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十三号室と黒い扉




手に取ったホテルの鍵をくるりと回し、古い螺旋階段を上る。



こつこつと響く靴音に、ケープの裾が翻った。

窓から差し込む夜の光はどんよりとしており、階段の踊り場の暗さは、人一人が身を隠せる程の濃さであった。


窓の外の夜は晴れているようだが、如何せん星も月もない。

べったりとした暗い暗い夜の中に佇むホテルの階段には、爪先に絡みつくような靄が這い、窓硝子には霜が下りていた。




「おや、ここで会えるとは思わなかった」

「………グレアム」



ここで、六階から現れたのは、なぜか白灰色の髪を濡らした友人だ。


雨に降られたような濡れ方をしているので目を瞬くと、ここに来る迄の間にカンカーダの雨壺の通りを抜けてきたらしい。

微かに頭を振ると髪は乾いたが、服裾にはまだかぎ裂きが残っている。


ロビーからは反対側の階段を使い、六階を通り抜けるようにしてこちらに来たのだろう。

このホテルは少し独特な造りをしていて、六階しか、西側と東側の階段の移動が出来ないのだ。

上層階の貴賓室は、こちらの東階段でしか行けないので、西側から上に向かってしまうと、どうしても六階を経由せざるを得なくなる。



(水晶魔術の上昇機は、今はもう使われていないからな………)



美しい星結晶の細工扉が有名で、このホテルの自慢でもあった上昇機は、かつてここで革命軍が起こした事件の際に失われ、そのまま復旧しなかったようだ。



「そんな無理をしたのか。あの通りは、狭い上に雨狼達の巣窟になっていた筈だぞ」

「このホテルが閉じる前までに入っておかないと、明日の朝に悪夢が落ちるのと同時に仕事を始める事になる。流石にそれは、避けたいからな」

「………確かに、悪夢が落ちきってから参加するのは避けたいか。………カンカーダを抜けたという事は、カルウィから来たんだな」

「ああ。一つの継承争いで揉めていてな。鳥籠のような問題にはならないだろうが、自前の武器狩りを始めかねない。新規の武器を求めてヴェルクレアに目を付けられても厄介だから、願いをかけられた段階で潰しておかないといけない案件だったんだ。ウィームから向かう予定だったが、いささか予定が狂った」



ここで、一緒に階段を上りながら、少しだけクロウウィンの日の事を話した。


意識のない時の事であったが、グレアムには看病をして貰っている。

目を覚ました時にも礼はしたが、とは言え、あの時はまだ意識が朦朧としていた。

実は昨晩もウィームで共に飲んだのだが、疲弊しきっていたからかどうにも記憶が曖昧で、改めて礼を言えていたかどうか覚えていなかったのだ。


「おいおい、昨日も言っていたぞ?」

「おっと、伝えてあったか。それならいいんだ」

「もうあまり、気にしないでくれ。友人なら当然のことをした迄だし、寧ろ、シルハーンの声が届きあの場所に駆け付けられて良かったと思っているんだ」

「だが、………君がいてくれたお陰で、随分と助かった。ローンにも連絡をしてくれただろう。そちらについても礼をしておきたかったんだ」

「たまたま、犠牲の系譜の願いが動いたからな」

「………ああ。疫病の現れでは、君の資質である願いがかけられやすいからな」



犠牲の魔術は、対価と引き換えに願いを叶えて貰うという事こそが、最大の魔術展開となる。

相応しい対価を用意して天秤を吊り合わせさえすれば叶う願いを思えば、この友人の司る力は、この世界に於いても稀有なものと言えよう。


その代わりに席次は低く、万象や終焉といった資質は損なえないようになっているのもまた世界の理なのだが、とは言え、特定の資質を必要としないグレアムが扱える魔術の幅の広さは圧巻である。



(そう言う意味では、選択を司るアルテアの階位の方が高いのは、願い事から敷かれる魔術を退ける選択肢を残す為でもあるんだろうな………)



例えば、ヨシュアもそうだ。

彼はある意味、天気の系譜の最高位とも言える。

雲をかけ陽を翳らせるという行為に於いては、気紛れさを資質とする運命そのものの運行にも近しい特別な魔物の一人。


だからこそヨシュアは、決して大きく階位を落とす事はない。

彼の持つ資質の最高位の座が、グレアムの司る願い事で全てを書き換えられるようにはならないのだ。



(アイザックもそうだし、現在の階位は不明だが、ノアベルトも不可侵の領域ではあるんだろう。その大部分を海への祝福として手放したとは言え、魔術の根源に連なり、命そのものを司る魔物だ)



そんな事を考えながら十三階に出ると、先程迄の暗さが嘘のような、華やかな内装の廊下が開けた。


星の系譜の銀水晶の白灰色の石床には、深みのある青色の絨毯が敷かれている。

飾り棚の上の花瓶には淡い檸檬色の百合が生けられ、壁灯は雫型にカットされた泉結晶が煌めく小さなシャンデリア型で、壁に光の欠片を映し出していた。


窓の向こうには賑やかな夜の街が映し出されているが、これが実際にホテルの外側の風景とは限らない。

街並みに目を凝らしてみるとガゼットのようなので、案の定この時代のものではないようだ。

だが、そんなもう失われた景色に気付き、足を止めてしまう宿泊客もいるのだろう。

そうして無防備になったとき、ここは、決して安全な場所とは言えない。



「………ここで、誰かが食われたばかりだな」

「早くないか。まだ、終焉の予兆は立っていないんだろう?」

「ああ。だが、悪夢に切り替わる時間に近付くにつれ、この建物自体も不安定にはなる筈だ。元々、隔離地に落としたくらいの土地だから、館内とは言え安全とは言えないからな」

「そう言えばそうだったか。このホテルそのものも、客を食うんだったな」

「さすがに、部屋の中で食われたら堪らないが」



そう苦笑したグレアムに、肩を竦めて笑う。


ここは、とあるあわいの隔離地の中にある老舗ホテルなのだが、ふっと蜃気楼のように地上に姿を現すことがあった。

そうして、地上にこの土地が姿を現す何十年かに一度、必ずこのホテルを中心とした凄惨な虐殺が起きる。


二百六十八年前の十三日に起こった、この地を隔離地とするに至る、有名な革命の日を再現してしまうのだ。


革命軍に惨殺された王族が宿泊していたホテルには、その王族にかけられていた妖精の守護が、このホテルごとを隔離地にするしかなかった程に変質しながらも、今も残されている。


今も尚ここで働く当時の従業員たちは自分達が祟りものに成り果てた事を普段は知らないが、革命の日を再現する十三日の夜明けになると、死者の国の花売り達のような黒い影のような姿に変化してしまうのだ。

とは言え、生前の姿のままで朗らかに客対応している普段の方が、彼等がどこまで正気なのかが分からず恐ろしいと言う者達も少なからずいた。



繰り返し、繰り返し。

何十年かに一度の十三日に、十三階の一号室の貴賓室からそれは始まる。



守護を与えた王族達を目の前で殺された守護妖精達の怨嗟や、巻き添えになってその革命の為に無惨に殺された多くの宿泊客達の慟哭が、焼け落ちた筈のホテルをそのホテルがあった国ですらないような場所に出現させる。


そこは大抵の場合、おやこんなホテルがあっただろうかと思わせる程度には親和性のある土地で、ヴェルクレアでも七十年程前にアルビクロムに被害が出た。


未だウィームに出現した記録はないが、統一戦争を経た後からは、同じ火で滅ぼされた者達の怨嗟が呼ばれてしまうのではと、たいそう警戒されている。


毎回、忽然と現れるこのホテルは、知らずに泊まってしまう客達やその周辺の土地に暮らす人々までをも引き摺り込み、革命の日の悪夢を再現するのだ。


気象性の悪夢とは違うものの、地上に現れる場合は同じ悪夢の系譜に分類されるようになるのだが、虐殺が開始されてから駆け付けるのではあまりにも被害が広がり過ぎるので、近年はその前夜からホテルに泊まり、この建物が悪夢に転じる瞬間から鎮静化を図るようにしていた。



(何しろ、革命軍は殺す事に特化した兵士達だ。おまけに革命とは名ばかりの軍部による国の私有化に等しい事件だった。標的の排除と、見せしめの為により残虐にと行われる虐殺だから迷いがない………)



繰り返される最後の瞬間を、ここに居る人々はどう認識しているのだろう。

罰として残された訳ではなく、あまりにも怨嗟が強く浄化が困難なのでと、地上から切り取って隔離地に落とした筈の土地であった。


だが、それでも何十年かに一度は地上に彷徨い出てしまう程に、その怨嗟は今も深いのだろうか。

或いは、妖精の守護と怨嗟が絡み合い、もはや自分達でも繰り返しの惨劇を防げなくなるほどに壊れてしまったのかもしれない。

何しろ、粛清を行なった側の革命軍の者達も、この怨嗟の歯車にされたままどこにも行けずにいるのだから。



「……………ウィリアム?」

「いや、………考え事をしていただけだ。君の部屋は?」

「十三号室だ」

「……ん?」



ここでウィリアムは、自分が手にしている部屋の鍵をもう一度見てみた。


だが、こちらにも、十三号室と記されており首を傾げていると、手元を覗き込んだグレアムが目を瞠る。

慌ててグレアムが取り出している鍵を確認すれば、やはり十三号室の鍵ではないか。


「同じだな………」

「十三号室が、二つあるという事なのだろうか………」




互いに顔を見合わせ困惑していると、こつりと背後で床が鳴った。



毎回、悪夢に落ちる前のこの日には、革命の日の制圧作業に参加する宿泊客が集まるものだ。

顔見知りの、終焉の系譜の誰かだろうと振り返ったウィリアムは、漆黒の燕尾服の知人の姿を認め、目を細める。


「…………まさかとは思いますが、くれぐれも、ここで始まる悪夢を外に出すような真似は控えて下さい」

「ほお。今回は最初から犠牲がいるのか。妙な組み合わせだな」

「あなたがいるのも、おかしなことだとは思いますけれどね。少なくとも、俺が知る限りは初めてでは?」

「放っておけ。守護の歪みを齎した妖精の資質に、手持ちの素材を浸すだけだ。他に用はない」

「………そればかりであることを祈るばかりですね」

「仕事が忙し過ぎるんだろうな。妙に皮肉っぽくなりやがって……………」



呆れたような声音ではぁと溜め息を吐かれたが、警戒もするだろう。

ウィリアムは、ここで行われる虐殺を、今回も絶対に地上に広げるつもりはないのだ。



今回、この革命の悪夢が現れる座標は、ヨームの街を示している。


ヨームは中堅の国で、やや軍事的な思想に傾きつつはあるが、街並みが美しく食事も美味しいこの国は、ウィリアムがとても気に入っている場所なのだ。

いつか、ネアにも見せてやりたいと思っている石造りの建物と水路の街並みは、出来る限りそのまま残したいと思っている。



「アルテアは、何号室なんだ?」

「十三だ。……………何だ?」


しかし、そんなグレアムの問いかけに答えたアルテアに、ウィリアムは思わず目を瞠ってしまった。


「……………奇遇ですね。俺とグレアムも、なぜか互いに十三号室なんですよ」

「……………は?」


グレアムも驚いているので、こちらに起こっている事を話す為の、振りとして尋ねただけだったのだろう。

まさか、アルテアまで同じ部屋番号だとは思いもしなかったのだ。


「十三階の十三号室だ。………階数は確認したのか?」

「十三階の十三号室ですよ。この通り、鍵にも一三一三と彫られているでしょう?」

「……………他の階に明かりは灯っていたか?」

「いえ。持っている鍵の階しか、明かりが入らないのは知っているんですね」

「言っておくが、俺はここに滞在するのは二度目だぞ。最初の悪夢としての出現の際にも、この十三階に宿泊していたからな」

「………最悪の被害を出した時ですね。あなた絡みでしたか」



だが、それよりもまずは部屋番号である。

三人が手にしている鍵はやはり同じ物で、廊下を歩いて部屋番号を確認したが、十三号室が三部屋あるという事もなかった。


記憶が確かであれば、この階は家族用の一号室から三号室迄の部屋以外は、貴賓室とは言え寝台は二つ限りであった筈だし、宿泊手続きを行った際に重複する鍵が渡されたという話はこれ迄に聞いた事がない。


であれば、ロビーに戻って鍵を貰い直せばと思うだろうが、土地の変質で隔離地に落とされたこのホテルは、宿泊客が向かう先のフロアしか明かりが入らないのだ。


既に宿泊手続きを終えてしまっている以上、一階に戻っても、先程まで通り過ぎてきたフロアのように、深い闇に包まれ光の入らない夜の光の中に沈んでいるのは容易に想像出来る。


因みに、このホテルで、明かりの灯らないフロアを探索してみた者が二度と戻らなかったのは有名な話だ。

このような施設は、契約魔術を使った認識と承認で成り立っているので、共用施設でもない限り、そこは、承認外の領域として厳密に区分されるのは言うまでもない。



「……………うーん。参ったな」

「取り敢えず、部屋を見てみるか?」

「それしかないだろうな。…………どういう意図にせよ、例がない事なら、この場所自体が変化し始めているんだろうよ」

「やれやれ。隔離地の中とは言え、明日の朝まではゆっくり眠りたかったんですけれどね……………」

「そうだな。寝台を譲って欲しいなら、交渉に応じない事もないぞ?」

「俺もこの鍵を持っているんですよ。それに、十三階に到着したのは、俺とグレアムの方が早かったのでは?」



そう返せばアルテアは憮然とした表情になったが、ともあれ、部屋に入ってみる事になった。


まずはと、全員分の鍵でその部屋の開錠が出来る事を確認し、引き続き困惑したまま部屋に入る。

部屋に入れば青を基調とした廊下とは色合いががらりと変わり、セージグリーンと深みのある赤色の組み合わせだ。


王族御用達のホテルだっただけあり、貴賓室の内装は美しく華やかだ。


細部までに及ぶ彫刻の精緻さが印象的な飴色の木の家具に、くすんだオリーブ色の革の張られた長椅子。

窓の外のバルコニーには薔薇の鉢植えが置かれていて、アプリコットカラーの薔薇が満開になっている。

そして、テーブルの上に用意されたカップは三客であった。



「……………どうやら、俺達三人をこの部屋に通したのは、間違いではないらしいな」

「うわ、部屋としても認識済なのか。認知魔術が敷かれているとなると、部屋替えは難しいだろうな………」

「確か、浴室は二つあった筈だな………」

「ええ。書斎もあるので部屋としては足りる筈ですが……………おっと、」



歩きながら部屋の作りや数を確かめてゆけば、一つ目の浴室を通り過ぎた次の部屋が寝室であった。

靴音を消す為かふかふかとした絨毯が敷かれていて、寝台は、壁からせり出した天蓋で寝台の上部だけを覆うような独特の意匠の物だ。



「…………寝台は、三つ並んでいるのか。…………各自に寝台が与えられたというのはせめてもの救いだが、……………まさか、ウィリアムはともかく、アルテア迄を加えた三人で、並んで寝る羽目になるとは思わなかったな」

「……………グレアムの家に泊まらせて貰った翌日に、まさかこうなるとはな……………」

「………だが、この時間だと、満室にはまだ早かった筈だぞ。宿泊手続きを行った時間も違う。何らかの要因はあるだろうな………」

「ええ。これ迄とは違う要因がどこかにあり、その結果起きている異変という感じでしょうね。……………悪夢に変化した後で、妙な事にならなければいいんですが……………」

「おい、こっちを見るな」



必要とする効果を得る為に、何か余計な魔術展開をしているのではないかとついついアルテアの方を見てしまう。


顔を顰めて追い払うように手を振られたが、とは言え、今夜はもう、三人でこの部屋で過ごすしかないのだ。


一階にあるレストランは既に営業時間外である。

部屋で食事を頼むつもりだったが、これはもう、このまま寝てしまう方が賢明であるかもしれない。

そう考えながら、全員で顔を見合わせ、無言で溜め息を吐いた。


こんな時は、諦め悪く足掻くよりも、早々に異常を受け入れてしまった方がいい。

どちらにせよ、元々真っ当な場所ではないのだ。

怨嗟で歪んだ土地である以上、こちらの常識で測れないのは致し方ない事として諦める方が賢明である。



「困った事になったな。……………とは言え、休暇の滞在ではなかったのが幸いか」


苦笑したグレアムの軽口に、顔を顰めたアルテアが、当たり前だと返している。

ここまでくると、見ず知らずの誰かと相部屋にされなかったことを幸いと思うしかないが、何となく居心地が悪いのはどうしようもない。


二人が上着を脱いでいるのを見て、帽子を外すと片手で髪の毛を整えた。



「………おい」

「給仕はしないが、ついでだ。紅茶の準備くらいするさ。一応、本職だからな」


紅茶の準備を始めたグレアムにそう言われたアルテアは何とも言えない顔をしていたし、ウィリアムもこんな場合はどういう顔をするべきか悩んだ。

ではと、三人で仲良く長椅子に腰かけて談笑するのは何かが違う気がしたが、グレアムは気にならないのだろう。


「……………で、何か分かりましたか?」


どう返答していいのか分からず、友人には曖昧に微笑んで頷いておくと、話題を変えようとアルテアにそう尋ねた。


一つ息を吐いて、グレアムの好意を受け取る事にしたらしいアルテアが、こちらを見てふっと唇の端を持ち上げる。


「この妙な展開の理由の一端は、人間の魔術師達のせいだろうな。………同じ血の匂いのする連中が、少なくとも七組は滞在している。余計な術式展開とやらをしているのは、そちらのようだぞ」

「…………ああ、魔術回収を目当てに入り込んだ連中か。道理で、耳障りな願い事がこちら迄聞こえてくると思った」

「革命の時間になる前に、目障りな動きをするようだったら、被害を抑える為に排除しておいた方がいいかもしれませんね」

「………相変わらず、お前達は同じような反応だな」



なぜかアルテアにそんな事を言われたが、グレアムと視線を交わして首を傾げると、分からないなら放っておけとアルテアは首を振った。



懸念もあったが、部屋に置かれた魔術連絡板を使い食事を頼めば、ルームサービスは普通に行われているようだ。

異変が起きているとは言え、自分以上に探索に長けている知り合いが同室なのは手堅い。

やはり食事は済ませておこうと、鶏肉のトマトクリーム煮とパンを頼み、手早く食事を済ませる。

既に食事を終えてきたというアルテアとグレアムは、本を読んだり仕事をしたりと思い思いの時間を過ごしていたようだ。



どこからか、物悲しいバイオリンの旋律が聞こえてくる。

窓の外は賑やかな街並みで、この時間でも通りを歩く人影は少なくない。

今はもうない国の王都の街並みを映した窓の向こうは、穏やかで美しい晩秋の夜であった。


だが、通り過ぎてきた明かりの入らない階のべっとりとした暗さこそが、このホテルの本来の姿なのだろう。


それでも、こうして眺める人々の営みの幻影は、不思議と戦場続きで荒んでいた心を宥めるような気がする。

昨晩、あまりにも戦場の気配を引き摺っていてリーエンベルクに泊まれるような状態ではないと知りつつウィームを訪れたのも、仕事の合間に、そんな何でもない人々の生活の様子を眺めていたかったからだ。



「おっと、もうこんな時間か。ついつい連絡に時間をかけてしまったな。………ウィリアム、先に浴室を使ってくれ。戦場から戻ったばかりだ。ゆっくりしたいだろう?」

「その提案に甘えさせて貰おうかな。………アルテア、俺がこちらの浴室を使って構いませんか?」

「好きにしろ」



寝室に近い浴室を先に使わせて貰い、タオルで髪を拭く。


一通り水気を拭った後で魔術で体を乾かすやり方は、よく人間のようだと言われるが、もはや癖なのだろう。

入浴せずとも清潔さを保つのは簡単なのだが、やはり済ませておけるとほっとする。

水気を払ったタオルは回収用の籐籠に入れておき、水差しから水を飲んで寝台に入ろうとした。



「………待て、……ウィリアム。もしかして、まだ昨晩の酒が残ってるか?」

「グレアム?」

「いや、なぜそのまま寝るのかと思ったが、………もしかすると、酔って脱ぐのではなくて、脱ぐのが当たり前なのか?」

「…………ああ、そういう事か」

「……………おい、何の話だ」



焦ったようにグレアムに声をかけられ、アルテアはこちらのやり取りに怪訝そうな顔をする。

アルテアはもう一つの浴室を使ったようで、僅かに濡れた前髪を掻き上げ、寝台の上に体を起こして座り、魔術遮蔽の眼鏡をかけて書類を読んでいた。


実は昨晩、仕事終わりに少し誰かと話したくてグレアムと飲みに行き、そのまま彼の家に泊めてもらったのだがその時も脱いだらしいと話すと、さもありなんという顔をされる。



「いつもだろ」

「確かに、寝る時は大抵何も着ていないからな。今のは無意識だが、酔った時も、いつものように休もうとして脱ぎたくなるんだろうな」

「………そう言う事か。ネアの前では気を付けろよ」

「それはないだろう。ウィリアムの、あいつの前での様子がおかしな好青年ぶりなのは兎も角、あれでもシルハーンへの配慮はしているんだろうよ」

「あれでもという言い方が気になりますが、確かに配慮はしているつもりですよ。………まぁ、この手の事をネアはあんまり気にしませんけれどね。アルテアもよく、情緒について指摘しているようですが、基本、シルハーン以外の異種族の男は、異性対象じゃないんでしょう」



それは、これ迄のネアを見ていれば分かる事だった。

彼女は、シルハーンの事すら、最初は獣を寝台に上げるような感覚で横に寝かせていたのだ。

伴侶という関係にまで進めたのは、シルハーンがそれだけ努力したからに他ならない。


女性として愛おしいのだと、伴侶として側に居て欲しいのだと主張出来なければ、彼女は同族以外の男をそちら側に引き入れてくれる事はないのだろう。


出会った日は沢山口説いたと公言しているノアベルトには警戒を見せていたのだから、相手が異性としての興味を見せたと判断すれば、都度対応を変えてゆくのではあるまいか。


ウィリアムはそう考えていたのだが、見ている限りこちらより狭量に思えるアルテアがどう認識しているのかが、実は少し前から気になっていた。


「だろうな。………だが、俺達は兎も角、外であの情緒のなさで過ごすと、おかしな事故を引き起こしかねないだろ。ノアベルトの事は警戒していたとなると、線引きは、匂わせではなく明確に言葉にしてあいつに女としての興味を示したかどうかだろう。そうなると、正面から口説いた連中は除外出来るがな………」

「ああ。それでだったんですね。成る程、外向きの事件を警戒していたのか………」

「当然だろうが。普通に異性として認識されていてのあの対応だったら、さすがに俺もうんざりするぞ」

「まぁ、基本は同じ形をしている異種族という認識なんでしょうね。ヨシュアは、どちらかと言えば更に子供のような扱いなのかな。一度、丸ごと洗われていましたから………」

「………ほお。ヨシュアを」

「そうか。ネアは、シルハーンだけに………」

「おい、おかしなところで泣くなよ?!」

「最初に二人で出かけている様子を見ていた時は、そもそもシルハーンに好意を持って貰えるかどうかも怪しかったからな………。伴侶になれて良かった……」



ここ迄の経緯を思えばと、目頭を押さえたグレアムに苦笑しつつ、ウィリアムは、こんな風に三人で並んだ寝台で眠れるようになった不思議さを思う。


初めてこんな状況に置かれたものの、もしこれが、ネアに出会う前の事だったなら、果たして、ここで仕方がないと諦められただろうか。



ふと隣の寝台を見れば、アルテアはカードを開いて薄く微笑んでいるし、グレアムは、共通の趣味の仲間達と、手帳型の通信魔術でやり取りをしている。

何があったのかは分からないが、野良がと呟いて冷ややかな目をしていたので、どこかでちょっとした問題があったのかもしれない。



(俺も、開いてみるか………)



パイやタルトを強請られるアルテアよりも、このカードに現れるネアからのメッセージは少ないと思う。

だが、時折送られてくる何でもないような言葉を読むだけで、胸が温かくなるのだった。



“ウィリアムさんのリンデルが出来ましたよ!もう、引き取りには行ってあるので、お仕事が落ち着いたら、リーエンベルクに受け取りに来て下さいね”



「………っ、」

「ウィリアム?!」

「……………放っておけ。それもいつもだぞ」



思わず鋭く息を吸ってしまい、手にしたカードを握り潰しかけた。

隣から案じるような声が聞こえたような気がしたが、もう一度カードに浮かび上がったメッセージを見つめ、唇の端を持ち上げる。




あと数刻もすれば、どこかで悲鳴が上がり、このホテルの中は、噎せ返るような血臭に包まれるだろう。

鳥籠で外周を覆い、革命の日の虐殺に巻き込まれる者達が少なく済むようにと、死者の行列は早めに動かすようになる。



だが、そのカードをそっと折り畳み仕舞い込むと、不思議なくらいに穏やかな気持ちで瞼を閉じた。

こんな風にゆっくりと眠れる夜だからこそ、今夜は、いつリンデルを受け取りにゆけるかを考えて眠ろう。



さらさらと悪夢に転落してゆく隔離地の部屋の中で、からんと部屋の黒い扉に飾られていた部屋番号のプレートが落ちる音が響いたのは、夜明け前の事であった。



どこかで火の手が上がり、この一日がどれだけの間繰り返され続けてきたのかを知らない、同じように穏やかな夜を過ごしていた誰かの命が潰える。


愛する者達を殺され咽び泣く王女の声を聞きながら、帽子をしっかりと被り、剣に手をかけた。

ここから、宿泊客達を殺し尽くし、このホテルの外に出てゆこうとする革命軍の兵士達は一人残らず粛清しなければならない。


何度も何度も殺される者達と同じ屋根の下で過ごし、これ迄にも何度も殺して来た兵士達をまた殺さねばならない仕事は決して愉快とは言い難いが、それでも、不思議と昨日までの疲労は残ってはいなかった。









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