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メデュアルの舞踏会と黒い鳥 4




誰だって、さして親しくない相手の閨ごとの場面には遭遇したくないだろう。

それが私的な空間に無理矢理に投げ込まれての遭遇であれば尚更だし、相手が人間の作法を超えた人ならざる者であればいっそうに事態は思わしくなくなる。



「この領域は、買い上げされた私個人の領域となります。あの鏡の裏側と同じようにね。ですので、アルテアは呼べませんよ。例えあの方が選択を司ろうとも、それを排除するに等しい条件の場所ですから」


おまけに、お迎えも来ないと知ってしまったネアはただ絶望した。


牙を剥いた魔物の咢の内側に入り込んだような不穏さとはまた別に、いけない場面を見てしまったぞという気まずさもかなりのものなのだ。

例え、お気に召さなかったらしい誰かが一人、ばらばらになって床に落ちているのだとしても、寝台にはまだ美しい女性がしどけなく横たわっているし、閨ごとの場面には違いあるまい。



(……………成る程、食い散らかすという表現がぴったり当て嵌まる。このような一面はあまり知りたくなかったのだけれど……………)



ネアをここに投げ込んだのが魔術師であれば、どんな反応や対応を見ようとしたのだろうか。

或いは、商人であれば、それは、アルテアやアイザックなどの何某かを損なおうとした企みなのかもしれない。



「彼女は私が連れて帰りましょう。お騒がせいたしました」


不意にそう前に出たのは、特赦の魔物であった。

思ってもいない展開に目を瞬いたネアの方は見ずに、けれども、アイザックからの目隠しとなってくれる。



「おや、退出するのは君だけでも構いませんよ?私としても、これはまたとないご縁かもしれませんからね」

「…………っ、」



その瞬間に起きたことを、ネアは、すぐには理解出来なかった。

こおっと強い風が逆巻いたような衝撃が通り抜けたのは分かったのだが、気付けば、はらはらと舞い散る黒い羽根を見ていて、正面でぞっとする程に美しく嗤った魔物の悍ましさに目を瞠る。


剥き出しの、けれども添付された術陣で真っ黒になっている指先で唇を拭い嗤う姿は、獲物を食らおうとするけだもののような獰猛さだ。

いつもは、酷薄だが理知的で、どこか飄々とした雰囲気であるアイザックがここまで凄艶な微笑みを浮かべる姿を、ネアは一度も想像した事がなかった。



(もし、……………)



もし、聖書の中の悪魔というものがいるのであれば、これ程に相応しい生き物もいないだろう。

そう思い、じわりと滲んだ冷たい汗を背中に感じる。

けれどもネアは、辛うじて大きな黒い翼の内側に隠されていて、黒い髪をばさりと揺らした欲望の魔物の手がこちらに届く事はなかった。



「ふむ。……………特赦はやはり扱い難いですね。選択の系譜の中でも、最も終焉に近い」

「どうぞご容赦を。飽食に足りない獲物は、ご自身で得られますよう」

「足りると思って集めたのですが、より興味深いものが目の前にあるというのは、なかなかに罪深い飢餓を煽るものですよ。……………控えた取り引きに天秤を傾けておいた方が良いような気もしますが、メデュアルの酩酊に溺れるのも一興かもしれませんね……………」



そこで言葉を切り微笑んだ魔物に、ネアは、内心、途方に暮れていた。


ネア自身の技量で、ここから速やかに立ち去るのは難しい。

本来であれば、アイザックがこのような強引な手段に出る事はなかったのだろうが、今のネアは、私的な空間の侵入者に他ならない。

それが誰かの仕掛けた罠であっても、ここはアイザックが権利などを買い上げた空間なのだから、弱みを見せたのはネアの方なのだ。



(なぜかユーグさんは、積極的に手を貸してくれそうな感じだけれど、階位上は圧倒的にアイザックさんの方が上だわ……………)



「では、…………」

「ネア様、寝室で武器類に触れる事程に無粋な事はありませんよ」

「…………っ、」


そう窘められてしまえば、その言葉を覆すだけの力はネアにはない。

こちらの手札を熟知しているアイザックは、この上なくやり難い相手であった。


これが人間相手であれば、このような誘いには同意が必要であると突き返せるものだが、相手が魔物である場合は、上位存在に対してその返答は叶わないのだろう。


捕らえられたら貪られるし、寝台の下の残骸を見る限り、その手法はいささか人間の肉体には負担が多いと思われる。

じわりと、また冷たい汗が流れ、ネアは目の前の魔物に対応しきれる階位と権限について考える。



(ここは、アイザックさんが買い上げた部屋だ。とは言え、権利をそのまま買い上げたというのではなく、この舞踏会が開かれている間だけの権利を買った、ホテルの部屋を借りているような状況なのではないだろうか。…………その場合、劇場の所有者はどうだろう。或いは、メデュアルの舞踏会の運営側……………)



ふと、視線を巡らせた部屋の中には、大広間と同じ深い深い夜の色が満ちている。


だが、それは賭けとも言えた。

可能だったとしても何かの負担を強いるかもしれず、それを許す程の関係性では決してない。

これ迄に築いた関係を失う覚悟も必要だろう。



(でも、ディノは何かがあった場合は、その力を借りていいと話してくれた。……………その展開を踏まえたのであれば、このような場合の助力の連携や負担も含めて、相手方との話し合いが出来ているという事なのではないだろうか)



安易に手を伸ばせば対価を取られる世界で、手を伸ばしてもいいというのは、求められる対価との折り合いが取れているという事ではないのだろうか。

そう考えたネアは、ここはもう、試してみるしかないと腹を括った。


ユーグが味方だとしても、それだけでは、ここからの脱出は難しいだろう。

アイザックは、欲望を司る公爵位の魔物なのだ。



「ミカさ……」



だが、その名前を呼ぶ前に、ぐいんとまた視界が暗転する。



ばさりと広がり振るわれたのは、大きな黒い翼だ。

くらりと眩暈に襲われ、ネアは思わず目を閉じてしまい、すぐに後悔した。


こんな場面では、そのほんの一瞬こそが命取りになる。




「失礼。人間には、負担が大き過ぎたようですね」

「……………む。……………むぐ、」


だが、ぞっとして体を強張らせたネアに届いたのは、拍子抜けするくらいに静かな声であった。

恐る恐る目を開くと、どこかの床に仰向けに倒れているようだ。


まるで誰かの膝の上に頭を乗せているようだと考え、その直後、上から覗き込んだ仮面姿の男性に、ぎょっとして跳ね起きそうになってしまう。


はっとして咄嗟に動きを止めなければ、いきなり起き上がろうとして、覗き込んだ人物と顔面を強打し合う最悪の展開になってしまったところだ。

ばくばくしている胸を押さえて、安堵の息を吐いた。

こんな時、物語本の教えは意外に役に立つ。


ネアが一人でじたばたしているのがおかしかったのか、ふっと薄く微笑む気配にそろりと体を起こすと、ユーグは、親切にも起き上がる手助けまでしてくれた。



「……………ここは、」


床に転がったネアに、ユーグが膝を枕代わりに貸してくれていたのは、空き部屋のようなところだったらしい。


立ち上がり周囲を見回せば、先程のアイザックのいた部屋のように、大広間と同じ色の夜が深く落ち、淡い金色の光を映したシャンデリアがきらきらと輝いている。

だが、部屋の中には家具や他の装飾品はなく、シャンデリアに明かりが入っているものの、使われていない部屋のように見えた。



「私の魔術特性で、強引に場所を移動させました。メデュアルの舞踏会の領域の上ではありますので、後は、この場所を探し出したアルテア様が、道を繋げて下さるでしょう」

「そ、そうなのですね……………。っ、………。……………助けていただいて、有難うございます」



展開に思考が追い付かず、ネアは、まだばくばくしている胸をぎゅっと押さえると、何とかお礼を言った。



「私は、私の主人の為に働いた迄です。とは言え、あなたが特赦の上に成り立つ身でなければ、この身は災いにしかならない。場合によってはそうもいきませんでしたが」



隣に立っている男性には、やはりあの、ぞくりとするような不穏な気配はある。

だが、ユーグの声音は穏やかで、それでいて、どこかに牙を隠して嗤うようなこの夜の魔物達らしい危うさも引き続き感じられた。


(この独特の気配は、夏至祭の夜やクロウウィンの夜のようだわ。………もしかして、特赦日が祝祭日でもあるからの気配なのだろうか…………)


ネアはこくりと息を飲み、おおよその目の位置を見上げてそんな特赦の魔物に問いかけてみる。



「私には、……………あなたに助けて貰えるような要素があったのでしょうか」

「ええ。私は、特赦を得た者には特赦たる事が出来ます。それは、終焉が、終焉の子供には一定の配慮をするようなものですね。だからと言って必ずしも助ける訳ではありませんが、あなたは、私の主人が仕える方ですからね」

「む。………それも良かったのですね。………自分の特赦に纏わる要素に心当たりがある訳ではないのですが、今は、ただ幸運だったと思う事にします。……………では、すぐにアルテアさんを呼んでみますね」

「いえ、それは難しいでしょう。ここは、売約済ではないにせよ、だからこそ招待客の無断の利用や侵入は許されていない区画です。メデュアルの舞踏会は、商人と魔術師が主だった招待客ですからね。今回は私の魔術の資質で何とかこの部屋に逃れられましたが、どのような場合も、特赦とは一度きりのもの。これ以上の転移は危険でしょう。…………劇場内の魔術の規則性はかなり頑強だと思って下さい」



そう言われ、ネアはがくりと肩を落とした。

ではどうすればいいのだろうとユーグの方を見ようとして、ネアは、目の前の魔物が噂に聞く鴉羽の装いであることに気が付いた。


おおっと、思わず凝視してしまうその装いは、漆黒の美しい鴉羽をふんだんに使った足元までの外套のようなものがその名前の由縁だろう。

白いシャツに黒いジレを着た上にそんな外套を肩がけで羽織っているのだが、ネアが興味津々で見ていると、ユーグは、その外套をふわりと消してしまった。



「……………き、綺麗な羽の外套でしたので、ついつい凝視し過ぎてしまいました。ご不快にさせてしまいましたよね………」

「そのような理由ではありませんよ。私の魔術領域は魔術の制約を抉じ開けるもの。………いささか扱いが偏ります。選択の系譜の中でも、あまり汎用性のあるものではない上に、この展開を続けておくと、メデュアルの舞踏会の管理者達に対し不敬となりかねません」 



この人は、そんな事迄を説明してくれるのだなと思っていると、ユーグの視線がこちらに向くのが分かった。


目元を隠した仮面は、ネアの生まれ育った世界にもあった、医師を示す鴉面によく似ている。

だが、ユーグの仮面は本来なら開いている筈の目の部分まで覆われてしまっており、表情を窺うには口元を見るしかない。


そもそも、目の部分が塞がれていてどうやって前を見ているのかも謎だが、この仮面こそが派生元であれば、ユーグの動きを阻害するようなものではないのだろう。



(……………アルテアさんより、少ししっかりした体躯だろうか)



表情が読めないので、ネアは視線を下に下げた。

外套を脱げば、白いシャツに黒いジレだけの装いのユーグは、どちらかと言えばウィリアムに近い体形かもしれない。

従者然とした振る舞いからひっそりとした気配ではあるものの、すらりとした長身にこの体躯だと、やはり存在感がある。


手は黒い手袋で覆われており、髪型はどことなくアルテアに似ていた。

黒髪に黒い仮面で、服はシャツ以外は全て黒いので全体的に黒色の印象が強い。

そんなところも、鴉と言われる理由なのだろうか。



そう言えばアイザックが、この魔物は、終焉の領域に近しいのだと話していた。

アルテアとウィリアムの関係を思えば、選択の系譜の中にそのような存在がいるというのも何だか不思議な事に思える。


ネアがそう考えていると、またふわりと大きく空気が揺れた。

はっとして振り返ろうとしたネアは、そのまま誰かの腕の中にしっかりと収められてしまう。



(アル…………テアさんじゃない?!)



「ご無事……………無事だったか」

「ミカさん!」

「君が、私の名前を呼んでくれて良かった。この舞踏会では、ある程度の権限があるからな。……………だが、それは欲望の魔物も同じだ。彼の排他術式のせいで少し手間取ってしまったが、君達があの部屋から出る事が出来て良かった。怪我はないな?」

「はい!………いざという時は頼っても構わないと聞いていたので、ご迷惑をおかけするかもしれないと思いつつも、お名前を呼んでしまいました」



へにゃりと眉を下げてそう言えば、真夜中の座の精霊王は微笑んで首を横に振った。



「それは構わない。予め、万象と選択にもそう伝えてある」

「よ、良かったです……………。今回は、幸運が重なりました……………」

「私が近くにいる時であれば、すぐに対応出来たのだが。…………君を、あの売却済の個人領域に引き摺り込んだのは、アクス商会ともアルテアの商会とも契約が叶わなかった、商人の一人だったようだ。どちらかが欠ければ、新規の取り引き先の枠が空くのではと考えてしまったようだな」

「……………愚かな」



そう呟いたユーグに、ミカは、僅かに瞳を細めたようだ。

窺うようにこちらを見るので、ネアは、助けて貰ったのだと伝えておく。



「戻ったら、私が、その商人めを踏み滅ぼせばいいのでしょうか?」

「いや、アルテアが既に対処していた。私がこちらに向かう事も、彼に共有してある。戻りの道を繋ぐ迄に、手元の商談を片付けてしまうそうだ」


そう言われ、ネアは、あの大広間に戻る迄の対処が、このミカに預けられたのだと理解した。

また、ここからの帰り道は、転移のようにしゅんと済ませられるものではないのだろう。

アルテアが商談を片付けていられるくらいには、時間がかかると見た方がいい。


「お手数をおかけしますが、宜しくお願いいたします」

「いや、気にしなくていい。………喜ばし……………面倒ではないからな」


ぺこりと頭を下げたネアの隣で、ユーグは小さな革表紙の本のような物をどこからか取り出している。

その中の頁を一瞥すると、短く頷き、はらりと仮面にかかった前髪を片手で掻き上げた。


(アルテアさんから、何か連絡が入ったのかな………)


「君もこのまま残るか?」

「ええ。可能であれば、彼女の護衛として助力するようにと言われております」

「では、そうするといい。メデュアルでの私の権限は最上位に近いが、この部屋に入るにあたり、我々は既に設けられた約定の幾つかを崩している。道を外れた場所からの順路は、少し入り組んだものになるだろう」

「あなたは、真夜中の座の方から、離れませんよう。もしもの場合は、私の手をお取り下さい」

「は、はい!宜しくお願いします。もし、道中に滅ぼしてしまってもいい悪者がいた場合は、私も戦います!」



ネアがそう言えば、ユーグはひっそりと頷き、ミカは綺麗な青い瞳を揺らしたが、淡く微笑んで、ではそうしようと頷いてくれた。



そんなミカにエスコートされて奥の扉を開くと、その奥には、奇妙に捻じれた廊下が続いている。

色相は変わらずに黒と金で、側面は鏡張りになっていて、その向こう側には深い森と夜の麦畑が広がっていた。


びゅおんと、麦畑を揺らす風がこちらにも届く。

秋の豊穣の象徴でもある麦畑が、なぜか不穏に見えてしまう。


豊穣には出会ったが、もしかすると、今夜は麦の魔物もいたのだろうかと首を傾げたネアに、ミカが、麦商人がいたのだと教えてくれる。

リザールは顔を出す年もあるが、今年は来ていないらしい。


ざりりと砂を踏むような感覚が靴裏にあった。

見た目はあの大広間と同じ床石なのだが、歩いてみると何かが違う。

あまり使われない廊下なのでとまずい素材を使っているという事はないだろう。

何か、魔術的な影響が出ているに違いない。


ミカの腕に手をかけさせて貰っているので、そんな廊下を歩いていても不安はないが、どこからともなく吹き込む風は酷く冷たい。

ふっと揺らぐように暗くなった鏡面の向こう側に、反対方向に向かって歩いてゆく人影が見えたような気がした。



(……………あ、)



ぼんやりとした人影ではあるが、鏡の向こうを歩く人々は、皆仮面をかけている。

思わずそちらを見てしまったネアは、ふと、真っ白なドレスの女性を見たような気がした。


はらりと、白い花びらが舞い落ちる。

どこかで雪が降っているのか、冬の匂いがした。



「同じ劇場に私が揃った事で、特赦日の光景が映り込んでいるのかもしれませんね」


思わず引き込まれそうになったネアの意識を引き戻したのは、ユーグの声だった。

ぎくりとして振り返ると、伸ばされた手のひらが、まるでそちらを見るなと言うかのように顔の横に翳される。


「………そう言えば、この劇場は、違う時代のものが死者の国にもあるのですよね?」

「ええ。この土地にも程近い、魔物に殺された死者達のあわいに。終焉が最も多くの特赦日を設ける場所ですから、あなたの見る先には、何かが映り込んでいる可能性もあります。……………あなたは、終焉の子供で、尚且つ特赦の資質を持つ方だ。それ故に特赦の要素が重なるのでしょう。ですが、くれぐれもそちら側に迷い込みませんよう」

「は、はい。……吸い込まれるように見つめてしまっていました」


鏡の向こうには霧が立ち込めていて、なぜだか懐かしい誰かがいたような気がしたのだ。

だが、終焉の子供である事が意識を引っ張るのなら、そのせいで目が離せなくなっていたのだろう。



「そうか。だから、君は彼女を助けたのか。……………アルテアの従者とは言え、選択の鴉羽が翼を預けるのが主人だけであるのは有名な話だ。そんな君が彼女を助けてくれたのは、選択の扱う商売とアクスとの関係を崩さない為かと思っていたのだが………」


そう話しているミカが、まるで自分の領域の内側の者のように扱ってくれる贅沢さに、ネアは、こっそり胸を温めた。


(…………アルテアさんが可能であればという言い方をユーグさんにしたのも、その指示を断られる可能性もあったからなのかもしれない………)



ユーグは何度か、ネアが特赦に関わるからこそ助けたのだというような趣旨の言及をしている。

その言い方は渋々という感じではなく、であれば当然であるというような口ぶりであった。


もしかすると、彼自身の気持ちとは別に、こうして手を貸して貰う為には、特赦の資格のようなものが必要なのかもしれない。



「……………おや、」



そんな事を考えていたネアの耳に、冷たい囁きが落ちた。

ミカの聞いたこともないような冷たい声にぎくりとしていると、廊下の奥の方に何か真っ黒な生き物が蠢いているのが見え、もう一度ぎくりとする。


だが、明らかにホラーの系譜のその塊は、ミカの存在に気付いた途端に怯えたように逃げ出してしまった。



「夜の凝りだ。こうして道を外れたあわいの側道には、あのようなもの達が棲み付いている事が多い」

「ぐねぐねしていた生き物が、さっといなくなりました………!!」

「時間の座に紐付くあわいの中で、最も大きな力を持つのが真夜中の座です。加えてここは、夜の色をしたあわいですから、この方以上の力を持つ者はいないでしょう」

「まぁ。ミカさんは凄いのですね!」

「…………さて、どうだろう。君のように、多くの獲物を容易く狩る程の力はないと思うが」



薄く微笑み、そんな風に和ませてくれるのもまた、この精霊の優しさだろう。

ネアは、この不動の一位を殿堂入りにしておこうと頷き、その後も、ミカの腕を借りて鏡面の向こう側の僅かな夜の光が落ちるばかりの暗い廊下を歩いた。



(……………正直なところ、手を貸してくれると分かった後でも、どれだけ私を損なわない人でも、ユーグさんと二人きりでいるのは厳しかったような気がする………)



ふと、そんな事を考える。


特赦の魔物がどのような資質を持つのかを詳しくは知らないが、先程の黒孔雀達が話していたように、ミカが驚き、アルテアが多くを頭ごなしに命じないように、この魔物には本来ならネアを損なって然るべきの資質があるのだと思う。


そして、そんな魔物を災いではなく幸いとしてくれた、ネアの有する特赦とは何だったのか。


考えかけ、幾つかの答えが頭の中を過ったが、どれも確証を得られるようなものではなかった。

何を以て特赦とするかにもよるが、場合によってはあの日の病院でネアを殺さずに去ったジーク・バレットかもしれないし、こちらの世界に来てから、ここで生き直すことを許された事こそなのかもしれない。



「………ああ、迎えが来たようだ。商談が終わったのだろう」

「隣接する区画を、全て買い取られたようですね」

「なぬ。それはもしや、アルテアさんですか?」



ミカ達の言葉に慌てて周囲を見回していると、コンコンと、硬い石床に何かを打ち付けてノックをするような音がした。


その途端にがらりと風景が変わり、ネア達は、いつの間にかまた別の部屋の中にいる。

だが、その部屋の中に立っていたのは、今度こそアルテアであった。


魔術の風がふわりとそのケープを揺らし、手に持っていた白い杖をくるりと回して消している。



「アルテアさんです!」


ぴゃんと飛び跳ねたネアに、くすりと笑ったミカが、腕にかけた手を外してくれる。

ネアが、ドレスながらててっと駆け寄ると、アルテアはすかさずネアを腕の中に収めた。


赤紫色の瞳を細め、ひたりとこちらを見る眼差しは酷薄だが、ネアがそれを怖いと思うことはない。

同じように魔物らしい側面が強調されていても、ここにいる魔物は大丈夫なのだ。



「………ユーグから報告は受けているが、………アイザックに、触れられてはいないな?」

「はい。何かをされたという事ではなく、触れる事自体がまずいのだとしても、ユーグさんがいたお陰で、その危険も回避出来ています」


ネアがそう言えば、アルテアは小さく息を吐いた。

安堵以外の何物でもないその吐息の深さに、ネアは、やはり、あの指先に触れられてはいけなかったのだろうかと考える。


アイザックの肌を黒く染めていたのが、欲望の魔物が悪食のように収集しているという魔術を集めた術式陣ならば、触れるだけでもまずいというのも納得の悍ましさであった。

それもまた魔物らしく美しいが、自分に触れるかもしれないとなると、全力でお断りさせていただくしかない。



「ユーグ、ご苦労だった」  

「いえ。今回は、彼女であればこそでした。特赦を持ち得る人間はとても少ないですから」

「ああ。…………そのあたりは、こいつも引きがいい」

「では、私は会場に戻ろう。このまま、こちらの部屋で休んでから帰るのであれば、何か食べ物を手配させるか?」

「……………そうだな。メデュアルで予定していた商談は全て済ませてある。こいつも、もう充分に経験値を上げただろう。情緒は来年以降に持ち越しだがな」

「…………ぐるる」

「ネア、土産は、部屋に届けさせよう。アルテアから離れないようにするといい」

「はい。ミカさん、何から何まで有難うございました。今度、あらためてお礼を言わせて下さい」

「いや、あの樽の精霊を蹴り倒した様子を見られただけでも、充分に楽しい思いをさせて貰った」

「まぁ。もしかして、あの細長樽と何か因縁があったのですか?」


あまりにも晴れやかな微笑みでそう言うので心配になってしまったが、ミカは、そうではないよと微笑んで首を横に振った。


一介の招待客であるネア達とは違い、ミカは、メデュアルの舞踏会の柱となる人外者の一人だ。

これ以上引き留めてしまうのもと思い、ネアは追及はせずに頷いておく。


ふわりと長いケープを翻してミカが部屋を出てゆき、振り返れば、いつの間にかユーグの姿もなかった。



「ユーグさんにも、どうかお礼を伝えておいて下さい」

「余分と見てもいいところだが、あれの手を借りられると分かったのは幸いだ。そういう意味では、今回の事では、成果も得られたと見るべきなんだろう………」



ふうっと息を吐き、アルテアが顔を顰める。

そのままぐっと抱き寄せられ、ネアは、むぐぐっとなりつつ、触れた肌の温度にほっとした。

ここにはもう、あの夜の麦畑を吹き抜ける冷たい風は届かないし、真っ黒な指先を伸ばす欲望の魔物もいない。


「皆さんがそんな感じなのですが、あの方に手を貸して貰えるのは、滅多にない事なのですか?」

「ユーグから、あの質を引き出せる事自体が稀だと思え。有能な系譜の部下だが、存在自体が災いや障りそのものの形に近い。特に、生まれながらにして身に持つ祝福のない人間は、完全に特赦の可否でしか判断されないから、相性が悪い」

「なぬ。……………特赦の魔物さんなのにですか?」

「特赦だからこそだ。誰にでも与えられる恩寵ではない上に、それ以外の者を全て罪人として認識する資質だろうが」

「むむ、言われてみればその通りでした………」



成る程と頷き、ネアは、アルテアの腕の輪から抜け出しつつもその手を離さないようにし、部屋の中に用意されていた長椅子にふかんと腰を下ろした。


絶妙にざりざりと滑る石床を沢山歩いたせいで、既に膝周りが、筋肉疲労に悲鳴を上げていたのだ。

舞踏会に戻らないのは少し寂しいが、この疲労具合を思えば有難い事だ。

素晴らしいクッション具合に身を任せ、ほっとして肩の力を抜く。


とは言え大広間と同じ内装と明度なので、まだ暗い夜と金色のシャンデリアの光の中ではあった。

ネアがくてんとなってしまうと、隣に座って手袋を外しているアルテアがやれやれと肩を竦める。



「そう言えば、途中で退場してしまいましたが、あのお嬢さんとは良い感じに…………ぎゅむ。なぜ頬っぺたを伸ばすのだ。ゆるすまじ」

「獣車の気配を人間が厭うのは仕方ないが、まんまと手を離しやがって」

「…………むぅ。捻れ鳥めに驚いて手を離してしまったのは私の手落ちです。ご迷惑をおかけしました」

「あれはトワイの魔術師だ。鳥ではなくて、駱駝だな」

「駱駝とは何でしょう。なぜ駱駝に、翼と嘴があるのだ………」


さすがにそれはあんまりだと遠い目をしたネアは、ふっと翳るように訪れた沈黙に目を瞠った。

頬を離した指先で、顎から首筋、胸元へとゆっくりと撫で下される。



「…………今回は、ユーグが動く想定はなかった」



その声はとても静かだ。

だからネアは、ただ頷いた。


「ええ。そう思われていたからこそ、きちんと警戒するように考えさせてくれたのですよね?」

「メデュアルの舞踏会にお前を連れて来たのは、俺の考えだ。俺が選び、招き入れ、………あの場でお前を繋ぎ損ねた。とは言え、どうせお前は、何度やり直しても似たような顛末になるだろう。………それは俺も同じだ。俺は選択で、お前のカードの引きの悪さがある以上は、メデュアルへの早期の参加は必要だと考えていたからな」



人差し指が離れ、親指が唇に触れる。

ネアは、ただ静かに、そんな告白をしている使い魔の睫毛の影を見ていて、なんて鮮やかな瞳の色が滲むのだろうと感嘆していた。



「でもアルテアさんは、それが、誤りだっただとか、時期尚早だったとは思っていないのですよね?」

「どちらにせよ、お前は事故るからな。………俺もまた、そういうものだ。選択だからな」

「私の事故率に関しては思うところもありますが、魔物さんはそういうもので、それは変えようがありません。そして今回は、アイザックさんですらそうなのです。野生の本能に突き動かされている魔物さんの個人的な空間に、まんまと投げ込まれてしまった私は、迂闊で愚かでした」



ネアがそう言えば、アルテアは小さく溜め息を吐く。



「お前はそう考えるだろうし、魔物としての見解もその通りだ。…………だが、俺がユーグを動かせる駒だと認識していなかった以上、お前がアイザックの手にかかる可能性の方が大きかった」

「むぅ。最終的には歌います?」

「その勝率も半々だな。あいつは悪食だ」

「では、最近、そちらの知識はとても有用なものだと知り、文通を始めたルドヴィークさんに言い付けます」

「………そのカードがあるなら、もっと早くに切っておけ」

「正確には、あのご家族との文通なのです。とは言え、今度あちらのお国の災厄除けの術符をくれるそうなので、今後は、アイザックさん用に常備しておくようにしますね」



因みに、こちらからはパンの魔物符か、スープが激辛になる術符が渡されるのだと知り、アルテアは何とも言えない顔をしていた。


アイザックが今夜のような一面を見せたのは、ここがメデュアルの舞踏会だからだろう。

多分、ここを出ればもう、アイザックはネアがよく知るいつものアクスの代表で、あの手をこちらに伸ばす事もないのだとは思う。


けれども、知った事を無駄にせず備える事こそが、今回の舞踏会にアルテアが連れて来てくれた理由なのだ。


「…………それは、届き次第備えておけ。………後は、今回はさして楽しませてやれなかったからな。また今度、どこかに連れて行ってやる」

「…………お父さん」

「やめろ」

「私は、前半だけなら沢山踊って美味しい物をたらふく食べられたのですが、………それは、お家のお泊まり会にも出来るのですか?」

「………シルハーンは兎も角、あの狐は置いて来いよ」



勝ち取った素敵なお宅滞在の権利にネアが椅子の上で弾むと、なぜかアルテアはふつりと唇の端を持ち上げ、魔物らしい微笑みを浮かべる。


そして、ネアをひょいと抱え上げると膝の上に載せてしまった。


「なぬ。なぜ、椅子になったのだ………」

「もう一度、アイザックの買い上げた部屋に迷い込みたいのか?」

「ぐぬぬ………」


あらためて思うのだが、今夜のドレスの生地は、思っていたよりも体に添う柔らかなものだ。

体の曲線が出るのでドレスの形は抜群に綺麗に見えるが、こうして魔物を椅子にするのにはあまり向かないと言えよう。


だが、アルテアはネアを膝の上に抱え上げたどころか、しっかりと腰に手を回して拘束椅子となってしまっている。


「……………むぐ」

「大人しくしていろ。少し………そうだな、洗浄が必要な箇所がないのか調べてやる」



部屋には大広間の音楽とざわめきが、微かにではあるが聞こえて来ていた。

ミカが手配してくれたのか、取り分けられた料理やデザートと、よく冷えたシュプリが届けられる。

ネアはそれが欲しくてじたばたしたが、アルテアはまだ離してくれない。


首筋や、大きめに開き剥き出しになっている背中の部分に何度か押し当てられた口付けの温度に落ち着かない気持ちになり、堪らずもぞもぞと動くと、なぜか怖い顔をした使い魔から二度とそんな風に動くなと叱られてしまった。



「どうして執拗に首を守護されるのでしょうか?もしやアイザックさんは、私の首を狙っていたのです………?」

「…………あいつの食事風景を見ても情緒が増えないのなら、どうやったら情緒を育てられるんだ?」

「あら、確かにたいへん気まずい場面でしたが、あの程度であれば、目撃してしまうという事自体はそこまで珍しい状況ではありません。個人的な場面での不法侵入とされたという心の傷を負う以外には、さほど問題はない範囲と言えるでしょう」

「…………は?」



ここでネアは、暗い目でこちらを見た使い魔から、その後、暫くの間あらぬ誤解を受ける事となった。



その話をしたところ、そちらの方面の噂には詳しいノアが、それは訂正してあげないと大変な事になるなぁと笑うではないか。


だが、ネアがどんな状況を問題がないと判断したのかの誤解の度合いを含め、アイザックの作法がどれだけ危険なものなのかは、結局のところ誰も教えてくれなかった。



唯一、ウィリアムだけは首を傾げ、試したいならこっそり相談してくれれば教えるぞと微笑んでくれたのだが、ネアも黒孔雀程度の危機管理は出来るので、こちらは丁重にお断りした次第である。









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[一言] とりあえず、白けばは山猫商会に売りましょう! アクスも欲しがっていたと知ればかなりの高値が期待できますものね!
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