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師弟の響きと手斧の魔物




一つの思わぬ大がかりな事件を終え、ネアはその日、すっかり秋の装いになった禁足地の森の見回りをしていた。


ウィームの領民にも犠牲者の出た疫病に纏わる事件が起き、その事件の後始末の舞台に急なお呼ばれをしたばかりだ。

日常の仕事に戻りつつも、なんとなくまだ、昨日は忙しかったなというひやりとした思いが胸の底にある。



「ネア、こちらを見て御覧」

「まぁ、綺麗なお花ですね。……確かこのお花は、白いのにあまり階位が高くないものの、とても珍しいものなのでは?」

「リーエンベルク周囲でだけ自生しているアネモネだね。雪竜から、ウィーム王家に捧げられた固有種だ」

「せっかくの発見ですので、ヒルドさんに報告しておきますね。もう少し冬が近くなるとリーエンベルクの庭園でも咲きますが、確か、森に咲くものは特別だった筈ですから」



ふくふくとした秋色の落ち葉の中から花を咲かせていたのは、白に、中央部分が菫色になったアネモネであった。

ネアはアネモネ博士ではないので、前の世界のアネモネにもこの色彩があったのかは分からないが、こちらの世界ではたいへん希少な色合わせなのだ。

白を持ちながらも魔術階位が高くない花は幾つかあるが、その中で、この花は贈り物の白となる。


贈り物の白は、アイザックが自由に扱う事を許している生活周りの白い物と似たような運用で、高位の白を持つ人外者が、己の持ち色を贈り物として切り出した許可制の白だ。


誰かの白から切り出された物なので、白を得ながらもその階位はさほど高くない。

だが、本来の持ち主との系譜上の相性が悪いと手にすることが叶わず、例えばこの花であれば、火の系譜の者達が近付けば枯れてしまうだろう。


ネアはうきうきした思いでヒルドに通信を入れ、ちょうど執務の合間だったというエーダリアがアネモネの花を見に来ることになった。

リーエンベルクの庭園に残されている花は、庭師が長年管理して残されているものだが、こうして森で咲く花は、自然な形で残った祝福である。

その祝福を贈られた血筋に連なるエーダリアが花のもとを訪れると、花も喜ぶし、エーダリアも祝福が得られるという素敵な仕組みなのだった。



「エーダリア様の準備もあるので、こちらには騎士さんが場所の把握の為に来てくれ、私たちはこのまま見回りを続けることになりました」

「うん。エーダリア達が森に入るのであれば、私たちはこのまま見回りを続けた方がいいだろう」



今日、こうしてネア達が森の見回りをしているのには理由がある。



昨日巻き込まれたばかりの、疫病の門関連の陰謀の解決にあたり、取りこぼされた要素がないかどうかの探索中なのだ。

疫病の足跡は、ほんの僅かな見落としが命取りになる。

とは言え、ネアがいる以上、疫病そのものの洗い出しには参加出来ないが、禁足地の森にも自生している雪剥しの山百合の状態を見回る事は出来るのだった。



さくさくと落ち葉を踏み歩けば、いつもよりもふくよかになった森栗鼠達がいる。


冬場でも冬眠せずに元気に走り回っている種も多いが、それでも美味しいものが沢山ある秋の内に、たっぷりと栄養を蓄えておくのだろう。

むっちりとした栗鼠のお腹の毛皮具合に、ネアはどうして手を伸ばして撫でられないのだろうと悲しく眉を下げる。

だが、己の欲望に忠実な人間がよろよろと手を差し出すと、栗鼠達は慌てて逃げていってしまった。



「むぎゅ……………」

「あんな毛だらけの生き物なんて……………」

「ディノ、どこかでムグリスディノを撫でさせて下さい。ふかふかもふもふを愛でずにはいられません……………」

「ずるい…………」



禁足地の森の中には、獣道のような森の住人達の通り道がある。

普通の見回りではその道を辿って歩くことが多いのだが、今回の仕事は山百合の調査であるので、あえて道を外れることもあった。


ふかふかとした落ち葉を踏みしめて歩くと、キノコがたくさん生えている場所を見つけたり、いつかの夜に落ちてきた流れ星の尾っぽが絡んだ枝を見つけたりもする。


思わぬところで満開になっている薔薇の茂みや、ウィーム中央で多く見られる樹木である、季節性のライラック。

砂糖菓子のような可愛らしい花を咲かせた下草には、こっくりとした紫色のクロッカスのような花々も咲いている。



「このお花は、お薬にもなるのですよね?」

「毒にもなると話していたね。………備蓄や収納の魔術を帯びるものだ。それを材料にして作るのなら、その人間が生きてゆくために必要な、身に持つ祝福や守護を洗い流してしまうような毒にするのだろう」


ディノは本当の意味での薬の魔物ではないので、人間が扱う薬品の全てを知っている訳ではない。

けれども、こうして薬効や毒性などがあると理解した上で植物を見れば、魔術の構成を見抜いてしまうので似たようなものを即興で作る事は可能だという。


そう教えてくれる魔物を見上げていると、こちらを見たディノが淡く微笑む。

真珠色の髪はゆるやかな巻き髪になっているので、ふんわりとした三つ編みにした部分にも光が入る。

秋の森の木々の枝葉の間から差し込む木漏れ日が、そんなディノの髪に不思議な陰影を作り出していた。


長いまつ毛の影には、はっと息を呑むほどに鮮やかな水紺色の瞳があって、いつだってその眼差しは、溺れたい程に深く美しい。

魔物らしい静かな佇まいとどこか酷薄な微笑みの艶やかさに、ネアはおやっと首を傾げてしまう。



「…………薬師としての仕事を、もう少し学んでみたいのかい?」

「あら、もしかしてディノも、少し不安に思ってしまったりするのですか?」


ネアがそう尋ねたのは、なぜかアルテアがクライスを警戒するからである。

お料理上手で自身の生活空間を整えるのが好きで尚且つ物知りで様々な幅広い知識を持つ部分など、確かにその二人は似ている部分もある。

だがディノは、クライスのグヤーシュにすっかり心を蕩かされてしまっており、あまり問題視してはいなかった筈であった。



(今回の事件で思いがけなく関わりを深めたことで、気になり始めてしまったのだろうか?)



そう考えて問いかけると、ディノは小さく微笑みを深める。

唇の端は先程よりも深いカーブを描いたが、どちらかと言えば魔物らしい微笑みだ。


「アルテアのように、君があの人間を必要以上に近付けるとは思っていないよ。あの人間の持ち得る資質の範囲であれば、君にとってはアルテアの持ち物の方が魅力的だろう。あの工房には、君が怖がるような薬の材料もあったからね」

「むし、……………むしなどゆるしません。むしくすりなど、滅びればいいのです……………」

「…………ただ、彼が君に授ける知識に惹かれるのかなと思う事はあるかな。人間は、そうして知識を授ける者との間に、時には肉親のような深い関係を築くのだろう?」

「師弟関係のようなものですね」

「……………うん」



こちらを見たディノは、不安そうではなかった。

そこに芽吹く可能性が自分に沿わないものであれば、どうにかしなければと考える魔物の目をしている。


ディノはネアの知る限り特別に優しい魔物だが、それでも受け入れ難い線引きはあるのだろう。

だからネアは、こちらを見ている魔物に頷きかけ、その心配はないと伝える事にした。


「私は、あくまでも歌乞いですので、クライスさんに師事しようとは思いません。今回あの方の工房でお世話になったのは、弟子入りではなく研修という名目ですからね?」

「研修と弟子入りは、違うものなのかい?」

「はい。弟子入りとなると、共に暮らしたりもするので、双方に個人的な絆や責任が生まれますが、研修というのはもう少し浅く広くな、大多数に向けての知識を教授していただける場なのですよ。とは言え今回はエーダリア様と二人で伺いましたが、弟子入りのように今後の生活までをあの方に預けるような形でお世話になってはいませんでした。………専門の知識を持つ方を紹介していただき、必要な時だけ教えを請うのだと思えば、市場でどのキノコがどんな料理にすると美味しいのかをお店の方に訊くようなものに近いのかもしれませんね」

「……………それなら、いいのかな」

「ディノは、私がクライスさんに弟子入りしてしまうと思ったのですか?」


そう尋ねると、魔物はこくりと頷く。

元よりネアが、手帳に、薬や植物などの知識などを記録しているのを知っているからだろう。

好きな系統の知識というのは確かなのだ。



「君が新しいものを得るのは好きだけれど、………優位性をあちらに傾ける形で、特別に深い絆を作るのはどうかなと思ったんだ」

「ふむ。師弟関係は、魔物さんにはそのような認識になるのですね。ですが、私が目下弟子入りしたいくらいに心を傾けていることなど狩りくらいしかありませんし、そちらに於いては既に女王なので弟子入りの必要はありません。また、私は一人上手なので弟子を欲しいと思うこともないでしょう」

「君にとっては、狩りなのだね」

「はい。薬師の知識は、たくさん備えていて必要な時に取り出せると格好いいなとは思うのですが、好ましくない材料も多いのでそこまでではないのです。あくまでも、お仕事で必要な知識だけを部分的に学ばせていただいたという感じですね。なお、諸事情から師匠と呼んでいる梱包妖精さんがいますが、それはあのあわいの中でお互いの名前を呼びあわないようにする為の措置でしたので、通り名のようなものだと思って下さい」

「うん。その妖精については、君があの時も説明してくれたね」


本当のことを言えば、あちらは本物の師匠でもあるのだが、一回限りの講義でしかないので本格的な師匠ではないと定めさせていただこう。

にゃわなる儀式や、被虐嗜好における精神的な解説など、幸いにして今はまだそちらのより高度な学びを得る機会は必要がないままで済んでいる。

どうかこのまま、危険な扉のより奥に進まない伴侶であって欲しいと、ネアは日々願っていた。


ネアはその後、グラフィーツからのピアノレッスンなどについても見解を説明し、ディノが気にかける師弟関係とは別物だと説明を重ねる。



(こうして、一つずつ、ディノが確認をしてくれるようになって良かった…………)



お陰で、二人の心がすれ違う事はなくなった。

多分、ネアもディノも、二人が二人でいる事が得意になってきたのだろう。



そんな二人はその後、一刻程かけて禁足地の森の見回りを終え、盗人薬師がリーエンベルク周辺に出没していたものの、幸いにして、近くに自生する山百合たちが悪変していたりはしないことを確認し終えた。

その後、更に半刻程の時間をかけ、ウィーム中央内の主だった薬園や庭園なども確認し終えると、本日の仕事は終了である。


ツダリでの任務など、足で稼ぐ系の仕事は少なくないが、今日はとにかく沢山歩くという仕事だったので、帰り道にどこかでお茶をしてゆこうかという事になったのは、自然な流れだった。



「君は怖い思いをしたばかりだから、ザハにしようか」

「………いいのですか?」

「うん。秋のケーキが沢山出ているだろう。メランジェも、秋からが美味しいのだろう?」

「ふぁ!で、では、秋のケーキをいただきますね」

「…………可愛い」


持たされている三つ編みをぎゅっと握り締め、ネアは唇の端を持ち上げる。

今週末くらいに、お小遣いを切り崩してのザハでのお茶をと密かに計画していたところなので、思いがけない喜びの来訪と言えよう。

ついつい足取りが軽やかになってしまい、ネアは、恥じらう魔物の三つ編みをぶんぶんした。


つまりのところ、たいそう浮かれていたのである。



「む。あそこに居るのは使い魔さんなので、季節のキノコを使ったお料理もお待ちしていますと、伝えておきますね」

「…………アルテアが」

「ウィームの中央市場では、本当によくお見掛けしますよね。何というか、日々の食事の支度を、とても丁寧に行なっているのだなという感じがします」

「アルテアが……………」

「今日はキノコのお店ですから、パイをとても美味しくしてくれるクリームとキノコの組み合わせなど…………じゅるり」


ウィームの市場での食材の買い出し中のアルテアは、こちらが近付かない方がいいような擬態ではない。

完全なるプライベートなので恋人らしき女性が一緒であれば遠慮もするが、一人の場合は突撃しても許されるとネアは信じている。



なので勿論、ててっと駆け寄るしかなかった。



「キノコのクリームパイなのです?」

「……………何の用だ」

「秋と言えば美味しいキノコなのですよ。鶏肉とクリームソースとの相性も素晴らしいのですが、酸味を効かせたマリネなども好きなのです」

「今日は作らんぞ。リーエンベルクには、まだヨシュアがいるんだろうが」

「では、ヨシュアさんが帰ったら、キノコのパイを作ってくれますか?」

「ドレスが着れなくなっても知らないからな」

「………今日は沢山歩いたので、腰は元気いっぱいなのですよ」

「ほお、帰りがけにザハにでも寄らなければ、そのままかもしれないがな」

「…………な、なんのことでしょう」

「ったく…………」



一見うんざりとした表情に見えるが、この表情は森に帰っている使い魔のものではなさそうだ。

もう帰ってきたのかなと考え、ネアは、心の中で、己の使い魔の状態確認を怠らない勤勉なご主人様ぶりを讃える。



数日ぶりに足を運んだウィーム中央市場は、いつの間にかすっかり秋の恵みを中心とした品揃えに変化していた。


紙箱や籠に入った色鮮やかなキノコを見ていると、赤や橙、黄色などの色彩の強くないウィームに於いて、その色相を独占しているのはキノコではないかと思えてくる。

中には食べていいのだろうかという色鮮やかなものもあるが、市場に並ぶキノコはどれもが素晴らしく美味しいのだ。


大蒜の風味を足し、ジャガイモと炒めた美味しい付け添え料理を思い出し、ネアはぐーっと鳴ってしまいそうなお腹を慌てて押さえる。

使い魔が呆れたような目をしてこちらを見ているが、季節のものを美味しくいただくのは、魔術的にも重要なことなのだ。


こちらの世界では豚ではなくリボンでリードを付けた森モモンガに探して貰うトリュフのようなものや、小さな毛玉妖精からのお裾分けでいただく、団栗に似た形状だが食べると秋の祝福の貰える特別な木の実など。

季節の食材の中には、ネアがまだ知らない美味しそうなものも沢山あり、やはり市場は見ていて飽きない。


素敵な商品が並んだリノアールとは取り扱いの領域が違うので比較しようがないが、ネアにとっては、ここも同じくらいに魅力的な場所であった。



「むぅ。………あの屋台におわすは、キノコたっぷりの、マスタードクリームスープ」

「スープも飲んでゆくかい?」

「ケーキに備えなければいけませんので、半分こします?」

「ネアが可愛い…………」

「おい、やっぱり寄る気だろうが………」



市場で何度か見かけている様子からすると、アルテアは買い物袋をそのまま手に持って帰ることもある。

だが、今日は金庫にしまうようなので、帰りにどこかに寄るのだろうか。


ネアがそんな事を考えていると、隣から、きゃっという声が聞こえてきた。


おや、伴侶の声だぞとそちらを見ると、キノコ屋のおかみさんに踊り茸という躍り狂うちびこいキノコを勧められてしまった魔物は、慌ててネアの背中の後ろに隠れている。

通りがかったジッタが、虐めるなよと窘めているが、そのキノコはちゃんとした食材で、調理すると動かなくなるらしい。



(それもそれでどうなのだ………)



それは動かなくなるのではなく、動かなくするのではないかなと慄くネアは、動いているまま放り込みしっかり煮込んだスープが一番美味しいという説明を、微笑みを崩さないままに頑張って聞くしかない。

帰るらしいアルテアに手を振る動きを利用し、キノコ屋のおかみさんにも会釈すると、素早くその場を立ち去る事にした。



「…………ご主人様」

「ジッタさんが体で遮ってくれて、良かったですね」

「うん………。あのまま、スープにしてしまうのかい?」

「あまり深く考えてはいけませんよ?私も、出来るだけ早く忘れるようにします………」

「スープに………」



ここでネア達が、一度、市場の区画から出て外周の路地に出たのは、ウィーム領民がよく使う近道だからだ。


暗黙の了解のようなものだが、市場の中ではお喋りしたりとのんびり買い物していても、この外周の路地に出ると、皆が少し早足になる。

なお今回は、そんな近道としての利用というよりは、踊るキノコに弱ってしまった伴侶を落ち着かせる為であった。



だからその時、ネアは、ひゅっと鋭い音がして飛んで来た物を認識するのが遅れてしまったのだろう。



(……………え?)


「ネア!」


ディノの声が耳のすぐ近くで聞こえ、細い外周路地の中で体の位置が入れ替えられる。

がきゃんという鈍く硬質な音に続き、がらんと音を立てて地面に落ちたのは何と手斧ではないか。



「…………斧、」


これが飛んできたのだとぞっとするよりも、あんまりな事に途方に暮れてしまって、ネアは目を瞬いた。

けれど、もう一度同じ音が続けば、自分達が襲撃されているという事が、やっと呑み込めるようになった。



「……………っ?!」


直後、ぎゃっと耳元を何かが掠めたような気がした。

けれども、どんと突き飛ばされたように体が傾いだのは、投げ付けられた物が当たったからなのかもしれない。


「ネア!」


前方でその襲撃を押し留めてくれているディノが振り返り、くしゃんと倒れそうになったネアを受け止めてくれる。



「伏せろ!」

「アルテア、………前方を任せていいかい?」

「…………っ、なんだこいつ等は?!」

「ネア、…………っ、当たったのだね?」

「…………ぎゅ。頭は残っています?」

「うん。守護結界があるから、衝撃だけだよ。………三体いるのか、いや、もっとだね………」



(襲撃されている。………ディノや、アルテアさんが顔色を変える程のものに…………)



それは分かっているのに、はくはくと息を刻み、直接体に当たった訳でもないその衝撃に驚いてしまった体を何とか起こす。

いつの間にかネアは市場の外側の路地に膝を突いて、そんなネアに覆い被さるようにして、ディノが背後からの襲撃に対応してくれていた。

向かい合う形でネアが膝を突いて体を丸めてしまったので、持ち上げる事も出来なかったのだろう。



「ネア様!」


どこからか、誰かの驚愕したような声が聞こえた。

ぼんやりした意識ではすぐに認識出来なかったが、ややあって、ワイアートだろうかと理解する。



「ふざけるな!!ここをどこだと思ってやがる!!」


今度はジッタの声だ。

うわぁぁぁと、勇ましい女性の雄叫びも聞こえた。


ネアは、ディノに抱えられるようにして体をずりりと動かされ、市場の中に戻される。

がきん、がしゃんという交戦の音はその後も続いていたが、ネアはそのままディノの膝の上に持ち上げられ、ひんやりとした手のひらを頬や首筋に当てられる気持ち良さに目を細めた。



「…………ぎゅむ」

「ネア、大丈夫かい?」

「な、…………なにが起きたのでしょう。…………ぐ、…………げふん!」


ネアが小さく咳き込むと、すぐさま誰かが、紙のカップに入れた冷たい紅茶を渡してくれた。

ディノが受け取ってくれたので、カップを持つ手を支えて貰いつつ夢中で飲めば、売り物の紅茶に違いないという香り高さと美味しさである。



よろよろとしながら、顔を持ち上げると、まだ続いている壮絶な交戦が見えた。


盛装姿と言うまでに上質な素材ではないが、漆黒のスリーピース姿のアルテアに、買い物に来ていたからか、くすんだ色合いが綺麗な水色のコートを羽織ったジッタ。

キノコ屋のおかみさんに、少し視線を下げると、瓶詰めのお店の壁の向こうで戦っているワイアートと、この位置からでは女性だとしか分からない誰かが見える。



(…………ううん、まだ他にも戦っている人達がいるわ)



市場の外周通路のずっと先の方でも、交戦中の者達が見えるではないか。

そしてネアは、だらりと手を伸ばして動かなくなった誰かが運ばれてゆく姿も見てしまった。



「エーダリア様に、………っ、連絡を」

「ノアベルトに伝えたよ。すぐにグラスト達とゼベルがこちらに来る」

「………ふぐ。リーエンベルクは大丈夫なのですか?」

「うん。ノアベルトとヒルドがいるからね。それに、これはここだけの事だろう。揃えの武器の狂乱だ」

「武器の、狂乱………」

「銘のあるような階位の武器が、この市場の近くで狂乱したようだね。………ネア、手を動かせるかい?」

「………はい、………う、動かせます。ちょっぴり、驚き過ぎて震えていますが、痛かったり痺れていたりはしませんからね」

「うん…………」



ぎゅっと抱き締められ、ネアはやっと、はふぅと息が出来た。


その直後、がしゃぁんと激しい音がして、誰かが一本目だと声を上げる。

つまり、まだ一本しか無力化出来ていないという事なのだ。


そうこうしていると、また誰かがそちらに走ってゆき、戦闘に加わる。

アレクシスはいないのかと言われて首を振るバター屋の店主に、もうすぐハツ爺さんが来るぞと誰かが叫んだ。



(アルテアさんは…………)



そこで戦っているのは、第三席の選択の魔物なのだ。

それなのにまだ、決着が付かないだなんて。

そう思い怖くなってしまったネアだったが、すぐに二本目の破壊音が聞こえてきた。

アルテアが動きを止めてこちらを振り返ったのが見えたので、戦っていた武器を破壊したのだろう。



「ハツ爺さんが来たぞ!」

「こりゃあ酷い。………鎮め落とすが、逃げ出さないようにしないといかんな」

「ゼベル!こっちだ!!」

「…………はあっ、間に合った!隊長は、表通りの個体の制圧に向かいました」



また動きがあったのか、ばたばたとした動きが伝わってくる。


立ち上がって周囲を見回せていないネアは、ディノの腕の中でくしゃりとしたまま、視線の先で、市場の内側に運ばれて手当てを受けている者達の姿を見ていた。



(三人……………五人、………奥にもいるわ。七人)



表通りにもいるらしいと聞けば、そちらにも被害者がいるのかもしれない。


ディノは、狂乱と言ったのだ。

本来の階位や状態を超えて、高位の人外者達でもすぐに抑え込めないような状態にあるのだろう。

ましてや、中央市場を取り囲むように伸びている細い路地に入り込まれているので、市場の人々を巻き込まないよう、力技での制圧が難しいのは間違いない。



徐々に落ち着いてきたので、そろりそろりと体を伸ばし、首筋や背中などの骨が粉々になっていない事を確認する。

引き攣るような痛みなどもなく、心が落ち着けば、それ以上の影響は出ていないらしい。

恐らく、痛めた部分や損なわれた部分があったとしても、既にディノが治してくれたのだろう。




「ネア!」


そこに、アルテアが戻ってきた。

ディノの腕の中で体の確認をしていたネアの額に、手袋を外して手を当て、凄艶な美貌に不似合いなくらいの安堵の表情になると深く深く息を吐く。



「……………無事だな」

「………あの時、アルテアさんが来てくれなければ、私とディノは挟み討ちでした…………」

「手斧の魔物の狂乱だ。シルハーンがすぐに封鎖結界を展開し土地の保存をしなければ、この市場一帯が崩壊してもおかしくなかった。………ひやりとさせやがって…………」



交戦を続けていたアルテアも、かなり磨耗したのだろう。

ネア達の横に座り込んでしまうと、その奥に、こちらも市場の中に戻ってきて、ネアが貰ったのと同じ紅茶を貰っているジッタが見えた。



「魔物さん………武器ではなかったのですか?」

「武器の系譜の魔物だ。理由は分からないが、何体かが、狂乱しかけたままこの市場沿いの路地裏に逃げ込んだようだな。人気のない場所を目指したんだろうが、よりにもよってだったな………」

「武器で、魔物さんだったのですね………」



やがて、ハツ爺さんの鎮めの儀式で狂乱した手斧の魔物達は力を失い、その隙にと、もう一度そちらに向かったディノが残った者達を纏めて壊してくれた。


あちこちで戦いに参加した者達の傷を癒す為に傷薬が振る舞われ、深刻な状態にある者達の中には、慌てて治療院に運ばれる者もいた。

残念ながら、亡くなった人もいるらしい。


相手は武器の系譜の魔物な上に、狂乱していたのだ。

いきなり襲われた者達は、攻撃を防ぐ間もなく即死だったという。



「ネア!怪我しなかった?!」

「ゼノ!………ディノやアルテアさん、ジッタさん達などの市場の皆さんが助けてくれたのですよ………」

「グラストも、骨が折れそうだったの。凄く強かったんだよ。…………あのね、前に契約していた人間が死んじゃったんだって。それで狂乱したみたい」

「……………まぁ、それでだったのですね」

「うん。まだ若い魔物だよ。道具から派生して自由になってから、前に契約していた人間に会いにきたんだ。そうしたら、もう死んでいて………悲しかったんだと思う」



外も落ち着いたのか、ぱたぱたと駆けてきたゼノーシュが、そう教えてくれた。

ネアはこくりと頷き、その絶望が想像出来てしまうからか、魔物達は何とも言えない顔をしている。



市場の中は騒然としていた。

だが、今の混乱は、襲撃事件が解決したからこそのものである。

それだけが、せめてもの幸いであった。



「……………すぷ」

「おい、後にしろ」

「ふぁい。皆さんも大変なので、今日は勿論諦めるのですよ。…………くすん。…………亡くなられた方のご家族は、どれだけ悲しいでしょう。怪我をされている方達の方は、傷薬は足りていますか?私も持っているので、足りなかったら言って下さいね」

「うん。傷薬は大丈夫だよ。ディノが沢山押さえてくれたから、ネア達が襲われた後は、死んだ人もいないんだ」


そう教えてくれたゼノーシュに、ネアは、ずっと抱き締めてくれている伴侶を見上げる。

とても怯えているが、怪我などをしている様子はなくてほっとした。


「………ディノ、有難うございます。私がくしゃんとなってしまったので、すぐに避難させてあげられませんでした。どこも怪我はしていませんね?」

「………うん。………でも、君が…………」



ディノ曰く、ネアは、後方からの手斧の魔物の攻撃を背中に受けたらしい。


耳元で感じたのは、その風圧だったようだ。

勿論、守護結界がなければ即死であったし、無傷ではあったものの命を奪いかねない攻撃であったので、狂乱した魔物の精神圧に触れたネアが心を落ち着ける迄に時間がかかり、守護も大きく揺れたと言う。



(こんな風に、陰謀も悪意もなく、それでも何でもない日の日常の中で、ここまでの危険に晒される事もあるのだわ…………)



あらためてその怖さを感じ、ネアは、ザハの二階にいた。


これはどうしてもザハのケーキをとネアが我が儘を通したのではなく、騒ぎを聞きつけたザハの支配人が、晩餐の時間まで席の空いている二階席を開放し、巻き込まれた人々にメランジェや紅茶を振る舞ってくれたのだ。


ネアはきちんとお金を払って、栗のケーキを食べようとしたのだが、おじさま給仕こと、グレアムがきっぱりと首を振りご馳走してくれる事になった。

グレアムなおじさま給仕も市場に駆け付けてくれたが、その時にはもう、事態は終息していたのだそうだ。



市場の近くでは、他にも幾つかのカフェやレストランが開放され、気を失ってしまった観光客のご婦人などは、体を休める為のホテルの部屋を用意されているらしい。


直接の交戦にあたった者達や、市場であの瞬間を見ていた者達がザハの二階に集められ、そこで簡単な聴取なども行われる。

勿論、残りの手斧の魔物がいないかを確認してからであるが、エーダリアもすぐさま怪我人達を見舞い、狂乱した魔物達の制圧に尽力した領民達を労った。




「僕の妹の守護が、凄く揺れたんだ………」

「ふぁい。美味しいケーキで心が落ち着きましたが、ディノが気付いてくれなければ、まずは顔面からでした…………」

「ネア!………無事で良かった」

「ぎゃ!エーダリア様がへなへなに……。私は、怪我などもしていませんからね?」

「…………ああ」

「………ご無事で良かった」



ネアは、エーダリアと一緒にザハに駆け付けたノアに引き続き、ヒルドにも抱き締められてしまい、その後で、守護の異変に血相を変えたウィリアムまで駆け付けるという大騒ぎになった。


みんなでリーエンベルクに戻れたのは晩餐の時間を少し回った頃で、全員がリーエンベルクの敷地内に入った途端に、正門がぴしゃんと勝手に閉じたので、リーエンベルクも心配してくれたらしい。




街一つ、国一つを滅ぼすと言われる魔物の狂乱があったのだ。

奇跡的な程の犠牲者の少なさだが、それでも八人の犠牲者と、二十九人の負傷者が出た。


死傷者の中には観光客も含まれていたので、ダリルは夜通しでその対応や連絡に追われているという。

とは言え、王都からは早々に、魔物の狂乱を驚くべき被害の少なさで押さえてくれたという労いの言葉が届けられたので、ウィームへの批判などは上がらないだろうと言うことだ。



手斧の魔物達は十本揃えの銘を持つ武器で、長年修復を手掛けた職人の元を離れ、アルビクロムの富豪の手に渡ったのだそうだ。

譲渡や管理は正式なもので、不手際などもなかった。

持ち主は、派生した魔物達が、休暇には修復をしてくれた大好きな職人に会いに行きたいと言うので、快く送り出したという。



ところが、その職人は今年のクッキー祭りで亡くなっていたのだ。

その訃報を聞き、自分達が近くにいれば守れたのにという思いが、彼等の狂乱に繋がったらしい。

揃えの道具などは、一つが狂乱すると連鎖的に狂乱するので、今回のような惨事になる事もあるのだそうだ。




ネアは、すっかり怯えてしまい、ぎゅうぎゅう抱き締めてくる魔物の腕の中で、窓の向こうの夜を眺めていた。



美しいウィームの夜の向こうには、今夜も様々な人達の生活があるのだろう。

家族や大切な人達が無事で良かったという思いを噛み締め、ネアは、とは言えこの夜をどうやって過ごしたものかなと眉を寄せる。


幸いにもヨシュアにはイーザの迎えが来たが、部屋の中にはディノだけではなく、ウィリアムやアルテア、けばけば銀狐もいるので、まずはどの並びで寝るのかを何とかして決めなければならないようだ。


こんな夜は伸びやかに寝たい我が儘な人間は、隠し持ったちびふわ符をそっと握り締めたのだった。
















作品の修正のお手入れの為、

明日10/14・明後日10/15の通常更新はお休みとなります。


TwitterでのSSか、なろうでの〜2000文字程度の短いお話を更新させていただきますね。

詳しくは当日のTwitterでのお知らせをご覧下さい。

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