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仕掛け館と薬師の祭壇  3



窓の向こうでは先程より、風が強くなったようだ。

大きく揺れる木々と、流れの速くなった空の上の雲の影が不思議な明るさと暗さをくるくると入れ替える。


白い漆喰の壁に黒っぽい色合いの窓枠が並ぶ廊下は、一階の部屋と同じように木の床になっている。

モザイクのように色合いの違う木を合わせた細工床は、ウィームではあまり見かけない幾何学模様だ。


時折ぎしりと軋む部分があったりと、檻として調えられた屋敷にしては手が込んでいる。



(…………という事は、ここはカルウィに近しい土地を使っているのだろうか)



この世界では土地のそれぞれに見合った意匠や模様があるという事は、絨毯のあわいでもあらためて勉強したばかりである。

ただ、カルウィ程に明確な異国の様式を感じないのは、屋敷の造りそのものはヴェルクレアの文化に近しいからだろう。

扉を開いて確認した屋敷内の部屋も、シュタルトなどの湖畔や高原の避暑地にでもありそうな素敵な雰囲気であった。



「ふぅ。他の方々程ではありませんが、やはり出口であるという感じのお部屋はありませんね」

「この先の部屋にも、出口はないと思うよ。パーシュの小道は、繋がる時と繋がらない時があるんだ。僕はあの魔術薬師を追いかけてきたけれど、君達が辿ったのがパーシュの小道なら、今は閉じているんじゃないのかい?」

「その可能性もありますね。………ネア様?」

「ふと思ったのですが、あの方が言及した出口とは、目に見えてこれぞと思える扉のような形をしているものなのでしょうか?資格や条件付けのようなものかもしれないとも考えてしまうのです」

「雪食い鳥の試練のようなものでしょうか……」

「ほぇ、それならもう戻ろうよ。僕は疲れたんだ」



こつこつと床を踏み、ネアは幾つかの推論をもしゃもしゃと引っ張り合わせ、それでも曖昧なままの推理にふぅと息を吐いた。


一階が仕切りなしの一部屋になっていたので感覚が麻痺していたが、こうして各部屋を回って歩けば、この屋敷はなかなかに広い。

途中で何度か、出口を探す他の被害者達と遭遇したが、こちらの姿に気付くとさあっと近くの部屋に隠れてしまう。


なぜそこまで警戒されているのかは解せないが、こちらの活動を阻害するような無駄な接触がないのは、却って良いことなのかもしれない。

実際に、小競り合いのような言い争いが起きており、三階を見ていた時には階下から心配になるような騒ぎが聞こえてきた。



だから、こうも憂鬱なのはやはり、カードに返事が来ないからなのだろう。



機能的な問題で何らかの不具合などがあるといけないので、念の為にディノには、こちらには何のメッセージも届いていない事を伝えてある。

だからもし、向こうではメッセージを書いているのに見られていないだけでも、すれ違いにはならないと信じている。



(打てる限りの手は打ったのだわ………)



それでも、連絡が取れずに小さなカードの向こう側に大切な伴侶の気配が感じられない事は、じわじわとネアの心を蝕んでいた。

一刻も早く家に帰り、家族と再会したいという焦燥感が指先から這い上がる。

とは言え、焦りから身を危うくするような事にならないよう、しっかりと自分を戒めなければならない。



「………こうして歩けば、やはりこの屋敷は焚き上げ用の祭壇のようでもありますね。円環の魔術で閉じ込めておき、その上でもう一手を打つ準備もあるのかもしれません。ただの捕縛でなく完全なる排除を考えているようですね」



ふと、そんな事を口にしたのはアスカルだ。

擬態している人外者に違いないのだが、ネアはまだ、その候補を一人に絞りきれずにいた。



(でも多分、………薬というものに造詣が深い事、そして、今日はなぜかユーリの事を沢山考えていることからすると、…………あの人なのだろう)



ではなぜ、そんな人物がリーエンベルクの騎士に扮しているのだろう。

暇潰しや、事情があって今だけ入れ替わっている事なども考えられたが、ネアは、そこには彼自身の履歴も関係しているのではないかと考えていた。


もし、そうではないかと考えている人物であれば、その魔物は、ウィーム王家の者に由縁があるらしい。

その執着は簡単に途切れるようなものではなく、今もウィームやその周辺に姿を見せる事は多かった。


だからこそ、今も尚、リーエンベルクに関わるような足場を組み残していたのではないだろうか。

そのやり方は幾通りもあるのだろうが、アクテーの時のアルテアのような方法なのかもしれない。



「焚き上げ用…………なのですか?」

「床に使われている寄せ木細工の模様は、封印と捕縛の魔術陣を模しています。これは、屋内に敷いた保温魔術や守護を逃さないようにする意匠ですが、今回は意味を持たせていると考えた方がいいでしょう」

「あの森とお花の輪と、こんなところにも…………」

「一階の仕切りをなくしているのも、円環としての意味を強める為だと思われます。…………ここまで厳重に重ねてかけられている円環から推察するに、やはり疫病封じでしょうね」



ネアが自分の扱い方を知ったと判断したからか、アスカルの話し方が変わってきた。

示唆するような物言いではなく、より確定的な表現になっている。



(疫病の一つを街ごと輪にして、逃亡防止用の檻としてある。その疫病の侵入を防ぐ円環と花の円環。入れ物としての円環となるこの屋敷の中にさえ、今度は内側から疫病がこぼれないようにする為の円環となるようなものが隠されているのだ………)



「となると、こちらで捕縛した方々の………その後の処遇として、焚き上げてしまうつもりなのでしょうか」

「少し不確定な要素もあるのですが、………ここ迄徹底しているからには、既に解錠の薬を近いところまで作り上げているという想定なのかもしれませんね」

「………むむ、そうすると、トルチャさんがやって来たりします?」

「それはどうでしょう」


淡く微笑んだアスカルに、ヨシュアは不思議そうに首を傾げた。


「トルチャは来ないと思うよ。トルチャは、自分の仕事しかしないから、契約を結んだ祝祭の焚き上げじゃない場所には絶対来ないんだ」

「むむ、そう言えば、残業となると怒り狂うと聞いています………」


あのちびこい魔法の杖めいた物を持っている生き物らしくないが、トルチャは、仕事終わりにくいっとやる一杯を大切にしているのだそうだ。



こつり、がたん。

どすどす、ばたん。

不意に、そんな物音が響いた。

ぎくりとしたネアに、アスカルがお近くにと呟き、どこからか小さな薬瓶のようなものを手に取る。



「……………っわ、…………えっく」



しかし、そこに転がるように駆け込んできたのは、あの少年であった。


まるで何者かに追われているようにこちらに走ってきたが、最もそちら側に立っていたヨシュアがまず、ひょいとその手を躱す。

続けてネアもしゅばっと逃げ出し、アスカルの背中に隠れた。



「…………え、何で助けてくれないの?」

「寧ろ、それだけ魔術の手を隠しておいて、なぜそう扱われるのかと思えたのかが意外ですね」

「っ、」


ネアが素早く姿を隠してしまったので、少年とアスカルが対峙する事になった。

事もなげにそう告げられ、少年は目を瞠ったようだ。

ネアは完全にアスカルの背中に隠れる前に、そこまでを見ていたが、その後は短く息を飲む音を頼りに少年の気分の変化を感じ取るしかない。


相手は魔物なので無理をせず、アスカルの背中に隠れて武器を取り出しにかかる。



「…………ふうん。それなら、もういいや」



(あ、諦めた…………)



ネアは猫を剥ぎ落とすのが早いなと思わないでもなかったが、全員から冷ややかな対応をされたこの環境下では、もはや演技を続けても仕方ないのかもしれない。


その直後、かしゃんと小さな音が響いた。

ぷんと漂うミントのような香りに、ネアはぎりりと眉を寄せる。

どうやら何らかの魔術が展開されたようだが、先日の研修先で、ミントを使った魔術は侵食型の物が多いと聞いたばかりなのだ。



「……………失礼」

「むぐ?!」



ここは除草剤かなといそいそとポケットを探っていると、振り向いたアスカルにひょいと抱え上げられる。

そしてその直後、やはり人間ではあるまいという距離をだんと飛び退られ、ネアは慌ててアスカルにしがみつかねばならなかった。



「……………まぁ」



アスカルがネアを抱えて後退したその足元まで、ふさふさとしたミントの葉が生い茂っていた。

床木の上は畑のようになり、ぴしぴしと音を立てて漆喰の壁がひび割れてゆく。


この屋敷の作りは中央を吹き抜けにした片廊下なので、少年の後ろにある階段を使わなければ、他の階への移動は出来ない。

ひょいと浮かぶ高さを変えただけで済むヨシュアはいいが、このままだと、ネア達は廊下の突き当たりに追い込まれる事になるだろう。



「ふむ。ここはやはり、除草剤を……」

「すぐ終わらせますので、ご辛抱を」

「なぬ」



アスカルの落ち着いた声に視線を戻したネアが見たのは、小さな瓶が蓋も開けずに投擲される瞬間だった。

廊下に落ち、ぱりんと瓶の砕ける儚い音がした途端、あれほど青々としていたミントが一斉に枯れ落ちる。


その様子に、先程までの悲しげで寄る辺ない表情を払拭した少年が、ぞっとするような怨嗟の目でこちらを見た。



「材料になる予定の騎士風情が、僕の魔術を削ぐなんてね。あんまり時間がないんだけど、大人しく解体されてくれないかな。すり潰しやすい部位だけ回収すれば、亡骸はそのまま残しておいてあげる」

「おや、となると私は、血筋を偽った騎士として必要とされているようですね」

「…………ふうん。誰かから、薬の事を聞いた?そこにいる魔物からかな」

「予め目を付けてあった騎士達は、早々に屋敷から逃げ出してしまったようですね。さすがに、あの円環を越えてそれを追いかける事は出来ないと判断したようだ」

「当然だよ。疫病に侵された材料なんて使えるものか。あの森の向こうは疫病だらけだ。……妖精に喰われた人間はまた探せるけれど、疫病の畑の薬草と、騎士はちょっとだけ面倒なんだ。幸い、薬師はもう手に入ったしね」



(……………なぜ、今ここで、そんな事をしていられるのだろう?)




少年の主張から感じ取れた違和感に、ネアは眉を顰めた。


ここは、疫病の精霊と選択の魔物が用意した、頑強な魔術の檻の中だ。

自由行動を許されたこの隙に逃げ出す算段を立てるのなら兎も角、なぜ、畑から薬草を盗んだ薬師が罪人として捕縛されているのに、その同行者である少年が薬作りを続けていられるのだろう。



「へぇ。アルテア達は、君には違う言葉を聞かせたんだね」



魔物だと言うし、もしやあの二人を蹴散らすくらいの階位なのだろうかと怪訝に思っていると、その答えをヨシュアが示してくれた。



「…………どういう事です?」


ヨシュアにそう尋ねた少年は、こちらには敬語を使うようだ。

同行者であるネア達を襲撃しているが、雲の魔物にはある程度の礼儀を示すらしい。


「そうでなきゃ、今更薬の材料を回収しようとなんてしないからだよ。それに、どうして僕がここにいるのに、こんな事をしているんだい?その二人は僕と一緒にいるんだよ?」

「あなたは、魔術師が嫌いな筈だ。壊して遊ぶ為の道具如きの為に、こちらの回収には手を出されますまい。それとも、人間の魔術師と、疫病嫌いの雲の魔物が、疫病の障りに触れてまであの人間達を守りますか?」

「必要ならそうするし、今回は必要だからそうするよ。ネアは友達だし、病気をしたらイーザやシルハーンが悲しむからね。でも、あの騎士は知らないよ」

「……………シルハーン?」



その問いかけの慎重さに、ネアは、ふすんと息を吐いた。


困惑し、思わずヨシュアの方を振り返ってしまった少年とネア達の間には、枯れた植物の残骸が敷き詰められた茶色く爛れた廊下がある。

少年の言葉を踏まえると、もしかするとアスカルが枯らしたこの植物は、ただのミントではなかったのかもしれない。



「ほぇ、気付かなかったのかい?ネアは、シルハーンの伴侶だよ。材料にしようとはしていなくても、一緒に殺そうとしたんだから、シルハーンは怒ると思う」

「…………あの人間が?…………あんな、………灰色の、…………可動域の気配すらない」

「……………ぼ、僕は頷かないよ!ネアは、怒らせると怖いんだ」



ここで、青ざめたヨシュアがさっと少年から離れたのは、ネアにとっても幸いであった。


えいやっと投げた小さな瓶が、はっと振り返った少年が翳した手に当たり、砕け落ちる。

結界的なものを展開する事も想定に入れて開発されているこの投擲型の武器は、二枚ほど迄なら展開された結界を溶かす仕様なのだ。



その直後、ぎゃあっと悲鳴が響いたが、思っていたよりも効果は弱かったらしい。

少年は素早く身を翻すと、中央にある階段に飛び降りるようにして階下に姿を消してしまう。



「おのれ、逃げられました………」

「………投げられたのは、除草剤ですか?」

「葉っぱを茂らせたので植物の系譜の方かなと考えたのですが、違ったようですね………」

「ふぇ、すぐ殺そうとするんだ………。ネアは怖いんだよ………」

「ヨシュアさん、先程の言葉はどのような意味なのですか?精霊さんやアルテアさん達は、あの少年にだけ、我々とは違う言葉を伝えていたのでしょうか?」



すっかり怯えている雲の魔物にそう尋ねると、ヨシュアは、涙目のままこくんと頷いた。

先程の少年とのやり取りではきりりとしていたのに、なぜかこちらを見ると震えてしまうらしい。



「フォラスとアルテアは、乳鉢に、解錠の薬を作らせようとしていたんだと思うよ。あれを壊すと次の悪変が出るから、壊すにしてもきちんとした口実が必要なんだ」

「………にゅうばち?」

「…………彼は、どうやら乳鉢の魔物のようですね。乳鉢の魔物は、香辛料や薬師の魔術を扱う、複数個体が存在する魔物です。そしてその中にひと柱だけ、必ず悪変する者が出る」


要所を省いてしまうヨシュアの説明に困惑していると、アスカルが説明を補ってくれた。


「そうだよ。だから、壊すと怒られる事があるんだ」

「悪変した者を排除すると、それまで正常だった他の個体が悪変することもある訳ですから、その個体と関わりや契約を持っている者達からすれば、堪ったものではない。排除する側に、誰もが容認するような理由が求められるのでしょう」

「…………その場合、精霊さんの畑から薬草を盗んだ薬師さんの側にいて、明らかに黒幕だとしても、証拠がなければ滅ぼせないのですね?」

「ええ。その程度では。………ですから、我々をここに集めた者達は、我々には出口を探すように仕向け、彼には何としても材料の回収を急がねばと思わせた。惑わせる術界のような、幻惑や誤認の効果をかけたのだと思います。これで、なぜ出口探しなどという余興を始めたのかも分かりましたね」



(それは、どんな言葉だったのだろう…………)



先程の少年からは、ここから出られなくなるという焦りなどはいっさい伝わって来なかった。

面倒な事になったので、今の内に材料を集めてしまおうという様子だったからには、自分の身は守られると判断するような言葉を与えられていたのだろうか。



「…………となると、………もしかして私は、あやつに怪我を負わせてその計画を邪魔してしまったのでは…………」

「でも、シルハーンの伴侶を殺そうとしたんだから、もう壊されても仕方ないと思うよ」

「………むむ。どうも繊細な仕掛けや計画を、うっかり崩してしまったような気がしますが、そのような意味で役立てるのであれば、それで良しとしましょう」



余計な事をしてしまったのではと嫌な汗をかいていたが、ネアは、無理やり穏やかな微笑みを貼り付けると、このか弱い乙女は何も壊しておりませんという演出に入った。



「ヴェルリアの商人や、その他の材料として関わった者達も、魔術の繋ぎ上、排除しておきたいのかもしれませんね。ですが、………恐らく、こちらで手をかけると後々面倒な事になる者もいるのでしょう。あの魔物に材料として回収させ、その上であの魔物をここで封じて壊せば、事後処理が格段に楽になる」

「…………ちょっぴり痛そうに転げ回っていましたが、今後も元気に材料を集めてくれる事を祈るばかりです」



だが、これで腑に落ちた事もある。


森に帰ってはいるのであろうアルテアが、殊更に悪い魔物風にこちらにちょっかいをかけていたのも、よりにもよってな余分となったネア達が、今回の計画の障害とならないようにする為だろう。



(私がアルテアさんに頼らずに動けば、ヨシュアさんを間違いなく道連れにする。うっかり空気を読まずに違和感を指摘したりと、ヨシュアさんの言動による計画の瓦解を防げると考えたのではないだろうか…………)



野生の魔物時なので単純にこちらの面倒を見てはいられないという事もあるのかもしれないが、ここまできっちりと図面を引いた精密な配置と計画であれば、ネアを掴んで放り出した方が楽だった筈だ。


つまりのところネアは、そうするのには手間がかかり過ぎるもう一つの余分のお守りをさせられていたのだろう。

完全に、アルテアの手の上だったという訳だ。



そう考えてふむふむと頷いていたネアは、突然身構えたアスカルに、目を瞬いた。

ざりりっと枯れた植物の落ちた床を踏む音に、慌てて視線を正面に戻す。




「ったく、余計な真似をしやがって。あいつの治癒範囲じゃなければ、この術式に綻びが出るところだったろうが」

「……………何のことでしょう」



こつこつざりざりと、ゆったりとした靴音が近付いてくる。


そう返しながら、ネアは、アスカルの体の死角になる部分で、ポケットの中に指先を滑り込ませた。

ゆっくりとこちらに歩いてくる漆黒の装いの魔物は、騒ぎを起こしたなと叱りに来たと言うよりは、面倒なお客を壊してしまいに来たようにしか見えなかったのだ。



「今回の失態は、これからの対価で帳消しにしておいてやる。…………そいつから、離れていろ」

「なぬ。アスカルさんに、一体どんな御用でしょう?」


またしても標的はアスカルらしい。

ネアは、もしやまた本気で森の魔物風に荒ぶるのかと思っていた使い魔が、凍えるような眼差しで見据えているのが、自分ではなくアスカルである事に気付いた。


「………アスカルか。確かにそんな名前の騎士がいたな。だが、あの巡礼騎士が主立って扱う固有魔術は、音楽だった筈だ。いつから薬師の扱いになった?」

「そちらの方が向いているので学び直したとお話ししても、納得はされないでしょうね」

「しないだろうな。あれ程の魔術の嗜好が、早々変えられるものか。ウィームの旧王家の血筋らしい、妄執に近い道具選びをする人間だ」



そう言うアルテアの赤紫色の瞳に、ちらりと鋭い苛立ちが揺らぐ。

ネアが変わらずにアスカルの側に居るからかもしれないが、今の会話を踏まえても、こちらにも引き下がれない事情がある。



「……………おい、離れろと言わなかったか?」

「むぐ。アスカルさんは、私が無事にリーエンベルクに帰るまで守って下さる約束ですので、ここで引き渡す事は出来ないのですよ」

「ほお、それなら、これを機に多少なりとも魔物の気性を学んでおけ。予め忠告しておいてやったんだ。その上で、どんな物を見る羽目になろうと後悔はするなよ?」



いっそ穏やかでさえあるその問いかけは鋭く暗く、窓の外の鮮やかな紅葉の色彩がどれだけ縁取りをつけても、月の光すら差し込まない暗い夜の中を歩いているような気がした。


けれども、ネアにも引けない事情がある。

アルテアが魔物なりの狭量さを主張するのなら、人間は我が儘で強欲で、自分の取り分を損なわれるのが大嫌いなのだ。



「では私も、自身の使い魔さんをしっかりと諫めなければなりませんね。アラクスさんは、……………むむ、ただ力を貸して下さっているだけのアスカルさんを傷付けようとする試みを、魔物さんの習性上、仕方がないと見逃せる程に寛容ではないのです」

「名前の揺らぎにも気付かずに、そいつがリーエンベルクの騎士だと信じている訳じゃないだろうな?」

「アルテアさんの話を聞けば、元々保有している役柄の一つではないのだなとは思いました。勿論、この方の本来の姿は別にある事は承知しています」

「……………そうか。余程、餌付けされるのが気に入ったらしいな」

「……………餌付け?」



ここでネアは、思わぬ指摘にこてんと首を傾げてしまった。

なぜかアスカルも振り返り、困惑の目をしている。



「…………餌付けをした記憶はないが」

「餌付けをして貰った記憶はありません。助けて貰ったり、お買い物に付き合って貰ったり、ピアノを教えて貰うくらいです」

「…………ピアノ?」



ここで、次に困惑の眼差しになったのはアルテアだった。

会話に入れず最初から困惑しっ放しのヨシュアが、途方に暮れたような目をしている。



「アスカルさんは、アスカルさん風にした先生なのですよ?」

「…………念の為に訊くが、薬師としてのだな?」

「お薬についての学びを得た事はありません。時々時間が合うところで、ピアノを教えて貰うばかりです………」

「あまりにも酷い出来で、あの曲ばかりはどうしても見過ごせんからな」

「むぐる………」

「……………ほえ、アルテアが」

「とても頭を抱えていますが、どんな誤解があったのでしょう…………」

「………そいつの擬態は、あの森の淵の工房の魔術師の物だろうが。名前の揺らぎも、そちらに偏っている」

「なぬ。まさか、クライスさんの事ですか?」

「成る程、だから借り物の擬態の設定に齟齬があったのか……………」

「ほえ、さっぱり分からない…………」

「私にもお二人の言い分が全く分からないので、ヨシュアさんに分からないのは当然だと思います………。とても混乱しているので、早急な説明を希望させて下さい………」



こうなるともう、ネアは、この屋敷の運用に巻き込まれている事についてよりも、アルテアがなぜそんな取り違えをしたのかの方が知りたくてじたばたした。


だが、アルテアは心をとても遠くにやってしまっており、満足な説明が得られそうにない。

ではこちらだと、何かを察した様子のアスカル風な騎士を見上げる。



「……………先生」

「俺がこの騎士の姿を借りたのは、パーシュの小道の向こうに、よりにもよって、デナストの影絵の気配があったからだ。アスカルという騎士の本物はその場に転がし、擬態に足りる情報を剥ぎ取って入れ替わった」

「それが、…………本物のアスカルさんなのです?」

「いや、アルテアの言葉からすると、それがそもそも、アスカルという騎士ではないんだろう。アスカルという騎士に扮してお前に近付いた、クライスという魔術師なんじゃないのか?」


選択の魔物が呼びかけにも反応しなくなったからか、苦々しい表情ではあるが、グラフィーツがそう謎解きをしてくれる。


「……………むむ。まだ混乱しておりますが、何となく見えてきました。そう言えばクライスさんは、姿を変えて身元を隠しつつ、どこかの娘さんと恋を育んだりと、少々厄介な火遊びをされていた方だと聞いています。さては、騎士さんに扮して私に近付き、気付かずに騎士さんとして扱う私を揶揄うつもりだったのですね?!」

「……………理由は兎も角、アルテアは俺をその魔術師だと思っていたようだな。つまり俺は、擬態に擬態していたのか………」

「たいへんややこしい事件です。この解決だけでお腹がいっぱいなので、早く帰りたくなってきました」

「……………少し待っていろ。こちらを片付けない事には、疫病の魔術特異点なんぞ、早々に開けられないからな」

「まぁ、アルテアさんが、また喋れるようになりましたよ!」

「…………やめろ」





無事に戻った後、クライスは、リーエンベルクからの委託業務で精霊の畑から薬草を盗んだ薬師を追いかけていた事が判明し、リーエンベルクを訪れたその薬師の後ろを歩いていたネア達がパーシュの小道に迷い込むのを見て、慌ててリーエンベルクには滅多に戻らない巡礼騎士に扮して後を追いかけようとしてくれていた事が判明した。


その際に、山百合の畑を管理していた薬師に繋がりかねない自分の正体はまだ明かさない方がいいと考えて擬態を纏った事で、事態をとてもややこしくしてしまったのだ。



因みに、クライスは実際にリーエンベルクの巡礼騎士をしていた事があるらしい。

アスカルが実際扱う魔術だと活動に支障が出るのでと、扱う魔術などはその当時の自分の物のまま擬態としたので、当時の巡礼騎士としてのクライスを知るアルテアが反応したのだった。




「はは、さすがの俺も、伴侶のいるお嬢さんを、リーエンベルクまで追いかけるような真似はしないよ。今回は、たまたまエーダリア様が俺の工房に滞在している時にあの事件が起きたからな。………山百合の管理をしていた薬師の女の子は、直接の面識はないが、手紙や通信での印象は生真面目だった。おまけに、生粋のエー………愛領者だ。ヴェルリアに通じてそんな問題を起こす筈がないと俺からも提言し、特別に今回の一件の調査に参加していたんだ」

「つまり、クライスさんのアスカルさんへの擬態は、紹介してくれたグラストさんもご存知の上だったのです?」

「ええ。結果として騙すような形になってしまい、申し訳ありません。なぜかあの薬師が、王都の推薦状を持ちリーエンベルクへの仕入れ先申請をしに来たので、ネア殿が通りがかった時は、クライス殿が動きやすいように騎士としての擬態を許可する代わりの誓約を、取り急ぎ行なっていたところだったのです」



擬態と言っても、クライスが纏うのは、在籍中のリーエンベルクの騎士の擬態だ。

その役割や立場を悪用することなどがないよう、宣誓の儀式は必要である。

けれども、その場にネアが通りかかってしまったので、容姿を借りているアスカルとして紹介せねばならなくなったらしい。


なぜそこまでして今回の任務にネアを関わらせないようにしたのかと言えば、あの盗っ人薬師の周囲に、疫病の門の解錠薬を作ろうとしている者がいるという事が既に判明していたからである。


あの屋敷の中でアスカルに扮したグラフィーツが指摘したように、疫病の質には、潜伏と拡散というものがある。

近しい疫病に接触した事のあるネアが不用意に近付く事で、ザッカムの事件で丁寧に鎮めておいた魔術の再派生などの切っ掛けになってもいけないからだ。


知るという事で縁を付けないよう、今回の任務については、ネアには伏せておくという指示が明確に出されていたのであった。



「………はぁ。まさか、アルテアも、統括の魔物として動いているとは思わなかったよね」


そう苦笑したのはノアで、グラフィーツが入れ替わって路上に置き去りにしたクライスを回収してくれていたのは、こちらの塩の魔物である。

これは内緒なのだが、パーシュの小道にアルテアの魔術選択の気配があり、銀狐の擬態を解くのが遅れたらしい。


「最近、第四王子に媚びを売っているヴェルリア商人と、疫病の守護持ちの守る雪削ぎの山百合だぞ。おまけに山百合の側に障りが出たともなれば、山百合の守護を得ている薬師達と、その商人の間に諍いがあったという事になる。どう考えても見過ごせないだろうが」

「まぁ、今回はそのお陰で疫病の系譜が始末を付けてくれたから、乳鉢の魔物の問題までこちらで背負わなくて済んだのは良かったかな」



その後、解錠薬を作ろうとした乳鉢の魔物は、疫病の精霊の手によって、あの円環の魔術の中に作られた仕掛け館を棺代わりに滅ぼされたのだそうだ。

集められた他の者達も、魔術的な因果から今回は全てが回収され、ここで幕引きとなる。


ネア達はその作業の準備が終わるのを別室で待ち、あの魔物が館ごと焚き上げられる前に帰路に就いた。



悪変していない乳鉢の魔物は、各方面に需要があり、とても大事にされている魔物である。


どこに影響を及ぼすのかが分からない以上、排除するにもそれだけの理由が求められるので、誰もが排除もやむなしと判断するに至るような解錠の薬作りには着手させなければならない。


とは言え、うっかり手を下す前に薬を完成させられると、捕縛の際に悪足掻きで門を開かれかねなかったので、あれだけの備えをした上で対処しなければならなかったと言う。


ネアと、アスカルのフリをしたクライスの擬態を纏ったグラフィーツが共に呼び込まれたのは、最初の事件で犠牲になった薬師が、クライスの確立させた魔術を扱っていた事が原因だったらしい。

フォラスは、犠牲者の魔術を足掛かりにして、因果と選択の魔術であの者達を集めたのだ。


だが、そうして関係者を捕らえた際に、たまたまクライスから貰った水薬を持っていたネアや、擬態したクライス自身が近くにいた為に巻き込まれてしまったらしい。


グラフィーツがあの近くにいたのは、趣味の会の仲間からジュリアン王子の手駒の一人がリーエンベルクの周辺で良からぬ動きをしているという連絡が入り、その日の警戒当番がグラフィーツだったからであるらしい。



「かいなどありません………」

「……………乳鉢なんて」

「そしてディノは、あの円環のお屋敷のある場所が、時間そのものも封じられた場所だったので、カードから連絡が出来なかったのですよね?」

「ごめん、ネア。君からのメッセージが届いた時にはもう、君はこちら側に帰ってきていたんだ………」

「あらあら、そんなにしょんぼりしなくても、ディノが無事だったと分かったので、私はとてもほっとしているのですよ?」

「…………君を、助けに行けなかったのにかい?」

「あの仕掛け館は、疫病を外に出さないように色々な工夫がされていて、時間の運行もその一つだったのですよね。なので、こうして戻ってきてみれば、数分も経っていませんでしたし、そのお陰で、無事にお茶の時間を楽しめました。なので私は、少しもしょんぼりしていないのです。ディノもどうか、元気を出して下さいね?」

「………うん。………乳鉢なんて………」

「ところでさ、ヨシュアが泊まって行くって我が儘を言ってるんだけど」

「ふぇ……イーザはかい……仕事が忙しくて、明日まで迎えに来ないんだ。悪い事をした商人の仲間を捕まえるんだよ………」

「ありゃ。そうなると追い出し難いなぁ…………」

「まぁ、イーザさんも悪い商人さんに悩まされているのです?」

「イーザは、もっと僕を大事にするべきなんだ。だから僕は、今日はここに泊まるんだよ!」



フォラスがデナストの疫病を檻として使ったのは、疫病の守護を得た者を殺した者達とそれに纏わる素材の全てを、疫病の魔術の中で廃棄すると決めたからであった。


よりにもよってネアが由縁を得てしまっているデナストを選んだのは、デナストを滅ぼした疫病は、フォラスの司る秋の疫病の領域のものであり、尚且つ石渡りの疫病という、足止めや捕縛に向いた疫病が猛威を振るった土地として有名だからでしかなく、そこにたまたまネア達が呼び込まれてしまったのだ。



「そしてアルテアさんは、いつの間にか私が、クライスさんに護衛を任せていると考え、懐き過ぎているので荒ぶったという訳なのです」

「…………余分を増やすなとは言ってあった筈だぞ」

「むぅ、困った使い魔さんですねぇ。確かにクライスさんのお料理は素晴らしいですが、リーエンベルクにいるのなら、普通にお家のご飯をいただきますよ?」

「ほら見ろ、やっぱり食事基準だろうが」

「む?」




なお、今年はお誕生日封じを行わなかった代わりに、疫病の門を開く解錠の薬の作成をしたいと言う薬師の後援者となり、リーエンベルクを混乱に陥れようとしたジュリアン王子への処罰は、ネアの与り知らないところで行われた。


乳鉢の魔物の目的は、疫病の門から拾い上げた複数の疫病を材料にして、まだ生まれていない未知の疫病を作り上げる事だったようだ。

その疫病を欲したのは、乳鉢の魔物が暮らしていた隣国の王だったらしく、乳鉢の魔物とは契約関係にあったらしい。


自国に商いに来ていたヴェルリアの商人を取り込む事で、あの魔物は、自国では揃わない解錠薬の材料の調達を進めていたのだろう。

そして、商人達が繋ぎを付けて後援者となったジュリアン王子から、どうせならその門をリーエンベルクで開くようにと言われ、後援者を満足させる為にそれでもいいかと、乳鉢の魔物に利用され主だった材料集めに奔走していた薬師共々応じたようだ。



安易に疫病を掌握しようなどと思わないように、疫病を求めた国の王を躾にゆくのもフォラスの仕事だ。

黒髪に赤い瞳のあの疫病の精霊は、秋の疫病と疫病の収束を司る人物だったのだとか。



疫病の収束を司る精霊だからこそ、薬師に祝福を授けたのだなと思えば、最後のピースもかちりと嵌る。


フォラスが恋をした女性薬師を殺したのは山百合の障りから生まれた疫病ではなく、邪魔をする薬師を排除し、何としても依頼されていた山百合の乙女の血を手に入れようとしていたヴェルリア商人達だったらしい。


人間の手で命を落としたので、死者の日には連れ戻せると喜んでいたフォラスが、その女性にどんな提案をするのかは、今のところ彼の心内にしか明かされていない秘密なのだろう。

また、その女性薬師がフォラスの提案に応じるかどうかも、彼女次第だ。



(そして、もう一つだけ…………)



ネアは、この事件で気付いたとある騎士の秘密を、ディノにだけは伝えておいた。

ネアには判断できなかったが、必要であれば、ディノからエーダリア達やノアとも共有してくれるだろう。



クライスが擬態したアスカルは、活動のし易さを優先して、姿形はアスカルだが、装備にはクライスの巡礼騎士時代の道具類を反映させていた。


その道具を見たグラフィーツが、クライスに師事していたと話していた事や、騎士としての所作やクライスの作り付けた道具の扱いに長けていたこと。

そして、こちらに戻っての一瞬だけだが、顔を合わせた砂糖の魔物とクライスの間に不可解な視線のやり取りがあったこと。



「……………なので、グラフィーツさんは、実際に、クライスさんなリーエンベルクの騎士さんとして過ごしていた事があるのではないかなと思いました。クライスさんとも、お知り合いのようです」

「クライスという人間が得ている薬師の祝福は、グラフィーツの物だからね。元より面識はあったのだろう。君の言うように、グラフィーツは、リーエンベルクでその身分を借りていた事もあるのかもしれないね」

「ふむ。やはりあのお二人は知り合いだったのですね………」

「あまり知られてはいないけれど、グラフィーツの魔術の資質の一つには、薬の扱いがある。これは、人間達が砂糖を魔術薬として扱った時代があった事から、後付けで育まれた認識の資質なんだ。薬草や薬の魔物とは違う立ち位置だけれど、グラフィーツの階位的に、薬の魔術を持つ魔物の中では最高位にあたる。結果として、彼ほどの薬の魔術を扱える魔物はいないという訳なんだ」

「まぁ、………先生は、本物の薬の魔物さんだったのですねぇ」

「…………グラフィーツなんて」




荒ぶった伴侶の魔物は、その日はグラフィーツに負けまいと、砂糖の魔物には作れない希少な薬を沢山作ってくれた。


ネアは、薬の魔術の領域を持っていたのなら、今回の事件にあった偶然の全てが偶然ではなく、グラフィーツは、予めクライスからある程度状況などを説明された上で手を組んでいたのではないかなとも思ったが、その真実が明かされる事はないだろう。



グラフィーツとクライスが仲良くしている姿は想像が出来なかったが、もしかすると、クライスが薬の魔術を極めんとしたのが病気で亡くなった妹の為だったり、グラフィーツにも病の領域から救えなかった誰かがいる事が関係しているのかもしれない。



でもそれは、二人の心の中にだけ仕舞われ、今後も明かされる事はないのだろう。






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