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騎士の横顔と陽光の瞳




はらはらと舞い落ちる秋の葉に、心のどこかがざわりと揺らめく。

強い風に煽られた森のように揺らめくその鈍い響きに、もう一度胸に手を当てて考えた。


窓の向こう側では多分まだ雨が降っていて、たたんという雨樋から落ちる雫の響きが音楽の向こう側に聞こえた気がする。




(……………静かだ。何もなく、この騒めきの理由もない。誰も殺しに来ていないし、誰かを殺す必要もない)



そんなことを思うのは、どれくらいぶりだろう。

だが、一度育み歪めたものが初めからそうではなかったように健やかに戻る事はなく、心の中を、時折その暗い暗い夜がゆっくりと横切ってゆく。

濡れた石段をこつこつと踏んでゆっくりと降りてゆくあの夜と、音楽の向こうでこちらを見た眼差しを思い出し、繰り返し、繰り返し。




お前達を破滅させよう。

殺すことで殺されても、それ以外に私は私を生かす術を知らない。

その両手で掘り起こした災いなのだから、報いは必ず受けねばならないのだ。




わおんと、誰かの叫びのような、ただの風に唸る鐘の音のようなものが聞こえた。

けれどもそれはもしかすると、ただの空耳だったのかもしれない。


荘厳な音楽が聖なる旋律を奏で、それを静かに聞いている魔物の横顔を見る。

視線を戻し見上げるステンドグラスは美しかったが、こちらに背中を向けて立っている、とある黒衣の男の姿に、また一つ記憶の中の雨だれが落ちてきた。

そうするとあの強い風がざわりと心の森を揺らし、同じことを繰り返す。



(ここは大聖堂の中で、今日は慰霊の儀式が執り行われている。誰かを殺す必要もなく、誰かが私を殺そうとしている訳でもない)



それではなぜ、こんな思考が動くのだろうか。

随分昔に錆び付き、動かす必要のなくなった回路だ。

真夜中の靴音や細い路地を曲がるときに感じていた張り詰めた空気は、いつの間にか嗅ぎ分けられなくなった。



最近はもう、聞こえなくなった音がある。

迎えに来なくなった黒い影や、あの喝采の音に暗い歌劇場の夢ももう見なくなった。

それなのになぜ、あの日の地下で嗅いだような紫煙の香りがするのだろう。

こちらの世界の煙草の香りは、ネアのよく知る物とはまるで違うのに。



ゴーンゴーンと鐘の音が響き、天鵞絨を撫でる手のように続いていた詠唱が終わる。

天井から吊るされていた香炉の煙がたなびき、皆とは違う場所に向かう人たちの旅路を祈り最後の儀式の輪が閉じた。



ぴんと張り詰めていた糸にどこかで見えない鋏が入れられ、ぷつんと途切れたように微かな動作音が重なり人々の緊張が解ければ、この儀式の終幕の時だ。



幾重にも重なって鳴らされる鎮魂の鐘の音に、喪服の人々が項垂れる。




「…………どうされましたか?」



周囲の人々が立ち上がり始めた時に、ネアにそう尋ねたのは、グラストであった。

隣にいるディノでもなく、同じ会場のどこかにいるアルテアや、この騎士の隣にいる見聞の魔物でもなく、その困惑に真っ先に気付いたのは、ウィームの筆頭騎士だ。


なのでネアは、微笑んで首を横に振ろうとして思い留まった。

些細な事だと受け流してまたあの黒い車に誰かを乗せてしまうくらいなら、僅かな違和感を誰かに話してしまう方がいい。


「ディノ、」

「…………済んでいるよ」


そんなやり取りで音の壁が展開され、ネアは、周囲にはこちらの会話の内容を悟られぬように、穏やかな表情を整えてグラストの琥珀色の瞳を見上げた。



(……………茶色い目に見える)



グラストという騎士の瞳の色を問われるとき、不思議とその回答はばらばらになる。

魔物達は深い金色だと言うし、ネアには琥珀色に見える。

ヒルドは茶色だと言い、エーダリアは日輪の虹彩模様のある茶色だという。


不思議な不思議なその瞳は、ウィームには珍しい陽光の系譜の祝福を持って生まれた人間の証なのだとか。

見る者が授かれる陽光の祝福に応じ、階位の高い祝福を持って生まれたその瞳は色を変えて映るらしい。

最も暗い色彩を見るヒルドの目には、陽光そのものよりも、その光が育む大地や大樹の色彩が強く出るそうだ。



そしてこの騎士は、今日の慰霊の儀式で、一人の友人を見送ったばかり。

それは先日の手斧の魔物の狂乱で亡くなった、街の騎士であった。



(だからこそ、グラストさんは今日はこちら側に座っていたのに)



亡くなった騎士は伯爵家の貴族の次男であったが、リーエンベルクの騎士を経て街の騎士となった。

ウィーム筆頭騎士にもなれると言われた人物で、グラストにとっては、短い期間ではあるものの指導役であった騎士なのだそうだ。


だが彼は、リーエンベルクの任務の中で祟りものに片目と片手の機能を奪われた。

命にかかわるものではなかったが、精緻な魔術の織り上げが叶わなくなり、リーエンベルクの騎士の職を辞して街の騎士になったという。


そこにあるのはネアの知らないウィームの歴史と、この土地で暮らしてきた人々の物語で、自分の息子と孫娘を庇って命を落とした騎士は、たった一人で狂乱した手斧の魔物の一人を圧倒した。



(グラストさんにとっての、憧れの騎士さんであり、そして………幸せに生きていて欲しかった人だったのだと思う)



街の騎士とは言え、ウィーム中央で騎士となる者達の任務は過酷なものだ。


何しろ、彼等が戦わねばならない殆どの相手は、荒ぶる人ならざる者達である。

妖精の障りや祟りものなど、人間の身では災厄にも等しい者達に立ち向かい領民達を守り続けているのだから、市井の騎士団に下りたからとて安全が約束される訳ではない。



それでも。

それでも、リーエンベルクの騎士を辞して家族と暮らしていたその人はせめてと、彼を愛し、彼に救われた人々は願っていた。


グラストにとってのその願いは、より強いものだったに違いない。


かの騎士がリーエンベルクの騎士を退いた理由となった負傷は、まだ若いグラストとアメリア、そして他の席次のない三名の部下達を庇っての事だったのだそうだ。



だからネアは、懸念を言葉に出すのをどうしても躊躇った。

親しかった人の冥福を祈る静かな祈り場を、指先から誰かの血が滴るようなこの感慨で、不必要に荒らしたくなかったのだ。



「……言葉に出来ないような、僅かな揺らぎと…………緊張感のようなものがあるのです。誰にも命を狙われていないのに、誰かを殺す必要もないのに。…………それでも、息を詰めて何かを窺うような、そんな不快感がなぜかずっと」



(でも、言わなければ。…………こんな場だからこそ、もしもだけはあってはならないのだ)



こんな時に、もっと巧みに言葉を選び、懸念やその予感の曖昧さを的確に伝えられたら良かったのにと思わずにはいられない。

けれども臆病者のネアは、その感覚の曖昧さよりもまず、不快感の輪郭こそをはっきりとさせようと思った。


目の前に立っている人は騎士なのだ。

不確かな疑問や不安を手渡されて困惑するよりも、そこに、自分の主人を脅かすものがないかどうかを精査する側の人である。

騎士としての責務より、大切な人との思い出こそを噛み締めて欲しい日ではあったが、それでもやはり、こちらを見ているグラストは騎士の目をしていた。



「…………ネア殿の感覚は鋭い。我々の方でも、警戒を強めましょう。ゼノーシュ、異変はないだろうか」


生真面目に頷いたグラストの問いかけに、公式の場では青年姿をしている見聞の魔物が頷く。

特に今回は、領外から事件の遺族達も大聖堂に招かれているので、こちらの擬態を徹底せねばならない。

ウィームの基盤の盤石さは、決して声高に示してもいいようなものではないのだ。



「うん。変な魔術の展開もないし、おかしなものは入ってきていないよ。でも、ネアが落ち着かないなら何かあるのかも」

「………ノアベルトには伝えたよ。アルテアにも共有しておこう」

「………ディノ、有難うございます。……もしかすると、私の記憶に響いただけの何かで、警戒をさせてしまうだけ無駄なものかもしれません。ですが、………一度その予感を無視してしまったことがあるので、言わずにはいられませんでした」

「何もなければ、それは却って幸いなのだろう?」

「……ええ。そうですね」

 


優しいディノの言葉に頷き、もう一度、深く息を吐く。

香炉から立ち昇る煙のせいで、決して馨しい空気だとは言えなかったが、それでもきりりと冷たい聖域の空気であった。

大聖堂の中に響いていた詠唱の残響が、まだ心のどこかを震わせているような気がする。



「……………いえ、やはりいますね」


ふいに、そう呟いたのはグラストだ。

ぎくりとしたように表情が強張りかけ、ネアは、咄嗟に淡く微笑んだ自分に驚いた。

ずっと昔に身に着けたその癖は、どうやらまだ心のどこかに生きているらしい。



こんな時は微笑むのだ。

社交辞令で交わすような薄っぺらで何の重さも意味もないような、そんな微笑みがいい。

誰の注意も引かず、誰かの目を滑らせるのは、大衆の中に紛れる凡庸さなのだから。



「魔術の気配でもなく、人外者の手立てでもない。人間のものだ。…………であればこれは、一度触れた事のある人間にしか感知出来ない類の、……体を動かす前に蓄えた悪意やひび割れでしょう。恐らく、エーダリア様も気付かれている筈です」


グラストの声は穏やかであったが、きっぱりと大きな両手で包み込み、そして、不要な物は断ち切るような強さもあった。


ゼノーシュと過ごす際によく見る穏やかな眼差しではなく、騎士らしい表情のグラストをこんな近くで見るのは久し振りだろうか。



(怒りでもなく、憎悪でもない。…………嘲りでもなく、鋭さや高揚でもない。こんな時にグラストさんが見せるのは、ただ、きっぱりとして揺るぎない確かなものという感じがする…………)



ネアの言葉では表現しきれないが、それは、太陽の光に温められた分厚い石壁のような感覚であった。

でも、その防壁は決して万能ではない。

人間らしい脆弱さを備え、人ならざるものの力が大きく響けば、割れたり砕けたりもするだろう。


そんな感じのもの。



「………僕には分からないや。でも、グラストのしたいようにして。僕が絶対守るからね」

「ああ、任せた。…………ディノ殿、そちらはお任せします」

「そうしよう」


今度は、ディノとの間にネアには感知出来ないやり取りを交わしているが、その意図するところは何となく分かるような気がした。

ここにいる魔物の力を借りてその僅かな気配を炙り出すのではなく、グラストは、ネアを連れて避難するようにと話しているのだ。

ここから先は、騎士達の領分だからと。


こちらを見てふっと優しく微笑み、一礼してグラストが離れてゆく。

ばさりと揺れたリーエンベルクの騎士のケープは、片側の肩にだけかけるようなウィーム独特のスタイルだ。

防寒の為にぴっちりとコートを羽織る時以外はこのような装いが多いが、それは、ケープに隠される片側の手元を偶然作られた死角のように見せ、魔術を編む指先を隠すという役割も兼ねている。


であればグラストも、既に何らかの手立てを講じているのかもしれない。



(……………っ、)



大聖堂の窓の向こうから差し込んだ筋状の陽光の帯がひらめき、奥の細い柱廊に向かうその姿が一瞬、薄くけぶるような気がした。

そしてその瞬間に、何か冷たくて重たいものが、したんと心の中の水面に落ちたような気がしたのだ。




「……………ディノ、グラストさんを守れますか?」

「ネア?」

「………よく分かりませんし、確証も何もないものです。…………ですが、グラストさんの守りを固めておきたいのです」

「うん。ではそうしよう。ゼノーシュは大丈夫そうかい?」

「……………ええ。………ゼノは大丈夫です。…………きっと」



こちらを見た魔物がはっとする程に艶やかに微笑んだから、ネアは、やっと胸を締め付けるような不快感なく、呼吸が出来たような気がした。


(悲しみでも恐怖でもない。それなのになぜかずっと胸が重苦しくて、……どこかやるせないような、不思議な締め付けがあった………)



瞼の奥の暗闇に静かな静かな湖があって、ひたひたと足元を揺らす水がある。

霧にけぶるその向こうには、何があるのだろう。

どこかで長い髪を揺らして微笑んだのは、誰なのだろう。


はらりと白い花びらが舞い落ち、波紋が広がる。

これは、つい最近も見かけたものだと思い、それなのに、いつの間にかここに浮かび上がる景色が広がっていることが、例えようもなく悍しい事のように思えた。



「ネア?」

「…………あ。………一瞬、ぼんやりしてしまっていました」

「干渉のようなものは感じられなかったけれど、気になる事があれば言うんだよ」

「はい。………見えたり見られているようなものではないのですが、この今感じている違和感や不快感の奥に、その予感を示したような、不思議なイメージめいたものを感じたのです。また後で、きちんと説明しますね」

「………うん。今回の事とは関係がないのだね?」

「はい。どちらかと言えば、関連して浮かび上がる情景という感じがしますから」



そう言えば、今日ばかりは三つ編みではなく、手が差し出される。

しっかりと伴侶の手を握ると、もうあの奇妙な景色は見えなくなった。



ゴーンゴーンと、鐘の音がまた鳴り響く。

こうして鳴らされる鐘の音も魔術の一端で、回収される事なく散らばるままに土地に染み込んでゆくものの一つだ。


甘い花の香りに、ふっと香炉の煙が揺らぐ。

立ち上がり大聖堂から帰ってゆく人々を見送り、同じ悲しみを分かち合う人達の静かな会話が聞こえてくる。


領外から招かれた遺族達は、暫し呆然と立ち尽くした後に、ここでは落ち着かないという表情をして足早に立ち去ってゆく。

ネアは、ディノにしっかりと手を繋がれ、ゆっくりと並べられた椅子の間を歩いた。


一人、まだ椅子から立てないままに顔を覆っている老婦人がいて、その震える手をそっと温めてあげたくなる。

清廉でもなく善人でもないネアにも、同胞としての感慨くらいはあるのだ。


これからもずっとそこにある筈だと思っていたものが、何の覚悟もなく奪われる思いはよく知っている。

そしてきっと、その災厄を成したものが憎しみとして残せないだけ、あの人達の苦しみはより深いだろう。



(……………あ、)


並んだ椅子の向こうで立ち上がった一人の男性が、ぞっとするような冷たい光を帯びた。

赤い髪にはステンドグラスの色影が落ちていて、その瞳には、何かを察した者らしい冷徹さがある。


そんなバンルは、エーダリアの程近くにいる。

そして、息子を亡くしたという領民と何かを話していたエーダリアの横顔にも、はっとしたように、どこか諦観や落胆に似た冷静さが浮かんでいた。



(もう、バンルさんも、………そしてエーダリア様も気付いている)



その気付きに一拍遅れてヒルドの表情が厳しくなり、騎士に擬態したノアが瞳を細める。

大聖堂の中に残っているのは儀式に参加した者達の五分の一程で、奥の席で、黒い毛織の帽子を被った背の高いご老人が手にした杖を持ち直す姿も見えた。



次の瞬間、あの、黒衣の男が動いた。

ネアが背中を見つめていた、背の高い、他領から来ていた男だ。

手斧の魔物の狂乱で親しい者が亡くなったのだと、先程まで隣に座っていた夫婦とそんな話をしていたような気がする。



がきんと硬い音がして、最初の一撃を受け止めたのはグラストであった。

大きな剣だが決して鈍くはなく、グラストの剣技はいつも鋭い陽光の煌めきのように澄んでいる。



「グラスト!」



ネアの目には、グラストはその男性の攻撃を受け止めたように見えた。

ぶわりと広がった水色のケープに、男の羽織っていた漆黒のコートが同じように広がる。



だが、何の問題もなく攻撃を受け止められたのなら、なぜ、ゼノーシュがあんな風に悲痛な声で名前を呼ぶのだろう。




「…………祝福の剥離手だね」

「ディノ、」

「持ち上げるよ」



続けての剣戟の音に気付いた者達が、わあっと声を上げる。


幸いにも領外からの参加者は殆ど残っておらず、ウィームの領民達の動きは素早い。

一人の男性がさっと飛び出し椅子の背を掴んで引き摺り下げると、僅かに開けたその空間はすぐにグラストと襲撃者の戦いの場になる。


素早く動けないご老人や子供達を、残っていた男達が抱えるように避難させ、聖職者達が素早く障壁の詠唱に入った。



「ノアベルト、災厄規模の剥離手だ。守護結界は全て無効化される」


(……………え?)


そんな中、ネアはディノが静かな声で告げた内容を聞き、ぞっとした。

距離的には届かない筈なので、ノアとは魔術で会話を繋いでいるのだろう。


すぐさま、祭壇の奥に立つ、ノアの扮した騎士がエーダリアの前に出るのが見えた。

その間にも、グラストと襲撃者の激しい攻防が続いている。



剣と剣がぶつかり、魔術の火花が散る。

ざあっと足元に現れる魔術陣が粉々に砕け、ケープが翻った。


どすっという肉を穿つ鈍い音は、どちらの体を損なうものなのだろう。

いっそ冷ややかな程の表情のまま、グラストは戦い続けている。



(声を、上げられない…………)



あまりの気迫と交わされる剣戟の激しさに、何も言うことが出来なかった。

しんと静まりかえった聖堂の中には、武器同士がぶつかる重たく鋭い音が響き続けていて、状況の見極めも出来ないような自分の声が、誰かが機会を図る為に必要なその音を潰してしまってはいけないような気がしたのだ。



ぎぃんと、一際鋭い、金属同士を強く擦り合わせるような音が響き、ネアは思わず体を竦めてしまう。



グラスト達の動きを目で追う事は出来ないが、その奥で蒼白になっているゼノーシュの姿はなぜかよく見えた。

震えるような思いで指先を握り込み、ネアは、魔物達が介入出来ない理由は何なのだろうと必死に考える。



(…………祝福の剥離手という言葉が出た途端、ノアは自分の体でエーダリア様を守るようにした。誰も魔術でグラストさんの手助けをしていないし、足元に走る魔術陣がすぐに砕けてしまっている…………)



であればこの戦いは、ウィーム陣営の利点である、高位の魔術の恩恵を受けられないものという事なのだろうか。

もし、相手の技量がグラストの剣技を凌げば、目の前で取り返しのつかない事が起きてしまうのではないだろうか。



「……………っ、」



これだけ味方がいるのにとネアが途方に暮れかけていた時、がしゃんと、更に大きな音がした。


振り抜かれた足が高く上がり、顎先を蹴り上げられたグラストの体がぐらりと傾ぐ。

奇妙なことだが、ネアはこの時、剣での戦いであんな風に体術を使うなんてと思ったのだ。

そう思ってしまってからはっとして、致命的なまでの僅かな一瞬に、息が止まりそうになる。



がしゃん!



だが、素早く振り抜かれた剣を受け止めたのは、グラストではなかった。

翻る赤い髪に、グラストが扱っていたものよりも細い剣先が見える。

グラストと襲撃者の間に割って入り、きっと、致命傷になったに違いないその斬撃を止めたのが誰なのか、ネアの角度からは見えなかった。



「グラスト!」


また一つ、悲痛なゼノーシュの声がして、駆け寄ってゆく見聞の魔物の姿が見える。

グラストが負傷しているのは間違いなく、剣を床に突き立てて体を支えるようにしたグラストをゼノーシュが後ろから支えた瞬間、淡い魔術の煌めきが滲むのが見えた。


はくりと強張ったままだった息を飲み込んだネアを、ディノがぎゅっと抱き締めてくれる。



「…………ノアベルトが、既にエーダリアをこの場から離脱させている。君もここから避難するよ」

「あ、あの人は………」

「グラストの場合はやや相手側が有利だったが、今は、バンルの方が技量が高い。すぐにオフェトリウスが来るだろう」

「オフェトリウス、………さんが?」

「うん。これは彼の領分のものだ。………魔術にすら触れようともしていない生粋の人間だけれど、得ている力は私達には対処が難しい。呼んでおいたからすぐにこちらに来る筈だ」


ディノのその言葉に目を瞠った先では、先程のような激しい攻防戦が続いていた。

そして確かに、黒いコートの男性と戦っているのはバンルで、あの細身の体にどれだけの力があるのだと思うくらいに鮮やかな剣捌きである。

やはり魔物だからだろうかと考えたネアだったが、その技量には魔術の欠片もないらしい。




「あの人間相手では、魔術の類は全て無効化される。グラストが初撃で負傷したのもその為だ。………君が、私に彼の守護を厚くしておくように言わなければ、彼は死んでいただろう」

「………っ!!…………は、はい………」

「あの人間の標的は、恐らくグラストだったのだろうね。エーダリアの方は、一度も見ていなかったよ。………そして、君もその標的の一人だったのかもしれない」



大聖堂を離れ、そう言われたネアは目を瞬いた。

あの後、すぐに転移で大聖堂から連れ出され、今はエーダリア達とリーエンベルクに戻って来ている。

周辺の状況確認と、現場に残っている騎士達の安否確認に奔走しているエーダリア達は、執務室に入った。

老人に擬態していたアルテアは、あの場に残ったという。



「わたし、…………ですか?」

「エーダリアだけを外していたのは奇妙なことなのだけれど、領主として結ばれた土地の祝福が彼だけは隠したのかもしれない。グラストと、聖堂内にいた騎士達、そして君も、あの男の標的だったのだと思うよ。あの人間は、戦いながら周囲に視線を投げていた。君の優先順位は高くなかったかもしれないけれど、…………最初に狙われたのが君ではなくて、本当に良かった」


(……………魔術の守護が無力化されるのなら、)


有事に守護だけで命を繋いでいるネアは、ひとたまりもないだろう。

グラストは、騎士だからこそ、反応し、ぎりぎりで致命傷を避ける事が出来たのだ。


「……………わ、わたしもだったのですね」

「気付いたのは、君の方が早かった。君があの懸念を伝えておいたからこそ、グラストも咄嗟に反応出来たのだろう」

「グラストさんのお怪我は、大丈夫なのでしょうか?」

「ゼノーシュの様子からすると、もう問題ないようだね。傷を癒すのは魔術で叶うから、怖がらなくていいよ」



ディノはそう言ってくれたが、ネアは心配で堪らなかった。

グラストの負傷がどれだけのものだったのか、ゼノーシュがどれだけ怖かったか。

そして、残されて戦い続けていたバンルは、無事なのだろうか。


敵の特性の為に殆どの魔物達が手を出せなかった中、あの中で最も階位が低い魔物だった筈のバンルがあれだけの剣技を見せた事も驚いたが、とは言え、だからといって安心してもいいような相手ではなさそうだ。



「狙われたのがグラストさんだけではないとなると、ウィームへの、………襲撃のようなものなのでしょうか?」

「その確認はエーダリアが行なっている筈だ。君や彼に感じ取れるものがあったのだとすれば、障りや災いの影響ではなく、明確な理由があるのだろう」

「………ええ」

「だが、あの人間は剥離手だった。そのような者達は、祝福を多く持って生まれた人間を呪うと聞いた事がある。恐らく、そちらの理由ではないかな」

「はくりて、………というものがあるのです?」

「生まれながらにして、祝福を取りこぼす人間の事だよ。海辺の街に生まれる事が多く、彼等の特殊な体質の殆どが、…………この世界層に上がってきてはいけないものを取り込んだせいなんだ」



この世界では、時折、海から前世界の漂流物が上がってくる。


海に暮らしその守護や理に守られている者達は抗体のような物を持っているが、陸に住み、本来であればそんなものに触れる筈もなかった人間は違う。

だからこそ、海辺に暮らす人間達はその障りを受け易い。


そして、大抵の場合はその気配に触れるだけで死んでしまうものの、ごく稀に、微量な残滓や気配を取り込みながらも生き長らえた人間の家系に、この世界に生きながらにして、この世界の祝福を剥離させてしまう特性を持つ者達が生まれてくる事があるそうだ。


彼等は、魔術の恩恵を受けられず、祝福を取りこぼす代わりに、この世界の魔術に損なわれる事もない。

だがそれ以上に得られる才はないので、特に重用されたり問題を起こす事もないが、今回のように、剥離手でありながら尚且つ類稀なる剣の才能などを育てた人物が現れた場合には、容易ならざる敵となる。




「……………はぁ。オフェトリウスが来てくれたお陰で、無事に刈り取れたよ。その前にバンルが腕を落としたって聞いたけれど、剣の腕前がそんなに凄かったっていうのは初耳なんだけど」

「私も驚きました。アトリア殿も驚かれていたので、かなりのものなのでしょう」


そう、オフェトリウスの騎士としての名前を口にしたのは何とか傷を癒したばかりのグラストで、ここでは、ディノの作っておいた傷薬が役に立ってくれた。

ゼノーシュは沢山泣いてしまい、本来の姿に戻った今も目元が赤い。



「…………お前が、無事でいてくれて良かった」


震えるような声でそう告げたのはエーダリアだ。

エーダリアは、角度的にグラストが初撃を受けた瞬間を見てしまい、胸が潰れそうな思いをしたらしい。


「ネア殿があの男の様子に気付いてくれたお陰で、観察をする余裕がありました。ディノ殿が魔術の防壁を重ねてくれていたお陰で、防ぎ切れなかった初撃で命を落とさなかったのも幸いです」


グラストはそう頭を下げてくれたが、とは言え、初撃から続いた攻防戦で、そんな相手と戦い続けていられたのは、純粋にグラストの技量の為せる技だ。


グラストが何とか離脱出来たところでバンルが引き取り、バンルがある程度無力化したものを、オフェトリウスが排除したらしい。


前世界の魔術にも長けている剣の魔物は、魔物達の中で、剥離手と呼ばれる人間が今回のように表舞台に現れた場合の回収役として機能しているのだそうだ。



「あれは、シルだから出来たんだろうね。剥離手からしてみればこの世界の魔術の殆どは役立たずだけど、シルのものだけは唯一、この世界に暮らす生き物である以上は簡単に無効化出来ない物だからね」

「……………僕、ディノにいっぱいクッキー買ってくるね」

「……………クッキーはいいかな」

「じゃあ、ザハのケーキにする?ネアも大好きだから」

「うん」

「ゼノ、あの場でグラストさんを助けたのは、当然のことなのですから、気にしなくてもいいのですよ?」

「ううん。それでも僕が嬉しかったからそうするの。ネア、僕のグラストを守ってくれて有難う」


グラストからは、きっちりと場を設けてのお礼を言われたばかりである。

だが、そんなグラストを失いかけたゼノーシュから、うりゅりゅとした涙目でお礼を言われると、ネアはあまりの愛くるしさと、………そして安堵に、わたわたしてしまった。


「アルテア様からのご連絡によると、あの人物は、慰霊祭の招待客ではなかったようですね。偶然大聖堂の前を通りかかり、グラストの姿を見かけた事で、被害者の知り合いだと偽って儀式に潜り込んだようです」

「……………見かけて、………ただそれだけなのです?」

「グラストはさ、ああいう手合いに、一番引き会わせちゃいけないカードなんだよ。剥離手になった人間の多くは、あんまり幸せじゃないんだ。この世界の魔術を無力化するとは言え、それも、一種の身に持って生まれた災いみたいなものだからね。で、そんな人間は、生まれながらの祝福が明るい同族に会うと、例えようもない不快感を覚えるらしい。僕も詳しくは知らないけれど、目が潰れそうなくらいに眩しく見えたり、自分が寒くて堪らないのに、そこだけ暖かくて心地良さそうに見えたりするらしいよ」

「……………あの襲撃は許せるものではありませんが、理由としてのそれはもう、どうしようもないのかもしれませんね………」



狙われたのはグラストなので、勿論だからと言って許せる訳ではないのだが、ネアは、そんな風に考えてしまった。



「ええ。先日の、櫟の祟りもののようなものです。彼等にとっては充分すぎる程の理由がありますが、それは我々には理解し難いものなのでしょう。…………だからと言って、こちらで配慮しきれるものですらありませんが」


そうきっぱりと言い切ったグラストは、身に集まる祝福が過分なせいで喪ったものもある人なのだと、ネアは以前に教えて貰った事がある。


得られないばかりが不幸なのではなく、グラストにはグラストなりの災いや苦しみもあった筈なのだ。

けれどもそんな事は、あの男性にとっては知った事ではなかったように、こちらからしてみれば、その苦しみも知った事ではない領域外のものだ。



切り分け、切り捨てて飲み込み、対処してゆくばかり。




「……………剥離手に出会うのは三人目でしたが、あれ程の使い手に出会ったのは、それ以外の者達も含め稀な事です。エーダリア様、今回はご迷惑を…」

「グラスト、その必要はない。それどころか、よくあの儀式の場を守り抜いてくれた」

「……………エーダリア様」

「私がこの役目と血筋で狙われることと、お前のそれと、一体何の違いがあるだろう。お前が気に病む必要はない。それどころか、あれだけの相手をよくあの傷で、一人で押さえ込んでくれた」

「…………有難うございます」



謝罪の言葉を遮ったエーダリアに瞳を揺らし、グラストが深々と頭を下げる。

その身に抱える強い光が今回の剥離手を呼び寄せてしまったのだとしても、それはやはり、グラストのせいでもないのだった。



(けれども、それでもお前のせいなのだと言う人もいるだろう。被害が出れば、やはりそうだったと言わなければならなくなる人達もいるかもしれない。………そんな事は言わないエーダリア様で、今回の事件でそうならなくて、本当に良かった)



人外者絡みではない襲撃となれば、ウィームとは言え、人々の受け取り方も少し変わってくる。

親しい人を喪い儀式に参加していたような人達に、追い討ちをかけるような被害が出なかったのは、幸運としか言いようがない。



(グラストさんが苦しむような事にならなくて、…………本当に良かった)



ほっとしたように、やっと柔らかな微笑みを浮かべたグラストの琥珀色の瞳はいつも温かい。

けれどもそこに宿るのは陽光の煌めきで、グラストの亡くなった娘は、よりにもよってその陽光の障りを受けて生まれ、体が弱かったのだとエーダリアから聞いている。



もしかしたら、それを自身でも知っていたのかもしれないグラストが、慈しむように大きな手でゼノーシュの頭を撫でている姿に、ネアは何とも言えないような安堵に包まれ、そっと胸に手を当てた。




大聖堂でざわめいた、胸の奥の揺らぎはもう消えている。

あの不思議な湖も、もう見えなかった。











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