邂逅と転換
「これはこれは我が君」
薄暗い回廊ですれ違うと、そう声をかけてきた男がいた。
振り返れば、そこに立っているのは簡素な神父服を着た特徴のない男で、けれども首から細い銀の鎖で下げたものと空っぽの片袖を見れば一目瞭然である。
「何と呼ぶべきなのだろうか。君にもここでの名前があるだろう」
「トムとお呼び下さい。正直なところ、短い滞在ですので名前を考えるのは面倒でして、既存の人間の皮を被っております」
「では、その服の持ち主は砂糖にしてしまったのだね」
「勿論、自分では食べませんが、系譜の者達に配れば喜びますからね」
そう微笑み、彼は少しだけ声を潜める。
「この通り俺もおりますので、問題があればお声がけ下さい。最後の晩餐までは、使える駒と身内に被害さえ出さなければ好きにしていていいそうなので、観光くらいしかする事はないですから」
「……………君をここに招いたのは、あの王かな?」
「おっと、…………ああ、壁を作ってくれていますか。では、…………ええ。あれは愉快な人間で、こうして良い食材の在処を教えてくれるんですよ。一定数は残せと言われていますものの養殖ものには興味はありませんが、あの獲物は渡しませんので悪しからず」
「…………王の指示であれば、あの子の仕事にも支障はないだろう。それは好きにして構わないけれど、くれぐれも足場を崩さないでおくれ」
そう伝えれば、グラフィーツは臣下の礼をしてみせた。
ここが教会だと思えば見咎められかねない仕草であったが、幸い人払いをしてあった。
「もしかして、敷地内の魔術の起点を書き換えておられるのですか?」
そう尋ねられ、頷いた。
今は一人で中庭を見ていることにしてあるが、実際には足元で何重かの術式を回している。
浸透したものが思っていたよりも色濃いので、基盤から手を入れることにしたところだった。
「今回の問題は、理に縛られた土地の祝福の堅牢さにもあるようだ。春と竜の残響から、常なる春という術式が土地の意識下に残り続けている。だからこそ、未完成でも完成の輪を形成し続け、他者の介入を退けてもきたのだろう」
「ほお、それはそれは、類い稀なる運命を持った迷い子ですな。ますます、砂糖にする時が楽しみだ」
「…………食べてしまうのかい?」
「それはもう。それを楽しみに生きていますから。……………その為にはまず、良い砂糖の条件を満たして貰わないといけませんがね…………」
「ああ、まだあの人間は聖人ではないからね」
「それはまぁ、簡単に与えられる肩書きですね。…………とは言え、秒単位で味が変わるので、今回の仕事は時計を持って来たんですよ」
「時計を持ってきたのだね…………」
「何しろ今回は環境がいい!郭公の晩以来の胸の高鳴りと言いましょうか…………」
「…………君が、あの子を見ながら食事をするのが好きなのは構わない筈なのだけれど、…………時々不愉快になるのはなぜだろう」
「どうぞこればかりはお許し下さい。それさえ許していただければ、御身と奥方の領域を損なうものがあれば、掃除のお手伝いをいたしましょう」
「………………そうだったね。グレアムがそのように約定を取り付けたのだった」
「ええ。魔術誓約ですから」
そう微笑むと、反故にされては堪らないと思ったのかそそくさと立ち去る砂糖の魔物を見送り、少しだけ考えた。
砂糖目当てとは言え、あの魔物は人間達を破滅させることをも、その砂糖作りの一環として楽しむ傾向がある。
彼は畑作りと称しているようだが、その行為がどこまで問題になるのかを、実はよく知らないのだ。
(アルテアにも、グラフィーツが紛れ込んでいる事を伝えておこう……………)
そう考えて頷いた。
この後にネア達を迎えて今後の方針を取り決める会議があり、アルテアとはその少し前から会う約束をしている。
枢機卿として滞在している彼とも、不自然ではない程度にしか顔を合わせられないので、その調整は全て一任している。
「…………………顔を洗ったのかな」
視界が揺らぎ、ネアが鏡の中に映したその表情が見えた。
見慣れた表情とはやはりどこかが違い、この世界に呼び落とした頃の彼女によく似ている。
かつて、ここではない世界で見ていた彼女程に孤独ではないが、それでも行動の一つ一つを丁寧に確認し、手に持った石鹸の匂いを嗅いでから、満足げに頷いた。
顔を拭く前に一度手のひらで水気を切り、睫毛の上の雫を払ってからタオルを手に取る。
これも丁寧に確認してから顔を拭いているので、自分が見ていないところで肌に触れるものに手が加えられていないかを調べているのだろう。
(…………怖がっていないだろうか)
その几帳面さに胸が痛くなる。
いつものネアはもっと伸び伸びとしていて、気に入っているらしい狐温泉の石鹸で顔を洗うと、幸せそうに深呼吸をするのだ。
洗面台の銀楓結晶の小皿の上に置かれた小さな小石は、そこでほこりが生まれた記念であるらしい。
その小石や、生けられた花を見て微笑むと、化粧水をつけ、少しだけ難しい顔をしてから、場合によってはアルテアから渡されているクリームを塗る。
暮らしてゆくことと生きている事がとても幸福なのだと、ネアは何度も話してくれた。
朝起きて顔を洗い、そして夜に眠りにつくまでのその生活が幸せだと微笑んだネアが、今はひどく真剣な顔で周囲を見回している。
泉水晶の小瓶に入った化粧水は気に入っているようだが、それもその筈で、あの中身はアルテアが入れ替えた彼の手作りの化粧水なのだ。
アンセルムという神父がラベンダー水を作っていることに気付き、どこからか借りてきたグレアムの術式を使ってかなり真剣に入れ替えている姿に、自分であればこのようなところに迄は気付けなかったと驚いた。
まずは手に入れたものを調べ、同じ材料を手に入れ同じ香りと成分でラベンダー水を作り、それを入れ替えるまで。
化粧品は、肉体を調整する為の嗜好品というだけで、願いの術式と変化の術式が使われてしまう。
ありふれてはいるものの扱いが難しい植物を材料にすることが多く、魔術の成果として祝福のそれを潤沢に閉じ込める。
その経緯を追えば、確かに見知らぬ相手に委ねていいものではないのだが、必要としたことがないものなので考えもつかなかった。
(アルテアが居てくれて良かった…………)
そう思うのは、ネアの体に覆いをかける魔術をアルテアと共に作ってくれたノアベルトであり、この銀白と静謐の教区で完成しつつある術式を知り、完成前に受けておくことを提案してくれたエーダリアで、妖精の侵食を退ける為に羽の庇護を与えてくれたヒルドにも。
やがてこの仕事を終えて、身に浴びた魔術を引き剥がす際に使う祝福を切り分けてくれたウィリアムは、祝福を与えるだけではなく、共に調査に入っても構わないと言ってくれた。
(もし、私がこの魔術の誕生を知らずに、誰かがあの門からネアを呼び落としたら…………)
門に利用されている魔術の仕組みは、呪いのようなものだ。
魔術の障りを利用することで理で固定し、魂の表皮を剥がしたところに、望んだ情報を上書きしてしまう。
術式としては古くから魔術道具の再利用に使われてきた手法であったが、それを生き物に適応した例はない。
誰が作り上げたものなのか定かではないものの、アルテアの見立てでは、最初に魔物か精霊が作ったものに人間が手を加え、今の形になったものであるようだ。
アルテアは、一度視察と称して門に近付いたらしいが、そこに敷かれていた魔術を完全には特定出来なかったという。
あの門はこの教区全体に張り巡らされた魔術の一部として組み込まれており、全体を循環させて一つの完結を得るのだとか。
(恐らく、門の核にはジョーイが狂乱しかけた時に影響を受けたものが含まれているようだ。…………であればやはり、終焉の系譜かな。静謐の系譜は終焉に近しいが、騒乱を嫌って鳥籠の気配のある土地には近付かないだろう…………)
植物の系譜の障りはとても強いものだ。
とは言え本人であれば容易く回収出来るのも植物の系譜の特性なので、門の解体をする場合はジョーイに頼んだ方がいいのかもしれない。
(………………ああ。そうか、煙菊のくしゃみを浴びたから、顔を洗ったのだね………)
またその視界を覗き込めば、ネアが、どこか不愉快そうに小さな鉢植えを避けて歩く様子が伝わってきた。
煙菊のくしゃみは煙を吹き付けられるものなのだが、煙りの匂いがつくだけで特に害はない。
けれども、この世界のことを殆ど知らない今のネアは、そんなものを吹き付けられてとても怖かっただろう。
(可哀想に…………)
抱き締めて膝の上に乗せて守ってやりたいけれど、まだネアを取り戻す事は出来ない。
ネアと視線を合わせるように屈み込み、アンセルムという男が煙菊の煙には害がないことを、丁寧に教えている。
それは、不足のあるような庇護ではない。
昨晩もネアには不在時にしていいことと、してはいけないことを言いつけて部屋を出ていたし、その際に緊急時の連絡の取り方を伝えておき、外部からの侵入や侵食がないように幾つもの魔術を扉に仕掛けていた。
ノアベルトやアルテアが案じていたように、眠っているネアの部屋に入る事もなかったようだ。
彼女が喜ぶような料理を作って彼女に目を輝かせ、教本を読んでやる。
そうすると、ネアは本の中で動く妖精の絵を見て嬉しそうに唇の端を持ち上げるのだ。
だからだろうか。
ふと考えることもある。
もし、ここがネアの最初の場所で、彼女がここしか知らなかったらどうだろう。
覆いの下の夢の中でも彼のことを嫌ってはいないようだったが、問題があれば排除することに今のところ抵抗はなさそうだ。
でも、今日のこれからも、ネアは、彼から新しい良いものを受け取るに違いない。
もしそこに、彼女がより欲しいと思うものが出てきてしまったなら。
そんな思考がゆらりと揺れた。
胸の奥が苦しくなり、この場所に埋め込まれていた魔術を綺麗に壊してしまうと、溜め息を吐いて与えられた部屋に向かった。
離れた位置に控えていた人形の兵士達が、適度な距離をあけてついてくる。
その靴音に、がらんとしていたかつての自分の城を思い出した。
沢山の人間達が住んでいるのに不思議なのだが、どこまでもどこまでも静かで、誰もいなくなったあの城の色に、この場所は似ている。
ネアがいないだけで、あっという間に世界が暗くなってしまうのはなぜだろう。
(でも、ネアは必ず帰ってくる。………それを知っているのに、なぜ心が揺らぐのだろうか……………)
もしそこに他の魅力的なものを見付けても、きっとネアはこの腕の中に戻って来てくれるだろう。
何度も彼女がそう約束してくれたし、彼女の説明によれば、ネアにとっての伴侶という存在は、選ぼうとして選べるものではなく、世界の何処かに落ちているたった一つを拾ってくるようなものなのだそうだ。
その一つはもう見付けてしまったので、伴侶という存在については受付を終了しているのだと、ネアは教えてくれた。
人間は何人も伴侶を持てるのに、ネアという人間が持てる伴侶は一人しかいないらしい。
(だから、君は帰ってくるのに………)
いなくならないと理解していても、心は揺らぐものなのか。
そんな事は、知らなかった。
答えを知っていても不安になるだなんて、あまりにも理不尽な動きではないか。
何だか悲しくなって部屋に戻れば、重たい扉がばたんと閉じる。
その音に閉ざされたような気持ちになったところで、今朝、一緒に食事をしたネアが座っていた椅子が目に入った。
ここでは残しておけないらしく、テーブルの上にあったものは全て片さなければならなかったが、そこに座っていた彼女は確かに、記憶に覆いをかけていても、この手を取ってくれた。
後見人になって欲しいと言われたあの時、そして、抱き上げた彼女が肩のあたりをぎゅっと掴んだ時にも、あまりにも嬉しくて胸が苦しくなったのだ。
その時、コツコツとノックの音がして、人形の兵士が枢機卿の訪問を告げた。
規定通りの挨拶の後に部屋に招き入れ、なぜか靴箱を取り出したアルテアに首を傾げる。
「買い物をしたのかい?」
「…………あいつ用だ」
可動域が低いネアとの間では使えないが、魔物にはそれぞれの不可侵領域がある。
先程のグラフィーツの時もそうであるが、その領域を展開すれば、敷かれた魔術階位を上回る者に限り、こうして土地の監視を退ける事が出来るのだ。
「あの子が靴を無くしてしまったのかい?」
「あの神父が注文した靴の形状と素材だと、革の硬さでサイズが変わってくる。今の仕様上、靴擦れは防げないからな」
「……………靴擦れ」
「靴が足に合わずに、傷をつけることだ。……………おい、飛び出すなよ。台無しになるぞ」
「可哀想に…………。そんな怪我などさせた事はなかったのに。…………アルテア、もしその靴擦れで…」
「死にはしない。歩き難くはなるが、それも、微小な擦り傷が歩行に合わせて靴に擦れるからだ」
もし足を失うような怪我だったらと思って焦ってしまったが、そう説明されれば、少しだけほっとした。
それでも、ネアが足に傷をつけてしまうのはほぼ間違いないそうなので、この部屋に来たらすぐに治してあげよう。
教会の管理下で生活をする今のネアに、微細な怪我などまでを防いでしまう守護はかけられない。
だからこそ今の体に覆いをかけ、もし、血を流す事があったとしても、それは本来の彼女のものではない“レイノ”の血として認識されるようにしてある。
このあたりの仕組みはとても難解だが、アルテアが愛用している仮面の魔術をノアベルトがより複雑に構築したのだとか。
「そう言えば、グラフィーツがいたよ。この国の王の指示で入り込んでいるようだ」
「……………その可能性を考えてはいたが、随分と早いな。あいつの目当ては砂糖だけか?」
「砂糖ではあるようだ。他の迷い子達も一定数は残さねばならないと話していたが、あまりそちらは気にかけている様子はないね」
「まぁ、あいつらは培養品だからな。あの男の趣味には合わんだろう。…………だが、目を離すとろくでもないところに畑を作り始めるぞ……………」
「私には、それがどういうものなのかを知らなかったから、君に委ねようと思っていたんだ」
そう言えば、アルテアは頷いてくれた。
「ところで、今朝の病魔の暴走は、君が用意したのかい?」
そう尋ねれば、何かの書類に目を通しながら頷くので、やはりあれは仕掛けだったようだ。
「ネアの事は傷付けられないように調整したとはいえ、あの子はとても怯えていたよ。…………あのような手段しかなかったのかい?」
「仕掛けが複雑過ぎても、生け簀の魚には理解出来ないからだ。あの教区主を引きずり出すことと、…………名簿の規則的な減り方の確認だな。…………それと、レイノという迷い子が狙われる必要がある」
アルテアはその言葉をとても不愉快そうに言うので、そうだねと頷いた。
彼が複雑な調整を引き受けてくれていることに感謝をしているし、選んだ手段がそれしかないものであれば、それを選ぶしかない。
時々ネアを怖がらせたくなるようなのでそれかと思ったのだが、今回は選択肢自体が少なかったようだ。
(それが、教会というものなのだろう…………)
今回は、どれだけ策を重ねても隙間を縫うにはそれしか方法がないという場面が、多々あった。
信仰の庭では、教えの一環として規則を多く設けてあり、場面ごとに決まりに従うことを了承させる儀式がある。
例えば、保護された迷い子は、“忠実な子供達”でなければならないし、“教えに則り”、“信仰に身を捧げる”ことまでもが、その誓約に隠されているのだ。
奪うことを罪とする教えと戒律の中で、教官として選ばれたアンセルムからネアを引き離すことは難しい。
それを可能にするのは、教会内の有事とされる特定事項が起こり、そこに裁定者が居合わせ、弱きものを守る為の苦渋の判断とする場合のみ。
「…………それだけ、この教区内の規則が徹底されているからなのだろう。この後は、あの子の事を君が見ていてくれるから安心だ」
「それでも、俺もお前も外部の者である以上はせいぜい一晩だな。明日の朝までに申請を受理させ、急ぎの契約であの氷竜の気配を纏わせれば、もう一日は稼げる上に、契約後の誓約儀式で教区主本人が執り行う儀式に触れる事になる」
今回、ネアが任された仕事はこの教区で迷い子として過ごし、迷い子達がどのように管理をされるのかを調べる事だ。
保護され、教官を得ての紹介を終え、簡単な教育を覗き、契約を得て、教区での誓約儀式に参加する。
三泊で済ませようとするのはいささか乱暴だが、それを可能にする為に幾つもの計画を練った。
直前やこちらに来てからでも変更を余儀なくされはしたが、漸く、あと少しでこちらの道筋に乗るところまで来た。
「…………予定通り、ベージ本人を招き入れられれば良かったのだけれどね。せめて彼が共にいれば、ネアも安心出来ただろうに」
「……………ザンスタとかいう司祭の侵食には、薔薇の系譜の妖精の証跡があった。竜は情欲の侵食魔術に弱いからな………」
「そうだね。盾として招き入れた者が毒になっては困る。……………その気配を纏わせて、契約者が姿を現さないと言い通すしかなくなってしまったけれど、契約を結んだベージが教会側の手に落ちるよりは良いだろう」
「…………それでぎりぎり一日だ。何とかするしかないな」
契約者として招き入れるのであれば、実際にネアと繋ぎがあり、尚且つこの教区内に召喚が可能な存在でなければならない。
勿論それは、顔見知りの高位の魔物達であっても可能な役回りだが、現在のネアが記憶を封じられている事がその道を絶ってしまう。
契約後に行われる魔術審問で実際に契約の確認が取れることと、公開された場所で行う儀式において、ネアがそれを可能とした経緯に疑念を持たれないこと。
この二つだけを満たすだけが、実はとても難しい。
可動域が足りない相手からの召喚に応じるとなれば、魔物と竜が一般的なのだが、覆いの上だけとはいえ迷い子としてこの教区の戒律に縛られるネアに、召喚するべき魔物を示唆する事は不可能だった。
ネアは、教会の保護下に置かれた段階で、特定の意図を以って良からぬものを呼び込まないという誓約を結ばされている。
秘儀を担う閉鎖的な組織だからこその徹底ぶりで、その誓約は、特定の者の召喚を行おうとする行為に触れるのだ。
(それは、迷い子達が外部の者達と通じて、教区に不利益を齎す存在をあえて呼び寄せることを警戒しての措置だろう…………)
連想出来るような情報だけを与えて、本人に思い浮かべさせる事は出来たとしても、失敗があってはならない事だ。
彼女が望んだ通りのものを思い描けず、召喚儀式で動いた魔術とあまりにも相違があれば、そこでも怪しまれてしまう。
通常の迷い子として、他の迷い子達が行ったであろう儀式を辿る事こそが目的なのだから、警戒されては意味がなかった。
(予め知っている者のことならば、思い浮かべるだけで呼び落とせるのだけれど…………)
記憶を残しておけば、それは壊される。
今度はそちら側にも壁があり、それは絶対に避けなければならない。
だからこそ、竜だった。
この世界に来る前からネアが認識しており、気に入っている存在。
そんな存在で、その他の問題をも排除出来るのは竜しかおらず、氷竜というくらいなら会話や教本から偶然を装って示唆出来る。
ベージであればと思ったのだが。
「どちらにせよ、この土地に残る春の気配がここまで強いと、ベージは苦労したかもしれないね。冬の系譜の竜がこのような土地に好んで下りてくるというのは、不自然かもしれない」
「だろうな。であればいっそ、春の気配に機嫌を損ねて姿を隠しているとした方が、自然なくらいだろう………。そう言えば、グラフィーツのここでの名前を聞いたか?」
「確か、…………トムだったかな」
「トムだと……………?!」
その名前を告げれば、アルテアは、ぎょっとしたように声を荒げた。
「…………アルテア?」
「まず間違いなく、ミサの後に迷い子達に、聖餐の儀式用の砂糖菓子を配ってた神父だな。……………まさか、迷い子に何か仕込んでないだろうな…………」
ここで、二人同時に体を強張らせた。
仕掛けておいた駒が動き始めたのだ。
そしてそれは、アルテアの懸念通りグラフィーツの祝福を受けた砂糖菓子のせいで、想定していたものよりも遥かに激烈な反応を生み出してしまった。
それは、この上なく堪え難い時間の始まりだった。




