王子の休息と薔薇の溜め息
その日、ヴェルクレアの王宮の一画にある薔薇の庭園の中央にある薔薇水晶のガゼボでは、小さな王子を囲む不穏な会合が行われていた。
「潜入させていた司祭からの連絡が途切れました。予め用意しておいた繋ぎの要員に連絡をさせたところ普通に応じたようですので、内側を壊された可能性が高いですね」
そう伝えたのはクテアという名前の黄薔薇のシーの一人で、ロクサーヌが知らない間に愛する王子の取り巻きに加わっていた美しい少女だ。
黄薔薇の王は、娘が紅薔薇の女王の婚約者の取り巻きになっていることをわざわざ詫びに来たものの、父親がロクサーヌに頭を下げていても当人は気にしないらしい。
とは言え、調査能力に長けており、自分の役割をそちらに向けることで居場所を固めているようなので、利口な簒奪者として受け入れるのも吝かではない。
(いずれ、私の可愛い子は他にも妃を迎えるだろう……………)
まだこんなに小さな王子なのに、既に後宮を作ることを進言している貴族もいるくらい、ロクサーヌの婚約者の周囲には女達が集まった。
忌々しいという思いがないとは言えないが、愛情を司る紅薔薇の妖精の女王としての矜持よりも守りたいものがあるとすれば、それはやはり、この愛する王子の健やかさなのである。
「ディートハルト王子、お役に立てずに申し訳ありません。せっかくあの司祭を侵食しましたのに…………」
「…………うん。凄い魔術、持って帰れなかったね…………」
「今からでも遅くはありません。こちらから、あらためて調査員を差し向けますか?」
そう提案したのは、この棟の女中頭のマイアだ。
家事妖精が多い中で珍しい人間の使用人だが、統一戦争で没落したアルビクロム貴族の娘で、視野が広く立案に向く聡明さを持ち、その上、人間の領域の術式の研究に長けている。
自領の王子としてこの上なくディートハルトを敬愛しており、他の女達とはいささか趣の違う信仰にも似た忠誠は、ロクサーヌの目から見ても失い難いものだ。
簡素なメイド服を着ているが、その装いをいっそうに引き立てる冷たい美貌は、彼女が闇竜の守護を受けて生まれたという噂を、そんな事実はなかったと知っている実の両親ですら否定出来ずにいる程である。
そんな女中頭の提案に、くしゃくしゃの頭を微かに持ち上げたディートハルトは、悲しげに瞳を潤ませた。
そんな表情を見せられると、これ以上の我が儘を許す訳にはいかないと知っているロクサーヌですらどんな事でもしてあげたくなるのだから、何とも可愛く恐ろしい愛すべき王子と言うところか。
「それは出来ないの。あのね、あの教区はね、オズヴァルト兄様とガレンの管轄にしなさいってお父様がお命じになられてしまったんだ。だから僕、クテアに、お兄様の調査員を捕まえてってお願いしたんだ」
「…………ディートハルト様にそんなお顔をさせてしまうなんて、……………もしかしたら、私には生きている価値がないのかもしれません…………」
王子の悲しげな声に体を震わせて呆然としてから、黄薔薇のシーは大真面目にそう呟いた。
美しい黄色の羽をだらりと下げ、唐突に命でお詫びしますと言い出してしまった妖精については、女中頭が素早く拘束して止めてくれている。
「おやめ下さい、クテア様。王子にはあなたの守護も必要なのです。有り体に申しますと、薔薇のシーでありながらも王子の為であれば塵とも思わない男も籠絡出来るあなたの存在は、我が陣営にとってこの上ない財産なのですから」
「……………マイア、その言い方はおよしなさいな。ディートハルトも、あまりクテアを悲しませてはいけませんよ」
「……………っく。だって、怖いものは味方にしておいた方が賢いって教えて貰ったんだよ。その術式を僕が持っていれば、ロクサーヌを虐めるひとがいたら、全部やっつけられるんだ」
「……………お労しい」
ここでなぜか、今度は女中頭であるマイアが顔を覆ってしまい、ロクサーヌの小さな婚約者はくすんと鼻を鳴らした。
(まったくもう。その場の中心となる核を見出す天性の観察力は大したものだけど、まだ、“自分が有効だと考えた強いもの”が欲しくて堪らない小さな子供のくせに、こんな風に皆を動かしてしまうのだから、困ったものだわ………………)
だが、そのきらきらと光る瞳には王子らしい凛々しさもあって、その煌めきは確かにロクサーヌを守ろうとしてくれているのだ。
そんな真摯さが伝わるとロクサーヌも打ちのめされてしまうのだから、この王子はとても狡い。
最近、ディートハルトの微笑みに末恐ろしさを見る者がいると、ロクサーヌにまで漏れ聞こえてきている。
けれども、ロクサーヌは知っているのだ。
この王子が愛くるしいのも、この王子が優しくてしたたかなのも、我が儘で甘えん坊でそして他の聡明な兄達に負けまいと必死に勉強を重ねているもの、ディートハルトが、彼を愛し守ろうとする女達を心から大切にしているからであることを。
彼は、そうするしかない場面がくれば、ロクサーヌを救う為に命を投げ出すだろうし、他の女達の為にだって、手足の一本二本は差し出すかもしれない。
残念ながら、人間としては苛烈なのかもしれなかったその愛情をより多くに向けた母親とは違い、ディートハルトの愛を受け取れるのは女達だけだが、それでも彼は、他者を心から愛する事に一度だって臆した事はない。
愛してくれるだろうかと自分を繕うよりも、この小さな王子は天真爛漫に心から愛し、その獰猛さでこちらの愛を毟り取ってゆく。
(だからこそ私達は、この小さな暴君の為なら何でもしてしまうのだわ…………)
しかし、そこには一つの懸念があった。
ディートハルトの愛情の屈託のなさを受け付けない者も当然おり、その中でも、正妃は第五王子の気質を警戒している。
愛情を司る紅薔薇の女王であるからこそ、ロクサーヌはそれが恐れの裏返しであることを見抜いていた。
(えてして、人間が動かす場合は、嫌悪よりも恐れという感情の方が厄介なのだわ……………)
勿論、あの正妃が欲するのは、子供染みた愛情の配分の多さなどではありはしない。
彼女はいつだって支配し蹂躙したいのであって、その無尽蔵さを阻害するのが、唯一ディートハルトが振りまく毒なのだ。
今はまだ、辛うじてディートハルトの無垢さが勝っている。
けれどもその天秤は、彼が成長してゆく事でやがてひっくり返る事は避けようがない。
かつて、ディートハルトと同じ気質を持ち、だからこそ葬り去られた人間がいる。
(その存在の眩さと無防備さに、レーヌのような女ですらこの子の母親を恐れて憎み、取るに足らない妃の一人だと軽んじながら、正妃もまた彼女を退場させようとしていた…………)
それは多分、温室の中に生まれた本物の太陽として。
(でも、それに籠絡され、或いは恐れる者達の一方で、この子の煌めきに決して目を逸らさない者もまた、少なからずいる。彼等は、正妃やレーヌのようにその眩しさを恐れず、そもそもその太陽すら望まないのかもしれない………)
太陽になりたくない者達は勿論、自分ではない誰かが太陽のように在ることを恐れはしない。
それは、現王や宰相であったり、あのウィームに集う呆れるほどの高位の魔物達であったり。
彼等は、太陽の位置に腰掛けることを利口だとは思わず、或いは、そもそも魅力的なものだとすら思わず、違う配役を己に求めるが故にその輝きに影響を受けることもなかった。
王家の兄弟の中で言えば、エーダリアとオズヴァルトも、ディートハルトの影響を受けない人間のように見える。
ディートハルトを恐ろしい子供だと言えるヴェンツェルや、末王子を警戒して策を巡らせていたジュリアン王子は、少なからず彼の中に脅威となるべきものを見ているのだろう。
現王もディートハルトを怖い子供だと言うものの、あの王は、影響を受けない要素にすらその影響を見極め、ひやりとする程に大局を見据える事が出来る変人なのでその括りではない。
(女という意味では、きっとネアという歌乞いも、この可愛い王子がどんなに甘えてみせてもその心は渡さないと思うわ…………)
この世界の全てが等しく彼を愛するなら、もっと望むままに遊ばせてやれるのだが、そうではないのだから、ここまでだ。
「ディー、今回は諦めなさいな。選択肢を手に入れようとして、既に手に入れているものを失うのは賢くないわ。それに、あなたはそんなにオズヴァルト王子を気に入ってはいないでしょう?」
「……………うん。だって、オズヴァルト兄様は、もやもやしてるから格好良くない…………」
「だったら、何もオズヴァルト王子の仕事を引き受けて楽にしてやる事もないでしょう。こちら側に調整したというその司祭が取り込まれてしまうくらいなら、やはり、今回の件にはこれ以上手を出さない方がいいわ」
「…………ロクサーヌは、反対?」
「ええ。私は、クテアの魔術の質の高さを知っていてよ。そんな彼女が侵食して手駒にした人間が奪われたのでしょう?ディー、それこそが、我々が手を引くべき時だということに他ならないとは思わない?まだ未完成の術式を手に入れることよりも、あなたの周囲の者達をそんなところに近付かせないという決断を出来てこそ、わたくしは立派な王子だと思うのだけれど」
ロクサーヌは、つとめて穏やかに幼い婚約者を諭した。
本当は、あまり手駒の多くないオズヴァルト王子から、彼の支持者を削り取る事にも反対だったのだ。
ロクサーヌとて妖精の女王である。
知りもしない人間がどんな目に遭おうとも、それは知ったことではない。
だが、オズヴァルトの背後には今や、霧雨の一族とその一族を寵愛する雲の魔物の影がある。
アリステルが引き起こしたあの惨事を経て評価を落とした王子として、蔑ろにしていい人物ではなくなってしまったのだ。
(でも、もしかしたらこの子は、だからこそオズヴァルト王子の駒を奪おうとしたのかもしれないわ。…………私達はとても強いけれど、与えられる守護の絶対は、それを授ける者の階位がどれだけ高いかに比例する。たった一人の絶対的な守護こそが、何よりも揺るぎない力となるのだから………………)
ロクサーヌの大事なディートハルトを愛する者の輪には、ヴェンツェル王子の契約の竜であるドリーに適う者はいない。
エーダリアを庇護する古き妖精の民であるヒルドや、更には、彼を家族のように守っているあの規格外な歌乞いと彼女を愛する魔物達を退けられる者がいないのは勿論、新たにオズヴァルト王子についても、その守護は絶対のものとなった。
(この子を愛する者が驚く程に多い一方で、この子を守る者達の力量は、他の王子達にどうしても劣ってしまう………………)
ジュリアン王子については論外だ。
彼はあの気質と言動の故に、良い膿出しとして機能し続けることを強いられるだろう。
あの愚かさをあえて残して育てたのは、恐らく王の側近達に違いない。
全ての王子が有能であっても、貴族達や有力者達の全てが清廉ではない限り、それは国益にはならないのだ。
(ディートハルトには、出来ればウィームとの繋ぎを作ってあげたかったのだけれど、この子の気質こそを魔物達は受け入れないでしょう…………。であれば、やはり私達だけでこの子を守らなければならない…………)
とは言え、決して最上ではないこの守護の輪こそ、人間の国の王族らしくてそれで良いのかもしれない。
今迄に幾らでも、その程度の恩寵しか持たない王族が、揺るぎなく国を動かすところを見てきたではないか。
ロクサーヌは、ディートハルトには、最前線で己の首を刃に晒さずに済む、第一王子の補佐として国を支える役目を担って欲しいと思っている。
その椅子の様子を窺えば、他の王子達が手をかける様子もなく、決して焦ることはないのだが、そこはやはりまだ子供なのだろう。
(あなたが、少しでも多くをと望むのは、自分の弱さを知っているからかもしれない…………)
そう思って優しく見つめた先で、ディートハルトは宝石のような瞳を潤ませ、小さな手をにぎにぎした。
周囲を囲む女達は息を詰め、可愛い王子の決断を待っている。
風に立派な薔薇の茂みが揺れ、甘い芳香が漂った。
この季節のウィームはまだまだ雪が残るが、ヴェルリアはすっかり春の陽気だ。
今年は、昨年の蝕の影響から春の系譜との入れ替えが遅く、春告げを待ちまだ春の系譜の者達は活動が鈍いが、日差しの強い日などにはもう、騎士達は袖を捲り上げているくらいだ。
そして、そんな柔らかな陽射しに薔薇を咲かせた庭園に佇むのは、ガゼボには入り切らない程の女達であった。
このガゼボに集まった第五王子の支持者達は発言のあった者ばかりではなく、ガゼボの屋根の上では、火竜の王女も昼寝をしている素振りでこちらの会話を聞いている。
時折こうして、時間を取れる者達が集まり今後の方針を定める会議が行われるようになったのはいつからだろう。
それだけ、この王子の周囲に良き砦が築かれつつあるという事なのかもしれない。
「…………じゃあ、銀白と…せいひつの教区の術式を取りに行くのは、もうやめる。でも、僕だけが今することがないのは嫌だな。だって、ロクサーヌにまた凄いねって褒めて欲しいし、みんなにこれを見付けたよって、いいものをあげたいもの…………」
「まぁ、ディーは欲しがりやね。特別なことをしなくても、あなたは毎日の勉強や執務のお手伝いを頑張っているのに?」
「……………うん」
そうしょんぼりと項垂れたディートハルトに、奥の方にいた海竜の乙女が飛び跳ねた。
「王子!それなら、軍用船の造船所の近くに海の祟りものが現れているようなんです。第一王子達は手が回らないようなので、それを討伐しませんか?」
「…………討伐?」
「ええ。私の兄の見立てでは、まだ大きな事件にはなっていませんが、階位の高い祟りもののようです。解決してから評価されるようなものだと思いますよ?」
「…………ロクサーヌ、それって解決したら凄いこと?」
「ヴェルリアは海の都ですもの。造船所の魔術師達に恩を売っておくのも悪くないでしょう。ふふ、造船所を押さえられれば、ゆくゆくはヴェンツェル様とも対等な交渉が出来るようになりますよ」
「……………やる!」
すると、今度は海の魔術や祟りものとの交戦などを得意とする女達が、それぞれの役目を巡って名乗りを上げ始めた。
すっと立ち上がったマイアがそちらに向かったので、彼女達を取りまとめ、事件の解決に最適な組み合わせを作ってくれるだろう。
海の近くとなると、花の系譜の乙女達は今回は不参加だ。
その代わりに、彼女達にもそれぞれに為すべきことがある。
王宮は常に戦場にも等しいのだ。
「さて、ディートハルト様。そろそろ、お部屋に戻りませんと。魔術構築学の教授が来られる時間でしょう」
「……………僕、あの授業嫌い。よく分からなくて悲しくなるんだ。だから、頑張ってお勉強したら、後で褒めてくれる?」
「ええ。授業の後は一時間程時間がありますから、とっておきの薔薇のマフィンを用意しましょうか?」
「わぁ、マフィンだ!」
ぱっと笑顔になったディートハルトは、黄薔薇のシーに声をかけ、今回は危ないことをさせてごめんねと労ってやっている。
無理なお願いを聞いてくれた彼女には、特別にマフィンを半分こしてあげるのだそうだ。
(…………まぁ)
それについては、ロクサーヌとしては思うところがあるのだが、ディートハルトの隣に立つのであれば、この程度のことで動じてはいられない。
微かに目元が震えたが、幼くとも浮気者な婚約者には、しっかりと言い聞かせておこうと決意するに留めておこう。
半刻後、円柱とそのアーチの形に影が並ぶ廊下を歩きながら、ロクサーヌは真紅のドレスの裾に視線を落とした。
「……………ふぅ」
ディートハルトを送り出し、やっと頭の痛い問題の一つを片付けたことに安堵しながら王宮の回廊を歩いていると、このような場所に一人でいる事自体が珍しい、豪奢な金髪の背の高い人間の姿が見えた。
本日の装いは、漆黒と真紅の軍服姿だ。
この国の第一王子は、海軍の演習に立ち会い、国民へその勇姿を披露するべく朝から式典に参加していた。
それを終え、その足でロクサーヌを探したのだろうか。
微かな予感はあったように思う。
それは、オズヴァルト王子本人ではなく、寧ろこの王子こそが掴むに違いないと、心のどこかでロクサーヌは確信していた。
「……………ヴェンツェル王子」
そう名前を呼べば、彼は鮮やかな真紅の瞳を眇めた。
最高位の火竜の加護を受けた、濃密な炎の魔術の気配に、いつもロクサーヌは顔を背けたくなる。
「……………ロクサーヌ。とある司祭が一人、魔術侵食の影響を受けたという報告が入っている」
「……………ええ、存じておりますわ。ですが、いつから貴方は、私達の振る舞いに踏み込むようになりましたの?それが人間の行いならいざ知らず、今回それを成したのは、私の王子と契約も交わしていない妖精ですのよ」
このような時の為に、ロクサーヌは女達とディートハルトに魔術契約を結ばせなかった。
あの王子に集まる女達の気質からして、今回のような事を想定していたからだ。
「勿論、貴女達にその責を問う事はないだろう。…………だが、あの教区に敷かれた魔術は、アリステル派の毒のようなものだ。ザンスタ司祭の目を通してオズヴァルトが触れることでこそ、今後の抑止力を育てる為の経験となった。…………どれだけ幼くとも、この問題に立ち入った以上、ディートハルトの立場でそれを理解しないと言う事は許されない」
(そう。だから私は、あのザンスタという司祭を駒にしたと知った時、何という愚かな事をしたのだろうと胸を痛めた…………)
「貴女がこれまでに見てきた人間の国には、全く違う組織の在り方を見せた信仰もあっただろう。………だが、ヴェルクレアに於いて、信仰は国の命運を揺るがしかねない、一領地としての派閥だ。かつて国であったことで辛うじてガーウィン派の貴族達が機能しているが、信仰だけをその動力とすれば、またアリステルの時のような事件が起こりかねない」
「……………オズヴァルト王子は、その為の橋だと言うのでしょう?アリステル派であり、彼だからこそ、あの王子にはその橋を守らせなければならない」
「…………あれには酷な事だが、アリステル派という存在を生み出した事は、オズヴァルトの愚かさだ。…………己の罪は己が償うしかない。…………それは、ディートハルトも例外ではない事を、貴女は覚えていて欲しい」
人間の王子が、例えこの王宮に住んでいようとも妖精の女王に言っていい言葉ではなかったが、ロクサーヌはそれを赦すしかなかった。
彼は、ロクサーヌの可愛い王子の兄であり、やがては共に国を支え、ディートハルトを国などいう悍ましいものの代理人にせず済ませてくれる、盾となる人間なのだ。
それに、ロクサーヌにも少しばかり、自分に求婚しようと懸命にうろうろしていた、幼い頃のヴェンツェルに向けた優しい感情も残ってはいる。
「今回の件で、あの子が、銀白と静謐の教区に手を出すことはもうないでしょう。………けれど、あの教区の問題を、第三王子派に解決出来るとも思わないわ。問題の術式は、恐らく妖精か魔物のものなのではないかと思ったのだけれど?」
「いや、人間のものである可能性が高くなったようだ。ガレンからの報告待ちではあるがな」
「……………そう、人間だったの。やはり、人間はとてもか弱く、そして悍ましい生き物ね」
黄薔薇のシーの侵食魔術を書き換えたのは、相手が人間だったからこそなのかもしれない。
であれば、やはり引いて良かったのだ。
解決も叶わず、その上で領域を侵したことで責められては堪らない。
「迷い子が先か、門が先か。それによって様相を変えるだろうが、…………今回の一件は、父上の契約の手の者も動いているようだ」
それだけを言い残して踵を返した第一王子は、決して弟を守ろうとした訳ではないのだろう。
ロクサーヌがディートハルトの為にオズヴァルトを必要とするように、彼もまた自身の願いの為にディートハルトを失う訳にはいかないのだ。
ゆったりと歩いてゆき、やがて、その先で待っていたらしい契約の竜に付き添われるヴェンツェル王子の背中を見送り、ロクサーヌは深い溜め息を吐いた。
今の会話を肝に銘じ、二度目があると思わない方がいい。
ヴェンツェルとて、守らねばならないものがあり、その為に自身の手札を切らないという選択肢もあるのだ。
今回は、王の側近達にこちらの思惑に加担していると疑われかねない危険に身を晒してまで、ロクサーヌに忠告をしに来てくれたが、それは二度と許されることではない。
(同じようなことを二度すれば、完全にこちら側だという疑念を植え付けてしまう。その危うさを、あの王子が知らない筈もないのだから……………)
であれば、ロクサーヌはどうするべきか。
勿論、ディートハルト自身が好まずとも、第五王子にもそれなりの派閥がある。
(その中から、誰か一人くらいなら見付けられるでしょう……………)
そろそろ、ロクサーヌの婚約者には、ディートハルトへの好意で判断を揺るがせず、戦略的な見地から助言をする補佐官のような存在が必要なのかもしれない。
きっと、男性が望ましいのだろう。
第五王子派の者なら、あの王子を育て上げる事から得られる恩恵もあるだろうし、難しい立場だが候補者は何人か見付かる筈だ。
(私にはディートハルトを愛しているからこそ、出来ない事がある。愛情を司る妖精に愛する者を諌める行為を望むだなんて、何て酷な事なのかしら…………)
ロクサーヌとて、大事な王子を守る為とはいえ、今後もずっとお小言ばかりを言う役割などご免なのだった。
けれどもその役目を担う人物が決まるまでは、今暫くその重荷を背負う事になりそうだ。
今回の件の後始末は、より慎重に振舞わねばなるまい。
気の重い仕事を幾つか思い浮かべ、ロクサーヌは深い溜め息を吐いた。




