前のものと今のもの
「よく似たものを、絨毯のあわいでも見たのだよね?」
そう尋ねたディノに、ネアはこくりと頷いた。
先程まで会食堂にいたグラストは、騎士の居住棟に戻っている。
大聖堂の慰霊祭で負った傷は既に癒してあるが、それでも体への負担は計り知れない。
明日いっぱいまでは体を休ませ、もし軽微でも不調などがあればその翌日も休ませると決めたのはエーダリアだ。
騎士達はそれぞれに、扱える魔術の階位に応じて血を落とさないような魔術措置を施している。
その多くは構築にエーダリアが手を貸した術式だ。
その結果、グラストが何でもない事のように微笑んでみせても、それがどれだけの損傷だったのかをエーダリアは把握出来てしまうらしい。
(…………普通の騎士さんであれば、あの最初の一撃でもう立てなかっただろうと………)
そう聞けば、ゼノーシュの顔色の理由も分かる。
そこまでの傷を負っても尚、あれだけの時間を稼げたのは、グラスト個人の力に加え、幸いと結ぶ因果の成就などの祝福を数多く持っていたからだ。
とは言え、襲われた理由がその祝福だとなれば、何とも言えないものの、結果として無事ならネアは大歓迎する所存である。
とにかく今夜はもう、ゆっくり休むように寝かしつけるとゼノーシュが涙目で宣言していたので、晩餐も部屋で摂るようにしてゆっくり過ごすのだそうだ。
今夜は何かがあるといけないので大事を取り、自分の屋敷ではなく、騎士舎にあるグラストの部屋に留まるが、グラストの部屋もそれなりに広いものなのでゆっくりと休めるだろう。
明日は屋敷に戻り、そちらでの静養となる。
なので、晩餐を終えたばかりの会食堂にはネアと魔物達、そして、エーダリアとヒルドがいる。
エーダリア達は大聖堂での一件の事後処理も無事に終わり、今夜は遅めの晩餐であった。
「はい。あの時も確かに………。ですが、あの時には足元で湧き出した水からでしたが、今回見たものは、現れた時にはもう、大きな湖が広がっていました。………私の後ろにいた何かも、その湖の向こう側のどこか遠くにいたような気がします」
「………白い花びらかぁ。………もし、僕たちの考えるものの影響だとすれば、オフェトリウスも呼んでみるかい?」
「どうかな。彼は、前世界の魔術の扱いには長けているけれど、その履歴を知る者ではない。…………心当たりがなくはないけれど、そちらの魔術と本格的に縁を結ぶ方が危うい。出来れば接触したくないかな」
ネア達が話し合っているのは、大聖堂でネアが見た不思議なイメージについてだ。
今回の事件に紐付くものではないと思うのだが、意図せずに触れるには少し危ういものであるらしい。
なので、事件の方が落ち着いてからあらためて話し合う事になっており、統括の魔物として剥離手の回収に立ち合ったアルテアもこちらに来ていた。
(なぜあのイメージが危ういのかと言えば、…………そこに誰かがいるからなのだ)
それはネアには触れないし、語りかける事もない。
けれども確かにその奥に息づいていて、少なくともネアには、そこにいるという事が感じられる。
恐らくだが、向こうもネアの存在を認識しているだろう。
「コルジュールでも、君はその景色を見たと話していたけれど、その時は、海から訪れた者の気配しかなかった。あの時は、私もこの子の内側にいて厄介なものが入り込まないように見ていたからね」
「水、長い白い髪、………そうなると、符合するのはシルハーンだけじゃないな」
「ええ。……何となくなのですが、あれが私の中で自作された心象風景のようなものなのだとしても、ディノではないと思うのです。………海の妖精さんのような、言葉は通じるけれどよく分からない生き物という感じがしました」
ネアのその言葉に、ディノが小さく頷く。
「君がその情景に触れるのは、…………海から来たものや、その影響を受けたものが現れる場面のことが多いようだね」
「………むむ」
「であるのなら、やはり、前世界のものなのかもしれないね。今年になって漂流物の訪れが近付き、あちこちで前世界から欠け残ったものが及ぼす影響が強まりつつある。………とは言え、君の中で予兆を齎しているものが、どこで君と繋がったのかは押さえておきたいものだ」
「あの迷宮じゃないのか?」
「かもしれないし、サルガリスかもしれない。或いは、海竜の戦で訪れた影の国に滞在していた影響かもしれないよ。………だが、であれば尚更、迷宮で出会った者を退けられたのは良かったのかもしれないね」
「そうなのです?」
それはなぜだろうとネアがこてんと首を傾げると、ディノはゆっくりと頷いた。
「漂流物は、一度、漂流物を退けた者を損なう事が出来ない。それは知っているね?例えば、私が挙げたもの達が、君の知覚の中で漂流物と同一の存在として感知されているのなら、君は、既にそれを退けた者として扱われているのかもしれない」
「……………うん。そうなると、僕としては最良に近い展開だね。多少の前後はあっても、来年には必ず、漂流物の訪れが始まるのは確定している訳だからさ」
「…………とてもホラーなやつなので、会いたくありません………」
「うん」
ひっそりと頷いたディノがとても寄る辺なく思えて、ネアはそんな魔物の三つ編みをむんずと掴んだ。
「とは言え、そうして現れたものがディノに悪さをするようなら、捕まえてばらばらにします」
「………ご主人様」
「絶対に許すものですか!」
「ええと、それ以前に僕としては、ネアには漂流物に近付いて欲しくないなぁ………」
「遠くからきりんさんを投げ付けます?」
「やめておけ。その効果があるかどうかすら分からないんだぞ」
皆には食後の紅茶が振る舞われ、オレンジのタルトが今夜のデザートである。
ネアがいそいそとそんなタルトをいただいていると、先程から何かを考え込んでいたエーダリアが、ぽつりと口を開いた。
「ダリルが、…………剣の魔物のウィームへの移住に積極的なのは、今回の事や、漂流物の事があるからなのだろうな」
「だろうね。………僕としては、オフェトリウスに入り込まれるのはあまり嬉しくないんだけど、まぁ、ウィームの管理と歴史については詳しいし、あの剣の質が手元にあるのなら、渋々ながら歓迎だと言わざるを得ない……かな。今回みたいな事があると特に。……ああいう事は、事例としては知っていたけど、自分ごとになったのは初めてなんだ。ひやりとしたよ」
そんなノアの言葉に、ネアは、ああそうかと思った。
これ迄人間の組織の中で守護者役として暮らした事のない魔物にとっては、剥離手という存在の危うさはそこまで大きな不安材料ではなかったのだろう。
魔術が作用しないとは言え、魔物達自身は受けた傷を治せるし、目障りであれば排除のしようは幾らでもある。
だが、春告げの祝福などはあれども、基本的に人間は殺されてしまえばお終いなのだ。
そんな、自分達とは違う脆い生き物を守らねばならないとなると、今のノアのように取捨選択をしてゆかねばならなくなる。
「あの男が、エーダリア様を標的にしなかった理由は、気に障らなかったからだそうですよ」
そう教えてくれたヒルドは、捕縛された男性をオフェトリウスが回収してしまう前に、アルテアとダリルの聴取に立ち合っている。
今回の件は、本来ならウィーム領の事件として犯人の捕縛も可能なのだが、剣の魔物としてのオフェトリウスの要求に応える形で引き渡しとなった。
捕らえて手元に置いておく益がないと、ダリルもすぐに承知している。
「ありゃ、って事はあいつの目には、エーダリアは違う区分になるってこと?僕、結構な祝福や守護をかけてるつもりだし、ヒルドもいるのに不思議だなぁ……」
「ディノ様が考えられるように、土地の守護の中に含まれてしまい、認識の阻害が働いている可能性もありますね。………或いは、」
「………未だに、剥離手の者達が不快だと感じる祝福は、どの分野のものなのかが不明なのだ。誕生時の祝福を認識しているのなら、私は、さして付与が多くなかったとして除外されるのかもしれないな」
「むむ?ですがその場合、誕生時にはそもそも人外者の方が近くにいなかった私などは、なぜ含まれたのでしょう?」
「君は、誕生時の祝福を得ているよ」
「なぬ………」
「こちらの世界のものとは違う形なのかもしれないし、魔術的な意味は残っていないかもしれない。けれども、君の魂にはその祝福の痕跡がある。ただ、こちら側に来てから意味を成す程のものではなかったから、残っているのは痕跡だけだった」
「………そう言われてみると、あちらの世界の宗教上の儀式で、洗礼式などはあったのかもしれません」
規格違いで残らなかったものであれば、その辺りが該当するのではないだろうか。
そう思い洗礼式について話してみれば、確かにそのようなものが痕跡となる可能性もあるのだそうだ。
「ただ、君の場合は、練り直しの際に私が付与した守護を見ていた可能性もある。………とは言え、あのような者達の感覚については、未知のものが多いんだ」
剥離手達は、魔術接触を剥離してしまう為に観測値が取れない。
彼等の見え方や感じ方を調べた学者もいるようだが、ただ、耐え難いほどに眩しいだとか、強烈な腐臭のようなものがすると言うばかりで、そもそもの魔術の在り方を知らない彼等からは、具体的な情報は得られなかったそうだ。
中には、ただ、その存在が生理的に受け付けないというような意見もあり、結果、それらの意見をどのように割り振り、分類すればいいのか分からなかったらしい。
食後のお茶を飲みながら、議論を交わし、ネアの見ているイメージについては、やはり、こちら側の前の世界層の要素の干渉であろうという結論になった。
ただし、予兆を司る者達で尚且つ水辺の魔術に近しい存在の報告例がなく、どのような者の気配がそこにあるのかは謎のままである。
水辺のイメージについては、ネアの名前の由来になった森の女神の土地の影響もあるのかもしれない。
その土地や名前が力を得ていたのではなくても、人間は、己の知らないものを自身の記憶の中から描き出して整える事があるのだそうだ。
現段階での最有力の仮説は、ネアが迷宮で出会った白い長い髪の人外者の影響が出ているという説になった。
あの時に付与されたが効果を得なかった祝福だか災いだかは、ネアの身に持つ何某かの要素により作用しなかった。
だが、付与後に、効果が無効になり排除されたという状態設定になっており、恐らくそこには、漂流物を一度退けたという魔術認識も含まれるのではないかという事だったが、こちらについては確証は得られていない。
結果としては、前世界の要素への感知機能が得られている可能性が高いというのが、アルテアとノアの見解である。
「………謎が沢山残りましたが、結果としては上手く機能しているのであれば良かったです」
就寝時間近くになってしまったので部屋に戻り、ネアがそう言えば、ディノもこくりと頷く。
ネアは、コルジュールの夜に見た夢の裏側で、この伴侶の魔物がもう少し具体的な推察を行なっていた事には触れずにいた。
不利益となる事を隠されている訳ではないし、正直なところ、ネアには、説明されて頷く事しか出来ないような分野だ。
だが、ちらりと窺ったディノの横顔にふと、いつもとは違う心の動きの気配を感じ、ネアは、ぱちりと瞬きをする。
ずっと言いたかった事が一つだけあって、それをディノにぶつけてしまうかどうかを少し悩んだ。
「………とは言え、君にそうして紐付く要素があるのは、あまり………愉快ではないかな」
「私も、なんだか分からないものが、どこかにいるのだと思えばもしゃもしゃします。……以前に見た砂の幻惑のように、そちら側に引き摺られてしまう事はないのでしょうか?」
「扉が設定されていなければ問題ない筈だ。だが、暫くの間は、あの迷宮のように、ここではない層への道になっている場所や、かつての繁栄地だった場所には、漂流物の訪れが過ぎ去る迄は近付かないようにしようか」
「………例えば、以前にお伺いした歌劇の都もです?」
「………あの土地も、古い扉があるからね」
ネアは、近々で行く予定はなかったとは言え、その不確かな要素に行動制限をかけられるのだと思うと少しだけむしゃくしゃした。
けれども、見知らぬ場所に引き落とされたり、関わりたくない要素に触れるのはもっとまっぴらだ。
ここは堪えるしかないなと、しっかりと頷いた。
「はい。では、そのような場所は、行かないようにしますね」
「うん。我慢をさせてしまってごめんね」
「あら、ディノは私に安全なところを教えてくれているだけなのに、しょんぼりしてしまうのですか?」
「……………ネア、」
こちらは茶化すようにくすりと笑ったのに、名前を呼んだ声の静謐さに、ネアはぴたりと足を止めた。
会食堂でたっぷり飲んできたばかりだが、なんとなくの習慣でまた紅茶を淹れようとしてしまい、ポットの方に向かっていたのだ。
振り返った先で、窓辺の青い青い夜の光の中に佇んでいたのは、どきりとするような凄艶な美貌の魔物。
こちらをじっと見つめる眼差しは、澄明な水紺色の瞳の中で、夜の光よりも眩く暗い光が揺れている。
「ディノ?…………どうかしました?」
「…………大聖堂で、君の………目が、とても悲しそうだったんだ。何か、あったのかい?」
そう言われ、ネアは小さく息を呑む。
自身でも感じないではなかったその心の変化は、どこかでしっかりと顔に出てしまっていたのだろうか。
であればまだまだ精進が足りないなと苦笑し、どこか酷薄な眼差しでこちらを見ている魔物に歩み寄る。
ふかふかとした絨毯を踏んで距離を詰めれば、こちらを見ている美しい生き物はやはり、人間とは違うもの。
「私は、ディノを怖がらせてしまいました?」
「…………どうだろう。ただ、あまり望ましくはなかった。………君は、私のものなのだから」
「ふむ。そちら側なのですね。であれば、私はやはり私のものなのですが…………」
「ネア、」
「けれども同時にディノの伴侶でもありますので、気になるところは話し合ってしまいましょうね」
「………うん」
どこか酷薄な目をした魔物の手をさっと取ってしまい、その温度で自分が怯まないようにした人間は、僅かな困惑を浮かべてこちらを見下ろす魔物の瞳を見上げる。
(ディノにこんな目をさせている理由は、分かるような気がする。…………だからこそ、足を踏み外さないようにしないと…………)
分かってくれる筈だとか、これでいいだろうと思ってはいけない。
何しろ、ディノは魔物なのだ。
根底にある価値観の違いが、とんでもない落差になりかねない。
「…………あの男性の後姿を見ながら、どこかで、ずっと昔の事を思い出し続けていました」
「君が、………復讐をしたときのことかな」
「ええ。誰かを殺さねばならず、誰かに殺されるかもしれないと思っていた頃です。………最初は、なぜか唐突にあの頃のことを思い出しました。胸の奥に不思議な重苦しさがあり、それが不愉快なのですが、悲しみや苦しみとはまた違う不快感なのです」
「………うん」
「まずは、子供見舞いの獣さんが来てくれたように、私にも、親しい方々を突然奪われた事があり、今回の市場の事件でその記憶が呼び覚まされたからだろうかと考えたのです。ですが、すぐに違うと思いました。悲しいだけなら、殺す必要も殺される可能性もありませんから。………であるのならやはり、私が復讐の手立てを考えていた頃の記憶に触れるのだなと考え直しました」
取り上げている手が僅かに握り返され、ネアは、密かにほっとする。
ディノが湛えているのは魔物らしい狭量さで拒絶ではないが、とは言え、いつものように受け止めて貰えないのは少し堪えた。
そうしてどこかで引っかかっているものを、すぐにでも取り外して元通りにしなければならない。
「そんな不快感を覚えるのは、何かがおかしいなと思ったのです。それもまた、私を育み象った要素である以上、私からあの日々が失われる事はありません。ですが、今はとても幸せいっぱいなので、思い出さなくても良かった筈のことなのですから」
「………そうなのかい?」
「まぁ。ディノには、今の私が不幸せそうに見えますか?私がこの世を呪うのは、先日また、狐さんカードで惨敗したときくらいなのですよ?」
ネアがそう言えば、ディノは少しだけ安心したようだ。
ふっと冷ややかな微笑みを刻んでいた唇が緩み、表情が格段に柔らかくなる。
「………そうして私は、あの日々に磨き抜かなければならなくなった感覚が目を覚ましたのであれば、それは、あの日々の中で私が知覚しなければならなかったようなものが、どこかにあるのではないかと思ったのです。因みにここまでが、グラストさんとお話をするまでの私なのですが、ディノが気になっていた部分はありますか?」
「……君は、何かを損なわれたり、何かを取り戻さねばならないと、今でも思うかい?」
「…………む。それは、こうして過ごすような、いつもの生活の中でのことですか?」
「そうだね。………君が、」
掴んだ手の中から引き抜かれた指先が、ついと、顎先に触れる。
ネアの視線を持ち上げさせ、頬を包み込むようにするとそのままふわりと微笑む魔物はやはり美しかった。
そして、もしかしたら他の誰かは途方もなく恐ろしいと言うのかもしれない。
「私が知らない間に、その頃の君が抱えていたような渇望を得ていたのなら、……………どうにかしなければと思った」
「という事はやはり、私は、ディノに怖い思いをさせてしまったのです?」
「どうなのだろう。怖いというよりは、………それはどうにかしなければいけないという感じかな」
「むむ。そうなってくると、すれ違いがあった際には危険な事故に繋がりかねない匂いがするので、今回のように必ず確認を取って下さいね」
「君の瞳を揺らしていたものは、今の君にとっては不要なものかい?」
静かな声でそう問いかけた魔物に、ネアはにっこり微笑んだ。
「ええ。不要ですが、私が私のままでいる為には捨ててはゆけないものです。とは言え、普段は必要ないので心の奥にぽいっとしておきますので、こうして表層に引き上げられるのは、過去の事を思い出すような要因があったからだと思っていて下さい」
「………それが、執着でなければいいのかな」
「ディノ、私はこう見えてもとても幸せに貪欲な人間なのですよ?今はこんなにぬくぬくと暮らしているのですから、好んで不愉快だった頃の記憶など引っ張り出したりしません。人間は、何度も過去のことを思い出してしまうので、それが執着にも見えるようなややこしい結び付きかもしれません。ですが、私にとって今以上の優先度のものはないので、どうか安心して下さいね」
そう言えば、少し身を屈めた魔物に持ち上げられ、ネアは素直にその肩に手を載せた。
このような時はどうするべきなのだろう。
ずっと一人で生きてきたネアにとっては不得手な畑であるが、あまり失点を出したくない。
「ネア?…………困っているのかい?」
「ディノ、………その、……こんな時はどうすればいいのでしょう?ディノがつんとしていたので、それは嫌なのだと怒ればいいのですか?それとも、誤解が解けたのであればと、ここでしっかり甘えておいた方がいいのでしょうか?………私は、前の世界の暮らしではあまり多くを学べませんでしたから、こんな時にどう振舞えばいいのかが分からないのです」
「………どうすればいいのかな」
「ふむ。では、ディノはどちらがほっとしますか?どちらも私の反応なので、どちらかを選んで申請して下さい」
「………怒る場合は、お仕置きがあるのかい?」
「なぬ。………怒る場合は、荒れ狂う人間が美味しいものなどを所望したりします。ですが、場合によっては不貞寝してしまうので、今夜は個別包装になりかねません」
「では、そちらはやめておこう」
「甘える方に決まりましたので、もう少しぎゅっとしてもいいのですからね?」
「おや、私の城に行くかい?」
「……………にゃむ」
くすりと微笑んだ老獪な魔物に、罠にかかった気分で、ネアは爪先をぱたぱたさせた。
しかし、魔物な乗り物は不安定になる気配すらなく、か弱い人間が多少暴れた程度では揺るぎもしない。
「…………ディノ、」
じたばたするネアに少しだけ機嫌を良くした魔物をそのままにしておいてやりたかったが、ネアは、やはりずっと抱えている懸念も、ここで話してしまうことにした。
そっと名前を呼ぶと、睫毛に吐息が触れそうな距離でこちらを見たのは、静謐なばかりの水紺色の瞳だ。
「どうしたんだい?」
「………私は、今日の事件がとても怖かったです」
「うん。君がとても怯えているのが分かった。グラストのことかい?」
「それも勿論なのですが、………取り返しのつかないことが、総じてとても嫌なのです。私は強欲なので、大事なものを腕いっぱいに抱え、やっと幸せになっている今、もはや何一つとして失いたくありません。………なので、今日の事件はとても怖く、そして嫌なものでした。………それに、ディノ達が漂流物の話をすると、少し怖いのです」
「………うん」
「その漂流物というものは、…………私の大事な魔物を損なえるものなのでしょう?」
ネアがそう言えば、ディノは困ったように淡く微笑んだ。
ふっと唇に落とされた温度に口づけだけの儚さを感じ、ネアはまた我儘を言いたくなる。
「そうだね。…………けれども、それ等が私を排除するような事はないよ。君のそばに居られなくなるような事にもならない」
「絶対にですか?」
「約束して欲しいかい?魔物との誓約には、対価が必要になるかもしれないよ」
「むぅ。………今夜のディノは、さては少し意地悪な感じなのですね?」
ネアの言葉に、魔物は少しだけ驚いたようだ。
首を傾げ、そうなのかなと呟いている。
「でも、対価くらいはどどんと差し上げますので、約束して下さい。私が全ての海を大量のきりんボールで覆っておきたくならないように、約束しておいて欲しいのです。あまり、……積極的に対策を講じたくない感じがするので、ここは譲れません」
「……………ああ、君にはそのように感じ取られてしまったのだね」
得心気味に笑うと、ディノは、ふんすと胸を張ったネアをしっかりと抱き締め直してくれた。
「ごめんね。そういう事ではないんだ。…………ただ、今回の件や漂流物の件に関して、前世界の情報に明るい者はいるにはいるのだけれど、私はその人間が嫌いなんだよ」
「………ディノが、誰かを嫌いだと言うのは珍しいですね」
「そうなのかな。………でも、会ったり話したりするのが好ましくないのは確かだ。そのような思いが透けて見えたのだろう。君を不安にさせてしまったようだね」
「………私が見ているイメージに関してであれば、今後の対策に必要な範囲だけが揃えばいいと思うのです。無理はしないで下さいね。………ですが、それがもしディノ自身の事であれば、嫌でも無理をしてでも、一番安全な方策を取って下さい。ディノは私の伴侶なので、ずっと元気で、ずっと傍にいてくれないと困るのですから」
(この世界の前の世界のことも、私の生まれた前の世界のことも、そのどちらの前の世界も、ディノにとっては領域の外側のものなのだ)
魔物は、自身の質に大きく感情を動かされる事があるという。
人間を気に入っている筈のウィリアムが凄惨な戦場で笑っていたり、選択の魔物が、時折危ういまでの賭けで暇潰しをするのもその域だろう。
そして、もしかするとネアの伴侶は、自身の領域に紐付かない世界に触れる事がとても不愉快なのではないだろうか。
他の誰が行けたとしても、ディノだけが絶対に行けない場所こそが、そちら側なのだから。
このずっと一人ぼっちだった魔物により疎外感を味わわせるのであれば、世界の境界程に明快なものはないだろう。
「………そうだね。君はずっとここにいるのだから」
「ええ。なので、狐さんの予防接種のように、それが望まざるものであれ、私の伴侶の為に必要な手立ては講じて下さいね。そこまでを含めての約束にした場合、私に可能な支払いで済みますか?」
「また、フレンチトーストを焼いてくれるかい?」
「あら、それくらいなら明日の朝にだって焼いてあげますよ?」
「では、それにしようか」
「ふふ、とびきり美味しいフレンチトーストを焼きます!」
目を閉じて、あの深い湖と森の景色を思い出す。
先日迷い込んだ仕掛け館で、ネアは円環の魔術の使い方をこの目で見てきたばかりだ。
それならきっと、こうして足元に広がる湖や外周の森にも、同じような意味合いがあるのかもしれない。
湖の真ん中には白薔薇に囲まれたガゼボがあり、ネアはそこに立ち尽くしている。
周囲は深い霧と湖と森に囲まれ、その向こう側には確かに何かがいた。
けれどもこれは多分、この世界に来る前のネアハーレイのものなのだ。
紐解くだけの材料は永劫に失われており、偶然糸口が見付かる事はあっても、残された物からその証跡を辿るのは難しい。
目蓋の暗闇の向こうでそう考えたのは、ネアだったのだろうか。
それとも、コルジュールの時のように、ネアの内側を覗いていたディノの思考なのだろうか。
「おいでおいで」
手招き呼び寄せるその指先にふと、既視感を覚える。
華やかな織り模様のジレに、シャツ留めのバンドは関節部分の布地の巻き込みを軽減する為でもある。
だが、誰だったのかは思い出せない。
今夜はこの人の姿が見えたのだなと思えば、朽ちてゆくばかりのネアハーレイの足元をこの美しい世界に繋げてくれた祈りには、一体どれだけの声が重なるのだろう。
ふと、海で出会った花葬の船が、自分の中から、誰かを連れて行ったような気がした事を思い出した。
けれども、その二つを組み合わせて考えようとしてもさっぱり分からず、ネアは考えかけの思考の塊をぽいっと放り出してしまった。
「むぐ!」
ごろりと寝返りを打って、体を寄せた体温にぬくぬくとした思いを噛み締めれば、それに勝る物などあるだろうか。
理由も履歴もどうでもよくて、ネアハーレイではなくなったネアは多分、この一つさえ手元にあれば万全なのだろう。




