子守唄とライラック 2
夜になると、窓の外の景色ががらりと風景を変えた。
ネアはびゃいんと椅子から飛び上がり、窓にへばりつく。
そのまま窓の外を凝視する時間が長過ぎたのか、途中で背後から使い魔に回収されてしまい、じたばたと暴れた。
「後にしろ。海老を皿に盛る瞬間を見るんだろ」
「………は!そ、そうでした。ですが、この風景はどこなのですか?ウィームのような街並みですが、大きな教会や劇場の配置がまるで違いますし、見たことのない赤い箱馬車が走っています!」
「郵便車の馬車だな。この景色は、ロクマリアの王都の影絵だ。滅亡の百年ほど前、最盛期の風景だ」
「ロクマリア………」
いつの間にかこの屋敷は少しの高台にあり、窓の向こうには壮麗な街並みが広がっていた。
ボーッと聞こえる汽笛に海かと思ったが、大きな川を運航する月光蒸気船のものらしい。
整備された道は広く、四頭立ての馬車が擦れ違うのも簡単だ。
ウィームのように大きな通り沿いの街路樹はないが、その代わりに大きな公園が幾つもある。
夜の街は賑やかだった。
あちこちの建物の窓に明かりが灯り、街灯の光の落ちる歩道を歩く人々は楽しそうだ。
細い路地にはテーブルと椅子を出してしまっている店が多く、どんな料理が出されているのだろうと考えるだけでもわくわくしてしまう。
美術館や博物館のような建物の前の広場には明るい光が丸い輪郭を描き、あの街灯の中の光源は何だろうと考えた。
王宮の周囲は更に明るく、壮麗なばかりではなく華やかで美しい建物をこれでもかと夜闇の中に浮かび上がらせていた。
夜の帳は王宮の方が早く下されているようで、まだ残照の残る側を見れば遠くに海のようなものが見える。
美しい街だなと思えば、旅先の景色のようにまた夢中で眺めてしまう。
「この位置にお屋敷があるということは、ロクマリアの王都には高低差があったのですか?」
「僅かにだがな。一番の高台には王家の管理下にある聖堂が建てられていて、ここはその丘の中腹だ」
「ふむ。となるとここは、かなりのお高い土地という事になりますね」
「古くから、王家の者しか屋敷を持てない土地だな。元は第六王子の屋敷があった場所だ」
「………その方は、どうなりました?」
ふと気になって尋ねると、こちらを見たアルテアは魔物らしく微笑む。
赤紫色の瞳を眇めて微笑む魔物は、お料理用に袖を捲り腰回りだけのエプロンを付けていても、ぞくりとするような美しさであった。
「煙草になったな。さしていい品物ではなかったが、使い所はあった」
「ふむ。それならいいのです」
「……………は?」
「もし、アルテアさんがこの景色を美しいと思い残しておく理由に、その方への執着や感傷があったのなら、私が、この景色を見てはしゃぎ過ぎるのは良くないのかなと思いました。ですので、そうでないのなら、安心してこの景色を楽しめますね」
「お前は、…………少しも緩まないな」
それがどのような意味なのかが分からず、ネアは首を傾げた。
だが、パン作りに戻ってしまった魔物はどこか満足げなので、まぁいいかとその工程を見守る仕事を始めることにする。
「アルテアさんも、パンを焼くのですねぇ」
「今回はお前用だ。パンは、古くから信仰の糧として使われてきた食材だからな。相性のいい材料と合わせて、守護の底上げに使うぞ」
「なぬ。守護上げのパンなのです?」
「今回は二種類だ。葡萄は、豊穣や結実を示す月並みな素材だが、普遍的な物だという認知でも魔術的な階位を上げる」
「葡萄パンは、焼き立てに有塩のバターを塗っていただくと、美味しいのですよ。…………じゅるり」
また一つのパンはオリーブと香草が使われており、こちらは与えた守護の永続性を補強する為のパンなのだそうだ。
大理石のような石の天板で粉から混ぜ合わされた生地が、パン用のオーブンに入っただけでもネアは弾んでしまうのに、アルテアの厨房には他にもオーブンがあるのだから、目を輝かせずにはいられない。
なお、魔術により発酵などの手順を簡略化出来るので、魔物のパン作りはたいへん効率的である。
ウィーム中央でも、妖精や魔物の酵母を使ったり、魔術で作業工程を短縮される事は珍しくないが、アルテアのように全てを自前な魔術で行えるとこんなにも手際が良く済むのだなと感嘆してしまう。
「水棲棘牛は、軽く焼いて香草塩とスノーの葡萄酢のソースでいいな?」
「は、はい!すいせいとげうしです!!」
「下手に手を加えるよりも、お前はそっちだからな………。タルタルも少し作ってやるが、今回は出す料理に縛りがある。あまり食べ過ぎるなよ」
「いいお肉は、レアかミディアムレアで表面に香草塩を効かせて焼き、葡萄酢の甘酸っぱいソースをほんの少し付けて食べると最高なのですよ。…………むぐ」
どちらかと言えば、ネアは牛肉はさっぱりとした調理法を好むのだが、さすがに付き合いが長くなってきたので、アルテアは既に承知済みだったようだ。
代わりに、鶏肉についてはクリーム煮などが好きなのだが、然し乍ら、香草塩などでぱりりと焼いた皮目も捨て難い。
そんな事を考えていると、鶏肉のマスタードクリーム煮が現れ、ネアは、ぱっと顔を輝かせた。
調理が早いアルテアは、一つの料理をたっぷり作る事も出来るが、食料の保存魔術の手段が多い事を生かして、品数を多くあれこれ食べさせてくれる系の魔物である。
加えて、ちまちまとしか食べられないような盛り付けや技術自慢をするばかりの料理は好まないので、お料理上手ながらも、素材の味を楽しめるものは簡単に仕上げてくれるのだ。
「こ、こちらの物は………」
「セージバター風味の、ジャガイモとベーコンのニョッキだな。皮は薄めだ」
「ニョッキ様………。テリーヌもあります!」
「これは、パン用だ。マスタードと酢漬け野菜を添えて出すか」
「パンよ、早く焼き上がり給え………」
テリーヌはしっとりとしていて、グリーンペッパーを効かせてあるらしい。
ところどころに挟まっている琥珀色のものは、コンソメのジュレのような物か、使われたお肉のゼラチン質の部分の煮凝りだろうか。
今夜の料理は、美味しさも勿論だが、守護の補強や修復に役立つように定められたメニューなので、ネアの好物ばかりという訳ではないそうだが、当人からしてみれば、既に心を奪う品揃えである。
「後は、茄子を揚げてヴィネグレットソースをかけた物と、簡単なサラダだな。このサラダは、都度ドレッシングと和えてやるから、食べたい時に皿に取って無理に食べなくてもいい」
「さっぱりめのサラダがあれば、水棲棘牛のステーキと合わせて幾らでもいただけるのですよ?」
「そちらは、お前の好きな鴨との盛り合わせにしておいてやる。こちらは少し気が早いが、冬苺のソースだ」
「ふぁ!」
「ハイフク海老は、香草と大蒜のソースに漬け込んである。さっと焼くだけだからすぐに終わるぞ」
「海老様!!」
かくして、きゅぽんと開けられたシュプリと共に、素晴らしい晩餐が始まった。
特別な陶器の容器でチーズフォンデュのように蕩かしたチーズがくつくつ温められており、パンに付けて食べていいのだそうだ。
パンに付けるバターを並べるような感覚でそんな物を用意してくれた使い魔に、ネアはむぐむぐとパンを頬張る。
品数の多さは、重ねてゆく食楽と食材に付随する魔術の数でもあるらしい。
そんな理由があるのだが、ネアからしてみれば楽園のような光景だ。
「…………むぐ。このパンとチーズだけでも、以前の私なら、祝祭の日のご馳走にしたでしょう。他にも美味しい物が沢山あるのに、この組み合わせだけで止まらなくなってしまいます。………茄子はとろりとしていて、沢山の野菜が入ったソースとの組み合わせで色も綺麗ですね」
「スープも用意したかったが、まずは守護の糧になる素材が最優先だからな。スープの魔術師の祝福と守護の付与効果を生かす為にも、同じ品目は削った方が収まりがいい」
「あぐ!……ステーキが美味しいれふ……」
「デザートは、ブルーベリーのタルトだ。酸味のあるチーズクリームを添えて用意してある」
「タルト様にも会えるのですか?!」
(このシュプリは、どんな名前の物なのだろう……?)
美味しい物を沢山食べて、シュプリを飲む。
きりりとした辛口のシュプリはなぜか、冬の日の雪景色を思わせた。
しんしんと雪の降り積もる静かな森を思うようで、けれども最後に仄かな甘さが残る。
「それは、………グラフィーツが管理していた、砂糖の系譜のシュプリだ。あいつの持つ資質から祝福だけを切り出した物で、魔物の慶事に出される事が多い」
「とても飲み易くて、お料理にもとても合いますね。微かな甘みが残る時に、そんなに甘くはないのにお砂糖の甘さを思い出すのが何だか不思議です」
「魔術の味そのものだからな。都度、砂糖そのものを連想させる事で、祝福の付与を固める役割がある」
テリーヌをパンと一緒に食べた後は、酢漬け野菜で口をさっぱりさせ、付け添えで出された美味しい生ハムやサラミも程よくいただくといいだろう。
満ち足りた気分で食事をしていたネアは、ここで、伝えられた今夜の予定に目を丸くした。
「そう言えば今夜は、浴室の入浴剤は、緑の瓶の中のものを使うのですよね?」
「ああ。だが、髪は俺が洗うから先にそちらを済ませてからだ」
「まぁ。……アルテアさんが、髪の毛を洗ってくれるのです?」
「魔術的な守護の役付けに必要だからな」
「謎めいています………」
「今回の守護の定着の仕方は、祝祭や慶事の術式を踏襲する。髪の手入れは主に血族や伴侶の作法だ。少しばかり、隷属の奉仕としての意味合いも持つがな」
「私には魔術的な事はさっぱりなのですが、ちょっぴりほろ酔いなので、最も手のかかる作業をやっていただくのは吝かではありません。そして、お風呂上がりにはきっとゼリーなどが………」
「幾ら何でも食い過ぎだな」
「なぬ………」
「代わりに、一口ぐらいのものだが氷菓子を作ってやる。あの氷竜の守護との繋ぎの相性がいい」
「じゅるり!」
美味しい時間を終えてブルーベリーのタルトも食べてしまうと、二人は夜の庭園に出て、ロクマリアの王都の街並みを眺めながらお喋りをした。
僅かな夜風は寒いと感じる程ではなく、夜咲のラベンダーの茂みにはきらきらと祝福の煌めきが宿る。
重たい枝が垂れ下がった楓の木の下をくぐり抜け、美しい白薔薇の茂みから香気が祝福結晶になったという小さな光る石の欠片を収穫した。
「これを浴槽に入れておけ。花の香りではあるが、どちらかといえば清しい庭園の香りそのものに近い」
「この薔薇のような、どこか果実のような爽やかな香りを持つ薔薇が大好きなのです!強香の薔薇でも、ストックの香りのようなものと、こちらの果実の酸味のような爽やかな香りのものとがありますよね………」
ネアの記憶の中での濃密で華やかな香りの薔薇は、母の舞台を観に行った幼い日の舞台裏の控え室の白粉の香りに繋がっている。
代わりに、爽やかな香りの薔薇は、家族が生きていた頃の屋敷の庭園に咲いていた白薔薇や淡い紫色の薔薇の香りの記憶に紐付くのだ。
不思議な事に、華やかな赤い薔薇が似合いそうなアルテアが好む薔薇は、後者の爽やかな香りのものが多いようで、これ迄に貰った薔薇もそうだが、この庭園にはいつもネアの大好きな薔薇の香りがしていた。
「香りの種類によって、薔薇の系譜が違う。俺の資質との相性がいいのは、お前が好む方の香りの薔薇なんだろう。薔薇との相性がいい魔物は他にもいるが、ネビアの白薔薇はどちらかと言えば、青みのない華やかな香りだ」
「如何にも貴族的な雰囲気の方なので、そちらの香りの方がお似合いになるような気がします。………む?」
伸ばされた指が、風に揺れたネアの髪の毛を耳にかけてくれる。
体を屈めて薔薇の香りを嗅いでいたので、口元にもしゃりと貼り付かないようにしてくれたらしい。
顔を上げると、こちらを見ている魔物は、こんな夜の庭園で遭遇したら命取りになりそうな凄艶な美貌なのに、どうしてだかじゅわりと心に溶け込むような柔らかな温度があった。
白い睫毛には薔薇の茂みが宿した祝福の光や夜の光が落ち、その下の瞳は暗い光を透かしたように鮮やかだ。
とても綺麗なので大好きなのだが、じっと見つめていると怒られる事もある。
「…………おい」
「むむ?」
そして、まさにそうなったのが、髪の毛を洗って貰っている時だった。
美容院かなというくらいに専門的な髪洗い場を整えてくれたアルテアに、寝椅子のような物に仰向けになって髪の毛を洗って貰っていたネアは、上からこちらを覗き込むようにしているアルテアをずっと凝視していた。
「妙な煽り方をするな」
「あら、威嚇をして瞳を覗き込んでいたのではないのですよ?アルテアさんの瞳の色はとても綺麗なので、こんな時にはついついじっと見てしまうのです」
「…………俺ならば兎も角、他の連中には絶対にやるなよ」
「威嚇したと思われて、戦いになってしまいます?」
「何でだよ」
丁寧に丁寧に。
今ならばもうこの魔物らしいと思うが、アルテアは、爪先が頭皮を傷付けないように髪の毛を洗ってくれる。
深い森のような芳醇な香りの泡が立ち、ネアはあまりの気持ちの良さにうっとりとしてしまう。
このまま、くてんと眠ってしまいたいくらいだが、後から体は流石に自分で洗わねばなるまい。
「ふぁふ。とても気持ちいいので、もっとずっとしていて欲しいです」
「……………節操なしめ」
「なぜ叱られたのだ」
そんな洗髪の時間にすっかり蕩かされてしまったネアだったが、浴槽に指示されていた入浴剤を木のスプーンで放り込み、尚且つ、先程収穫したばかりの薔薇の香気の結晶をぽとりと落とすと、あまりにもいい香りで心を奪われてしまった。
素敵な浴室で、こんなにいい匂いのするお湯に浸かれる贅沢さに、くしゃくしゃになってしまいそうだ。
「そうして艶ぴかになった私ですが、守護はこれからなのです?」
夜の光の中で、祝福結晶が結ばれ育つ音がする。
しゃりんと響く微かな音は水晶のベルを鳴らすようで、ぐっと明かりを落とした部屋の中を照らしているのは、星屑を使った丸いランプと、窓の外の庭園を青白く照らした夜の光だけ。
ネアの後でアルテアも入浴してしまい、その間にネアは、美味しいオレンジの氷菓子をいただいていたところだ。
グラスの中の氷菓子は、小さなスプーンでしゃくしゃく食べているとあっという間になくなってしまい、その後は、こちらも用意されていた温かなカモミールのお茶を飲んでいた。
「浴室に置いてあった瓶の位置が少しも変わっていなかったが、クリームはしっかり塗ったんだな?」
「け、化粧水は、しっかり浸透させました!」
「ほお?俺は、クリームも塗っておけと言わなかったか?」
「………ぬ、ぬったとおもいます」
「だったら、クリームに使った痕跡がある筈だろうな」
「ぎゃ!」
いよいよの守護の前に、ちょっぴり美味しそうな葡萄の香りのするクリームを顔に塗り込まれてしまう一幕があり、ネアは捕まえられ、アルテアの膝の上に乗せられたままぜいぜいする。
「ほんの一手間だろうが。毎回さぼろうとするな」
「ぐぬぬ。顔を拭いた後に化粧水さえつけておけば、肌の表面がぱりぱりする事はないのですよ?………少しだけ目の下がかさかさするだけです」
「だから塗るんだ。守護の意味合いもあると、伝えておいた筈だが?」
「………クリームを取るヘラのような物の手入れが、いつも疎かになってしまうので、………なぜ、そんなに絶望に満ちた目でこちらを見るのでしょう……」
「…………ハンドクリームは好むくせに、顔には塗れないのが、まさかそんな理由だったのか………?!」
「ぎゃ!はなをつまむのはゆるしません!!」
爪先をばたばたさせると、うっかり横向きに乗せられたアルテアの膝から落ちそうになったが、アルテアはすぐに片手でしっかりと支えてくれた。
器用にクリームの瓶を片付け、今度は何やら、ネアの髪の毛の先に何かを馴染ませている。
「………私の毛先を、なぜ揉み揉みしているのです?」
「おかしな言い方をするな。少量だが、雪明かりの香油だ。いいか、手入れをする際には、この程度の量でいい。手のひらに馴染ませてから毛先に……いや、お前に言うだけ無駄だろうな………」
「まぁ、私とて立派な淑女なのですよ。髪の毛の手入れはきちんとしております!」
「ほお?濡れた髪を乾かした後で、何かした事はあるのか?」
「………濡れている時に軽く目の荒い木の櫛で梳かしてから乾かし、髪の毛が傷みそうなのでその夜は三つ編みにしないようにしています」
「それは、シルハーンにしている事だろうが」
「む?」
小さく息を吐き、こちらを見た魔物の瞳が僅かに揺れた。
おやっと思い目を瞠ったネアに、伸ばされた指先が喉元をそっと撫でてゆく。
「…………ここだ。あの死者は、弓を扱う事に長けた街の騎士だったらしい。最初からお前の首元や頭部など、致命傷になる場所ばかりを狙っていたそうだ」
「それを、………ウィリアムさんが代わりに受けてくれたのですよね………」
「あの矢に付随した魔術、矢その物とそこにかけられた殲滅術式。そのどちらが触れても、お前は命を落としただろう。………こうして触れられるようになるまで、少なくともひと月はかかった筈だ」
言葉の途中で、ふわりと額に口付けが落とされる。
慈しむような優しい口付けには、きっと祝福や守護がかけられているのだろう。
「そんな事になったら、私は憤死してしまいます。これから、冬告げの舞踏会も、アルテアさんのお誕生日やイブメリアも、そして私の誕生日や結婚記念日だってあるのですよ………」
「………二度と、そんな危険には晒さない。これで一つの可能性は潰せるからな。守護の組み替えで、他にも多くの侵食や打撃を防げるようにはなるだろう。とは言え、それでもやはり完全ではない。…………だが、取り零されて残ったものも全て、都度潰してゆくぞ」
「はい!」
「…………俺が、仮にも選択だというのなら、常にお前が失われないように手をかけておいてやる。俺が選び、俺がそう望む限り、お前が失われる事も、お前が失う事もない」
静かな静かな声で誓われた言葉は、心が震えてしまいそうになるくらい、静謐であった。
喉元に触れていた手が頬に添えられ、ネアが頷くと、こちらをひたと見据えていた選択の魔物が、ふっと鮮やかに深く微笑む。
「今回、守護の核として馴染ませるのはこれだ」
「……………む。指輪」
「リンデルだ。幸い、お前が俺に渡した物があるからな。その魔術と引き合わせて結び、形式や展開を揃えると効果がより深くなる。指に嵌めた後は魔術として解けて体に馴染むから、シルハーンの指輪の邪魔になる事はない」
「という事は、………こんなに綺麗な物なのに、消えてしまうのですか?」
ネアは、ディノの指輪以外の物を嵌めておくつもりはなかったが、アルテアの指先に煌めく艶消しの淡い金色のリンデルは、繊細な彫り物といい、たいそう美しい物だ。
こんなに手の込んだ品物が一瞬で消えてしまうとなると、それはそれで残念になってしまい、思わず眉を下げる。
「あくまでも、守護と魔術的な結びを重ねるのが目的だ。俺は、お前の………使い魔だからな。その運命を共にする者として、リンデルの形は収まりがいい。騎士としての役割を得たウィリアムの場合は、剣や武器だろう」
「むむ、そうした関わり方の中で、媒介や経由に使う品物の相性があるのですね」
それは、不思議な不思議な光景だった。
ネアはまず、アルテアの膝の上から下され、向かい合って立つ事になる。
決して特別な場所ではなかったものの、それでも、窓の外の夜の光が落ちるアルテアの屋敷の居間は、窓枠を額縁にした庭園が、えもいわれぬ美しい一枚の絵のようだった。
ゆらゆらと揺れる星屑のランプの光に、そんな光を映して光を孕む、白い髪と赤紫色の瞳。
なぜか目の前に跪いたアルテアに、指輪を嵌められた。
どうして跪いたのだとおろおろしていると、使い魔だからなと意地悪な微笑みを浮かべられる。
「…………あ、」
ひんやりとしたような、けれども不思議な熱を感じられたような、アルテアから贈られたリンデルはすぐにしゅわりと光の粒子になって溶けてしまい、その光の粒が複雑な術式陣のような物をネアの手の甲に描く。
するすると広がり展開された術陣は、やがて縁からもろもろと解けてゆき、小さく芽吹いて枝葉を伸ばし、ライラックのような花を咲かせた。
「……なんて綺麗なのでしょう」
「薔薇も考えたが、木になる花の方がいいからな。雪ライラックなら、リーエンベルクの庭園にも多い。お前向きの術式の彩りだろう」
全ての蕾が満開になったところで、その煌めきは、ざあっと崩れて消えてしまった。
最後には、光の粒がはらはらと雪のように舞い落ち、ネアの手の甲に吸い込まれてゆく。
思わず、終わってしまったとアルテアを見上げると、そのまま顎先に指をかけられ、顔を持ち上げられたところで口付けを落とされた。
「…………むぐっ?!」
「少しの情緒もない反応だな。………ったく」
「呼気を分け与えるのも、守護の一環なのです………?」
「……………ああ。そうだ」
「………そして、胸の中が少しだけほかほかします」
「慶事の形にして結んだ魔術だからな。…………その程度の反応で済ませるのは、お前くらいだろうが、……ある程度は………その傾向の反応も出る」
「ふむ。これは多分、氷菓子をもう一つ食べると落ち着くと思います」
「何でだよ」
とは言えその後、アルテアは果物たっぷりの美味しいアイスティーを作ってくれた。
細長いスプーンで中に入った果物を掘り返して食べられるので、ネアは大満足でごろごろ果実の冷たい紅茶をいただく。
そして、魔術の理に於いて、この夜は出来るだけ近くにいた方がいいのだと聞き、就寝は横並びでとなった。
「…………むぅ」
「不服そうだな………」
「手がすぐに動かせるよう、出来るだけ伸びやかに眠りたいのです。これでは、敵が来た時にすぐに迎撃出来ません…………」
「いいか、お前は騎士じゃないだろうが………」
「個別包装でもないばかりか、なぜお腹の上にアルテアさんの手がかけられて拘束されているのです?」
「魔術定着の為にここにいるのに、お前が逃げ出しかねないからだな」
「では、アルテアさんをちびふわにし、抱っこして眠れば……」
「やめろ」
「むぐぅ………」
寝る前にはたっぷりとディノとカードのやり取りをしたが、翌朝には当たり前のように朝食の席に着いていてアルテアを驚かせていたので、ネアは伴侶の魔物を沢山撫でてやった。
美味しい朝食に庭の散歩の野望も果たし、とても素敵な滞在になったと思う。
今回の守護の付与では、アルテアが沢山のこれからを語ってくれたので、ネアは、そのような物を渡していいのかだとか、そこ迄をしなくていいのだとは言わなかった。
(アルテアさんは、それでもやはり、お家飼いの使い魔さんではなく、森から呼び出す系の使い魔さんなのだけれど、…………)
それでもあの日、もうこの時代には残っていないロクマリアの王都の街並みを窓の向こうに映した魔物の心に、失われゆくものと人間の儚さが映ったのなら、あのリンデルを受け取るのが使い魔のご主人様であるネアの責務だったのだろう。
リーエンベルクに帰ってからそんな話をディノとすると、ネアの優しい魔物は少しだけ考えてから、そうだねと微笑んだ。
「……………多分、アルテアにとっては、ここ迄の物を与えて、失われないようにとかける執着は初めてなのだろう。彼は、私達のように何かを失わなかった代わりに、そうなる前に必ず心の調整を付けてきた。………だからこそ、彼にとっての初めてが君で良かったのだろうね」
「そうなのですか?」
「うん。君は、そうやってアルテアの選択を汲んであげられるだろう?…………私の時は失うまでどうすればいいのか分からなかったけれど、………グレアムもいつも色々と汲み上げてくれたのだと思う」
「ふふ。私はそんな慈悲深く聡明な人間ですので、今日はこの後で、ディノの為に、特製のジャガイモとコンビーフのチーズたっぷりグラタンを焼く予定なのですよ?」
「………ずるい」
「愛情たっぷりグラタンなので、一緒に食べて下さいね」
「うん………」
リーエンベルクに戻ってくると、エーダリアの指に見慣れない指輪があった。
細い銀白の指輪で繊細な植物模様の細工があるのだが、これは、以前から計画されていたヒルドとノアの合作のリンデル風のお守り指輪なのだとか。
前から構想はあったものの、今回の事件を受け、ネアのように体に付与出来ない分の守護を込めて急ぎ作られた指輪に、ウィーム領主は少しだけ気恥ずかしそうにしている。
(ああ、こうして、みんなが守り方を知り、この大事な家族の輪が失われないように手のひらを重ねてゆくのだ………)
そう考えると、きらきらとした素敵な物が心の中に降り積もるようであった。
それはきっと、ここに暮す家族が、かつて失い得ないと思った者を亡くした者達ばかりであるからこそ。
そして、ディノの言う通りであるのなら、そのようなものを失った事のないアルテアも、初めての選択を重ねてゆくのだろう。
(だから私はここで、気にかかった事は決して胸の内に留めないようにしてゆこう。あの日のように、どうしてだか行かないで欲しいと思うのなら、決してその人を引き留める為に伸ばした手を下ろさないように…………)
もうあの日の黒い車の影は見えなくなったけれど、それでも時折感じる予感がある。
ネアが重ねる手のひらは、もう二度と、その予感を蔑ろにしないという事だ。
「なので、ノア。今日のデートでは、刺されてしまうと思うので、気を付けて下さいね」
「わーお。刺されるって宣言されたぞ………」
「当然でしょう。求婚されたのをそのままに、二年も放置していた相手と会うのですからね」
「………よく会おうと思ったものだな」
「え、昔のことは忘れて仲良くお喋りしようって言われたんだけど、違うのかな?!」
「ノアベルトが………」
「いいですか、ノア。人気のない墓地に呼び出されているのですよ?確実に復讐です」
「ありゃ………」
家族の忠告を聞いてから待ち合わせの場所に出かけて行った塩の魔物は、刺されはしなかったが、代わりに毒殺されそうだったとへなへなになって帰ってきた。
それでも行ってしまうのはどうかと思うが、無事に戻ってきてくれたので良しとしよう。
“使い魔さん、チーズの入ったミートパイの美味しい季節ですね!”
ネアは、そんなメッセージをカードに書き入れ、しくしく泣いている義兄を慰めに向かったのだった。




