葡萄畑と柊の小枝
城の中にある壮麗な大広間には、多くの貴族達が集まっていた。
大きな天窓からは月光が床に落ち、磨き抜かれた楓結晶の床を艶やかに照らしている。
華やかなドレスの女達に、どこからともなく聞こえてくる楽団の奏でる旋律。
生き生きとした人々の表情は希望や切望に満ちていて、楽しそうな小さな笑い声が重なる。
くるりと翻るドレスの裾に、ぱしりと音を打つ羽の扇に、男達の他愛もない冗談に笑い合う声。
一段高い場所に立った王族なのであろう青年の周りには、そこに集まる事が許された者達が談笑の輪に加わっていた。
近衛騎士達の装いは赤を基調にした華やかなものだ。
決して魔術の基盤が潤沢な土地ではなかったが、それでも城に仕える魔術師の姿も見える。
なぜこんな場所に招かれたのだろうかと怪訝な思いで周囲を見回した。
この広間に集まっているのは殆どが人間で、それに気付き、出来るだけ多くを損なわないようにと人間の擬態を纏ってきた。
けれどもこのどこかに、遠い日に預けた祝福を辿り、終焉の魔物を呼んだ者がいる。
(………俺に呼び掛ける事が出来るような祝福の類は、回収し終えたと思っていたんだがな)
とは言え、戦や疫病が重なり過ぎて、忙しさに殆ど記憶が残らないような年も少なくはない。
そんな凄惨な日々のどこかで、誰かに心を許し、或いは誰かの命に希望を重ねた事もあったのだろう。
授けられた祝福の殆どには温度が宿り、そこに変化があれば気付けるものなのだが、最近はネアに預けた祝福の温かさで見落としがちだ。
だが、幸いにもまだあの不快感はない。
やがて、踊りさざめき笑う人々の波をすり抜けて歩いてゆくと、その向こうにいた一人の少女が振り返った。
真っすぐにこちらを見て大きな萌黄色の瞳を瞠った姿に、ああ、彼女かと思う。
木漏れ日と芽吹きの祝福を得た、終焉とは正反対の場所に位置する人間ではないか。
なぜそんな少女が自分を呼んだのかが分からず、微かに眉を顰める。
だがこちらに気付き反応を示したのであれば、思い当たる節はあるのだろう。
厄介なことにならなければいいと思いつつ、ゆっくりと歩み寄る。
「…………止まりなさい」
その足を止めたのは、先程の少女の鋭い声であった。
静止の声に従う義務はなかったが、事情が分からないのでひとまず足を止める。
そして、こちらを見ている冷ややかな嫌悪の眼差しに、懸念していた展開になりそうだぞと溜め息を吐いた。
「あなたが、わたくしの求婚者ですって?」
だが、続いた言葉は全く理解の及ばない範疇のもので、思わず首を傾げてしまう。
いつの間にか音楽は途切れており、大広間に集まった者達は皆、こちらを興味深げに見つめていた。
「俺が、…………君の?」
「私を伴侶にすると決めたのはお前でしょう。…………そんなみっともない服装で、舞踏会に来るだなんて。………でも、私達を軽視し、災いを持ち込む者に相応しい装いとも言えるのかもしれないわね」
「俺は、手順を踏んだ召喚があったので応じた迄だ。残念ながら招待状は届かなかったので、舞踏会の為の準備はしていない」
「口数の多い男だこと。………面立ちもさして美しくないし、裕福にも見えないわ。…………それにやはり、…………お前は悍ましい気配がする。………そう。このような姿で現れるのね」
「確かにそう感じられるかもしれないな。君自身が授かっている祝福と、俺の資質は正反対に近い」
どうも会話が噛み合わないが、あの少女の手元にある終焉の祝福の何某かは、本来の意味や用途が正しく伝わらなかったようだ。
求婚しに来る事になっていたのはどうしてなのだろうと、あんまりな曲解についつい考えてしまう。
だが、いつの間にか舞踏会の客達が壁際に下がり、周囲に騎士達が現れた事に気付くと、瞳を細めた。
「お前のような汚らわしく悍ましい者に、私は嫁ぐつもりはありません。私も、私以外の誰かも。我が一族に憑り付き、惨たらしい贄の呪いを残したお前の手など取るものですか!」
「そう思ってくれるのなら、俺としても幸いだ。召喚に使った術具か何かを返却してくれれば、二度と訪ねる事もないだろう」
「…………やはり下賤な人外者だわ。そうして対価を望み、女達を殺してきたのね」
嫌悪感を隠さずにそう吐き捨てられ、さすがに顔を顰めた。
(…………一体、何がどうなってそんな引継ぎになったんだ?)
他の人外者との約定と混同しているのか、或いは、意図的に偽りを織り込んだ者がいたのかもしれない。
もしくは、今回が初めて正式な召喚になっただけで、これ迄は不完全な召喚で呼び出された者が、ここで人間を食らっていたのかもしれない。
終焉の系譜に触れる召喚なのだ。
仕損じれば、良くないものしか呼び込まないのは明白である。
(…………だが、気付いた者もいるな)
こんな華やかな大広間にも、終焉に触れる者はいるようだった。
顔色を悪くし広間を出てゆく者や、ふらつきながら口元を押さえて走り出してゆく者が僅かだがいる。
見ようによっては不愉快な光景でもあるが、この場に居てはならないと下した判断は正しい。
ぎしぎしと、足元にまで押し込まれた術式が乾いた音を立てる。
騎士達が展開したのは、獲物の周囲を囲み、腐り落す植物の系譜の魔術の一つだ。
とは言え、終焉そのものとはあまりにも相性が悪いし、術式の精度もそこまで高くはない。
この国の有する魔術の階位では、このくらいが上限なのかもしれないが。
(またか……………)
繰り返される事ではあるが、案の定微かに痛んだ胸に、小さく溜め息を吐いた。
どこかで一つの祝福が損なわれ、過去に預けた何かがひび割れて崩れ落ちる。
祝福というものは酷く厄介な仕組みを有しており、預けた者がその祝福を尊べば何の感覚もないが、壊されたり疎まれたりすれば、それを授けた者に鋭い棘のような痛みを感じさせる。
祝福を蔑ろにすると、与えた相手がどこからともなく現れるのは、主にそのせいだろう。
こちらとて、壊れた祝福の不快感をそのままにしておく訳にはいかない。
妖精や精霊の中には、かけ流しの祝福を持ち、どのように扱われようとも感知しない者達もいるらしい。
だが、高位の魔物の殆どは、己の祝福や守護に変化があればそれを感じるだろう。
時として、それが、変わってしまった事を知りたくはなかったようなものだとしても。
「正直に言うが、君が話している事の意味が、俺にはさっぱり分からないんだ。俺がこの地や君の一族に何かの祝福を残したのは間違いないが、それがどんなものだったのかすら、もう覚えていない。だが、こうして召喚されたのは初めてだし、俺はこんないい加減なやり方で花嫁を必要としたこともない。加えて、俺が命を奪うのだとすれば、それは世界の理に背いた人間だけだ」
「口先の上手い人外者だこと。けれど、悪しきものや悍ましい様相の怪物は、得てしてそのように人間に忍び寄り、貶めるものなのだわ。………私は、今日こそ、災いと悲しみの連鎖を断ち切ると決めたのです。この召喚が罠だと気付いたお前が、どれだけ魔術の輪の中でもがいても、決して逃がしはしないわ」
「騎士達による詠唱と、花輪の魔術か。上質な術式ではあるが、脆弱過ぎるな」
「そう言って油断を誘おうとしても、無駄だと分からないのね」
「………もう手遅れかもしれないが、もう一度言うぞ。俺は、君もその前の誰かも花嫁として望んだ事はない。こうして召喚された事でそこにあると分かった、与えた祝福を返して欲しいだけだ」
「そうして、土地の祝福を奪うと言うの?百年近くもこの地から生贄を持ち帰り続けておいて、今更、身の危険を感じて祝福だけを回収出来るとは思わないで」
(百年?…………人間ではなく、土地そのものに与えた祝福?)
幾つかの可能性を潰し、そこで漸く腑に落ちた。
鳥籠の跡地のどこかで、焼け爛れた大地と形すら残らなかった王城の様子に、国に残された人間達があまりにも哀れで、とある葡萄園を治める一族に祝福を与えた事がある。
どうか殺さないでくれと泣いて跪く荘園主に、またいつかこの地を訪れた際には、出来上がった葡萄酒でも飲ませてくれと言い残し、畑の土地そのものに終焉の陰りを退ける祝福を授けた。
残された人間達を取り纏めて新たな国を作るのであればその男だと思ったし、その場合には、土地の人間を潤す収穫が必要だろうと考えたのだ。
だが、それは五百年以上前の事ではなかっただろうか。
であれば、残された伝承が変質したのが、百年前なのかもしれない。
騎士達や目の前の少女には、なぜかこの術式でウィリアムを滅ぼせるという確信が窺える。
その様子を見れば、彼女の言うように害を成した何かがおり、その正体や階位はある程度絞り込まれているのではないだろうか。
(あの荘園主の血族なら、この少女は王族という事になる。…………だが、そんな感じはしないな)
「…………念の為に忠告しておくが、俺を排除しようとはしない方がいい。魔術の理に触れると、君達も無事では済まないぞ」
「そう囁くことで怯えさせ、まんまと私の一族を食い物にしてきたの?…………お前の獲物になどなるものですか。今の私には、愛する人達がいるのよ」
「参ったな。完全に話が通じないのか………」
うんざりとはしていたが、それでも身に宿る魔術がこぼれ落ちないように、まだ細心の注意を払っていた。
疎まれ、憎悪されるのは何も今回が初めてではないが、煩わしさに少しだけ気持ちが揺らぐ。
あの少女が言う愛する者達とやらは、彼女に寄り添う一人の青年と、その背後に立った親族と思われる大人たちだろう。
なぜ、授けた祝福の最も近くにいた者達が、この先に起こるであろう悲劇を予測出来ないのかと、そう詰りたくもなる。
これ以上先にその駒を進められれば、結局、殺すしかなくなるのだ。
こちらを取り囲み、殺す為の術式を縛り上げれば、そこからは終焉を排除するという行為と見做される。
だが、この場で擬態を解けば、広間に集まった多くの人間達は死ぬだろう。
この国の人間達は、どこかで植物の系譜の妖精や守護を取り込んでいるようだ。
畑を耕し収穫を得てゆくにはいい授かりものだが、終焉の領域とはあまりにも相性が悪い。
こうして擬態して訪れている内は構わないが、終焉として立たねばならなくなった場合は、姿を戻しただけで、多くの者が壊れてしまうのは目に見えていた。
「お前のようなものには、愛するものなどいないでしょう。地を這い、血を啜る怪物。愛を得る事もなく、壊したり殺したりするばかり。けれどもう、私達からは何も奪わせないわ」
「いいか、それは俺も望んではいない。ここで立ち止まり、祝福を返してくれ。君達は兎も角、ここに集まった者達の中には、ただ巻き込まれるだけの人間も多くいるのだろう。あの楽団は?王宮で働く使用人達は?選択肢を誤れば、その全てが君の誤った選択で死ぬ事になる」
「………っ、正体を現したわね。けれども、もうお前に出来る事など殆どありはしないのだわ!抵抗もせずに、その術式の中にいるのはなぜ?こちらには、多くの守り手と守護、それにお前にはない愛がある。命と陽光の魔術の下に、お前のような悍ましい生き物は無力なのよ」
「…………いや、大抵の場合は無力だ。守護も、愛も、命も陽光も。それは、終焉から君達を救い上げるには、あまりにも脆弱だと言わざるを得ない」
その言葉にはっとしたように肩を揺らし、檀上に立ってこちらの様子を見ていた王族達を、魔術師が避難させてゆく。
こうして宣言してしまえばこちらももう引けないが、せめて、目端の利く者は少しでも逃がせるだろう。
この身を損なう為の術式が完成するまで、もう時間がない。
ウィリアムにはもう、このくらいの事しか出来なかった。
(走れ。…………どこまでも遠くへ。ここで殺されず、この隣で狂わないように。………少しでも遠くへ逃げてくれ)
王族達の只ならぬ退場の仕方に、慌てて広間を出てゆく者達もいる。
だが、捕縛と抹殺の為の術式を組んだ騎士達は退きはしないし、それでも多くの者達が広間には残っていた。
「血に狂った悍ましい怪物を、今日こそ殺して頂戴。これでやっと、長きに渡った嘆きの日々を終わらせる事が出来る」
最後までこちらを真っすぐに見据えた少女は、騎士達にそう命じた。
今更だが、少女の隣に立ちその手をしっかりと握ってこちらを睨んでいる青年の胸に、国の紋章を模った刺繍がある事に気付いた。
となると、王族の婚約者か、もしくは伴侶なのかもしれない。
騎士達を我が物顔で動かせる理由に得心がゆき、何となく成る程と思ってしまう。
しかし、となるとやはり王族ではないので、王族には他の者を立てたのか、この五百年で血筋が分かれたものか。
(もし、気紛れに祝福を与えたのが、荘園主ではなく、名もなき農民であったなら…………)
これだけ多くの人間達を巻き込むような悲劇は、防げたのだろうか。
或いは、あの日に人間に拘らず、戦場で回収した死者達を連れ帰るだけにしていれば。
この人間の言うように、何の罪もない多くの人間達を無残に殺さずに済んだのだろう。
最後の願いも虚しく、かちりと魔術の歯車が噛み合った。
夜明け前になって強まった風に、はたはたと揺れるのは白いケープの裾だった。
翻り風に持ち去られそうな裾を引き寄せ、周囲に狭い範囲だけの排他結界を設ける。
振り下ろした剣先に滴る赤い色を一瞥し、また焼け落ちた土地を歩いた。
雪のような真っ白な大地は、この土地に多く生息する植物の種子が降り積もっている。
この植物は時折農村などで見かける物で、本来なら秋の収穫祭で畑を焼いた後に火の気配に反応して降るものなのだが、今年は戦火で降り注ぐのだ。
もう誰も健やかな住人のいない小さな国の王都に、雪のように。
美しく壮麗だった城は、焼け落ちた。
どこかの誰かが、この国で最も恐れられている火の魔術を使い、死者の王を退けようとしたのだ。
自分達にとって最も有効なものであるからこそ、こちらにも効くと思ったのだろうか。
結果としてその火は、王城と隣接した幾つかの建物を焼き、より多くの犠牲を出しただけであった。
「…………やれやれ、こんな形で衛兵に殺されそうになったのは、初めてだったな」
「何を呑気な事を言っているんですか。ウィームで、小さな疫病が芽吹いたようですよ」
「おっと、それは急いで向かわないとな。鳥籠が必要そうな案件なのか?」
「ええ、そのようですね。………ナインがご機嫌でしたから」
「俺が贔屓にしている土地なんだ。あまり被害を広げたくないな」
最近は戦乱が多かった。
疫病でその規模の被害が出るのは、久し振りだろう。
ましてやウィームとなれば、早めに手を打っておきたい。
すぐにローンを呼び、何が起こっているのかを確認したところ、山百合の呪いで現れた疫病であるようだ。
となると話は変わってくる。
頭の痛い話だが、この場合、禁を犯して疫病を貰った者達は速やかに排除しなければならない。
足跡を残し、どこかに呪いの種子を蒔けば、あっという間に被害が広がってしまう。
また、疫病を芽吹かせたのはウィームの住人ではなく、知人を訪ねてその村を訪れていたヴェルリアの領民であるらしい。
王都の人間が犠牲になる事は避けられない以上、面倒な事にならないように、ダリルにも連絡をした方がいいだろう。
まずは、リーエンベルクやネア達が不用意に関わってしまわないよう、事前に手を打っておかねばならない。
(あの祝福の回収が出来れば、久し振りにゆっくり出来ると思ったんだが…………)
召喚の理由を確かめる為にこの国を訪れた時、その祝福を触媒にした者が華やかな舞踏会会場にいると知って少しだけ安堵した。
疫病や戦ではないのなら、願い事や提案の類は断り、与えてあった祝福を回収して立ち去るばかりだと思っていたのだが。
(…………そうだな。俺はいつもこうなる)
足元で、目の前で、背後やその周囲で壊れてゆく命の悲鳴を聞きながら、幾つもの守護や祝福が無残に砕けてゆく音も聞こえていた。
儚く砕け散る指輪や、武具、剣や腕輪や髪飾りなどに付与され慈しまれてきたであろう守りの約束の数々。
今も、持ち主の体を失い、焼け爛れた地面に落ちている銀色の指輪がある。
嵌め込まれていたのであろう祝福石は砕け、高温の炎に晒された指輪は歪んでいた。
それは、ウィリアムがこの先もずっと得る事はないであろう、物だ。
折角得られるように手を尽くしてくれたシルハーンには申し訳ないが、何か価値のあるものを一つ、先日までかけていた調律の儀式の対価にせねばならなかった。
失う訳にはいかない価値のある物の中では、最も害のない対価だったと言えよう。
ただ、一つの約束と得られる筈だった可愛らしい贈り物を手に入れ損ねるだけ。
次の祝いでこそなどと言わなければ良かったと後悔したが、それがなければ、他に適当な対価もなかった。
既に手にしている品物では、ネア達の贈ったという記憶迄は奪えない。
その品物に重ねられた思いごと手放したと知られるよりは、祝い事そのものを対価とし、何も気付かせずに消える物の方がいいだろう。
その連絡が入ったのは、山百合の疫病を片付け、情報の共有の為にダリルを訪ねた後の事だった。
今回は呪いに触れてしまったウィームの住人も五人ほど封じ込めの内側に入れなければならず、閉じ込められ助けを呼びにもいけないまま死んだ者達については、しっかりと話しておかねばならなかった。
「まぁ、私でもそうするよ。あの土地の山百合は、白百合に近い。まったく、厄介な階位の妖精を殺してくれたもんだ。ウィリアムが居なかったら、もっと大きな被害が出るところだったからね。……………ところで、随分と酷い顔だけど、ネアちゃんにでも会って行ったらどうだい?そろそろ、研修から戻る頃だからね」
「ウィームを離れていたのか?」
「偶然にも、その山百合の集落の近く、とは言え森の淵を挟んだ反対側だけどね。そこに暮らしている薬の魔術師のところに、うちの馬鹿王子と一緒に研修に行っていたんだよ」
「……………あの疫病の影響を受ける距離じゃないが、かなり近いな」
「森の淵を抜けないようにとは、伝えておいたよ。今回みたいな仕事は、あの子達にはあまり知られたくないんじゃないかなと思ってね」
珍しくそんな気遣いを見せたダリルに、その代わりにこちらで何かがあった場合は相談すると言われて苦笑し、書庫を出る。
そこでカードを開いたのは、シルハーンあたりが疫病の気配に気付き、ネアがこちらに連絡していないだろうかと考えたからだ。
“ウィリアムさん、近々どこかで、一刻ほど、私とディノとのお買い物に付き合って貰えますか?”
そんなメッセージに目を瞠り、なぜ必要とされているのだろうかと首を傾げる。
終焉の系譜に使われるような道具類だろうか。
何か、問題が起きているのかもしれない。
“丁度、ダリルに話があってウィームに来ていたんだ。今からなら可能だが、後日でも構わない”
そう返事をするとすぐに、ではこれからにしたいと連絡が入った。
正直なところ望ましくない仕事が続いて疲れてはいたが、こんな時だからこそ、シルハーンとネアに会いたいと思い了承する。
「ウィリアムさんです!」
「ネア、………お、杏を買ったのか」
「はい。今日の市場の杏は美味しそうだったのですよ。お裾分けします?」
笑って断りかけて、この用事が終わった後の事を考えた。
一人のテントに戻った時に、貰った杏を食べるのもいいかもしれない。
先日の一件の後なのでディアニムスの屋敷に戻っても良かったが、今日ばかりは周囲に誰もいないテントに帰りたいと考えたのだ。
(…………いや、リーエンベルクに泊まれるのなら、)
そう考えかけたが、一つ戦乱の気配が燻り続けている土地がある。
すぐに出かけてゆく羽目になるなら、今日は難しいかもしれない。
どうせなら、リーエンベルクに泊まる日はゆっくりと休みたかった。
「じゃあ、一個だけ分けて貰ってもいいか?」
「はい!とびきり美味しそうな杏を選びますね」
ネアが杏を選ぶ姿を、隣で、シルハーンが不思議そうに見ている。
こんなやり取りも含め、初めて見るような事もまだまだ多いのだろう。
「いいのかい…………?」
「ふふ。前の世界で暮らしていた私なら、お裾分けをする程心が広くなかったでしょう。ですが今は、贈り物やお裾分けを出来る心の余裕を手に入れたのですよ!」
「可愛い………」
「なので、こうしてお裾分けを出来る自分も、お裾分けをしたくなる方がいるという事も、とても幸せな事なのです。ウィリアムさん、こちらはどうでしょう?」
「そう言って貰えると、嬉しいな。ああ、これはいい杏だな。有難う、ネア」
受け取った杏に、唇の端を持ち上げる。
そうして、ネアが杏を分け合いたいと思ってくれた事を、ウィリアムは、この杏を食べる時に思い出すだろう。
手に入らなかった物もあるが、これからもまた、新しい宝物は得られる筈だ。
その度に感じる安堵や喜びを、望んだものの分だけ降り積もらせてゆけばいい。
「今日は、ちょっとしたお買い物に付き合って欲しいのです」
「ああ。俺の意見が必要な買い物なのか?」
「買い物というよりは、現段階ではまだ注文なのですが、急な思い付きなので準備が足りず、ご本人を呼び出してしまいました」
「本人?」
「ふふ。お店に着くまでは秘密なのですよ!」
そう微笑んだネアに、困惑してシルハーンの方を見ると、目が合ったシルハーンは、すぐに分かるよと微笑んだ。
(…………となると、どのような物だろう?)
全く想像が出来ずに首を傾げながらも、ネア達と話をしつつ、店に向かう。
健やかなウィームの街角では、昨晩訪れた国よりも浅い擬態でも誰かが悲鳴を上げる事はない。
勿論、ウィームにも植物の系譜はいるし、終焉の要素と相性が悪い者達も多い。
だが、土地の魔術の濃度が高い分、その限界値がだいぶ引き上げられているのだ。
悲鳴を上げ、腐り落ち、泣き叫んで死んでいったあの者達とは違う。
否定をし、望まずとも、どれだけそれが自身の与り知らぬところで定められた理であっても、あれは確かに虐殺であった。
ウィリアムが殺したのは、地面に焼け残って落ちていた指輪を、些細な災いから身を守る為に誰かから贈られたような、無力な者達だったのだから。
「このお店なのです」
暫くして、ネアが示したのは一軒の優美な店構えの魔術具屋だった。
ウィームでなければ、高級宝飾店にしか見えないだろうが、独特な青みの強い濃紺の店構えに優美な金文字の店名はこちらでは魔術具屋の印である。
勝手知ったるという感じで入店するネアとシルハーンの為に扉を開けてやると、来店の予約をしていたものか、店員の一人が深々と頭を下げる。
「ようこそおいで下さいました。奥のお部屋に準備をしております」
「はい。今日は、どうぞ宜しくお願いいたします」
周囲を見回せば、売られているのは装飾品に仕上げた魔術金庫や、祝福石や結晶石などが多いようだ。
防具や武器などではなく、装飾品の範疇の道具類が多い。
中には、首から小さな飾り籠に入れて下げられる魔術書などもあったが、術符を入れる為の銀色のケースなども繊細で上品な意匠の物が多い。
深緑の天鵞絨と銀水晶の展示ケースの並ぶ店内を抜け、案内されたのは上客用の商談室だろう。
椅子を勧められ、ネア達と並んで長椅子に腰を下ろすと、美しいカップで紅茶が振舞われる。
「本日は、親指用の物と腕輪を中心にという事でしたので、まずは双方の形状が分かるものをお持ちしております」
「はい。ご本人に、まずはどちらの形かを決めていただき、そこから模様などの細部を決めてゆきますね」
「おや、耳飾りもあるのかい?」
「ええ。念の為にこちらも用意しましたが、お客様を拝見しました感じでは、やはり指か腕でしょうね」
「ふむふむ。…………ウィリアムさん、試してみて、どちらがいいのかを教えて下さいね」
こちらを見上げて微笑んだネアが指示したのは、繊細な作りの指輪のようなものと、腕輪のようなもの。
ゆっくりと目を瞬き、飲み込み損ねた息を吐き出す。
何かを言おうとして声を上手く出せず、もう一度息を吸った。
「…………ネア、これは」
「ふふ。なぜか、とうに贈っている筈だったのに、贈られていないリンデルの注文です。イブメリアに突然お渡しする事も考えたのですが、このような物は貰えると分かっている時間が長い方が幸せですので、この段階から巻き込んでしまう事にしました。それに、ウィリアムさんは剣を扱う事が多いので、実際に試してみて、使いやすい方がいいと思ったのです」
「…………リンデルを、」
ここで思わずシルハーンの方を見てしまった。
ディアニムスで何を対価として手放したのかは、グレアムしか知らない筈だった。
だが、シルハーンも聞かされていたのだろうか。
だが、こちらの疑問が分かったのか、シルハーンは首を横に振る。
「私は、君がどこで何を引き換えにしたのかは聞いていないよ。その辺りは、グレアムも自身の魔術に厳格なのだろう。でもね、この子が君にリンデルを贈り損ねている事に気付いたんだ」
「…………そう、なのですね。…………ネアが」
「ふふ。私はとても強欲なので、贈り物を忘れられたら怒り狂います。なので、大事な方がその機会を逃す事にもやはり敏感で、尚且つ我慢ならないのでした」
そうかと、頷いて、もう一度目を瞬く。
テーブルの上に並べられたのは、これ迄は縁のなかった、誰かの幸福を守る為の人間の道具だ。
どちらの形状かを決める為に用意されたのは、細工のない簡素なものだが、それでもテーブルの上にある小さなシャンデリアの明かりを映してきらきらと輝いていた。
「指貫型の方が、いいんだがな。…………ずっと身に着けていられるとなると、腕輪かもしれない」
「手仕事の多いお客様では、仕事中はリンデルを鎖にかけて首から下げる方もいらっしゃいますよ」
「そうなんだな。…………悩みそうだ」
「ウィリアムさんのリンデルなので、たっぷり悩んで下さいね!贈り物でお仕事の邪魔になってはいけませんし、とは言え、ウィリアムさんが一番欲しい形のものがいいのも間違いありません。私もすっかり悩んでしまい、こうして、ウィリアムさんを呼んでしまいました」
ネアは、そう言った後に、なぜか細工の絵柄を並べた小さな金板をじっと見つめる。
曰く、今の指輪で充分に満足しているものの、こうして細工の見本絵柄を見てしまうと欲しくなるのだそうだ。
「ですが、実際問題私には必要のない品物なので、それはさすがに勿体ないのです。世界中のどこを探しても、私が付けていたいのはディノの指輪以外にありません」
「ご主人様!」
「おまけに、二個付けするような事も苦手なのに、それでも惹かれてしまう罪深い人間の欲望には慄くばかりですね………」
「であれば、姉妹店で同じ模様の細工を扱うグラスの店がありますよ」
「な、なぬ…………」
「いつか、記念日や祝祭などで、そのようなお品物を考えていただくのも良いかもしれません」
そんな提案でネアを笑顔にした店員に手伝って貰い、指貫と腕輪をそれぞれ試してみた。
最初は、剣を持つ手に嵌めておくと傷付け易いだろうと思って腕輪を中心に見ていたが、よく考えると、術式の反転や障りに触れた時などに、手そのものを犠牲にする事も多いのだ。
であれば指貫にしておき、鳥籠などの仕事の際には鎖を通して首から下げておくのが一番安全かもしれない。
思い直したせいで途中から選び直しになったが、最終的には指貫でという事になった。
彫り込む模様でも少し悩んだが、ネアの印章模様でもあるという柊の枝と、イブメリアを示した夜の模様で決める。
これは、ネアに初めて出会ったのが、イブメリアに連なる祝祭儀式の中だったという事もあって選んだのだが、冬告げに参加する身としては魔術の親和性も高い。
予約票は、出来上がり次第取りに行ってくれるネアが持ったが、帰りがけに店員が、今回の注文のデザイン画の控えを封筒に入れて渡してくれた。
白い封筒を手に店を出れば、上手く言葉に出来ない思いがこみ上げてくる。
「ふむ。これで完璧なリンデルを贈り物に出来ますね!」
「…………イブメリアの贈り物が、事前に分かっていて、これ以上に嬉しい事はないだろうな」
そう言えば、ネアはなぜか厳しい表情で振り返った。
「あら、これは他の機会に差し上げるつもりだった品物なので、今回は何でもない日の贈り物なのですよ。……強いて言えば、先日の素敵な演奏会のお礼でしょうか。私は得られる贈り物の数にも格別に煩い人間ですので、イブメリアの贈り物は別物とさせて下さい」
「ネア…………」
「これは私の持論なのですが、贈り物は、品物自体も勿論大事なのですが、定められている筈の得られる数を失うのも宜しくありません。余分はあっても、不足はあってはならない世界なのです!」
「…………そう、なんだな。…………」
前の世界でのイブメリアに相当する祝祭と、ネアの誕生日は近かったらしい。
それでも、決して贈り物を一つに纏めなかった両親は、ネアにとって自慢の優しい家族であったようだ。
そう説明したネアは得意げに胸を張り、その代わりに、こちらの誕生日も蔑ろにしてはならないのだと主張する。
だがそれも、ウィリアムからしてみれば、差し出された贈り物のようなものであった。
(祝い事に、俺を招きたいという者は、殆どいないだろう…………)
それなのに、躊躇わずに欲し伸ばされる手に、どれだけ救われる事だろう。
ネアも、シルハーンも。
その日は残念ながら、夕刻から戦場に戻らねばならなかったが、受け取った封筒を上着の内ポケットに仕舞ってあったせいか、不思議と胸が温かかった。
今後も戦場での呪い除けなどで、敢えて自身の体を損なう事もあるだろう。
終焉の場には様々な呪いや障りが渦巻いており、時には、そのような方法でしか避けられない事もある。
だが、あの指貫を受け取ってからは、鎖をかけた首だけはなんとしても死守しなければならない。
胸周りへの打撃もだなと考え、その日の戦場が比較的穏やかな、死者の回収だけで済んだ事に拍子抜けした。
贈り物を受け取る前に、どこかの戦場で実戦を経て、今後の戦い方を考える必要がありそうだ。
ただし、ネア曰く、壊れたら新しい物を贈るので、惜しみなく使って欲しいという事である。
「近い内に、もう少し手応えのある戦場があるといいんだが…………」
「ウィリアム、どうしてそんな風に考えてしまうんだ…………」
困ったようにこちらを見たギードに、ネアからの贈り物の管理の仕方を学ぶ為に、戦い方を変えたいのだと話してみる。
首は落とされないようにしなければと言えば、ギードからは、そんな仕事の仕方はそもそも駄目だと言われてしまった。




