないそうで、悲しい思いで指を引っ込めた。
ボウルの中の薬液に、ディノがこれから何か一手間加えてくれるらしい。
「直近のやり取りは無かった筈だが、とはいえ、俺もグレアムも、仕事場で会う事はある。その時に何かが気に食わなかったのかもしれないな。彼は………そうだな、どちらかと言えば尊大な魔物だ。一つの文化圏を掌握している王でもあるから、気に入らない事があると、………こうした実力行使に出る事は珍しくない。魔物としての気質もそうだが、あの土地では王としての扱いもあるせいで、少し我が儘なんだ」
「まぁ。………それなりのお歳の方なのでしょう?」
「そ、そうだな」
ネアがぴしゃりとそう言えば、ウィリアムが困ったように苦笑する。
自分の領地で王だろうと何だろうと、全ての場所に於いてその振る舞いが許される訳ではないと理解出来ないのであれば、それはただの稚拙な我が儘だ。
魔物は、それぞれが司るものの王ではある。
だが、ウィリアムは系譜の王にあたるし、今の説明を踏まえると、これ迄の他の邪悪な魔物達とは違い、我が儘という表現が使われているのでそちらの傾向の御仁なのだろう。
「ウィリアムは、前回の一件の後だから、その攻撃を受けるのが望ましくなかった。………同じような損傷を立て続けに受けるのは、終焉の資質としても好ましくない。因果などと結ぶと厄介な事になる。それで、アルテアがウィリアムを庇ったんだ」
「まぁ。………アルテアさんが、身を挺してウィリアムさんを庇ってこんな風にされてしまったのですね………」
アルテアが負傷した経緯は、グレアムが説明してくれた。
なんて麗しい仲良し具合だろうかと涙目になってしまったネアに、なぜかアルテアは顔を顰める。
こちらから見て左側の髪の毛の先が黒く石化していて、同じように石化していた左足は伸ばして座っているのだが、不自然な伸ばし方になってしまっているので窮屈そうだ。
背中の部分は、肩口からこぼれた液体が触れたような感じに筋状に石化している。
石化している筈なのに、なぜかその様子が酷く脆く感じられるのはなぜだろう。
そっと髪の毛を撫でてやりたいけれど、ネアにとっては、魔術の変化という計り知れない領域なので、もし、おかしなことをしてもろもろと崩れてしまったりしたら取り返しがつかないと思えば、怖くて手を伸ばせなかった。
ふにゅりと眉を下げるとこちらを見たアルテアが、どこか途方に暮れたような優しい目をする。
こんな顔をするアルテアは珍しいので、グレアムが目を瞠っていた。
「………妙な言い方をするな。簡単に弾ける程度の物だったが、取り乱した人間の魔術師に体当たりされて軌道がずれただけだ」
「なぬ。他の誰かにも意地悪されたのです?」
「お前な………」
「今回は、悪夢落ちした殺戮の土地だったんだ。俺とグレアムは系譜の仕事で、アルテアは私用でその場所に滞在していて、同じように土地の噂を聞いてやって来ていた人間の魔術師達もいた」
ウィリアムの説明によると、そこは、何十年かに一度、凄惨な革命の日の出来事を繰り返すホテルなのだという。
ホテルに泊まっている人々とその周囲の人々を革命軍の兵士達が虐殺したという事件が怨嗟として残り、繰り返されているらしい。
そして、そんな土地だからこそ動いている特別な魔術目当てで、アルテアやその人間の魔術師達は何十年かに一度しか現れない悪夢の中に留まっていた。
「ふむふむ。その魔術師さん達は、思っていたより危険な場所である事に気付き、何とか逃げ出そうと錯乱していたのですね。そして、弓の木とやらの攻撃を跳ね返そうとしていたアルテアさんに飛び出してきて激突し、その際に、アルテアさんの手元が狂って弾いた筈の攻撃を受けてしまったと………」
「ありゃ。…………ええと、慰めた方がいいかい?」
「やめろ…………」
「後で、お腹を撫でてあげますね」
「いいか、やめろ。絶対にだ」
ぴしゃりと濡れた布が石化した足に貼り付けられる。
ガーゼのような薄い布を銀色のボウルの中の薬液に浸し、患部に貼り付けた布に都度短い魔術詠唱をかけると、布を貼っていた部分の石化がもろりと剥がれる。
手順としてはとても簡単なのだが、落ち着いた場所で丁寧に行う必要があるので、こうしてリーエンベルクに運び込まれたらしい。
「私かディノの立ち合いが必要なのは、なぜなのですか?」
「剥離作業にかけられた者の管理者や主人、より上位の存在の立ち合いが必要となるのは、矢に使われていた毒に、徹底された階級社会が敷かれている弓の木の生まれた土地ならではの固有魔術がかけられていたせいだろうね」
「そのくせに、目上の魔物さんに悪さをするやつなのですね?」
「彼は、自分が唯一無二の王であるという自負が強いのだろう。この大陸ではそうではない事は理解していても、だからといって、自分を育んだ文化圏が下だとも思わない。異教の魔術を得て派生する者達には、少なくない思想だね」
この世界に於いての宗教は人間だけのものだが、違う成り立ちの土地の者達の事を話す際に、異教の者達という表現を魔物達が使う事もある。
異なる文化圏で、異なる教えを基盤としているという意味合いで、そこまで顕著ではないがランシーンもその一つにあたるらしい。
この世界には、まだまだネアの知らない、そして、この大陸のお作法が通らないような場所が沢山あるのだろう。
「でも、………そうなると、弓の木とやらには、アルテアさんをも困らせてしまうだけの力があるのですね………」
「今回は、その毒矢の効果を、対価の魔術を使って別効果に置き換えていたからな。毒や酸などの魔術の置き換えとして、石化魔術はよく使われる手段だ。弾き落とすだけだと、飛沫まで考慮しなければならなくなるし、足元に毒が敷かれている事になる」
ノアの手伝いで髪の毛を元に戻しているアルテアが、なぜ、毒が石化に転じたのかを教えてくれた。
どうやら、元々その効果が付随された攻撃ではなく、元々の攻撃を無効化する為に変質させた効果が石化であり、誤ってそれが自分に跳ね返ってしまったという事のようだ。
「…………ほわ。となるとこれは、アルテアさんの魔術なのです?」
「……………そうなるな」
「だから解術が面倒なんだよね。まぁ、この手順で済むのはまだ幸運だったって思うけれどさ。強引に元に戻すやり方もあるらしいけれど、ほら、アルテアはネアに守護を与えたばかりだから、ここで本体を不安定にしたくないんだよね」
「無理矢理という事は、………まさか、」
「石化した部分だけを削ぎ落として、再構築するってやり方だね。より強い魔術や呪いで上書きしてもいいし、内側から砕いて剥がす方法もある。でも、そのあたりのやり方だと、どれもアルテア自身もかなり摩耗するからさ」
「ぐるる………」
ネアは、やはり弓の木とかいう魔物は、少し懲らしめるべきだと低く唸り声を上げたが、ちらりと見たエーダリアが素敵な笑顔で解術を手伝っている姿に気付き、眉を寄せた。
横を見ると、エーダリアを見ているヒルドが、ネアの視線に気付き、溜め息を吐いて頷いた。
「よし、これで背中のこちら側は問題ないだろう。まさか、石の書に書かれていた石化魔術の解術に、実際に携われるとは思わなかった。こんな光栄な事はないな………」
「エーダリア様?」
「ヒルド…………」
「ありゃ。後でアルテアに貸し一つにしておくつもりだったけれど、エーダリアにとってはご褒美なのかぁ………」
より繊細な処置が求められる髪の毛の剥離も終わり、上半身の自由を取り戻したアルテアは、今度は自分で足の解術に取り組んでいる。
既にグレアムが膝周りなどを終えてくれていたので、体を屈める事が出来る様になっていた。
残った膝下は自分で出来るからと、銀のボウルを手元に引き寄せている。
「……………何だ」
ディノに聞いたところ、髪の毛はもう触ってもいいという事だったので、ネアはそろりと近寄り、選択の魔物の白い髪にそっと触れてみた。
呆れたようにこちらを一瞥したものの、アルテアはそれを止めはしないようだ。
ネアは、指の腹の部分で髪の毛を掻き分け、地肌を調べてみる。
「今回のように、うっかり髪の毛を石にしてしまい、その部分が割れてしまったりした場合は、………禿げてしまうのです?」
「……………そうだな。お前は暫く黙っていろ」
「ぐぬぅ。使い魔さんの毛髪の将来を、とても案じただけではないですか………」
「真剣に考えると、髪の毛が割れ落ちても頭皮が無事なら大丈夫なのではないか?」
「は!グレアムさんの言う通りですね。おかしな髪型になってしまっても、頭皮さえ無事ならまた生えますからね」
「アルテアが…………」
「やめろ………」
とは言え、大事には至らなかっただけで、今回の事は若干危うい事件でもあった。
特殊な土地の中で、自身の付与した魔術効果が跳ね返ったのだから、結果として無事に解決した事を感謝しなければならない。
前回の死者の襲撃でもそうだが、高位の魔物達にとって、自身の魔術の跳ね返りは厄介なものなのだ。
ネアは熱心に使い魔の髪の毛チェックを行い、多少の損失はあるかもしれないが、見た限り髪の毛は無事であるという最終的な結論を得た。
もみあげ部分も確認しようと体を屈めると、なぜかアルテアに頬っぺたを摘まれたので慌てて距離を取る。
「ぐるる………」
「いいか、妙な顔の寄せ方をするな」
「むぅ。心配しただけではないですか。…………そして、ウィリアムさんがとてもお疲れに見えるので、少し座ってみませんか?」
「ああ…………。すまないがそうさせて貰う。急いでアルテアを搬出するのに、あの場にいた革命軍の兵士達をすぐさま殲滅させる必要があったんだ。さすがに疲れたな………」
そう教えてくれたウィリアムは、本来なら夕刻までにかけて行う仕事を、半刻もかけずに終わらせなければいけなかったらしい。
グレアムにアルテアを預け、悪夢を象る者達を大急ぎで粛清した事で、かなり疲弊してしまったようだ。
「その場にいる革命軍の兵士達は、守り手もいる一国の王族達を粛清に来た、それなりに優秀な者達ばかりだからな。単体撃破なら兎も角、周囲に気を付けながらあれだけの数を相手にするのは大変な事なんだ」
「まぁ。では、疲労回復のスープなどを飲まれますか?アレクシスさんのスープの手持ちがあるのですよ」
「いや、それはネアが温存していてくれ。その代わり、少しリーエンベルクで休ませて貰えると有り難い」
「ああ。勿論、休んでいってくれ。いつもの部屋は勿論だが、この部屋にも寝室があるので、好きな方を使ってくれ」
「それなら、この部屋にしようかな。アルテアは、いつもの部屋に戻りますよね?」
「あれが俺の部屋だからな」
「…………こうして聞いていると、凄い会話だな」
「そっか。グレアムはそう思うよね………」
そう笑ったノアが、使い終わった布を片付けているのでこちらなら手伝えるかなと近付いたネアは、椅子から立ち上がったウィリアムにひょいと持ち上げられてしまった。
「なぬ………」
「ネア、術布には近付かないようにな」
「布を片付けるのも、私には難しいのです………?」
「ああ。これは、薬剤が少し強いものなんだ。俺の系譜の魔術を使っているとはいえ、ネアなら触れてもそこまでの反応は出ないだろうが、魔術負けするとかぶれたり爛れたりはするかもしれない」
「………むぅ。少しもお役に立てません………」
「いや、俺は、こうして抱き上げているだけで、癒されるけれどな」
「ぬいぐるみ的な………?」
魔術剥離は無事に終わり、薬液への魔術認証はディノが全て済ませてくれたそうだ。
アルテアの石化が全て元に戻せたところで、漸く、犯人の措置についての話となる。
各自に、お疲れ様でしたとほこほこと湯気を立てる紅茶が振る舞われ、先程の弓の木の魔物について、あらためて触れられた。
「ふぅ。これで全部剥離出来たね。………で、その弓の木はどうしたんだい?ウィリアムが現場の回収にあたっていたなら、他の誰かが窘めたりしたのかな」
「フィアンがばらばらにしていたぞ。彼は、仕事の手順が崩されるのを嫌うからな」
「え、その規模の案件でフィアンがいるのって珍しくない?………あ、予定通りに繰り返される悪夢だからか」
「ああ。…………おっと。ネア、フィアンは、死の精霊の一人なんだ。死の進行、………つまりは予定管理を司っている男で、今回の悪夢のように進行が決まっている事案や、葬儀や鎮魂の儀式の場などによく現れるかな」
こてんと首を傾げたネアに、ウィリアムがフィアン氏について教えてくれる。
オールバックにした銀髪の男性で、終焉の中では選択寄りなので、紫の瞳はやや赤みがかっているらしい。
暦などの系譜の資質も持つので、蝕や武器狩り、まだネアが発現に立ち会っていない漂流物など、定められた周期を持つ事案の中で活躍する精霊であるのだとか。
「まぁ。まだ、一度もお会いしていない方ですね」
「ナインと同等の階位だな。ナインが全ての死の訪れを司る一方で、フィアンは予め定められた死の訪れを管理する。ナインと違い、新しい死を齎す役割は持たないが、進行管理に於いての死の絶対性は彼に勝る者はいない。死者の日の約定を破った者達を回収したりもしているが、…………その作業はやり甲斐がないといってあまり好まないな」
「むむ、お仕事を選んでしまうのですね………」
「そちらは、フィアンに言わせると、死の規則の領域なのだそうだ。ネアが知っている魔物だと、………そうだな。トルチャと仲がいい」
「そう言えば、トルチャさんも進行に厳しい魔物さんでしたね………」
「ああ。そのあたりが、意気投合の理由らしい。逆に、アルテアとアイザック、ヨシュアとは相性が悪い。同族の中でも、フィアンとは死に対する見解が違うナインとはかなり険悪だな」
「ふむふむ…………」
奥でエーダリアがメモを取っているのはさて置き、どこかで遭遇する可能性があるのなら、その精霊について知っておくのは良い事だろう。
(そして、そんな精霊さんなら、ウィリアムさんが負傷して休んでいた間はかなりご機嫌斜めだったのでは………)
そう思うと既に心象が悪くなっていそうで心配だと伝えると、ディノは微笑んで首を横に振った。
「それは問題ないだろう。寧ろ、ウィリアムが規則的な生活を送っていなかった事に苦言を呈しているような精霊だからね。彼曰く、系譜の王が休まないとこちらも仕事を上がれないという事らしい」
「労働環境を整える意味では、とても素晴らしい考えをお持ちの方ですね」
「…………おい、くれぐれも余分に加えるなよ」
「おのれ、なぜ頬っぺたを摘まれるのだ。許すまじ………」
ここでネアは、心配になってディノを見上げてしまった。
おやっとこちらを見たディノに、くしゅんと眉を下げる。
「……………ネア?」
「ディノは、大丈夫なのでしょうか?今回のように、特定の心当たりがなくても、恨まれてしまう場合があるのだと思うと、少し心配になってしまいますね………」
「………ネアが心配してくる。可愛い………」
「恥じらっている場合ではないのですよ!もし、悪さをしそうな人がいたら、予め申請しておいて下さいね。場合によっては少し弱らせておいても……」
「ネア、シルハーンはあまりその手の恨みは買っていない筈だ。だが、有難う」
ふわりと微笑んだグレアムに頭を撫でて貰い、ネアは、伴侶を守るのも務めであるとふんすと胸を張った。
「俺達は長く生きるから、どうしてもどこかで禍根が残る。ただ、シルハーンの場合は、畏怖や執着はあれど、この手の問題はあまり起きないだろうな」
「うんうん。これ迄のシルは、気配がちょっと植物っぽいって言うか、心を明確にどこかに動かす様子が見えなかった分、こういう恨みを買うような関わり方はしていなかったからね」
「………でも、これからは注意した方がいいのですね?」
「かもしれないけれど、今は周囲に誰かがいる事が多いからなぁ。植物の系譜の荒ぶり方だとそもそもがこっちにも理由がよく分からない事も多いけれど、それ以外の問題だと誰かが気付いて対策を取ると思うよ」
「誰かが………?」
ネアが首を傾げてもノアはにっこり微笑むばかりだったが、もしかするとそれは、このウィームの住人の事なのかもしれない。
ネア達が活動するのは主にウィーム領内であるし、そのような場合は、周囲に地元住人の姿がある事も多いからだ。
(それに、この土地で暮らす人達にも知り合いが増えたから…………)
そうして繋いできた輪もまた、こちらの盾や保険としての役割を果たしてくれるのかもしれない。
それがきっと、土地に根付くという事なのだろう。
なお、その数日後に、一人の背の高い男性が菓子折りを持ってリーエンベルクを訪ねてきた。
ディノとノアに挨拶に来たようで、ウィーム領への、転入を知らせに来たらしい。
本来はエーダリアへの挨拶になるところを、敢えてディノとノアを経由したのは、その二人の魔物がこのリーエンベルクに守護を与えているという事をよく理解しての事だろう。
その男性は死の精霊の王族で、土地の管理がしっかりなされており、尚且つ高位の人外者を特別視する事のないウィームの土地をたいそう気に入り、とある酪農が盛んな町にある教会の神父として暮らす事にしたそうだ。
列車の運行時間が正確でとても気に入ったらしく、休日などにウィーム中央に買い物に来る事もあるかもしれないと、わざわざ挨拶に来てくれたのである。
「相変わらず律儀だけど、…………アルバンの近くかぁ」
「ウィームが、気に入ってしまったのだね………」
「まさかの、お話に聞いたばかりのフィアンさんでした。穏やかな口調でとても礼儀正しい良い方に思えました。死の精霊さんの中では予定にない死を齎す方ではないそうなので、ご近所の方に悪影響などはないのですよね?」
「フィアンなんて………」
「………ここまで完全な転入書類を書いて持ってきた人外者は、初めてだな………」
「これは完全に性格が出ますからね。………後でダリルとも話をしておきますが、この書類を見ている限りは、隣人としては問題なさそうですね」
だが、ネアは一つだけ気になっていた。
フィアンが持ち込んだ菓子折りが入った紙袋の中に、なぜか、ばきばきに折られた矢が同封されていたのだ。
これが死の精霊特有の挨拶の一種でない限り、フィアンという精霊は、そこに何らかのメッセージを込めたのではないだろうか。
「これは、何だろうね………」
「矢の持ち主の方への怒りを感じるお品物ですので、こちらに害はなさそうですが、矢となると、前回と今回に関わるウィリアムさんか、今回の事件で狙われたかもしれないグレアムさんを大好きだという可能性が出てきましたね………」
「うーん。お兄ちゃんは、どこかの会の会員の可能性が出てきたと知って、かなりはらはらしてるよね………」
「ご主人様………」
「なぬ。なぜこちらを見るのだ。かいなどありませんよ……!!」
ネアが一生懸命否定しても魔物達は疑わしげにこちらを見ていたが、後日、違う会だったという報告がなされた。
善良な一般人には、ウィームに他に何の会があるのかまでは分からないが、どこかノアが悄然としていたので、エーダリアの会の会員なのかもしれない。




