終焉の隠れ家と楽譜の祝祭 1
ネアはその日、ウィームから遠く離れた、それどころか大陸上の国ですらないところにいた。
ヴェルクレアやカルウィ、或いは旧ロクマリアなどをこの世界の主要大陸上の大国とするならば、ランシーンは島国である。
だが、勿論ある程度の規模を持つ大陸的な土地が他にはないという訳でもなく、この世界に於いて一般的に大陸と呼ばれるもの程の大きさはないが、とは言え島国という程でもないという複数の国を内包している陸地もあった。
元の世界の区分けに慣れているネアからしてみれば、名称で切り分けて全部が大陸でいいのではないかと思わないでもなかったが、最大規模の陸地こそが大陸であると決めた誰かにとっては、他の陸地を大陸と定めるのは嫌だったのだろう。
よってこちらは側陸地と呼ばれており、あくまでも世界地図の中央にあるものが大陸ということらしい。
ディノ曰く、地図の魔物がそう決めたからねと言う事なので、大陸名称に拘ったのは人間ではなく魔物なのだ。
ディアニムスは、側陸地にある中規模な国の一つだ。
この陸地一番の大国には僅かに劣る国力だが、農作物や木の実、お酒や酪農などの盛んな音楽の魔術に育まれた国で、近年は期間限定ながら議会制となっている。
古い石垣や石造りのお城に、煉瓦の家々が立ち並ぶ様子は、どこかネアの祖国の地方都市などを思わせた。
地方荘園のお屋敷は壮麗で、王都の王宮は宮廷文化の華やかさを思わせる美しさである。
今は、白銀の楽譜持ち、或いは白銀の楽譜と呼ばれる王族側に仕える音楽家の育成機関としても機能しているのだとか。
「美しい王都ですね。並木道があって、綺麗に整備された歩道には花壇があります。珈琲のいい匂いのするカフェが幾つもあって、ケーキ屋さんも多いでしょうか」
「音楽家の多い街だからな。こちらは、ウィームとは違い、紅茶よりは珈琲に、葡萄酒よりは小さなグラスで飲む蒸留酒になるが、ケーキを好む人間はとても多い」
「むむむ、焼き菓子やクッキーなどはあまりないのですね。その代わりに、あちこちでお砂糖をまぶした賽子型のラスクが沢山売られています」
「なぜだか分からないが、ラスクはかなり好まれているな。…………あとは、これだな」
「むぐ!お口にチョコレートが!」
ネアは、ウィリアムが口に入れてくれたチョコレートの美味しさにうっとりとして、祝祭の街のあちこちで売られているチョコレートは絶対にお土産にするのだと息巻いた。
こちらのチョコレートは、中に何かが入っていたり、種類が多い訳でもないが、蕩けるような美味しいチョコレートが、お店ごとの木型で可愛らしい一口サイズのものに成形されて売られている。
クリームたっぷりの生チョコレートのような食感で、苺風味に近い甘酸っぱさが幾つでも食べられるような味になっていた。
「むぐ。お口ではこの蕩け方なのに、指の温度で溶けないのが素敵ですね」
「ああ。ディアニムスだけの特別なレシピがあるらしいな。使われている夜想曲の野苺のシロップに秘密があるらしい」
「………ふぁ。また一つ、この世界の特別に美味しいお菓子を知ってしまいました」
「はは、それならここに来た意味はあったか」
「おまけに今日は、音楽の祝祭なのです。さすが旧王都なだけあって、とても賑やかで楽しい雰囲気ですね」
ネア達が訪れている王都では、祝祭の日を祝う人々があちこちにいた。
ウィームのように厳粛な雰囲気の中で儀式や挨拶があるのではなく、聖堂音楽隊と呼ばれる教会に属するオーケストラの演奏を皮切りにして、祝祭が始まる。
街灯にかけられたのは、金色に塗られた椎の葉のリースのようなもので、可愛らしい赤いリボンが結ばれていた。
「まぁ、この一区の街灯は、バイオリンの装飾があります!王都では、街が名前ではなく数字で呼ばれているのですね………」
「この国では、本当の名前というものが大きな意味を持つんだ。皆が口にするディアニムスという国の名前も通り名のようなもので、王政だった頃のこの辺りは、ディアニムス一区や、王都の一区と呼ばれていた。今はただの一区だな」
「どうして、名前を通り名にしてあるのですか?確か、国民の方達のお名前もそうなのですよね?」
「音楽に纏わる名前は、人外者から狙われやすいからな」
「まぁ、そうなるとザルツもなのですか?」
「いや、あの土地は、元から高位の人外者の庇護を受けて成り立っている。ここは、人間による人間の為の国だからこそ、そうではない者達に名前や中身を取られないように、様々な手立てが必要になったんだ」
「…………それだけを聞くと、怖いところなのかなとも思ってしまいますが、とても居心地の良いところですね。穏やかで美しく、詩的で少しだけ秘密めいています。…………近くのお宅から、素敵なピアノが聞こえてきました」
「祝祭に出す練習曲だな。ネアは、ピアノが好きか?」
そう問いかけたウィリアムに、ネアはそろりと終焉の魔物を見上げ、こくりと頷いた。
「…………大好きなのです。でも、バイオリンも特別に好きな楽器なのですよ?」
「それなら、俺の屋敷でピアノも弾こう。五年ほど前に、この国で出物のピアノを手に入れてな。屋敷に置いてあるんだ」
「いいのですか………?」
「ああ。ピアノもそれなりに得意だと自負しているから、ネアが聴いてくれると嬉しい」
「はい!」
この国は、初秋近くになると霧深い日が多くなるのだそうだ。
秋告げの舞踏会はまだだが、色付いた街路樹の葉が既に秋を感じさせるのはなぜだろうかと首を傾げていたところ、この国は秋の訪れが早いのだと教えて貰う。
「それぞれの季節には、季節を司る者達が多く暮らす土地がある。その中でも、秋の系譜の者達の住処はこの側陸地に多いんだ。この時期になると、あちこちで秋告げの舞踏会の準備などもしているから、すっかり秋のようになる」
「まぁ、そのようなものなのですね。初めて知りました」
「ん?…………誰からも聞いてなかったのか?」
「むぐ」
「因みに、冬の系譜はウィームで、夏の系譜はヴェルリア沖に連なる島国となる。ヴェルリアも少し入るかな。春は何箇所かに分かれているが、春の系譜はあまり一箇所に留まるのを好まない」
「し、知りませんでした!そうだったのですね…………」
ネアは、この世界に来てから初めて得た今更な知識にはわはわしてしまい、ウィリアムを見上げてぴょいと弾んだ。
やはり冬はウィームなのだと、ついつい誇らしい気持ちになってしまったのだ。
周囲を見回せば、足元の石畳は灰色で、街並みは砂色から煉瓦色と様々である。
花々はウィームのように青から紫の色相に偏ることはなく、色とりどりの美しさで花壇を彩っていた。
ここ、ディアニムスは、魔術音楽師が多く輩出される国なのだそうだ。
ウィリアムはかつて、この国で人間として暮らしながら音楽を学び、ピアノとチェロを満足に扱えるようになったらしい。
そんなにも長く暮らした土地なのだと知り驚いたネアに、淡く微笑んだ終焉の魔物は、砂漠のテント程ではないが、時折戻って来て暮らすのだと教えてくれる。
「今日の楽譜祭りは、華やかだが、音楽家の為の祝祭だな。残念ながら観光客は楽譜を受け取る事は出来ないが、その代わりにあちこちで素晴らしい演奏が聴けるだろう」
「自作の曲を収めた楽譜の交換をする、年に一度の祝祭なのですよね。ディノから、ウィリアムさんのお仕事は、どうしてもこの日に間に合わせなければいけなかったのだと聞いています」
「…………ああ。少し手間取ったが、何とか予定内に収まったという感じかな。偶然あの旋律を見付けただけの者達を、全て排除せずに済んだのは幸いだった」
そう微笑んだウィリアムの白金色の瞳には、僅かな翳りがある。
だが、疲弊と安堵に満ちたその深い輝きのどこかには、ほんの僅かに、魔物らしい酷薄さが入り混じっていた。
それは、人間には冷ややかに感じられる美貌であったが、ネアは、魔物はそういうものだと良く知っている。
魔物達がそれぞれに己の資質の王であるのなら、ここにいるウィリアムは、終焉こそを司る者なのだ。
(一年前、この国に終焉の予兆があった…………)
その徴の現れは、ネアも経験したエイコーンの呪いの馬車の一連のような経緯で集約され、解析された結果、この国の天才作曲家が、こちら側には持ち出してはならない音楽を作り上げる事を示唆していると判明したのだそうだ。
全ての危険が去った昨晩になり、やっとウィリアムがどの様な仕事をしていたのかの詳細を知る事になったネアは、自分にとっては特別な事件であったエイコーンの一件が、決して珍しくはない順序で進んだと知って驚いた。
予兆や予言、託宣などの様々な徴が重なり、大きな災厄が引き起こされる。
それは、魔術の上に成り立つこの世界では珍しい事ではないと言う。
錬成され、術式によって構築される物の循環で成り立つ世界だからこそ、引き起こされる災厄を逆さまに辿れば、そこには必ず災厄に至る魔術式がある。
そして、その証跡に反応して世界の表層に浮かび上がるのが予兆や予言であり、変化を読み解く目を持つ者が、術式の痕跡を読み託宣を扱うのだそうだ。
(…………綺麗な曲。今度は、フルートだろうか。………あ、バイオリンが重なった)
ディアニムスの本日の祝祭は、作曲家や作曲家の卵達、そして普段は作曲などする事もない演奏家達が、自作の楽曲の楽譜を交換し合うものだ。
参加者は一つだけの楽曲を幾つもの譜面に書き起こして持ち歩くので、祝祭の前には写譜代行などの業者が大忙しになる。
特に、悪筆な作曲家の譜面を清書しなければならない者達にとっては惨憺たる思いをする時期でもあり、祝祭前の酒場は、師匠や楽団のお偉いさんの愚痴を言う若者達で賑わうのだそうだ。
交換された楽譜はその場や、持ち帰った家で開かれ、すぐさま演奏される。
祝祭に参加する音楽家達にとっては、今日は、どの流派や組織に属しているか関係なく、生涯のお気に入りとなるかもしれない素敵な音楽に出会える日なのだ。
(音楽の循環と更新を図る祝祭なのだと、ノアが話していたけれど、観光客の私にとっては、街中に素敵な音楽が溢れている素晴らしいお祭りなのだ…………!)
だが、この国の誰かが生み出す音楽が、ウィリアムが屋敷を構える程に心を寄せたこの国を滅ぼすかもしれなかった。
楽しそうにくるりと巻いてリボンを結んだ譜面を交換し合う人々の中に、今日こそがこの国の破滅の始まりの日だったのだと知る者はいない。
調律師としてこの国を度々訪れていた終焉の魔物自身が関係者達の心や魂を調整し、その音楽は永劫に失われたのだという。
そうでなければ、今日の祝祭で交換される楽譜の中に混ざった破滅の音楽が人々の手で拡散され、その美しさによって人々の心を蕩し、年明けを待たずに国を滅ぼしていたのだ。
「問題の方は、まだ作曲家としては未成熟だったのですよね」
「ああ。彼女は音楽家の卵で、まだ自作の曲を大きく世に知らしめてはいなかった。そのお蔭で、探し出すのに少し苦労したな。………最初は既に作曲家として名を馳せている者達から、予兆にあった旋律に近しい響きを持つ者達を調律しながら絞り込んでいったんだが、………それでも、完全に犠牲を出さずに処理する事は出来なかったな」
「その方やご家族は排除せずに済んだのに、それでも、犠牲者が出てしまったのですか?」
ネアは、問題の作曲家が、作りかけの音楽を誰かに披露してしまったのかなとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
花飾りやリボン飾りも目立つ街中を歩き、おおっと見上げる程に大きな大聖堂の前で、誰かから楽譜を貰ったウィリアムは微笑んで会釈している。
お返しの楽譜を貰った青年は、その音楽が死者の王の手によるものだとは思いもしないだろう。
旋律から終焉の要素を削ぎ落としたものだと話していたが、それでも、ウィリアムの自作の曲なのだ。
「ああ。だが、大きく世界を動かす運命は、災厄を乗せた馬車が、運命が転がり易いようにと轍が付いている道を選び易いものなんだ。………問題の作曲家を探し出すのと同時に、万が一の拡散を防ぐ為に、その轍は先んじて埋めなければならなかったからな…………」
「さては、ウィリアムさんがこんなにお疲れなのは、それでなのですね?昨晩はリーエンベルクにお泊りでしたが、もう少しゆっくり眠れると良かったのですが…………」
「いや、充分に休ませて貰ったさ。それに、ウィームも今日は祝祭だ。………俺がそちらに行けないせいで、ネアは参加出来なくなってしまったな」
薄く苦笑し、大きな手がふわりと頭を撫でる。
ネアは、いつものように微笑んでいても、その内側のどこかが酷く摩耗してしまっているウィリアムがそう微笑むのが切なくて、繋いでいる方の手をぎゅっとしてみた。
さすがに白い髪は擬態しているが、造作はそのままの筈なのに、道行く人々はここにいるのが死者の王だとは気付かない。
この国では一番目立たない擬態だというが、あまり馴染みのない中堅どころの貴族のような装いをしたウィリアムは、ネアの目には少しばかり見慣れない感じがする。
男性らしさを失わない程度に華やかなドレスシャツに、刺繍の華やかな黒いジレ。
その上に羽織るのは、ウィームの魔術学院の生徒のような、黒いフード付きの優美なケープのようなものだ。
そんな装いが、このディアニムスの街の貴族の一般的な装いなのだと言う。
なお、上位貴族になると宝石飾りのブローチなどの装飾品を身に着けるが、目立つ装飾品を身に着けていない本日の終焉の魔物の装いだと、伯爵位以下の家格の貴族となる。
因みに、この国では音楽に関わる人々は全て爵位を持つので、爵位を持たない人々の方が少ないとされている。
上位貴族にはそれなりに権力が与えられるが、平民でも素晴らしい音楽の才能を披露すれば男爵位は貰える国なので、身分の差というものはそこまで厳しくない。
爵位を持たず平民とされる人々も、食事や生産などの役割で音楽家達に貢献している。
所謂、音楽馬鹿も多いこの国では、そんな平民達は頼もしい裏方として大事にされていた。
(……………いい国だわ。この世界で初めて、ウィームでなければここが良かったという国を見付けたような気がする)
残念ながらネアには楽器の才はあまりないが、この国であれば、音楽家達の行きつけのパン屋で働くのも楽しそうだ。
なお、人外者達も多く暮らしているが、人間とは生活圏がしっかり分かれているらしく、異種婚姻などは珍しいのだとか。
この国に暮らす人外者達は、熱心な観客や後援者の立ち位置で、お気に入りの音楽家の血筋を絶やす事は好まないのだそうだ。
「今回は、ガーウィンの女伯爵様の一件での事後処理があるので、大事を取っての不参加となったのです。山車祭りには観光客の方も沢山来ますし、祝祭の魔術を宿した山車人形が荒ぶるので、もし悪さをするような方々や仕掛けが紛れ込んでいた場合に、その初動に気付くのは困難なのだとか」
あの招待状の一件は、アルテアの処置で綺麗に片が付いたかに思えたが、サザランド伯爵の側仕えが山車祭りの日程を調べていた事が判明し、本日のウィームでは、陰謀の根が残っていないかが慎重に調べられている。
伯爵と契約していた招待状の魔物の固有魔術は、祝祭や儀式などとは相性がいい。
招待状の魔物は、主人に仕える忠義の厚い魔物だという事で今回は大きな処分を受けなかったが、敬愛するサザランド伯爵が処罰された事で寝込んでしまった。
意識を取り戻さないと、他の仕掛けの在り処を白状させられず、今回の山車祭りには間に合わなかったのだ。
(エーダリア様や他の方々であれば、招待状の魔術に紐付く仕掛けがあっても、山車祭りの祝祭の守りで切り抜けられるそうだけれど、私の可動域では、気付かずに罠に足を踏み入れてしまいかねないという事で、今回は参加を見送らなければならなかった)
ディノは勿論、家族はそんなネアをとても案じてくれたが、ネアにとっての山車祭りは、素晴らしい山車を楽しめるお祭りである一方で、特級のホラーとなる山車人形に心をずたずたにされる日でもある。
とても残念ですと儚げに微笑んでみせながらも、狡猾な人間は、音楽の祝祭の方が断然魅力的であるとほくそ笑んでいた。
(お仕事として、山車祭りのお手伝いが出来ないのは残念だけれど、参加をするという意味では、こちらの祝祭の方が心穏やかに過ごせるのだわ………)
「俺が傍に居られればそれでも問題なかったんだが、引き込んだ魔術の理上、俺はディアニムスの祝祭に参加しなければならなかったからな」
「それも、対価なのですよね?」
「ああ。調律完了を示す為の魔術の結びの対価なんだ」
綺麗に赤く染まった並木道を歩きながら、ウィリアムは、そこに至るまでの魔術的な手順を教えてくれた。
したたかな人間が、こちらの祝祭の方が良いぞとほくそ笑んでいる事を知らないので、少しでもネアが納得がいくようにと、丁寧に説明してくれようとしているのだろう。
歩きながら時折チョコレートの屋台にも寄ってくれるので、ネアは、そんなおやつの美味しさと、そこかしこから聴こえてくる極上の音楽に心をほこほこさせていた。
「ふと気になったのですが、今回のお仕事では、随分と多くの対価の支払いがあるのですね?」
「ああ。材料という区分のものでは、儀式として成り立たないかな」
この国で生まれそうになっていた音楽の調律に入るにあたり、ウィリアムは、この一連の手入れを儀式として切り取る為の魔術を敷いたのだそうだ。
今回の調律では、問題となる現れてはならない音楽そのものを、その音楽への畏怖や忌避感を植え付ける為に使わねばならず、その際に問題となる音楽が周囲に漏れ出さないように、祭壇という形で演奏の場所を切り出す必要があったらしい。
関係者達に、ここにあるけれどここではないどこかという認識をさせるには、行為そのものを儀式化してしまえばいいのだが、儀式というものには必ず、贄や対価が必要となる。
こうして、ディアニムスの街で楽譜祭りに参加する事もまた、そうしてウィリアムが設定した今回の儀式の締めの対価なのだ。
勿論、対価というからには手放す要素がなければならない。
それこそが、近年はかならず足を運んでいた、ウィームでの山車祭りへの不参加であった。
「今回は、たまたまウィームでの足元も少し不安定でしたので、であれば、山車祭りではなくこちらに参加させてしまえという事になりました。でも、こっそり白状してしまうと、そのお蔭で私は、ウィリアムさんが気に入ってしまうくらいの、素敵な国の祝祭を堪能出来てしまうのです!」
「そう受け取ってくれると、ほっとするよ。…………幸い、不幸な事故が幾つかあったが、今年の祝祭には大きな支障がなかったらしい。皆、楽しそうだな」
ふうっと、やはり何か心に残るものがあるのだろうという溜め息が落ちたので、ネアは、くいっとウィリアムの手を引っ張ってみる。
すると、小さく微笑みを深めたウィリアムが、轍を埋める為に、一見関係ないと思われるようなところにいた人間の何人かを、剪定しなければならなかったのだと教えてくれた。
そうして喪われた人達に罪はなく、とても優しい人達だったのだということも。
「咎人でも何でもない。ただの剪定、………大局の為に間引かれたようなものだからな。あまり気分のいいものではなかった。ナインあたりなら嬉々として引き受ける作業だったんだろうが、今回ばかりは、系譜の他の者達を入れると音が濁りかねない。問題の作曲家が誰なのかを見誤る訳にはいかなかったんだ」
「…………ぐるる」
思わぬところで、報復リストの筆頭に躍り出た天敵の名前が上がりネアが低く唸ると、生真面目な顔をしたウィリアムが、厳しく叱っておくからなと約束してくれた。
ちびころ事件の際に受けた屈辱は、きちんと系譜の王であるウィリアムに報告済である。
「おっと、通り過ぎるところだった。………ネア、あの角に美味しいタルトの店がある。祝祭の限定のものも出ている筈だから、何か買っていこうか」
「タルト様!」
ウィリアムが、その轍とされた人々の顛末の詳細までを語る事はない。
けれどもネアは、恐らくはもうこの世にいない彼等は、そんな形で失わせたくなかった程に素敵な人達だったのだろうと思い、胸が苦しくなる。
今回の一件を喪われた人間の側から見れば、大事な人が、人外者の気紛れで失われたように見えるだろう。
だが、まだ芽吹いてもいなかった若い作曲家が世に出した音楽が、この国そのものを滅ぼさないようにする為には、必要な犠牲であった。
(それが必要な事くらいは承知の上で、それでも、ウィリアムさんは、大切に思っているこの土地の住人をそんな形で奪いたくはなかったのだろう)
その作曲家にも罪はない。
彼女はただ、自分の内側に生まれつつある素晴らしい音楽を世に出そうとしただけなのだ。
予め禁じられたものではなく、生み出されるものが世界を脅かすかどうかなんて、知りようがないではないか。
「………さては、かなり気を遣わせているな?」
タルトの購入を終えて店を出たネアが、どうやってお隣の魔物を元気付ければいいのだろうと眉を寄せていると、くすりと笑ったウィリアムに先手を取られてしまった。
ぎくりとして顔を上げると、そんなネアの唇にそっとチョコレートを押し込み、こちらを見たウィリアムが困ったような優しい目をして笑う。
「ネアが、そうして俺の事を心配してくれるだけで、充分なんだからな?」
「むぐ、…………ぐぅ。ぎゅっとします?それとも、何か素敵なもふもふの毛皮生物を狩ってきましょうか?」
「後で、二人きりの演奏会になってしまうが、祝祭の演奏に付き合ってくれるんだろう?」
「それだと、素敵な音楽を堪能出来てしまう私だけが、お得な感じなのでは…………」
「いや、………ここ暫く、演奏と言えば調律の為にしかしていなかったからな。大事な相手の為の演奏が出来るなら、かなりの気分転換になる」
「それは、私が相手でいいのです?…………それとも、ディノが合流出来る夕方を待ちますか?」
「はは、まずはネアにしようかな。…………聴いてくれるか?」
「はい!」
「よし、それなら、もう少し楽譜を手に入れないとだな。何人か、いい曲を作りそうな人間の目星を付けてあるんだ。探し出すから、待っていてくれ」
ウィリアムによると、芽生えかけていた終焉の音楽の調律をされてしまった女性は、天才作曲家としての名声を得ることなく、これからは演奏家としての才を伸ばすに留まるだろうという事であった。
彼女を天才と至らせるのは、その音楽こそであったのだ。
「音楽というものが、人間の記憶や欲求から完全に消え去る事はない。彼女の魂の上ではあの音は禁忌として縛り落とされたが、それでも特等の音楽がそこにあったという記憶は残るだろう。最上のものを昇華出来ないまま、他の音楽を作るという事は難しい。…………そういう意味では、一つの類稀なる才能を潰してしまった事にもなるな」
「けれどもその方は、踏み止まれたのですよね?であればきっと、その方の欲求や魂をこちら側に係留するような、別の喜びや宝物があったのでしょう。人間は罪深いまでに己の欲求に正直な生き物ですから、きっと、そのようなものを失わずに済んだ事こそが、その方の幸運だったのではないでしょうか?」
ネアがそう言えば、ウィリアムは僅かに瞳を瞠り、小さく微笑んだ。
「……………ネアと、この祝祭に参加出来て良かった。お陰で、随分と気持ちが軽くなったよ」
「ふふ、では、既にあちこちから聴こえてくる素敵な音楽にすっかり満足してしまっている私と、これで引き分けですね」
「それは困るな。音楽は悦楽の魔術だ。君が、これ以上他の誰かの演奏に染められない内に、楽譜を手に入れた方がいいらしい」
「むむ?」
目的を持って移動していたらしいウィリアムが次に楽譜を交換したのは、この国の音楽院の制服を着た一人の女性であった。
一緒にいる黒髪にも見える濃紺の髪の男性は、恋人か伴侶だろう。
ネアは、何となくだが、その女性こそがウィリアムの調律を受けた音楽家であるような気がした。
「お目当ての楽譜でしたか?」
「ああ。…………だが、意外にもあちらの王子の物の方が、俺の好みかもしれないな。周辺の調整をかけた際には気にならなかったが、心境の変化でもあったらしい」
「となると、恋かもしれませんね。あの男性は、楽譜の交換の間中、お隣の女性がウィリアムさんと話しているのが心配でならないという目をしていましたから」
「ん?そうだったか?」
「近付く格好いい男性は、全て警戒するという時期なのでしょう。ふふ、甘酸っぱいですねぇ………」
既にタルトは購入済みなので、この後は、ウィリアムの屋敷での二人きりの演奏会だ。
ネアは、初めてウィリアムの演奏を心ゆくまで聴ける事にわくわくしつつ、旧王宮や音楽院が近い事もあり、街中よりも格段に技術の上がった演奏の素晴らしさに耳を澄ました。
この祝祭は真夜中まで続くので、ウィームでの山車祭りへの協力参加を終えたディノが合流する頃にもきっと、ディアニムスの街には素晴らしい音楽が溢れているだろう。
リーエンベルクにこの音楽をお土産として持ち帰れないのは残念だが、エーダリアからは、何でもいいので魔術音楽の譜面を一つ買ってきて欲しいと言われている。
「ウィリアムさん、後で、お土産用の楽譜を買いたいのですが、どこかお勧めのお店はありますか?」
「エーダリア達に頼まれたのであれば、この辺りでもう一つ譜面の交換をしておくから、それを持ち帰るといい。この王宮周辺にいるのは高名な音楽家が多いし、祝祭のものの方が、魔術の質がいいからな」
「まぁ、ではお願いしてしまいますね!」
お土産用の譜面はすぐに入手され、そちらの曲もなかなか素敵なのでと、ウィリアムが後でバイオリンで弾いてくれるらしい。
ネアは、ウィームは今頃どうなっているかなと考えかけ、髪を振り乱して壁を垂直によじ登る山車人形の姿を、慌てて記憶の扉の向こうに押し込めた。
何しろこれから、素敵な演奏会が待っているのだ。
ホラーな記憶の参加はご辞退いただこう。




