仕掛け館と薬師の祭壇 1
ざざんと、秋が揺れた。
その鮮やかな深紅の波間に、一点の漆黒がある。
ともすれば人はそれを、色鮮やかな背景の中に滲む影のような色だと言うこともあるだろう。
だが、ここでその美しい夜闇のような漆黒の輪郭を見ていたなら、鮮やかなのはこちらだと誰もが頭を垂れるに違いない。
それくらいの鮮やかさで佇み、黒い装いの魔物は明かりのない部屋の中に立っていた。
天井から吊るされたシャンデリアには明かりは入っておらず、けれども屋敷の中は充分に明るかった。
白い漆喰の壁に黒檀色の窓枠は、ネアの初めて見る建築意匠である。
飾り気のないがらんとした広い部屋は、大きな長方形の窓を額縁とした外の景色こそがこの屋敷を色付ける装飾品のよう。
磨き抜かれた焦げ茶色の木の床にも、窓からの景色が映り込んでいる。
住居と言うよりは入れ物としての外側だけが必要だったのか、一階部分には仕切りの壁や家具などもなく、くるりと窓を辿れば屋敷の周囲を確認する事が出来た。
窓の向こうは深い深い秋の底の色で、そんな秋の森との境界には、不規則に芽吹いた森の花々が歪な花輪のように満開になっていた。
(お屋敷と、お屋敷を取り囲む花々と、あの鮮やかな深赤の森と………)
この全てが密やかに円環になっているのだと思えば、ネアの同行者が三重の円環だと呟いていたのも肯ける。
そんな円環の中央に立ちゆっくりと空を仰いだ魔物が、帽子の影から赤紫の瞳でこちらを一瞥し、うんざりとしたような微笑みを浮かべた。
「総じて、不愉快というところだな」
「不愉快だろうが、何だろうが、お前の獲物はあちら側だ。この季節の系譜の中で、疫病の獲物は俺の取り分だと決まっている」
「とは言えここは、俺の統括の領域内だ。忘れた訳じゃないだろうな?」
「であればいっそうに、お前の獲物はやはりそこだろうよ。俺は種火の回収をする。お前はお前の領域を荒らした魔術師を持ち帰る。他にどんな配分があるという?」
「さてな。だが、お前が得意げにこちらに出張って来ただけでも、俺は反対の選択をするかもしれないぞ?」
ふっと微笑んだ漆黒の装いの人外者は凄艶な美貌であったが、並び立つ男も劣らぬ美貌である。
とは言え、見慣れない方の男は、同じ漆黒の装いでも、黒の持つ艶やかさではなく、どこか余所余所しく冷たい気配をいっぱいに湛えている。
触れた指先が欠けそうな闇色をしていて、そこに宿るのは、どこか馴染みのあるひんやりとした鋭く美しい隔絶の色。
そんな気配を持つ者を他にも知っているなと考え、ネアは、この気付きの持つ可能性も心に留めておこうと考える。
知り合いであれば、こちらのことを知っている可能性もあるのだが、高位の人外者がそこまでお喋り好きだとも思えなかった。
よく似た気配を持つ既存の者たちも、対外的な作り笑顔はどうであれ、あまり社交上手という感じもしない。
終焉そのものではない死の案内人という者達は多分、どれだけ朗らかでも、その気配は冷たいのだろう。
「……………どうされますか?」
静かな声でそう尋ねたのは、ネアの隣に立つ男性だ。
水色を基調とした騎士服には白い縁取りがあり、墨色がかった灰色のブーツに肩の片側だけに流した特徴的なケープの羽織り方。
ウィームの騎士を知る者が一人でもここにいたら、かの者はリーエンベルクの騎士に違いないと断言するだろう。
在籍する騎士たちの顔ぶれや席次はさて置き、この騎士服を着るという事はそういう事なのだ。
誰もがその紋章や意匠から紐付く土地を知ってしまうという意味で、組織に属する騎士達は、真名を伏せる事こそが初戦の要である魔術の戦場では不利な装いと言える。
それでも彼等が揃いの騎士服を纏うのは、本来戦い守る場所が、己の紐付く土地だからだろう。
つまり、そんな親和性の高い魔術から引き離された騎士は、それだけで大きなハンデを背負っているようなものであった。
(………タジクーシャの事件の時に、そんなことをエーダリア様から教えて貰った。今回はまさに、その不利が全面に出てしまっている状態なのだろう)
ネア達が許可もなく強引に招き入れられたこの屋敷の中には、他にも複数の人達がいた。
とは言え、幸いというか何と言うか、どう見ても犯人だろうなという佇まいの人外者二人を除けば、この中に閉じ込められた者達は人間が多いようだ。
ネアにはさっぱり分からない範疇の魔術の叡智だが、もし、後々にこちらの身元が知られている事が不利益となるのなら、彼等の持ち帰る不都合な記憶をどうにかして貰う事は出来るような気がする。
(或いは…………)
「…………最終的にはやはり、力いっぱい頭を殴れば……………」
「生真面目な表情で、恐ろしいことを呟かないで下さい」
苦笑してそう嗜めた騎士は、淡いウィスタリアがかった巻き髪を肩口まで伸ばした美しい男性だ。
物静かでどこか浮世離れしているような深い青色の瞳を持ち、あまりリーエンベルクでは見かけない騎士であった。
リーエンベルクには、席次のある者とない者の二名、常にウィーム全域を巡る巡礼者と呼ばれる騎士がいる。
魔術師としての特性を活かし、彷徨える者として領内の様々な問題を記録し、時には解決をしてゆく彼等は、リーエンベルクの騎士達が厳密には騎士隊でも騎士団でもなく、リーエンベルクの騎士という単身の肩書きである最大の由縁そのもの。
序列があり有事の際には連携は図るが、魔術師としての側面も強いリーエンベルクの騎士達は、団体としての強みを生かすよりも、個人としての活躍と運用が求められている。
ウィーム全域の騎士の統括となるグラストには、騎士団長の肩書もあるが、呼び方は、土地の騎士達によって様々だ。
リーエンベルクでは隊長と呼ばれたり、ヴァロッシュの祝祭では団長と呼ばれる事が多いものの、それは取られるとまずい名前を使わずに呼びかける為の方策に過ぎない。
そしてこのアスカルという名前の青い瞳の騎士は、そんな風に単独で活動する事の多いウィーム騎士の筆頭とも言える、リーエンベルクの巡礼騎士の一人である。
二年ぶりにリーエンベルクに報告に戻ってから十日ほど休暇を取り、今日、仕事に復帰したばかりだった。
たまたまリーエンベルクの通用門の外に出ていたネア達の周辺で魔術の異変が起きた事に気付き、手助けが必要だろうかと駆け付けてくれたところだったのだ。
「は!ついつい作戦が声に出てしまっていました。獲物に警戒されないよう、心に秘めておきますね」
「出来れば、そうされた方がいいでしょうね。…………それと、あちらにおられるのは噂に聞く、魔物では?」
「そうなのです。ですが、今回は野生の魔物さんの時間かもしれませんね。…………むむ、近付いてきましたので、少し私から離れていて下さいね」
「……………おい」
ここで、とても他人ですが何かという余所行きの顔をしたのにも拘らず、犯人側から声をかけられたネアは憮然とした。
他にもネア達と同じように迷い込まされたと思える被害者がいるこの場に於いて、犯人から解放される為には、被害者同士で連携するという素敵な技があるのだ。
その機会を奪うような行為は、是非に謹んで貰いたい。
「なんだ、その人間は知り合いか。どうせそちらは、獲物の捕縛で紛れ込んだ余分だ。気に入りの駒なら、取り戻しておけ」
案の定、仲間だと思われる人外者は、こちらへの親しげな呼びかけにすぐに気付いてしまった。
ネア達と同じようにこの屋敷に迷い込まされた被害者達が、あれは同じ被害者ではないのかとざわりとする。
空気を読んでくれなかった魔物の隣に立つもう一人の人外者は、黒く真っ直ぐな髪を一本に縛り、細身の軍服のような装いをしていた。
一瞬、軍服と言えばお馴染みのアルビクロムの軍人だろうかと考えたが、ぞくりとするような橙寄りの赤色の瞳には、人間が持ち得ない鮮やかさがあるので人外者だろう。
そうしてやはり、ネアのよく知る人外者達に、どこかによく似た気配があるのだ。
(…………綺麗だけれど、どこか平坦な声だ。でも、アンセルム神父やリシャード枢機卿よりは、幾分か若いという感じがする)
その軍服姿の人外者は、死の精霊たちによく似た気配を纏っていた。
だが、銀髪でもなければ紫の瞳でもないので、同族ではないのかもしれない。
その場合は、例えば、同じ終焉の系譜という近しさなのだろうかとも考えたが、装いや容貌から得られる情報程度では予測は難しいだろう。
少しばかりつんけんした言動だが、こちらに来てしまったアルテアとは、顔見知りであるらしい。
加えて、この言動を許されるくらいには近しい階位なのだろうか。
魔物同士の場合は、それぞれが司るものの王になる。
その上位に立つディノを恐れたり敬ったりはするが、その主従は今や絶対的ではない。
だが、同じ魔物同士であれば、同階位でなければここまで対等には振舞わないだろう。
アルテアの装いからこちらも擬態はしていないと判断し、ネアは、白を持たないこの人外者は公爵位の魔物ではないと推測する。
(なので、精霊か妖精か、…………竜はなさそう)
「初めましての魔物さんですね。何か御用でしょうか。出来れば、我々を早くお家に帰して欲しいのですが………」
「無駄口を叩く余裕があるのなら、少しは殊勝な顔でも見せたらどうだ?いいか、くれぐれも妙な事を考えるなよ。ここでは大人しくしていろ」
「………ふむ。会話から察するに、やはり我々は今回の拉致の本命ではなさそうですが、それでも構わないので諸共滅ぼしてしまえな判断だったのでしょうか?」
首を傾げたネアがそう言えば、こちらを見ている赤紫色の瞳がすっと細められる。
それを不愉快にさせたと取るよりも、ネアは、魔物が魔物らしい残忍さや暗さを繕わなくなったと考える。
「……………どうだろうな。相変わらずお前は、対岸にこちらの姿が見えた途端に、躊躇わずに剣を構えるな」
「そこが対岸である以上は、呑気に手を振ってみるという事こそが悪手だと思いませんか?私はとても用心深く狡猾な人間ですので、どうやれば、誘拐犯達を無力化出来るかなと考えてみるくらいには警戒してしまうのですよ」
そうして、なぜ今日で、なぜこの人選だったのかを考えるのだ。
事態が動き出してしまえば、ゆっくりと観察し、考察する余裕はなくなる。
ましてや今は、これだけの参加者に囲まれており、隠れてカードを開く事も出来ない。
助けが来るまでは自分で考え、少しでも多くの材料を揃える必要があるのだった。
(まずは、誰をという事になる)
黒髪の人外者は、ネア達と一緒にこの奇妙な場所に迷い込んだ男性に用があるらしい。
つい先ほどまで、リーエンベルクの外周をネア達が散歩していた時に、少し前を歩いていた二人連れの内の一人だ。
ちらりとそちらを見ると、凍えるような美貌の人外者に正面に立たれた男性はがたがたと震えていて、その他の者達も、これから何が起こるのだろうと酷く怯えている。
震える男性の後ろに立っていた従者らしき少年が、そろりと後退りし、主人から離れた。
空気を薄く削いで毒を滴らせるような薄い薄い恐怖と混乱が周囲を取り囲んでいて、美しい秋の森の燃えるような赤い色彩が窓から見えていても、少しも心は緩まない。
屋敷の周囲には、森からの浸食を防ぐようにも見える花々の作り上げる円環があるのだが、その全てが幾重にもかけられた円環で、即ちここが儀式上の祭壇のようなものだとすれば、招き入れられた獲物の内の何人が生贄になるのだろう。
「人間が調合する魔術薬の匂いと、円環の魔術の響きか。よりによって、滅多に触れないような魔術薬を持ち、紛らわしい物を取り込んで近付きやがって。言っておくが、ここから先はあいつの狩り場で、俺の魔術領域だ。対価もなく踏み込んだのなら、何も失わずに出て行けると思うなよ?」
いつものリーエンベルクにやって来るパイのお届けな魔物とは違う声音に、ネアは、困ったように眉を下げて微笑んだ。
ああこれは、森に帰っている状態なのだなと考え、こちらの魔物からの助力は得られない前提で帰還計画を立てなければと思う。
問題は少し離れた位置に控える騎士が、この場の人外者達の精神圧に耐え切れるかどうかだと考えていたが、アルテアがこれだけ魔物らしい佇まいで正面に立っても呼吸を乱す気配はないので、案外頼りになるのかもしれなかった。
何しろ彼は、席次を持つ優秀な騎士なのだ。
ネアの可動域が上品である以上、沢山力を貸して貰わねばならないかもしれない。
だが、ここでネアは、なぜかこんなところで森に帰っている使い魔に、ポケットに入れてあった魔術薬について説明しなければいけなくなり、最近お泊まり会のあった薬学の勉強会について話をする。
あまり個人的な話はしたくないぞとつんと澄ましてみせたところ、音の壁を作ったと言われて、渋々話さざるを得なくなったのだ。
「………という感じなのですよ。私が出会った方は、以前のリーエンベルクの第二席の騎士さんだったのです」
「ほお、それでお前は、そいつにまんまと餌付けされた訳だな。………いいか、その魔術薬はこちらで預かっておいてやる。魔術薬師を呼び落とす為に整えたこの場所との相性は最悪だからな」
「むぅ。……今後機会があれば、返して下さいね」
「…………今後?」
「ええ。森から帰る気になられた頃にでも。それは、とても素敵な私の天敵の排除薬なのですよ。………では、私は自分の陣営に戻りますので、この先の脱出計画で、もし我々に打ち負かされてしまっても恨みっこなしなのです」
「ほお?俺の手を借りずに、ここから出られるとでも思っているのか?」
どこか弄うような凄艶さで微笑んだアルテアに、ネアは、微笑んで首を傾げるに留めた。
そう尋ねられても、今の選択の魔物は対岸に立っている。
それも悪くないなという冷ややかな表情を見る限り、この場で、当たり前のようにアルテアの手を借りようとするのはあまりにも危うい。
この不思議な屋敷に迷い込まされたのがネア一人ならまだしも、同行者にはアスカルもいる。
取られる対価が彼の持ち物にされる可能性もある以上、自分一人の安全だけを確保する条件では動けないのであった。
(……………慎重に考えよう)
ネアは今、思わぬ相棒達と、仕掛け屋敷の中にいた。
仕掛け屋敷という呼び名は、アスカルが呟いた言葉から引用させていただいている。
今回の事態は事故ではなく、尊い犠牲とその救援に来た魔物という構図で、そして、残念ながら対面に立っている選択の魔物は、森に帰っていると見做していいだろう。
白い髪はそのままにした漆黒のスリーピース姿で、窓の向こうの紅葉の赤との対比がぞっとするくらいに美しい。
「今回のあいつの獲物は、お前が見ているあの男と、奥にいる灰色の制服の魔術薬師達だ。とは言え、諸共落とされた連中にも、ある程度は燃料としての役割が求められる。ここから出してやれるのは、せいぜいが二組だな」
「ふむ。二組………」
(つまりそれは、生きてここを出られるのは、二組だけという事なのだろう)
聞こえてくるやり取りから、標的とされた薬師は、どうやらあの軍服の人外者の魔術領域を侵したらしいと知れた。
面立ちを見ると気弱そうにも見えるが、彼の管理する庭に忍び込み、そこから希少な薬草を盗み出したのだそうだ。
相手は高位の人外者なので、何という事をしたのだと遠い目になってしまうが、人間は、お伽話の昔から人外者の畑に盗みに入りがちな迂闊な生き物である。
(そんな事情を前提にすると、これは盗みの対価なのだろうか)
決まり事を思えば、気紛れの手遊びですらない絶望的な状況下とも言えよう。
遊びなら兎も角、人外者の報復は周囲への被害を考えない苛烈な物である事が多い。
だが、幸いにしてネアはこの手の事件に巻き込まれるのは初めてではなかったし、今回の舞台はせいぜいが一軒のお屋敷である。
そこへのレールを敷いてしまったパーシュの小径といい、ある程度は馴染んだ状況だと解析し、ネアは指先をきゅっと握り締めた。
(………以前、パーシュの小道に迷い込んだ際には、ディノが呼び戻してくれた。それなら、今回もきっとすぐに助けに来てくれるのではないだろうか………)
なぜ、ネアがこんな屋敷の中にいるのかと言えば、銀狐とゼノーシュとのお散歩中に、あちらにおわす窃盗犯の後ろを歩いていた事が原因であった。
一緒にリーエンベルクの周囲を見回りお散歩中で、確かに、奇妙な霧が出て来たなとは思ったのだ。
歩行速度が遅く、ちょっと邪魔だなと思っていた前を歩いていた男性と従者らしき少年の姿がふっと消え、ゼノーシュが慌てて銀狐を抱き上げた時にはもう遅かった。
ネア達に駆け寄ってきたアスカルが、慌ててネアの手を掴んだ。
けれども、隣にいたゼノーシュも、ネアとはぐれないように体を寄せていたのに。
(こちら側に迷い込んでしまったのは、私とアスカルさんだけだった。…………とは言え、すぐ近くにノアとゼノがいたのだから、証跡的なものは追えたのだと信じたい…………)
今日は、ウィームの封印庫に用のある諸侯の一人である伯爵が、リーエンベルクを訪問しており、ゼノーシュが外に出ている時はと人間の少年に擬態していたのも良くなかったのかもしれない。
その伯爵は先日の鉱石事件の関連でウィーム中央に来ていたのだが、あまり中央寄りではなくヴェルリア貴族と親しい関係にある御仁であったので、ゼノーシュも念の為にと体裁を整えていたのだった。
(多分、あの時にゼノが擬態をしていなかったら、………私達をここへ誘導した人は、こちら側の余分までは呼び込まなかったのではないだろうか)
ただの巻き添えで迷い込まされたのだと思うのは、ネアの姿を認めた途端、アルテアの顔が、大いに歪んだからである。
だが、元々こちらに招き入れるつもりであった獲物の近くにいたネア達は分かるが、なぜ、見た事のある高位の魔物まで迷い込んでいるのだろうと怪訝に思い、また首を傾げてしまう。
ここに迷い込まされた者達の中には、明らかに計画に支障をきたしそうな人外者まで混ざっていた。
だが、この屋敷の中にいる者達の表情を窺えば、他にも、人間に擬態していた高位の人外者が紛れ込んでいるのかもしれないという感じがして、ぞくりとする。
(…………もしかすると、罪を犯した薬師を捕らえたというだけではなく、他の目的も兼ねているのかもしれない………)
例えば、薬師の捕縛が建前で、本当は人間に擬態している人外者を捕らえようとしているのだとすれば。
そう考えて、アルテアから離れて仲間達の方に戻れば、そんな人外者の一人が不思議そうに首を傾げる。
「ほぇ、何であちらに行かなかったんだい?」
「このような場合、あの方は誘拐の首謀者なだけでなく、より複雑な策を巡らせている可能性が高いと言えるでしょう。リーエンベルク周辺で捕縛を行なっていた事といい、こちらに共有出来ない企みがある事は間違いありません。であれば、明らかに巻き込まれただけのヨシュアさんの方が、安心して組めると思ったのです」
「ふぇ、………アルテアが睨んでる」
「むう。二組しか出られないのであれば、最大五組を滅ぼさなければいけないのですね…………」
「もう、あの悍ましい生き物を出すといいよ」
「…………いえ、その前に少しだけ様子を見てみようと思うのです。出られないという事は即ち、必ず死んでいるという必要もないのですから」
「面倒だよ。全て殺してしまってから、出た方がいいと思うよ」
「…………その、………お二人共。相手を削る事よりも、ここを出る事を優先しませんか?」
(おや、………)
ヨシュアにも動じずにそう提案したアスカルに、ネアは、これはやはりと目を瞠った。
ヨシュアと出会うのは初めての筈なのに、特徴的なターバンと顔の白い模様がある魔物を恐れる気配はない。
じいっと見つめていると、こちらの視線に気付いたアスカルが淡く微笑む。
「ご安心を。これでも耐性はある方です。ウィーム各地では、他にも厄介で高位の生き物達が沢山いますからね」
胸に手を当てて一礼してみせたアスカルに、ネアも、くすりと笑う。
騎士らしい所作はウィリアムやオフェトリウスでも見てきたものだが、こちらは、最も身近であるべきリーエンベルクの騎士だ。
どこか安心出来るような感じがしてしまうのは、アスカルの動きの全てが、騎士としての生活でより身に馴染んだものだからだろう。
「むむ、それで落ち着いていらっしゃるのですね。そのお陰で、こうしてヨシュアさんと一緒の作戦会議が出来るのでとても助かります」
「ほぇ。何で僕が君達と一緒なんだい?」
「あら、私達に力を貸して下されば、ディノやヒルドさんにお願いして、イーザさんにお礼をさせて貰いますよ?」
「仕方がないね。僕は偉大だから、力を貸してあげてもいいよ」
「まぁ、良かったです。であれば、きりんさんで言う事を聞かせる必要はありませんね」
「…………ふぇ」
邪悪な人間が力尽くで言う事を聞かせようとしていたと知り、雲の魔物はすっかり怯えてしまった。
震えながらそっと袖を掴まれ、ネアは、まさかこちらの魔物も面倒を見なければいけないのだろうかと渋面になる。
「あまりきりんさんを出したくはないのです。ヨシュアさん、作戦会議の為に、こっそり音の壁を作れますか?」
「………ふぇぇ、ネアが意地悪だよ」
「ええ。時として人間は、目的のために手段を選ばなくなります。ですので、気持ちよく協力していただき、一緒にここから出ましょうね。………二刻程でここを出られれば、お茶の時間に間に合うでしょう。もし宜しければ、お茶菓子などをお土産にお渡ししますよ?」
「仕方がないね。君からの贈り物はイーザが喜ぶから、今回だけだよ」
「………何か、気になることが?」
アスカルにそう尋ねられ、ネアはこくりと頷いた。
「ヨシュアさんはなぜ、こちらに迷い込んでしまったのですか?」
「あの、赤毛の魔術師を捕まえようとしたんだよ。それなのに誰かの領域に繋がるパーシュの小道に入ったから、僕の玩具を取られないように追いかけたんだ。………ここは変な場所だね。わざと階位の低い建物の形をした魔術特異点のように見せかけておいて、その奥に入ると、道が狭まって円環の魔術の祭壇が閉じるようにしてあるんだ」
「…………この屋敷を含む何重もの円環は、祝福から崩れ落ちた災いで象っていますね。あまり見ない、古く特殊な形の魔術の扱い方です」
アスカルの言葉にゆっくりと瞬きをし、銀灰色の瞳を細めたヨシュアが魔物らしい眼差しで屋敷の中を見回し、ふうんと呟いた。
「そのやり方は妙だね。人間の魔術師で遊ぶだけなら、円環を使うにしても、祝福も災いもいらない筈だよ。この建物だけで充分だからね」
「…………ですよね。となると、この仕掛け屋敷は、捕縛に手のかかる人外者向けでしょう。あの精霊が押さえ込んでいる魔術薬師は、生粋の人間にしか見えませんが」
「ほぇ。君は目がいいんだね。ウィームにはそういう人間が多いんだ」
「むむ、となるとやはり、本来の標的は別の方なのでしょうか。もしくは、複数の標的を同時に捕まえてしまおうとしているのかもしれません………」
「………ネア様、あちらの集団の中に、気になる者はおりますか?」
「………私には、残念ながら魔術的な痕跡や気配などは見えないのです」
「ええ。ですが、ネア様の勘の良さはかなりのものだと、よく耳にしますからね。気になる点などがあれば、そこから我々が探りを入れた方がいい」
そう言われ、ネアはゆっくりと息を吸う。
実はこれ迄、知り合いの影にこそこそと隠れていたので、他の被害者達の方をあまり見ずにいたのだ。
人数と大まかな立ち姿は盗み見ていたものの、表情や身なりの細部などはやはり、顔を出して覗かないと難しい。
(今回は、擬態を出来ていないのが何よりも手痛いのだわ。すぽんと迷い込んでしまって、その時にはもう他の人達がいたのだもの………)
つまり、敵を知るという事は即ち、こちらの情報も探られるという事なのだった。
とは言えもう、アルテアに話しかけられた事で、ある程度の注目を集めてしまっている。
他の被害者達がこちらの距離を取っているのは、何もヨシュアが一緒にいるからというばかりではない。
目立たずに悪巧みし、有利に動きたいネアからすれば、大きな失点であった。
(一組目………)
アルテアがこちらも標的だと話していた灰色のローブの薬師達は、ウィームに古くからある職業の制服が目に止まる。
ローブの縁取りは綺麗なオリーブ色で、これは薬草などの知識を持っているという主張から生まれた一工夫らしい。
フードの襟元には薬草の刺繍があり、ネアはこの薬師のローブにはちょっとした憧れがある。
とても可愛いのだ。
(…………あの方達には、薬師であるという以外の感じはしないかな。ヨシュアさんが追いかけていたのも薬師さんのようだし、もしかすると、ここは薬師に絞って観察した方がいいとも思うのだけれど…………)
アスカルがきっぱり精霊だと断言した黒い軍服の人外者が既に捕まえてしまっている窃盗犯は、薬師というよりは貴族的な装いである。
一応薬師のローブを羽織ってはいるものの、余程お金の回りがいいのか身に付けている装飾品は随分と高価な物に見えた。
(後は、その薬師さんのお弟子さんか従者のようなお仕着せの少年と、商人風の男女。見た感じは巻き込まれた通行人かなと思われるけれど、ヨシュアさんが追いかけていたに違いない赤毛さんを含む青年達に、騎士風の装いの三人組の男性達。………手を取り合って震えている二人の女性は、室内着のような緩やかな装いだから、巻き込まれたというよりは意図的に招かれた人達なのだろう………)
その全てがウィームの領民なのだろうかと思えば胸が痛むが、けれどもネアはまず、自分を生かしてここから出す事を優先させるつもりだ。
どのような理想を振り回すにせよ、まずは我が身を助けなければならない。
ネアが自分を粗末にすれば、大切な伴侶や、あの場にいた義兄が落ち込んでしまう。
一つ幸いと言えるのは、明らかにリーエンベルクの騎士の制服を着たアスカルに、誰も助けを求めてこない事であった。
「………二人組の女性の淡い茶色の髪の方と、精霊さんが捕まえた薬師さんの、お付きの少年が気になります。ヨシュアさんが追いかけていた三人組は、もしかしてお一人が妖精さんなのです?」
「ほぇ、やっぱり君は目がいいんだね。あれは、魔術薬師とその代理妖精達なんだ。あの魔術師は、髪色を変える薬の材料にする為にイーザの弟の羽を取ろうとしたから、僕は許さないんだよ」
「では、直接対決がないにせよ、帰りがけに滅ぼしてゆきましょうね。以前に助けていただいた霧雨の妖精さん達に悪さをしたのなら、私とて許しません」
「ほぇ…………お、怒ってる」
「特に霧雨の妖精さんの羽はとても綺麗なので、絶対に許しません…………」
ぐるると低く唸り、ネアは、ちりりと頬に感じた視線に眉を寄せた。
やはり、気になるのは窃盗犯の従者だ。
従者ではないかもしれないが、呼び名が面倒なので暫定的にそう名付けさせていただこう。
今は途方に暮れたように薬師達に助けを求めているが、薬師達は明らかに精霊に目を付けられている薬師の従者とあって、邪険にされている。
奥で精霊に首根っこを持たれて袋詰めにされている窃盗犯自身は、どう考えてももう未来はないだろうなという感じだが、それ以外で言えば、最も寄る辺なく最も危うい立場の筈なのに、なぜあの少年の瞳はどこか静謐なのだろう。
「…………魔物だね」
「ヨシュアさん?」
「あの子供の姿をした人間は、多分魔物だよ。それなら、あの精霊の本当の目的はあちらかな」
「………なぬ」
「あんな人間は、もっと簡単に引き裂けるし、もっと時間をかけて破滅させる事も、それでも簡単に出来るんだ。一緒にいるのが魔物なら、ここまで面倒な仕掛けを作ったのは、魔物目当てだと思うよ」
「………恐らく、道具系の魔物でしょうね。古くて力の強い器用な魔物ではないかな。…………この仕掛けを作った者達が、捕縛の為の手を緩められないのだとすれば、かなり厄介な固有魔術を持つ魔物である可能性が高い」
「ほぇ、………僕より目がいいのは何でだろう。………あれは、道具の魔物なのかい?」
「アスカルさんは、とても凄い騎士さんなのでした…………」
感嘆の言葉にまた淡く微笑んだアスカルにふと、ネアは、その微笑みに誰かを思い出しかけて眉を顰める。
名指しで誰かに似ていると言える程の感覚ではないが、けれども、よく見知った人物にどことなく気配が似ているような気がしたのだ。
(…………でも、この方はリーエンベルクの騎士さんなのだから、…………となると、知り合いの人外者のどなたかの系譜の魔術を持っていたり、祝福を授かっていたりするのかもしれない?)
こんなところで自己紹介をする訳にはいかないが、良く考えればネアは、アスカルという騎士のことも殆ど知らないのだ。
(だから、…………例えば、本当の標的は、このアスカルさんだという可能性も捨ててはいけないのだろう…………)
ふと顔を上げると、アルテアがひっそりとこちらを見ていたような気がした。
涙を溜めた目で何かを訴えている女性達と話をしているが、一人の女性がわあっと泣き出したところを見ると、どんな返答を与えたものか。
窓の外では、鮮やかな真紅の紅葉の森がざざんと風に揺れている。
扉を開いてこの屋敷の外に出たらどうなるのだろうと思ったネアはなぜか、それだけは決してしてはならないような気がした。
本日で500話目となりますので、記念のお話として、少し厄介なお出かけ事件を書かせていただきますね。
続きもののお話となってしまいますが、どうぞ宜しくお願いいたします。




