工房とオレガノ
魔術工房の朝は早い。
夜明けの霧が森から消える前に、朝露を採取せねばならないし、まだ霧の残る丘陵地の草むらには昨晩の星の煌めきが落ちていたりもする。
特別な祝福を付与した小瓶を籠に詰め、瓶同士の触れ合うごとごとという音を聞きながら森の入り口の草地を歩いた。
薄っすらと秋の色に染まり始めた森の景色に、秋告げが始まった事を感じる。
魔術師であれば、誰もが世界の色の僅かな変化にこうして季節の移り変わりを感じるに違いない。
霧の向こうに風に翻る灰色のローブが見え、小さく眉を寄せる。
この時間に森の近くを歩くとなると、隣接した工房の魔術師だろう。
(だが、まさかここで鉢合わせするのは避けるか………)
数年前まではなかなか見どころのある魔術師だと引き抜きを考えていたが、ある日を境に、その考えは消え失せた。
どんな土壌にも相応しい種があり、あの青年はそうではなかったという事に過ぎないが、手際の良さや魔術の扱いの巧みさを買っていたので、いささか落胆したのは確かだ。
出し抜かれた事を不愉快には思っていなかったが、今後、ここではあまり関わらないに越した事はない。
こちらにも秘匿するべき事は多く、手の内に引き入れないのであれば、互いの秘密を分け合う必要もないだろう。
幸いにも、互いに忙しい身の上だ。
フードを下し、木々の枝葉を揺らす風の流れを測る。
魔術の織りは浅く淡い緑色をしていて、遠くの丘に向けて流れてゆく先には、僅かだが妖精の気配も窺えた。
日頃から感じている妖精の気配とは別物なので、たまたまこの地を訪れている妖精が、森から風の息吹を呼び込んだのだろう。
だが、お蔭で通り道の草地には、妖精の魔術の気配が落ちた。
地精の手袋に、柔らかな毛皮の月煙の竜の敷物。
道具入れから取り出したインク瓶の蓋を開き、ポケットから取り出した手帳に幾つかの魔術記号を記す。
どこか遠くでバイオリンを弾いているはた迷惑な人外者がおり、その旋律が霧の向こうから微かに聞こえてきた。
新月の翌朝なのだ。
おまけに、季節の舞踏会の始まりに触れ、属性や色彩を変え始めた森には、普段はないものが沢山現れる。
そんな収穫の時期は忙しく、夕刻までに済ませておきたい作業は幾らでもあり、頭の中で行程と手順を組み替えた。
どこの戦場か、どこかの集落での疫病かは知らないが、死者の行列に一日の予定を崩されるのはうんざりだ。
作業に関しては譲れない要素も多いが、それでも幾つかの予定を組み替えた事で、出来るだけ終焉の気配の影響を受けないようにしなければならない。
もう一度注意深く周囲を見回しても終焉の気配はなかったが、このような土地にその要素が欠片でも入り込めば、大きく質を変えるものもあるだろう。
様々な要素が釣り合うからこそ育まれる草花など、頑強に見えても脆弱な素材は多いのだ。
(風向き、…………祝福の翳りと、その煌めきの角度。風の温度に森の魔術の騒めき。風に香るのは、水辺の魔術の祝福だろうか。…………今朝は、随分と賑やかな夜明けだった)
あまりにも濃密な水辺の魔術の気配に、また少し眉を顰める。
この地に工房を構えたのは、土地の魔術の均衡が美しく、基盤の豊かさが気に入ったからなのだ。
それなのに、また馬鹿騒ぎがあったのかと思えば、頭の痛い問題ではないか。
水辺と言うと、森の湖か小さな泉しかないが、そのどちらに、どこからか獲物を見付けてきて引き摺り込んだのか。
どれだけ美しく嫋やかに見えても、あの系譜の乙女たちは残忍で酷薄だ。
それを知らずに差し伸べられた手を取ってしまった愚かな誰かは、水辺の乙女たちの晩餐になってしまったのだろう。
(そろそろ、気付かれないように、水辺の乙女の間引きをするか。五人も減らせば、少しは餌の量も減るだろう………)
であればその相応しい日程と、人員、そして手法。
ただの駆除作業ではなく、こちらにも利があるようにしなければ意味がないので、その先の展開も何通りか考えておかねばならない。
そうこうしている内に、近くにあった野薔薇の茂みの一部が結晶化しているのを見付け、結晶化の範囲だけを月光のナイフで削ぎ落す。
このような場合は、作業は慎重にせねばならない。
結晶化した部位に生きている植物の組織が混ざると、株から剥離した途端に腐敗する事もある。
また、一部だけ結晶化した部分を薔薇に残せば、よく光る切断面に気付いた妖精や獣達が、祝福を摂り込もうとして薔薇を食べてしまう事もあった。
ここは畑ではない。
生きている森で、草地で、川で、湖である。
その中での収穫を得るのであれば、この先も土地が富むようにと考えて採取をせねばならなかった。
(竜の鱗、水仙の根に鈴蘭の朝露。………あの蝶は暫くの間見ていないな。泉の乙女を嫌うから、姿を隠しているのだろう)
かりかりと、固い紙の上をペン先が滑る音がする。
それくらいに静かな夜明けの草地には、森の木々の隙間から差し込んだ朝日が落ちれば、ところどころに祝福結晶が咲いていた。
きらきらと輝くそれを、屈み込んで一本手折り、小さな採取箱に入れる。
よく見れば、煌めきがあるところには蹄の跡が残されていて、鹿下がりなどの高位の精霊が通り抜けた事が分かった。
(ここまでの祝福結晶の花を咲かせたのなら、恐らくは婚姻だろうな)
この世界の高位の者達の多くが人型をしているが、時として、それに飽いてしまう者もいる。
そうして獣に姿を変えるのは、何も鹿下がりだけではない。
かの絶望の魔物は狼として暮らしている事もあると言うし、この目で見て、他の魔物にもそんな素養がある事は知っていた。
かくいう自分も、その経験はある。
とは言え、あまりにも酔狂だ。
多分、あまり好ましい状態とは言えない事も承知の上で、ほんの少しだけ。
「…………ああ、これなら及第点だな」
採取した祝福結晶の花の質を確かめ、小瓶に入れて封をすると、コルクの蓋を薄紙の封印帯で固定している間にもとろりとした光る水薬に転じてしまう。
空を見上げれば青空の明度が増してきており、そろそろ、夜明け前の時間にだけ残っていた、ほんの僅かな夜の系譜の魔術の撤退を感じる。
残された時間は少ない。
だが、この森の淵で色々な収穫や採取をと思っていたが、今朝は、祝福結晶の花を手に入れる事に専念するべきだろう。
これは、全ての作業工程を最優先事項から外せるくらいに珍しいものなのだ。
森の淵。
それは、深い深い森が、まるで湖にでも転じたかのように円形にわだかまる、ウィームに幾つか残る隔離地の呼び名だ。
このような隔離地には幾つか種類があり、厳密な区分をする為の名称はもう少し長くなる。
だが、この近くで暮らす者達の多くが、ここを森の淵と呼んでいた。
土地が豊かで、大きな魔術が蓄積され、階位の低い者達にとっては毒のようになった場所。
或いは、墓地だったような場所や忌み封じをされた痕跡の残る土地で、災いや障りなどがどこにも抜けずに残った場所。
他にも様々な事由や名称があり、水辺の人外者の多いこの隔離地は、いつからか森の淵と呼ばれている。
数百年前に放棄される筈だったこの土地を引き継いだのは、工房で扱う特殊な資源を欲する魔術師くらいのものだろう。
かくしていつからかこの地には魔術工房が増え、今では、例えば先程の灰色のローブの隣人のような姿の魔術師達がそこに暮らしている。
そんな魔術師達は隔離地を上手く管理する限りは、ウィーム領から持続型の支援金が貰えていた。
ウィームとしては、隔離地に異変があれば、魔術の作用の高い監視者達からの報告が得られる。
また、魔術の含有量の高い素材を彼らが収穫する事で、適時、隔離地の剪定をする事も出来るので、願ったり叶ったりだろう。
普通の人間にこのような土地に暮らしたい者達はいない。
見張り番を立てて我慢を強いるよりは、望んで寄り添う者達を利用する手法を選んだのだ。
それが今代の領主の施策だと思えば、やはりあの領主は質がいい。
このような土地に暮らす、研究などにばかり熱意を傾ける魔術師達は得てして薄給だが、そこから生み出せる可能性は果てしない。
実を結ばない研究ですら、それ以外の成果の足掛かりになる事も少なくはないのだ。
(それを、あの領主はよく分かっている。森の淵に工房を持つ者達の暮らしは、ウィームが最も強みとする管理体系だろう)
そんな事を考えていた時の事だった。
「見て下さい。こんなものを拾いました!」
「…………拾ったのだな」
「はい。森をお散歩していたら、足を引っ張る悪い生き物がいたので、ごすっと拳で黙らせてみたのです。そうしたら、泣きながらこの角が落ちている場所を教えてくれたのですよ」
「…………鹿下がりの角だろうか。………初めて見る上に、どれだけ貴重かもよく分からないくらいだな。私では手に負えないので、ノアベルトかアルテアにでも相談してみた方がいい」
「まぁ、折角ご同行させていただいたので、差し上げようと思ったのですが、いりません?」
「…………くれるのか?」
「はい。ですが、よく分からないものであれば、ノアやアルテアさんに検査をお願いして、そちらにも分け前を切り出す形で安全にお渡しするようにしますね」
「ああ。…………いいのか?」
「ふふ。重ねて確認してくださらなくても、差し上げますよ。私はこの、………水っぽい乙女が下さった、綺麗な百合の絵の方が気に入ったのです」
「水辺の乙女からの、服従証だな。………これは確実に、ディノに相談してくれ。繋がりや契約などに相当するかもしれない」
「なぬ。ただの綺麗な額装の絵ではなく…………」
「ああ………」
風に乗って、あの灰色のローブの魔術師と、森から小走りで出てきた少女の会話が聞こえてきた。
無言で頭を抱え、深い溜め息を吐く。
まさか鹿下がりの角が生え代わりの時期だとは思わなかったが、であればこの蹄の跡に育った祝福結晶の花は、階位上げの慶事の影響だったのだろう。
「綺麗なところですね。そして、初めてこのようなエプロンドレスを着せて貰ったのですが、あまりにも可愛くてすっかりお気に入りなのです」
「クライスはどこにいるのだ?」
「むむ、はぐれました?」
「いや、彼の事だ…………」
その名前に眉を持ち上げていると、森の中からゆったりとした足取りで一人の男が出て来た。
変り者のクライスと、この辺りでは呼ばれている。
だが、ウィームが誇る得体の知れない高位魔術師の一人だ。
黒髪のゆるい巻き毛に灰色の瞳をした魔術師は、美しい容貌から土地の女達にも持て囃されていたが、問題を起こす事なくそのあちこちを渡り歩く器用さは持ち合わせているらしい。
魔術師としては珍しい気質なので、その部分も気にかけていた。
見せかけの質と合わない要素を持っている者は、大抵の場合が仮面をかけている事が多い。
また、ただの不適合であれば、居場所を変える事で枝葉が伸び、思わぬ才能を伸ばしたりもする。
「お嬢さんは、なぜか俺を警戒するんですよ」
「まぁ、そのように見えますか?」
「ほら、こんな感じに。手を繋ごうとすると逃げるし、挙句の果てには、踏みつけられて激高する森蝙蝠の後始末までさせられる」
「あの黒いひらひらに関しては、クライスさんが殺してはならないと言うので、仕方なく譲ったのですよ。でなければ、踏み滅ぼして売り捌くまでなのです」
「………その、私の連れが済まないな」
「いえ、あなたが謝る事ではありません。それに俺は、このお嬢さんはどちらかと言えば気に入ってますからね。ただ、それなのになぜか嫌われるんですよ」
そう悲しそうに言ってみせた男に、その言動のせいだろうなと考えながら、また祝福結晶の花の収穫を進めた。
幾つかは淡い金色の水薬になり、思っていた以上の質の良さに満足する。
だが、そろそろ夜明けの質も変わる頃合いだと言うのに、森沿いのあの連中のやり取りは、まだ続くようだ。
「嫌っているつもりはないのですが、言動がたいへん軽やかなので、少々警戒している事は否めません。クライスさんのご興味は魔術のあれこれにしか向いていないので、恐らくいう程に心を傾けてはいらっしゃらないのですが、こちらも既婚者ですのでおかしな言葉の証跡は残したくないのです」
「キュ!」
「…………この小さな生き物が、お嬢さんの伴侶ねぇ」
「キュキュ!」
「ふふ、むくむくで愛くるしいでしょう?私の大事な伴侶なので、今度無断で触ろうとしたら、肘から下がなくなりますよ!」
「ほら、この通りなんですよ。懐かない路地裏の野良のようでしょう?」
「このような範疇であれば、普段と変わりないので嫌われている訳ではないのではないか?」
「…………普段の範疇なんですか。やれやれ、どれだけ獰猛なんです。…………それと、お嬢さん。俺は、そのムグリス風なご伴侶を、可愛いので撫でようとしたんですよ?」
「………む。可愛いのは理解出来るのですね?」
「ええ。野生のムグリスよりは、少し小さいですね。毛並みもいいし、造形もよく似ているけれど少し違うかな」
「私の伴侶は、世界一可愛いむくむくなのです。そして、この木の実は何に使うのですか?」
「これから、木苺と森苺、夜明けの祝福を蓄えた杏のジャムを添えて、パンケーキを作ります。星明かりのシロップもありますし、あとは森牛のクリームもありますからね」
「いつもすまないな」
「いえ。これも俺の仕事の内ですよ。…………さ、お嬢さんも…………って、何を拾ったんですか?!」
「………ぺらぺらリボン生物の、リボン結びされたものでしょうか?ぶーんと飛んできたので、叩き落としました」
その会話に思わず振り返ると、少女の手元には水色のリボン結びになった妖精が見えた。
あれがカワセミなどではない事は形状で分かるのだが、何の躊躇いもなく狩ってしまったらしい。
「ああ、森縛りの妖精ですね。獰猛で邪悪で呪いしか齎さない生き物ですが、お嬢さんにかかると一撃ですか…………」
「………呪いなどが付与されたりするのですか?」
「本来はね。ですが、お嬢さんが一撃で殺したせいで、その隙もなかったんでしょう。失礼………」
そう言ったクライスが、少女の手を取る。
いささか親密過ぎる近さだが、少女は気にする素振りもない。
「なぜ、手をぎゅっとされたのですか?」
「問題のある魔術の付与がないかどうかを、調べる為ですね。はい、何の問題もありませんよ」
「…………良かった。お前も、見た事のないものを狩る際には、どうか気を付けてくれ」
「クライスさんと、きのこを沢山狩りましたが、それもでしょうか…………」
少しだけ落ち込んだような声音に、クライスが小さく笑う。
「それは、俺がしっかり見ていたんで大丈夫ですよ。毒キノコも、良くない魔術を持ったキノコもありません。バター蒸しにしましょうか。それとも、スープがいいですか?」
「バター…………じゅるり」
「はいはい、バター蒸しですね。では、この森縛りはどこかにやりましょうね。売り捌くのなら、持ち帰りますか?」
「では、こちらの獲物用金庫にぽいしておきますね。それと、木の枝にぶら下がっていたので引っ張ったら落ちて来た、この綺麗な蔓のようなものは、どうすればいいですか?」
「霧蔦か!しかも、全てが結晶化しているのか?!」
その声にもう一度振り返ってしまい、イブメリアの飾りのような、結晶化してよく光る蔦状のものを持った少女に瞠目する。
探そうと思って手に入れられるものではないし、市場だけでなく、アクスに注文をかけておいてもなかなかお目にかかれない品物だ。
ましてや、全体が結晶化されているなど、これまでにも、一度か二度見た事があるくらいではないか。
「悪くなさそうなものなので、ちょびっと差し上げましょうか?」
「いいのか?」
「お嬢さん、鶏肉のマスタードクリーム煮を付けますので、俺にも下さい」
「むむ、その魅惑の料理が出るとなれば、少し分けるしかありません。なんと狡猾なのだ」
「キュ………」
「残りは、私とディノで分け合いましょうね?」
「キュキュ!」
色々気になるところはあったが、この状態で口出し出来る事はない。
こちらにも、工房の管理や暮らしなど、譲れない部分はあるのだ。
溜め息を吐いて、収穫したものを持ち帰り、夜明け前までに仕上げていた写本の道具を片付ける。
乾いていないインクや、まだ蓋を閉じられない魔術の粉類なども、漸く片付けられる状態になっていたので、手早く封をして道具箱に戻してゆく。
(あの黒髪の男は、かつて、リーエンベルクの第二席の騎士だったという…………)
現在の領主が来る前に仕事を辞め、この地の工房に移り住んだ。
かつてはガレン入りを熱望されていたが、それよりも騎士職を選んだ理由は知らない。
だが時折、そんな男を訪ねて、旧友だというスープの魔術師がこの地を訪れる事もある。
もう一人の灰色のローブの魔術師は昔から時折見かけるので、あの元騎士との間に何か関係があるのは明らかだが、もう一人の客人は初めて見た。
てっきり、隠れ家的な工房だと思っていたが、あのような客を招く事もあるようだ。
「…………やれやれだな」
そう呟き、こちらも朝食の準備に取り掛かろうかと、厨房に立った。
あの男ではないが、この辺りの森ではいいキノコが採れる。
だが、そちらと被るのも癪なので、今朝の料理はもう少し別のものにして、押し麦とチーズのリゾットに、野菜のスープくらいでいいだろうと頷いた。
手をかけた料理を作るのは苦ではないが、今日は、忙しい一日なのだ。
その時、こつこつと扉がノックされ、眉を持ち上げた。
こんな時間に客は珍しいが、決して客人がないという訳でもない。
だが、扉を開けにゆき、その向こうに立っている人物を認めると、目を丸くせざるを得なかった。
「アル………お隣の魔術師さん、オレガノを分けていただけませんか?」
「…………裏に菜園がある。好きにしろ」
「すみませんね、彼女が、どうしてもあなたなら分けてくれると…………」
そこに立っていたのは、先程の少女だ。
当然のように一緒にいるクライスに、お忍びで工房を構えているらしい領主は、この男を彼女に付けるくらいには信用しているのだと知った。
その返答を聞くと笑顔になったウィームの歌乞いは、なぜか満足気に拳を握り、お辞儀をする。
「有難うございます。こちらの備蓄が、どこかの妖精さんに食い荒らされてしまっていたのです。いつか、このクライスさんがお礼に伺いますね」
「弁えた収穫であれば、礼は必要ない」
「ふふ、優しい魔術師さんですね」
「キュ…………」
無言で扉を閉めたのは、そこまでの会話で事足りるだろうと思ったからだ。
必要以上に関わり、時間を無駄にしたくない。
「お嬢さん、足元が悪くなりますので、手を繋ぎましょうか」
「あら、このくらいは何て事はありません。さて、オレガノをいただいてゆきましょう」
扉を閉め、そんな会話が聞こえてくる事に顔を顰める。
だが、ふうっと息を吐いて朝食の支度に戻ると、今度こそ聞き捨てならない会話が開いた小窓から聞こえてきた。
「今度、また俺の工房に遊びに来ませんか?」
「む。…………今日はなかった、パテがあるのです?」
「ええ。お作りしますよ。お嬢さんがいると、食事が楽しいですからね」
「…………むむぅ。私が今迄振舞われてきた手料理の中では、一位か二位というくらいの腕前なのです。ですが、いささか言動が胡散臭く…………」
「はは、相変わらず率直だなぁ。であれば、今度はグラストやアレクシスと一緒でもいい。長らくこの地で一人で暮らしていたので、人恋しくてね」
(…………おい、街に出ては片っ端から女達の間を渡り歩いているだろうが)
「むむむ………」
「キュ」
「ディノも一緒で、必ずというお約束は出来ませんが、ご縁があればでもいいですか?」
「お、もう一押しだな。これから、秋の系譜の鴨も美味しい季節ですよ」
「鴨………じゅるり」
「それに、昨晩こちらに泊まって、居心地は良かったでしょう?」
「そ、それは否定出来ません。ふかふかの寝具に、ヴァーベナやラベンダーのいい香り。おまけに、お食事が素晴らしく美味しいのです………」
「秋鮭のパイもいいですね。俺一人だと、食べきれないかもしれません。誰かが一緒に食べてくれるのなら、幾らでも焼くんだけれどなぁ………」
「パイ様………」
そんな会話は、オレガノを収穫したのかすぐに遠のいてゆき、また工房に朝の静けさが戻ってきた。
柔らかで清廉な朝日は澄んでいて、ひんやりとした空気に、ふくよかな森と香草類の香り。
瑞々しい果実は捥いできたばかりで、何も考えずに静かに朝食の準備を進める。
やがて、一人で朝食を済ませると、カードを取り出してメッセージを書き入れておいた。
それをいつ見るかは分からないが、あのやり取りの後であれば、そう遠くない内に開くだろう。
“いいか、元はリーエンベルクの騎士とは言え、あいつはお前の手には負えん。面倒事に繋がりかねない余分を増やすな。パイが欲しければいくらでも焼いてやる”
ペンを置き、椅子から立ち上がると、眼鏡を取り出して前髪を上げる。
これから、採取してきた水薬の階位上げと調整、更には昨晩の内に採取した材料の加工が待っている。
ふと、あの黒髪の隣人が、薬の魔物と呼ばれていた事を思い出した。
それは通り名に過ぎなかったが、魔物の薬にも劣らない薬作りが出来るからと、そのような通り名を得たのだ。
ウィーム中央の医師会に設備の整った薬院があり、薬師たちの教育が行き届いているのはあの人間の功績だろう。
あれ程に大きな都市であればもう少し多くてもいい筈の本物の薬の魔物が少ないのは、そこに至るまでに症状を重くする患者が少ないからだ。
とは言え、ウィーム旧王都に暮らすような人間達が、魔物の薬を必要とするような事がそもそも多くない。
あのスープ屋然り、あのパン屋然り。
様々な料理やそこに付与される目を剥くような魔術が、事前に多くの事を防いでいるのだ。
(研修か、顔合わせのようなものだろうな。あいつが採取してくる木の実や、どこからか毟ってくる草木には貴重な物が多い。一度しっかり基礎を学ばせておけば、より効率的な材料集めになるだろう。その為の講師としては、同じようなものを扱い慣れた人物がいいのも分かる。…………ダリルあたりの入れ知恵か…………)
だが、こちらにもこちらの領域というものがある。
あまりそこに踏み込まぬよう、ある程度の釘は刺しておこう。
シルハーンがそれをしないのは驚きだが、仕事の範疇だと考えているのか、クライスを気に入ったのかどちらかだ。
そう言えば以前、あの男は自分の作るグヤーシュはウィーム一だと豪語していた。
小さく溜め息を吐き、作業に意識を戻す。
今日は、忙しい一日なのだ。




