表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/880

27. 慎重になることも必要です(本編)




ざんと、強い風が吹いたような音がした。


その音は力強かったが決して荒々しい響きではなく、読んでいた本から顔を上げ、ふと今夜は風が強いなと感じる時の音にも似ている。



けれどもその音が聞こえるのと同時に、ざらりとした磨り硝子のような琥珀色の床石に鮮やかな青緑色の魔術陣が幾重にも浮かび上がれば、レイノはあまりにも美しい魔法の煌めきに目を瞠った。


息を飲み、両手にぐぐっと力を込める。

教会の広い廊下の奥の奥までその魔術陣は広がってゆき、レイノは、水紋にも思えるその光景が、なぜか満開の花が連なるように見えた。



(なんて綺麗なのかしら………。どこかひやりとする怖さもあるけれど、…………魔術陣だけでもこんなに美しいのだわ…………)



襲われたばかりでまだ首に片手を当てているのに、レイノは吸い込まれるように最後の魔術陣がふつりと消えてゆく廊下の奥までを目で追い、ほうっと溜め息を吐いた。


すると今度は、じゃりんと、金属の装飾が打ち付けられる硬質な音を立てる。

その音からしてもう、錫杖のようなものが登場したに違いないと振り返ったが、リシャード枢機卿が手に持っていたのは、宝石を削って作ったような不思議な聖書めいた書物で、その頁の表面を指先ですっとなぞれば、先程の硬質な音が響くのだ。


絵画の中の聖人画によくある光輪に似た細い光の筋がリシャード枢機卿の頭上に煌めき、聖書を持つ片手の周囲から光の色だけを紡いだ実体のないリボンめいたものが、ざわりと広がる。



「……………ほわ」

「…………各枢機卿の方々が持つ、信仰と祈りの魔術の最上位のものですよ。リシャード枢機卿の固有魔術は、拘束と支配です」

「……………それは、それぞれに違うのですか?」

「ええ。精神侵食を得意とする詠唱の枢機卿、災厄と鎮静を得意とする調伏の枢機卿など、やはりその階位にある方々の魔術は凄まじい……………」

「…………これが…………」



リボンのようなものをよく見れば、それは聖書の頁を細く切り裂いた帯にも似ていて、びっしりと何かが書き込まれている。


首を押さえたままでいた手の甲にそっと触れられ、アンセルムを見上げたレイノはこくりと頷いた。



「もう痛くはないのですが、………びっくりしてしまったので、どうしてもつい………」

「…………僕がすぐに気付くべきでした。教区主様にご挨拶に行くにしてはやけに思い詰めた様子だとは思ったのですが、彼等の標的はそちらかと…………」

「……………それも、見過ごしてはいけないものなのでは…………」

「アリスフィア様はお強いですよ。仮にも、教区主になられた方ですからね」



カシャンとまた違う音がして、レイノは目を丸くして襲撃を企てた者達の末路を見る。




「……………これは」



そこに広がっていたのは、あまりにも呆気ない決着だった。


二人の迷い子達とその契約の人外者達もそれぞれに身構えていた筈なのに、ざわりと四方八方に広がった光のリボンに触れた途端、ぴしぴしと石化してゆき、青緑色の結晶石の柱になってしまったのだ。



(人間だけなら兎も角、……………人外者までを一瞬に…………?)



宝石を使った彫像のようでいっそ美しくも見えるのだが、彼等の表情に滲んだ恐怖を見れば、どれだけ残酷な光景であるのだろう。



「…………死んでしまったのでしょうか…………」

「いえ、生きている筈ですよ。リシャード枢機卿の術式は、枢機卿の階位にある方の中で、最もこの種の鎮圧に向いているのかもしれません。…………好ましい表現ではありませんが、肉体を拘束した上での洗脳や隷属化に近い」


低い声でそう教えてくれたアンセルムに、もうやるべき事は終えてしまったものか、リシャード枢機卿が静かに振り返る。



「……………この有様には主張があるようだからな。異端審問官として聖錫に食わせてお終いにするのも構わないが、囀る鳥は残しておけ。口を封じたいのかと勘繰られるぞ」

「教会の迷い子を殺そうとした段階で、異端者の廃棄処分に相当します。例え彼等が迷い子であり、聖人であったとしても、今回のように契約した者達が主導していれば、それは人外者からの侵食済みであるとみなされますから。僕ではない審問官がここに居ても、同じ判断をすると思いますよ」



ひどく残虐な言葉をさらりと告げたアンセルムの声は淡々としていたが、リシャードは片方の眉を持ち上げ、それはどうだろうという目をしてこちらを見た。


なぜかレイノの足元をちらりと見たので、まだ立てていないことを情けなく思われているのかもしれない。

アンセルムに抱えられたまま、床に蹲るような状態であることに気付き、レイノは慌てて立ち上がろうとした。



「無理に立たなくてもいいよ。怪我はないかい?」



そんなレイノにかけられたのは、この奇妙に美しく悍ましい空間に不似合いな、凛と澄み渡る美しい声だった。


はっとしてそちらを見上げ、レイノはぎくりとした。



(い、いけない!)



まだここには、リシャード枢機卿が展開している魔法が広がっている。


そんな魔術の間を縫うようにしてゆっくりと歩いて来たデュノル司教は、どこか災厄に喚ばれた人ならざるものにも思えたが、レイノにはその様子が、とんでもなく危なっかしく思えてしまったのだ。



「レイノ?!」



慌てて座り込んでいた場所から飛び出し、名前を呼んだアンセルムや、おいっというリシャード枢機卿の声を背後に、レイノはこちらに歩いて来ようとしていたデュノル司教の前まで駆け付けると、手を伸ばして通せんぼする。



突然立ち塞がられたデュノル司教は、硬質な美貌を曇らせ、困惑の面持ちでこちらを見た。



「……………レイノ?」

「この、ひらひらしたリボン状のものに触れないようにして下さい。………むむ、やはり、危ないのでもう少し下がっていましょうか………」

「…………心配してくれたのかな?」

「い、いけません!なぜ近寄って来てしまうのでしょう!これに触れると、固まってしまうのですよ?」

「猊下の魔術は、指定した者しか損なわないよ。……………足が痛いのかい?」

「……………む」

「ほら、無理に立たなくていい。こちらにおいで」



ここでレイノは、自分の身に降りかかったことに、なぜ今朝と同じ体勢になったのだろうと、目を丸くして首を傾げていた。

何となくだが、世慣れていなさそうで危なっかしい司教を安全に誘導しようとしただけなのに、いつの間にかその司教にひょいっと持ち上げられてしまったようだ。



「ああ、…………赤くなっているね」



片腕に座らせるような子供抱っこで軽々とレイノを抱え、デュノル司教はそう心配そうに足首を見てくれる。

眼差しは端正で硬質だが、今朝の事があったからか、レイノには幾分か柔らかく見えてならない。



(そして、靴擦れのことは、アンセルム神父のいるこの場では、あまり言わないであげて欲しい…………)



僅かにおろおろとしてしまい、レイノは慌てて説明した。



「…………その、最初にここにいた魔物に捕まえられてしまった時、逃げようとして変な風に体勢を崩してしまったんです。…………その時に、足がぐきっとなったのかもしれません…………」

「靴擦れだな。サイズが合っていないんだろう」

「……………くつずれではありません」



ぱたんと宝石の聖書を閉じながらこちらに来たリシャード枢機卿が、どうしても出さないで欲しかった単語をぽいっと出してしまい、レイノは、なぜこのような気質の人は空気を読まないのだろうと、暗い目になる。


案の定、その指摘にアンセルムがはっとするのが見えた。



「…………レイノ、もしかして無理をしていましたか?」

「アンセルム神父…………。いえ、下ろしたての靴が硬いのは当たり前なのですが、あの魔物めに捕まった時に、暴れ損なってやってしまったようです………」

「気を遣わなくていいんですよ?…………デュノル司教、お手数をおかけしてしまい申し訳ありません。レイノは、僕が引き取りましょう」

「おや、この子のことは気に入っているから、このままで構わないよ」



ここで、アンセルムがレイノを引き取ると申し出たのだが、デュノル司教はあっさり却下してしまった。



「その、普通に下ろしてくれれば、自力で立てるのですが…………」

「このままにしておいで。………とりあえず靴は変えようか」

「…………やれやれだな。すぐにサイズ違いを手配させる。それまではそこにいろ」

「猊下、恐れながら、そこというのが司教様の腕の上だった場合、司教様の腕が死んでしまうので、スリッパでも貸していただければ私は自立します」

「……………君は襲われたばかりなのだろう。あまり動かない方がいい。…………兵士達が来たらここを任せて、部屋に移動しようか」

「……………むぐ」



レイノとしては床に解放してくれるだけで構わないと切に願うのだが、その提案も呆気なく却下された。




「…………トム、連絡は?」



リシャード枢機卿が、振り返って控えさせていた神父に声をかけている。

枢機卿付きの誰かだろうかと考えたが、この隻腕の神父の姿をどこかで見たような気がした。



(どこだったかしら……………)



「はいはいっと、各所に連絡済みですよ。今日も護衛をつけずにいた猊下の部下の方々のご到着まではこのままで?」

「…………六十七秒後だ。こいつらの尋問には、連れて来た司祭も何名か同席させる。俺の庇護下の者に手を上げた以上は、徹底的に調べ上げさせる必要があるからな」

「はは、それは怖いですね。それにしても、どうしてまた、こんな事になってしまったんですか?」


トムという名前の神父が、そう振り返ったのはレイノの方だ。


あまり特徴のない茶色の髪に切れ長の目をしていて、肩からかけられたストラのような布の刺繍から、高位の聖職者達のお世話をする役職の神父だと見て取れる。



(あ、…………朝のミサの時に、向かいの迷い子達の席に儀式用の聖餐のお菓子を持って来てくれていた人だわ…………!)



その中でも一輪の白百合の刺繍がある者は、迷い子の担当だと教えられていた。

だからこそ、朝のミサでは迷い子達のところにいて、今はリシャード枢機卿が同伴していたのかもしれない。




「トム神父、この子は突然襲われただけです。理由らしい理由があるようには思えませんでしたから、猊下の部下の方々の審問を待たれた方がいいのではないでしょうか」

「審問程に軽く済めばいいのですがね。………それにしても、前例のない事件になってしまいましたね。アンセルム神父にも、なぜこの子達がこのような事をしたのか分からなかったのですか?」

「勿論、なぜこのような事をというやり取りはありましたが、彼らの主張は曖昧なところも多く、僕もまだはっきりとは…………」



困ったようにそう微笑んだアンセルムに、レイノはおやっと思った。


彼らの主張は、とてもはっきりとしていた。

怪物とは何なのか、なぜ、希少とされる迷い子程の存在がその餌にされてしまうのかは分からないが、アンセルムはその全てを理解した上で、彼等と会話していたような気がしたのだが、ここではまだ、語れない事なのかもしれない。



(それとも、………私にその会話を聞かれることは問題なさそうだったから、この、トム神父という人があまり信頼出来ないのかしら……?)



そう首を傾げかけたレイノは、頭がごつんとなりそうになり、デュノル司教との顔の距離が思っていたよりも近かったことにぎくりとした。



「………………司教、レイノが困っておりますので」



階位上、デュノル司教からは少し離れた位置に立ち、少し硬い声でそう言ったアンセルムに、ちらりとそちらを見た水紺色の瞳は、どきりとするくらいに冷ややかで、最初に会った時の冷淡さを思い返させる。



「困ってしまったかな?」

「…………む。…………私としてはとても珍しく、あまり不快ではありませんが、思っていたよりも体を寄せてしまっていたことに、どきりとしました」



自分でも意外なのだが、こうして持ち上げられていてもなぜか嫌ではないのだ。


しかし、何しろ襲撃されたばかりであるし、駆け付けた枢機卿の衛兵達、教区の聖職者達や教会兵達がざわざわし始めたところで、この状態はどうなのだろうと落ち着かない。


おまけに、部下達に何かを指示した後、リシャード枢機卿もこちらにやって来た。



(お、下ろして欲しい…………)



気恥ずかしさにそう願ってやまないレイノに対し、まだ司教の腕はしっかりとレイノを支えている。



「…………トム神父、お前はここに残って捕縛までの経緯の説明をしろ。こちらは、迷い子をまずどこかに保護する必要がありそうだからな。襲撃時の聴取についてはそこで済ませて後から共有する。…………朝の事件といい、この有様が続くようであれば、それなりの対応が必要になるかもしれん」

「承知いたしました、猊下。魔術洗浄に浄化の儀式を執り行う必要はありますでしょうか?」

「……………必要あると思うか?浄化と守護の祈りを持つデュノル司教もいるだろう」



顔見知りなのか、先程はもっとくだけた話し方だったようだが、他の司祭達も集まり始めたからか、トム神父は恭しくリシャード枢機卿に一礼する。


こちらを見た瞳にどこか愉快そうな笑みの欠片が見えた気がしたが、枢機卿が見咎める様子はなかったので、気のせいだったのかもしれない。



(あ、…………そのまま動かせるんだ…………)



デュノル司教に持ち上げられたままここから移動するようなので、諦めの境地になりつつあるレイノは、今もなお結晶化してしまった状態のまま動けずにいる四人が、その状態のまま、また別の魔法を上からかけて運び出されるのを見て驚いた。


とても重そうに見えるので、落として割ってしまったりしたら大惨事になりそうだが、こちらの世界ではそんなうっかりの事件は起こらないのだろうか。



幸い、レイノが抱えられているのは立てないからだと思われているようで、集まった人々が怪訝そうにしている事はないようだ。


レイノが視線を戻すと、デュノル司教がアンセルムと何かを話している。



「………アンセルム神父。独立した執行権限を持つ君とは言え、審問官としての報告義務があるだろう。私達がこの子に付いていられる間に、済ませてくるといい」

「しかし、…………」

「そうしておけ。司書の工房は隠し絵の向こう側だとは言え、その入り口に触れられる階位の者達は、こちらの部屋の入り口に辿り着ける者達よりは遥かに多い。その帰りに、工房に帰る経路の安全確認も済ませてくるといい」

「猊下…………。承知いたしました。ですが、レイノの様子を見てからでも宜しいでしょうか?彼女は、契約の魔物に襲われたばかりですから…………」



歩幅に合わせて、リシャード枢機卿の漆黒の聖衣が揺れる。


こうして見てみれば、アンセルム神父の神父服の装飾は、枢機卿や司教の聖衣に施されたものとは違い、どこか前線に立つ者らしい。



(なんとなくだけど、アンセルム神父の服は少しだけ教会の騎士という感じがして、猊下の聖衣は魔術師のよう。デュルノ……デュノル司教の聖衣は、…………少しだけ神様っぽいというか……………)



襲撃されたばかりのレイノがそんな呑気な事を真剣に考えているとは思ってもいないに違いないアンセルム神父が、案じるような瞳をこちらに向けた。


その眼差しは、先程見た鮮やかさを潜め、綺麗な菫色だがあの不思議な光を湛えることはない。

光の加減かなとも思ったが、レイノ達が立っていた場所には、あのように瞳が光を集めるような光源はなかった筈なのだ。



「レイノ、僕が側にいた方が良ければ、遠慮しなくていいですからね」


優しくそう言ってくれたアンセルムに、レイノは微笑んで頷いた。



「はい。でも、この通り、ちょっと凄いお二人が一緒に居て下さるようなので、私は大丈夫です。…………ただ、先程助けて下さった時に、アンセルム神父はお怪我などされていませんか?もし、どこかが痛かったりするようであれば、まずはご自身の治療を優先して下さいね?」


それはずっと気になっていたことであるし、当然の質問なのだが、レイノがそう言えば、なぜかアンセルムは目を瞠った。

そんなに意外なことだろうかと首を傾げたレイノに、アンセルムは何だか嬉しそうに微笑んでいる。


「……………ええ。有難う、レイノ。僕は擦り傷一つありませんよ。…………では、君が無事にデュノル司教の部屋に入って落ち着くのを見届けたら、少しだけ席を外します。…………猊下、たいへん恐縮ですが僕が戻るまで、彼女を預けさせていただいても宜しいでしょうか」

「この状況だ。部屋から動かず用がある者はこちらに来させるようにする。お前は、やるべき事を済ませておけ」

「感謝いたします」



立ち止まり、いつもより深くお辞儀をすると、アンセルムの銀髪がさらりと胸元に垂れた。


すぐに姿勢を戻し、また、階位に合わせて一歩下がった位置で歩幅を合わせて歩きながら、アンセルムはデュノル司教に抱えられたまま振り返ったレイノに、にっこりと微笑んでくれる。


その微笑みは、柔和で親しみやすいいつものアンセルム神父のものだが、レイノは、目隠しをされていた時に彼が見せたであろう姿について考えずにはいられなかった。





「あいつは異端審問官だぞ。調査や取り締まりなどの権限も持つが、異端の罪を犯した者を自身の判断で粛清する権限も持っている。教会がこのような組織だからこそ、単身である程度の人外者を退けるだけの力がなければ、その役目は果たせない」



まずは会合を行う予定であったデュノル司教の部屋に移動し、アンセルムが退出した後、事件の事を最初から話すように言われて説明したレイノに、リシャード枢機卿は呆れた様子でそう返す。


どうやら、男爵位の魔物をアンセルムが撃退してしまったという下りで、いささか言葉に熱が籠り過ぎてしまったようだ。

少し迷ったが、あの迷い子達やロダートの契約の魔物と、アンセルムの会話も全て話した。


リシャード枢機卿だけであれば伏せたかもしれない会話もあるが、そこはやはり、今朝のデュノル司教との会話が大きい。



「……………男爵位の魔物より、アンセルム神父はお強いのですか?」



そう尋ねたレイノに、青緑色の瞳の美しい枢機卿は、呆れたような冷たい目でこちらを一瞥した。



「ここは教区内だ。したがって、教区に在籍する聖職者達の魔術が最も有利となるようにして土地が整えられている。教区そのものが、魔術を展開する為の祭壇だと考えろ」

「…………ここにいる限り、外から来た方に負けることはないのですね?」

「どんなものでも退けられるという事もないよ。魔術には階位があり、どれだけ補っても覆らないだけの高位の者もいる。とは言え、教会の枢機卿や異端審問官達は、男爵位の魔物くらいまでであれば対等に渡り合える筈だ」

「高位の人ならざる方々は、国家でも御しきれない災厄のようなものだという教えを受けたのですが、実際にはある程度対抗出来る力があるのですね…………」

「いや、魔物は子爵からその階位を大きく上げる。あくまでも、一定の階位まではそのように出来るというくらいだね。勿論、中にはその上の階位の魔物達にも劣らないだけの力を持つ人間もいるだろう。けれど、それはやはり稀なことだよ」



そう教えて貰い、レイノはこくりと頷いた。

聞けば、個人的な契約を人間と結ぶとなるとやはり迷い子のような存在が求められもするが、男爵位の魔物は、人間の組織の中でも上位に位置する者達であれば交渉が可能なくらいの、比較的庶民的な階位なのだそうだ。


勿論、男爵位の魔物の中にもその最下位に近い者から、爵位を上げるかもしれない最上位の者まで様々だと言うが、初めてここまではっきりとした線引きを教えて貰えて、レイノはちょっぴりほっとする。

今迄、人間ではないものの順列を示されても、社会的な地位ではなく力としての認識が上手く出来ずにいたのだ。



窓の外は、風が少し強いのだろう。

ざわざわと風に揺れる木々に、曇天の空とその雲間から覗く僅かな青空が見える。

もう少しすると夕刻に近くなるので、後は陽が落ちるばかりだろう。



現在、枢機卿の護衛達は部屋の外で控えており、このデュノル司教の部屋の警備の兵士達とは左右に分かれて扉を守ってくれている。

リシャード枢機卿がただの聖職者であれば、あの事件の後であまりにも手薄ではないかと思うところだが、鎮圧の様子を見るに枢機卿一人の能力が、兵士達の力を凌ぐのかもしれない。



(そして、なぜ枢機卿自らお茶を淹れているのだろう………………)



部屋の中にその世話をするような人はいないので、レイノがその役目を買って出ようとしたのだが、自分で淹れた方がましだと一蹴されてしまった。

本当だろうかと凝視していたところ、確かに鮮やかな手つきであるし、茶葉の扱いなどにはかなりの拘りを感じさせる。



「足は落ち着いたかな。その靴は痛くないかい?」


そう案じてくれたのは、デュノル司教だ。

レイノは、すっかりご機嫌な爪先をぱたぱたさせてみて、柔らかくすら感じられるようになった靴に唇の端を持ち上げる。


「はい!猊下が取り寄せて下さった方のサイズだと、同じ素材の靴なのにちっとも痛くありませんでした。踵も治していただいて有難うございます」



部屋に着くとまずは靴擦れの治癒が行われ、リシャードが慎重に靴を脱がしてくれた後、デュノル司教が、赤く擦れた部分の皮膚を魔法でさっと綺麗にしてくれた。


足に合う靴に履き替えても、一度出来た靴擦れは暫く痛いだろうなと考えていたレイノは、そう言えば首の痛みもするりと治ったことを思い出しながら、魔術治療というものを初めてじっくりと見た。


しゅわりと光の術式陣が浮かび、そこから花びらが落ちるように光がこぼれて肌に触れると、それだけでもう靴擦れは消えてしまった。

こうなると、魔法のある世界の医療現場はどうなっているのだろうと、今更ながらに不思議でならない。



「それは良かった。……………さて、猊下、これからどうなされますか?」

「襲撃は無差別だったという事だが、言葉にされた事の全てが真実とも言えないな。…………迷い子達は、ミサの時以外は行動を共にしない筈だ。だが、今回は申し合わせて襲撃を企てている。となれば、その指揮を取る者がいたり、唆した奴がいる可能性もあるだろう。…………やはり今夜は、境界魔術の外に出す訳にはいかないな。工房には戻せないようだ」



そう言ったリシャード枢機卿がこちらを見て深く微笑んだので、何だか嫌な予感がしたレイノは、殆ど本能的に首を横に振った。



「…………牢屋や地下室はご辞退させていただきます」

「……………どこをどう聞けばそうなる」

「そ、それと、どこかのお部屋に一人で隔離するのはやめて下さい。私の育った土地での一般的な展開だと、そうされるとまず間違いなく、真夜中に犯人が部屋に忍び込んで来て殺されてしまいます…………」

「どれだけ物騒な土地だ」



また呆れた目をされてしまい、レイノは途方に暮れて隣に座ってくれているデュノル司教に視線を向ける。

朝食の席で、デュノル司教はこのリシャード枢機卿を信頼しても良いと話してくれたのだが、ここではその事に触れるような発言はないようだ。



(それに、デュルノ…………デュノル?………枢機卿は、私が忘れてしまった私のことを知っている人として認識してもいいのよね………?)



確かにその言葉を信じその手を取った筈なのだが、これでもレイノは襲撃されたばかりである。


デュノル司教の話も容易く信じていいのだろうかと考えかけたが、こちらを見たその瞳の澄明さに、すとんと胸の中の不安が鎮まった。



(……………うん。この人のことは、やっぱり信じよう……………)




何度自分の内側に問いかけても、心はその答えを弾き出す。

一人で生きてきたレイノは、であればそれに従うまでだと、ざっくりと結論を出してしまう人間であった。




「そのようなところに君を泊まらせることはないよ。今夜は、猊下に預かって貰うといいだろう」

「………デュノル司教?!」

「もし、他の迷い子の契約者が君に危害を加えようとした場合、それを退けられるのは、猊下だけだろう。…………教区内でも今回の事件の概要を調べるだろうし、異端審問官達も彼等で調査に乗り出すだろう。…………教会内でのこのような事件は、前代未聞だからね。…………けれど、そのどちらも今夜の内に君の安全を保障出来るものではない」



言われてみれば、確かにその通りなのだ。


この世界にその手の物語娯楽がどれだけあるかは分からないが、レイノは、映画や小説の中で、犯人達の絞り込みが間に合わず保護されていなければならない人達が、夜の内に非業の死を遂げる展開に何度も出会っている。



「……………猊下の手配して下さったところなら、安全かもしれません」

「俺の部屋の続き間にいればいいだろう。……………何だ?不満なのか?」

「……………猊下のお部屋の…………?と、とんでもないです!そんな事を言ったら、寧ろ教区中の偉い方達がみなさん慌ててしまいます!」

「まだ学びが足りないようだから教えておくが、聖職者は有事の際に各々が聖域としても機能する。後見人として、ましてやお前のような可動域の低い者を庇護するのは自然な事だぞ」

「……………可動域」



そうして、高位の聖職者が展開する防衛魔術を、救いの城と言うのだそうだ。

こちらの世界にはあるという、天災型の魔術異変時には、住民達が近所に住んでいる聖職者の家に逃げ込むことも少なくはないのだとか。



(やはり、可動域を上げないと子供という括りなのかな………………)



であれば、たいへん不本意ではあるものの、それを借りて今は守って貰うことにしよう。


淹れて貰った果物の甘い香りのする紅茶を飲みながら、レイノはどこからともなく取り出された焼き菓子に目を輝かせた。

念を込めた眼差しでじっと見ているとリシャード枢機卿はそれをレイノにくれたので、プラムの入った美味しいフィナンシェのようなそれを、幸せな気持ちで頬張る。



「むぐ」

「それだけ食欲があるなら、問題なさそうだな」

「そうだといいのだけれど…………」



(でも、お泊まりならデュルノ司教のお部屋の方がいいな……………)



枢機卿の自室の続き間にいたら、緊張してぐっすり眠れなさそうだ。

本当は、こんな事があった日だからこそ、貰ったばかりの自分の部屋に戻りたいが、レイノの立場でそれを押し通すのは難しいだろう。



レイノが二個目の焼き菓子を食べていると、リシャード枢機卿とデュノル司教は迷い子達の起こした事件に話を戻している。



(…………工房に戻さないという措置は、その入り口の警備に問題があるというだけではなく、アンセルム神父にも何らかの疑念を持っているのだろうか…………)



デュノル司教も、彼に関しては来訪者という言葉を使いながらも、教会側の存在だと話していた。



「必要なものはこちらで揃える。明日からはまたそれなりの警備を考えるが、早々に契約を済ませた方がいいかもしれんな…………」



何かの話がまとまったものか、リシャード枢機卿がこちらを見た。

はらりと額にこぼれた前髪を片手で掻き上げて、優美な仕草でカップを傾けている。



レイノは、一瞬躊躇ったが、このような事は一人で考えていても仕方ないと思い、直接尋ねてみることにした。



「…………もしかして、猊下はアンセルム神父についても、疑念をお持ちなのですか?…………あの方は確かに見えているご印象とは違い謎めいた部分もありますが、私を助けてくれましたし、今回の事件を企てた方々と繋がっている感じはなかったように感じてしまうのですが……………」



その問いかけに対して、リシャード枢機卿が浮かべた冷ややかな微笑みは、出来の悪い弟子を見るようなものだった。

僅かに怯みそうになったが、こちらの考えを伝えた上で話をしなければ、結論の部分ですれ違いかねない。



(もし私が、意図的にここに配属されているのなら、私に求められている役割はそのようにして組織の内側を見ることなのだと思うから……………)



「ほお、工房に戻れないことが不満か?」

「…………良くしてくれるものが良いものではないかもしれないという事は、私も理解しようとしています。それにアンセルム神父は、あの迷い子の人達が私を狙わなければならなかった事情もご存知のように思います。……………ですが、私が近くで見ていたアンセルム神父の印象も踏まえて、私は、沢山のことのなぜなのかを知らなければならないのだと考えたのですが…………、踏み込み過ぎているでしょうか?」



そう答えたレイノに、リシャード枢機卿は何とも言えない顔をした。


あまりにも露骨にそんな表情をされたので、全く見当違いな発言をしてしまったのだろうかと眉を下げたレイノに、枢機卿は手を伸ばしてレイノの頭にずしりと片手を乗せ、小さく唸りかけたレイノの髪の毛をくしゃりと撫でる。



(…………残念がられている?それとも褒められたのかしら?……………どっちだろう…………)



困惑しながらも、渋面で髪の毛を直しているレイノに、小さく微笑んだのはデュノル司教だ。



「…………そうだね。まだ不透明な事は多いが、こうして危険に晒された以上は、例え短い時間であっても知らないという事だけでは済まないものだ。だから君は、確かな所に居なければならない。まずは、猊下の庇護下で明朝まで我慢しておくれ。………どんな形であれ、契約を得てしまえば、君は契約の領域においては自身の領地を得る。契約も急いだ方が良いだろう。そこでもう一枚の防壁とし、また次のことを考えようか」

「…………契約というものは、もっと色々なことを学んで、その系譜や属性を知った上で挑むものだと聞いています。一刻も早くという事であれば、それは状況を飲み込めない私より確かな判断なのだとは思いますが、今の私にも可能なものでしょうか?…………その、まだ竜を狩ったりしていないので、私は可動域がとても低いのです……………」

「…………竜を、狩りたいのかい?」

「可動域を上げる為には、そのようにして経験を積むのではないのですか?」

「…………言っておくが、人間の可動域は一度成長を止めたら生涯さして変わらないぞ。生まれて五年以上生きていてその可動域となると、お前はそこ止まりだ」

「……………………むぐ?!」



レイノはがたんと立ち上がり、慌てて二人の後見人の顔を見比べた。

必死に二人の表情からこれは冗談だよという反応を探ったが、そこにあるのは無情な現実ばかりで、じわっと涙目になる。



「…………で、では、わたしはどうやって大人になればいいのですか?」

「そのままだと言わなかったか?」

「…………………ふぎゅ」



その衝撃の事実を受け、レイノはがくりと崩れ落ちた。


迷い子の契約について書かれた書物を読んだが、その契約と召喚については、自身の魔術可動域に見合ったものが保証のラインとなる。



(……………そうなると、確実に呼べるのが、蟻しかいない!!)



その場合、契約をして得られるのは、本当に言葉通りの、“契約を得ている迷い子”というだけのものでしかないのではなかろうか。

それはどれ程の屈辱なのだろうと、レイノは悲しみでいっぱいになる。



「……………蟻とは契約しません」

「どうして蟻を考えてしまったのだろう?」

「契約は、可動域までのものが保証されるのだと教わったばかりです…………。蟻と共に暮らすのはご免です…………」

「それならば、尚更、明日の内に契約を進めておけ。俺が儀式の補助をしてやれる間であれば、ある程度底上げをしてやる」

「………………猊下が力を貸してくれるのですか?」



思いがけない優しい提案に、レイノは顔を上げ、目をきらきらさせた。


枢機卿が後見人になった迷い子が蟻しか呼べないとなれば、確かに、リシャード枢機卿自身にとっても不名誉なことなのかもしれない。

けれども、特に清廉さにも美徳を見出さない強欲な人間としては、多少の不正があっても素敵な契約相手を得られる方がいい。



(…………例え、今はこの人達と共闘状態にあるのかもしれなくても…………)



もしかしたらデュノル司教は知り合いかもしれなくて、レイノには、本当はどこか帰れる場所があるのかもしれないのだとしても。


それでも、全てが終わった時にレイノがここに残されないという保証はないし、それらがネアハーレイのものでもあるという確証もない。



(でも、契約する相手とは、魂で魔術の約束を結ぶのだと書いてあった。………その契約で得られた相手は、この目隠しばかりの土地で、何よりも確かな私の味方になる…………)



こうして、リシャード枢機卿とデュノル司教と三人になっても、レイノに特別な秘密が明かされるという事はなかった。


或いは、デュノル司教は二人にならないとあのような話はしてくれないのかもしれないし、あの時にも全てを明かせなかっただけの理由の部分が、強固で厄介な土地なのかもしれない。



でも、ああして実際にこの身を傷付けようとする暴力に晒されてしまえば、レイノも少しは慎重になる。



(司教様のことは信用している…………と言うか、どうしてなのかとても好きだけど、言われていない事までを期待してしまうのは、もしもの時の為にもやめておこう………)



だからこそ、明日の契約なのだ。



最初に取り交わした誓約の中に、迷い子は門をくぐる前の知識や記憶を元に、意図的に特定の人外者を呼び寄せてはならないという項目があった。

また、それ以外の誰かが、目的を持って特定の契約者を与えてもならないと結ぶの一文がある限り、レイノの契約相手は誰の思惑も反映しない運命任せの存在なのだと思う。




「猊下。明日の儀式はどうぞ宜しくお願いいたします」



やっと確実な身の安全を確保出来そうだと考え、ぺこりと頭を下げたレイノに、なぜだかリシャード枢機卿は少しだけ警戒するように目を細めた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ