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180. あまりにも突然のことでした(本編)



ネア達はその後、クロウウィンの飾りつけのあるウィームの街をゆっくりと歩き、一刻半程でリーエンベルクに戻ってきた。

ここで少しの休憩を挟み、夕刻からまた街に出るのだ。



「街の様子はどうだった?」


そう尋ねたのは、自分で茶葉を測ってお茶を淹れているエーダリアだ。

見た目は完全に魔術計量だが、本人は大真面目にお茶を飲もうとしている。


この状態のエーダリアの取り扱いについては、予めヒルドから注意があったので、ネアはそのお茶が羨ましい的な目を向けないようにし、クロウウィンのお菓子を食べるのでさっぱりめの紅茶を飲むのだとそれとなく主張して、ポットからいただくようにした。



「比較的平和なように思えました。あの黒南瓜のご夫人は、無事にご主人を死者の国へ送り帰したようですよ」

「ああ。街の騎士から連絡が入った。博物館前の広場だったらしいな。巻き添えの怪我人などが出なかったのは幸いだ。……………そのような時は、あまり周囲が見えなくなっているからな」



リーエンベルクに入っている情報によると、とは言えまだ、ウィーム中央の死者達の戻りは半数程度である。


曇り空でも日中には違いないので、慎重な死者は、陽が落ちてからでなければ地上に上がらないらしい。

陽の光が差し込まない程の重たい曇り空であっても、陽光の気配というものは微かな不快感として付き纏う。


それでもと思い家路を急ぐ死者達の邪魔はしない程度の天候ではあるものの、どちらを選ぶのかは死者達次第だ。



さわさわと風に木々が揺れる。

リーエンベルクの庭に咲いている花々にも繊細な影が落ち、薄闇の中でぼうっと輝くのは森の奥に浮かび上がる妖精達の光だ。

ゴーンと鳴らされた鐘の音は、やはりこちらもここにはない鐘楼の響きだろう。


ネア達が休憩しているのは会食堂で、同じように休憩に来たエーダリアがいる。

昨日の任務でネアが入手してきた栗のお茶は、こんな日にウィーム領主の心を緩めるのには最適なようで、やっとカップに満たされたお茶に、ほっとした様子で口を付けていた。


ここまで大事に飲んでくれると、購入班も幸せだ。




(……………あ、綺麗)



会食堂の窓枠を額縁に、灰色の空がうねるようにゆっくりと動いている。


嵐の日のように目まぐるしく変わる雲の動きはないが、ゆったりと雲の模様を変えてゆくので、空の灰色の濃淡が複雑に変化するのだ。

ネアの一番好きな空模様である。



「………晴れた青空が好きな方も多いと思いますが、私が綺麗な夜空と雪の日の空の他に好きなのが、この曇りの日の空の色なのです。ムグリスの毛並みのような斑になった灰色で、上等な天鵞絨のようでもある空だと思いませんか?」

「……………普通のムグリスなんて」

「ふふ。ムグリスディノは真珠色ですものね。でも、私がディノから貰った髪や瞳の色にもよく似ているので、どうか荒ぶらないで下さいね」



そう言えば、ディノは、はっとしたように曇り空とネアを見比べている。

ややあって少し恥じらうように頷いたので、ネアは、その納得に際してどんな方程式が出来上がったのかは積極的に知らなくていいと結論付けた。


ここで一度、騎士達との情報の中継に当たっていたヒルドが会食堂に現れ、無言でネアを抱き締めてからもう一度仕事に戻っていく珍事があった。


何事だろうかと思い、続けて休憩にやってきたゼノーシュに尋ねてみると、ザルツでまた何やら小さな失態があったらしい。


今回は、あわやというところでザルツ伯が気付き事なきを得たが、見逃していれば昨年のような大きな問題になりかねなかったのだそうだ。

その報告と対応に当たったヒルドは、ザルツ伯がヒルドを苦手にしているからという理由でダリルに担当を任されてしまい、とても心を削ったのだとか。



「またそのような問題を起こしたのか………」

「むぅ。今のお話を聞いて頭を抱えてしまったエーダリア様も、すっかりお疲れのヒルドさんにも、四角ケーキです。お土産で買ってきましたので、皆さんで食べて下さいね。ゼノの分もありますよ!」

「わぁ、僕にもくれるの?」

「はい。グラストさんの分もあるので、休憩の時にでも食べて下さいね」

「いいのか?お前たちはまだ、食べていないのだろう?」

「実は先程、我慢出来ずに林檎の飲み物を飲んでしまったので、四角ケーキについては夜まで我慢することにしたのです……………。私は我儘なので、まずは屋台の焼き立てのふかふかのものを食べたいと思ってしまいました。……………こちらに上がってきている報告では、まだ大きな事件や被害などは出ていません?もし、お手伝い出来る事があれば協力させて下さいね」



残念ながら、クロウウィンと言えばの牛乳と林檎の飲み物と、この四角ケーキはほぼ同じ味なのだ。


どちらも万全の状態でいただくには、少し間隔を空ける必要がある。

なのでネアは、エーダリアがつまんでいた焼きトマトと燻製サラミの小さなカナッペのようなものを追加で厨房にお願いし、この帰宅の間に何とか一度お口の中をリセットしようと考えている。


焼き立てふかふかの四角ケーキは、またぐっと冷え込む夜の街でのリベンジとさせていただくことにしたのだった。


そんなネアの申し出に、エーダリアは鳶色の瞳でこちらを見てふわりと微笑む。



「今のところは問題ないので、夕刻に出かけるまではゆっくりと休んでいてくれ。…………ただ、収穫祭には、あわいとしての特性もあるからな。現在、行方不明者が二人確認されている。南瓜の投げ合いや戻ってきた死者を巡る諍いなどもあり、怪我人は二十三人報告されているな。……………だが、祝祭ともなればこのくらいの数字は想定圏内だろう。このままの上昇率でいけば、穏やかで良いクロウウィンだったと締め括れそうだ」



そんな返答に微笑んで頷いたネアも、その後に起こる波乱については何の予感も抱いていなかった。


よくあるいつもと変わらないクロウウィンだからこその危険というものが、ネアにはまだよく分かっていなかったのかもしれない。


境界が曖昧になり、隣り合わせになる死の向こう側に、悲劇や憎しみが横たわっているのは当たり前の事なのに、なぜか今日ばかりは決して珍しくないものという認識がどこかで入ってしまっていたのだろう。




「すまない、来るのが遅くなったな。何も困った事はなかったか?」

「ウィリアムさんです!」


晩秋になり、陽が落ちる時間は刻々と早くなっている。

夕暮れにはすっかり辺りは真っ暗になってしまい、街のあちこちには、ぼうっとオレンジ色の明かりが灯っていた。

そんな街を遠景に望み、そろそろ出かけようかなという時間で、ウィリアムが到着した。



ネア達がリーエンベルク前広場に出たところで、ふわりと白いケープを翻して現れた終焉の魔物は、軍帽を取り片手でくしゃりと髪の毛を掻き上げている。

そのまま重ねた擬態は、漆黒のトレンチコートの首元にさらりとかけた白いマフラーがこなれた装いで、微かに疲弊したような目元の翳りがあるのがなぜか色めかしい。


そして、前髪を全部持ち上げた擬態は、いつもとは少し違う、人外者らしい冷淡さを感じさせるものであった。


「……………ほわ」


ネアは、その姿に思わず目をきらきらさせてしまい、隣の魔物がはっとしたようにこちらを見る。


「ウィリアムなんて……………」

「ふむ。ディノとウィリアムさんとでは、また少し雰囲気が違うのですよ。どちらも素敵なのですが、ウィリアムさんの素敵さは今見たばかりですので、やむを得ず弾んでしまうのでしょう」

「浮気…………」

「はは、そう言ってくれると、擬態もし甲斐があるな」


そう微笑んだウィリアムの瞳は白金色のままだが、髪色は鈍い銀髪に変えられている。

なお、髪型の変化についてはお洒落で行った訳ではなく、今夜は、お疲れ感からついつい手癖で前髪を持ち上げてしまうらしい。


「出かける時間を遅らせる事も出来ると思いますので、リーエンベルクで少し休まれてゆきますか?」

「いや、それ程でもないんだ。寧ろ、折角の死者の日だからな。ウィームの街で羽を伸ばしている墓犬達や、街の賑わいを見て疲れを癒すよ」


こんな時のウィリアムに対して、同行しなくていいのでゆっくりと休むようにと言うのは宜しくない。

時間をやり繰りして来てくれたのだから、一緒に出かけるのは決定事項なのだ。


とは言え、休ませなくていいだろうかとディノの方を見ると、ディノは微笑んで頷いてくれた。



「元は小さな集落だったようだけれど、あの種の魔術の顛末は手がかかるだろう」

「ええ。今回は、アンセルムを同行していて良かったです。酒精の障りとは言え、狂乱に近い様相でしたからね」

「むむ…………お酒に酔っ払った悪いものがいたのですか?」

「死者の回収や弔いの済んでいない虐殺の跡地に、古い酒を大量に不法投棄した連中がいたんだ。酒精の障りと殺された者達の呪いが相互作用してしまってな。思っていた以上に厄介な事になった」

「まぁ。お酒の不法投棄でも、そんな事が起きてしまうのですね……………」



古くからお酒は、狂乱や饗宴の儀式にも用いられ、危険な効果をも生む魔術的な要素を持つ。

そんなものが弔いも済ませていないような土地に投げ込まれただけでなく、収穫祭の時期が近かったこともあり、土地の魔術が揺らいだ事が裏目に出てしまったらしい。


弔いがまだだった事で、その土地に残されていた死者達もいたそうだ。


そんな死者達を苗床にして生まれ育ったものは、酒精の障りで最初から酩酊し、恐怖や苦痛などを感じ難い。

制圧し、鎮めるまでにかなりの時間がかかったそうで、心を痛める仕事というよりは、兎に角疲労困憊したというような作業だったのだとか。


「死者を苗床にしたとは言え、もう人の形は保っていなかった。犠牲者達の魂は凝りの怪物の発芽の際に砕け落ちて、新しく生まれたものだけが残ったんだろう」

「凝りのものだったのですね……………」

「ああ。竜や獣ならまだしも、酩酊から生まれた怪物だったからな。…………その容貌だけで、使い物にならなくなった者も多かった」

「……………ナインさんを使えばいいのでは」

「まったくだが、彼は今回は不在だったんだ。収穫祭は、ガーウィンでも大きな儀式がある。あちらの領地内での問題が解決していないらしく、外せなかったようだ」



そう聞くと警戒してしまうが、どうやらガーウィン内での権力争いらしい。

となると、ダリルの弟子のリーベルなども巻き込まれているのかもしれないので、後でエーダリアには報告しておきたいなと、ネアはウィリアムに情報の共有許可を取っておいた。



「さて。まずは、どこに行きたい?」

「め、目星は付いているのですよ!博物館前広場を経由して、美術館の一階の今年の展示を鑑賞し、歌劇場や大聖堂の前を通ってリノアールの方へ抜けたいのです」

「それなら、どこかでいつもの飲み物を買うか?」

「ふふ。四角ケーキの予定があるので、私はホットワインにしますね。ウィリアムさんも、欲しい飲み物があれば言って下さい」

「ん?ネアが買う事になっているぞ?」

「お仕事終わりなのですから、労られて当然ではないですか。勿論、私の奢りなのです!」



そう言われてしまったウィリアムは、白金色の瞳を瞠ってから、ふっと優しい微笑みを浮かべる。

こんなやり取りがある度に、どこかに滲む安堵を痛ましく思いながら、ネアは伸ばされたウィリアムの手を握った。


「ディノも、三つ編みではなくて手にしませんか?」

「……………大胆過ぎる」

「まぁ。ディノは伴侶なのに、こちらでいいのです?」

「虐待……………」

「解せぬ」



さてここからと、ネア達はリーエンベルク前広場から続く並木道を、街に向かって歩き出した。



ウィームの夜に、静謐はない。

微かな葉擦れの音に、鳥や虫の声。

しゃりんと落ちる祝福が結晶化する音に、遠くからさざ波のように届く街の喧騒。

ばさりと響く羽ばたきは、鳥だけではなく、竜や妖精のものかもしれない。

がさがさしゅたたと走り抜けるのは、木の枝や茂みの向こうの小さな生き物達だろう。



そんな街にとろりと落ちた秋の夜の色は、天鵞絨やサテンのような艶やかな漆黒だ。


意外にも多く光の入る冬の空とは違い、そんな上等な秋の黒色に煌めく星は金色でぴかぴかしていて、祝祭の夜の魔術を宿した麦穂のリースが、淡い光を宿してくっきりと浮かび上がる。


石畳には南瓜の皮が落ちていたり、砕けた南瓜の欠片があったりもするのだが、見ている間にも小さな生き物達がせっせと回収してゆくので、クロウウィンはそんな生き物達にとっての収穫の日とも言えた。




ずしん。



不意に、鈍い振動が響き、これはまさかと顔を上げれば、暗い夜の向こうをゆっくりと歩いてゆくのは、大きな熊にも似た葬列の魔物だった。

こちらから手を出さない限りは悪さはしないが、空を突くような大きさにいつも圧倒されてしまう。



「……………妙だな」

「ウィリアムさん?」

「葬列の魔物が、足下を見ているんだ。シルハーン、ネアを…」



ひやりとするような冷たい目でこちらを振り返ったウィリアムの声に、ひゅっと鋭い風切り音が重なる。

こちらを向き切る前に視線の方向を変えたウィリアムの目が驚愕に開かれるのを、ネアは、しっかりと見ていた。



終焉を司る魔物が、こんな顔をする事は珍しい。

それを理解した途端にぞっとするような恐怖が這い上がり、ネアは、ディノに向かって手を伸ばそうとした。



「ネア!」



ディノの声に夢中で伸ばした手は届かずに、誰かに勢いよく後方に引き戻される。

ネアとディノの間に撃ち込まれたのは銀色の弓矢で、石畳を割り突き刺さると、びぃんと震えた。


一拍遅れて、脳内の理解よりも早く危険を察した体がぶわっと冷や汗を流す。

あのままディノの方に向かっていたら、この矢を避けられなかったかもしれない。

だが、襲撃はそれに留まらなかった。



だだだん!


直後、続け様に撃ち込まれた弓矢の全てに、ぼうっと銀色の炎の尾がたなびく。

ネアは、ウィリアムに抱え込まれたまま地面を転がったところまでは分かったが、とてもではないがそれ以上に状況を整理し、攻撃を目で追うような事は出来なかった。



「……………っく、」


潰れそうになっていた胸を膨らませ、やっと呼吸をしたのは、ウィリアムが動きを止めてからだ。

漸く息をさせて貰った胸はひりつくように痛み、ぎゅっと抱き締められていた腕が緩んだのでと、そろりと体を持ち上げようとする。


抱えられたまま、殆ど石畳に蹲るような恰好だ。

ざらりと冷たい石畳に手のひらを押し当てても何の動きもないのだから、もうあの襲撃は終わったのだろうか。



「……………ネア、そのままの姿勢で少しだけ我慢しておくれ」

「ディノ……………!」


低く、どこか慎重な魔物の声が聞こえたのはその時のことだ。

ネアは、無事だった伴侶に安堵してその指示に頷きながら、先程よりも周囲が暗いなと思っていた。

それに、ずっと息を止めていたにしても、やけに胸と喉が痛む。

毒混じりの霧を吸い込んだような、焦げ付くような奇妙な痛みだ。



(……………ここは、どこだろう)



ふと、そんなことを考えた。

先程まで歩いていたクロウウィンの街に向かう並木道とは、肌に感じる空気が違うような気がする。

どこかずしりと重い空気は、果たして人間の領域のものだろうか。

となると、あの場所からどこかに避難させられたのかもしれないと考え、不自然な姿勢でうずくまる為に少しだけ身動ぎした。


ぽたり。


何か水のようなものが、けれどももう少し粘度のある液体が床に落ちる音が聞こえた。

その途端にぞっと血の気が引き、ネアは、胸の奥からせり上がってくるような恐怖を呑み込む。


(……………嫌だ)


嫌だと、思った。

それが自分でも、自分以外の誰かでも。

それでも勝手に体だけは予感を深め、目の奥が熱くなり、息が苦しくなってくる。


ぽたり。


また何かが床に落ち、ネアは必死に唇を噛み締める。

涙が零れないように息を細め、未だにひりつく喉と胸の痛みを懸命に堪えた。


まさかという言葉が心の中に浮かび上がり、一生懸命にそれを打ち消す。

あの瞬間に打ち込まれた弓矢の纏う銀色の炎を見たとき、ネアは、昼間に広場で見た黒い帽子の男性を思い出したのだった。


(でもまだ、そうとは限らないし、そうだと決まった訳ではない……………)


けれども、こんな時は嫌な予感の方がよほど当たる。

あの日に鳴り響いた電話のベルを聞いた時にだって、受話器を取る前から取り返しのつかないことになったという予感はあったのだから。



その僅かな時間は、途方もなく長く感じられた。


収穫祭の街に出て、屋台で美味しいケーキを買ったりするのだとほんの少し前までわくわくしていたのに、どうして、こんな押し潰されそうな恐怖を抱えてここにいるのだろう。



「……………重ねたのは何枚だ?」

「十九枚だ。あの瞬間では、それが限界だった」

「ウィリアム、……………少し動けるか?」

「もしもの時は、……………幾つかの置き換えと、因果の書き換えが必要になるだろうね。理解した瞬間から、その理が動き出すと思うよ。覚悟は必要だけれど、準備はすぐに整えられるから。……………その間、僕たちだけじゃなくて、ヒルドや、…………そうだね、ミカやベージみたいな存在がいてくれて良かった」

「触れていた場合は、俺から連絡して、ミカかベージにこちらに来て貰うようにしよう。……………っ、ウィリアム、すまない……………もう少し耐えてくれ」


くらりと眩暈に揺れた頭が揺れないようにしたところで、突然、ここにはいなかった筈の様々な魔物達の声が聞こえてきて、ネアは目を瞬いた。

アルテアの声がして、グレアムの声が聞こえた。

ノアの声もして、皆で何かを話し合っている。


もしかすると自分は一瞬気を失っていたのだろうかと思うくらい、それは唐突な出現に思われた。



(……………ウィリアムさんは?)


けれどもなぜ、ウィリアムは喋らないのだろう。

そして、ノアが話しているもしもというのは、ネアが考えてはならないと思いながらもどうしても考えてしまう、あの恐ろしい可能性を示しているのだろうか。



「…………ネア、意識が戻ったね?」

「ディノ……………?……………ふぇ、…………ふぇぐ」

「うん。ごめん、辛いね。……………もう少し……………こちらの確認と剥離が済むまで、待っていてくれるかい?」

「このまま、じっとしていればいいのですね?」

「うん。……………今は、私達は君に触れられないんだ。……………ウィリアムがどこまでを防いでくれたのかを確認して、……………君に、触れられるかどうかを確かめる迄は」

「……………ディノ、……………あの矢を射たのは、死者さんですね?」

「…………………………そうだね」


深い深い沈黙と、凍えるような怒りがあった。

それは決してネアを傷付けなかったけれど、それでも、この魔物の怒りが痛い程に伝わってくる。



(……………ああ、やはり、あの人だったのだ)



昼間に広場で見かけた男性について、ネアは、勿論ディノにも話をしておいた。

クロウウィンに銀色の涙を流している人物は、魔物に殺された死者達のあわいから上がってくる、怨嗟の深い死者である可能性がある。

彼らに触れると、魔物に触れられなくなるという祝福を得てしまうかもしれないのだと、以前のクロウウィンでウィリアムに教えて貰った事があり、念の為に警戒をしておこうと考えたからだ。


とは言え、そんな死者達を見かけるのは、何も今年が初めてではない。

最初に見かけた赤いドレスの女性もそうであったし、その後にも何回か姿だけは見た事がある。

だが、そんな亡霊達の眼差しは大抵が虚ろだったり、どこか遠くを見ていたりして、あの男性のように真っ直ぐにこちらを見ていたり、しっかりとした自我のようなものを感じ取れる事はなかった。


だから、何かが異質で、何かが気にかかった。

そうして意識に留めたことを蔑ろにするのは大嫌いなので手は打っておいたが、きっとそれ以上の事が起きたのは間違いない。

ネア自身だって、まさか、その死者にいきなり襲撃されるとは思ってもいなかった。



(背中に背負っていた鞄は、弓だったのだわ……………)


もしかすると楽器や道具類かもしれないとも考えたが、武器だとは思わなかった自分に、ネアは悔しくなる。

会食堂での休憩の時間にエーダリアにも心当たりの死者はいないかと聞いてみたものの、そのような容姿の人物は、このウィーム中央では記憶にも記録にもないという返答であったので、持っていた荷物への警戒心を上書き出来ずにいた。


(ああ、武器だと見抜けていれば、もっともっと警戒したのに……………。でもそれも、所詮、後付けの後悔でしかないのだわ……………)



であればなぜ、そんな死者がネア達を攻撃したのか。

無差別であったのかもしれないが、加えて、死者にあのような攻撃が出来たというのも驚きである。



(そして私は、先程の攻撃が、あの男性からのものだと疑いもしないのだ……………)


それは嫌だった。

それだけは嫌だったのに、なぜ確信してしまうのだろうか。

悲しくて堪らなくて、溢れそうな涙を必死に堪えているせいで、息が苦しくて堪らない。



「……………五枚目だ。……………くそ、ここもか」

「深いな。……………あの弓の特定は済んだのか?」

「いや、そっちは俺じゃない。そもそも、誰が取り押さえたんだ?」

「アルテアじゃないとなると、……………あの魔術の織りは、……………グラフィーツか」

「わーお。彼もいたんだ。……………とは言え、お陰で追撃がなかったんだ。感謝しなきゃだ。……………そっちの確認は、後で僕も加わるよ。ウィリアムが何と言おうと、そいつはただじゃ済まさない」

「当然だ。そいつには、俺も確かめたい事がある」

「これで九枚目だね。……………ここも浸食されているようだ」


魔物達の声には、じわじわと焦燥感と微かな絶望が感じ取れるようになった。

ネアは怖さを押し殺して息を整え、けれども、わあっと声を上げて咽び泣きたかった。


(もし、……………十九枚目も駄目だった場合は、……………私は、この先、魔物に触れられなくなるのだろうか)


少しずつひび割れて平坦になってゆくディノの声に、すぐにだって立ち上がって抱き締めてあげたいのに、どうしてもそれが叶わない。

もしかするともう、ネアは、この大事な魔物に触れられなくなっているかもしれないから。


「十三枚目か。……………ここもだな」

「……………十五。うん、ここもだね。でも、範囲は随分と小さくなった。間に合ったかもしれないよ」

「……………十七、ここにも僅かな染みがあるね。……………十八」


息を詰め、ネアは祈るような思いで指先を握り締める。

冷たい床石ですっかりと体は冷え込み、相変わらず胸と喉はひりひりと痛みを訴えてくる。


(……………なぜ。……………どうして、私だったの。どうして……………)


どうしてまた、やっと手のひらに貯めた僅かな幸せを、零れ落ちさせてしまうような事が起こるのか。

ずっと持っていた訳ではなくて、やっと手に入れて、大事に大事に持っていた筈なのに。

その宝物の全てを粉々にされてしまったら、この先、どうやって笑顔に戻ればいいのだろう。


(……………でも、もし駄目だったとして、……………どうにかしてディノを安心させてあげないと。触れられなくなっても、二度と会えない訳ではないのだ。お喋りだって出来るし、きっと、一緒に暮らしてゆくことだって出来る筈だから……………)



奥歯を噛み締め、ぐっと指先を握り締めてその最後の確認を待った。



「……………念の為に聞くが、通常の守護が何層だ?」

「十層だよ。ただしそちらは、あくまでも普通の守護と排他結界だ。あの怨嗟と、武器。……………恐らく、銘のあるような物だろう。……………それ等に特化させたものではないから、防御率は格段に落ちる……………」

「……………一層目」


ノアの声の響きに、ああ、最初の十九層では足りなかったのだと分かった。

体からどっと力が抜けてしまい、そのまま床に突っ伏したくなる。

けれどもまだ確認は続いていて、例えどんな結果が出ても、ネアはこの場から逃げ出す事は出来ない。

今や、絶望はとげとげの硝子の欠片のようであったが、それを何度も呑み込んで呼吸をしなければいけないのが、泣きたいくらいに煩わしかった。



「……………八層目」


またの長い長い沈黙の後、最後にそう言ったのはディノだろう。

引き剥されて捨て去られる何かが、がしゃんと床に落ちて粉々になる音が初めて聞こえた。


「……………ネア」

「……………い、嫌です。ディノに触れられなくなったら、誰にぎゅっとして貰えばいいのですか……………?」


頑張ってディノを元気づけようと思っていたのに、気付けばそんな事を口走っていた。

自分が言ってしまった言葉を理解してはっとすると、ネアはくしゃりと顔を歪める。

もう我慢は出来なくて、ぼろぼろと零れた涙が頬を伝い、その涙ごと誰かが優しくネアの顔を両手で包んでくれた。


「大丈夫だったよ。……………残り二層で、あの怨嗟の炎と毒の魔術の浸食を防ぐ事が出来た」

「……………ディノ?」


くしゃくしゃになった顔を上げると、床に膝を突き、こちらを見ている美しい魔物がいる。

その魔物も何だか泣いているような気がして、ネアは胸が潰れそうになった。


「だい、……………大丈夫だったのですね?」

「うん。様々な要因が、結界の強度を高めていたのだろう。……………通常のものではもう難しいと思っていたけれど、君の平素の守護の中には、私達のものだけではなく、他の様々な資質が混ざり込んでいる。例えば、ヒルドの庇護や、アレクシスのスープのようにね」

「……………そのようなものが、……………私を守ってくれたのです?」

「……………うん。良かった。……………君を、……………」



ディノはそこで言葉を失ってしまい、無言で抱き起こされ、ぎゅっと抱きすくめられる。

その腕の強さにやっと怖さが緩んで、ネアはえぐえぐ泣いてしまった。

けれども、そうして号泣してしまうと、未だに残る喉の痛みと胸の痛みに加え、まだ声の聞こえてこないウィリアムの事が気になった。


「ディノ、ウィリアムさんは……………」

「……………彼が、盾になってくれたんだ。通常の排他結界では意味を成さない攻撃だと、私よりも先に気付いたのはウィリアムだった。……………ウィリアムも無事だよ。擬態をしている状態で特殊な魔術付与を受けてしまったから、傷の修復に少し時間がかかるけれど、今後、何かを大きく損なうような損傷ではない」


ではなぜ、ディノはぎゅっとネアを抱き締めたままで、振り返らせてくれないのだろう。

そう考えて目を瞠ったネアに、体を屈めてこつんと額を合わせた魔物は、もう少しだけ我慢しておくれと苦し気な声で呟く。


「……………でも、振り返らせて下さい。ディノ、私は見ておくべきです。ウィリアムさんは、私を守ってくれたのですから」

「ネア……………」

「私を大事にしてくれている人達がいるのに、わざわざ自分を損なうような我が儘は言いません。でも、これは、…………この先の自分の為にも、そうするべきなのだと思います」


しっかりと伴侶の目を見上げ、きっぱりとそう言えば、僅かに手が緩んだような気がした。

それを許可だと受け取ったネアは、ディノの腕の中で身を捩り、ゆっくりと背後を振り返り小さく息を呑む。



(……………ああ、)


どうやらここは、がらんどうのお城のような場所であるらしい。

どこまでも暗く天井は見上げる程に高く、真っ暗で廃墟のようになっている。


そして、そんな空間の中で、誰かが置いた椅子に座っているウィリアムには、意識はあった。

アルテアとグレアムが、擬態したままでいるウィリアムの体から慎重に引き抜いているのは、先程の銀色の炎を纏った弓矢だ。


マフラーやシャツに滲んだ血の赤さを思えば、きっともっとあったに違いないが、今は、背中の二本と、……………そして、首後ろから深々と喉を貫いた一本が残っている。



「……………だから、」


だから喋れなかったのか。

そう理解して、また涙がこぼれてしまう。

こちらを見ているウィリアムは、かなり辛そうだがしっかりと意識はあるようで、そんなネアを見て、困ったように薄く微笑んだような気がした。


「……………不利となる擬態を解く事よりも、君を守る事を優先させてくれたんだ。人間に近い擬態を纏った状態であの矢を受けた事で、今は傷口の癒着と魔術浸食で、本来の姿に戻れないでいる。それが治癒を妨げているのだろう」

「……………はい。……………っく。……………ディノ、何か私に出来る事はありますか?」

「あの傷の治癒は、魔物と人間の接触を剥離させるものだ。私達では難しいからね。魔物でも人間でもない者に診て貰おうと思っている。君も、これから治療を受けなければ。あの銀の炎と同時に、通常の矢も放たれていたんだ。ウィリアムは、そちらを排除する為に、少し強い魔術を使わなければいけなかった。君の体にも、少しだけ影響が出ている筈だよ」

「……………それは、」



喉と胸が痛む原因だろうかと尋ねようとして、ネアは、くしゃんと意識が崩れ落ちた。

体力の限界が来たのかもしれないし、いよいよ喉の矢を抜くというところだったウィリアムの治療を、これ以上ネアに見せる訳にはいかなかったのかもしれない。



意識の底で、心の中にたっぷり落ちて溜まった涙の海にとぷんと横たわると、ネアは、小さな子供のように体を丸め、やっと噛み締めても良くなった恐怖を抱えて声を上げて泣いた。

もうこれ以上に怖い事がなくなったから、安心してわんわんと泣き、もう一度手のひらの中の宝物をしっかりと抱き締めたのだった。







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