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26. 無差別でほっとしました(本編)




工房に戻ると、レイノは暫し勉強の時間となる。



迷い子として為すべき仕事はいずれ果たさねばならなくなるが、今はまだ、この教区で暮らしてゆく為の知識を育て下地を整える事に使う時間なのだそうだ。


全ての迷い子達は、こちらに保護された後の三日から一週間でその学びを終え、実際に教区での仕事に関わりながら、契約に備える。

教区での仕事は大きく分類された全ての職務に触れさせ、どの分野が自分に向いているのかを知った上で契約に進むのだ。



「…………お相手によっても、向いている仕事があるのですか?」

「ええ。種族ではなく系譜によっても変化しますよ。例えば、僕のような司書…………審問官としての職務であれば、夜の系譜や終焉の系譜、書の周りの系譜や静謐など、向いている系譜が決まってくるんです」



(あ、さらっと異端審問官だという告白を混ぜてきたのかな……………)



しかし、レイノはその先の事を知りたいので、ひとまずその告白は聞き流させて貰おう。


自分に求められる役割がどこまでなのかはまだ不透明であるからして、レイノも契約とやらを経験しなければいけないかもしれないのだ。


アンセルムが気付かなかったのかなという悲しげな目をしているが、他人の事よりもまずは自分の事が知りたい。

人間とは、かくも残酷な生き物なのである。




「向かないという事は、相性があるのですよね…………。例えば、火の回りのお仕事に水の系譜は宜しくないという感じでしょうか…………」

「そのような組み合わせでも、相性がいいものもあります。例えば、泉は扉の系譜の水辺とされますから、封じる意味合いを持つ火の系譜とは相性が悪いのですが、変化や侵食を好む川の系譜の者達は、華やかで変化の多い火の系譜が好きだったりします」

「……………大枠で理解する事は出来ないのですね。一つ一つ、覚えてゆくしかなさそうです…………」



思っていたよりも、属性や系譜の仕組みは難しいようだ。

前の世界の物語本の知見を生かして素早く習得し、この子は天才かなという評価を思いのままにする予定だったレイノは、その事実にしょんぼりとしてしまい、目の前の教本をぱらりと捲る。



「おや、それもまた楽しいかもしれませんよ」



こちらを見て微笑んだアンセルムは、はらりと落ちた前髪を指先で耳の方に流し、レイノの向いに座った。


しゅるりと衣擦れの音を立てた神父服に、きっとレイノが暮らしていた元の世界からは想像もつかないであろう素材に違いない、草臥れた銀縁の眼鏡。




(綺麗な人だと思う…………。そして多分、この人は人間ではないのだろう…………)



こうして、誰かが当たり前のように自分の側にいることは、ずっと一人で暮らしてきたネアハーレイにはよく分からない感覚で、心の縁がもぞもぞしてしまう。



だからきっと、その慣れない恩恵への執着として、レイノの中にはアンセルム神父を好きだと思う部分もあるのだろう。


身勝手で醜い理由だが、矮小な人間の好意の一端など、所詮そんなものなのかもしれない。


こうして一日と少しを共に過ごしてみれば、アンセルムとは気が合いそうなところも多い。

そうしてこれから育ててゆくものがあるにせよ、今はまだそんなところから生まれたばかりの親しみで、けれどもレイノにとってのその温もりは、無下に出来るほど小さくもなくて。



(だから、…………まだ信用出来ないこの人が、あまり良くないものでなければいいのだけれど……………)




「……………アンセルム神父は、教区主様とお知り合いなのですか?」



そんな思いが余りあって、レイノは尋ねてみるしかなかったのだと思う。


その問いかけに視線を持ち上げたアンセルムは、眼鏡のレンズを通しても尚鮮やかな瞳をこちらに向け、光を孕むような不思議な眼差しに、レイノの背筋をひたりと冷たい汗が伝う。


理由は分からないが、この質問は触れてはいけなかった境界を超えるのだと気付いたが、引き下がるには遅い。



「勿論、あの方は銀白と静謐の教区の統括をされる方ですから、昔からよく存じ上げておりますよ。…………でも、君が知りたいのは、もっと別の意味なのでしょうね」

「不躾な質問であれば、ごめんなさい。聞けるのであればという質問なので、話したくない事であればそう言って下さいね」

「…………君は、そうやってすぐに橋を落とそうとする」



レイノがすかさず言い重ねると、アンセルムは淡く苦笑した。

表情は随分と柔らかくなるが、それでも決して優しいばかりの人には見えない。


今のレイノが向き合っているのは、アンセルム神父ではなく、見知らぬ人ならざるものという感じがひしひしと伝わってくる。



「けれど、私とあなたは違うものです。私にも開きたくない扉があり、とは言えまだそんなにと開かないことを選択したものがあるのですから、他の誰かにもそれはあるでしょう」

「僕にとって、アリスフィアがそうであると?」

「……………なのかもしれませんし、そこまででもないのかもしれません」

「おや、………そこまで重要な質問ではなかったのでしょうか」



曖昧な答えを返したレイノに、アンセルムは微かに眉を寄せる。

どんな質問の意図に取られたものか、深刻な問いかけであると認識されたのであれば、軽減しておいた方が良さそうだ。



(あまり、上手な訊き方じゃなかった。含みがあるかもしれない人なのだから、もう少し慎重に当たるべきだったわ………)




「仮にも教区主様との事なので、もし、仲良しであったり、過去に一緒に事件を解決した仲間であったりというような繋がりがあるのなら、私も留意するべきものなのかもしれないと思ったのです。その、……この教区の中の人間関係は、なかなかに複雑そうなので……………」

「……………ふむ。そのような意図の問いかけであれば、君には一つだけ僕の秘密を教えておきましょう」

「……………共有することで面倒…………不利益もある秘密なら、是非にご辞退させていただきたく…………」



言葉には魔術が宿るという。

慌ててレイノがそう言えば、アンセルムは目を瞠ってから小さく笑った。



「そういうところですよ、レイノ。僕が君を気に入ってしまうのは。…………アリスフィアはね、かつてこの教区で保護された迷い子なんです。実はその時に彼女を保護したのは僕でして。…………今はもう立派な教区主なのですが、それでも彼女にはまだ僕を自分から完全に切り離して考えられない部分があるのでしょう」

「…………教区主様は、迷い子なのですね…………。そうなると、契約をしている方もどこかにいるのですか?…………教区主様の契約ともなれば、きっと綺麗で不思議な生き物が…」

「レイノ、レイノ、ほら、欲望に真っしぐらで前のめりになっていますよ。まずは落ち着いて…………」



苦笑したアンセルムから肩に手をかけられ、レイノは、自分が興奮のあまりに立ち上がってしまったことに気付いた。



「……し、失礼しました」

「レイノが大興奮だったのは、アリスフィアの契約の相手が気になって………?」

「は、はい!あのユビアチェさんという方も、綺麗な妖精さんと一緒におられましたし、ミサの時に見た他の迷い子と思わしき人達の席には、見たことのないような綺麗な方々がいらっしゃいました。でも、私はまだ竜を見ていないのです…………」

「……………念の為に聞きますが、まだ誰とも契約をしていない竜を見付けたら、君はどうしますか?」

「野良竜であれば、すぐに罠をしかけて捕まえます!」

「……………成る程」



うっかり大はしゃぎのレイノに対し、アンセルムはこの人間には竜を与えてはならないぞ的な面持ちになり、小さく息を吐いた。



「残念ながら、アリスフィアの契約の相手は竜ではありませんよ。それどころか、彼女は、その階位に見合わない契約相手を探しているので、今もまだ契約の儀式を行えずにいるんです」

「……………契約のお相手が決まる迄に、そんなに時間がかかるということもあるのですね…………?」




(まだ、一緒にゆく人が見付からないんだ…………)




その不自由さに、朝のミサで出会った少女の眼差しが記憶に蘇る。

あの瞳に見た喪失や失望は、そんな彼女の履歴からついた色なのかもしれない。



ネアはふと、ちくちくしたセーターしかなかった自分の息苦しさを思い出した。


みんなは当たり前のように持っているものを自分だけがまだ探していて、なぜ自分だけが上手くいかないのだろうと途方に暮れながら、心のどこかで見付かることはないのだろうと知っていたのなら。

探しても探しても見付からなくて、本当は自分の身を守る為に着なければいけないセーターを、毟り取って捨てなければいけない落胆の毎日だったのなら。



考えかけて、レイノは胸の奥底が震えた。

もう二度と、あの怖さと惨めさを思い出したくはない。



ちらりと窓の外を見れば、そこには美しい魔法の庭があって、レイノの手の下には素晴らしい挿絵のある魔術仕掛けの教本が広げられている。


挿絵の中で小さな小屋を踏み潰している竜の姿に、強張った心がほろりと緩む。




こういう世界があるなら、それだけでもう、あのちくちくするセーターを着る必要はないのだろう。


それは、例えこの世界で不遇なまま野垂れ死ぬのだとしても、この世界の美しさを垣間見れたのならそれで幸せだからだと言えば、首を傾げる人達は多いのだと思う。



(…………でも、不思議だわ。この世界は息がしやすくて、胸がいっぱいになって、何て暖かいのだろう。…………私は、このセーターだけでもとても幸せなのかもしれない…………)



とは言え、もしかするとそれは、レイノが失っている記憶のお陰なのかもしれない。

デュノル司教の微笑みを思い出すと、なぜか胸の奥の深いところがほかほかとする。

こんなに暖かかったら、もうセーターすらいらないのではないだろうか。




「アリスフィアは特殊な例でしょう。本来なら、迷い子だと判明した人間の周囲には、すぐに人外者達が集まってしまいますからね。ただ、彼女は、政治的な事情から自身が迷い子であることをある時期まで公表したがりませんでした。その後は、彼女が望んだ妖精が彼女を選ばなかった事もあり、契約が成り立たなかったんです」

「まぁ、………契約を望んだ妖精さんがいたのですね」

「彼は、この国の王子の騎士をしていました。迷い子である彼女がどれだけ契約を望んでも、既に主人を得た妖精が新しい契約に乗り換えることは滅多にありませんから」



(王子様の契約の妖精…………)



それはまさか、憧れの騎士服姿の妖精なのだろうかと考え、レイノは、今度は違う趣きの動揺に胸が苦しくなった。


ただの騎士ではなく王子の騎士なのだから、機能重視でありながらも見栄えのする近衛騎士的な素敵な服装なのかもしれない。

そんな妖精を知っていたら、レイノとて契約をお願いせざるを得ないだろう。



(そ、そうだ。王制の国で魔法があるようなところなら、私が物語で憧れたような騎士さんがいるかもしれない……………)



この世界の正義は騎士服である。

レイノは、その為にこの異世界に来たのかもしれないと考えかけ、悲しげに微笑んでいたデュノル司教を思い出してぎくりとする。


しかしながら、憧れというものはそうそう簡単に飲み込めるものではないのだ。




「…………騎士さん。妖精で、騎士さん…………」

「レイノ、欲望がそのまま言葉になっていますよ。竜はもういいのですか?」

「し、白い騎士服でケープがふわっとなる、剣を持った騎士さんはいますか?!いるのなら是非、そんな方と契約したいです!…………竜は、…………そうですね、捕獲してお庭で遊ばせておけば良いでしょう…………」



なぜかアンセルムは顔色を悪くしたので、竜への扱いに困惑しているのかと思ったが、暗い声で白い騎士服と呟いている様子を見ると、レイノの理想を聞いて思い当たる人物がいるのかもしれない。



「………………さては、お知り合いに………」



意気込んだレイノにがしりと手を掴まれてしまい、アンセルムは困ったような顔をした。



「残念ながら、私の存じ上げているお方は軍服寄りですからね」

「白い軍服も可とします!」

「………………そのような装いの方もおられますが、人間が契約で繋ぎ止められるような存在ではありませんよ。終焉を司る魔物で、魔物の中に二柱しかいない王族相当のお一人ですから」

「…………アンセルム神父のご存知の方は、偉い方なのですね。騎士さんの良さは親しみ易さにもあるので、その方は却下です。他の候補者を紹介して下さい」

「レイノ、白は貴色ですから、そうそう白い騎士服の方はいらっしゃいません。何にせよ、君が契約者を決めるのはまだ少し先の事ですからね」

「……………なんと悲しい世界なのだ」



白い騎士服の夢が叶わないと知り意気消沈したレイノに、アンセルムは呆れたような目をして、そっと頭を撫でてくれる。



「さて、系譜の認識は進みましたか?」

「……………む」

「そろそろ、リシャード枢機卿とのお約束の時間になりますよ。基礎知識の習得の状況を尋ねておいででしたから、ご報告出来るようにしましょうね」

「……………もしかして、少し怒ってますか?」

「いえ、まさか」



なんとなくだが、アンセルムが少しだけ不機嫌に思え、レイノはこてんと首を傾げる。

基礎の学びも進まないのに契約について思いを馳せ過ぎたのだろうと考え、座り直して教本を広げた。



そこからは暫く、教本を読み込むレイノと、時折なされる質問に対して答えるアンセルムの声だけが静かな工房に響いた。





ちらちらと、細やかな光の粒子が舞い散る。




その煌めきを見上げ、何とか基礎勉強の時間を終えたレイノは、薄暗い廊下を歩きながら一定間隔で差し込むステンドグラスの色鮮やかな光の筋を爪先で踏む。


ひんやりとした空気に、陰になった壁の祭壇に飾られた彫像の影。

やはり、この世界の聖域の美しさは例えようもないこの彩りにある。



そんな感嘆の思いを抱きつつ、届いたばかりの聖衣に着替えたレイノは、慣れないヒールの靴の硬さに背筋を伸ばして歩くことに苦労していた。



(制服…………じゃなくて、聖衣はとても着心地がいいのだけど、この靴は革が硬すぎるのでは…………)



受け取った時にはその形の美しさに見惚れた革靴だが、踵の履き口の硬さに靴下越しでも皮膚が擦れるような感じがする。

ふぁすっと音を立てるふんわりしたスカートに、フード付きのケープのような上着はふくよかなワイン色だ。


この聖衣は迷い子ごとに色が違うのだが、淡い色を好む者が多かったことで、レイノが選べる色はあまりなかった。

黄色味の強い茶色と、鮮やかでぱっきりとした黄緑色、漆黒とこのワイン色の中から、アンセルムと一緒に選んだのがこの色になる。



(あまり目立ちたくなかったから黒も良かったけれど、今の私の持つ色彩だと、全体的な色味として沈み過ぎてしまうから、やっぱりこちらにして良かったわ…………。っ、結構痛い…………かも………)



ここでまた足取りが重くなった。

考え事で気を逸らしてみたが、やはり踵の部分は靴擦れになってしまっている気がする。



「……………レイノ、今日の会合は気が重いですか?」

「気が重いという訳ではないのですが、……………初めて猊下と司教様と四人でお会いするので、少しだけ緊張しています」



そう答えたのは、不慣れなレイノの代わりに制服や靴の手配をしてくれたのがアンセルムだったからで、小心者としては下ろしたばかりの靴がこうも早く足に合わないとは言い出し難かったのだ。



「今日の会合は、あくまでも顔合わせだと聞いていますよ。僕が一緒ですから、安心していて下さいね。……………おや、ロダートですね…………」



ふと顔を上げ、誰かの名前を出したアンセルムに、レイノは、それは男爵の魔物を得て歌乞いになった少年だったかなと目を瞠った。



中庭から修道院に向けて繋がる外回廊のところから、ひらりと揺れる長い丈の聖衣を着た少年がこちらに向かって歩いて来た。

丈の長い薄紫色の聖衣を着ているのだから、彼は少なくともレイノよりは年長者だという判定を受けたのだろう。


明らかに年下にしか見えないので、とても釈然としないが、こちらは可動域とやらで判断するので今ばかりは諦めるしかない。


こちらに気付いたものか、少年が顔を上げる。




「ごきげんよう、アンセルム神父」

「こんにちは、ロダート君。これから祈りの間ですか?」

「……………ええ。アリスフィア様からのご召喚に応じて。…………あの方も、もう少し僕の忙しさを理解して下さるといいのですが」

「確かに君は、随分と沢山の仕事を引き受けていますものね。…………あまり無理をしてはいけませんよ」

「……………司書であるあなたは、それでいいでしょう。ですが、世界が僕に与えた責務はそう言って蔑ろにしてはいけないものなんです。失礼……………、あまり時間がありませんので」



レイノは、随分と高慢な物言いをする子供だなと考え見ていたが、慣れない場所で責任のある仕事を任されるのであれば、このくらいの強さが必要なのかもしれない。

しかし、通り過ぎ様にこちらを横目で見て馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らされれば、あの丈の長い聖衣を階段で踏んで転ぶがいいと呪ってしまうしかなくなる。


そんな少年の隣を歩くのは、耳下で揃えた金髪の青年で、男装の麗人めいた中性的な色気がさらりとした水のような美貌を際立てていた。



(歌乞いと言うことは、この人は魔物なのだ……………)



初めて見る魔物の姿としては、精霊とでも言われた方がしっくりくる繊細な美しさで、レイノは、その鮮やかな青色の瞳がすっとこちらを見るまで、それが契約者以外の相手には何の遠慮もない残忍な生き物だということをすっかり失念していた。



「……………こんなみすぼらしい人間が歌乞い候補とは、我々を愚弄にするにも程がある」



そう呟かれた声の鋭さに、隣に立つアンセルム神父が短く息を飲む。



レイノが理解出来たのは、そこまでだった。





「……………っ?!」




いきなり、ぐわっと首を締め上げられ、レイノは恐怖よりもまず混乱した。


何が起きたのか分からないまま、それでも慌てて床を蹴ってその腕から逃れようとしたのだが、出来たばかりの靴擦れにしっかりと立てていなかったからか、石床の上を靴底が滑り、そのままがくんと首を掴んだ魔物の手に体重がかかってしまう。



「レイノ!」



くはっと、飲み込み損ねた空気を吐き出し、レイノは誰かの怒号を霞みかかった意識の底で聞いた。



(………………アンセルム…………神父?)



そしてどこか遠くで、深い暗闇の底からこちらを見た人ならざる者達が見えたような気がした。



くわんと空気が鳴り、やがてまた音が戻ってくる。




「………………愚かなのは君達の方では?」




直後、レイノは唐突に解放されて誰かの腕に抱き止められ、げほげほと激しく咳き込んだ。


飲んだ水が気管に入ってしまった時のようにごぼりと喉が音を立て、噎せっても噎せっても止まらずに鋭く痛む。

けれどもそれは、喉元に当てられた手のひらのひんやりとした温度を感じると共に、魔法のようにすっと引いた。




「レイノ、もう大丈夫ですよ。可哀想に、怖かったでしょう」

「……………っ、げほっ、…………はい………けほっ、」



こちらを見下ろしたアンセルム神父の微笑みは優しかったが、その瞳は、先程工房で垣間見た鮮やかさよりもいっそうに暗く光るようで、助けてくれた筈のその人の微笑みにレイノはぞっとする。




「……………っ、神父風情が、その階位の魔術を扱うか!」




廊下に響いた忌々しげな言葉に、レイノは痛みの記憶も生々しい首を押さえて、ゆるゆると視線を正面に向けた。



すると、先程の魔物が憤怒の形相でこちらを睨む姿が見え、初めて触れる人外者の激昂に胸の奥が震えて足が竦みそうになる。


どしりと、見えない塊が打ち付けられたような息苦しさは、教本で読んだばかりの人ならざる高位者による精神圧というものだろうか。


人間の持つそれとは違い、人外者の精神圧は、魔術侵食や弊害のある目には見えないけれど実在する毒のようなもので、その人外者が高位である程に階位の低い者を容易く押し潰すという。




「仕事に必要なものですから、使うかもしれませんね。…………やれやれ、ロダート君。君は、またいらない策略を練ってしまったのかな?今度は、僕の可愛いレイノを殺して、一体どんな申し開きでその罪から逃れようとしたのでしょう?」



アンセルムは、こんな場面にそぐわないくらい優しく問いかけた。



けれど、その声音にぞくりとしたのは、きっとレイノだけではない筈だ。


先程まで大人びた高慢さを纏っていた少年の表情は恐怖に歪み、まるで何かから必死に逃れようとしているように、壁に体を押し当て、それ以上後ろに下がれなくなったことも理解出来ないのかずるずると床に崩れ落ちる。


ここまでロダートを怯えさせるとなると、レイノが見逃したその一瞬に、一体何があったというのだろう。



「…………お、お前は、司書だろう?!なぜ、あの魔術を退けられたのだ?!」

「おや、司書だから君より階位が低いと、なぜそう思ってしまったのでしょう。僕と同じ司書の仕事をしている神父の中には、もっと醜悪な固有魔術を持つ者もおりますよ?」

「…………っ、………」



にっこり微笑んだアンセルムに、ロダートは両手を持ち上げて顔を覆うように体を縮こまらせてしまう。


その異様な程の怯え方に、レイノが声も出せずにいると、彼の魔物が案じるように振り返るのが見えた。



「ロダート、少し待て。…………あの教区主にしてこの神父か。やはりここは狂っているな。…………すぐに排除する」

「それは困りましたね。僕が退けば、君達はこの子を襲うのでしょう?それさえなければ、僕もここまでしませんが…………」

「あの怪物には餌が必要だ。…………ああ、やはりお前は知っているのか」




(怪物……………?)



不穏な言葉に思わず眉を寄せたレイノに対し、アンセルムは何の反応も示さず、静かに魔物を見据えている。


続けられた魔物の声には、吐き捨てるような嫌悪感がありありと滲んだ。



「…………それなら、なぜそんなにも無価値な醜い女がそれを逃れ、美しいロダートがこうならなければならぬ。迷い子なら何でも良いのであれば、お前の迷い子こそをあの怪物に食わせてやればいいではないか!」

「……………君の主張はよく分かりませんが、僕はとても我が儘なので、この子を傷付けようとした君達には、もはや審問会の必要もないようだと判断しましょうか」

「………………審問会、…………まさかお前…異端…」



ふっと視界が暗くなり、レイノは、アンセルムの手で目隠しをされたのだと悟った。



その暗闇の向こうで、恐ろしい悲鳴が響き渡り、ばりばりと何かが引き裂かれるような悍ましい音が鳴り響く。

けれどもそれは、とても短い時間だったのだろう。



すぐに物音一つしなくなると、目元を覆っていた手が外され、レイノは、呆然と空っぽの廊下を眺める。

先程の魔物の姿は、もはやどこにも見当たらなかった。


床や壁に痕跡が残されている事もなく、ただ、あの魔物の姿だけが忽然と消えている。



ロダートはまだ先程の場所に座り込んでいたが、その表情は、どれだけのものを見てしまったのか、既にまともな精神状態ではなさそうに見えた。

泣き笑いのような表情のまま、握り込んだ小さな手が震えているのを見て、レイノは胸が潰れそうになる。


この少年のことはよく知らないが、壊れてしまったものを憐れに思うのは、本能的な反応なのだろう。



「…………アンセルム神父」

「おや、レイノ。それはいけませんよ。一人を見逃せば、彼らはその隙を見逃さないでしょうからね」

「……………彼等?」

「カーリアムと、ミヒャエル。君達も、ロダートと同じ目的でそこに立っているのではありませんか?」



(……………え?)




誰かの名前が呼ばれて、これ程にぞっとしたのは初めてだったかもしれない。


アンセルムに呼びかけられ、薄暗い廊下の柱の影や、聖堂に向かう曲がり角から姿を現したのは、朝のミサで見かけた迷い子達ではないか。



(そんな、…………どうして?)



カーリアムは健やかな微笑みが似合いそうな、バレリーナのような肢体の綺麗な女性で、鎖骨くらいで切揃えたウェーブがかった銀髪に儚げな水色の瞳が美しい。

ミヒャエルと呼ばれたのは、短い黒髪に鮮やかな橙の瞳が強い意志を思わせる、剣士のような雰囲気を纏う青年だ。


そして、彼らと契約しているであろう、美しい人外者達の姿もそこにある。




(契約者の力を借りれば、国家の英雄にもなれるくらいの力を持つのが迷い子で…………)



国を動かしかねない程の規格外の力を持つからこそ、彼等は求められ、大切に扱われる。

それを学んだばかりのレイノには、この状況はとても絶望的に思えた。


けれども、アンセルムは男爵位の魔物を容易く退けてしまったし、こうして新たな襲撃者が現れた今も、怯えているようには見えなかった。



(確か、カーリアムは、星影の妖精のシーと、ミヒャエルは黄昏の精霊と契約していた筈………)



そのどちらもが、決して一般的な人外者ではない。

人間の社会では容易に守護や契約を与えない存在として、大きな驚きを持って迎え入れられた高位のもの。



けれど、そんな契約を得た迷い子達が、なぜこんな事をするのだろう。

ロダートとその契約の魔物が口にした言葉を噛み砕こうとして、レイノは必死に頭を働かせる。



(……………怪物って、何のことなのかしら?…………もし、私の存在がこの襲撃の引き金になっているのなら、猊下や司教様のような後見人を得てしまったことが、彼等を刺激してしまったのだろうか…………)



奇しくもそう考えた時のことだった。



「あなたは知らないのでしょう。この銀白と静謐の教区にはね、悍ましい怪物が巣食っているのよ」



静かな声でそう言ったのは、カーリアムだ。

真っ直ぐにこちらを見ているので、それはレイノに向けられた忠告なのだろう。



「……………怪物?」

「ええ。私達は、その怪物を育てる為の生き餌。その為に門の向こうから呼び寄せられたのよ。…………基準に満たない迷い子は、ぼりぼりと食べられてしまうだなんて、………その様子では誰からも聞いていないわよね?」

「……………生き餌…………?迷い子が、でしょうか?」



思わずそう問い返してしまったレイノの肩に、アンセルムがそっと手を当てた。

漆黒の神父服姿に、一本結びにした銀髪が濡れたような光を帯びる。



「レイノ。それは、君には適応されないものだ。気にかける必要はありません」



それは宥める為の言葉だったのかもしれないが、あまりにも冷たく響くではないか。



「…………でも、あの方達が、そうなってしまうのは事実なのですか?」

「かもしれませんが、それは彼等の交わした契約の形と、その実力に見合った運命です。どんな組織にもね、その種の暗闇はあるのでしょう。…………特に人間の組織にはね」

「……………人間の?」



そう反芻したレイノに、アンセルムはふっと鮮やかに微笑んだ。



「能力が満たない者は他に還元される。厳しく聞こえるかもしれませんが、維持管理にも手間がかかる以上は、さして不自然な仕組みではありません。…………さて、僕の迷い子を傷付けられては堪りませんから、手早く済ませてしまいましょう。それにしても、どうしてレイノを狙ったのかな…………」



その呟きに律儀に答えてくれたのは、苦しげな目をした青年だった。

面立ちからは、襲撃などを良しとしないような気質に思えるのだが、その瞳には暗い決意が揺れていて、カーリアムとは違い、決してレイノの方は見ようとしない。



「…………別に、彼女ではなくても良かったんだよ。他にも、政治的な思惑からその能力に不相応な待遇を享受している迷い子はいるからね。…………でも、俺達はその順番が入れ替えられるのだと知った。そして、たまたま君達が最初に通りかかり、ロダートの魔物が彼女に狙いを定めただけだ」

「それは、何とも杜撰な計画ですね。相手をよく知りもせずに襲撃を企てたのですか。…………レイノ、動かないでいて下さい」

「………………はい」




(…………このまま、さっきのように排除してしまうつもりなのかしら……………)



切迫した状況だが、レイノは、このままアンセルムに全てを任せてしまっても良いのだろうかと考えた。


幸い、ミヒャエルの言葉から、無差別の通り魔であると判明したことで胸の中の重苦しさは少し剥がれ落ちた。

そうなると今度は、彼等をきちんと捕縛して事情を聞いた方がいいのではという思いにもなる。

とは言え、捕縛を可能とする程の余裕もないのかもしれない。



(……………アンセルム神父は、やはり教区側の人なのかもしれない。デュノル司教がいてくれれば、権限がそちらに移って判断を委ねられるかもだけれど、まだ会合の部屋までは距離があるし、ここに呼んでしまうことであの人を危険に晒したくない……………)




怪物の生き餌という言葉が、とても耳に残っていた。



彼等も追い詰められてこのような事を計画したのかもしれないが、無差別な襲撃を行なった以上は情状酌量の余地などない。

さして長生きに興味のないレイノとて、守れるところでは自分の命と安全を優先する。



だが、迷い子としての力が足りなければ怪物の餌とされてしまうという事がきっかけであれば、その理由こそがレイノがここに居る理由なのかもしれない。



このまま口を噤んで、全てが終わる迄ただやり過ごしていていいのだろうかと途方に暮れていたレイノの耳に、もう一人の人物の声が届いたのはその時だった。




「ほお、これは随分と愉快な話をしているな。是非に参加させて貰おうか」




ひたりと落ちたその声は鮮やかで暗く、ばさりと揺れた聖衣の裾が漆黒に翻る。

はっとして振り返ったその視線の先に立つのは、この凄惨な空気に誘われて姿を見せた魔物のような、リシャード枢機卿だった。


背後に一人の男性神父を伴ってはいるが、相変わらず護衛などは連れていないらしい。

そちらを見て呆れたような目をしたアンセルムに、枢機卿はふっと歪んだ微笑みを浮かべる。



「さて、俺もそろそろ、後見人としての権限を有効に使わせて貰おうか」




(…………これは寧ろ、悪役側の台詞なのでは…………)



レイノのその予感のままに、リシャード枢機卿はいとも容易く、そして容赦無く、襲撃者達を拘束してしまったのだった。







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