メデュアルの舞踏会と黒い鳥 1
ネアはその日、参加を見送った舞踏会の代わりに向かうメデュアルの舞踏会に向かっていた。
儀式的な意味では、季節の引継ぎを行う秋告げの舞踏会には及ばないだろう。
だが、多くの秋の柱の人外者達が訪れ秋を踏み固めるそちらの舞踏会とは違い、メデュアルの舞踏会はより密やかで人ならざる者達の領域にある。
用意されたドレスや、髪結いの儀式に、会場に向かう為に乗った馬車など、その全ての目新しさにネアは驚かされっ放しであった。
がらがらと走る馬車の窓の向こうは、死者の国との境界なのだそうだ。
廃墟になった街並みは壮麗で、時折、ぼうっと青白く燃える死の精霊達の姿も見える。
あの死の精霊はアンセルム達より遥かに低い階位の者達で、紫というよりは赤に近い瞳に、青白く燃える髪が特徴なのだとか。
霧がかった森の向こうに見える古城に、大きな満月は冷ややかで余所余所しい。
華やかで美しい秋告げの舞踏会が秋の最上階なら、このメデュアルの舞踏会が行われるのは秋の最下層である。
どちらかと言えば、死者の日に近しいような暗く悍ましい雰囲気なのだが、そこに舞踏会のような重厚な華やかさが加わると、如何にも異世界の人ならざる者達の舞踏会だという感じがした。
これ迄に連れて行って貰っていたような美しく幻想的な季節の舞踏会こそが、どちらかと言えば想像の外側だったのだ。
(あ、………また光った。この辺りは、死の精霊さんが多いのかな………)
本日のネアのドレスは、天鵞絨地に似た手触りと質感の新しい織物を素材としている。
こっくりとした濃い菫色は光の加減で表面に白くけぶるような天鵞絨めいた質感で色合いを複雑にし、ドレープの内側などの影になった部分はぐっと深い色になる。
特筆するべきは、やはりシシィの技量によるデザインだろう。
百合の花のように広がった袖口にたっぷりと使われた白いフリルには、これでもかという程にアーヘムの白糸の刺繍が使われているが、他には殆ど飾り気のないシンプルなドレスだ。
だが、素晴らしい縫製が体のラインを綺麗に浮かび上がらせ、ぐっと深く開いた襟元が舞踏会らしい。
広がった袖口とたっぷりとボリュームを持たせているスカート部分以外はぴったりと体に吸い付くようなデザインなので、飾り気がなくとも女性らしい体の曲線や華奢さを描き出してくれる。
シシィ曰く、このドレスは、袖口のフリルと胸元の肌の白さを使った、白と菫色の二色仕立てのドレスで、素材と手仕事の質の高さで、それを理解出来る者だけには至高のドレスと分からせる玄人好みのものらしい。
秋告げの舞踏会とは違うメデュアルの舞踏会では、このような一癖あるドレスの方が評価が高いのだとか。
なお、胸元は大胆にV字に開いているが、ドレス全体の雰囲気が慎ましやかなのでどこか繊細な印象が強い。
シシィの拘りは、襟ぐりから覗く胸元の部分に、ほんの僅かに、まるで見えてしまいましたと言わんばかりに配置した贅沢で繊細なレースだ。
ぐっと持ち上げた胸の下部分からそのレースが見えるので、どこか禁欲的な中に窺える危うさというものを表現したらしい。
「……………成る程な。今回はそう来たか」
「相変わらず復讐の道具にされ続けていますが、それはさて置き、アルテアさんと、同じ生地を使っているのですね」
「俺の手持ちの工房で、作ったばかりの生地だ。結晶化した花から紡いだ糸を使ってある」
「なぬ。………このしっとりした手触りなのに、元は結晶化したお花なのですか?」
「いいか、近付いてきた連中には触らせるなよ」
「ふむ。新作の秘密を守り通すのですね!」
「普通に考えろ。中身にも触れられるだろうが」
「…………触ろうとしたら、千切って投げ捨てます」
目のいい参加者達には、これが新作の生地だということは一目瞭然なのだそうだ。
メデュアルの舞踏会では、参加者の装いの階位も会場での扱いに影響するのでと、敢えて今回は新作の生地を使ったらしいが、商人や職人気質の参加者も多いので、中身が淑女だろうと何だろうと、退けられない階位であることを幸いと布を触ってみようとする輩がいることを失念していたらしい。
苦々しくそう告げたアルテアに、ネアは、さては苦手な相手がいるのだろうなと考える。
「まぁ、その真珠の首飾りがあれば、ある程度の虫避けにはなるだろうがな…………」
「ディノから貰った真珠の首飾りをと言ったのは、その為なのですか?」
「シルハーンが作った真珠だ。本来の真珠とは階位そのものが違う」
「なぬ。………特別に綺麗な、ただの真珠ではなく……………」
「お前のその指輪みたいなものだと思っておけ。とは言え、今夜は俺が隣にいるからな。白持ちでなければ、俺が作り与えたと思うだろうが」
アルテアはネアと同じ深い菫色の生地に、こちらもシンプルなくらいのシャツとクラヴァットだ。
だが、クラヴァットの裾にはネアの袖のフリルと同じように細やかで繊細なアーヘムの刺繍がある。
ネアのドレスもそうだが、白いシルクに白い糸での刺繍なのだが、糸の方が僅かに青みがかっているので、一目でどれだけ手の込んだものだか分かるようになっていた。
白を貴色とするこの世界に於いて、この糸がまた、かなり凄いものであるらしい。
ここは縫製の妙なのだが、同じ生地を使いながらもどちらかと言えば黒っぽい艶の出るアルテアの盛装姿は、そんな刺繍とクラヴァット留めに使われた真珠のブローチがはっとする程に美しく際立つのだ。
前髪を掻き上げたようにしてある髪型は僅かに崩し、はらりと額に落ちる白い髪さえをも装飾のようにしている。
「………むぐ」
「いいか、他の連中とは踊るなよ。…………もし、どうしても俺が外す場合は、せいぜいミカまでだ」
「真珠がひやっとするので、指先で持ち上げるのはやめるのだ」
なぜか手袋を外した指先で真珠の首飾りを持ち上げられてしまい、ネアは抗議した。
肌の温度で温まっていた真珠が、再び戻される時にはひんやりしてしまっている。
肌に触れる温度でそわりとするので、これは虐めだと言ってもいいのではないだろうか。
「相変わらずの情緒の不足具合だが、くれぐれも、その足元に空いた穴で転ぶなよ」
「あら、私の情緒はたっぷり満たされているので、足を取られるような穴などないのですよ?」
「ほお、それなら、お前が自損事故で転ばないように、情緒が足りるまで手を貸してやろうか?幸い、まだ時間があるからな」
「む。意地悪なお顔をしましたので、その申し出は却下します!私の潤沢な情緒が、溢れ出てしまったら大変ですからね!」
「やれやれだな…………」
小さく溜め息を吐いたアルテアは、手を伸ばして耳飾りを付けてくれた。
今夜は妖精の参加者はいないので、ヒルドの耳飾りではなく、アルテアとの繋ぎ石を飾るばかりだ。
こうして付けて貰う時は接近しての観察の機会なので、ネアは、遠慮なく選択の魔物の瞳の色や睫毛の影などを観察してしまう所存だ。
とても綺麗だが、さすがに何でもない時にこんな近くで覗き込む訳にはいかない。
「…………む?」
「ったく。視線の齎す意味くらい、把握しておけ」
「なぜ、唐突に、家族仕様の祝福をされたのでしょう?」
しかし、耳飾りを付け終えたアルテアの瞳がこちらを見たなと思った瞬間、祝福が一つ落とされていた。
「お前の情緒が、あまりにも無残だからだろうな」
「アルテアさんの睫毛は、長い睫毛とそれより少しだけ短い睫毛が交互に生えているのだという大発見をしたのに、なぜ情緒が足りないことになるのでしょう?」
「言っておくが、その発見とやらと情緒の間には、繋がりは生まれようもないからな」
「なぬ………」
そうして美しいものを愛でる繊細さが、なぜ情緒に反映されないのだろうかと、ネアは呆然としてしまった。
ましてや今回は、使い魔自身に反映されるものではないか。
しかし、その間に馬車が会場に到着してしまい、疑問を抱えたまま馬車を降りる事になる。
白い手袋を嵌め終えたアルテアの手に指先を預け、エスコートされて降りたのは、歌劇場のような壮麗な建物の前だ。
「……………まぁ」
思わずぽかんと見上げてしまったのは、その歌劇場の大きさ故だろう。
中で竜の戦いでも観劇出来てしまいそうな広さは、人間の感覚では圧倒されるばかりである。
「地上ではもう失われた劇場だ。今は、この秋のあわいと、魔物に殺された死者達の国に残るくらいだな」
「死者の国にも、この歌劇場があるのですね…………」
「あちらは時代違いだがな。死者の国の基盤にした土地の中に、あの劇場が混ざり込んでいたらしい。あいつらしい雑さだ」
「劇場もと用意されたものではなく、偶然配置されたものなのですね………」
「人間の為に用意したのなら、人間用の劇場で事足りるとは思わないか?」
「は!……確かに、そうです。………これだけ広いと死者さんが迷子になってしまいそうですね………」
美しい劇場のアプローチには真っ赤な絨毯が敷かれ、ネアは、相変わらず魔術の補助で羽のように軽やかな履き心地の靴でその階段を上がった。
迎えの馬車が時差をつけるので、この入り口で他の招待客と遭遇することはないらしい。
なぜ一組ずつの受け入れにしているかと言えば、季節の舞踏会のように開かれたものではなく、秋の底の舞踏会は秘められたる場であるかららしい。
片方の肩がけにしたケープをばさりと翻し、アルテアがそう教えてくれる。
これ迄のどの舞踏会の装いも美しかったし、どちらかと言えばやはりこの魔物の装いに最も相応しいのは黒だという気がするが、なぜか、この夜の装いこそアルテアに最も相応しいものだという気がした。
「秋の系譜で新しく生まれた魔術や、秋の資質から生まれた商品なんかも多く並ぶからな。他の季節の系譜の連中や、資格のない招待客に入り込まれると情報が持ち去られる可能性がある」
「だから、一組ずつなのですね。………お、おおかみさん…………」
入り口に立っていたのは、漆黒の儀礼用の軍服のようなものを着た、狼頭の騎士達だ。
ネアは思わず目をきらきらさせてしまったが、アルテアを見るなり彼らは深々と頭を下げてしまったので、ふかふかとした後頭部しか見えなくなった。
可能であれば、耳と耳の間の毛並みに触れてみたり、後ろに回り込んで、ふかふかの尻尾があるのかどうかを確かめたいが、同伴者に睨まれたので難しそうだ。
ネアは、なんと無情な世であろうかと悲しみを堪えつつ、やはりこちらも圧倒されてしまいそうな門をくぐった。
(いつもの季節の舞踏会が自然の中にあるものならば、こちらは、作られた建物を額縁にしているという感じなのだろう)
使い込まれた木の家具のような深い飴色の床材は、秋の祝福結晶を切り出したものらしい。
飴色に琥珀色、時折紅茶色がかった色が混ざる複雑な色合いで、秋の黄金石と呼ばれる最高級の建材の一つなのだそうだ。
もう一つ、麦畑から採掘される祝福石も高価なものだが、管理が難しく食楽の祝福が望まずに付与されたりするので、大勢の人々の集まるような建物はこちらの石材こそが相応しいのだとか。
「………この深い飴色に目が眩む程の黄金の装飾が、沢山のクリスタルのシャンデリアできらきら光り輝いています。窓の向こう側が夜になりかけているので、華美になり過ぎない不思議な趣もあって、なんて美しいのでしょう」
「あのシャンデリアは、月光の祝福結晶を再構築したものだ。砕いて水に投げ込み、浮かび上がってきた月光の上澄みの祝福だけをあの形に再構築している」
「………だから、あんなにもきらきらと白くけぶるように光るのですか?」
「内側には、星結晶も使ってあるな。光の色に重厚な金色が混ざるのは、間隔を空けて金色の星結晶を配置しているからだろう」
「狼さんの装飾が多いのは、なぜなのでしょう?」
「今年の衛兵の持ち回りが、秋暮らしの精霊だからだろう。本来であれば、この劇場の装飾は竜が多い。その部分だけを魔術で擬態させているのは、精霊らしい緩慢さだな」
どこか嘲るような微笑みを浮かべたアルテアは、魔物らしい酷薄さと色香があり、今のネアでも少しぞくりとするような仄暗さだ。
だが、今はもう、こんな魔物でもエスコートの腕を引っ剥して逃げ出さないくらいには信頼するべき存在となった。
(でも、アルテアさんがこういう感じを全開にしてゆくくらいの会場だとしたら、なかなかに厄介なのでは………)
となると、心の支えは、真夜中の座の監修だという素晴らしい料理くらいなのだろうか。
ネアは、何があっても全種類食べて帰ると、堅く心に誓っていた。
真っ赤な絨毯の敷かれた壮麗な大回廊を歩いてゆくと、その向こうには大広間があった。
ネアは歌劇場なのにと首を傾げてしまい、隣を歩いている魔物を見上げる。
「てっきり、歌劇場の舞台部分を利用しているのかと思ったのですが、違うのですか?」
「この王立歌劇場は、社交の場でもあった。舞台の裏側に半円の外周の形をした広間がある」
「………となると、少し変わった形の広間なのですね」
「中に入れば分かるが、くれぐれも、俺から離れるなよ」
そう言われ、ネアはぎりぎりと眉を寄せる。
すっかり秋告げの舞踏会の代用品な感じで足を運んでしまったが、じわじわと、じわじわと、この舞踏会は厄介な催しなのかもしれないという予感がし始めているのだ。
一度正面に視線を戻した後で顔を上げると、ふっと笑った魔物は人間を手のひらの上で転がして遊ぶけだもののような顔をしていた。
「………アルテアさんは、どうして私をこの舞踏会に連れてきてくれたのですか?」
「お前が、秋告げの舞踏会の代用を求めたからだろうが」
「………なぜか、それだけではないという感じがするのです………」
その言葉にアルテアは答えなかったが、微笑みの気配がぐっと深くなる。
それは、あまりいい返答ではないような気がした。
「おやおや、こちらの舞踏会でお目にかかるとは。寵愛も考えものというところでしょうか」
「………ジアート、先日のあれはなんだ」
「はは、気にしないでくれると嬉しいですね。時々、豊穣の系譜の服裾は、災いの転がり落ちることもある。今年は少しだけ、豊穣の扱い方を間違えた者達がいたというくらいです。また一つ、大いなる災いの形が生まれましたね」
会場の入り口すぐのところで出会ったのは、豊穣の魔物であるジアートだ。
ネアとしては、秋告げの舞踏会の常連さんという感じで、会話の内容の不穏さはさておき、個人的な付き合いはないにせよ少しだけほっとする。
黄金の髪に黄金の瞳をした美しい男性で、その美貌は、確かに豊穣を思わせる高位の魔物らしい華やかさだ。
とは言え、ネアの認識の中では、この指輪を得ている事である程度安心して対面出来る相手だという印象で、出来ればそのままでいて欲しい。
身に持つ色彩に合わせ、淡いシャンパン色の盛装姿がいっそう華やかな雰囲気であるが、会場がぐっと暗くなっているので、少しも軽薄な感じにはならなかった。
微笑んで一礼したジアートはそのまま立ち去り、ネアは、あらためてこの舞踏会の会場を見まわした。
(……………凄い。………なんて暗く、そして艶やかなのだろう)
会場はすっかり夜の装いであったが、庭のような場所に面した大きな窓の向こうには、僅かに残った残照の煌めきがある。
だがその光は屋内までは届かず、広間の中にはどこか濃密な夜の色と香りが満ちていた。
窓のある面以外の壁は鏡張りになっているようだ。
豪奢なシャンデリアが幾つもぶら下がり、眩く、けれども決して夜の領分を損なわないだけの明かりを灯している。
暮れ落ちてゆく残照の光に、ネアはふと、それが最後の希望の光であったかのような、ぞくりとするものを感じた。
振り返った大広間は、あまりにも暗い。
この先は、人間には過ぎた領域だという感じがひしひしと伝わってきて、少しだけアルテアに体を寄せる。
(黒と金………その二色だけなのだ)
金色には様々な色相があり、床石の豊かな黄金から、シャンデリアの繊細な淡い色の煌めきまで。
黒は夜の色彩のそれと、この広間で働く給仕達や楽団員の装いの漆黒だろう。
招待客のドレス以外は全てがその色彩に整えられており、料理を載せたテーブルの真っ白なテーブルクロスや、給仕達のリボンタイの白色がひと匙のスパイスのようだ。
洗練されていて、どこか退廃的で美しい。
秋の色相には違いないこの舞踏会は、季節の中に宿る暗い暗い美しさと、目を背けたくなるような悍ましさの饗宴であった。
近くを通った者達が、アルテアに気付くと深々とお辞儀をする。
美しい金髪に銀粉のようなものをまぶした女性に、黒とも見紛う赤い盛装服の男。
黒い鬣のような髪を持つ竜種に、鳥の頭の形をしたお面をかけたひょろりとした青年。
しゃんと、涼やかに揺れたのは誰かの尻尾だろうか。
ちらりとそちらを見ると、水晶のような鱗の尻尾を持つ美丈夫が、妖艶な紫紺のドレスの女性と何やら真剣に話し合っている。
「この舞踏会に来られている方に、………この会場から逸脱するような装いの方はいないのですね」
「会場や色相が変わっても、だいたいこのような雰囲気だからな。………ほお、今年は黒孔雀達も来ているのか」
「孔雀さん………」
低く何かを含むようなアルテアの声に、そんな選択の魔物越しに視線を向けると、広間の壁際に立った四、五人の男女がいる。
皆、面立ちがよく似ていて、黒髪に青い瞳の繊細な美貌の持ち主だ。
はっとする程に美しいが、進んで関わり合うのは避けようと思ってしまうのは、表情に滲む残忍さ故にだろうか。
「………お綺麗ですが、少し危うい雰囲気の方々ですね」
「南方の葬儀屋達だ。そちらの商売は、金回りがいいからな」
「………葬儀屋さんだとは思いませんでした」
「大陸程、埋葬が楽ではない土地が多い。黒孔雀の棺桶は、貴族達の嗜好品だ」
「そう言えば、今夜の舞踏会には、商人の方々も多いと聞いています。アルテアさんのお仕事の関係者の方も、いらっしゃっているのでしょうか?」
「来てはいるだろうが、お前が会う必要はない」
「………ご主人様から、挨拶をしておく必要はないのです?」
「やめろ」
絡めた腕に、仄かな体温が伝わる。
馬車の時から思っていたが、寒くはないものの、この会場もひんやりとした空気が流れている。
霧深い秋の夜に窓を開けば、こんな空気が肌に触れるだろうか。
壮麗な広場で優雅な音楽が流れているが、ふと目を凝らすと、あの鏡の向こう側に見た事もないものが映りそうだ。
「……………にゃふ」
「なんだ?妙なものを狩るなよ」
「鏡の中に、巨大な羊………獣さんがいます」
「………黒羊を連れてきているとなると、夜雫のメゾンか。夜の系譜の伯爵位の魔物だな。………今年はあの運び屋か。それだけ希少な葡萄酒を持ち込んだと見るべきか………」
ネアが鏡の中に見たぎょろりとした瞳の羊のような生き物は、その夜雫のメゾンの運び屋なのだそうだ。
メデュアルの舞踏会には、商人達が多く訪れていて、彼等は、そのままこの会場で商談に入ってしまう事もある。
季節の系譜の中での情報交換や人脈作りの舞踏会であるので、そのような場合に備え、商人達は自慢の品物を会場の外側に持ち込んでいるのだ。
「あの鏡の向こうが、控えのあわいになっている。舞踏会の広間まではメデュアルの舞踏会の管理地だが、あちら側は、参加者それぞれの国や土地、種族の管轄地だ。うっかりにでも迷い込もうものなら、最初に踏んだ敷地の管理をしている商人の持ち物になりかねないぞ」
「なんという不親切設計なのでしょう。うっかりよろけて鏡に手を着いたりしてもいけないのですね?」
「向こう側でお前を取り込む用意があれば、そのまま持ち去られるな。逆に、触れられたくない商品があれば、手を伸ばしても届く事はない」
だからこそ、鏡の中のあわいには商人達の従者や荷運びの生き物たちがひしめき合っているらしい。
この広間に足を踏み入れてから感じていた、静謐な夜の向こうのざわめきに似た感覚は、鏡の向こう側からこちらを見ている者達の気配だったのかもしれない。
「アルテアさんの領域もあるのですか?」
「ああ。………だが、近付くなよ。今夜の従者は、気性が荒い」
そう言われ、ネアは目を瞬く。
アルテアから、従者という言葉を聞くのは初めてであったし、ひたりと向けられた瞳の鋭さから、本当に触れてはならないような領域だと伝わってきたからだ。
「………見ていると、この舞踏会は、必ずしも同伴者が必要だという訳でもないのですね」
「いた方が面倒はないがな。商会同士の結びを考える連中や、秋の系譜の新しい術式欲しさに近付いてくる女達も少なくはない」
「もしや、虫除けにされる予定なのでしょうか。であれば、獰猛なご婦人方の引っ張り合いに混ざる趣味はないのですが………」
「安心しろ。それでもない。…………だが、酩酊と欲望の翳りについては、お前で払えるだろうよ」
「アルテアさんが深酒をしないよう、お酒の分量を見張っていればいいのです?」
「…………そうか。お前には、決定的に情緒が足りないんだったな」
空気がひんやりしているからだろうか。
隣を歩くアルテアの体温が、なぜかどきりとする程に鮮明であった。
果実味の強い葡萄酒のような香りと、どこかで満開になっている金木犀のような甘い香り。
冴え冴えとした意識はそのままで、だが、肌の端がちりりと疼くような不思議な甘美さが少しだけ。
思わず、じっと同伴者の横顔を見上げると、ふっと唇の端を持ち上げた魔物はやはり凄艶であった。
ディノやノアの微笑みとも、ウィリアムの微笑みとも違う深い微笑みは、やはりどこか人間らしい生々しい暗さと、鮮やかなまでの色がある。
こんなに美しい魔物に対してなぜそう思うのかは分からないが、アルテアの美貌のどこかには、この秋の深部のような、美しくも悍ましいような何かが宿るのだ。
(……………それが、選択というものなのだろうか)
だからネアは、そんなことを考える。
輝かしい成功と、悍ましい破滅の分岐。
けれどもその選択の場面は、恐ろしいばかりではなく、ぞっとするような甘美な瞬間でもあるのかもしれない。
派生したその瞬間から姿を変えない魔物とは違い、成長し変化する人間という生き物にとって、それは必ず誰もが通る道だ。
常に隣り合わせにあり、美しい手を伸ばして破滅に誘うもの。
(だからこそ、この魔物に破滅させられるのは、人間が多いのだろうか………)
「ここは、真夜中の座と、欲望を司るアイザックの独壇場だ。その中でも秋の舞台は、結実や豊穣など、取り込み貪り食うような欲求が顕著になる。………とは言え、お前なら、そうそう妙な影響を受けたりもするまい」
「つまり、腹ペコになり、食べたり飲んだりが止められなくなる恐ろしい影響の出るところなのですね?」
ごくりと息を呑み、ネアは、しっとりとした柔らかなドレスの布地を思った。
伸縮性があり着心地がいい反面、食べ過ぎるとなかなかに危険な変化を反映してしまいかねない。
質感からもう少ししっかりした生地だと思っていたが、これだけ肌の温度が感じられるとなると、思っていた以上に薄いのかもしれない。
勿論、アンダードレスは着ているが、コルセットのように固くお腹を覆う装備は入っていなかったのだ。
これは恐ろしい事になったぞと青ざめたネアを、なぜかアルテアは呆れたような顔で見下ろしていたが、ふうっと一つ息を吐き、腕にかけさせていたネアの手を掴んで引き寄せる。
「まずは、ダンスからだな。季節の舞踏会のダンスが魔術を踏み固める意味を持つのに対し、メデュアルの舞踏会のダンスは、体温を上げ、欲求を高める為のものだ。同時に、円環を成してこの場に集められた魔術を封じる役目も果たす。系統としては、夏至祭のダンスに近いだろうな」
そんな説明を真剣に聞きながら、ネアは、いつの間にか踏み込んでいたダンスの輪に流れるように加わったアルテアのリードに、最初のステップを任せた。
ぐっと腰を抱き寄せられると、やはり肌の温度がしっかりと伝わる。
服地が同じなので、体に回された腕が同じ色のドレスに沈む様子を見ていると不思議な気持ちになり、夜の色に飲み込まれ、あえかな星の煌めきのようにシャンデリアの明かりが揺れる大広間でダンスが始まった。
優雅で華やかな音楽は、初めて踊るステップだ。
アルテアがリードしてくれるお陰で辛うじて付いてゆけるが、一瞬困惑してしまい、そのまま、リードに任せてしまう事にした。
くるりと大きく体を動かす部分では、ついっと爪先で靴先を開いてくれるので、ダンスのパートナーな使い魔としては完璧な指導ぶりと言えるだろう。
(………あ、同じステップを繰り返しているのだわ)
そう理解すれば後はもう楽しむばかりだ。
優雅だが小気味のいいステップを踏み、くるりと互いの体の位置を入れ替え、ふんわりとしたターン。
どこか耳に残る物悲しくも空々しい旋律は、ワルツのようだが聴いたことのない音楽で、音楽に身を任せると、ざわりと心が揺らぎ、互いの肌の温度に沈み込むような不思議な陶酔感がある。
冷ややかに、悪辣に。
美しく、悍ましい。
こちらを見下ろし微笑む魔物の赤紫色の瞳を見上げ、ネアはいつの間にか、この不思議なダンスに没頭していった。
くるりくるりと、広間の中央で踊る。
女達のドレスの裾が広がり、細やかな装飾品がきらきらとシャンデリアの光に煌めく。
すぐ近くに大きな巻き角のある獣が踊っていたり、赤黒く燃える髪を持つ美しい女性が踊っていたり。
ああそういえば、ずっと昔に思い描いていた魔物という生き物は、こんな感じだったと考える。
美しいものも、異形のものも、そして悍ましいがなぜか魅力的な生き物も。
すっかり、街角のパンの魔物や、銀狐姿でお腹を出して眠る魔物を見慣れてしまったが、ネアの世界で育まれた魔物達のイメージそのものではないか。
「………んむ」
「余所見をするな。それとも、もう少し深く繋げるか?」
向こう側で踊っている黒山羊のような生き物に目を丸くしていると、ふいに、首筋に口づけが一つ落とされた。
齧ろうとされたのだろうかと慌てて視線を戻すと、冷ややかで弄うような目をしたアルテアに、そんな事を言われる。
「……向こうで、山羊さんが、細長い樽と踊っていました」
「………は?」
ネアのあんまりな言葉に思わず振り返ってしまったアルテアは、無言で視線を戻した。
何の感情も窺えない表情ではあるが、見てしまったものの情報を脳内で整理しているのだろう。
「………あの方達は、お知り合いではないのですか?」
「知らん。知り合う必要性も感じないな。それと、今回は料理はいいのか?」
「………は!わ、私としたことが………。まだ、七つあるテーブルの内の五つまでしか監視を終えていません」
「…………五つは見ていた訳だな」
「あら、ダンスをしながら会場を見るのも、舞踏会の嗜みですよ?」
そう言えば、なぜかアルテアは憮然とした顔でこちらを見る。
「…………お前は、お前のままか」
「なぜ、少しだけ失望した感じに言うのでしょう………」
「さあな」
大きな鏡張りの壁の向こう側に、目隠しをするような仮面をかけた男性が見えたような気がした。
癖のある黒髪に黒いジレ、真っ白なシャツを着たその男性の姿が、なぜだかひどく印象に残った。




