ラベンダーのクッキーと黎明のバイオリン
「ネア、今日は僕とお出かけしてくれるかな」
「ノア?」
その日、明日のクロウウィンに備えて準備は出来たかなと、早速少しだけそわそわしているネアは、ノアからそんな誘いを受けた。
珍しく朝からきちんとしているなと思ったのだが、どこかへ出掛ける用事があるようだ。
とは言えネアも身内雇用とは言え雇われ人でもある為、本日の薬作りの仕事がある。
仕事が終わってからでいいか聞こうと思ったところ、ヒルドが、であればその出先でのお買い物の仕事を頼んでもいいだろうかと言うではないか。
「昨日に引き続き、外出の仕事になってしまいますが、ご負担でなければ宜しいのですが………」
「ノアの行き先と同じ所なのですよね?であれば、有難くそちらを引き取ってしまいますが、もしお薬が足りなければ帰ってきてから作って貰うので、どうぞ言って下さいね」
「ええ。今のところ問題ありませんが、何か必要な薬が出来た際にはお願いします」
そう微笑んだヒルドは、今朝は珍しく髪を下ろしていた。
今日は代休の日で、この後は自室でゆっくり過ごすのだが、明日が死者の日ということもあり、朝食の後は少しだけ業務の確認や引継ぎなどを行うのだという。
服装もいつもよりゆったりしている物で、これはもうきっと朝食の席でも休日仕様の装いでいられるくらいにヒルドも心を緩められるようになったのだなと思えば、昨晩、寝惚けて会いに来た銀狐が染め物をひっくり返す大事件があり、あまり寝られていないのだそうだ。
ネアは、この美しい妖精に何をしたのだという眼差しで義兄を振り返ったが、公爵位の分別のある年齢だった筈の魔物は、ささっと視線を逸らし項垂れていた。
ノアが助けを求めようとしたが気付いてくれなかったエーダリアは、何やら真剣にお皿を見つめており、そちらは何が起きているのかなと思えば、お皿の縁の花模様が少しだけ結晶化しつつあるのだとか。
リーエンベルクの食器類は大事に使われているだけでなく、古いものは絵付けに使われた顔料などが希少な素材であったりもする。
食事中にじっと見なければ分からないくらいの変化だが、こうして密かな変化を遂げている場合も多い。
光に翳した時に、絵付けの色彩に不思議な透明感があるとこっそり結晶化している証拠なので、浸け置き洗いなどで損なわないよう、管理の仕方を変えねばならないのだ。
結晶化は魔術階位が上がった証拠なので損なわれはしないのだが、洗剤の何某かが作用してお皿から花が咲いてしまったりすると、元に戻すのが一苦労となる為である。
「よいしょ。いきなり誘ったけど、…………怒ってない?」
「あら、そう見えてしまいましたか?」
「こういうの、初めてだからさ。でも、ヒルドに相談したら、家族だから予定さえ合えば大丈夫だよって」
「ええ。私もあまり慣れていないので、正解が分からないのですがそれでいいのだと思います。因みに私の場合は、美味しいものをいただく予定を潰さない事と、睡眠を損なわない事、そして、女性特有の準備などが求められる場へのお誘いは出来れば前日の朝までに教えて欲しいというくらいでしょうか」
「わーお。それじゃ、今日の行き先のお店は、美味しいクッキーが買えるよって言っておくべき?」
「行きましょう!今すぐに行きます!!」
歓喜に弾んだネアに、ノアは嬉しそうに笑った。
おや、これは何かの思い入れのある場所だぞと考え、ネアは、胸元ですやすや眠っているムグリスディノが落ちないように収まり具合を確かめ、ノアの手を取った。
「……………え、求婚されてる?」
「初めて行くところなので、迷子にならないように手を繋いだのですよ?」
そう言えば、こちらを見たノアがなぜだかほっとしているような気がして、ネアは、むむむっとその青紫色の宝石のような瞳を覗き込んだ。
ノアは微かにぎくりとしたようだが、また朗らかな微笑みを上乗せしてしまい、ネアはこの魔物が何を隠しているのかは掴めなかった。
「もしや、刺されそうな恋人さんがいるのですか?」
「あ、違うよ。安心して!……………そうだな、……………ずっと行ってみたかった店なんだよね」
「という事は、ノアはまだ行った事がないのですね」
「うん。でも昔からある有名な店だから、名前だけは知っていたし、その店のクッキーを貰って食べた事はあったけどね」
「そして、ノアにとっては、ちょっぴり特別なクッキーなのですね?」
視線の先で、白に氷色の入った睫毛がふるりと揺れた。
いつも口角がきゅっと上がっている唇が少しだけ引き締められ、綺麗な綺麗な瞳が緩む。
「……………そうだね。路面列車に乗るから、そこから店までの道中で話そうか」
「ろ、ろめんれっしゃ!!!」
「ありゃ、大喜びだぞ……………」
ネアは、路面電車ならぬ、路面列車が好きだ。
好きだと言っても実はあまり乗った事がなく、寧ろ、本格的に好きになったのはこの世界に来てからである。
ウィーム中央は公共の転移門が多いので見かけないが、少し離れた都市では運用が少なくない。
街中の高低差が大きい土地では、住民達の大事な生活の足なのだ。
「こちらの世界の路面列車は、車体が古びた素敵な形なのです。結晶化した木と森結晶やその他の部品で出来ていて、その土地の魔術を沢山宿した木の枝や、場所によっては団栗なども燃料にして走るのですから、これはもう憧れの乗り物と言っても過言ではなく…………」
はふはふと興奮に息を荒くしてそう主張するネアに、隣に立ったノアはにっこりと微笑む。
二人は手を繋いでいて、ご主人様の胸元に設置されたムグリスな伴侶は、そんな初めての体験に何とか寄り添おうと必死に頑張っていた。
「キュ……………」
「あらあら、瞼が下がってきてしまうのです?」
「……………キュ。…………キュ?!」
「ふふ、路面列車が来たら起こしてあげますから、今は目を閉じていても大丈夫ですよ」
「キュ…………」
「シルは、なんでムグリスになってるの?」
「今朝は気持ちのいい朝だったので、お庭を散歩してから会食堂に来たのですが、その際にムグリスが足元に落ちていたのでついついお腹を撫でてしまったのです」
「それでかぁ………。朝からって珍しいなと思ってたんだよね」
「少し砂色っぽい個体だったので、普通のムグリスよりも柔らかな毛並みかなと思ったのですが、ムグリスな伴侶がやはり一番でしたね」
「うん。僕も毛並みには自信があるから、シルもそうだと思うよ。ふかふかだと皆が撫でてくれるから、手入れは怠らないよね」
「ノア、狐さん目線になっていますよ?」
「……………わーお……………」
塩の魔物は、すっかり心が銀狐軸になっていることに困惑していたが、ネアとしては違う見方もある。
銀狐の毛並みの手入れがされているのは確かだが、それを行っているのは、ほぼエーダリア達ではないか。
勿論、ネア達がお風呂にいれたりブラッシングをしたりもするのだが、銀狐的には、ブラッシングの腕がいい、エーダリアやヒルドの方がいいと考えている節がある。
なお、アルテアがリーエンベルクに滞在していると、そちらを訪ねてゆくことも少なくない。
まずはふわんと転移で訪れたのは、様々な因縁があるので、ウィーム第二の大都市ながらもあまり訪れる事のないザルツだ。
とは言え今回は街の中心部ではなく、少し郊外にあたる場所が目的地で、家々の向こうには葡萄畑なども見えた。
高台に上がればザルツの中心部の街並みが見渡せそうな立地で、やはりこちらも、路面列車があるのは高低差を緩和する為であるらしい。
「ザルツにも路面列車があるだなんて、ちっとも知りませんでした」
「街の中心は、割と平坦な土地を選んでいるからね。こちら側だとあまり観光客も来ないし、生活の為の路面列車って感じなんだよ」
「とはいえやはり、ザルツというだけあって綺麗な街並みですね。あの奥にあるのは教会でしょうか?」
「うん。地域の住人用の小さな教会だね。奥に見える屋根は、図書館かな」
「ノアは、屋根だけを見て図書館だとわかってしまうのです?」
「屋根の雨樋のところに、小さな竜がいるんだ。あれは、書の系譜の竜だからね」
「ちび竜さん……………」
「おっと、持ち帰り禁止だよ!」
そんなお喋りをしていると、ごうんごうんと音を立てて路面列車が坂道を上がって来た。
ネア達が選んだ駅は既に少しだけ高台にあり、川沿いの一番低い区画からはふた駅程上がったところだ。
一両編成の小ぶりな路面列車はネアが憧れた通りのクラシカルな作りで、車両の中だけでなく、前後には手すりに掴まって気軽に乗れる甲板型の車外席もある。
暮らしに根付いた交通の足らしく無料で運行されているが、酷い嵐の日や、観光収益が少ない年などはお金を取ることもあるのだそうだ。
幸いにも今日は素敵な秋晴れであるし、ほんのり雲がかかったお天気はウィームでは定番の空模様である。
「さぁ、僕のお姫様を案内するよ」
「ふぁ………」
ネアは路面列車初心者なので、まずは車内の席に座ってみる事にして、少しくたびれたクッションの座席も風合いがあって宜しいと目をきらきらさせた。
起こして貰ったばかりのムグリスディノは、こちらも路面列車初乗車である。
すっかり目が覚めてしまったのか、ちびこい三つ編みをしゃきんとさせて、目を丸くしていた。
からからがっしゃんと引き戸を留め金で押さえるタイプの扉が閉じ、ごうんごうんと路面列車が動き出す。
耳を澄ませて聞いていれば、車輪が動くような独特の音も加わっており、中心街を離れているとはいえ音楽家の住まいなども多く美しい街並みをゆっくりゆっくりと走ってゆく。
(綺麗で、趣があって、なんて素敵なのだろう……………)
ネアがすっかり気に入ってしまった車内は、古いカフェのような居心地のいい内装だ。
模様のある織布を張った座席はクッション張りで、深い飴色になった木で作られた座席は肘置きなどに細やかな彫刻がある。
吊り革はなく、立っているお客は、等間隔に並んだ細い支柱を掴んで体を支える仕様だ。
窓は大きく取られており、街並みを映す額縁のよう。
停車して欲しい駅を伝えるベルやボタンはなく、全ての駅に必ず停まるものなのだそうだ。
停車駅が近くなると、ぎぃっと音がして、がこんごろごろと不思議な音がする。
また、車両の横には蒸留所にあるような不思議な器具があり、そこから、しゅんしゅんと火にかけたポットのように蒸気が立っていた。
「この路面列車は、何を燃料にしているのでしょうね」
「あそこに書いてあるよ。…………ああ、葡萄がらや枝を燃料にしているみたいだね」
「なぬ。贅沢ものめ……………」
「え、そんな感想?」
ネアは、それは美味しい料理の為の一工夫でも使える素材であるのだぞと考えていたが、どうやらザルツでは路面列車の燃料に使われてしまうらしい。
ただし、ノアが見つけてくれた車内のプレートには、秋はという表記であるので、季節によって燃料が変わるのだろう。
(……………凄く、わくわくしているのかな?)
ちらりと隣を見ると、車両の中の僅かな影でノアの青紫色の瞳は光るようだ。
ばさりとした睫毛を少し伏せ、唇の端にはむずむずとした微笑みが浮かんでいる。
初めて出会ったときはあんなに朗らかでも冷たい目をしていたのに、今は手を伸ばして撫でてあげたいような顔で微笑むこの魔物は、ネアのもう一人の大事な家族だ。
少しだけくしゃっとした髪の毛は、ネアも持っている幅広の濃紺のリボンで結ばれていた。
今はもう必要がないのに大事にしているリーエンベルクの許可証の結晶石と、もっと大事にしている指輪型のリンデル。
多分、今のノアには宝物が増えた。
きらきらと、きらきらと。
なぜか、そうして増えてゆく宝物の煌めきを思うとき、ネアはもう会う事もない人と雪の中で花火をした日を思い出す。
あの時の弾ける火花に、誰かのきゃっという声や雪を踏む音。
きらきらしゅわりと色付きの火花が雪の上に散らばり、その時のネアは、どこか遠くの誰かを思っていた。
(…………多分、あの日の私が思ったのは、亡くした家族や、生まれ育った世界で得るはずだと信じていたのに、得ることが出来なかった私の人生に寄り添う誰かなのだろう)
とは言え、二度と会う事のないあの雪食い鳥の伴侶を、そこまで懐かしく思う事はないのだから、記憶というものは不思議なものだ。
ネアには他の大切なものが沢山出来てしまい、あの頃の事を思うと、ネアが記憶を失っていたときにディノはどれだけ怖かっただろうとむしゃくしゃするくらい。
「……………でも、そのお陰でノアに会えました」
「ネア?」
「ふと、アンナさんにしでかされたことを思い出していたのです。今思えばむしゃくしゃするばかりの事件ですが、不思議ですね、あの事件がなければ、私はきっとノアに出会っていないのですよ」
「え、……………怖いからやめて」
「あのラベンダー畑で、ノアに出会えて良かったです。ノアがいなければ私が挫けていた事件は沢山ありますし、何よりもノアに会えていなかったら、私の家族は一人足りませんでした」
「……………わーお。こんなところで泣かしにかかってきたぞ」
「キュ」
「でも、今はもう家族になってしまったので、これからも一緒にいましょうね」
「……………うん。君は僕の世界一大事な女の子で、僕の妹なんだ」
そう呟いたノアの声はとても優しくて、どこか誇らしげだ。
ネアは三つ編みをしゃきんとさせたムグリスな伴侶に、こちらは大事な伴侶だと告げ、頭の上に口付けを落とされたムグリスディノはこてんとなってしまった。
カーンカーンと、どこか遠くで鐘の音が聞こえる。
屋根の向こうを飛んで行く竜の影が見えて、その次の駅では、綺麗な青みがかった檸檬色の羽を持つ妖精が乗車してきた。
さらりとした長い髪の青年姿で、バイオリンケースを持っているのがザルツらしい。
車内に貼られた演奏会のポスターを見て唇の端を持ち上げ、また読んでいた本に視線を戻す。
ネア達はその次の駅で車外席に移り、一駅分だけは気持ちのいい風を感じながらの走行を楽しんだ。
聞こえてくる音にことことという走行音が加わり、少し煙っぽくもなるが、街の香りが感じられるのでこれはこれで素敵な体験ではないか。
肩に小さな竜を乗せた男性も車外席に立っていて、紙袋で買ったばかりらしい揚げたジャガイモを、ぱたぱた羽を震わせる竜に食べさせていた。
特別な事など何もない街の日常の光景に、ネアはむふんと頬を緩める。
こうして、人々の生活に根差した場所に落ち着き、いつもの場所ではない街の生活の中に溶け込んでいるような感覚は、ちょっぴり玄人旅人のようで悪くない。
「次の駅で降りるよ。手を繋ごうか」
「はい。………まぁ!楓のトンネルがありますよ!!」
「キュキュ?!」
「むぐ?!なぜにムグリスディノが荒ぶり始めたのだ……………」
「ありゃ、なんでだろう……」
道の真ん中や歩道の端にある楕円形の少しだけ高くなっている石のホームが、路面列車の駅である。
ネア達はそんな駅でひょいと列車から降り、見事な楓のトンネルになっている歩道を歩き始めた。
なぜかムグリスディノが警戒しているが、ノアに聞くと何も厄介なものは潜んでいないという。
ネアは首を傾げながら、大事な伴侶のむくむくのお腹を撫でてやりながら、見事な赤いトンネルを抜けた。
「そろそろ、本日の目的地を教えてくれますか?」
「……………うーん。そうだね。……………菓子店なんだよ」
「じゅるり………」
「はは、僕の妹はきっと気に入るよ。…………クロウウィンの前までだけ、ラベンダーのクッキーが売っているんだ。ちょっぴり塩味も効いていてさ、結構人気なんだって」
「まぁ。という事は、今日までの販売なのですね?」
「うん。だから、君と買いに来たかったんだ。……………ずっと前にそのクッキーを見付けた時もさ、こんな時期で、街角で死者を送り返す為の南瓜が売っていたっけ」
こつこつと石畳の歩道を踏む靴音が響く。
とは言え周囲には、街を行き交う他の通行人の姿もあり、地元の人達に人気のパン屋さんや、青磁模様のような素晴らしい外装のお惣菜屋さんもある。
クロッカスのような花が満開になった青い鉢を扉の前に置いた薬局に、ザルツらしい楽譜の売店まで。
どこからかはらりと落ち葉が舞い込み、公園の横を歩いた時には綺麗な松ぼっくりが歩道に落ちていた。
歩くリズムに合わせてノアのコートの裾が揺れ、楓のトンネルを抜けたところで落ち着いたムグリスディノは、またちょっぴり眠たくなってきたようだ。
「その時は、ラベンダーのクッキーは買えなかったのですか?」
「……………うん。君がいなかったからね。…………統一戦争の二年後くらいで、ザルツは復興の必要もなかったから賑わっていたし、こんな風にクロウウィンの飾りもあちこちにあった。…………今はもうないけれど、あの本屋の近くに小さな雑貨屋があって、イブメリアのカードやオーナメントを売っていたんだ。……………僕はさ、それを見て、もうその夜水晶のオーナメントを買って、いつか君にあげたら喜ぶだろうなっていう楽しい気持ちになる事はないんだって考えて、打ちのめされていた」
「……………ノア」
「君に出会ってからは、ずっと楽しかったんだよ。またあの女の子に出会ったら、何を話そうかって。君がそんな僕を好きかもしれないから、小さくて居心地のいい家を買ったし、美味しそうなシュプリを集めたりした。美味しいパテを出す店を覚えておいたり、………小さくて女の子が好きそうなきらきらした小物を集めたり。……………そんな風にね」
そう教えてくれる口調は少しだけ悪戯っぽく聞こえるようにと整えられていて、ネアは、胸がぎゅっとなる。
「……………私も、両親や弟が死んでしまってから、ちっとも楽しくありませんでした。綺麗な置物や美味しいものを見付けても、もう誰とも分かち合えないのですよ。それはもう無残な気持ちで、そうして奪われたものは、私がこの先もご機嫌に生きてゆく為の権利すら奪ってしまうのだと、とてもとても悲しかったです」
「はは、困ったな。……………ネアも、僕と同じだね」
「ええ。だから、そういう事はもっと早く打ち明けてくれて、もっと早くやり直しておくべきです。それなのに、ノアは今日まで我慢してしまったのですか?」
ネアがそう問いかけると、こちらを見た魔物は途方に暮れているようだった。
ややあって青紫色の瞳がふるりと揺れ、そうだねと困ったような優しい微笑みを浮かべる。
「……………そっか。もっと早く言えば良かったかな。しょうもないことだけどさ、君と、この店に来たかったんだ。ラベンダーのクッキーを買って、あの日にラベンダー畑で会ったねって話したかったんだ」
「むぅ。それはもうたいへんに美味しい行事なので、絶対にやりましょうね」
「うん。……………ああ、僕は随分と幸せになったんだなぁ………」
「そして、ヒルドさんが出がけに、どこかでお昼を食べてきてはどうかと提案してくれたので、一緒にお昼を食べてゆきませんか?」
「わーお。デートだ……………」
ここでもうすっかり笑顔になったノアは、一つ角を曲がり、可愛らしい赤い扉の菓子店に案内してくれた。
周囲と同じ砂色の石造りの建物だが、木製の扉と窓枠が同じ赤色で塗られていて、なんとも可愛らしい佇まいだ。
店の前の街路樹はプラタナスのような木で、木の上にはぐでんとなった竜が引っかかってすやすや眠っていた。
ぽろろんと、扉に付けたドアハープが素敵な音を立てる。
ネアは思わず振り返ってしまい、ドアハープなる道具をまじまじと見つめた。
アヒルの親子の絵が描かれた可愛らしい木製の物だが、張られた糸は流星水晶製だとノアが教えてくれる。
そして、お目当ての品物は木の棚の上に並んでいた。
「さてと。……………このクッキーだね」
「四角形の一口クッキーです!…………むむ、試食があるのなら、食べない訳にはいきませんね」
「うん。食べてみて美味しかったら、何箱か買おうか」
ネアはまず、小さな試食用のかけらを一口自分の口に入れ、おおっと目を輝かせた。
そして、もう一欠片を手にして、えいっとノアの唇に押し付けると、目を丸くした義兄はなぜか恥じらいながら食べてくれる。
眠っていたムグリスディノも起こして、小さく割れた欠片をお口に入れてあげ、ネアは、むんずとクッキーの箱を二つ掴んだ。
「ラベンダーの香りがふんわり優しくて、甘さが控えめでアーモンドのような風味もあります。何より、さくさくっとした触感の中に微かに塩の味が効いていてとっても美味しいです!」
「……………え、僕、また求婚された」
「沢山揃えてある訳ではないので、我が儘を言わずに二箱にしますね。帰ったら、このクッキーでみんなでお茶をしましょう?」
「……………うん。そうだね。やっと、このクッキーを君と買えた」
「随分お待たせしてしまいました。クッキーの缶も、綺麗なラベンダー色で素敵ですね」
「これは、ずっと取っておこうかな……………」
「まさか、ボールを入れるのでは……………」
「ありゃ……………」
ネアはここで、ヒルドから頼まれていた栗のお茶も購入する。
このお茶は別の工房で作っているものなのだが、山奥にあり、取扱店も少ないのだそうだ。
この菓子店で売っている事は、リーエンベルクの騎士の一人が教えてくれたらしく、ヒルドもこの店に来たことがあるらしい。
実は密かなエーダリアのお気に入りで、こっそりの仕入れである。
また緑の茶葉と合わせてあるので、ポットで淹れると綺麗な緑色になるのだとか。
ネアは、ケースの中のシュガードーナツもじっと見ていたものの、このお店ではラベンダークッキーだけを買うのだと視線を持ち上げた。
ネアが二箱にノアが二箱。
家族へのお土産にもするが、日持ちするのでまた来年の初夏の販売開始まで、ゆっくりと食べてゆこう。
(ノアがずっと待っていてくれたのだもの。今日は、このクッキーを美味しく食べる事に全力をかけるのだ……………)
四角い小さなクッキーには、贈り物に最適な祝福も込められているらしい。
また会いたいねというような願いを込められたお土産用のクッキーは、一口食べただけで美味しさに震えるというようなものではない素朴な味なのだが、なぜか後を引くという噂で、遠方からも買いに来るお客が絶えないのだとか。
そんなクッキーの入った缶は、手慣れた様子のお店のご婦人がくるくるっと綺麗なクロウウィン模様の包装紙で包み、可愛い赤い紙袋に入れてくれる。
お会計はノアが済ませてくれ、お目当ての品を手にしたネア達は顔を見合わせて微笑んだ。
これにて、悲しいいつかの日の任務は遂行されたので、今度からは、二人でこのクッキーを買いに来た日の事を思い出して貰おう。
なお、昼食にとノアが選んでくれたのはヴェルツにあるパテの専門店だった。
ネアは無花果と鴨のパテを、たっぷりのディジョンマスタードでいただき、小海老のカクテルなどと共に、カリカリに焼いたパンとの組み合わせに酔いしれた。
一杯のシュプリと気軽な料理を楽しむ素敵なお店で、ネアは、チーズたっぷりのオニオングラタンスープにも大いに心を動かされた次第である。
その時にはさすがにディノも元の姿に戻ってくれたので、帰り道でほろ酔いのノアに肩を貸すのは、そんな魔物の役目になった。
買って帰ったラベンダーのクッキーのお土産は勿論のこと、ヒルドの特別任務の栗のお茶もたいへん喜ばれ、それはそれは素敵な一日になったことをここに記しておく。
ただし、ネアがパテを二個も食べたのは、食事量に厳しい使い魔には絶対の秘密なのである。
また、路面列車で乗り合わせた妖精の青年が、黎明のバイオリンと呼ばれる、こちらも超一級の音楽家だったと知り、ネアがもっと観察しておけば良かったとへなへなになるのは、その数日後の事であった。




