181. 私は二度と帰りません(本編)
目を開くのに、ここまで目蓋が重かったのはいつぶりだろう。
ネアは苦労して目蓋を開き、涙で張り付いた睫毛がぴっとなってしまい慄いた。
「……………ディノ」
心細くなってすぐにその名前を呼んでしまったのは、もし、最後の安堵の瞬間だけが、自分の都合のいい夢だったらと怖くなったからだ。
だが、待ち侘びていた伴侶の声は、すぐに聞こえてきた。
「ここにいるよ。………どこか不調があれば、教えてくれるかい?」
「………むぐ。…………息を吸うと、胸と喉がびりりとなります」
「ああ、それは…………終焉の魔術の影響かもしれないね。ウィリアムは、君を守ろうと必死だったんだ」
そんな言葉に、ネアがこれでウィリアムを嫌厭したらという不安が窺えてしまい、ネアは目を瞠った。
慌てて顔を上げると、そこにはネアの大事な魔物がいる。
そっと頬に触れた手の温度に、ああ、こうして触れられるのだなと胸が苦しくなった。
「ディノ、私はだからと言って、ウィリアムさんに対して、怒ったりはしませんよ?」
「…………そうなのかい?」
「ええ。ウィリアムさんは、私が、よりにもよって少し離れた位置のディノに手を伸ばしてしまったのを、慌てて引き戻してぎゅっとして守ってくれたのです………」
あの瞬間のことを思い、ひゅっと息を吸う。
怖さにすとんと心が落ち込み、思わずぎゅっと体を縮こまらせてしまう。
(あのまま、ディノに駆け寄ろうとしていたら、初撃の矢を受けていた……………)
「……………ネア」
なぜかやっとここで周囲を見回し、ネアは自分の部屋の寝台で眠っていたことに気付いた。
そんなネアをディノは膝の上に持ち上げ、しっかりと抱き締めて腕の中に閉じ込めてくれる。
ひんやりとした指先が喉に触れ、ひりひりした痛みが遠くなり消えてゆく。
大きな手のひらでそっと胸を押さえられると、今度は胸の奥の何とも言えない痛みもゆっくりと崩れて消えてゆく。
「………痛くなくなりました」
「慣れ親しんだ痛みだったのなら、こういうものだと馴染ませてしまっているというような取り零しはないかい?完全になくなるまで魔術修復をかけるから、気になる箇所があったら言うんだよ」
「慣れ親しんだ………痛み?……………あ、」
その言葉に、ネアはやっと思い出した。
先程まで感じていた胸の痛みは、前の世界で暮らしていた頃の心臓の痛みそっくりではないか。
ちょっと無理をするとあの痛みが鈍痛になり、鼓動が早くなって息が整わなくなってゆき、意識が薄れ冷や汗が滲むのだ。
小さく息を飲んだネアを覗き込み、水紺色の瞳を揺らしてディノが悲しげに微笑む。
「終焉の魔術の影響だろう。…………喉の痛みは、その魔術の残滓を吸い込んでしまったからだね。他に、切られたり、ぶつけたりするような痛みは感じないかい?」
「そう言えば少しだけ頭痛がありましたが、今はもう感じないです」
「うん。それは…………ダーダムウェルの物語のあわいの時のものかな。……………影絵での、………槍の影響は、出ていないかい?」
「…………は!」
そう言われて胸に手を当てたが、幸いにも槍で貫かれたような痛みは感じなかったと思う。
とは言え、それどころではなかったので、実際には、あの耐え難い悲しみを堪えた胸の痛みと同時にその古傷も痛んでいたのかもしれない。
「痛くはありません。…………それは、過去の病や怪我を浮かび上がらせるようなものなのですか?」
「終焉を引き寄せる為のものだ。………君にウィリアムの守護がなければ、君を殺したかもしれない術式だが、君だからこそ、ウィリアムはあの場で扱えたのだろう。………それを使わねばならないと、そう感じただけの魔術付与があったのは間違いない」
「あの矢については、何か分かったのです?…………きっと、魔物に触れられなくなるような祝福が付与されていたのは間違い無いと思いますが………」
そう言うと、ディノの体が強張った。
言葉を失ったようにそのまま動かなくなってしまった魔物があまりにもぎゅっと抱き締めるので、ネアは、何も言えなくなるくらいに怖がっている魔物が可哀想になってしまい、そんな魔物にそっと口付けする。
もしここにいるのがネアでなければ、その誰かは、ディノが怒っていると思って怯えたかもしれない。
それくらいに冷え冷えとした突き放すような美貌であったが、ネアにはディノがどうしていいのか分からないくらいに怯えているのが分かったのだ。
「代わりに説明するぞ」
「……………ほわ、アルテアさんです………」
不意に後方から声がかかり、びくっとなったネアに、こちらを見た選択の魔物の鮮やかな赤紫色の瞳が微かに揺らいだ。
ネアとしてももう少し普通の対応をしたかったのだが、まだ心が萎縮している訳ではない筈なのに、どうしてもいつものようにどっしり構えていられないらしい。
だが、ネアが少しだけ悄然とすると、アルテアは気付かなかった事にして話を始めてくれた。
「……………基本的には、魔物を寄せ付けなくなる為の祝福だ。あの銀色の炎がまさしくそれだな。元々、あの人間は生前は火の系譜の魔術師だったらしい。自分の涙を魔術で火に練り直し、あの矢に絡ませていた」
その説明だけで、ネアは、あの死者が容易ならざる相手だったのだと理解した。
練り直しは、簡単に扱える魔術ではない。
この世界に来て長らく過ごしてきたお陰で、そのような事がすぐに飲み込めるようになったのだ。
「…………きっと、階位の高い魔術師さんだったのでしょう」
「だろうな。旧ウィーム王家の血筋だ」
「……………まぁ」
そう聞けば、ネアはなぜか胸が痛んだ。
そんな心の身勝手さの動き方はよく分からないが、きっとネアは、その名前を拝する者達にはずっと好意だけを抱いていたかったのだろう。
出来ればウィームの住人ですら、あって欲しくなかったのだ。
「………とは言え、他国の血も入った傍流だがな。ユーグと、ディートリンデがあの男を覚えていた」
「そのお二人が………」
「想いを寄せた女を、氷の魔物の伴侶として奪われた男だったらしい。伴侶を奪い返しに来た人間を許さなかった氷の魔物に排除され、あのあわいに落とされた。魔物の寿命の長さは承知の上だろう。…………時間をかけて損壊時の記憶や意識の混乱を払い、正気を取り戻してからは、怨嗟を育てながら、あわいに流れてくる武器を精査したというのが今のところの推測だ」
「……………あの人は、どうなったのですか?」
「まだ残ってはいるが、お前を会わせるつもりはない」
「ええ。会いたいとも思いませんし、どうなろうとも構いません。…………ですが、なぜ私を狙ったのかは、知りたいです」
きっぱりとそう言い切れば、アルテアは短く頷いた。
ネアは、自分をぎゅっと抱き締めている魔物にすりりと頬を寄せ、大事な伴侶の恐怖が少しでも落ち着くようにと祈る。
この魔物がこれからも祝祭の街に嬉しそうに出かけられるように、どうしてこんな事件が起きたのかは、しっかり紐解いておかねばならない。
あの時とこれからは違うから、もう怖がらなくていいのだと説明出来なければ、今迄に積み上げてきた何かが失われるのは間違いない。
「有り体に言えば、ただの人違いだ。お前の髪色があいつの惚れた女のよく使う擬態に似ていて、シルハーンが氷の魔物の擬態に、………恐らくは僅かに似ていた。………補足すると、名前に纏わる呪いを展開されていても厄介だから、まぁ、お前の場合は必要ないだろうが、暫くは氷の名前には触れないようにしろ」
「はい。その方の名前には触れないようにしますね。……………人違い……。ですが、人違いをせず、その方を狙ったのだとしても、間違いなく許し難い行為です」
「当然だ。………今はノアベルトが見ているが、俺も、他の連中も、あの人間を楽に解放するつもりはない」
「……………魔物さんの伴侶となったのなら、その方は生きていて然るべきで、だからこそ、私とディノを見て誤解されたのですね」
判明すれば、これ程に簡単な事はない。
だから彼はこちらを見ていたし、躊躇いもせずにネア達を襲った。
ディノの擬態が氷の魔物に似ていた要素は、その魔物が、擬態の際に長い三つ編みの男性に扮した事があるという程度のものだが、よく似た同じように高位の魔物が、そうそう何人もウィームにいるとは思わなかったのは、そんな存在の本来の稀有さを思えば当然なのかもしれない。
今回はたまたま、ウィリアムの存在も良くなかったようで、あの死者は、擬態している終焉の魔物を、よく氷の魔物に付き従っていた従者の魔物だと思っていたようだ。
そして、引き剥がし二度と触れられなくなるように、更には、同時に命をも奪い、自分と同じあわいに引き摺り込むようにネアを狙った。
「……………同じあわいに?」
「あの弓は、写し身の魔物が材料だ。低階位の魔物だが、それで射られて死ねば、魔物に殺されたのと相違ない顛末になる」
「…………そうだったのですね」
写し身の魔物は擬態を得意とする魔物で、身近な品物に良くない生き物が隠れていたらどうしようという人々の不安から派生したのだそうだ。
身近な道具類に変化して身を潜め、気付かずに道具を扱った獲物を食べてしまう厄介な魔物である。
だが、そんな魔物の資質を利用して、武具や魔術具に変化させたところで、状態固定の魔術をかけてしまうというより狡猾な人間もいる。
そうすると、魔物製の階位の高い道具が手に入るのだから、なかなかに人間も負けていない。
(写し身の魔物さんは、階位が低くパンの魔物さんくらいに存在している。だからこそ、人間達の手にはその生態を利用した道具が幾つもあったのだ……………)
あわいに流れてくるのを待っていたのか、或いは、地上に出た際に入手してきたものか。
どちらにせよあの死者が写し身の魔物の弓を手に入れたのは、想い人を氷の魔物から引き離し、自分と同じ場所に連れ去る為なのは間違いない。
「加えてあの人間は、特赦を経ている。………自分を殺した魔物に脅かされていた恋人がこの死者の国に来たのなら、追手の魔物に決して捕まらないよう、あるべき場所に帰らせてやれるようにと願い出て、二十年程前の特赦で受理されていたそうだ。……………お前の場合は春告げの祝福があってそうはならないが、……………もし、何らかの理由でそちら側に引き摺り込まれたら、………かなり厄介な事になっていた」
「だから、ディノはこんなに怯えているのですね。…………ディノ、ウィリアムさんのお陰で、私は無事でしたからね?」
「……………うん。でも、…………君は、どれだけ怖かっただろう。あんなに、怖い思いをさせてしまった」
そう呟いた優しい魔物に、ネアは目を瞬き、また涙が込み上げてきてしまわないよう、ディノをぎゅっと抱き締める。
「…………ええ。とてもとても怖かったですが、ディノがディノだったからこそ、これ迄の沢山の素敵なものがあったからこそ、私は無事でした」
「……………魔物の祝福や守護の全ては、人間と魔物の接触を阻害する、あの炎の付与する祝福を退けられなかった。君を守れたのは、ヒルドの庇護と、アレクシスのスープの効能や、ダナエやベージとの関わりだろう」
「あら、とは言えディノが張り巡らせてくれた結界も、矢の威力を徐々に弱めた筈です。だからこそ、持っている物で足りたという面もあるのではありませんか?」
「…………ネア」
ここでディノはくしゃんとなってしまい、ネアは、しくしく泣いている伴侶を羽織り物にしたまま寝台を下りて目の前に立つと、何も言わずに立っているアルテアにもお礼を言った。
なぜか呆然と目を瞠っているが、そんな使い魔の守護だってあった筈なのだ。
「ウィリアムさんは、もう回復されています?」
だが、ネアがそう尋ねると、そんなアルテアの表情が如実に強張るではないか。
その変化を目にしてしまい、ネアはまた、血の気が引いてしまう。
足元がふらふらしてしまったネアに、慌てた魔物達が寝台に設置し直してくれる。
「……………ウィリアムさんは、ご無事なのですか?」
「負担の大きさを、休息で補っているところだ。……………あいつが不安定になる分、ナイン達を働かせているから問題ない。幸い、死者の日ももう終わったしな」
「……………今は、」
「二日後の夜だ。……………お前も、それだけの間目を覚まさなかったんだぞ」
「……………まぁ」
そう聞けば、ネアは驚いてしまった。
そこまで何かを損なっていた記憶はないのだが、二日も意識が戻らなかったとなると、かなりの重症だったのだろうか。
(クロウウィンは、終わってしまったのだわ……………)
その間にどれだけ皆に心配をかけたかを先に思うべきなのに、強欲な人間はそんな事で落ち込んでしまう。
焼き立てのほかほかの四角ケーキを買って、美術館を見たりしながらの街歩きを堪能し、ディノに何かお土産を買ってあげるつもりだったのだ。
ウィリアムにだって美味しい飲み物をご馳走したかったし、あの独特な死者の日のウィームの雰囲気を楽しむ事が出来たならと楽しみにしていた。
「……………ウィリアムさんも、眠っているのでしょうか?」
「あいつの場合は、時折は起きるがな」
「うん。何度か目を覚まして、系譜の者達への指示などを行っていたよ。……………写し身の魔物を使った武器は、私達にしか知られていない事だけれど、攻撃を受ける者の魔術の資質を帯びるんだ。ウィリアムは、自身の持つ終焉の魔術特性の攻撃を受けたことになる」
「……………擬態をされていての、人間に近しい状態で、ですよね?」
「すぐに擬態を解ければ良かったのだけれど、あの炎がその乖離を助けてしまってね。また、動けなくなりかねないような傷もあったから、治癒の方を優先させてしまい、防げなかった浸食もあったのだろう」
(まるで……………)
まるで、あの蝕の時のようだ。
そう考えてしまい、ネアは身震いする。
しかし、へにゃりと眉を下げていると、頭の上にアルテアが手を載せた。
「……………むぐ」
「あいつは丈夫だ。終焉であるが故に、そうそう簡単に削り落とせはしない。今回は、死者の怨嗟の特性と、武器の資質、生と死の境界が曖昧になるクロウウィンだったことが複合的な要素となって、負担を大きくしたが、回復に時間がかかるだけだ」
「……………ふぁい。……………私が、」
「いいか。重ねて言えば、あの場にいるのがウィリアムでなければ、あの攻撃は防げなかっただろう。死者の持つ理の領域に干渉出来るのは、終焉の魔物だけだ。お前の報告を踏まえ、妙な死者に近付かれないように排他結界を敷いていたんだろうが。今回は、その上で、相手がその対策を済ませていたという事に過ぎない」
「ウィリアムさんに、……………会えますか?まだ、きちんとお礼を言っていないのです」
ネアのお願いに、ディノはそうだねと頷いてくれた。
微笑んではいるがその微笑みは悲しくて、ネアは、伴侶の大事な友人が少しでも早く回復するようにと願う。
「でも、まずは何か飲もうか。お腹は空いていないかい?」
「…………はい。お腹は、……………空いていないようです。起きてしまった事への対応に胸がいっぱいで、何かを食べたいというような感じにはまだ……………」
「……………うん」
「ある程度、魔術で補填はしてあるがこの先はしっかり食べておけ。何か、口に入れやすい物を作っておいてやるから、無理にでも少しは食べろ」
「……………ふぁい」
ディノが部屋のポットから持ってきてくれた紅茶にたっぷりの牛乳とお砂糖を入れて甘いミルクティーにして飲むと、漸くの水分を得てほっとしたのか、体がぽかぽかしてくる。
ディノはなぜか、不器用な手つきで髪の毛をブラシで梳いてくれていたが、途中で何か上手くいかなかったのか、アルテアに視線で助けを求めて交代して貰っていた。
「……………ネア、もうどこも痛いところはないかい?」
「はい。ウィリアムさんがまだ元気になっていないと聞いて、悲しさや怖さで少しの動揺は残っていますが、それでも私はもう、ディノが作ってくれたミルクティーを飲んだのですよ?」
「……………眠りの中で、橋や川を越えるような事はなかったかい?」
「む?……………橋や川、でしょうか?」
「……………うん」
突然、そんな事を訊かれ、ネアは、こてんと首を傾げた。
眠っていた時の事はぼんやり覚えているが、安堵のあまりに怖さを再認識してわんわん泣いていた記憶しかない。
あの時のネアがぎゅっと抱き締めていたのは、この世界に来てから手に入れた宝物たちだろう。
沢山ある宝物をどれもこれもと必死に抱き締めていたので、周囲の様子には気を配れていなかった。
(……………いや、……………でも、)
そうして記憶を辿ると、見た事もない筈の大きな石造りの橋の映像が、なぜか頭の中に浮かんだ。
橋の下は大きな川なのか、ざあざあと水の流れる音がしていて、そんな光景を見て眉を顰めたような気がする。
「むぅ。そんな物は見ていませんと思ったのですが、橋を見ただろうかと考えると、橋の事を思うあまりに、見たような気もします。ですが、勿論そんな得体の知れないものは絶対に渡らないのですよ?」
だが、そう答えるとなぜか、魔物達は大騒ぎになった。
慌ててあちこちを調べられてしまったが、ややあって納得したものか、ディノとアルテアがほおっと大きな息を吐く。
何の懸念があったのだろうかと困惑してしまうが、橋や水辺というのは常に境界とされる事くらいはネアだって理解していた。
「…………君が、その橋を渡らないでいてくれて良かった。あの死者の得ていた特赦は、……………想い人をあるべき場所に戻すというものだからね」
「……………あ、」
「お前の場合は、元の世界に戻そうとする動きになりかねない。とは言え、予めシルハーンが手を打ってあるからな。完全に戻すのは無理だが、この世界ではないところに、魂の要素を引き寄せられると、足場が不安定になる」
「……………戻りません」
「ネア……………?」
ここで、地を這うような低い怨嗟の声に、ディノが目を瞬く。
ぎょっとしたようにこちらを見たアルテアが、怒りのあまりにわなわな震えているネアに、しまったという顔になった。
「私は、絶対にあちら側には戻りません!!!!おのれ!なんという嫌な事をされたのだ!あの死者めがまだ残っているのなら、私が、粉々になるまで踏み滅ぼしてくれる!!!」
多分、この時のネアには、まだ悲しくて飲み込みきれていないことが沢山あって、そこに一番いけないひと雫がぴしゃんと落ちてきてしまったのだろう。
だが、それは大事な魔物に触れられなくなるよりももっと、ネアが一番に恐れている事だ。
よりにもよってそんな効果を及ぼそうとしたのなら、あの死者は、死よりも恐ろしい責め苦を味わうべきではないか。
怒り狂っている人間のお口には、すぐさまギモーブが押し込まれたが、むぐむぐ食べてしまった後で、ネアは引き続き荒ぶった。
途中で体力が落ちていたからかぜいぜいしてしまい、そこで、アルテアがすかさずスープを飲ませにかかってくる。
「むぐ。……………ぐるるる」
「落ち着け。二日も寝たきりだったと、話したばかりだろうが」
「あやつめを、粉々に……………」
「ご主人様……………」
「言っただろうが。楽にどうこうできる要素は、一切残ってないぞ。シルハーンよりも、グレアムの方が手を付けられないくらいだ」
「……………むぐ。あの時、グレアムさんの声も聞こえました。来てくれたのですね」
「うん。私が呼んでしまったんだ。あの矢の影響はとても危うくて、ノアベルトとアルテアだけでも手が足りないと思ったからね……………」
「まぁ、ディノがまた泣いてしまいました……………」
「おい、両方が落ち着くのはいつになるんだ……………」
「そして、そんなノアにも会いたいですし、グレアムさんにもお礼を言いたいです。……………は!先生にも、お礼を言わなきゃです?」
「……………グラフィーツか」
そんなネアの言葉に、なぜかアルテアが少し考え込む様子を見せたので、ネアはまたしても首を傾げた。
スープを飲ませてくる姿は介護のようだが、スプーンは自分で持てるのでそろそろ引き渡して欲しい。
「グラフィーツさんにも、何かがあったりは……………」
「彼は無事だよ。扱える魔術が、あの死者の捕縛に向いていたんだ。……………ただ、珍しくかなり激昂していたようだね。……………理由が今回の事ばかりには思えないとグレアムが話していたから、もしかすると……………彼にも何か似たような経験があったのかもしれない」
「……………以前にディノにも話しましたが、あの方はきっと、私という窓を通して、かつて大事にされていた歌乞いさんを見ている魔物さんなのだと思うのです。私に決してその方を重ねる事はありませんが、きっと、……………大事な方を亡くしてしまったときの事などを思い出してしまったのかもしれませんね」
ネアがそう言えば、アルテアが僅かに頷いた。
「だろうな。……………あいつが自ら手を下したかどうかは知らんが、グラフィーツの歌乞いは、魔物に殺された死者のあわいに居たのは間違いない。ウィリアムからあわいにある屋敷を買い取っているし、統一戦争後にはあのあわいに入り浸っていたという話もあるからな。今回の死者については面識がなかったようだが、魔物と人間の契約の周囲で、あのような形で抵抗する人間が出ることは珍しくない。大方、同じような事があったんだろう」
「では、グラフィーツさんにも、しっかりお礼を言っておかなければいけませんね。……………大事な方がどうであったにせよ、今回は助けて下さったのですから、無事でしたよというご報告は必須なのです」
「……………そうだね。なぜかまだこちらにいるから、後で話してみるといい」
「なぬ。……………リーエンベルクにいるのです?」
「うん。それも、この国の王の許可を取った上での滞在だ。エーダリアが、頭を抱えていたよ」
「お前が狂乱しても事だからな。王家側の意向を上手く隠しての監視かもしれんが……………。あの様子を見る限りは、私用だろう」
アルテアがそんな風に話していたグラフィーツとは、その後、すぐに対面することが出来た。
ネアが無事に目を覚ましたと知り、帰るというので慌ててお礼を言いに行ったのだ。
「……………無事だな」
「はい!グラフィーツさん、あの、私を送り帰そうとした死者めを捕まえて下さって、有難うございました」
「くれぐれも、不用意に橋を渡るなよ。クロウウィンは、向こう側との境界が曖昧になる。かかった橋の向こう側から何が呼ぼうと、今はもう、そちらに戻る方が危うくなることを覚えておけ」
「ふふ。私の場合は、ディノが、そうならないようにこの世界に固定してくれているそうなのです!ただ、そのようなものに触れると守護などが弱まってしまうかもしれないそうなので、絶対に近付きません」
「ああ……………」
こちらをひたりと見据えた青藍の瞳に、ネアはふと、この魔物の愛した誰かは、そんな風に帰らせたくない橋の向こう側からやって来たのだろうかと考えた。
異世界からの迷い子はネアしかいないと聞いているが、この世界には、様々なあわいや影絵など、ここではないどこかという土地は幾らでもある。
「それに、私の生まれ育った土地でも、サーウィン……………クロウウィンには、決して橋や水辺を越えてはならないと、両親から教えられていましたから。そのような失敗は絶対に犯しません!」
転移の間の前で、そう宣言したネアをじっと見つめ、グラフィーツはゆっくりと頷いた。
その後、ディノからもあらためてお礼を言ってくれた時には、折角の美味しい砂糖が食べられなくなるからと笑っていたが、ネアは、最初に向けられた眼差しの静かさに、きっとこんな風には終わらなかった物語の顛末が、砂糖の魔物の思い出のどこかにあったのだろうと考える。
(私には、ディノがいて、……………皆がいて、私も帰りたくなくて、もう帰らずに済むようにしてあって)
今回の助けとなったように、得られている守護も、魔物のものだけではなかった。
聞けば、リーエンベルクの居住者となっていることで、土地の魔術にも紐付けられているらしい。
それはやはり、これまでに積み上げてきた日々があればこそなのだと安堵の息を吐いたネアを、こちらの姿に気付いて駆け寄ってきたノアやヒルドが揉みくちゃにして抱き締めてくれる。
廊下に立ち尽くしていたエーダリア迄泣いてしまい、ネアは、大事な家族の安堵に触れて、また少し泣いてしまった。
「……………当たり前のようにそこにあるものを、しっかりと恐れ、けれども怖がり過ぎないように暮らしてゆけるよう、また一つ新しい経験を積み上げることが出来ました」
寝台の横に腰かけ、今はまだ眠っているウィリアムにそう話しかける。
つい先程までは起きていたようだが、新しく広がった戦場の収束に向けた指示を出すのに疲労困憊してしまい、ぱたりと眠ってしまったようだ。
喉元には傷はなく、その首の骨を砕いたともいう証跡は残ってはいなかった。
だからネアは、すやすやと眠っているウィリアムの、少し乱れた髪の毛をそっと撫で、一刻も早くこの魔物に贈るリンデルが出来上がりますようにと思う。
ネアが眠っている間に、ギードもお見舞いに来たようだ。
枕元の台に置かれた籠いっぱいの秋葡萄からはいい匂いがしていて、先程目を覚ました時には、ジュースにして飲んだらしい。
その際に葡萄ジュースを作ったのがアルテアだと聞けば、ネアは何だか嬉しくなってしまった。
グレアムは、最初の夜に寝ずのウィリアムの看病をし、ネアが目を覚ましたと連絡を受け、とても喜んでくれたそうだ。
「明日は、きっと晴れるのではないでしょうか……………」
「ああ。先程までは、ずっと雷雨だったのだ。……………ディノ達の心中を思えば当然の事なのだが、現場の証跡が流れてしまうと、ダリルがぼやいていたからな」
「エーダリア様、ご心配をおかけしました」
「ああ。……………お前が無事で良かった。……………その、ノアベルトは、せめて今夜は、そのまま預かっていてやってくれ」
「はい。今夜はお部屋にアルテアさんも泊まるので、秘密が露見しないよう、細心の注意を払ってこのお膝の上の狐さんと一緒に眠りますね」
ネアがそう言えば、隣の椅子に座ったエーダリアがくしゃりと笑う。
どんな過去があり、誰かにどんな顛末があったとしても、ネアの暮らすこの家にだけはそんな悲しみは持ち込むものか。
そう考え、ネアは眠っているウィリアムに微笑みかける。
うっかり子守唄を歌いそうになってしまい、真っ青になったディノとノアに口を塞がれたのは、その直後の事であった。
明日11/2の更新は、お休みとなります。




