メデュアルの舞踏会と黒い鳥 3
「終焉の気配だな」
「ええ。終焉の気配でしょう。であれば、終焉の子供でしょうか」
「死の舞踏ではないか?終焉の系譜の守護は、この子供にはいささか重い」
「ですが、魔物の指輪をしておりますよ。手袋をしていないのはなぜかと思えば、あの指輪を隠さない為でしょう」
「であれば、アルテアの?」
「さて。アルテアの指輪持ちであれば、終焉の系譜の守護は、業務的に買い上げが可能なナインの部下あたりでしょうか」
「はは、あの変わり者が、部下とはいえ守護など預けるものか。おまけに、………この可動域だぞ。階位のある精霊の守護が触れればさすがに無事ではいられまい」
「分かりませんよ。何しろ、ユーグが隣に立っても正気でいられましたからね」
今度はいきなり二人の男性に囲まれてしまい、ネアはむぐっと眉を顰めた。
お料理をいただく為に引っ張っていた手をぐいっと逆に引かれ、アルテアの腕の中にもう一度格納される。
目的地から遠ざかるのはたいへん不本意だが、緊急避難という事で受け入れざるを得ない。
「見物なら離れてやれ。黒鶫の二の舞になりたくはないだろう」
「お久し振りです、アルテア。あなたに捥がれた尾羽もこの通り、元に戻りましたよ」
そう笑ったのはひょろりとした体型の、腰までの長い黒髪の男性で、緑柱石色の瞳の華やかな美貌にはぞっとするような翳りがある。
美しい男性だが、性格や嗜好がたいへんまずい方向性の人だろうなと思わずにはいられない。
この世界に於いては、相対した人外者を見た目で判断してはいけないという事もないのだ。
何しろ人外者の容姿は、その者の気質や系譜などを現している事が多い。
「バジル、お前はまた選択を怒らせるような事はしてくれるなよ。久しいな、アルテア。今夜は、随分と毛色の変わった同伴者を連れているようだ」
「エドワール、こいつは俺の領域の内側だ。お前の足元の棺に食わせてやる欠片はないぞ」
「はは、見抜かれていたか。あまりにも変わっているので、少しだけ削り取ろうとしたのだが」
それを笑いごとにしてはいけないのではという告白をして笑っている男性は、どことなくグラストに雰囲気が似ている。
背が高く、決して優雅さを欠くような鍛え方ではないが、隣の青年に比べると騎士のようなしっかりした体格だ。
肌は少し浅黒く、華やかな盛装姿は砂漠の方の国のエッセンスが少し取り入れられている。
よく見れば冷たい美貌といっていい容貌でありながらも、淡い金色の瞳がふわっと穏やかな表情を浮かべるので、その表情だけを見ていれば、優しいお父さんになりそうだなとすら思えてしまう。
「お知り合いの方でしょうか?」
「変わり種の黒孔雀共だ。多少羽を毟るのは構わんが、くれぐれも殺さないようにしろ」
「あら、羽は毟ってしまってもいいのですか?」
「はは、これは獰猛なことだ。その目玉と引き換えなら、俺も腕の一本くらいはくれてやるが」
「残念ながら、か弱い人間はそうそう簡単に瞳を差し出す事は出来ませんので、何かを持ち去ろうとしたら羽を…………因みに、羽はどの部分なのでしょう?見当たらない場合は、腕を引っこ抜けばいいのですか?」
どうやら、この男達も黒孔雀らしい。
広間の中央で踊っている葬儀屋達を見ていた時にはいなかった個体なので、彼等とは行動を共にしていないようだ。
思っていたよりもアルテアに親し気に話しかけているので、黒孔雀は、魔術的な階位もそれなりの生き物なのだろうか。
(もしくは、この変わり種だと言われた二人……二羽?だけが、アルテアさんの知り合いなのだろうか)
ネアは、普通に人型をしている孔雀達を見上げ、毟ってもいいという羽がどの部分なのか分からずに眉を寄せる。
背後から腕の中に収めてくる魔物を振り返れば、こちらを見た赤紫色の瞳の魔物に、わしんと頭に手を載せられた。
「むが!この素敵な髪型を崩したら、髪の毛をくしゃくしゃ返しにしますよ!」
「腕はやめろ、腕は」
「むぅ。では、髪の毛を毟り取ればいいのでしょうか………」
「ふむ。思っていた以上に獰猛な人間ですね。可動域が低過ぎて系譜も属性も明瞭に感じ取れませんが、終焉の系譜の守護が厚いようなので、私は手出しを控えておきましょう。アルテアなら尾羽を引き千切られるくらいで済みますが、万が一終焉の魔物を怒らせると、私の首一つでは済まなくなる。……………何か、不穏な気配がしますよね。…………ええ、しますとも。こう見えて、私は勘がいい方なんですよ」
「そう思うのなら、そのまま大人しくしておけ。こいつの髪結いをしたのは、ウィリアムだからな」
「……………なんと、」
アルテアのその言葉に、バジルと呼ばれた男性は目を丸くした。
無言のまま、すすすっと後退る姿に、ネアはふと、おや鳥類っぽいぞと思ってしまう。
だが、そのままぴゃっといなくなってしまったのはバジル氏だけで、もう一人の黒孔雀はこの場に残った。
つまりネアは、この孔雀を倒さないと、念願のお料理のテーブルに辿り着けないのである。
「特赦日の鴉羽を恐れないのは、そのせいだろうか」
「さてな。こいつは、おおよそこんな感じだ。………おい、何だそれは」
「む。またしても、私のドレスに触ろうと手を伸ばした不届き者がいましたので、手をばしんと叩いただけなのですよ?」
エドワールと呼ばれた男性の視線が、ぎぎぎっとネアの左側に動いたせいで、その視線を追いかけ、アルテアもネアの足元を見てしまった。
ネアは、か弱い人間が同伴者に拘束されているのをいいことに、ドレスの袖口のレースに何の断りもなく手を伸ばした女性の手を、えいっと打ち払ったところだったのだ。
「………殺すなと言わなかったか?」
「い、生きていますよ?…………なぜ手を払っただけで、こうも容易く床に伏してしまうのでしょう。なんという儚い生き物なのだ…………」
「………念の為に訊くが、その人間の可動域は擬態ではないのだろう?」
「残念ながらな」
「ぐるる………」
どうしても、人外者は可動域こそを判断基準とするらしい。
不思議そうに尋ねたエドワールに、ネアは、繊細な乙女に向かってその怪訝そうな表情を向けた罪で、ふさふさとした黒髪を毟り取ってしまうかどうかを思案した。
すぐ手が届くところにあるのなら、鷲掴みにしておくのもいいのだが、残念ながら、今は飛び跳ねないと届かない高さだ。
しかし、髪の毛をごっそり無くしかねない不穏な気配を感じた訳ではないだろうが、エドワールは何かに気付いたように視線を巡らせると、すっと表情を強張らせ、アルテアに短い挨拶をして立ち去ってしまう。
「…………獲物が逃げました」
「お前な………。真夜中の座が近付いた事に気付いて、離れたんだろう」
「まぁ。あの方は、ミカさんとあまり良い関係ではないのですか?」
「真夜中の座の精霊の首を持ち去ろうとして、真夜中の回廊で、百年近く床石にされていた事があるからな」
「ゆかいし…………?」
「生きながら肉体を削ぎ落され、石畳の代わりに敷き詰められたんだ。さすがに懲りたんだろうよ」
「ほわふ………」
ネアの知っているミカは、穏やかで美しい夜そのもののような人物であったが、なかなかに過激な一面もあるようだ。
だが、仲間に悪さをされたのなら、それは王としての正当な怒りだったのかもしれないと考え直し、ネアは、やはりあの精霊はご贔屓であるとふんすと胸を張る。
「やあ、ネア。久し振りだ」
そして、そこに現れたのは、まさに、話題に上がっていた真夜中の座の精霊王その人だった。
「まぁ、ミカさんです」
「覚えていてくれたのか。良かった」
ミカがそこで微笑まなくても、その訪れだけで夜が彩りを濃くし、馨しい夜の香りがいっそうに深くなる。
こつりと床を踏む靴音がしなくても、真夜中の座の気配は一際鮮やかだ。
(そうか。こちらに来ようとしているミカさんの気配を察したから、あの黒孔雀さんは離れたのだわ………)
であれば、ここにミカが現れるのには、何の不思議もない。
それに、ファンデルツの夜会以前から、ネアはこの精霊を知っているのだ。
メデュアルの舞踏会の広間に立つミカは、長い髪が葡萄酒色から毛先が紫がかった水色になっていて、夜をいっそうに深く暗くするような青い瞳の美しさは言うまでもない。
黒一色の装いは美しい黒布を重ねたような盛装姿で、服裾の独特な形が大きな黒い鳥の翼のようだ。
こんなところでも、今宵の舞踏会は鳥尽くしなのだなと考え、ネアはくすりと笑う。
ファンデルツの夜会の時の装いに似ているが、ケープのような上着の下が、軍服のような詰襟のシックな物に変わっている。
これは素晴らしいぞと思いくらりとしたネアだったが、ここではしゃいでしまい、お気に入りの精霊を怯えさせまいと健気にも堪えてみせた。
「まぁ、私がどうしてミカさんを忘れてしまうのでしょう。それに今日は、こっそりお会い出来るのを楽しみにしていました」
「おい………」
背後の使い魔が僅かに剣呑な気配を漂わせたが、ネアは、そんなアルテアも、いざという時はこの精霊にであればネアを預けられると思っているのは確かなのだと気にせずにおいた。
ディノからも、何かあった場合はミカは頼っていいと聞いているので、狡猾な人間はお許しが出た相手と仲良くする事への遠慮を投げ捨てたのである。
(………何しろ、今夜のお料理は、真夜中の座の精霊さんの持ち込みなのだから!)
ファンデルツの夜会がどれだけ素敵だったのかを、ネアは意地汚く覚えているのだ。
中でも心を震わせたのは、美味しさに心奪われた料理をお土産にしてくれた、真夜中の座の精霊達の優しさである。
「それは光栄だ。黒孔雀の魔術師が近付いていたようだが、あの者は、何かしなかっただろうか」
「悪さをしかねない雰囲気でしたので、髪の毛を毟り取る予定だったのですが、結果としては何もせずにいなくなってしまいました」
「欲を示した魔術師は、その場で戒めておいた方がいい。………彼等は執念深いからな。君は大事な夜のお客なので、後で、悪さをしないように誓約をかけておこう」
思いがけない提案に、それは、受け取ってもいい好意なのだろうかと首を傾げたネアに、真夜中の座の精霊王はゆったりと微笑む。
この世界の精霊にはとても用心しているネアだが、一番好きな精霊を選べと言われたなら、ミカを選ぶだろう。
ウィームの隣人として街中で姿を見かけることもあるし、何しろ、グレアムの知り合いでもある。
「ご負担にはなりませんか?」
「構わないさ。君に、その対価などを求めることなどない。メデュアルの舞踏会は私の領域のものでもあるし、彼は元は夜の中から生まれたものだ。であれば、そこに招かれた客を守るのも私の役目だろう」
「ふふ、ではお言葉に甘えてしまいますね」
「………あいつが、夜の系譜から派生した黒孔雀だったとはな………」
「雛鳥の頃に禁忌に触れたので、夜を名乗る事は許していないんだ。夜の系譜の魔術も扱わせていないが、それ故に夜の愛し子達を狩るようになってしまった」
「排除せずに残してあるのは、カルウィの調停に使う為か?」
「ああ。あの地には、蓄える者ばかりではなく、刈り取り食い荒らす者の存在も必要だろう」
そんな人ならざるものらしいやり取りが聞こえてくる中、ネアは、そわそわしていた。
(……………ミカさんに会えたのは、とても嬉しいのだけれど、)
だが、久し振りにこのような場で会うので、もっとゆっくりと話をしたい真夜中の座の精霊王の向こうに、美味しそうな料理が載ったテーブルがあるという事以上に、恨めしい状況があるだろうか。
せめて、もう少しあのテーブルの近くでお喋りが始まれば、料理をいただきながらの会話が楽しめただろう。
一緒にいるときに美味しい料理を示せば、いつかのように、お土産に包んで貰えるかもしれない。
だが、その為にはまず、羽織もの風になっている使い魔の腕から脱出し、尚且つ、淑女らしい優雅さと気品を損なわない自然な動きで、ミカの後ろに移動しなければならなかった。
加えて足場も宜しくない。
先程滅ぼしてしまった女性を踏まないように、右回りの移動が求められる。
これは大変な事になったぞと内心冷や汗をかきつつ、ネアは、己の目的を悟られないようににっこりと微笑んでみせた。
メデュアルの舞踏会最大の試練を、なんとしても乗り越えなければなるまい。
「…………むぐ!…………むむ」
「おい、暴れるな」
「おりょ、……………お料理の近くに……」
「ああ、ここでは食べられないものな。あちらのテーブルの近くに移動しよう」
「ミカさん………!」
そう微笑んでくれた真夜中の座の精霊王は、今、この瞬間を以て、ネアの中の最高にお気に入り精霊ランキングの一位の座を不動のものとした。
きらきらとした目で見つめてしまうとミカは少し困ったように淡く微笑み、言葉通りにネアのお目当てのテーブル近くに移動してくれる。
「おまけに、私が最も外せないと考えていた右端のテーブルなのです。何しろこのテーブルには、以前に私が溺愛していたちびタルトによく似たものがあるのですよ」
「メデュアルにまで来ておいて、食気しかないのはどういう事なんだろうな」
「食楽は、真夜中の座の一部でもある。最も深くに根差した欲望の一つだろう」
「こいつの場合は、欲の質をそれに振り分け過ぎだ」
「…………聞かぬ話ではない。終焉の子供は時々、失ったものに縋らぬように、己の欲望を歪に偏らせてしまう」
「………だからこそ今年は、………。おい、皿の上に載せるふりをして口に押し込むな!」
「むぐ?!…………き、きのせいですよ?あまりに美味しいので、後からの方の事を考えずに、沢山食べようとしているのではありません!」
二人が何やら話している内にと、ネアは、一つお口に入れて心が美味しさに爆発したちびタルトを、慎重にお皿に載せた。
そうする事で、確保したのは二個目だと思わせ、その隙にもう一つお口に押し込む作戦だ。
だが、ミカと何かを話していたアルテアは、そんな人間の企みを見逃さなかったらしい。
(美味しい!フォアグラのムースに、甘く煮たオレンジだろうか。……オレンジの苦味もあって、タルト生地が少しがりりとしているのもとっても合うのだわ………)
美味しさを噛み締めてむふんと蕩けていると、アルテアは、さり気なくネアの背中の半分を自分の体で受け止めるようにしてくれる。
寄り掛かる支柱を得た人間は、これで、ぱたりと倒れたりはせずに安心して食事に集中出来るぞとほくそ笑んだ。
「ったく、……他に余計な事はしていないだろうな?」
「………競合を減らす為に、タルトを狙った他のお客様を、こっそり排除したりもしていません」
「…………は?」
怪訝そうに目を細めた選択の魔物に、ここで紳士らしい優しさを切り出してくれたのは、ネアが樽状の生物をすかさず踏み転がして床下に押し込んでしまった瞬間を見ていたミカだ。
「無作法な客人がいたようだ。………意図的に割り入り、そこから会話の糸口を得ようとする手法は、山猫が最初だっただろうか」
「あれは、ジルクの気質だからこそ成功したやり口だろうが。今更、誰が……」
テーブルの下を覗き込み、アルテアは無言で視線を戻した。
山猫商会の代表のやり方を、数年遅れで今更盗んでみせたのは細長い樽状の生き物だと知り、もう何も深追いしない事にしたらしい。
「死告鳥に、葬儀屋達。魔術師に森食いの狼。今年のメデュアルの顔触れであれば、彼女を連れての参加は辞退するのではないかと思っていた」
「そうもいかない事情がある。元々、メデュアルには一度連れてくるつもりでいたが、秋の領域内で妙な祝福の増やし方をしたばかりだからな。とは言えそれは、目の届く範囲で使わせたかったが、ここでは適応しないらしいが」
「クロウウィンでは?」
「ウィリアムがいれば、まだどうにでもなる」
「あぐ。………む?」
ネアは、なぜか、好物ばかりが並んでいる恩寵のテーブルの料理を端から順に貪り喰らいつつ、少しばかり深刻そうなやり取りをしていたアルテアを見上げた。
(仕事の話だろうか。それとも、統括の魔物さんと精霊の王様としての話なのだろうか………)
鴨肉のグリルには甘酸っぱい杏とクリームチーズのムースを添え、岩塩と共にいただけば、清しいローズマリーの香りが鼻に抜け、あまりの美味しさに小さく弾んでしまう。
よく鴨と合わせられる葡萄酢を使ったソースもあり、どちらも素敵な美味しさをお口に届けてくれた。
そんな喜びに溺れている時に交わされた会話については、残念ながらどうしても耳を素通りしてしまうのだ。
「…………あぐ」
「その鴨は、二個目だな?」
「いっこめです」
「二個目だろうが。………絨毯のあわいの件もあるが、あの色鉛筆の削り場を探してやっているんだ。備えが済んだ以上は神経質になる迄の事じゃないが、お前も、意識の端には留めておけ」
「なぬ。………私の千二百の枠を奪った色鉛筆の話なのです?」
「常用ではない道具で、妙に数が嵩む物を手にした時には、その数にこそ救われるような事態に見舞われるようになるというのが、魔術の定説だ。あれは、秋の系譜の祝福だからな。もし、それだけの対価を求められるのだとすれば、間違いなく秋の系譜の中だろう」
「………そうなのですか?」
目を瞠り問いかけた先でこちらを見ている魔物は、こんな夜の艶やかさが満ちている舞踏会の中でこその暗さが例えようもなく美しく、その特別さが残酷にも思える人ならざるもの。
だが、この魔物は、ネアが先日の夜行列車の旅で手にした、千二百本の色鉛筆の使い所を探してくれていたらしい。
「とは言え、秋告げを回避したのは、織り糸の結びの標的から外す為だったがな」
「織り糸……?」
「始まりの店の店主だ。あいつは、縁ごと、特に愛情ごとや肉欲の類の結びに長けている。絨毯は、人間の文化圏では花嫁道具だった時代が長いからな。………ったく。ろくでもない奴に気に入られやがって」
「あら、あの方であれば、気にかけていただいたにせよ、お客としての範疇のものだと思いますよ?」
「あいつは、その関係性を好んで踏み外す類の男だ。商売をしていればこの上なく優秀な男だが、店を出ると、途端に気に入った客への執着を拗らせやすくなる。おまけに、手癖の悪いあの男が特定の女を作っていない、滅多にない瞬間に目を留められるとはな」
「………とても面倒そうな気配を感知しました。是非に遠ざけておいて下さい」
特定の条件下で恋に落ちやすい人は人間にも少なくないが、あの男性は、お客様とのいけない恋にのめり込みやすいという悪癖を持っているらしい。
資質故の事なので諦めるしかないが、ネアは既婚者なので、目をつけられないようにしなければならなかったのだ。
有能そうで素敵な人物だっただけに残念な情報であったが、店主としてはアルテアも一目を置く程のやり手なのだとか。
なので、アルテアとしても、ここで損なわれたり失われたりしても困るのだそうだ。
「お前の場合は、シルハーンはともかく、ウィリアムとグレアムが厄介だからな」
「ここに、そんなグレアムさんのお知り合いのミカさんがいますが………」
「ある程度冷静な奴に、俺がその結びを潰しておいた事を共有しておく必要がある。真夜中の座であれば、あの系譜の保護にも理解がある」
「…………こちらの規律を侵さない者であれば、私は問題ない」
「その類の嗜好は持たん。万が一見かけても、取り違えて排除するなよ」
「むむ………?」
なぜ、アルテアがその問題をミカとも共有しておく必要があるのかは分からなかったが、真夜中の座には、絨毯絡みの資質もあるのかもしれない。
(それに、ファンデルツの夜会の時はあまり感じられなかったけれど、………随分と親しげなような。……………あれから仲良くなったのだろうか………)
このテーブルには、麦に貴腐葡萄酒漬けの葡萄を刻んだ物を合わせたビスケットに載せていただく、棘牛とエシャロットのタルタルまでが完備されている。
あまりの美味しさに、ネアは身震いし、小さく弾んだ。
「っ、おい、弾むな!」
「むぐ。この喜びの表現を止めようとしても、私と、このちょっとお肉が粗めでそれが美味しさに磨きをかけたタルタルの間には入れないのですよ?」
「なんだそれは。………くそ、………横からだとそうなるとはな。………シシィとは、もう一度話をしておいた方が良さそうだな」
「解せぬ」
眉を寄せてもぎゅもぎゅとタルタルを載せたビスケットを噛み締めていると、くすりと笑ったミカが、帰りにそのビスケットと、タルトをお土産用に用意しておくと言ってくれたではないか。
ぴょいと弾んだネアはすぐさま使い魔に拘束されてしまったが、そんなアルテアが受け取る事で魔術の繋ぎなどもなく持ち帰れる事になった。
「ミカさんは優しい方ですね。ディノ達にもという事で、お土産まで用意してくれました」
「どうだかな………。だが、あいつがお前に時間を割いた事で、ある程度の周知にはなったようだな」
「……………まぁ」
アルテアにそう言われてみれば確かに、ミカが立ち去った後からは、不躾な視線が減ったような気がする。
ここで、アイザックとミカという、この舞踏会の主要な二人の高位者の知己だと知らしめる工程が終わったのだ。
「それでも、………ここに集まる方は、厄介なのでしょう?」
「だが、それぞれに特定の不利益や、接触を避けなければならない要素は必ずある。寧ろ、商人や魔術師なら、その要素を持たない者はいないだろう」
「アルテアさんにも、そのようなものがあるのですか?」
「さぁな。強いていうのなら、お前が関わると大抵が事故るな」
「あら、それを呼び込むのが私だとは限りませんよ?………ですが、今夜は沢山のことを学ばせていただいたので、賢い人間は大人しくしていましょう。この、プラムのケーキの再現などを依頼してもいいかもしれません」
「ほお?まるでそれが対価かのような言い分だな」
「むむ、あちらにある、ぷりぷりの牡蠣グラタンも追加します?」
ネアが感動した牡蠣グラタンは、生牡蠣の上にあつあつとろりのピリ辛トマトクリームソースとたっぷりの蕩けたチーズをさっと載せていただく、新感覚な牡蠣グラタンだ。
回しかけられた酸味のある黒っぽいソースと合わせ、お口の中を贅沢な驚きで満たしてくれる。
牡蠣は好きだが加熱しないで欲しいネアとしては、これからの季節に嬉しい美味しさであった。
「…………ったく。いいか、この手の要求をするのは、くれぐれも俺だけにしておけよ」
「クライスさんの件であれば…」
「真夜中の座についてもだ。ミカが料理を振る舞ったのは、あくまでも、ここが夜の盤上だからでもある」
「…………ほわ。もしや、私が食べたお料理の中には、ミカさんの手料理があるのですか?」
ネアが目を丸くすると、アルテアは、珍しくしまったという顔をするではないか。
どうやら、お土産の話をしている時に、その秘密も明かされていたと思っていたらしい。
ネアは、食楽の柱を有する真夜中の座の精霊王は、王であるが故に、その食楽の才をも持つのだと知ってしまい、お気に入りの精霊の素晴らしさに感激した。
真夜中と夜の全てを持つのが、時間の座の王の在り方なのだ。
「だが、あれと踊りたいと言い出すかと思ったが、そこは抑えたな」
「ミカさんとですか?………流石に私も、そこまで図々しくはありません」
「どうだろうな。お前は、目を離す度に余分を増やしやがって………」
「なお、じゅうたんのかたについては、かんぜんなるもらいじこです………」
じっとりとした目をした使い魔にそう念を押し、ネアは、そう言えばとお皿を置いた。
「先程の従者さんは、鴉さんなのですか?」
こちらを見たアルテアには、微かな躊躇いが窺えた。
だが、話してくれる事にしたらしい。
「いや、そう呼ばれるのは、装いの特徴からだ。特赦の仮面から派生した魔物だからな」
「も、もしや、本当の仮面の魔物さん………」
「いや、一つの資質に複数個体の特赦の魔物の、その中の仮面から派生した個体というに過ぎん。死者の国と地上とで行われる終焉の系譜の特赦日は、唯一、終焉の裁定や魔術が覆る祝祭日だ。魔物が成り易い」
「特赦と言うと、………罪が赦されるという事なのですか?」
「罪というよりは、裁定だ。あいつの系譜はひたすらに融通が利かないが、その日ばかりは緩和される。ウィリアムの立ち合いの下で定められた評決から特赦が出れば、死に至る呪いや死を齎す災いを退けたり、終焉やその領域で結んだ魔術を解くことが許される稀有な機会だ」
それは、前の世界の最期を看取った終焉の魔物にだけ赦された、己の資質を緩める事が出来る日なのだそうだ。
資質の変化というと蝕を思い出してしまうが、ウィリアムにとっては、救いにもなり得る日なのだとか。
「…………とは言え、願われるのは、不死や、死を退ける守護、死者の国からの解放が殆どだろう。願う者達の強欲さ故に、特赦とは言え、不可能な事の方が多くなる」
そう呟いたアルテアは、叶えられない願いをかけられるウィリアムを、どのような思いで見ているのだろう。
そう考えたネアは、地上で生者達に向けて行われる特赦日が、数百年に一度だと聞いてなぜかほっとしてしまった。
最も特赦日が割り振られているのは、魔物に殺された死者達のあわいで、お気に入りの人間を終焉の領域に落とされた魔物達や、死後も追いかけてくる魔物達から逃げたい人間の為に、その配分が変えられないらしい。
つまり、一番手がかかる場所なのだなと考え、ネアは先程の魔物を思った。
その、魔物に殺された死者達のあわいで、特赦日に死者達がかける仮面から、ユーグという魔物は派生したらしい。
特定の仮面というよりは、特赦日の仮面というもの自体を司る魔物なのだ。
また、門扉を閉ざされている事の多い死者のあわいで流通する特赦日の仮面だけではなく、死者のあわいで特赦日の舞台に上がるのに必要な切符代わりだと、生者達の間で法外な値段で取引されている眉唾物の特赦日の仮面もそこには含まれる。
その仮面を得れば、特赦を手に入れられるかもしれないという分岐や、特赦の舞台でどのようなものを示して特赦を得んとするのかを選択の系譜とし、鴉羽の魔物は生まれたらしい。
「なぜか、特赦日の仮面には、鳥の意匠や羽飾りの装飾が施される事が多い。だからこそ、鴉羽と呼ばれる装いになったんだろうよ」
「その、噂の鴉の翼のような装いを見てみたかったです」
今回の舞踏会でユーグがその装いを避けたのは、真夜中の座の精霊王の装いと近しくなるからだ。
そこまで気を遣う必要はないのだが、アルテア曰く、真夜中の座の精霊達の王への愛着はかなりの深さのようで、商売に響かないよう、敢えて過剰な配慮をしているのだとか。
高位の人外者にとって、姿を模されるのはあまり気分のいいものではない。
衣装被りが嫌厭される舞踏会の場であるからこそ、尚更に細やかな配慮としたようだ。
(という事は、この会場にはミカさん以外の真夜中の座の精霊さんもいるのだろう………)
そう考え、もう一度お料理に戻るか否かを思案していた人間は、ごろごろという不思議な音を聞いて振り返った。
するとそこには、子供用の車輪の付いた木の玩具のような物を牽いて歩く美しい少女が立っている。
木の玩具は狼の頭をしており、素朴な風合いがどこか絵本の中の物語を思わせた。
「ご無沙汰しております、アルテア様」
「…………今年は、お前の持ち回りか」
「ええ。父は、新しい術式の構築に夢中ですの。メデュアルどころではなくなってしまったのですわ。でも、そのお陰であなたに会えたのなら、私は父に感謝しなければなりません」
そう微笑んだ少女に、ネアは、こっそり一歩後ろに下がった。
今度の女性は知り合いのようであるし、会話に応じたアルテアの表情から、満更でもない知り合い度合いが感じ取れたのだ。
甘やかな語らいになるやもしれぬと考え少し立ち位置を下げ、ネアは、お肉やパイなどの焼き物の料理の並ぶテーブルに視線を戻す。
あの少女がこちらにも挨拶をしなかった以上、会話に参加するのは無作法だ。
ネアには階位的なものを判断する能力はないが、こちらを蔑ろにしても問題のない階位なのだろうし、その様子に不快感を抱くような露骨な態度でもなかった。
ただ、道端の小石は目に入らなかったという、そんなさらりとした黙殺である。
ぴしゃり、ぎぃぎぃ。
(え……………、)
ふと、テーブルの向こうから奇妙な音が聞こえ、ネアは眉を持ち上げた。
そうして、音の出所を見たその瞬間に思わずアルテアの腕を離してしまったのは、テーブルの反対側に蹲っていた生き物が、完全なるホラー仕様だったからだ。
折れて捻じ曲がった黒い鳥の塊のようなものが、腹部にある大きな口で、参加者らしき男性を丸呑みにしている瞬間を見てしまったのだから、繊細な心の持ち主が竦み上がるのは致し方あるまい。
だが、そこでネアが失念していたのは、この舞踏会に集う商人や魔術師達の執念深さや狡猾さだったのだろう。
アルテアの手を離した途端に誰かにぐいっと腕を掴まれ、気付いた時にはもう、視界が暗転し、どこかに引き摺り込まれていた。
大きな鳥の羽ばたきが聞こえたような気がして目を瞬けば、そこは、先程までいた大広間と同じような造りの、だが、明らかに休憩室や控室のような作りの部屋である。
「おや、…………魔術師達の悪ふざけか、商人達の思惑に捕まりましたか」
その部屋で振り返り、薄く笑ったのは、幸いにも知らない相手ではなかった。
だが、襟元を寛げてシャツを脱ぎかけ、手袋を外した長い黒髪の魔物は、見知らぬ魔物のような微笑みの温度と眼差しをしている。
床には引き千切られた白っぽいものが落ちており、アイザックが組み敷いた女性の白い喉元は、ひどく鮮やかに浮かび上がって見えた。
(……………何という嫌なところに送り込まれたのだろう)
そう思わずにはいられなかったネアは、ここで、そろりと背後を振り返り小さく息を呑んだ。
羽ばたきの音の出所はここだろうか。
なぜかネアの背後には、先程の仮面の男性が立っている。
欲望の魔物と特赦の魔物。
この組み合わせはどうなのだろうと慄き、ネアは、すぐに使い魔の名前を呼んだのであった。




