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177. お迎えは離しません(本編)





お粥を食べ終えて暫くすると、ぐっと部屋の温度が下がった。


これはまさかと思いアルテアの方を見ると、微かに頷く気配がある。

ネアは慌ててエーダリアに体を寄せ、大事な家族が攫われたりしないように、柔らかな布紐などで繋いでおくべきかどうか悩んでしまった。



「しかし、リア様を紐で繋いでおくのは、安全の為とはいえちょっと…………」

「やめてくれ…………。この部屋はきちんと遮蔽されている。安全なのだからな?」

「とは言え、アルテアさんもいるので用心しておかなければいけません」

「ほお、お前が事故りかねないからか?」

「事故率としては、私より高い方なのですよ。例えば船から下りてくるのがボラボラの亜種だった場合は、…」

「やめろ」


ネアはここで、お腹の部分がぐいんとなってしまい、急に浮いた足をばたばたさせた。

なぜか唐突に床から引き離され、アルテアに背後から抱えられたようだ。


「おのれ、ゆるすまじ。私を床に解放するのだ」

「まったく、そうやって見せびらかすのはよくありませんよ。ねぇ、レイノ?」

「アンセルム神父に賛同するのは癪ですが、理由はともかく、私を解き放つ事を推奨します」

「アンセルム、静謐の魔術は感じないな?」

「…………おや、…………静謐に近しい魔術の歪ですね。ですがこれは、…………休符や断絶に近いですよ」

「悪音かマルビージャだな」

「あくね…………?」



ネアが、それは何だろうと抱えられたまま首を傾げると、正面のエーダリアの顔が青ざめているのが分かった。


部屋の中も勿論カーテンが閉められているので、シャンデリアの明かりが灯っている。

それでも、カーテンの隙間から漏れる青白い光が、その向こうで何が起きているのだろうという不安を掻き立てた。



「リア様…………?」

「悪音は、音階の災いだ。一度だけ、………私が着任する前に、ザルツにその一人が現れた事がある。当時救援に向かったリーエンベルクの騎士の三人が命を落とし、その時代のザルツ伯もそこで代替わりした。人間にだけ障る音楽の系譜の災いなのだそうだ」

「………音楽」



音楽と言えば、ディアニムスで素晴らしい一日を過ごしたばかりであるネアは、そうして音楽の系譜の持つ負の面にも触れてしまうのだろうかと、残念に思った。


ここから一年間くらいは、音楽と言えば素敵に心を弾ませるあの演奏会を覚えていたかったし、イブメリアの歌劇場に行くのだって楽しみなのだ。



「音楽といっても、悪音は無音の障りなんですよ。何しろ、音楽の魔術に長けていたとある一族を、その土地を侵略した大国の王が、異教徒として粛清した事で生まれた災いですからね」

「もしかして、それがカルウィなのでしょうか?」

「ああ。あの国に残る災いの一つだ。船でやってくる異形達は、カルウィの沿岸部に残る障りの詰め合わせだからな」

「何という嫌な詰め合わせなのだ…………」



うんざりとした低い声を出さずにはいられなかったネアに、アルテアが簡単に説明してくれた。


カルウィの侵略や殺戮の歴史の中では、勿論、虐げられた者達から災いや障りが多く生まれた。

その中でも、国を脅かす程ではないが国家としての対処が必要なものは、こうして取り纏めて一つの土地で鎮める事がある。



このクムの港は、交易の要としての華やかな役割と同時に、災いを鎮める為の儀式祭壇としても成り立っているのだそうだ。


人々の出入りが多く、使い捨てされるような奴隷達も多く働く港町では、このあわいのように儀式の贄に出来る者も多い。

本当はそんな事は許されないのだが、カルウィの人々はそう考えるのだ。


絨毯の織り手は、国の重要な交易品の作者であり、儀式を管理する祭司でもあるらしい。

様々な織り模様には、それだけ数多くの術式が必要とされ、織り手達はそれを学んだ歴史的な背景があるのだった。



「つまり、あの船には、色々な厄介なものが乗っているのですか?」

「いや、毎回船から降りてくるものが違う。今回は、悪音かマルビージャだろう。どちらも静謐や沈黙を前兆として持つ災いだ」



因みにマルビージャは海の怪物の一種だが、いつかの時代のカルウィの王族が、殺して食べてしまった。

ただの魚だと思ったという理由なのだが、その怪物は殺されてから障るようなものだったらしい。


毎年その日になると陸に上がってきて、自分を殺した王族が船に乗せていた従者の数だけの人間を食べてゆく。

殺した筈の怪物の亡霊を討伐すると海に出た王族は、二度と戻らなかったそうだ。



「その王族は、最もしてはならない事をしたのだな」

「ああ。そいつに、絶対に与えてはいけない贄を与えたようなものだ。障りの原因となった人間を取り込めば、その障りは大きな力を得る」

「海のものですしねぇ。レイノ、海の住人達には、死後も亡霊のように現れるものがいます。彼等は、自分を傷付けた相手を殺す事で、大きく階位を上げる事が出来るんですよ。まぁ、変質して狂う事を覚悟でしか成せない魔術の段階変化ですが、一定の区分で殺されたものたちは大抵挑みますからね」

「ふぁ。………海の生き物を滅ぼす場合には、気を付けて挑みますね…………」

「人型の生き物や、元々が健やかで美しい生き物はあまりそうはならないな。狂乱や悪変を恐れる本能が、どこかで働くんだろう。お前の場合、海を狩場にする場合は用心しろ」


ネアはここで、悪音とやらはカルウィだけではなく世界中に現れるのかなと首を傾げ、アルテアから、ごく稀に縁のある品物や魔術などを持ち込まれ、本来の障りを記す土地の外側にも現れる事があると教えて貰った。


なお、その時にザルツに現れたのは、当時のカルウィ王族がザルツ所有の楽器を欲していたからだと思われる。

即ち、人為的に呼び込まれたのだ。



「…………悪音は、音楽の系譜の障りや祝福を持つ人間を好む。マルビージャは、王族の血筋を好む。俺が、何を懸念しているか分かるな?」

「………ああ」

「…………ぎゅむ?」

「遮蔽はおおよそ完全だが、獲物を狩りに行く道筋は確認しておいた方がいいだろう」



そう呟き、指で頭痛を宥めるように目頭を揉むと、アルテアは窓辺に歩み寄った。

まさかと思っていると、どこからか取り出した杖で床を叩き、見えない何かを施すと、カーテンを少しだけ開けてしまう。



「…………開けてしまって、大丈夫なのです?」

「いきなりここまで這い上がって来れるような連中じゃない。動力としては、生前とさして変わらないからな。行先を確かめておいた方がいい」

「……ふぁい。………リア様と手を繋いでおきますね」

「あ、ああ…………」

「あれ、どうして僕とは手を繋いでくれないんですか?」


悲し気にそう訴えるアンセルムに無言で首を横に振っていたネアは、ふと、僅かに開き、アルテアが外の様子を窺う窓の向こうに、何か異様な者達の気配を感じたような気がした。




(…………あ、)




霧の這う石畳の道を、長い服裾を引き摺って歩く者達がいる。



その全ての輪郭は黒一色で塗り潰され、ネアはなぜか死者の国の花売りを思った。


すらりと背の高いその者達は、全員が女性のようだ。

長い髪に、大きく翼を広げたモチーフを集めて作った冠のようなものをかぶり、どこか身分の高い聖職者の装いのような服裾を長く引き摺っている。

手に持っているのは錫杖だろうか。

顔は、翼の形をした冠から下がったヴェールで隠されていて、皆が同じ姿勢をしてゆっくりと歩いている。


ぎぃぎぃと、どこかで鳥の囀りのような音がしたが、女達の声ではなさそうだ。

ネアは、捻じれて重なる翼の形をした冠が、何で出来ているのかは考えないようにした。



(っ…………、)



ふと、その女達の爪先が、こちらに向いたような気がした。


ぞっとして息を詰めると、じわりと足元に滲み出す不思議な青い泉がある。

それは、凍える冬の湖にも似た清廉で冷たい色をしていて、はらはらと白い薔薇の花びらが舞い落ちた。

不思議と足や靴は濡れず、けれどもひたひたと満ちてゆく。



(…………何かが、後ろにいる)




風にたなびき、背後から視界の端に入る長い白い髪は、ディノのものだろうか。

そう考えると安心する筈なのになぜか、ネアはそれがディノではないような気がした。


だが、ネアの背後にいる誰か、或いはそんな形を模した何かを見た途端、鳥の翼の冠の女達は、こちらに向かいかけた事など忘れたように、ネアには見向きもせずにどこかに向かってゆっくりと歩いていった。



「…………レイノ?」

「………む。………エ………リア様?」

「大丈夫か?顔色が悪い。………何か温かい飲み物を用意しよう」

「………今、真っ黒な女性達を見たような気がしたのです」

「……っ、まさか…………」



息を呑み慌てたように顔を上げたエーダリアが、ふっと表情を和らげる。

その視線が後ろに向けられた事を確かめたところで、ネアはまたしても、背後からひょいと持ち上げられて誰かの腕の中に収められてしまった。



「ぐぬ。捕獲の際には、事前に承認を得て下さい」

「なんでだよ」

「そして、アルテアさん。何か不思議な幻か夢のようなものを見ましたが、…………私が見たのは何なのでしょう?」

「鳥輪の冠をかけていたか?」

「は、はい。広げた鳥の翼を幾つも重ねたような、不思議な冠をかぶっていました」

「悪音で間違いないな。お前が見たとなると、やはり、こちらには気付いているか。本来は、この程度の術式で鎮められるようなものじゃない。遮蔽が完璧だとしても、あれは音で感知するからな。…………どんな様子だった?」

「なぜか、私の後ろを見てからはこちらに注意を向けなくなり、私などいないように通り過ぎてゆく。そんな感じがしたのです」

「………そちらも、やはりか。………安心しろ。お前に重ねてかけられた……守護の類が、あいつらとは相性が悪い。もう二度と、お前に近付く事はないだろう」



そう言って頭を撫でてくれたアルテアに、ネアは、むぐぐっと眉を寄せる。

アルテアはこちらを一度見て納得したようだが、その理解と安堵までがあまりにも平坦で気になったのだ。



「………もしかしてアルテアさんは、カーテンを開ければ私があのようなものを見ると、分かっていたのではないですか?」

「………かもしれないな。その上で、お前の領域には入れないと判明した。これで、目を離した隙に片っ端から事故るお前の、事故要素が一つ潰せた訳だ」

「ぐるる…………」

「だが、……それは、見たり感じたり、………知覚する事で障るものではないのか?」


そう尋ねたのはエーダリアだ。


「多少は影響があるだろうな」

「アルテア…………」


思わず声を硬くしてしまったエーダリアを、アルテアは温度のない眼差しで一瞥する。

そんな視線に僅かに体を強張らせたが、エーダリアは、それでも目を逸らさなかった。



「………その反応があるのだとしても、俺が、こいつに触れさせる訳がないだろうが」

「であるのなら、いいのだ。だが、忘れないでやってくれ。ネ………レイノは、可動域が九しかない。もしもという事もあるだろう。それに、恐怖は防げなかった」

「当然だ。こいつの可動域が土筆程度しかないのは分かっているぞ?」

「ぎゃふ…………。公開処刑です」

「ほら、レイノ。意地悪なアルテアなんて見限って、僕のお嫁さんになりませんか?」

「既婚者なのでお断りします」

「ははは、冷たいなぁ」



海の向こうからやって来た災いは、この宿の近くの宿舎に入って行ったそうだ。


振り返ると既にカーテンは閉じられており、その後は何事もなく、金庫の中に隠し持っていた紅茶などを飲んでいる間に災いの滞在時間が去ったらしい。


明らかに先程より明るくなったカーテンの隙間からの光に顔をあげれば、気温もぐっと上がった気がする。

例えば、先程までが毛皮のコートの必要な冬であれば、今は、上着のいらない初秋くらいの気温だろうか。



「よし、部屋を出るぞ。次の店で、階位を規定値まで上げる」

「はい。もう、何人たりとも、私の大事な絨毯には触れさせません。リア様の絨毯にもです!」



足止めしていたものがいなくなれば、ここから先は時間勝負だ。


災いが贄を得た後の土地は、鎮めの儀式が成功したというばかりではない。

一拍置いてから、喪われたものの怨嗟や絶望が現れるので、この後の半刻程で、土地の魔術の質ががらりと変わるらしい。



「そうなると、もう一度遮蔽籠りだ。今度は、夜明けまではかかるぞ」

「それは困ります…………」

「土地の魔術基盤への影響が出るのが早いのだな…………」

「こういう土地だからな。加えて、海辺の儀式は反応が早い」

「ああ、嫌だ嫌だ。折角仕事から離れているのに、あちこちに終焉の気配がありますね」



ネア達は素早く部屋を後にすると、霧が晴れたばかりの街に出た。

ネアはなぜかアルテアに抱えられたままだが、じたばたしても下してはくれなかった。



(でもこのような場合、先を急ぐからと部屋をそのままにして出て行ったりはしないのだ)



そんなところが意外で、ネアは、ふむふむと頷いてしまった。


長くを生きる人外者達は、この先も残るであろう土地では、ある程度常識的に振舞うようだ。

もう二度と来る事はないと思っても、またその場所に招かれてしまう事もあるだろう。

その際にまた使える貴重な選択肢を潰すような事はせず、不必要な禍根は残さない。


そんな一面を知れば、ネアはまた、実際に生きている人ならざる者達の生活を垣間見る思いである。


前の世界の物語本で見た人外者は、高位の生き物らしい高慢さで、こんな場合は部屋から忽然と消えていたりするものだ。

残り時間が分からなければアルテアやアンセルムもそうしたかもしれないが、今回のように、残された時間が分かっていて、手順を踏んでチェックアウトするのにさして手間がかからない場合はそちらを取るのだろう。


理由を考えれば、ただただ普通の事である。



「…………あちらの通りは、穢れが酷いな。となると、ギルメの店か…………」


そんなアルテアの呟きに視線を巡らせると、真っすぐに行った先で交差する大通りの石畳が、雨でも降ったかのように濡れているのが見えた。

霧が出たからかとも思ったが、こちらの通りはどこも濡れていない。


特に臭気はなく、建物が壊れていたりもしないようだ。

だが、通りに出た人々の表情には、僅かながらの疲弊が見えた。



「………痕跡が残るものなのですね」

「不思議なのだが、このような場合は往路の痕跡は残さない事が多い。なので、あちらが帰り道なのだろう。贄などを出した場合は特に、帰り道の方が穢れが残りやすいものなのだ」


目を細め、どこか痛ましげな眼差しで、エーダリアも向こうの通りを見ている。

おっとりとした優し気な微笑みと神父服から想像も出来ないくらいに、何の感慨もなさそうにそちらを一瞥しただけのアンセルムは、これ迄に幾らでも凄惨な終焉に触れてきた死の精霊だった。



石畳を鳴らして早足で歩き、アルテアは、まるでこの街を知り尽くしているかのように細い路地を抜ける。

ネアは、使い魔な魔物な乗り物の上から、急に賑やかになったクムの街を眺め、目を瞠った。



(ああそうか…………)



暫くすると土地が荒れると言うが、住人達も、この隙に買い物や所用を済ませようとしているようだ。



そんな街を抜けて一つ角を曲がり、細い路地に入ると、どこまでも連なる絨毯屋が品物を店先にも並べているせいで目が回るような色彩の洪水となった道に出る。

細い道の両端にぎっしり店の入り口を詰め込んであるようで、何も知らずに訪れたなら、一体どの店に入ればいいのかと途方に暮れていただろう。



エーダリアも圧倒されたように目を瞬き、あまりにも情報量の多い細い道に周囲の警戒が及ばなくなったものか、慌ててこちらとの距離を詰めている。

ネアは、さっと手を伸ばしてそんなエーダリアと手を繋いでしまい、アルテアから、歩き難いと怒られる羽目になった。



「とは言え、アンセルム神父に、リア様を抱っこして貰う訳にもいきませんし…………」

「はは、嫌だなレイノ。僕は絶対に嫌ですよ」

「レイノ?!」


愕然とした表情でエーダリアがこちらを見たが、ネアも、絶対にここで家族を行方不明になどしたくないのだ。

ではどうすればいいのだろうと途方に暮れていると、アルテアが僅かに息を吐いたように体を揺らした。



「………魔術で足元を繋いでおいてやる。いいか、一つ貸しだぞ」

「まぁ、では、通りに潜む悪いものを、最初に一網打尽にしておくという作戦はなしですね」

「…………いいか。絶対にやめろ。土地を悪変させるつもりか」

「大袈裟ですよ。ちょっと綺麗にしておくだけのつもりなのですよ?」

「僕の勘が当たっていれば、レイノは大量殺戮を企んでいませんか?」

「あら、時として人間は、何かを守る為に大きな決断をする事もあるのです。ですが今回は私も、現状はまだ罪のない生き物達を滅ぼさずに済みました。このまま、我々を脅かさずに健やかに生きてくれる事を望むばかりです」

「………レイノ、私も自分の身は守れるのだ。少し落ち着いてくれ」

「むぅ。あの看板の影で舌なめずりしている牙だらけのお口のにゃんこのようなものに、きり………可愛い絵柄のボールを投げてあげるのも駄目ですか?」

「いいか、絶対にやめろ。あれは、余程の隙でも見せない限り人間は食わん」



アルテアがそう言うので、ネアは、じっとその獣の瞳を見つめ、手を出したら尻尾を引っこ抜くぞという脅しを視線に込めてみた。

すると先程まで舌なめずりしながらこちらを見ていた猫型の獣は、ぎゃんと悲鳴を上げてどこかに走り去ってゆく。



「ふう。何を恐れるべきかを理解出来る、賢い獣でしたね!」

「レイノ、………あなたの可動域で、どうしてそんな事が可能なんですか…………」

「ふむ。このような場合は、あのような獣さんはアクス商会に幾らで売れる素材になるのかを考えるのですよ。ふかふか毛並みの毛皮生物は見逃しますが、あやつは、ちくちくしそうな感じの毛皮に見えましたものね」



しかし、その時はふんすと胸を張りそう説明したネアはなぜか、アルテアのお目当てだという絨毯の専門店で、ちくちく毛並みを撫でる羽目になっていた。



「…………あんまり」

「いいか、その絨毯だけで屋敷が一つ買えるくらいなんだぞ。何だその顔は」

「お外で暮らす獣さんらしい油分を感じる、短毛種の獣さんのちくちくざらりな毛皮風です。織り模様は素晴らしいですが、………これなのです?」

「アザラシの妖精の毛皮と、絨毯の織り模様を置換したものだからな。絨毯の領域を超えるくらいに、家守りの守護がしっかりとかかっている」

「………裸足で踏むというよりは、土足でも受け止めてくれる系でしょうか」



ネアは、アルテアのお勧めの絨毯がたいそう不満であったが、とは言え、カルウィなどの文化圏では、絨毯は生活の一部だ。


家族の団欒の部屋に敷いて皆が座るようなものもあれば、このくらいに丈夫な絨毯も好まれているのだろう。


つやとろの手触りを贔屓してしまうネアは納得のいかない思いでも、高価なのは間違いなさそうだ。

であればここは、己の嗜好はさて置き、階位を上げるために購入するべきだった。



「でも、……少し意外でした。アンセルム神父も、絨毯などの目利きが出来るのですね」

「あの連中が、何度無残に取り残された宝物庫を見ると思うんだ。国民の全てが死に絶えた国の王宮や、戦で落とされる宮殿を訪れる事もある。略奪で空になった後の事も多いが、大抵の場合は、死者の行列に蹂躙される場所には、まだ生活や繁栄の痕跡が残されていることが多い」

「そう言われてみると、世界中を仕事場にしている方達なのですものね。………む、リア様が何かを買っています」

「………ったく。あれは私物だな」

「分かるのですか?」

「階位上げには向いていない。それくらいの事は、あいつでも分かる筈だ」


アルテアにそう言われて歩み寄ると、エーダリアは確かに、ぎくりとしたようにこちらを見る。

ほんの少しだけ距離を開けただけなのに、ウィーム領主は、あわいのお土産を見付けてしまったらしい。



「まぁ、………綺麗な織り模様ですね。森と湖でしょうか?」

「ああ。それに加えて宝石の模様もある。この織り柄であれば、持ち帰っても問題はないからな。………何の希少な魔術も宿していないが、ただ美しい」

「ふふ。これでリア様も、私の仲間ですね?」

「ああ。………こうして心を動かされる事もあるのだな」


ネアには、どうしてエーダリアがその絨毯を購入したのかが、分かるような気がした。

青緑と深い青色をふんだんに使った絨毯は、どこかヒルドを思わせる意匠なのだ。

そう思ってしまったら、買わずにあわいの店に置いてゆくことは出来なかったのだろう。

ネアだって、ディノを思わせる絨毯があればそうする。


「それにしても、アルテアさんの事なので、持ち込んだ絨毯で簡単に済ませてしまうのだとばかり思っていましたが、もう一度お買い物をするのですね」

「階位だけ上げ切っても、許可証を発行する役人の心象もあるからな。土地の絨毯も使っての階位上げの方がいいだろう」

「むむむ、また一つ新しい知恵を得てしまいました」

「おい、事故前提の納得になってるぞ」

「なぬ…………」



ギルメの店は、ギルメという伝説の商人の名前を借りた老舗絨毯屋だ。

結局のところネアは、その店で、黒と紫紺の織り模様が美しい小さな絨毯を買った。

こちらは最初にアルテアが勧めた絨毯よりも艶やかで柔らかい手触りで、手織りで作られた高価な物だ。

偶然目に入ったのだが、なかなかの掘り出し物のようで、手放すのは惜しいなとアルテアが考え込んでいた。


エーダリアは、淡い灰色に赤を中心とした色鮮やかな起毛模様のある絨毯を選んだ。

これは、シルクと雪夜牛の毛を混ぜて織り上げた絨毯で、見る角度によってそれぞれの糸が違う光を孕む。

ネアの選んだ毛足が均一な絨毯とは、織り方の技法自体が違うものなのだという。


アンセルムは、細やかな幾何学模様が花びらを振り撒いたように見える黒い絨毯を選び、アルテアは艶やかな青色に白金色と灰色で精緻な模様が織り込まれた、一見地味に見えるがよく見ると目が痛くなる程に手の込んだ絨毯を選んだ。

そこにアルテアの持ち込んだ絨毯の鑑定もかけ、ネア達が二軒目のお店で買った絨毯も売り払い、取り引きの仕上げとする。

買い上げだけでなく、売る事でも階位を上げられるのだと初めて知り、ネアはほほうと目を細める。



領収書を見ると、最終的にはネアの階位は二百となっていた。

目をごしごししてもう一度見たが、やはり二百となっている。


「初めて三桁の評価に出会いました。なぜでしょう。この肩書きを失いたくありません」

「馬鹿な事を言ってる場合か。さっさと役所に向かうぞ」

「リア様は七十九で、アンセルム神父は六十八なのですね……………」

「いいですか、レイノ。あなたの引きがおかしいんです。リア君の絨毯も、結局はあなたが選んだじゃないですか」

「あら、私は、あの棚の絨毯は変わっていて面白いですねと話しただけなのですよ?」

「絨毯鑑定の祝福でも持っているとしか思えませんね…………」

「あまりぐっとこない祝福です………」



アルテアの階位は幾つになったのか教えて貰えなかったが、ここでの階位は街を出ても維持出来ると聞けば、今回の取り引きの証書は大事に保管しておこう。

もし、何かの縁があってまたこの街に迷い込んだ場合にとても役に立つ。

案外アルテアも、何回かここを訪れ、階位を上げ続けているのかもしれなかった。


(宿を出る時に、一人利用者が増えて居た筈なのに、アルテアさんが何かのカードのようなものを見せたら、従業員の人は何も言わなかったから……………)


多くの自由が利く特権階級の証のようなものなのだろう。

そう考えれば、アルテアが始まりの店の店員と懇意にしていても不思議はない。



この後はまず、階位に応じた許可証や証書を発行してくれる役所に向かう。

だが、そこは役所と聞いて想像していたような場所ではなく、簡単な出張所のようなところで、手続きは簡単に済んでしまう。

呆気にとられるくらいに簡単に済んでしまった事務手続きだったが、このあわいでは、何しろやはり、絨毯から得られる階位が全てなのだ。


その証書代わりになる領収書が直近の日付で発行されているのであれば、審査などもせずに済むらしい。



「いいか、覚えておけ。こういう商人の街は、時々、新しい規格で既存の価値が一瞬にして塗り替えられる事がある。必要な物や書類は、条件が揃ったらすぐに手に入れておけ」

「はい。そうしますね。なのでアルテアさんも、手元にある絨毯を売りに行くよりもこちらの手続きを先にしたのですか?」

「そのようなものなのだな…………」


思わぬ知識に、エーダリアも頷いている。

そのような事が起こりかねない場合の前兆など、アルテアのもう少し専門的な説明をこっそりメモを取っているので、これは覚えておきたい事なのだろう。

そして、許可証を手に入れて終わりだと思うだろうが、ネア達にはまだ、最後の取り引きが待っていた。



階位上げの為に購入した絨毯には、アンセルムとエーダリアの会話にあったように、持ち帰れない図案の物がある。

特にネアとエーダリアの絨毯は、どれだけ素晴らしい物でも品物自体を欲した訳ではないし、そもそもがカルウィの意匠の絨毯であった。

ウィームに持ち込んでも使える物ではないので、ここで手放してゆくのが、絨毯の為でもある。



そうして、最後の店で手元にあった不要な絨毯も売ってしまい、ネアは、戻って来たお金に少しだけほっとした。


アルテアはネアの持っていた紫紺の絨毯を持ち帰るかどうか少し悩んでいたが、不要な縁を繋がないように、ここは一度購入を見送るらしい。

最後の方の取り引きは、アルテアがエーダリアの分も合わせて支払いをしてくれたが、最終的には動かしたお金の殆どが戻って来てネアもほっとする。


こちらの取り引きや品物には何の瑕疵もないが、やはり購入してすぐ手放すという査定では少し金額が下がってしまうのだ。

差額分は支払うとエーダリアが生真面目に申し出ていたが、アルテアはいらんと返していた。


ネアは、とは言えリーエンベルクに滞在するときには食事をしているので、そのくらいは気にしなくていいのではないかなと、エーダリアの背中をぽんと叩いておく。



「ヒルド!」


ディノのカードに一報をいれておいたからか、出口のすぐのところに、ヒルドが待っていてくれた。

ノア特製の擬態をしているからか、背中には妖精の羽がなく、少しだけ身長も高くなっているようだ。

ヒルド自身も長身ではあるのだが、種族的により長身である魔物の規格に寄せた擬態なのだろう。


入り口と同じように、出口からも深い森になっているが、森のこちら側には怪物はいないのだそうだ。


エーダリアを見てほっとしたように表情を和らげたヒルドは、そのまま、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきたエーダリアを抱き上げてしまった。

エーダリアは茫然としているが、やっとこれで攫われなくなったぞと安堵したネアは、胸を撫で下ろす。


「…………気を揉みました」

「あ、ああ。…………そのだな、……………その、下ろし……」

「やれやれ、今回はあまりレイノと過ごせませんでしたね。そろそろ僕も帰るとしましょうか。レイノ、最後に僕を抱き締めて、別れを惜しんでもいいんですよ?」

「さようならです」

「何の感情もない!」

「さっさと帰れ。ナインには、お前が持ち場を離れている事は、伝えてあるからな」

「…………はは、威嚇しますねぇ。……………では、今度は、絶対にアルテアの目の届かないところで会いましょうね、レイノ」



アンセルムは最後に何か言っていたようだが、ヒルドにそっと頬に触れられ、くしゅんと心を安堵に緩めていたネアにはよく聞こえなかった。


「ご無事で良かった……………」

「ふふ。エーダリア様が一緒でしたので、心強かったのですよ。…………その、お祝いの夜には間に合うでしょうか?」

「ええ。充分に間に合いますよ。今回の事件の犯人も、既に回収されております」

「ディノから、ジュリアン王子ではなかったと聞いたのですが、…………その、悪い精霊さんはスープにされてしまったのです?」

「そうですね、四分の一程は。ですが、残っていた部位と共に、私とダリルが聴取を終えまして、既にバンル達に返還されております。商人の系譜の精霊だったようですから、あちらでの処分が妥当でしょう」

「ほわ、…………あちらの会に」

「ギルドのことか?」


恐れ慄くネアに、エーダリアは不思議そうな顔をするではないか。

ネアは、それは、数ある組織の中で最も恐ろしい会なのだと言いたかったが、今日はお誕生日なので血生臭い話は控える事にした。



「…………さぞ恐ろしい思いをしているのかと思いましたが、楽しんでこられたようですね」

「ヒルド………。その、最後はアルテアも来てくれたので、お前とノアベルトにも土産を買ったのだ」

「やれやれ、あなたという方は…………」

「そして、…………どうかもう下してくれないだろうか。先程の精霊ももう立ち去ったし、後は、リーエンベルクに帰るだけなのだろう?」

「その最後でもしもがあるといけませんので、暫くは我慢下さい。アルテア様も、そうなされているでしょう?」

「い、いや、ネアとは違うだろう。ヒルド!」




勿論、ヒルドは最後までエーダリアを離さなかったので、お帰りと迎えてくれたノアは、目元を染めたままヒルドに持ち上げられているエーダリアを見て、にやりと笑っていた。

ネアは、待っていてくれた伴侶の魔物にぎゅうぎゅうに抱き締められ、木蓮の絨毯の事をアルテアに伝えてくれたお礼を言う。


その晩、ネア達は勿論、力いっぱいエーダリアの誕生日をお祝いしたし、ちびころなる幸せな光景も生まれた。



だが、特筆するべきは、エーダリアの会の会員達が、絨毯の精霊を煮込んだスープから抽出した、絨毯の祝福を花火にして打ち上げてしまった事だろう。



綺麗な花火を見られたのは嬉しかったが、犯人の処刑でもあると思えば、ネアは複雑な思いになる。

とは言え、ウィーム中央の領民達は、良い絨毯を得られる祝福を喜んだようだ。

だがネアとしては、その喜びの中には、大事な領主をよりにもよって誕生日に攫った精霊が滅びた事を祝う、領民達の歓喜と安堵の思いも入っていると思っている。


後日、エーダリアには絨毯の精霊の一族から、謝罪の手紙が、そしてネアには、あなたの担当よりという差出人名前で、始まりの店で見たステンドグラスシリーズの絨毯が届いた。

ノアが綺麗に繋ぎを取り払ってくれたが、元々、問題になるような魔術は付与されていなかったそうだ。


添えられた手紙には、良いお客様との出会いの記念にと優美な文字で書かれており、ディノが荒ぶったのは言うまでもない。

その事を伝えられたアルテアには、なぜか頬っぺたを摘まんで伸ばされただけではなく、秋告げの舞踏会への参加を禁じられてしまった。


代わりに、秋の系譜の別の舞踏会に連れて行ってくれるらしいが、経緯を踏まえると、あの店員はどうやら秋告げの舞踏会に入れるような御仁なのだろう。



「夜の魔術の系譜を感じたな。そちらの領域の者だろう」


そう教えてくれたエーダリアに、ネアはもし今度ミカに会う事があれば、知り合いにそのような人物はいないか聞いてみようと思っている。









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