騎士の出迎えと雨の日の夜
からからころん。
不思議なドアベルのような音が聞こえてきて、ネアは目を瞬いた。
ムグリスになって胸元に収まっている魔物も三つ編みをしびびっと逆立て、隣にいたヒルドがすかさず抱き抱えてくれる。
(……………あ!)
それはほんの一瞬のことで、先程迄はリーエンベルクの廊下を歩いていた筈なのに、今のネア達が立っているのはなぜか騎士棟のようだ。
おまけに廊下には見慣れない雨の日用の絨毯が敷かれていて、窓にかかっているカーテンは初夏などに見られる薄い物ではないか。
さぁっと窓を叩くのは柔らかな雨音で、空気の匂いに違う季節の気配が混ざり込む。
その異質さにひやりとしたが、すぐに、ここがまだリーエンベルクの中である事に気付いた。
「……………まぁ。ここは、騎士棟なのです?」
「足元の魔術に揺らぎがありますので、恐らくは影絵でしょう。ネア様、くれぐれも私から離れませんよう」
「は、はい!会食堂のおやつを目当てに歩いていただけなのに、なぜに影絵に……………」
「このような場合は、リーエンベルクからの招待である場合が多いと聞いております。恐らく、我々に対して害を及ぼすような場所ではない筈ですが、それでも念の為に……………」
「という事は、この騎士棟を見せてくれようとしているのでしょうか……………」
とは言え、騎士棟で何か事件などが起こっている様子もなく、あたりはしんと静まり返っている。
時刻は夜半過ぎくらいだと思われ、窓の向こう側ではさあさあと静かな雨音が聞こえていた。
かからころん。
ここでまた、あのベルの音が聞こえてきた。
先程はここではないどこかから聞こえているように思えたが、本棟に繋がる外回廊に向かう通用口の扉からだと判明し、ネア達はそちらを見た。
(恐らくはドアベルのようなものだけれど、今はそのような物はなかったと思う…………)
ほんの少しだけ、統一戦争の悪夢を思い出してしまい、ネアは僅かに鼓動を早めた胸を押さえた。
まだ、先日の事件で震えた心が鎮まったばかりなのだ。
どうか怖い事がおきませんようにと願っていると、ヒルドがしっかりと抱き締め直してくれた。
「ヒルドさん…………」
「悪しき予兆などは感じられないようです。何らかの条件が満たされたなら、解除されるのではないかと思いますので、もう少しだけ我慢いただけますか?」
「キュ!」
「は、はい!ディノとヒルドさんが一緒なのですから、安心して待ってみますね」
その時の事だった。
ドアベルが鳴ったのだから当たり前なのだが、ばさりと濡れた傘を振るい、背の高い男性が騎士棟に入ってくる。
ウィームは冬が長いので、屋内の暖かな空気が逃げないよう騎士棟の入り口は二重扉になっており、こちらに入ってくる迄に少し時間がかかったのだろう。
(リーエンベルクの騎士服ではない………)
だが、不思議と騎士のような装いなのだ。
丁寧に傘を畳む姿には生来の几帳面さが覗え、薄い唇は引き締められている。
はっとする程に美しい男性だが、ネアのよく知る魔物達に感じるような温度のある魅力ではなく、ひたむきで真っ直ぐな一本の木のような美しさがそこにあった。
「……………アルミエ」
不意に、後方から誰かを呼ぶ声がかかり、ネア達は慌てて振り返った。
明らかにすぐ後ろに立っているのに、そこに現れた女性はネア達の姿を訝しむ様子はない。
それどころか、こちらの姿は全く見えていないようだ。
こちらは明らかにリーエンベルクの騎士という服装をしていて、ネアが統一戦争の悪夢の中でだけ見たことのある、王冠の印を宿した国の紋章が目を引いた。
それはもう、ずっと昔に失われたものだから。
「……………我々を透かしてあの扉の方を見ているとなれば、これは過去の投影のようなものなのでしょう」
「この声も、聞こえていないのでしょうか」
「キュ」
まさかのここでヒルドが口を開き、ネアは、この男女に気付かれたらとひやりとしたが、後方に立った女性の表情に驚きや焦りはない。
ただ、扉を開けて入ってきた誰かに、待ち侘びていたような穏やかな微笑みを浮かべている。
どうやらヒルドは、彼等にこちらの姿や声が認識されないという確信を持って声を出したらしい。
胸元でもふもふしているムグリスの伴侶も、なぜか人型の魔物に戻る気配はなかった。
「酷い雨だっただろう。こんな日に、外に出なくても良かったのに」
ゆっくりと何歩か歩いてネア達の隣を通り抜けると、後ろから現れた女性は、戻って来た黒衣の騎士に話しかけている。
互いの表情や立ち止まる距離の近さを見ていると、随分と親しい二人のようだ。
ネアは、女性の服装が淡い艶消しの金色の装飾であることに気付き、これはまさかと目を瞠る。
現在のリーエンベルクでこの装いをしているのは、隊長であるグラストだけだ。
(という事は、この女性はかなり上の立場の騎士さんなのだろうか………)
あまり詳しく覚えてはいないが、今のリーエンベルクの騎士達の制服は、統一戦争後に定められた物だ。
当時の領主を任されていたのは擬態をしていた剣の魔物なので、その規格はかなり丁寧に練られているのだが、やはり国家を守る騎士であった頃の装飾の華やかさはない。
かつては、魔術可動域が高い為に王家に近しい血筋から輩出される者が多かった近衛騎士達や、より壮麗な装いでウィームの民達の憧れであった騎士団長がいたようだとも聞いている。
実際に影絵でネアが見かけた騎士達の中にも、今のリーエンベルクの騎士にはない装備の者達がいた。
そうなると、この金色の装飾が即ち階位の高さを示してはいないのかもしれないが、それでもどこか席次の高い騎士なのだなと思わせる不思議な力強さがあった。
(こんなに綺麗で、女性的な柔らかさのある人なのに…………)
なぜだか、記憶に髪色や瞳の色は残らない。
確かに顔を見て、僅かに垂れ目がちで美しい容貌の女性だという事も理解出来るのに、その身に宿した色彩を思い浮かべようとすると、さらさらと記憶からこぼれていってしまうのだ。
だが、絹のような手触りの柔らかな声は、大事な人に向けるものだろう。
ただの同僚や部下ではなく愛する人にかけるような温かさで、微笑む女性は嫋やかで美しいばかりの貴婦人にも見える。
「……………いや、一年はここで働くと決めたのだから、夜の見回りも気を抜くわけにはいかない」
「だが、今は秋の入りとは言え、まだそこまで寒くなっていないんだ。こんな晩夏の魔術が盛り返す夜は、体が重いのではないか?」
「この程度なら何とかなるだろう。一年という約束であったのに、夏の間は城に戻らねばならなかった。あなたの上官に、軟弱者と謗られてしまったばかりなのだ」
そう告げた男性に、女性騎士はくすりと笑った。
今のウィームのように片方の肩にだけかけるケープの羽織り方ではなく、きっちりと両肩を覆うデザインだ。
今の騎士服は魔術の扱いに適した形状なのだと聞いていたネアはなぜか、この女性の騎士服は、竜に跨り剣を振るう為の物だと考えてしまう。
(勝手に知識が頭に流れ込んでくるようだけれど、もし、リーエンベルクがこの記憶こそを知らしめたいのなら、そのようなこともあるのだろうか…………)
「あの方が君にきつく当たるのは、私が後を継ぐと思っていたのに嫁ぐ事になったから、拗ねているだけなんだ。……………でも、根は優しい人だから、どうか分かってあげて欲しい」
「勿論だ。君の育ての親で、彼は誰よりも君の将来を気にかけている優しい人間だ。ただ、夏に大きく力を削ぐ私の下に嫁がせた事が、心配で堪らないのだろう」
「それにしても無茶な要求ではないか。君も一人の王なのに、ここで一年間は騎士を務めてみせろだなんて」
「いや、……………彼は多分、人間の事を多くは知らない私に、教えようとしてくれたのだろう。……………あなたの日々の暮らしや、騎士としての責務や喜びを。或いは有りの侭のあなたの姿や、要求を。…………私はここで騎士として働くようになるまで、あなたが、焼き立てのパウンドケーキが大好きで、型から出すなりすぐに食べてしまう事は知らなかった」
そう告げた男性の声は生真面目であったが、その言葉はどこか親しい人を揶揄うような温かさがある。
そんな事を言われてしまった女性は小さく笑い、今度は、全部食べてしまわずに分けるからと謝っていた。
ネア達は顔を見合わせ、なぜか、胸元のムグリスディノはしゃきんと立てた三つ編みをへなへなにしてしまっていた。
(この人はまさか…………)
「……………アルミエ。その名前は聞いた事がありますね。……………確か、氷の魔物の名前では?」
「キュ!」
「……………まぁ。となるとやはり、あの方は、氷の魔物さんなのですね。……………という事はまさか、このお二人は、今回の事件の…………」
あの死者が羨み、引き離そうとした二人なのだろうか。
そう思いかけ、ネアは、つきんと痛んだ胸を押さえる。
季節は違うものの、確かに男性はディノが擬態で着ていたような形のコート姿で、紫がかった灰色の長い髪をきつめの三つ編みにしている。
真っ直ぐな髪質なので、ディノのようなふんわりした三つ編みにはならないが、それでもよく似ていると言えなくもなかった。
「約束しよう。焼き菓子が大好きなあなたの為に、クロウウィンとイブメリアには、かならずウィームの街に連れて来ると。だから、どうか私に愛想を尽かさないでくれると嬉しい」
「アルミエ、……………イブメリアは、君も忙しいだろう?」
「伴侶の為に、街に菓子を買いに出掛ける時間くらい取れるさ。あなたも、仲間たちや家族がどうしているのかを知りたいだろう。この国の王の式典のある祝祭の日なら、一度に大勢の騎士達の顔を見られる筈だ」
「勝手にそういう事を決めては駄目だ。君には王としての役目があり、多くの系譜の者達の予定を狂わせてしまうではないか」
「困ったな。これでも、私が休憩を取れるように、大勢の部下達がいるのだが。あの者達は優秀だから、私に少しの息抜きくらいはさせてくれるよ」
「私の、……………焼き菓子の為に?」
「はは、そうだな。私の最愛の伴侶が大好きな、祝祭の屋台の焼き菓子の為に」
それを誓い、ふわりと微笑んだ男性は身に纏う空気をがらりと変えてみせた。
どこか排他的な冷ややかさが抜け落ち、どきりとするような愛おしげな目で伴侶の髪を撫でている。
それは、凛とした美しい佇まいの大木に、美しい花が満開になるような微笑みであった。
「……………困ったな。君が、こんなに優秀な伴侶だとは思わなかった。大事にしないとだね」
「……………そうだ。くれぐれも、他の男の三つ編みに浮気しないでくれ」
「アルミエ。あれは、王子達に揶揄われただけだ。私は別に、部下の三つ編みに懸想はしていない」
「いいか?あなたが、どんなに三つ編みが好きでも、これからは私のもので我慢するように」
「アルミエ!あれはただ、部下の髪があまりにも綺麗だったから、姉のような気分を味わいたくて、ついつい三つ編みにさせて貰っただけなんだ……………」
女性は一生懸命言い訳していたが、どうやら、その件に於いては氷の魔物は納得していないようだった。
だが、そんな様子を見ているだけでも、この二人が仲良しなのは疑うべくもない。
女性らしい柔和な面立ちだが、どこか凛とした佇まいの女騎士は、美しい結晶化した薔薇の剣を腰に下げていて、ネアは薔薇の騎士という称号を思い出した。
(そうか。……………この人たちなのだ)
氷の魔物は、そんな彼女の育ての親である騎士団の団長から、リーエンベルクで一年の間働く事を強いられているらしい。
だがそれは、愛する養い子の為に、その伴侶との未来をより豊かに育てる為の準備期間のようなものだったのではないだろうか。
(確か、奥様を亡くされて階位を落とす迄は、氷の魔物さんは高階位の魔物さんだった筈だから………)
そんな相手に対して、娘を守る為に厳しく接している騎士団長は、どんな人物なのだろう。
氷の魔物と対等に渡り合えるくらいの豪傑なのかなと思ったが、ネアはなぜか、アレクシスやジッタを思い出してしまっていた。
「この様子を見ますと、氷の魔物とその伴侶は、仲睦まじく過ごしていたようですね」
「ええ。ウィームで歌劇の題材になるくらいのお二人なのですが、本当のところはどうだったのだろうと心配になっていました。………ですが、とても幸せそうです」
「キュ!」
きっとこの二人は、手を繋いで街に買い物に出掛けたりもしたのだろう。
祝祭の焼き菓子の大好きな伴侶の為に、クロウウィンにはあの並木道を抜けて街に出たのかもしれない。
であればやはり、そのようにして二人がクロウウィンの街を歩いている筈だと思った死者の狙いは、ある程度正確だったのだ。
「アルミエ、美味しい紅茶を淹れたから、一緒に休憩しよう」
「あなたは、もう寝た方がいい。明日の朝は早いのだろう?王の式典があると聞いている」
「折角待っていたんだ。少しくらい伴侶とお喋りしてくれてもいいだろう」
「……………そういうところが、あなたは狡いのだ」
「どうして責められているのか、さっぱり分からない」
「あなたは狡い…………」
「私の旦那様は、時々おかしな事を言い出すなぁ………」
「そういうところなのだからな?!」
幸せそうな二人のやり取りを、ムグリスディノは、真剣に見ていた。
ネアは、何だか聞き覚えのある単語が聞こえたような気がするぞとぎりぎりと眉を寄せたが、幸いにも、ムグリスな伴侶が見ているのは、二人の幸せそうな姿のようだ。
静かな静かな、雨の夜だった。
二人は手を繋いで部屋に入っていったので、きっとこの後は紅茶を飲むのだろう。
綺麗に畳んだ傘は乾燥棚にかけられていて、夜の光に艶々と光る。
伴侶という言葉が聞こえていたからには、あの二人は既に夫婦なのではないだろうか。
どんな風に出会い結ばれたのかも気になったが、それは二人だけの物語でいいのだと思う。
ただ、ネア達はその夫婦がとても愛し合っており、決して伴侶の女性は無理矢理連れ去られた訳ではないと知っていればいいのだ。
祝祭の焼き菓子が大好きな女性騎士は、愛する伴侶の夜の見回りが終わるのを楽しみに待っていたのだと。
ここでまた、通用口の扉は開いていないのに、カランコロンとベルの音がして、ふっと視界が揺れた。
「……………ほわ、戻ってきました?」
「どうやら、元の場所に戻されたようですね」
「リーエンベルクさんは、あのお二人の姿を見せてくれたのでしょうか」
「ネア様や、エーダリア様のように、あのお二人もまた、この地に愛された者達だったのかもしれませんね。………あの死者の言い分に穢されたままでは我慢ならないと、我々に土地の記憶を共有したのかもしれない」
そんなヒルドの推理はとても素敵だったので、森と湖のシーの腕の中から出して貰いつつ、ネアは、しっかりと頷く。
「奥様はご主人が大好きで、そんな奥様を大事にしておられる、とても優しい魔物さんでした。氷の系譜の方々が、氷の魔物さんを慕っていらっしゃるのも分かるような気がします」
「キュキュ?!」
「あらあら、ムグリスディノが荒ぶらなくても、私の伴侶はディノだけですよ?」
ネアは、ちびこい両手を振り回した伴侶にそう言ってやったのだが、うっかり氷の魔物を褒められてしまった伴侶は、納得出来なかったらしい。
ぽふんと音を立てて人型に戻ると、すぐさまネアの羽織り物になってくる。
「……………ネアが浮気する」
「まぁ、誤解を生むような事を言ってはいけませんよ。あのお二人は、互いに互いしかいないようなご夫婦です。…………それとも、私が、氷の魔物さんを優しい魔物さんだと言った事で心配になってしまいました?」
「君も、他の誰かの長い髪は、三つ編みにしてしまうのかい?」
「……………とても思いがけないところから疑いをかけられてきましたが、そんな通り魔のような事はしません」
「そうなのかな……………」
「私が毎日三つ編みにしてしまうのは、大事な魔物だけなので、どうか安心して下さいね」
ネアがそう言えばこくりと頷いたが、どうやらディノの中では、あんなに仲睦まじい夫婦ですら、伴侶ではない誰かの髪の毛を三つ編みにするのだという衝撃の場面でもあったようだ。
すっかり疑い深くなり、ぐいぐいと三つ編みを持たせてくる魔物を撫でてやりつつ、ネアは、あの幸せな二人がノアの話していたような事で引き裂かれてしまったのだと胸を痛めていた。
本来の氷の魔物の髪は短く、長い髪にしていたのは擬態をしていた時だけだという。
子供代わりに慈しんだ者達がいたことで伴侶の死でも崩壊をせずに済んだようだが、それでも、いつかのように伴侶の手で長い髪を三つ編みにして欲しいと願う日もあるのだろうか。
それは例えば、あんな雨の日や、焼き菓子の屋台の出る祝祭の日に。
そう思うとネアは、この大事な伴侶が、いつかネアを亡くした時にどうするのかが心配になってしまう。
歩き踏みしめてゆく思い出がいつか、残された誰かの足枷にはなるまいか。
それともそれは、生きてゆく為に必要な心の中に残る小さな炎になるのだろうか。
(でも、……………それはずっと先の事なのだ。私は絶対に、ディノを不慮の事故や事件などで一人にするものか……………)
愛する人が、行ってきますと言ったまま帰らなくなる。
そんな思いをするのは、自分だけで充分だと思えば、だからきっと、無防備な眼差しでこちらを見ている美しい魔物を、ぎゅっと抱き締めたくなるのかもしれない。
「……………ディノの髪の毛は、これからもずっと、私が三つ編みにしてあげますからね」
「ご主人様!」
「お、おのれ、なぜここでその呼び方なのだ………」
だが、すっかりはしゃいでしまった魔物は、そんな宣言をいたく気に入り、お茶の時間の後にさり気なく三つ編みを崩してきた。
解けてしまったのでもう一度三つ編みにして欲しいと、きらきらの瞳で言われたネアは、断り切れずに真珠色の宝石を紡いだような髪の毛を丁寧に三つ編みにしてやることになる。
その様子を見ていた銀狐が、慌てて毛玉を作りヒルドに甘えに行っていたが、その様子をしっかり見ていたヒルドに叱られてけばけばになっていた。
「ディノ。今度のお休みの日に、お世話になった方々への、お礼のお菓子を買いに行って下さいね」
「君が、お礼をしてしまうのかい?」
「ええ。グラフィーツさんは、悪者を捕らえてくれましたし、ディートリンデさんやユーグさんは、私達がずっとはらはらしなくていいよう、犯人めの素性を突き止めてくれました」
「……………グラフィーツとユーグには、私から話をしておくよ」
「グラフィーツさんは、季節のお菓子と鈴蘭の刺繍のハンカチーフと、どちらがいいでしょう?」
「グラフィーツなんて………」
「ユーグさんはディノからでもいいですが、……………先生は、とても心配もしてくれていたので、きちんとお礼をしたいです」
あらためて、あの氷の魔物とその伴侶の姿を見せられてしまうと、ネアは勝手に、同じように大事な誰かを喪ったと思われるグラフィーツの事も考えてしまうのだ。
今回の事件が伴侶を喪った氷の魔物の心を揺らしたのなら、きっと、歌乞いを喪ったグラフィーツの心も大きく揺らしたのだろう。
「……………グラフィーツが、心配かい?」
「私が寝込んでいる間、ディノが嵐を招いてしまったように、グラフィーツさんもきっと、この事件に触れたことで、大事な歌乞いさんを思われたのでしょう。氷の魔物さんもですが、……………私はとても身勝手なので、そんな悲しみや孤独を自分が受け流せないからと、気を紛らわす為に、お礼の品物を贈りたくなってしまうのだと思います」
そう言えば、ディノは買い物には付き合ってくれる事になった。
品物を渡すのはディノからになるが、もしかしたら、氷の魔物のように何か大切な思い出があったかもしれない日を台無しにされた砂糖の魔物の心を少しでも慰められればいいと思う。
「はい。ディノには、この贈り物です」
「……………ネア?」
そして、ネアは、リノアールでもう一つの贈り物を買っていた。
それは、どこかクロウウィンを思わせるしっとりとした漆黒の天鵞絨のリボンで、縁取りの糸がぎらぎらと光らない上品な銀色の糸になっている。
リボン専門店で買うような純然たるリボンではなく、縁に細やかな結晶石の刺繍のある、髪飾りとして完成されたリボンだ。
「クロウウィンの記念品を買おうとしていたのに、あの日は買いに行けなかったでしょう?ですのでこれが、………そうですね、今年のクロウウィンでは大変な事もあったけれど無事に元気になれましたの記念品なのです。ディノが、ずっと怖いのを我慢して傍に居てくれたお陰で、私は安心して体を休める事が出来ました」
「……………ネアが」
「ふふ、気に入ってくれると嬉しいです」
「……………ネアが、虐待する」
「なぜなのだ……………」
しかしここで、リボンの贈り物を貰ったディノは泣いてしまい、泣きながら羽織りものになった魔物を一緒にリーエンベルクに連れ帰ってくれたのは、通りすがりのグレアムであった。
若干グレアムも貰い泣きしているので、ネアは帰宅するなり義兄から、魔物達を泣かせてしまった疑惑をかけられる事になる。
大変遺憾なので、どうか伴侶には、しくしく泣きながら虐待と繰り返さないで欲しいところだ。
買い物から帰った日の夜は、静かな静かな雨が降る夜だった。
ネアはとっておきの紅茶を淹れて、ディノとお喋りしてみようと思い、微笑んで立ち上がると、まだリボンを抱き締めてめそめそしている魔物を巣から引っ張り出しに出かけた。




