25. それは秘密の夜でした(本編)
「ネアが可愛い…………」
その夜、ネアはすっかりべったりくしゃりな、またしても抵抗値が下がってしまった魔物を羽織りながら、沢山の任務をこなしていた。
ディノはアンセルムと会っており、少し遅れて合流したからかご主人様に会える時間が減ったとめそめそしている。
ここにいる現在、肉体は眠っているそうなので肉体疲労は重ならないが、ネアは、魂の睡眠不足という非常に高度な問題について考えなければならない。
「…………まさかの、魂の状態でドレスの採寸をされるとは思ってもいませんでした。そして、シシィさんがご主人同伴で来たのは、使い魔さんがいたからでしょうか」
なぜ夢からいつもの厨房に繋がり、そこにディノ達だけではなく、シシィ達までがお邪魔出来るのかは謎だが、今回の仕掛けの工夫は郭公という生き物の事件の際に閃きを得たものであるらしい。
それ以外でも、ネアが心の裏側という謎めいたところに滑り落ちた事があり、そうして動作確認されている経路を使ってネア本来の魂をこちらに避難させている。
そんなネアの言葉に顔を上げたのは、先ほど魂の健康診断という謎めいたことをしてくれた魔物だ。
「あれは別の理由だ。ルグリュー経由でウィリアムにも確認が取れるからな」
「…………私の周りに、ウィリアムさんに確認を取る必要があるような、困った事が起きているのですか?」
「さぁな。…………それにしても、よく知りもしない相手の作ったものを食い過ぎだぞ」
「記憶のない状態のか弱い乙女に対し、その規制は厳し過ぎるのではないでしょうか…………」
「お前の警戒心の強さはどうしたんだ。言っておくが、余分を増やす余裕は一欠片もないからな」
顔を顰めたアルテアにそう言われ、ネアは、潜入調査という体力勝負な現場において、美味しい食べ物を禁止しようとするのは何という仕打ちだろうとぐるると唸る。
「まぁ、繋ぎはばっさりだからさ、安心して食べていていいよ。彼がどれだけ僕の妹に食べ物を与えても、アルテアと僕で構築した魔術の受け皿に零れ落ちて、剥がす時に捨てるだけだから」
「……………未だにちょっと良く分からないのですが、それはまさか脱皮的な……………?」
厨房のテーブルには、ノアも座っている。
実はエーダリアとヒルドも来ているのだが、その二人は今、ダリルと厳しい面持ちで議論を交わしていた。
今回の任務において、ネアは魔術的に一枚着ている状態なのだそうだ。
その防護服で敷かれた魔術が大事な魂に触れることを防ぎ、仕事が終わった後はそれを脱いで汚れを払うのだとか。
「脱皮と言われるとまさにそれなんだけど、…………ありゃ、その言い方で平気かい?」
「ぐむむ。…………人間として生を受け脱皮を経験するというのは複雑な気持ちですが、よく分からない方からのちょっぴり前のめりな繋ぎなどぽいです!」
「ご主人様!」
漢らしくぺっと手を振ってみせたネアに、羽織りものをやりつつ椅子もこなしている魔物が嬉しそうに頭を擦り付けてくる。
ネアは難しい体勢を乗り越え、そんな魔物の頭を撫でてやると、隣で考え込む様子で沈黙しているアルテアの方を見た。
視線に気付いたのか、やはり本来の姿の方が魔物らしい凄艶な美貌が瞳だけをこちらに向ける。
「…………何だ」
「……………アンセルム神父は、少なくとも私を害するような傾向は見えませんが………、謎に開始早々に懐かれると、ちょっぴりぞわりとするのは確かです。生かしておくと危ない生き物であれば、帰るときに滅ぼした方が良さそうですか?」
ネアのその問いかけに、なぜか魔物達は一度顔を見合わせた。
突然部屋がしんとしたからか、戸口で話をしていたエーダリア達が振り返る。
「わーお。僕は、妹が結構容赦無く余分を切り捨てるところを見るのがやっぱり好きだなぁ…………」
「お前は、相変わらずその辺りは躊躇すらしないな…………」
「あら、お仕事で潜入している土地にいる、何だか見た通りではなさそうな謎めいた方なのですよ?黒幕だったり、そうではなくても悪い人だったりするといけないので、場合によってはくしゃりとやることを躊躇うつもりはありません」
ネアにとっての大切なものが定まっている以上は、このような仕事の場での情けなどかけるべきではない。
勿論心は動くし、ネアとしてこちらで育んだ記憶に覆いをかけたレイノという人間は、あの教官のことが嫌いではなかった。
とは言えそれは、今の手の中にある宝物を危険に晒してもいい程のものではない。
人間とは、その線引きにおいては、残忍なまでに自分勝手な生き物なのだ。
(…………それに、アンセルム神父であれば、もし滅ぼさなければならなくても、何の罪もない人を排除しなければならないということにはならないと思う……………)
もし彼が良くないものであれば、ネアが躊躇わなくてもいいだけの本当の顔がある筈だ。
それに、見たままの存在ではないにしても、巻き込まれただけの第三者だった場合は、彼は上手く立ち回って難を逃れるだろう。
そう考えるからこそ、ネアがアンセルム神父への処遇を思い胸を痛める事はなかった。
「アルテアはさ、去年にもガーウィンの教区に紛れ込んであれこれしてたよね?その時に何か噂を聞いてないのかい?」
「……………何でお前が知ってるんだ」
「そりゃ、僕はこれでもこの国の火種の位置はそれなりに把握してるからかな。ムエノ枢機卿については、ウィリアムが動いてくれたお陰ですっきりしたけど、どうせなら、ムエノ枢機卿を育てたこの教区ごと掃除して欲しかったなぁ……………」
(その人は確か………………)
相変わらず、ネアには知らされずネアも知ろうとしない国内の事件や動きは多々あるものの、その事件についてはウィリアムから直々に説明を受けていた。
何でも、疫病の精霊を小さな小箱に入れて悪さをしようとしていたガーウィンの枢機卿がおり、その枢機卿は所謂アリステル派で、ウィームにとってあまり宜しくない計画を立てていたと言う。
疫病の精霊を使おうとしたことで、ウィリアムが正式に終焉の系譜の王として報復出来る運びとなり、ばっさりやってしまったと聞いていた。
「…………ムエノ枢機卿のお話は、ウィリアムさんから聞いた事があります。その方は、銀白と静謐の教区の出身者だったのですね…………」
「そうそう。だから今回の一件は、第三王子派もかなり警戒してるんだよ。ただの迷い子を使った企みなら兎も角、アリステル派の活動の一環だとしたら、その婚約者だった第三王子とて、火消しの責任を問われかねないからね」
オズヴァルト王子は、アリステルとの婚約を破棄した訳ではない。
婚約者死亡によりその枷から逃れたオズヴァルトは、アリステル派がその名前を掲げて問題を起こした場合にはそれを鎮圧するという約束を今も背負っている。
王子としての肩書きを放棄し、王家の持つ他の爵位を取る事が正式に公表された後は、背負わされる責任は王家の家臣としてより重くなるだろう。
(もう、内々には継承放棄が決定して、お母様の生家であるガーウィンの公爵家の名前ではなく、王家所有の既存の家名を新しくして設けた公爵家の当主となる事が決まっているのに、その公表がまだなのはアリステル派の問題が残っているからなのかしら……………?)
しかし、この問題については、王子という肩書きを完全に捨て去る前に対処してしまった方が、オズヴァルト自身にかかる負担も少なくて済む。
かつては次期国王候補の一人であり、華々しく国の歌乞いと婚約してしまったからこそ、そこに残された負の遺産のようなものがオズヴァルトを悩ませていると思えば、ネアは何だか心配になる。
既に、エーダリアよりも継承放棄に時間がかかっている事からも、アリステル派という火種の後始末がどれだけ厄介な課題なのかが分かるというものだ。
幸いなことに、オズヴァルトの婚約者であるルイザを始めとした、霧雨の妖精達は、一族の王女の婚約者をとても気に入っている。
いざとなれば、ルイザの兄であるイーザ、霧雨の妖精王に精霊王、おまけにルイザの友人でもあるヨシュアの手を借りる事も出来るので、万が一火種の処理が追いつかなくて国内での立場が難しくなったとしても、オズヴァルトに害が及ぶ事はないだろう。
だとしても、今回のことは彼等の胸を騒がせる事件に違いない。
「……………であればこそ、今回の潜入調査で解決出来てしまえばいいのですが………」
オズヴァルトとルイザには幸せになって欲しいので、ネアは安易にそう思う。
けれども、ネアのよく知る前の世界の歴史を踏まえても、信仰というのはとても複雑で強いもので、今回の調査先の問題が片付いてもアリステル派の一掃とはならないのかもしれない。
当初は、継承放棄をしてさっさと妖精の国に入り婿となる予定だったオズヴァルトに、公爵家の家名が下賜される事が内定しているのは、その辺りの政治的な駆け引きがあるのだろう。
今は亡き婚約者の残したものをずっと背負わされるだなんてあんまりだと言えば確かにそうであるが、現実問題としてその受け口となる部門はやはり必要なのである。
「まぁ、今回はあくまで調査の名目だから、あんまり無理はしないようにね。未知の術式があると厄介だから、僕達も決められた日程以上は許容出来ない」
「………消息を絶ってしまった人達からの、連絡が途切れた最短の期間である一週間を、安全が保障される区切りとしているからなのですよね……………」
「…………そうだね。彼等と君では立場が違うけれど、それを敷かれた魔術の浸透の時間の基準とするのなら、やはりそこに触れる時間は制限するべきだろう」
その一週間を半分にし、潜入調査の期間を三泊四日と決めたのはエーダリアだ。
今回はこの日程の上で様々な調整をしている大掛かりな任務なので、期間の延長は許されない。
「十中八九、アンセルムという神父は精霊だな。…………まだ魔物の可能性も残っているが、どちらにせよ、あそこまで巧みな擬態を可能とするとなれば、特異体か、季節の市場の階位は満たしている筈だ……………」
季節の市場と言えば、サムフェルなどの種族の上位十二人までのものだろう。
魔物となればそこに並ぶ顔ぶれは限られている筈なのに、それでもアルテアが魔物の可能性を捨てきれていないというのも凄まじい。
「彼は精霊だよ。終焉の系譜か、静謐の系譜だろうね」
眉を寄せて悩ましく溜め息を吐いたアルテアにそう言ったディノに、ネアは目を丸くして振り返る。
「…………精霊か。厄介だな」
「終焉の系譜だった場合は、ウィリアムさんの…………。だから、ルグリューさんが来て私の周りをぐるぐるした後、ウィリアムさんに会いに行ってくれたのですか?」
「うん。そちらの系譜ではないかという事は、アルテアがすぐに気付いたからね。本来であればすぐに判断が出来た筈なのだけれど、ルグリューは転属してしまったから一人では結論が出せなかったようだ。彼に来て貰ったのは、君がくぐった門が、白百合の系譜のものだと言われているからでもある。ルグリューは、ジョーイと親しいんだよ」
「……………何となくですが、とても綺麗な門でしたが、植物の方の気配というか柔らかさはなかったように思います。…………どちらかと言えば、ディノやアルテアさん寄りと言うか……………」
「お前のその感覚があるからこそ、これだけの不都合を押し通して潜入して貰って助かった……………」
そう言いながらテーブルに戻ってきたエーダリアは、心配になるくらいにげっそりとしている。
ネアは慌ててテーブルの上のお茶菓子を差し出し、隣の席のノアも、ほこほこと湯気を立てているお茶をポットから注いであげていた。
「エーダリア様、ダリルさんがしゅばっと出て行きましたが…………」
「ああ。今は、お前を受け入れる為にここを特殊な空間に固定しているからな。外部との魔術の通信を取るには一度出る必要がある。…………まさか、ザンスタ司祭が食われているとは思いもしなかった。…………ダリルも流石に慌てたのだろう…………」
それは、ネアがこちらに戻って伝えた名前の一つだ。
迷い子の門から出て来たネアを保護した聖職者の一人で、筆頭司祭だと言う女性の直属の部下のように見えた男性司祭である。
「あの方は、エーダリア様もご存知の方だったのですね…………?」
「今回の教区の教区主は、アリステル派である可能性が取り沙汰されてきた人物だからな。オズヴァルトも自身の派閥の者に潜入調査を依頼していたのだ。ザンスタ司祭は、能力として突出したところがある訳ではないが、緻密な調査に向いた気質で、オズヴァルトの良き理解者だった人物だ。私も、お前のこともあるので潜入前に顔合わせをしている」
ネアが、オズヴァルトと共にラエタの影絵に落とされた一件以降、エーダリアやダリルはオズヴァルト王子と連携を取れるようになったと言う。
特に、イーザの妹のルイザと婚約してからは、そちらの家族との付き合いを口実にやり取りが可能になったらしい。
異種婚姻の申請書類はガレンが発行するものなので、オズヴァルト王子が、その為の相談を装い度々ガレンを訪れる理由が出来たのだ。
「アンセルム神父は精霊さんなのですね…………。今の所、精霊さんは少々困った方が多い印象が強いのですが…………」
「精霊で確定だとしたら、お前のその引きの強さは何なんだろうな」
「むぐる………………」
「その目を通して見ている限り、この子が終焉の子供であることが気に入ったようだね…………」
「まぁ、その会話をしていた時にも覗いてくれていたのですか?」
「うん…………」
であればディノは、アンセルムがレイノを気に入ったと話している様子をずっと見ていたのだろう。
さぞかし不安だったに違いないので、ネアは椅子な魔物にぼすんと体を強く寄せ、臨時体当たり風にしてやる。
目元を染めて小さくずるいと呟いた魔物に、安心させるように微笑みかけた。
実は今回の潜入調査にあたり、ネアの瞳にはディノの目の魔術を一部移植してある。
これは、防護服を着た状態を作り上げているからこそ可能な魔術添付で、常にとはいかないが、ディノはその魔術を介してネアの見ているものを共有する事が出来るのだ。
「………やれやれ、あちらもかなり慌ただしくなりそうですね」
そう呟きながら戻って来たヒルドが、自分のことをじっと見ていたネアに、おやっと眉を持ち上げる。
そこでネアは、教会で出会った妖精について尋ねてみた。
「……………それは恐らく、新緑の系譜の妖精でしょう。もし困った事があれば、私が排除するので安心して下さい。多少数を減らしても問題のない大所帯の系譜ですからね」
「ヒルド……………」
「わーお……………」
ネアとしては、あまりいい感情を向けていない妖精がいるとなれば、妖精独自の侵食魔術が危ういのだろうかと考えたのだが、ヒルドはそう安心させてくれた。
しかし、アルテアはそもそも危険視してもいなかったらしい。
「ユビアチェの妖精に会ったらしいが、あれについては放っておいても問題ない。妖精側の執着が深くて契約をする羽目になったのだろうが、あの迷い子の資質に対して随分と割に合わない契約相手だ」
「……………あの妖精さんは、強くはないのですか?」
「四枚羽だっただろ。シーですらないし、シーであることを隠してもいない」
「他の迷い子達についても調べたけれど、歌乞いとしては、今の所は男爵位の魔物を得ている者が二名いるくらいだね…………」
「ありゃ、シルはもうそこも調べたんだ」
「この子の後見人になる際に署名が必要だと言われて、名簿を見たからね。アルテアも見たのではないかい?」
「いや、枢機卿はその手順を省かれるらしい。問題が起きた際に、俺の名前を残さない為の措置かもしれないがな………」
「…………であれば、教区から上げられた報告から一名増えたようだ。ガレンには、爵位持ちの魔物との契約は一名とされている」
「おや、穏やかではありませんね。あえて隠している可能性もあるでしょう」
「……………その可能性が高いか。ディノ、名簿には順番などはあったのだろうか?」
「上から契約順だろう。新規で増えた契約ではなさそうだ。五人前の契約だからね」
(それは隠していたという線が濃厚そう……………)
ここでの会議は、夜明けの三時間前でお開きとなる。
その後は、大事な魔物にフレンチトーストを作って食べさせたりしながら、二人でゆっくり過ごす予定なのだ。
この時間配分を設定してくれたのは、ノアとヒルドで、やはり今回の任務において一番の我慢を強いられるディノを案じてくれているのだろう。
「教区主の方は、どんな方なのですか?確か、アリステル派の方かもしれないということでしたよね?」
ネアのその問いかけに、エーダリアが小さく息を吐く。
ザンスタ司祭のことがあり、かなり不安を強めているものか、こちらを見る時には心配そうにしてくれる。
「アリスフィアは、公式には、アリステルが最後に滞在していた屋敷で侍女をしていた事までがその接点とされていた。だが、実際には彼女も迷い子であるらしい」
「まぁ。………教区主の方も迷い子さんなのですね…………?」
思いがけない情報に、ネアは目を瞬いた。
潜入前の段階では、教区主はアリステル派の可能性が高く、その素性が不確かな少女姿の魔術師だと言われていたのだが、新たに迷い子である事が判明したのだろうか。
「ああ。魔術師であってくれればと思っていたが、本人の申告の通りだったようだな…………」
「と言う事は、以前から迷い子だという情報もあったのですね…………」
「どちらなのかが判明しない間は、あえてそれを言わずにいたのだ。不確かな情報よりは、お前の目の方が信用出来る。だが、迷い子である事が確定した以上、迷い子の要素を警戒する必要が出てきてしまったな………」
片手を額に当てて項垂れたエーダリアを見ていると、教区主が迷い子である事はやはり、大きな問題になるのだろう。
ネアは残念ながらその括りではなかったが、迷い子という存在は、その履歴に伴い大きな恩寵や力を得ている事が多い。
魔術を持たない世界から呼び落とされたネアとは違い、この世界のどこかやいつかから迷い込むことで、その損失に見合うだけの特異な祝福や対価を得られるのだ。
「彼女は、あの教区で記憶喪失の少女として保護されましたが、当初は魔術侵食による疾患として対応されたようです。引き取られた貴族の屋敷での生活にも支障なく馴染んだことや、ガーウィンを出てヴェルリアで暮らしたいと本人が望んだと事から、迷い子ではという議論と同時に戦前のヴェルリアの民である可能性が取り沙汰されていました。なかなか決定的な情報がなく、本人も記憶を失っていたので指定が難航しておりましたが、ネイが決定的な情報を持っていてくれた事で大きく進展したばかりだったんですよ」
「ノアが…………?」
そう教えてくれたヒルドの言葉に、ノアはどこか誇らしげにふっと微笑みを深める。
なお、一見ここでのんびりと寛いでいるだけのように思えるが、アルテアと共に、レイノの体が眠っている部屋の様子を随時確認してくれている。
もし、レイノが急ぎ起こされるような事があれば、ネアがここから帰る手伝いをしてくれるのがノアなのだ。
「アリスフィアは、統一戦争前に病死したと記録されている、ヴェルリア貴族の娘だよ。あの頃は、ヴェルリア側の貴族達も人外者絡みでは不用意な事件を起こせなかったからね。もし、自分の娘がウィームに住む人外者に攫われたと考えられたら、その家族は、娘を人質にした交渉を持ちかけられる可能性を持つ監視対象になる。責任のある役職にも就けなくなるから、その事実は伏せられて記録にも残っていないみたいだ」
「…………つまり、アリステル派である可能性が高いのだ」
「……………ヴェルリアの貴族だったから、アリステル派であるという事なのですか?」
「アリステルも元はヴェルリア貴族なんだ。ほらほら、同じ迷い子として接点が他にもあると思わないかい?」
そう問いかけてみせたノアの言葉に、ネアは、はっとする。
アリステルとアリスフィアで名前が似ているなと考えていたが、彼女がアリステル派だからこその名乗りかもしれないと深読みをするまでもなく、もっと単純な理由から似たような名前を持つ可能性があるではないか。
「もしかして、お二人はご親族なのですか………?」
「そういう事。まぁ、アリステルが本家でアリスフィアが分家の出だけどね」
なぜノアがそんな事を知っているのかと言えば、当時、リーエンベルクに住んでいた迷い子である歌乞いについて情報を集めていたノアのところに、彼女の素性を探るその家族の不自然な動きが伝わったのだという。
(そっか。そのリーエンベルクの歌乞いが現れた時期と、その家族が娘を失った時期が近ければ、それが我が子かもしれないと考えて調べてみるのは当然だわ…………)
かつて、ノアがネアだと思っていた歌乞いの少女について考えると、何だかずっとリーエンベルクに暮らしていた人のような気がしてしまうが、彼女は、迷い子としてよりにもよってその悲劇の時代に迷い込んだ不遇の人でもあるのだった。
「むむむ、でも、そうであれば、その情報は事前に教えて欲しかったです!」
「すまない。私も含めた多くの者達が、彼女は迷い子であることを詐称しているただのアリステルの信奉者である可能性が高いと思っていたのだ…………。だが、今回の任務で、お前が使った教官の選定札が、そのアリスフィアの手による魔術道具だった。それを辿り、漸く確証が得られたのだ」
「…………疑問なのですが、教区主さんともなれば、公の場に出て来る事もありますよね?そのような時に、確認を取るのが難しかったのでしょうか?」
「ネア様の任務が決まった直後にネイからその話を聞いたのですが、ちょうど彼女が蝕の影響を祓う為の瞑想とやらに入る時期と重なってしまいましてね…………」
苦々しくそう呟いたヒルドによれば、もし、今回の任務でネアが教区主と遭遇するような事があれば、昨年に瞑想に入って以降、アリスフィアの姿が初めて確認される事となる。
これまでは迷い子かどうかも定かではなく、契約の人外者などを得る事がなかったアリスフィアが、蝕という最大規模のあわいの中で高位の存在との契約を済ませていないかどうかも、調査内容に含まれるのだそうだ。
とは言えこちらは、ネアでは調べきれない魔術の探索が求められるので、ディノやアルテアが調べているらしい。
もし、彼女が国にとって見過ごせないような契約を得た上で不透明な動きをするのなら、あの教区で起きている問題は更に大きくなる。
責任のある仕事だと考えてきりりとしたのが分かったのか、エーダリアがこちらを見た。
「重ねて伝えておくが、今回のことはあくまでも調査だ。くれぐれも、無理をして解決しようとは思わないでくれ」
「はい。…………しかし、記憶に蓋がされているので、気高い私がうっかり頑張ってしまわないといいのですが………」
「全くだな。暴走だけはするなよ」
「むぐ!今のところは、淑女らしく慎ましやかに生活しておりますよ!」
そう主張したネアに座られた状態で、そっと三つ編みを握らせてきた魔物がいる。
振り返ってみると、どこか切実な眼差しで、きゅっと抱き締められた。
「ごめんなさい、ディノ。レイノとしての私は、ディノを不安にさせてしまう事も多いですよね?」
「……………うん。………でも、君が抗体を作っている魔術については、特殊な魔術を組める人間が敷いたもので間違いない。だからこそ、私達にはその完成が予期し難いものなんだ。不愉快な事もあるけれど、この段階で受けておいて良かったのだと思うよ……」
「やはり、それなりに困ったものでしたか?」
「…………これはね、魂に書き込まれた記憶や経験を乱暴に奪い、そこに術式を組んだ者が望んだ情報を上書きする術式なんだ。本来は練り直しや書き換えは出来る者が限られているのだけれど、幾つかの魔術の効果を重ねて、傷口に薬を染み込ませるように、かなり手荒く近しい事を成している」
「やはりそのようなものだったか。…………行方不明になった調査員には、自分の意思なくしては任務を放棄出来ないという魔術をかけて臨んだ者もいたのだ。術式は完成に至るとその洗浄が難しくなることも多いからな。早めに触れておける機会となったのは幸いだ」
魔術というものは、完成されると術者が失われてもどこかに伝承されるのだという。
今回の潜入調査をディノが了承したのは、迷い子達や教区の記憶を調整している魔術が、新しく生まれた未知のものだと判明したからに尽きる。
「…………ここで準備の上で抗体を作っておけば、お前がどこかで事故る可能性を一つ排除出来るからな」
「私が試すことによって解析が進めば、既に影響を受けてしまった人達の回復にも役立つのでしょうか?」
「それは難しいだろうな。壊されたものの再生は難しい。擬似的な書き換えにあたり、この術式は本来の記憶を削り取って剥ぎ取るものだ。役に立つとしたら、今後にこの術式を防ぐ為の防壁の開発の方だ」
「ほんと、エーダリアが、これは事前に受けておいた方がいいんじゃないかって提案してくれて良かったよね。ほら、僕の妹は何かと引き寄せるし、そもそもこれは迷い子用に開発された術式みたいだからさ」
「そうなると、魔術の運命において、ネア様が引き寄せ易いものでもあるという事ですね……………」
「まぁ、術式が完成しなければ、術者を排除すれば終わりなんだけど、そのアンセルムって精霊が入り込んでいるとなると、ぎりぎりだったかもね」
ノアの眼差しにちらりと鋭さが混ざり、ネアは、そんな塩の魔物が続けて示した言葉にひやりとする。
「そういうものなんだよ。高位の人外者が魔術研究の場所に居を構えると、それ自体が魔術が生まれ易いという前兆になるんだ。どうも、その精霊はあの教会に住んでいるみたいだしさ」
「…………そう言えば、そんなアンセルム神父の机に、かなり分厚い恋愛の指南本が置かれていました。慌てて隠していましたが、大事そうに読み込まれた形跡があったんですよ」
ふと思い出してそう言えば、向かいに座っていたエーダリアの表情がとても悲しげになるのが分かった。
「む…………?」
急に部屋の空気が変わったぞと周囲を見回してみれば、ヒルドは頭を抱えているし、ノアは妙に遠い目をして成る程ねと頷いている。
だが、険しい表情になってしまった者もいて、羽織りもの兼椅子な魔物は荒ぶり始めているし、アルテアはこれから狩りに行く時の狩人のような鋭い目になってしまっていた。
「…………ネア、それは精霊の嫁取りだ」
「なぬ。エーダリア様もご存知の症状なのですか?」
「私は直接その状態にある者に遭遇した事はないが、高位の精霊が、本来の領域ではないところに居を構え、その種の知識を貪欲に取り入れ始めるのは嫁取りの兆候だとされている」
「……………そう聞いてしまうと、途端にあの方の謎めいた雰囲気が霧散し、何とも言えない微妙な気持ちになります…………」
「ネア、精霊は、その種や個体によって伴侶の求め方が違うんだ。気を付けなければいけないよ」
「ディノ?…………その、危険なことを好まれる方もいるのですか?」
こてんと首を傾げたネアに、アルテアが顔を顰めたまま教えてくれた。
「終焉の系譜には、伴侶を迎える儀式が蒐集に近い奴等も多いぞ。身動き出来ない人形に魂を移し替えて…」
「ぎゃ!限りなく変態寄りの犯罪者の嗜好ではありませんか!危機意識がとても高まりました……………」
ネアは、それを聞いてすっかり怯えてしまい、アンセルムになど心を許すものかと固く誓った。
とは言え、目を覚ませばそこにいるのは、ネアとしてこの世界で育んだ記憶を持たないネアハーレイなのだ。
(……………でも、レイノという名前があるから大丈夫なのよね……………?)
今回の偽名は、伴侶であるディノと兄になったノアから同じ一文字を貰って守護代わりにしている。
レイノという名前が呼ばれる度に、覆いの内側のネアは守護を重ねてゆける仕組みだ。
「………さて、そろそろ時間だな。ネア、少しではあるがゆっくりしてくれ。………明日迄また宜しく頼む」
「はい。明日の夜にエーダリア様に良い報告が出来るよう、また一日お仕事を頑張りますね。夜明けまではこちらにいますので、何かあったら声をかけて下さい」
「ああ。ダリルが新しい情報を持ち帰るようであれば連絡しよう」
「さぁ、ディノ。フレンチトーストですよ!」
「ご主人様!」
「わーお。それって僕も…」
「フレンチトーストの歌を歌いながら焼きますので、場合によっては副作用がありますが……」
「……………エーダリア達と作戦を詰めなきゃだったから、僕は帰ろうかな。…………ありゃ、アルテアは残るつもり?」
「…………いや、上でやる事がある。俺は一足先に戻るが、オーブンにパイが入ってるぞ」
「パイ様!」
ネアが喜びに弾めば、アルテアは鮮やかな赤紫色の瞳を眇め、じっとこちらを見る。
「アルテアさん………?」
「…………いいか。あいつの料理は控えろよ」
「……………むぐぅ。アンセルムさんはお料理上手で、特にグラタン大好きっ子らしいのです…………」
「ほお、パイはいらないんだな?」
「ひ、控えるようにと、己の魂に言い聞かせておきます……………!!」
ご主人様を厳しく諌めた使い魔も帰ってゆくと、ネアは椅子をやめようとしない魔物と二人きりになった。
「…………ディノ、椅子はお終いにしましょうか?」
「……………あんな精霊なんて……」
「そして、大切な伴侶の為にフレンチトーストを作りますね」
「ご主人様!」
「ディノが今日のお仕事で寂しく感じただけ大事にしますので、今日のレイノが不安だっただけ、ディノは私と一緒にいて下さいね」
「……………虐待」
「解せぬ」
その夜の残りを、ネアはディノと一緒にのんびりと過ごした。
夜が明ければ、また迷い子のレイノとして一日を過ごすのだ。
ここに家があることをレイノは知らないのだと思えば複雑な気持ちになったが、ネアは真珠色の三つ編みを握り締めて、たくさんの心の栄養を蓄えたのだった。
本日のお話は、最初の夜にレイノが見た夢の中で行われていたリーエンベルク会議の様子になります。




