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181. その目覚めに寄り添います(本編)



水色がかった灰色の空から、ぱらりと細やかな雨が落ちてきた。


ネアはその色に目を細め、美しいウィームの一日の手触りに深く息を吐く。

楽しみにしていたクロウウィンの夜が終わってしまっても、やはりウィームは美しいのだ。

しっとりとした冬の気配が届けば、空から羽が舞い落ちる頃合いも近いのかもしれない。


漆黒の天鵞絨のようだった夜空は少しずつ白みを帯びてゆき、金色だった星々が銀色や水色に近くなる。

そこに眼下の街並みの祝祭の明かりが映れば、美しい冬の夜空になるのだった。



先程、ディノ達は氷の魔物との話し合いに出かけていった。

正式には、今回の騒ぎを知った氷の魔物が謝罪に来ようとして設けられた場なのだが、その魔物の資質の何かが、残っている魔術と紐付くといけないので、こちらから出向く事になったのだ。


他の場所でという検討もなされたが、強固な魔術遮蔽が可能であり、尚且つ何かが起こっても自己責任で対応していただくには、氷の魔物本人のお城が一番であったらしい。

氷の魔物の魔術には、堅牢な砦という資質もあるのだ。



「シル達が心配かい?」


そう尋ねたのは一緒にお留守番のノアで、寧ろ、心配のあまりうろうろしているのはこちらの魔物であった。


先日の一件ですっかり心配性になってしまった義兄は、ネアが不安にならないかが心配でならず、その周囲をどうしてもうろうろしてしまうのだ。

そんな風に動くノアの結んだ髪の毛が、まるで銀狐のふさふさの尻尾のようで、ネアはなぜだか、ぎゅむっと捕まえてしまいたくなる。



「ええ。少しだけ心配です。でも、アルテアさんとグレアムさんが一緒ですし、私にはノアが傍に居てくれるので、綺麗な灰色の空だなともう一度思えるくらいには落ち着いてますよ?」

「ありゃ。僕のせいで気を遣わせていたのかな……………」

「ふふ。そんな風に心配してくれる家族がいるからこそ、私はこうして元気にしているので、ノアが隣に居るだけで安心してしまいますね」


ネアのそんな言葉に、青紫色の瞳をぱちりと瞠り、ノアは口元をむずむずさせた。

ふにゃりと緩んだ瞳を潤ませ、小さく頷く。


今日はお気に入りの白いシャツを羽織っただけの姿なので、脆弱な人間は寒くないだろうかと考えてしまうのだが、一応は公爵の魔物なのだ。



「………シルもきっと心配だっただろうけれどさ、……………君が、やっぱり魔物と近しくするのは危ないんだって、そう思ったらいけないと思ったんだ。でも君は、……………まだ僕の傍でも安心してくれるんだね」

「まぁ!私一人でいたら、矢を射られただけでお終いですよ?それなのに、そんな心配をしてしまうのですか?」

「え、……………それも怖いからもう言わないで……………」

「それに私は、私の大事な家族を手放したりはしません。ディノがいて、ノアもいて、みなさんがいてくれたお陰で体に穴が開いていませんので……………ふぎゅ」

「ネア、どうしたの?!」

「そ、その代わりに、ウィリアムさんが……………矢を……………」

「ああ、よしよし。そうだよね、怖かったね」



自損事故で悲しくなってしまった人間は涙ぐんでしまい、動揺したノアに丁寧に撫でて貰いつつ、その腕の中に収まった。


今はまだ記憶が鮮やか過ぎて、目を閉じるだけで、ウィリアムの首を貫いた矢を思い出してしまうのだ。

おまけにネアはまだ、運が悪く、起きているウィリアムに出会えていない。


ネアが目を覚ましたと知り、ウィリアムが嬉しそうにしていたという情報しかない状態なので、今日こそは起きている時を押さえてみせると意気込んでいる。


だが、同時にまだ回復していない体をゆっくりと休めても欲しい。

もし、ネアと会うことで無理をさせてしまうのなら、このまま元気になるまではあの部屋に閉じ込めておいてもいいかもしれない。



目を閉じて開く。



きらきらと心の中でこぼれてゆく色とりどりの火花に、ノアとザルツに出かけた日に思い出したばかりの花火の色が散らばった。



あの頃のネアなら、全てを失っていたかもしれない。



どれだけ大事でも、どれだけ愛していても、重ねたものが足りないということは往々にして珍しくはない現象だ。

ゆっくりと歩き続け、その中で育み、身に纏ってきたものが、今回はネアを守ってくれた。


そしてネアは、自分が守られた事で心を脅かされずに済んだ者が多いのを理解しているつもりだ。


ディノも、こうしてぎゅっとしてくれるノアも。

そんなノアが、僕の妹が目を覚ますまで何度もパイを焼いていたよと教えてくれたアルテアも。

エーダリアやヒルドに、ディノを大事にしてくれているグレアムやギード。

そして、ウィリアムも。



(だから私は、ウィリアムさんが怪我をせずに済んで、私がこの傷を受ければ良かっただなんて、そんな酷いことは言わないのだ……………)



そう言ってしまえた頃は、孤独だが、心は軽く自由だった。

大切なものが何もない代わりに、ネアが自分をどう扱おうが、時には苦しみに耐えかねて投げ出そうが、全てが自分の意思一つだった。


だが、今はもう違う。


大事な物をこれからも大事にしてゆく為に、とげとげの苦くて痛いものだって、頑張って呑み込んでゆかなければならない。

そうしてまた、大事な大事なこの世界と手を繋ぐのだ。



「ノアの腕の中は、いい匂いがしますね」

「うん。いつでも抱き締めてあげるから、遠慮しなくていいからね」

「ヴァーベナのような素敵に爽やかな香りと、……………青林檎の狐さんのシャンプーの匂いです」



しかしここで、ネアが、気付いてしまったことを口にした途端、凍えるような沈黙が部屋に落ちた。



二人は呆然と瞠った瞳を見合わせ、小さく震え始める。

ネアは、気のせいかもしれないと思ってもう一度ノアの腕の中に体を沈めてくんくんしてみたが、やはり、ノア本来の香りに加えて、青林檎のいい匂いもしているではないか。



「え、……………それまずくない?」

「……………たいへん危険な状態です。どうにかして、連動しないようにしないと香りから気付かれてしまいますよ!」



ネア達はわぁっとなり、大慌てで、塩の魔物から銀狐の犬用シャンプーの匂いがしないように魔術の試行錯誤が行われた。

やっと連携の解除が出来たのは暫くしてからで、無駄にぜいぜいしてしまったネアは、ふうっと息を吐く。


すっかり胃がきりきりしているが、恐らく、アルテアはまだ銀狐の秘密に気付いていない筈だ。

もう冬毛になるので告白するべき期限に違いないのだが、とは言え流石にこのタイミングはない。

今回の問題が綺麗に片付く前に、選択の魔物に失踪されては困るではないか。



「……………はぁ。危なかった!アルテアも今回の件で消耗してるしさ、ウィリアムも全快とは言い難い状態で、この話は出来ないよね……………」

「ノア、他にも当たり前になり過ぎていて見逃している事がないか、確かめておいた方がいいかもしれませんね。……………さすがに今は、アルテアさんの心の傷が深くなり過ぎてしまいますから……………」

「うん……………」


言い訳は簡単だ。

例えば、今日は銀狐を洗ったのでこんな香りが付いたのだろうと、そう言えばいい。

だがそれは、いつか真実の告白を済ませた時に、より、二人の間の溝を深める嘘にしかならないだろう。

その日が近付いている今、出来るだけ控えたい偽証であった。



大きな危機を脱したネア達は、どっと疲れてしまい、もそもそと長椅子に座る。


ここは、ウィリアムが休まされている部屋の続き間となっている部屋で、応接間のような機能が持たされていた。

窓からはリーエンベルクの中庭が見え、秋薔薇が花を減らし、冬薔薇の葉が育ち始めている。

リディエラの赤い実は深い赤紫色に変わり、そろそろ地面に落ちる頃合いだろうか。

先日ネアが森で野生のものを見付けたばかりの、白いアネモネの花も見える。


夏場は窓を開けて水音を楽しめる噴水と、ガゼボのような形をした庭師小屋が美しい。

この時期の噴水は落ち葉を浮かべていることも多く、庭園の手入れで落とされた、まだ美しさを残している花も庭師の手で浮かべられている。

これは、庭園や森の生き物達に、この花は持ち帰ってもいいよという合図になるのだとか。


噴水の縁にぶーんと飛んできた毛玉妖精が、せっせとより分けて一番綺麗なものを探しているのは、枯れ際に項垂れてしまった秋薔薇だろう。


少しくしゃりとなった花びらが庭園に落ちているのも美しいが、こうして隣人と呼ばれる生き物達にお裾分けされ、そんな生き物達の住み家でドライフラワーにされたり、美味しい花茶になったりするのは素敵な事だ。


古くから機能しているこの循環の規則があるからこそ、リーエンベルクの庭園で綺麗に咲いている花を勝手に毟ったりする生き物は少ないのだそうだ。

正式なお裾分けともなれば、リーエンベルク独自の祝福も宿るので、そちらを貰った方が小さな生き物達にとっても得る物が大きいのかもしれない。


沢山のお裾分けが出た日には、噴水ではなく、籠いっぱいに詰めて並べられた花や花びらを求めて、色々な生き物が集まるのだとか。

同じように、剪定された葉っぱや枝も生き物達に還元される。




「……………きっと、氷の魔物さんは悲しいでしょうね」


ネアがふと、そんな事を呟けば、ノアが優しい目をしてこちらを見る。


シャンプーの匂い問題が落ち着くと、二人はポットから温かな紅茶をいただくことにした。

エーダリア達は執務にあたっており、二人きりの静かなお茶会である。


かちゃりと茶器が触れ合う音に、とぷんと揺れる紅茶の水面は澄んだ綺麗な色をしていて、不思議と心を落ち着けてくれた。


「僕の妹が優しいのはいつもだけれど、シルとの事を考えると、余計に複雑になるのかな?」

「ええ。私が善良なる乙女であることは確かなのですが、その上で、……………大事なディノがそうなったらどうしようと思うので、亡くなった愛する方を、こんな形で思い出させられるのは、あまりにも酷だろうとも思うのです」

「そうだね。……………彼のところもね、不慮の事故だったんだよ。何でだか魔物の伴侶は、…………こちらが警戒しているような大きな事件じゃなくて、思いもかけないような小さな要因が棘になって失われる事が多いんだ。……………だから、それを誰よりも多く見て来たシルが、ヒルドの羽の庇護やダナエの祝福やなんかをずっと残しておいたのは、大正解だったんだよね」

「ええ。ダリルさんからも、ディノのそのような柔軟さがあってこそ、今回は救われたのだと教えて貰いました。……………あの憎たらしい祝福だけでなく、矢としての攻撃そのものも、結界で防がねばならなかったのですから」



魔物と引き離すだけが目的ではない。

ネアを殺す事もまた、あの死者の目的だったのだ。


死者は生者を傷付けてはならないという規則がある以上、自分は無事では済まなくなる行為だが、それでもと仕掛けられた襲撃だったのだ。


(……………だからこそウィリアムさんは、魔物の魔術を退けてしまうあの矢の威力を削ぐ為に、私を損なうかもしれないような魔術を扱わねばならなかった)



ネアの守護をあんなにも大きく損なった矢は、それでも内側から朽ちていたのだそうだ。


外側を魔物を排除する銀の炎に包まれてはいても、内側の芯となっているのは低位ながらも魔物そのものである。

そうして威力を落とさねば、矢傷だけだとしても、ネアの体に深刻な損傷を与えただろう。


一方で、特殊な矢の二重構造を成し遂げた技術は、やはりウィーム王族らしい技量だと魔物達を感嘆させていた。

誰かが真似をしようにもそうそう簡単に扱える魔術ではないが、今後は、このようなものが存在するのだという事を念頭に置いて対策を立てられる。

一度回避さえ出来れば、今後の為にここまで有益な糧もないだろう。



「……………あ、目が覚めたみたいだね。会いに行くかい?」

「ウィリアムさんが……………?」

「うん。目を覚ますのは、少し回復している時だから、今ならお喋り出来る筈だよ」

「い、行きます!」



看病が必要な段階は越えたのでと、ウィリアムはもう一人で休んでいる。


勿論、何か入用な物があれば枕元の台の上の水晶と夜結晶のベルを鳴らせばいいし、水差しや軽食などの準備は部屋になされている。

客間用の大きなものではないこの部屋を選んだのは、浴室までの距離が近く、弱った体を酷使しないようにという配慮なのだそうだ。


まずは、ノアがそうっと寝室を覗き込み、ちょいちょいっとネアを手招きした。

こそこそとノアに近付き、一緒に扉の影から部屋の中を覗き込むと、どこか無防備に白金色の瞳を揺らして、ディノがかけていった毛布の縁を撫でているウィリアムがいた。



(あの毛布はディノの愛用のもので、ウィリアムさんがゆっくり休めるようにと、ディノの手で沢山の魔術がかけられているのだ……………)



枕元の保温用のスープボウルに入っているのは、ネアも飲まされたアルテア製の薬湯効果もあるスープである。


今、スープの魔術師であるアレクシスの居場所が探されているが、ディノのカードにも返事がないところを見ると、絶賛、手のかかる仕込み中である可能性が高い。

アレクシスのスープのレシピと効能は魔物達にもよく分からないものが多く、今回の一件で影響を受けたウィリアムとネアの体に合うものを作って欲しいと、ウィームへの帰還が待ち望まれていた。


ネアは、既に今回の話を聞いたミカから、精霊の守護のある素敵なキッシュをいただいたが、こちらはさすがにウィリアムへの譲渡は難しいのだとか。


終焉と真夜中があまりにも結び過ぎると、終焉の質が少し変わってしまう恐れがある。

終焉との親和性が高く、安らかな眠りや死をも意味する夜だからこその弊害であった。



「……………ノアベルト?……………ネア、」


じっと見ている気配に気付いてしまったのだろう、顔を上げたウィリアムが驚いたように目を丸くする。

とは言えすぐに起き上がれないくらいには摩耗しているのだが、その声が思っていたよりも苦し気ではなかったことで、ネアはまず一つ、胸を撫で下ろす。



「ウィリアム、今、少しだけいいかい?」

「……………ああ。……………ネア、もう体調はいいのか?……………その、俺の魔術の影響は出ていないだろうか」



(……………ああ、)


こんな時に、真っ先に心配そうな顔をするから。

だからネアは、もう一度だけ胸の奥がくしゃりとなって、あの涙の泉に爪先を浸すのだ。


人間のことは人間にしか分からない。

死者として過ごす人間達にもそれを受け入れるまでの顛末があり、人間という生き物の脆さは人間こそが良く理解しているべきだ。


だからこそ、死者の日を正しく恐れ、ネアだってあの黒南瓜を持っているべきだった。

ただの亡くした家族に再会できる日というだけではなく、憎しみや絶望を道連れにそちら側に落ちた者達の怨嗟が残っている事を、決して忘れてはいけなかったのだ。



「……………ええ。この通り、もうどこにも不調はありません。ただ、ウィリアムさんが私の為に矢を受けてくれたことを思うと胸がぎゅっとなったりはしますので、少し近くに座って安心してみたいと思う我儘ぶりなのですが、隣に座っても負担はありませんか?」

「……………ネア」



そう言えば、なぜこの魔物は困惑してしまうのだろう。


瞳に過ぎった微かな諦観と怯えのようなものに、ネアは、終焉の魔物がこれまでの何かが失われる覚悟を決めていたのを知ってしまった。

そんな懸念は、する必要がない邪魔なものなので、早急に毟り取ってどこかに捨ててしまわなければいけない。


ネアは、ウィリアムが困惑している内だとすたすたと寝台に歩み寄ってしまい、うっかりウィリアムの足などを下敷きにしないよう注意しながら、寝台の端に腰かけた。



すると、伸ばされた手が一度躊躇い、ネアが微笑んでいるのを確認してからそっと頬に触れる。


こちらを見上げる白金色の瞳はまるでやっと見つけた星まつりの星屑を見ているようで、どこかひたむきで、慎重で、そして安堵していた。


「……………ウィリアムさん、私を守ってくれて有難うございました」

「……………ああ。……………ああ、だが、……………君を損なうような術式を切り出さなければならなかった。それに、そもそもは俺の管轄の不手際だ。俺が……………」

「まぁ!この世界に、死者さんがどれだけいると思っているのですか!ウィリアムさんを狙ってきた方ですらなく、よりにもよっての人違いだったのですよ?誰にも予測出来るものではありません。あの方を最初に見付けた私ですら、他の死者さんとは様子が違うと思うばかりで自分事にはしていなかったのです。加えて言えば、あの死者さん本人だって、まさかの人違いで、自分が長い時間をかけて計画してきたことが無駄になるとは思ってもいなかったでしょう」

「……………ネア、俺の前だからって、あの死者に敬意を払う必要はないんだぞ?」

「むぐ。あの、死者めです!私の騎士さんなウィリアムさんを、こんな風に傷付けるなんて許されない事なのですよ。粉々になるまで踏み滅ぼすべきなのに、危ないので近付けず、それすら出来ないだなんてどれだけ私をむしゃくしゃさせればいいのか……………」


ぐるると唸ると、ふっと落ちた小さな微笑みの気配に、ネアの胸の中に凝っていた悲しくてやるせないものが少しだけ剥がれ落ちた。

それはまだちょっぴりではあるが、それでも、胸は軽くなる。


頬に触れていた手が背中に回され、そっと抱き締められると、ふはっと安堵の溜め息を吐いた。



「……………君が無事で良かった」

「ウィリアムさんがいたからです。……………ディノが話していました。あの時に、ウィリアムさんが、我慢して僅かな予兆や古傷から終焉を招き入れる魔術を使ってくれたからこそ、あの矢が脆くなったのだと。……………同じ力を持っていても、ディノだったら、躊躇ってしまったかもしれないそうです。だからディノは、ウィリアムさんが一緒にいてくれて良かったと言って少し泣いてしまっていましたし、私も、ウィリアムさんがお仕事も忙しい中でウィームに来てくれたからこそ、こうして今も元気なのです」


こちらを見ている白金色の瞳が、ふつりと揺れる。

白い髪の毛は少し乱れていて、ぴょこんと跳ねた後ろの髪の毛が何だか稚い。

ネアはくすりと笑ってそんな髪の毛に触れ、とは言え、部屋着なので無防備に晒されている喉元には怖くて触れられなかった。



(……………あの角度から喉を貫通するには、……………骨を砕かねばならない)


致命的な損傷を与えない程度に少しずれていたのかもしれないが、ディノから、首の骨や体の機能を損なうような傷があったので治癒に力を回さねばならず魔術浸食が進んでしまったと聞いている。



「……………ああ。……………そうだな。君が無事で良かった」

「ぎゅむ……………」



そう言ったウィリアムが、あまりにも安堵したように綺麗に微笑むから、ネアの心はここで限界を向かえ、まだ体調も万全ではないウィリアムの胸元に顔を押し付けて涙を堪えなければならなかった。

しっかりと抱き締めてくれる腕は力強いが、吐息の熱さにまだ本調子ではないのだと思い知らされてしまう。



今回の事件でウィリアムが受けた傷は、人間の大怪我に近い要素を残しているのだそうだ。


表面的な傷は癒したものの、消耗された魔術や体力は時間をかけて補ってゆかねばならない。

ましてやウィリアムの仕事は、体力勝負だ。



「……………柔らかいな」

「おっと!ここまでだよ!!色々消耗していることで箍が外れ易くなっているかもだから、今後は適切な距離を置くこと!!」

「……………むぐ。今日は添い寝も出来ないのです?」

「えええ、何で!ずるい!」

「……………ネア、それは俺もどうかと思うぞ?さすがに、ずっと見ていなくてももう大丈夫だからな」

「しかし体調が悪く寝込んでいる方に寄り添うのが、看病の定番の筈なのです。私が読んだ物語本での看病の定番である、果物とジュースと美味しいスープが用意されている以上、後はもう誰かが添い寝をし、頭を撫でて差し上げたり子守唄を歌ったりしなければならず………」

「ええと、何を参考にしたのか凄く気になるし、お兄ちゃんは妹が大好きだけど、……………子守唄はやめようね」

「……………ふぁい。歌が歌えないので、添い寝しか残らなかったのですよ……………」

「ありゃ……………」



だが、ネアが考えた看病の形である添い寝は、本人から却下されてしまった。


まだ万全ではない状態で意識が朦朧としていたりすると、やはり何某かの抑制が効かなくなりがちなのだそうだ。

もしかするとそれは、無意識でうっかり添い寝の人間を齧ってしまったり、これもまた物語本ではありがちな、意識が朦朧としていて仲間を敵だと思って襲ってしまったりするような現象が起こるのかもしれない。



「……………他に、何かして欲しい事はありませんか?何でも言って下さいね」

「おっと、……………なかなか危うい問いかけだな」

「言っておくけど、僕もここにいるからね……………」

「だそうだ。無粋にもノアベルトもいるからな。祝福一つを強請るのも容易じゃない」

「ふむ!」



しかしここで、それが必要なのだなと意気込んだ人間は、ウィリアムに、えいっと祝福を贈ってしまった。


いきなり家族相当の祝福を贈られた終焉の魔物は目を丸くし、そろりと持ち上げた手で唇に触れる。

なぜか目元が赤いが、舞踏会などではそちらからさらりと行う祝福ではないか。


恥じらわれると痴女のようになるので、是非にやめて欲しい。


「……………ネア」

「……………念の為に主張しますが、これは祝福なので痴女ではないのですよ?」

「……………ああ。そうだよな。……………嬉しかったよ。有難う」

「ネア、お兄ちゃんともしよう!」

「む。ノアからも、祝福を贈って差し上げるのです?」

「……………わーお。僕とウィリアムみたいになったぞ……………」

「……………絶対にやめてくれ。余計に具合が悪くなりそうだ」

「僕だってそうなんだけど……………」



ネアはここでなぜか、少し荒ぶる義兄に回収されてしまい、なぜか、今回の件で沢山心配し過ぎてしまったというノアにも、家族相当の祝福を贈る事を要請された。


「……………勿論、ノアだって大事なので吝かではないのですが、なぜ、ノアの場合はちょっと身構えてしまうのでしょう?」

「ありゃ。……………でも、僕は無害な魔物だよ」

「ネア、無理にしなくていいぞ。ノアベルトは元気なんだからな」

「……………は!そうです。ノアは、どこにも怪我をしていないので……………」

「よーし。じゃあ、僕からの祝福にしよう」

「……………むぐ。……………狐さんを抱っこしている時の気持ちを思い出しました」

「……………え、ここでもなの?!」



塩の魔物は恋多き魔物であるし、ふわりと落とされた祝福は、男女のそれであれば色めいたものだ。

だがなぜかネアは、銀狐がもしゃもしゃしている時に、ふざけておでこや鼻先に落としてやる口付けを思い出してしまい、温かな気持ちになってしまう。

ほっこりして笑顔になったのだが、ノアは少し悲しそうだ。


「ネア、もう少し隣にいてくれるか?これ迄より、長く起きていられそうなんだ」

「むむ!ではお隣にいますね。アルテアさんのスープは飲みますか?」

「……………昨晩飲ませて貰ったんだが、……………それは、アルテアが作ったんだな」

「ふふ。こうして保温用の容器まで持ってきてしまいながらも、さり気なく置いておくあたりがアルテアさんですよね。ウィリアムさんの事が大好きなのですよ」


邪悪な人間にそう言われてしまい、ウィリアムは少し困惑していたようだ。

とは言え、魔物同士でこうして食べ物を与えるという意味は明白なのだから、大事に思われていることには変わりない。



三人はそのまま寝室で少しお喋りをし、何とか立ち上がったウィリアムをノアが補助してくれ、顔を洗ったりする事が出来た。

魔物は魔術で身綺麗に出来るのだが、ウィリアムは入浴や洗顔を好む魔物なのだ。

ウィリアムは、その後はまた少し横になることになったが、後、二日程度もすれば元気になるだろうというのがノアの見立てである。


揺り戻しなどもあったりするのでまだまだ油断は出来ないと思ったネアだったが、氷の魔物のお城から戻ってきたディノが吉報を携えていた。




「ネア、アレクシスが来てくれる事になったよ」

「まぁ!わざわざ、こちらに来てくれるのですか?」

「今回の話を聞いた妹から、エーダリア用にも死者の攻撃を避けるスープを作るようにと言われたらしい。……………出来るのかな」

「え、何それ。それ出来たら、僕たちはどうすりゃいいのさ……………」

「さすがにそれはないだろうよ。……………ったく、お前はもう少し大人しくしていろ。何か食べたのか?」

「……………む、……………むぐ。では、紅茶をいただきながら、………何かお菓子をつまみます?」

「林檎とキャラメルのタルトと、秋苺と梨のパイがある。好きな方にしろ」

「では、パイにしますね。……………タルトも、もっと沢山食べられるようになったらいただくので、残しておいてくれると嬉しいです」



しかし、ネアがそう言えば、なぜか魔物達は焦り始めた。


一刻も早くアレクシスに来て貰うのだと言うので、何がいけなかったのだろうとネアは首を傾げるしかない。


仕事を終えてお茶の時間を一緒に過ごす事になったエーダリアとヒルドからも、ケーキを一つしか食べないなんてと驚かれてしまい、ネアは、強欲な人間とてしんみりと過ごしたい時もあるのだと主張しなければならなかった。



クロウウィンの四角ケーキは、幸いにも日中に街に出た時に買ったものが残っている。

もう少し心が落ち着きウィリアムも元気になったのなら、これをほかほかに温めて美味しい紅茶と共にいただこう。


楽しみにしていた棒状のチョコレートは買えなかったが、また来年にも売ってくれるかもしれない。

だが、美術館に遊びに来ていた墓犬が心配していたと聞き、ネアは、大好きな恩人に会えなかった寂しさを噛み締めなければならなかった。






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